村上春樹原作のドラマ。録画してから4話全部を観るまでに半年くらいかかった。
評価は難しい。画面も音楽も、なんだか高級そうではある。演出の井上剛は『クライマーズハイ』『いだてん』だし、脚本の大江崇允は『ドライブ・マイ・カー』の共同脚本だ。演出が弛緩したところがあるわけではないし、出演陣は岡田将生に堤真一に佐藤浩市と超一流。
しかしなんともモヤモヤした挙げ句に原作を読んでみた。
原作もおんなじだった。まったく同じモヤモヤが村上春樹の小説にもある。そういう意味ではとてもよくできた映像化であり、舞台を30年後の現在に移しているからどうだということもなく、多くの人の手を借りて世に出ることの意味があるのやら。
何がモヤモヤと言って、ひたすらに意味ありげ、なのだ。そして意味は確定されない。結局。村上春樹はずっとそうだ。何かを指し示していそうな象徴やらガジェットやら言葉やら展開やら形容やらが、簡単には意味を明らかにしそうもなく、だからといって意味などないのだと棄てておけない実に微妙なバランスでちりばめられている。全編にわたって。
それを何事かと解釈することが村上春樹の楽しみでもある。ゲーム的に、ということではなく、解釈できないこととできることの間で引き裂かれるコンプレックスに翻弄されることが。
だがなんというか、現状は、めんどくさい。ゲームにもコンプレックス・ゲームにも。
さて、とりわけモヤモヤするのは『かえるくん、東京を救う』だな。のんのテレビドラマ出演は喜ばしいが、この設定には大いに疑問がある。まるで『ミミズの戸締まり』ではないか。ということは、同じようにここでも、この設定には納得できない。東京で大地震が起こっていないことは、かえるくんと片桐の死闘のおかげだということになっている。ということは、阪神・淡路や東北では、誰かが仕事をサボったのだ。あるいはミミズが地震を起こすのは人々の悪意の蓄積のせいであるように言われるが、それなら、震災の犠牲者はそれらの悪意の犠牲者なのか。なぜその人々が?
この話は片桐の選民意識的優越感をくすぐるという意味で、きわめてラノベの心性に似ている。
いいのか。ノーベル賞候補になろうって人の小説が。
だが一方で、この作品に引きつけられる人が多いという話も聞く。なぜだ。
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