2025年9月13日土曜日

『日本の大人』-設定の持つ可能性

 大学の劇研の公演にお誘いを受けて。

 娘の大学時代もそうだったが、大学というのはサークル棟に小さな演劇スタジオが備え付けであり、それは完璧な遮光を実現できるから、こういう公演を開くにはまことに便利なのだった。もちろんステージの裏手を移動できる通路はむろん、今回は奈落まであった。

 その奈落をそのまま舞台の真ん中に見せているから、危ないなあと思っていたのだが、ちゃんと演出に使われていた。場面ごとの小道具を次々と投げ込むのは珍しい演出だと思っていたら、クライマックスでそれがタイムカプセルに模せられ、登場人物がそこから表れるという、まことに正しい奈落の使い方をしていた。

 さて、劇作家の柴幸男という人は初めて知ったのだが、これ一作ではどうかな。

 主人公は小学6年生男子。そのクラスに32歳の「小学26年生」が転校してくる。永遠に終わらない子供時代なんてあるのか、というのがテーマなのだが、となると予想されるメッセージは、あるはずないという常識にゆさぶりをかけることと、それでも終わるしかない子供時代に対する喪失感を受け入れる痛みを描くことだと思われる。その予想があたっているのかどうかさだかではないが、その予見で観てしまったことが十分に満足しきれなかったという感触につながっているのかもしれない。

 演劇的には面白いところはある。小学生を演じている演者たちが突然大人っぽく喋りだし「仕事に行く」などと言い出す。32歳の「現在」が描かれる。この場面転換が唐突なのが面白い。これが成立する演劇空間の自由度が面白いのだ。

 小学6年生の主人公が突然32歳になって、かつてのエイリアン、32歳の小学生、熊野君と同じ立場になる。大人は働くものだと正論を語っていた主人公が、32歳の今、無職でいる。

 そう、設定は極めて主題に忠実に見える。

 とすれば、熊野君を迎える小学6年生の主人公は、不本意に大人になることを強いられた子供であるはずだ。そういう設定は確かにある。父親が家を出て、看護師の母親は夜勤があったりして、幼い妹の食事の支度をしなければならない。そうして子供時代を失いつつある主人公が、ずっと子供でいて何が悪いと開き直る熊野君との出会いで、その固定観念を揺るがされる、という展開になるはずだ。

 確かに最初は嫌っていたはずの熊野君を家に招いて一緒に遊んだりする。だが残念ながらそれが唐突に見える。その必然性が見えるほどには、主人公の「大人を強いられること」の苦しさが描かれているようには見えないし、熊野君の自由が魅力的にも見えない。これは脚本的な弱さに見えるのだが、演出や演技がそれを補うほどに自覚的でもないように見える。大学生が子供を演じる面白さの方に重点が置かれてしまっているように見える。もちろん「大人になることを強いられた子供」を演ずるという課題が相当に難しいことは確かだが。

 「大人になることを強いられた子供」が、32歳現在、無職で、小学生から観るとかつての熊野さんのように見えているという描写はとても意図的な構図を作っているのだが、例えばその言動に相似性をもたせ、子供それをやる(言う)ことと大人がやることのギャップを見せるとかいう工夫は、もっとされてもいいのに、などと、この設定の持っている可能性(がゆえの不足)がどうも見えてしまって、手放しで面白かった、満足したと絶賛するわけにもいかないのだった。

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