脱獄ものについては以前書いたが、そんな連想で見てみると、これが、ひどいとは言わないが決して感動的でも面白くもない。スタローンにシュワルツネッガーじゃ、どうなっても勝つに決まっているとしか思えなくて。
最初の顔見せの脱獄はそこそこ考えられた設定で、なかなか良くできた脚本の映画なのかと思ったが、本編の監獄がどうにも甘くて、本気でハラハラできない。
怒る気にはならないが、熱を込めて語りたい気にもならないこういう映画を観たときに、それでもここだけは掟として破らずにいるブログの記事をどう書くか、考えるのがなんとも億劫で。
2016年10月16日日曜日
2016年10月12日水曜日
恩田陸「オデュッセイア」の授業 3 -ココロコは何の象徴か
承前「ファンタジーと寓話」
「オデュッセイア」は、終盤近くまでは、字義通りの正統な狭義のファンタジーである。だがそれが終盤でにわかに寓話の様相を帯びてくる。その時に問題となるのが次の問いである。
「正解」を求めているわけはないので、これらの単語のどこかに決着点があるわけではない。だがその根拠を聞いても、なかなか有益な議論が展開するわけでもない。それはなかなかに高度な授業展開だ。
ココロコが象徴するものとして、筆者が最もバランス良く対応すると感ずるのは「文明」という概念である。
これは、一般的に「文明」と訳されている「civilization」の原義が「都市化」を意味している以上、「ココロコ」=「都市」という、実在そのままの把握を延長したに過ぎないともいえる。また「人々の願望」が生んだものの集積こそ「文明」に他ならないともいえる。
だが問題は部分的な対応ではない。物語全体にそうしたアイデアが適用できるか、である。
筆者が「文明」という概念を想起したのは、ココロコが移動する存在であるという設定について考えているときである。ココロコの移動を「ココロコ」=「都市」という捉え方で説明することは難しい。都市の時間的変遷を空間的移動に置き換えて表現しているのだ、などといった言い方は一見もっともらしいが、それ以上のひろがりをもたないように思える。
それよりも、ココロコの移動は、「文明」の伝播を意味していると考えればいいのではないか。それは時間的変遷でもあるが、そのまま空間的移動でもある。
「ココロコ=文明」というアイデアは繰り返すが、決着点ではない。問題はそうしたアイデアの妥当性を検討する読解活動そのものである。「ココロコ=文明」というアイデアを念頭に、物語全体を見渡してみよう。
ココロコの意識の目覚めは「文明」の発祥である。それは集落の都市化によって可能となる。そのことは本文から明瞭に見てとれる。
そしてココロコが移動を開始するきっかけとなるのは、外敵の襲来である。「文明」の伝播は戦争と交易を推進力とする。「文明」は戦争によって急激に発展し、拡散するのが世界史の常だ。「文明」は伝播の過程で異民族との間に衝突を生むこともある。ココロコ住民は旅の途中で戦争を経験する。豊かな「文明」には略奪者も訪れる。
またココロコは行く先々で歓迎を受けることもある。「文明の伝播」は、他文明の人々に富をもたらす。あるいは他文明の富を求めて旅する人々によって、「文明」が伝えられていく。交易が「文明」を伝播させるのである。
「文明」はやがて海を越えて伝播する。新大陸ではまた、新たな人々の手で新たな方向性が与えられる。
古い「文明」はやがて技術の発展によって「物質文明」、「科学文明」などとも呼ばれるようなものに変ずる。
「文明」の発展はやがて大規模な戦争を引き起こす。「文明」の担い手である人類が滅びれば「文明」も眠りにつく。その痕跡が遺跡として残る場合もある。
そして「文明」は、その担い手である人類の移動にともなって伝播する。人類が宇宙空間に飛び立つならば、「文明」もまたそこに伝えられていくのである。
ココロコの移動が、陸上から海上へ、そして宇宙空間へ拡がるのも、物理現象としては質的な変化があるように感じられるが、象徴的な意味では、単に拡散していく人類とともに「文明」が伝播していくことを表していると考えればいい。
このようにココロコを「文明」を象徴するものと考えると、小説中のさまざまな展開や描写が人類の歴史に起こったことと符合することが見えてくる。
「オデュッセイア」という物語が歴史に重なるものであることはその題名からも明らかである。最初の年代記づくりはそのまま、ココロコの歴史が人類の歴史であることを感じさせる。
そして人類の歴史とはつまり「文明」の歴史である。記録された文明の痕跡を物語として一貫させたものが歴史である。「オデュッセイア」が人類の歴史に重なるということはココロコが「文明」を象徴しているということにほかならない。
授業では以上のようなことを授業者が話しながら本文をたどる、という展開も可能だが、さらに詳細に展開するなら、たとえば筆者の授業では、生徒が実際に使用している「世界史」の教科書の「文明の発祥」の節の本文と「オデュッセイア」の本文を比較させて読み、そこにある対応関係を探した。
あるいはたとえばWikipediaなどの百科事典を使うこともできる。マルクス主義の考古学者ゴードン・チャイルドは、文明と非文明の区別をする指標として次のものを挙げている(Wikipediaの「文明」の項より)。
これらは「オデュッセイア」においてどのように物語中に折り込まれているか。
a~dは「オデュッセイア」冒頭で示されているココロコの成立や概要にその対応した描写を見出せる。後にココロコとして立ち上がる土地では、そこに住む人々が増え(b)、街ができ(c)、農業が行われる(a)。そこには「統率のとれた自治体」(d)ができる。
また、たとえば次のような一節は、さりげない描写として読み流してしまうこともできるが、こうした展望に沿って意識的な読解をすると面白い。
確定的に解答を限定する問いではないから唯一の「正解」を前提にせずに、生徒に考察をうながす。補助線として、それぞれの人物は、どんな立場を代表しているか、と聞く。抽象度のさまざまな言葉が生徒から発せられるから、それを整理していく中で、問いの「四つ」が揃うのを待つ。
右の一節で言及される人物はそれぞれ次のような概念に対応づけられる。
最初の一つか二つが出れば、あとは同様の抽象度で概念語を想起すればよい。むしろ、これらの複数の概念の想起は同時であるはずだ。二つ以上の概念と人物の対応が想起されてはじめて、この描写の背後に、「政治」「経済」「科学」「芸術」などという抽象概念の羅列が見えてくる。
そして先の「文明の指標」はこれらの要素にそれぞれ対応を見出せる。
d「職業と階級の分化」は「経済」「政治」に対応する。ここに「お姫様・高貴な女性」を加えて「階級社会」などという抽象概念を想起すれば、それもまたdと符合する。
e「合理科学の発達」はそのまま「科学」、f「支配的な芸術様式」の「支配的」というのは強調されていないが、ココロコにおける「芸術」に関する言及は、冒頭近くと、核戦争勃発の前に見られる。
g「記念碑的公共建造物」は、「バベルの塔に似ている」という形容からして、ココロコ自体が「記念碑的公共建造物」を表象してもいるのだと考えればいいだろう。
そしてh「文字」の存在を表象するのが、先に挙げた解釈のポイントの一つ「手紙」やココロコの壁に書かれた文字だと考えられる。ココロコは文字を通じて、文化を、人々の思いを伝達する。
ココロコが「文明」を象徴していると考えると、さまざまな細部の設定や描写を適切に位置づける読解が可能になる。
こうした符合は、いささか牽強付会に見えるかもしれない。自分が生徒であったときにも、授業で先生の話す作品の解釈を聞きながら、本当に作者はそんなことを考えて小説を書いているのかという疑問を抱いたことは何度もある。
だがこれは、そうした計算を作者がいちいち意図して行っていると言っているわけではない。「都市の歴史」を描こうとする物語の力学が、そうした設定や描写を自然に「文明」の諸要素に対応するように発想させているのだということである。
「長老」「星見やぐら」「旅行日誌」についても生徒に考察させたい。
「長老」は先の一節にも登場しており、その段階で右のような読解に発展して「政治」「科学」への対応が言及されてもいい。
また「長老」のつける「旅行日誌」は「記紀」のような民族の歴史書であり伝統の継承を象徴するものだと考えられる。それを編纂し所有する「長老」は、文明の観察者であり記録者でもある。「文明」の諸要素として「歴史」「伝統」という概念も提示しておこう。
「長老」の考察にからめて、次の時期についても考察しておきたい。
新大陸で「物質文明・科学技術文明」を発達させたココロコについて述べられる次のような一節がある。
生徒に訊いてみると、合議制で進路を決めるようなやり方では、ココロコの意志が無視されていて可哀想だ、と言う。確かにこの時期「ココロコは彼ら(住民)の要望に応えようと必死だった」と、憐れにも思える奮闘を強いられている。
ココロコが「人々の願望」の象徴だとすれば、ココロコの行動は「人々の願望」そのものである。だがココロコが可哀想に見えるとすれば、ココロコと「人々」の間に使役-隷属関係のような乖離があるからである。ココロコの行動が「人々の願望」の顕現なのだと言ってしまえば、「ココロコが可哀想」などという感想はありえないはずだ。なのにこの感想は的外れだとも思えない。
だが一方で、生徒のこの感想はココロコを擬人化しすぎている、とも言える。ココロコと「人々」の乖離は認められるが、一方でこの時期が何かしら好ましくないような印象があるとすればそれは単に「ココロコが可哀想」というような情緒的な言い方でなく表現されなければならない。
どう考えればいいか。この時期のココロコの状況を「長老」の不在=欠落という観点から考えてみよう。
生徒は「長老」というリーダーがいないことで、人々が烏合の衆と化している、といった趣旨の発言をする。だが「合議制」は、人々がそれなりの秩序を失っていないという印象を与える。そこでの「議長」がリーダーであってはなぜいけないのか。何よりその「合議制」が問題だと感じられるのはなぜだろう。
そこで「文明」である。「文明」は単にそこにいる「人々の願望」を集積したものではない。「文明」とは単なる「人々の願望」を越えて蓄積され生成された何物かである。
先の考察に従って「長老」が人々と自然の仲介者だとすると、そのとき、ココロコという「文明」は自然とのつながりを失ってしまったのである。住民の欲望にしたがうことで自然のリズム、テンポから離れた急速な変化を求められ、人工物を埋め込まれた姿に変わってしまったというのがここでココロコがおかれた状況なのだと考えられる。
また「長老」が歴史を記録し、伝統の継承を担う存在だとすれば、新しい移住者の欲望にしたがうことで、ココロコという「文明」は歴史を忘れ、伝統を棄ててしまったのである。住民による「合議制」という言葉が示すのはそうした歴史の忘却を意味している、とも考えられる。
「文明」とはそこにいる「人々の願望」によって生み出され、方向付けられるものではあるが、同時に、自然との調和によって、ある意味では他律的に、伝統の蓄積によって、ある意味では自律的に存在するにいたった何物かである。
さて、「旗」は、ある文明の存在を表象するアイコンのようなものを想定すれば良いのだろうか。現状では適切な対応物を想起できていない。
また、授業では同教科書に収録されている三島由紀夫「小説とは何か」の読解とからめた考察を展開した。
三島は、柳田国男の『遠野物語』中の一編の分析を通して、小説とは言葉によって虚構が現実を震撼させるものであるとして、その鍵になるのが、『遠野物語』の挿話に見られる「炭取の回転」だと論じている。「オデュッセイア」が寓話でも神話でも、子供向けのいわゆるファンタジーでもなく、近代的なファンタジー、つまり「小説」であるとすると、炭取はどこで回っているのか。
「小説とは何か」の論旨がそれなりに理解されていると、生徒は何かしら「オデュッセイア」からそうした論旨に合う要素を探すことが可能になる。むしろそこでこそ「小説とは何か」の論旨が理解されているかどうかが試されているのだと言ってもいい。
「炭取の回転」とはつまりは小説にリアリティをもたらす描写のことである。生徒の挙げるあれやこれやを、なるべく「小説とは何か」の論旨と「オデュッセイア」の世界観をつなげるように、こちらでさりげなく語り直す。生徒の挙げる「オデュッセイア」の一節が、小説世界にリアリティをもたらしているかを検討する過程自体が実は物語を想像によっていくらかなりとリアルに変えていっているようにも思う。
そのうえで、授業者が指摘するのは、先にも触れた、ココロコの「足」である。小山が動くという突飛な設定に、微妙なもっともらしさを与えるこの描写こそ、「オデュッセイア」における「炭取の回転」だと筆者は考えている。この瞬間に、町が山ごと動くという突飛な発想による虚構が、いくらかなりと現実を震撼させていると感じるのである。
「年代記」としての骨格を捉え、「近代的なファンタジー」としての物語を「小説」と重ね合わせ、さらにそれを「寓話・神話」として読む。授業における「オデュッセイア」読解の可能性を探ってみた。
「オデュッセイア」は、終盤近くまでは、字義通りの正統な狭義のファンタジーである。だがそれが終盤でにわかに寓話の様相を帯びてくる。その時に問題となるのが次の問いである。
Q ココロコは何の象徴か?「何」か、を聞いている以上、何らかの名詞もしくは名詞句で生徒は様々な「答」を提出する。いわく、歴史、時間、変化、人類、人間、欲望…。その妥当性を巡ってさまざまな思考が飛び交うのは意義あることだ。
「正解」を求めているわけはないので、これらの単語のどこかに決着点があるわけではない。だがその根拠を聞いても、なかなか有益な議論が展開するわけでもない。それはなかなかに高度な授業展開だ。
ココロコが象徴するものとして、筆者が最もバランス良く対応すると感ずるのは「文明」という概念である。
これは、一般的に「文明」と訳されている「civilization」の原義が「都市化」を意味している以上、「ココロコ」=「都市」という、実在そのままの把握を延長したに過ぎないともいえる。また「人々の願望」が生んだものの集積こそ「文明」に他ならないともいえる。
だが問題は部分的な対応ではない。物語全体にそうしたアイデアが適用できるか、である。
筆者が「文明」という概念を想起したのは、ココロコが移動する存在であるという設定について考えているときである。ココロコの移動を「ココロコ」=「都市」という捉え方で説明することは難しい。都市の時間的変遷を空間的移動に置き換えて表現しているのだ、などといった言い方は一見もっともらしいが、それ以上のひろがりをもたないように思える。
それよりも、ココロコの移動は、「文明」の伝播を意味していると考えればいいのではないか。それは時間的変遷でもあるが、そのまま空間的移動でもある。
「ココロコ=文明」というアイデアは繰り返すが、決着点ではない。問題はそうしたアイデアの妥当性を検討する読解活動そのものである。「ココロコ=文明」というアイデアを念頭に、物語全体を見渡してみよう。
ココロコの意識の目覚めは「文明」の発祥である。それは集落の都市化によって可能となる。そのことは本文から明瞭に見てとれる。
そしてココロコが移動を開始するきっかけとなるのは、外敵の襲来である。「文明」の伝播は戦争と交易を推進力とする。「文明」は戦争によって急激に発展し、拡散するのが世界史の常だ。「文明」は伝播の過程で異民族との間に衝突を生むこともある。ココロコ住民は旅の途中で戦争を経験する。豊かな「文明」には略奪者も訪れる。
またココロコは行く先々で歓迎を受けることもある。「文明の伝播」は、他文明の人々に富をもたらす。あるいは他文明の富を求めて旅する人々によって、「文明」が伝えられていく。交易が「文明」を伝播させるのである。
「文明」はやがて海を越えて伝播する。新大陸ではまた、新たな人々の手で新たな方向性が与えられる。
古い「文明」はやがて技術の発展によって「物質文明」、「科学文明」などとも呼ばれるようなものに変ずる。
「文明」の発展はやがて大規模な戦争を引き起こす。「文明」の担い手である人類が滅びれば「文明」も眠りにつく。その痕跡が遺跡として残る場合もある。
そして「文明」は、その担い手である人類の移動にともなって伝播する。人類が宇宙空間に飛び立つならば、「文明」もまたそこに伝えられていくのである。
ココロコの移動が、陸上から海上へ、そして宇宙空間へ拡がるのも、物理現象としては質的な変化があるように感じられるが、象徴的な意味では、単に拡散していく人類とともに「文明」が伝播していくことを表していると考えればいい。
「オデュッセイア」という物語が歴史に重なるものであることはその題名からも明らかである。最初の年代記づくりはそのまま、ココロコの歴史が人類の歴史であることを感じさせる。
そして人類の歴史とはつまり「文明」の歴史である。記録された文明の痕跡を物語として一貫させたものが歴史である。「オデュッセイア」が人類の歴史に重なるということはココロコが「文明」を象徴しているということにほかならない。
授業では以上のようなことを授業者が話しながら本文をたどる、という展開も可能だが、さらに詳細に展開するなら、たとえば筆者の授業では、生徒が実際に使用している「世界史」の教科書の「文明の発祥」の節の本文と「オデュッセイア」の本文を比較させて読み、そこにある対応関係を探した。
あるいはたとえばWikipediaなどの百科事典を使うこともできる。マルクス主義の考古学者ゴードン・チャイルドは、文明と非文明の区別をする指標として次のものを挙げている(Wikipediaの「文明」の項より)。
- a「効果的な食料生産」
- b「大きな人口」
- c「都市」
- d「職業と階級の分化」
- e「合理科学の発達」
- f「支配的な芸術様式」
- g「記念碑的公共建造物(ピラミッドなど)」
- h「文字」
これらは「オデュッセイア」においてどのように物語中に折り込まれているか。
a~dは「オデュッセイア」冒頭で示されているココロコの成立や概要にその対応した描写を見出せる。後にココロコとして立ち上がる土地では、そこに住む人々が増え(b)、街ができ(c)、農業が行われる(a)。そこには「統率のとれた自治体」(d)ができる。
また、たとえば次のような一節は、さりげない描写として読み流してしまうこともできるが、こうした展望に沿って意識的な読解をすると面白い。
さまざまな人々がココロコに滞在した。王様にお姫様、商人に天文学者。天文学者と長老が星の運行についての意見を戦わせている脇で、きざな吟遊詩人が高貴な女性に恋の歌を歌っているのはすてきな眺めだった。この一節について、次のように問う。
Q 右の一節に描かれる人物は「文明」の四つの重要な要素を象徴している。それぞれ二字熟語で挙げよ。想定している解答は「政治」「経済」「科学」「芸術」である。
確定的に解答を限定する問いではないから唯一の「正解」を前提にせずに、生徒に考察をうながす。補助線として、それぞれの人物は、どんな立場を代表しているか、と聞く。抽象度のさまざまな言葉が生徒から発せられるから、それを整理していく中で、問いの「四つ」が揃うのを待つ。
右の一節で言及される人物はそれぞれ次のような概念に対応づけられる。
- 「王様」→「政治」
- 「商人」→「経済」
- 「天文学者」→「科学」
- 「吟遊詩人」→「芸術」
最初の一つか二つが出れば、あとは同様の抽象度で概念語を想起すればよい。むしろ、これらの複数の概念の想起は同時であるはずだ。二つ以上の概念と人物の対応が想起されてはじめて、この描写の背後に、「政治」「経済」「科学」「芸術」などという抽象概念の羅列が見えてくる。
そして先の「文明の指標」はこれらの要素にそれぞれ対応を見出せる。
d「職業と階級の分化」は「経済」「政治」に対応する。ここに「お姫様・高貴な女性」を加えて「階級社会」などという抽象概念を想起すれば、それもまたdと符合する。
e「合理科学の発達」はそのまま「科学」、f「支配的な芸術様式」の「支配的」というのは強調されていないが、ココロコにおける「芸術」に関する言及は、冒頭近くと、核戦争勃発の前に見られる。
g「記念碑的公共建造物」は、「バベルの塔に似ている」という形容からして、ココロコ自体が「記念碑的公共建造物」を表象してもいるのだと考えればいいだろう。
そしてh「文字」の存在を表象するのが、先に挙げた解釈のポイントの一つ「手紙」やココロコの壁に書かれた文字だと考えられる。ココロコは文字を通じて、文化を、人々の思いを伝達する。
ココロコが「文明」を象徴していると考えると、さまざまな細部の設定や描写を適切に位置づける読解が可能になる。
こうした符合は、いささか牽強付会に見えるかもしれない。自分が生徒であったときにも、授業で先生の話す作品の解釈を聞きながら、本当に作者はそんなことを考えて小説を書いているのかという疑問を抱いたことは何度もある。
だがこれは、そうした計算を作者がいちいち意図して行っていると言っているわけではない。「都市の歴史」を描こうとする物語の力学が、そうした設定や描写を自然に「文明」の諸要素に対応するように発想させているのだということである。
「長老」「星見やぐら」「旅行日誌」についても生徒に考察させたい。
Q 「長老」「星見やぐら」「旅行日誌」は何を象徴しているか。「長老」は多面的な性格を持った存在である。共同体のリーダーとしては「政治」を象徴しているとも言えるが、「星見やぐら」で天体を観測するところは「科学」者的な側面ももっていると考えられる。だが観測の結果をもって「ココロコと進路の相談をする」というところは、近代科学的な合理性よりもむしろ、自然との親和性を重んじているともいえる。そこでの「長老」は、自然との交感を司る、司祭のような役割を担っているとも考えられる。古くには宗教と政治はともに「まつりごと」と呼ばれて、不可分なものだった。「科学」もまた魔術と未分化であり、そうした力を持っていることが権力者の要件でもあった。
「長老」は先の一節にも登場しており、その段階で右のような読解に発展して「政治」「科学」への対応が言及されてもいい。
また「長老」のつける「旅行日誌」は「記紀」のような民族の歴史書であり伝統の継承を象徴するものだと考えられる。それを編纂し所有する「長老」は、文明の観察者であり記録者でもある。「文明」の諸要素として「歴史」「伝統」という概念も提示しておこう。
「長老」の考察にからめて、次の時期についても考察しておきたい。
新大陸で「物質文明・科学技術文明」を発達させたココロコについて述べられる次のような一節がある。
長老はもういなくなっており、住民たちは合議制でココロコの進路を決めていた。率直に聞いてみる。
Q この状況をどう考えればいいか。補助的に、住民の合議制で物事を決めるというのは何やら良いことのようにも見えるが、実際どうなの? と聞いてみる。独裁制より民主制の方が良いものだというのが一般的な通念だ。だが、物語においては、この時期がココロコが象徴する「文明」にとって好ましい状態ではないような印象がある。なぜか。
生徒に訊いてみると、合議制で進路を決めるようなやり方では、ココロコの意志が無視されていて可哀想だ、と言う。確かにこの時期「ココロコは彼ら(住民)の要望に応えようと必死だった」と、憐れにも思える奮闘を強いられている。
ココロコが「人々の願望」の象徴だとすれば、ココロコの行動は「人々の願望」そのものである。だがココロコが可哀想に見えるとすれば、ココロコと「人々」の間に使役-隷属関係のような乖離があるからである。ココロコの行動が「人々の願望」の顕現なのだと言ってしまえば、「ココロコが可哀想」などという感想はありえないはずだ。なのにこの感想は的外れだとも思えない。
だが一方で、生徒のこの感想はココロコを擬人化しすぎている、とも言える。ココロコと「人々」の乖離は認められるが、一方でこの時期が何かしら好ましくないような印象があるとすればそれは単に「ココロコが可哀想」というような情緒的な言い方でなく表現されなければならない。
どう考えればいいか。この時期のココロコの状況を「長老」の不在=欠落という観点から考えてみよう。
生徒は「長老」というリーダーがいないことで、人々が烏合の衆と化している、といった趣旨の発言をする。だが「合議制」は、人々がそれなりの秩序を失っていないという印象を与える。そこでの「議長」がリーダーであってはなぜいけないのか。何よりその「合議制」が問題だと感じられるのはなぜだろう。
そこで「文明」である。「文明」は単にそこにいる「人々の願望」を集積したものではない。「文明」とは単なる「人々の願望」を越えて蓄積され生成された何物かである。
先の考察に従って「長老」が人々と自然の仲介者だとすると、そのとき、ココロコという「文明」は自然とのつながりを失ってしまったのである。住民の欲望にしたがうことで自然のリズム、テンポから離れた急速な変化を求められ、人工物を埋め込まれた姿に変わってしまったというのがここでココロコがおかれた状況なのだと考えられる。
また「長老」が歴史を記録し、伝統の継承を担う存在だとすれば、新しい移住者の欲望にしたがうことで、ココロコという「文明」は歴史を忘れ、伝統を棄ててしまったのである。住民による「合議制」という言葉が示すのはそうした歴史の忘却を意味している、とも考えられる。
「文明」とはそこにいる「人々の願望」によって生み出され、方向付けられるものではあるが、同時に、自然との調和によって、ある意味では他律的に、伝統の蓄積によって、ある意味では自律的に存在するにいたった何物かである。
さて、「旗」は、ある文明の存在を表象するアイコンのようなものを想定すれば良いのだろうか。現状では適切な対応物を想起できていない。
また、授業では同教科書に収録されている三島由紀夫「小説とは何か」の読解とからめた考察を展開した。
三島は、柳田国男の『遠野物語』中の一編の分析を通して、小説とは言葉によって虚構が現実を震撼させるものであるとして、その鍵になるのが、『遠野物語』の挿話に見られる「炭取の回転」だと論じている。「オデュッセイア」が寓話でも神話でも、子供向けのいわゆるファンタジーでもなく、近代的なファンタジー、つまり「小説」であるとすると、炭取はどこで回っているのか。
「小説とは何か」の論旨がそれなりに理解されていると、生徒は何かしら「オデュッセイア」からそうした論旨に合う要素を探すことが可能になる。むしろそこでこそ「小説とは何か」の論旨が理解されているかどうかが試されているのだと言ってもいい。
「炭取の回転」とはつまりは小説にリアリティをもたらす描写のことである。生徒の挙げるあれやこれやを、なるべく「小説とは何か」の論旨と「オデュッセイア」の世界観をつなげるように、こちらでさりげなく語り直す。生徒の挙げる「オデュッセイア」の一節が、小説世界にリアリティをもたらしているかを検討する過程自体が実は物語を想像によっていくらかなりとリアルに変えていっているようにも思う。
そのうえで、授業者が指摘するのは、先にも触れた、ココロコの「足」である。小山が動くという突飛な設定に、微妙なもっともらしさを与えるこの描写こそ、「オデュッセイア」における「炭取の回転」だと筆者は考えている。この瞬間に、町が山ごと動くという突飛な発想による虚構が、いくらかなりと現実を震撼させていると感じるのである。
「年代記」としての骨格を捉え、「近代的なファンタジー」としての物語を「小説」と重ね合わせ、さらにそれを「寓話・神話」として読む。授業における「オデュッセイア」読解の可能性を探ってみた。
2016年10月11日火曜日
恩田陸「オデュッセイア」の授業 2 -ファンタジーと寓話
承前「年表づくり」
授業で「オデュッセイア」を採り上げようと思った際、ただ読むだけ、の先にやれそうなことがあるとしたら、結局のところ、「ココロコ」って何だ? という疑問に答えることができるかどうかだけが問題なのだと考えていた。しばらく考えて、自分なりに、いけそうだという感触が得られたので、そのつもりで授業に臨んだ。それが次の問いである。
まず「象徴」という言葉についてのいささかの練習が必要である。「象徴」という言葉自体が生徒に馴染みのない状態ならば、問いだけを投げ出しても無意味である。むろん「象徴」という言葉を見聞きしたことのある生徒は多いだろうが、たとえば「象徴」と「比喩」の違いを明瞭に認識できる生徒は少ない。
言葉は、使えないまでも、見聞きしたことはあるというレベルで「知っている」場合がある。「ハトは平和の象徴」とか「天皇は日本国の象徴」といった表現については「知っている」ことを期待して、ここから「象徴」という言葉について確認をする。複数の例を挙げるところがミソである。共通性を考えさせることができるからだ。
いくらかの問答を経て、筆者が生徒に説明するのは、「象徴するもの」=「ハト」「天皇」がいずれも具体物(目に見える、触れるもの)であり、「象徴されるもの」=「平和」「日本国」が抽象概念(直接見えない、触れないもの)であるということである。見えない、形のないものをイメージする時に、実体のあるものを、人々が共有できるイメージモデルとして置くことが「象徴」なのだと言っておく。「象徴」としての「ハト」「天皇」は具体物としてのそれを意味するのではなく、「平和」「日本国」を意味するのである(それに対して「比喩」は、喩えるものと喩えられるものを共通性によって結びつける。両者は多くの場合どちらも具体物である。授業で「比喩」をとりあげる時には、その共通性が何かを考えさせる)。
ココロコが何かの「象徴」だということは、ココロコという実体・具体物が、どんな抽象概念の代わりになっているか、というのがここで考えるべき問題なのだ、と確認する。
さて、これがどうして「オデュッセイア」において問題となるのか?
「ハト」はある時には単なる生物、単なる鳥類の一種としての鳩でしかない。それがあるときには「平和」を象徴していると感じられる。それは文脈をどう読むかに拠っている。
ココロコを動く城塞都市としてのみ読むのなら、「オデュッセイア」はファンタジーである。
ファンタジーとは「作品内に魔法などの空想的な要素が(現実的にはありえなくとも)内部的には矛盾なく一貫性を持った設定として導入されて」いる、「架空の設定に一貫性と堅牢な構造を持」つフィクションである(Wikipediaの「ファンタジー」の項より)。
ココロコは、少なくとも我々のいる現実から見れば「空想的な要素」である。だが、それを認めたうえでココロコのありようが「一貫性を持った設定」となっているなら、その設定を受け入れて「オデュッセイア」をファンタジーとして読めば良い。
確かに「オデュッセイア」をファンタジーだと表現することに、一般的な意味で不都合はない(筆者も記事の最初でそう表現している)。
だが、物語の結末は、どうみてもそのようには読めない。そこまでの動いたり泳いだりする展開には、もっともらしい描写によってリアリティが与えられている。ココロコの底部にはうろこのような突起が「足」のような役割を果たしていると書かれているし、水に浮かぶためには、内部に空洞があるのだと考えればいい。
それらを認めたとしても、空を飛ぶことをどのように納得すれば良いのか。宙に浮かぶくらいならともかく、宇宙へ飛び立つのである(そういえば「天空の城ラピュタ」では、その原動力を「飛行石」という「架空の設定」で説明していた。したがって「ラピュタ」は右のような意味でのファンタジーである)。
あるいは先のブログ主のように「ココロコはロボットだ」というような解釈をしてしまうのも、そうした納得の方途を求めてのことなのだろう。そうなると、もはや「ファンタジー」というよりは「SF(サイエンス・フィクション)」である。
だがこの物語に、これをSFとして読ませようというサインは認められない。一方でこの結末はファンタジーとしては破綻してしまう。
このような飛躍を納得するためには、「オデュッセイア」を何らかの象徴として読む必要がある。
そのために、結末近くを丹念に読んでみよう。
右に挙げた「宙に浮かぶ」ことをまず不自然だと指摘する者もいる。「地上を動く」「泳ぐ」に比べて「飛ぶ」の飛躍は大きすぎる。
あるいは、ココロコに乗った少女は剥き出しのまま宇宙空間に連れて行かれていいのか。ココロコの気密性は確保されているのか。どうして宇宙空間で「旗」が「風にはためく」のか。
また、少女はなぜココロコが飛べることを知っていたのか。「みんながココロコを待っている」という確信はどこからきているのか。
授業としては、なるべく多くの「サイン」を見つけ出すことを勧奨する。
これらは今までのファンタジーとしての「オデュッセイア」を破綻させる飛躍である。つまり結末において、そこまでの世界観、リアリティの水準、作品の論理を逸脱したレベルで、展開がいきなり不自然になるのである。そこに合理的な説明をしようとする気配もない。
となると、これは上記のような狭義のファンタジーではない。寓話であり神話である。ココロコに話しかける少女の声は、もはや肉声とは思えない。肉体を持った者の声ではなく、それは託宣のように響いている。
このとき、読者はココロコを単なる動く城塞都市としてではなく、何らかの象徴として読むよう促されるのである。それは何を象徴しているか。
生徒からはそれ以外の点についての指摘が挙がるかもしれない。そのうち、授業者による誘導によってでも指摘させたいのは、最後の1行「私たちはまだ旅の途中なのだ。」である。「オデュッセイア」は、ここまで三人称の相貌を読者に見せていたはずだ。なのにここにいきなり登場する一人称の「私」とは誰か。複数形で示される「私たち」とは誰か。
人称の変更は異常事態である。限られた特殊な効果を狙った場合にしか用いられない、アクロバティックな技法である。
この、「どうみても意味ありげな、不自然な記述」は、この物語がなんらかの象徴的な物語であることを読者に訴えているのである。
この物語が、一人の人間の一生を象徴した物語だと解釈する生徒がいる。ココロコが動き始めたのは、赤ん坊が四つん這いを始めたことに対応しているし、ココロコの眠りは死を意味している。最後に宇宙に飛び立つのは昇天である。つまりココロコは一人の人間である。
もちろん正解のない問いだから、何であれ提出されたアイデアを検討すること自体が学習である。「ココロコ」=「人間」というアイデアは、どんな解釈を可能にするか?
これについては、ココロコの形成の過程と人間の誕生との対応や、昇天の際の少女の役割、死から昇天に間があることなど、さまざまな疑問を生じさせることに対して、実りある読解を導けそうにないというのが筆者の印象である。
アイデアは結論ではない。どだい正解などないのだ。ココロコが何事かの象徴であると見なした時に、どのような読解が可能なのかが問題なのである。
生徒が考察するための手掛かりを提供する。「羅生門」における下人の頬にある「にきび」である。これもまた小説中にあっては単なる生理現象ではない。小説はそもそも現実ではないのだから、そこに書き込まれたものには何らかの小説的な意味がある。芥川は「にきび」を意図的に書き込んでいる。それは単なる描写のための視覚的道具立てのひとつではない。それを「良心」の象徴とするか「未熟さ」の象徴とするかは解釈によるが、少なくとも「にきび」を単なる生理現象ではないものとして捉えることが「羅生門」を読む手掛かりになる。同様の手掛かりは「オデュッセイア」では何か。
生徒にアイデアを募ればいろいろ挙がる。最終的には教師から挙げてしまってもいい。筆者の挙げるのは「星見やぐら」「旅行日誌」「長老」、そして「手紙」「旗」である。これらは「にきび」のように小説中で繰り返し言及され、単なる物語中の実在というだけでない、ある象徴性を読み取ることを要求しているように感じられる。それはむろんココロコをどのような象徴であると読むかという物語全体の把握の構成要素でもある。
ココロコを「人間」であるとみなし、その年代記が「人の一生」を象徴していると考えるアイデアは、右の「手掛かり」をどのように生かした読解を可能にするか。それについて筆者にはあまり明るい見通しはない。
では指導書にある「ココロコ」=「都市」ではどうか。そもそも作者、恩田陸自身がこの物語について「都市の年代記を書きたい」と言っているのである。もちろんココロコは「都市」である。だがそれではそのまま、この物語における実在を言い表しているに過ぎず、そこにある象徴性は希薄である。読解のひろがりを生まない。「手掛かり」も、象徴と言うより実在としての意味合いで捉えられてしまう。
では同様に指導書が唱える「人々の願望」はどうか。このような措定において「手掛かり」がどのように捉えられるのかを考えるのは筆者の任ではない。
以下次号 「ココロコは何の象徴か」
授業で「オデュッセイア」を採り上げようと思った際、ただ読むだけ、の先にやれそうなことがあるとしたら、結局のところ、「ココロコ」って何だ? という疑問に答えることができるかどうかだけが問題なのだと考えていた。しばらく考えて、自分なりに、いけそうだという感触が得られたので、そのつもりで授業に臨んだ。それが次の問いである。
Q ココロコは何の象徴か?同様の問いは教科書の「研究」でも示されているが、問題は、それをどのように授業で展開するか、である。
まず「象徴」という言葉についてのいささかの練習が必要である。「象徴」という言葉自体が生徒に馴染みのない状態ならば、問いだけを投げ出しても無意味である。むろん「象徴」という言葉を見聞きしたことのある生徒は多いだろうが、たとえば「象徴」と「比喩」の違いを明瞭に認識できる生徒は少ない。
言葉は、使えないまでも、見聞きしたことはあるというレベルで「知っている」場合がある。「ハトは平和の象徴」とか「天皇は日本国の象徴」といった表現については「知っている」ことを期待して、ここから「象徴」という言葉について確認をする。複数の例を挙げるところがミソである。共通性を考えさせることができるからだ。
いくらかの問答を経て、筆者が生徒に説明するのは、「象徴するもの」=「ハト」「天皇」がいずれも具体物(目に見える、触れるもの)であり、「象徴されるもの」=「平和」「日本国」が抽象概念(直接見えない、触れないもの)であるということである。見えない、形のないものをイメージする時に、実体のあるものを、人々が共有できるイメージモデルとして置くことが「象徴」なのだと言っておく。「象徴」としての「ハト」「天皇」は具体物としてのそれを意味するのではなく、「平和」「日本国」を意味するのである(それに対して「比喩」は、喩えるものと喩えられるものを共通性によって結びつける。両者は多くの場合どちらも具体物である。授業で「比喩」をとりあげる時には、その共通性が何かを考えさせる)。
ココロコが何かの「象徴」だということは、ココロコという実体・具体物が、どんな抽象概念の代わりになっているか、というのがここで考えるべき問題なのだ、と確認する。
さて、これがどうして「オデュッセイア」において問題となるのか?
「ハト」はある時には単なる生物、単なる鳥類の一種としての鳩でしかない。それがあるときには「平和」を象徴していると感じられる。それは文脈をどう読むかに拠っている。
ココロコを動く城塞都市としてのみ読むのなら、「オデュッセイア」はファンタジーである。
ファンタジーとは「作品内に魔法などの空想的な要素が(現実的にはありえなくとも)内部的には矛盾なく一貫性を持った設定として導入されて」いる、「架空の設定に一貫性と堅牢な構造を持」つフィクションである(Wikipediaの「ファンタジー」の項より)。
ココロコは、少なくとも我々のいる現実から見れば「空想的な要素」である。だが、それを認めたうえでココロコのありようが「一貫性を持った設定」となっているなら、その設定を受け入れて「オデュッセイア」をファンタジーとして読めば良い。
確かに「オデュッセイア」をファンタジーだと表現することに、一般的な意味で不都合はない(筆者も記事の最初でそう表現している)。
だが、物語の結末は、どうみてもそのようには読めない。そこまでの動いたり泳いだりする展開には、もっともらしい描写によってリアリティが与えられている。ココロコの底部にはうろこのような突起が「足」のような役割を果たしていると書かれているし、水に浮かぶためには、内部に空洞があるのだと考えればいい。
それらを認めたとしても、空を飛ぶことをどのように納得すれば良いのか。宙に浮かぶくらいならともかく、宇宙へ飛び立つのである(そういえば「天空の城ラピュタ」では、その原動力を「飛行石」という「架空の設定」で説明していた。したがって「ラピュタ」は右のような意味でのファンタジーである)。
あるいは先のブログ主のように「ココロコはロボットだ」というような解釈をしてしまうのも、そうした納得の方途を求めてのことなのだろう。そうなると、もはや「ファンタジー」というよりは「SF(サイエンス・フィクション)」である。
だがこの物語に、これをSFとして読ませようというサインは認められない。一方でこの結末はファンタジーとしては破綻してしまう。
このような飛躍を納得するためには、「オデュッセイア」を何らかの象徴として読む必要がある。
そのために、結末近くを丹念に読んでみよう。
Q 最後の1ページに、不自然な点、疑問点はないか。生徒には、最後の方には「突っ込みどころ」がいくつもある、突っ込んでごらん、と言う。
右に挙げた「宙に浮かぶ」ことをまず不自然だと指摘する者もいる。「地上を動く」「泳ぐ」に比べて「飛ぶ」の飛躍は大きすぎる。
あるいは、ココロコに乗った少女は剥き出しのまま宇宙空間に連れて行かれていいのか。ココロコの気密性は確保されているのか。どうして宇宙空間で「旗」が「風にはためく」のか。
また、少女はなぜココロコが飛べることを知っていたのか。「みんながココロコを待っている」という確信はどこからきているのか。
授業としては、なるべく多くの「サイン」を見つけ出すことを勧奨する。
これらは今までのファンタジーとしての「オデュッセイア」を破綻させる飛躍である。つまり結末において、そこまでの世界観、リアリティの水準、作品の論理を逸脱したレベルで、展開がいきなり不自然になるのである。そこに合理的な説明をしようとする気配もない。
となると、これは上記のような狭義のファンタジーではない。寓話であり神話である。ココロコに話しかける少女の声は、もはや肉声とは思えない。肉体を持った者の声ではなく、それは託宣のように響いている。
このとき、読者はココロコを単なる動く城塞都市としてではなく、何らかの象徴として読むよう促されるのである。それは何を象徴しているか。
生徒からはそれ以外の点についての指摘が挙がるかもしれない。そのうち、授業者による誘導によってでも指摘させたいのは、最後の1行「私たちはまだ旅の途中なのだ。」である。「オデュッセイア」は、ここまで三人称の相貌を読者に見せていたはずだ。なのにここにいきなり登場する一人称の「私」とは誰か。複数形で示される「私たち」とは誰か。
人称の変更は異常事態である。限られた特殊な効果を狙った場合にしか用いられない、アクロバティックな技法である。
この、「どうみても意味ありげな、不自然な記述」は、この物語がなんらかの象徴的な物語であることを読者に訴えているのである。
この物語が、一人の人間の一生を象徴した物語だと解釈する生徒がいる。ココロコが動き始めたのは、赤ん坊が四つん這いを始めたことに対応しているし、ココロコの眠りは死を意味している。最後に宇宙に飛び立つのは昇天である。つまりココロコは一人の人間である。
もちろん正解のない問いだから、何であれ提出されたアイデアを検討すること自体が学習である。「ココロコ」=「人間」というアイデアは、どんな解釈を可能にするか?
これについては、ココロコの形成の過程と人間の誕生との対応や、昇天の際の少女の役割、死から昇天に間があることなど、さまざまな疑問を生じさせることに対して、実りある読解を導けそうにないというのが筆者の印象である。
アイデアは結論ではない。どだい正解などないのだ。ココロコが何事かの象徴であると見なした時に、どのような読解が可能なのかが問題なのである。
生徒が考察するための手掛かりを提供する。「羅生門」における下人の頬にある「にきび」である。これもまた小説中にあっては単なる生理現象ではない。小説はそもそも現実ではないのだから、そこに書き込まれたものには何らかの小説的な意味がある。芥川は「にきび」を意図的に書き込んでいる。それは単なる描写のための視覚的道具立てのひとつではない。それを「良心」の象徴とするか「未熟さ」の象徴とするかは解釈によるが、少なくとも「にきび」を単なる生理現象ではないものとして捉えることが「羅生門」を読む手掛かりになる。同様の手掛かりは「オデュッセイア」では何か。
生徒にアイデアを募ればいろいろ挙がる。最終的には教師から挙げてしまってもいい。筆者の挙げるのは「星見やぐら」「旅行日誌」「長老」、そして「手紙」「旗」である。これらは「にきび」のように小説中で繰り返し言及され、単なる物語中の実在というだけでない、ある象徴性を読み取ることを要求しているように感じられる。それはむろんココロコをどのような象徴であると読むかという物語全体の把握の構成要素でもある。
ココロコを「人間」であるとみなし、その年代記が「人の一生」を象徴していると考えるアイデアは、右の「手掛かり」をどのように生かした読解を可能にするか。それについて筆者にはあまり明るい見通しはない。
では指導書にある「ココロコ」=「都市」ではどうか。そもそも作者、恩田陸自身がこの物語について「都市の年代記を書きたい」と言っているのである。もちろんココロコは「都市」である。だがそれではそのまま、この物語における実在を言い表しているに過ぎず、そこにある象徴性は希薄である。読解のひろがりを生まない。「手掛かり」も、象徴と言うより実在としての意味合いで捉えられてしまう。
では同様に指導書が唱える「人々の願望」はどうか。このような措定において「手掛かり」がどのように捉えられるのかを考えるのは筆者の任ではない。
以下次号 「ココロコは何の象徴か」
2016年10月10日月曜日
恩田陸「オデュッセイア」の授業 1 -年表づくり
明治書院「高等学校 現代文B」には、第1回と第2回の「本屋大賞」受賞者の作品が収録されている。野心的な試みだ。第1回受賞者の小川洋子は、受賞作品「博士の愛した数式」が一部抄録され、第2回受賞者の恩田陸は、受賞作品「夜のピクニック」ではなく、独立した短編「オデュッセイア」が採録されている。そしてこの二つの作品は、単に小説としてだけでなく、教材としてなかなかに魅力的なのだった。
これらの小説を使った授業について提案する。
「オデュッセイア」を収録している短編集『図書室の海』の中には、恩田陸の他の長編につながる短編なども収録されているのだが、「オデュッセイア」はひとまず独立した短編として完結しているようだ。一方、三省堂の『明解 現代文B』に収録されている「ピクニックの準備」は上記の「夜のピクニック」の前日譚で、たぶんこれだけを読んでもそれほど面白いとは思えない。編集部の冒険は認めるが、残念ながら判断が甘いとしか思えない。
その意味で独立した作品である「オデュッセイア」はとりあえず予備知識なしに教室で読むことの出来る短編である。
そして面白い。実はこの教科書を採択したのは、この魅力的な作品が収録されているということが最大の要因かもしれない。そのときは一応は評論のラインナップなどを見て選んだような気もするのだが。
物語冒頭から「ココロコが、自分が動けることに気づいたのはずいぶん昔のことである。」と主語に立てられる「ココロコ」とは、住民を乗せて移動する一種の城塞都市である。山の岩盤を削って築かれた街とそこに住む人々ごと、山が移動しているのである(あるブログで、ココロコを「ロボット」と断言しているのを見てびっくりした。「不思議の海のナディア」で、海に浮かぶ島がまるごと宇宙船だったという「レッドノア」の設定あたりと混同しているんだろうか。そういう解釈を完全に否定できるとは言わないが、逆に明らかにそうであるように読者に解釈させようとしているフシは認められないから、これは素直に「山」と読むべきだと思われる)。
「オデュッセイア」は、教科書には珍しい、イメージ豊かなファンタジーとして、高校生に読書の楽しみを味わわせることのできる良質な小説教材である。「ココロコ」本体のイメージはジブリのアニメ「ハウルの動く城」や「天空の城ラビュタ」を連想させるし、その旅の景色は「風の谷のナウシカ」や、宮崎駿の絵物語「シュナの旅」で見た風景を思い出させる。ただ読むだけでも愉しい。
だから正直に言えば、教科書の採択の時点では、単にこの小説を生徒に読ませたいとしか思っていなかった。
だがそうは言っても教材とは単なる鑑賞の対象ではなく、本来それを使って国語の授業を展開することができることが第一義である。授業で「使う」とは、それを解説して生徒に理解させることが目的ではない。そんなことをするよりはただ読んだ方がいいし、「オデュッセイア」はもともと解説が必要な小説ではない。だがそれでもあえて教材としての「オデュッセイア」を使って授業を展開するとすれば、どんな授業が可能か。
一読後の導入としては、次のように展開する。
なるべく時間軸に沿って、とは言うが同時に、言えることを言うように、と指示する。生徒が「わかりません」と言わないようにである。黒板に書き出す段階で、時間軸を生徒に思い出させながら、展開の順序を整理する。また、ある程度文章として完結するように、とは言うが、内容的には何でも思いつく事柄でいい、とも言っておく。そうはいっても、展開や出来事の大小、軽重、根幹と枝葉、骨組みと肉付け、また出来事の因果関係について考えるよう促す。投げ出すように提示された一文も、言い放しにならないよう、応答をして、前後の関係を明らかにする。
これはつまり通常「要約」と呼ばれる作業である。個人作業でこの作業を課すこともできるが、授業では上記のように教室全体で取り組みたい。作業にかかる時間が生徒間でばらつくのを揃え、「要約」の網の目の細かさを揃える。ページをめくりながらの個人作業では、小説の文言をそのまま書き出してしまう生徒が多くなるが、教科書を閉じさせるこの展開では、物語の骨格の把握のためのフィルターが自然にはたらく。そして生徒は、物語の全体像を視覚的に一望できる。また、他人との共同作業は有益な言語活動であるという以前にそもそも楽しい。
この展開はどんな小説教材でも実施できる。評論教材でもできる。ただ、「オデュッセイア」はそもそも「遍歴」という題名が意味する通り、年代記的な骨格をもった小説だから、年表という形式になじみやすいとは言える。
この「年表づくり」の際、物語終盤の展開はどのように語られるか。これが次の授業展開の糸口である。
「年表づくり」を一時限行っても、物語の終盤については充分に完成しない。これは時間的な問題でもあるが、この小説に特徴的な語り口のせいでもある。
物語終盤の展開はこうだ。ココロコのいる世界では核戦争が勃発し、人類が地上から消失する。だが人類は滅亡したわけではなく、いったん宇宙空間に逃れて、そこからこの星を探査するために再び放射能に汚染された地上を訪れる。そしてココロコの眠りを覚まして、一緒に宇宙へ飛び立つところで物語は終わる。
まずはこの「戦争勃発」のくだりについて問う。
実は本文中にはこれらの言葉は登場しない。「年表づくり」の段階でこれらの言葉を語る生徒はいるかもしれない。だがそこでは、応答を繰り返して、なるべく本文中にあった言葉をそのまま使って表現させる。
そのうえで、そこに暗示されている事態がどのようなものであるかについて、上記のような語彙を使った表現に翻訳させる。物語の抽象化を行うのである。問答してみると「津波」「酸性雨」などという、微妙な勘違いが提出されたりもする。「空を何か大きなものが激しく飛び交った」などという記述が「ミサイル」のことか「戦闘機」のことかは解釈の分かれるところだが、もちろん併記のままでよい。
この問答の後、次のような問いを投げかけてみる。
「オデュッセイア」の「語り」は、形式上は三人称ではあるが、実質的には意識を持った都市であるココロコの視線に近いところから描かれる一人称に近い。ココロコの意識はゆったりとしたスケールで長い時間、広い世界を捉えつつ、あくまで自らの見聞きできる範囲のものを素朴な語彙で語る。
だがそれだけで完全に小説の「語り」が統一されているとも言い難い。科学技術が発達してきたと思われる時代に唐突に出現する「ケーブル」「アンテナ」といった語彙は、それまでの牧歌的な世界観には不整合な手触りをもっていて、読み手をギョッとさせる。これはココロコの語彙ではない(これも、人間が話している言葉を聞き取ったココロコが、その意味を正確に理解しないまま語っているという解釈ができないわけではないが)。
つまり「オデュッセイア」の「語り」は、ココロコの意識から見た一人称的語りの層と、小説を統覚する作者の視点から見た層とが重なっているのである。このような語りの二重性は、別段「オデュッセイア」に特有のものではなく、多くの小説が程度の問題でそういうものなのである。たとえば漱石の「こころ」でも、遺書という体裁で厳密に視点が一人称に限定されているように見えながら、詳細に読んでみると通常は遺書の書き手が書くはずのない表現や描写が存在し、それは小説作者が三人称的な小説の「語り」を意識的・無意識的に重ねているのである。
生徒にはここまでの考察を求めているわけではなく、上記の問いには「ココロコの目線で書いているから」くらいの答えが返ってくれば良い。こうした解答は期待してもよい。
そのような二重性をもった語りの構造において、終盤の核戦争勃発以降の展開は、小説の作者が使ってもよさそうな、我々が通常SF小説などでなじんでいる表現をあえて抑えて、ココロコの意識に寄り添った形で語りを進めようとしているのである。同時に、その「小説」的な把握は当然のように、読者に期待されてもいる。むしろ、上記のような「核戦争」「放射能汚染」「異星への移住」などという物語は、SF的物語としてはきわめてありふれているといっていい。それは小説を享受する前提として共有されるべき「常識」「基礎教養」なのだ。だからこそ、それをそうした語彙で語ることが授業においては必要なのである。
上記、戦争勃発のくだりの後に続くココロコの彷徨と眠りに続く、目覚めの場面から後の展開については、同じように、小説中の語彙にとどまらない言葉で「説明」させる。人類とこの星の現状と、「少年」「少女」の目的などについて確認する。必要に応じて小さな問いを発する。
あくまでテキストから得られる情報をもとに、妥当な解釈がどのようなものかを確認する。
さて、ストーリーの骨格を把握し、「常識」に基づいて物語を把握し、その先に何ができるか。登場人物の「気持ち」を考える、という授業の作法に従って、ココロコの「気持ち」を考えるなどというのは、どうみても馬鹿げている。
では何をするか。筆者は次の問いを生徒に提示する。
以下次号 「ファンタジーと寓話」
これらの小説を使った授業について提案する。
「オデュッセイア」を収録している短編集『図書室の海』の中には、恩田陸の他の長編につながる短編なども収録されているのだが、「オデュッセイア」はひとまず独立した短編として完結しているようだ。一方、三省堂の『明解 現代文B』に収録されている「ピクニックの準備」は上記の「夜のピクニック」の前日譚で、たぶんこれだけを読んでもそれほど面白いとは思えない。編集部の冒険は認めるが、残念ながら判断が甘いとしか思えない。
その意味で独立した作品である「オデュッセイア」はとりあえず予備知識なしに教室で読むことの出来る短編である。
そして面白い。実はこの教科書を採択したのは、この魅力的な作品が収録されているということが最大の要因かもしれない。そのときは一応は評論のラインナップなどを見て選んだような気もするのだが。
物語冒頭から「ココロコが、自分が動けることに気づいたのはずいぶん昔のことである。」と主語に立てられる「ココロコ」とは、住民を乗せて移動する一種の城塞都市である。山の岩盤を削って築かれた街とそこに住む人々ごと、山が移動しているのである(あるブログで、ココロコを「ロボット」と断言しているのを見てびっくりした。「不思議の海のナディア」で、海に浮かぶ島がまるごと宇宙船だったという「レッドノア」の設定あたりと混同しているんだろうか。そういう解釈を完全に否定できるとは言わないが、逆に明らかにそうであるように読者に解釈させようとしているフシは認められないから、これは素直に「山」と読むべきだと思われる)。
「オデュッセイア」は、教科書には珍しい、イメージ豊かなファンタジーとして、高校生に読書の楽しみを味わわせることのできる良質な小説教材である。「ココロコ」本体のイメージはジブリのアニメ「ハウルの動く城」や「天空の城ラビュタ」を連想させるし、その旅の景色は「風の谷のナウシカ」や、宮崎駿の絵物語「シュナの旅」で見た風景を思い出させる。ただ読むだけでも愉しい。
だから正直に言えば、教科書の採択の時点では、単にこの小説を生徒に読ませたいとしか思っていなかった。
だがそうは言っても教材とは単なる鑑賞の対象ではなく、本来それを使って国語の授業を展開することができることが第一義である。授業で「使う」とは、それを解説して生徒に理解させることが目的ではない。そんなことをするよりはただ読んだ方がいいし、「オデュッセイア」はもともと解説が必要な小説ではない。だがそれでもあえて教材としての「オデュッセイア」を使って授業を展開するとすれば、どんな授業が可能か。
一読後の導入としては、次のように展開する。
Q ココロコの年代記を世界史の年表風にまとめる。なるべく時間軸に沿って、ある程度文章として完結するように、ココロコに起こった出来事を述べよ。筆者の授業では、生徒に教科書を閉じるように指示して、これから、黒板全体に物語の始まりから終わりまでを年表のように書き出していく、と宣言する。次々と生徒を指名し、物語の展開、出来事を挙げさせる。
なるべく時間軸に沿って、とは言うが同時に、言えることを言うように、と指示する。生徒が「わかりません」と言わないようにである。黒板に書き出す段階で、時間軸を生徒に思い出させながら、展開の順序を整理する。また、ある程度文章として完結するように、とは言うが、内容的には何でも思いつく事柄でいい、とも言っておく。そうはいっても、展開や出来事の大小、軽重、根幹と枝葉、骨組みと肉付け、また出来事の因果関係について考えるよう促す。投げ出すように提示された一文も、言い放しにならないよう、応答をして、前後の関係を明らかにする。
これはつまり通常「要約」と呼ばれる作業である。個人作業でこの作業を課すこともできるが、授業では上記のように教室全体で取り組みたい。作業にかかる時間が生徒間でばらつくのを揃え、「要約」の網の目の細かさを揃える。ページをめくりながらの個人作業では、小説の文言をそのまま書き出してしまう生徒が多くなるが、教科書を閉じさせるこの展開では、物語の骨格の把握のためのフィルターが自然にはたらく。そして生徒は、物語の全体像を視覚的に一望できる。また、他人との共同作業は有益な言語活動であるという以前にそもそも楽しい。
この展開はどんな小説教材でも実施できる。評論教材でもできる。ただ、「オデュッセイア」はそもそも「遍歴」という題名が意味する通り、年代記的な骨格をもった小説だから、年表という形式になじみやすいとは言える。
この「年表づくり」の際、物語終盤の展開はどのように語られるか。これが次の授業展開の糸口である。
「年表づくり」を一時限行っても、物語の終盤については充分に完成しない。これは時間的な問題でもあるが、この小説に特徴的な語り口のせいでもある。
物語終盤の展開はこうだ。ココロコのいる世界では核戦争が勃発し、人類が地上から消失する。だが人類は滅亡したわけではなく、いったん宇宙空間に逃れて、そこからこの星を探査するために再び放射能に汚染された地上を訪れる。そしてココロコの眠りを覚まして、一緒に宇宙へ飛び立つところで物語は終わる。
まずはこの「戦争勃発」のくだりについて問う。
Q 物語終盤の展開について、どういう状況になっているのかを説明せよ。教科書を開かせ、本文をたどりながら、具体的な記述が何を示しているかを説明させる。ここでの肝は、説明の際に、「戦争」「核兵器」「核爆弾」「ミサイル」「戦闘機」「キノコ雲」「放射能汚染」などの語彙が挙がるまで問答を繰り返すことである。
実は本文中にはこれらの言葉は登場しない。「年表づくり」の段階でこれらの言葉を語る生徒はいるかもしれない。だがそこでは、応答を繰り返して、なるべく本文中にあった言葉をそのまま使って表現させる。
そのうえで、そこに暗示されている事態がどのようなものであるかについて、上記のような語彙を使った表現に翻訳させる。物語の抽象化を行うのである。問答してみると「津波」「酸性雨」などという、微妙な勘違いが提出されたりもする。「空を何か大きなものが激しく飛び交った」などという記述が「ミサイル」のことか「戦闘機」のことかは解釈の分かれるところだが、もちろん併記のままでよい。
この問答の後、次のような問いを投げかけてみる。
Q なぜ小説ではこれらの語彙が使われていないか。このような翻訳が必要となるような「語り」の落差は何を意味しているかについての考察である。
「オデュッセイア」の「語り」は、形式上は三人称ではあるが、実質的には意識を持った都市であるココロコの視線に近いところから描かれる一人称に近い。ココロコの意識はゆったりとしたスケールで長い時間、広い世界を捉えつつ、あくまで自らの見聞きできる範囲のものを素朴な語彙で語る。
だがそれだけで完全に小説の「語り」が統一されているとも言い難い。科学技術が発達してきたと思われる時代に唐突に出現する「ケーブル」「アンテナ」といった語彙は、それまでの牧歌的な世界観には不整合な手触りをもっていて、読み手をギョッとさせる。これはココロコの語彙ではない(これも、人間が話している言葉を聞き取ったココロコが、その意味を正確に理解しないまま語っているという解釈ができないわけではないが)。
つまり「オデュッセイア」の「語り」は、ココロコの意識から見た一人称的語りの層と、小説を統覚する作者の視点から見た層とが重なっているのである。このような語りの二重性は、別段「オデュッセイア」に特有のものではなく、多くの小説が程度の問題でそういうものなのである。たとえば漱石の「こころ」でも、遺書という体裁で厳密に視点が一人称に限定されているように見えながら、詳細に読んでみると通常は遺書の書き手が書くはずのない表現や描写が存在し、それは小説作者が三人称的な小説の「語り」を意識的・無意識的に重ねているのである。
生徒にはここまでの考察を求めているわけではなく、上記の問いには「ココロコの目線で書いているから」くらいの答えが返ってくれば良い。こうした解答は期待してもよい。
そのような二重性をもった語りの構造において、終盤の核戦争勃発以降の展開は、小説の作者が使ってもよさそうな、我々が通常SF小説などでなじんでいる表現をあえて抑えて、ココロコの意識に寄り添った形で語りを進めようとしているのである。同時に、その「小説」的な把握は当然のように、読者に期待されてもいる。むしろ、上記のような「核戦争」「放射能汚染」「異星への移住」などという物語は、SF的物語としてはきわめてありふれているといっていい。それは小説を享受する前提として共有されるべき「常識」「基礎教養」なのだ。だからこそ、それをそうした語彙で語ることが授業においては必要なのである。
上記、戦争勃発のくだりの後に続くココロコの彷徨と眠りに続く、目覚めの場面から後の展開については、同じように、小説中の語彙にとどまらない言葉で「説明」させる。人類とこの星の現状と、「少年」「少女」の目的などについて確認する。必要に応じて小さな問いを発する。
- 「『船』とは何か」→宇宙船。小さな探査船のようなもの?
- 「ココロコはなぜ目覚めたか」→探査船の着陸?(少年と少女の気配とか足音とかいった解答がまず出てくる)
- 「人類はどこにいるか」→異星? 宇宙ステーション? 巨大な母船?
- 「少年と少女は兄弟?」→祖先が違うのだから、少なくとも兄弟ではない。
- 「ココロコは何年くらい眠っていたか」→「言い伝え」が失われるほどの長い間ではなく、実在が一部では「伝説」と思われるくらいには時間の経過があるところから、百数十年程度?
あくまでテキストから得られる情報をもとに、妥当な解釈がどのようなものかを確認する。
さて、ストーリーの骨格を把握し、「常識」に基づいて物語を把握し、その先に何ができるか。登場人物の「気持ち」を考える、という授業の作法に従って、ココロコの「気持ち」を考えるなどというのは、どうみても馬鹿げている。
では何をするか。筆者は次の問いを生徒に提示する。
Q ココロコは何の象徴か?
以下次号 「ファンタジーと寓話」
2016年10月9日日曜日
授業で詩を読むことは数独を解くことに似ている
珍しく詩を教材として扱って、あらためて思うのだが、基本的に国語科の授業として読む上では詩も小説も評論も、古文も漢文も、やることは要するにテキスト解釈なのだった。
たとえば「永訣の朝」をやっているときに、「賢治の宗教観とかを扱うんですか」と知り合いの教員に聞かれて、それが自分にはあまりに想定外だったことに感慨を覚えた。考えもしなかった。なるほど、そういう発想もあるのか。一般的には。
あるいは「永訣の朝」にこめられた兄の悲痛な思いを切々と語って、生徒を泣かせる教員がいるという話も最近聞いた。なるほど、そこまで作品に感情移入して読むのは確かに豊かな鑑賞体験に違いない。
だが前者のような読みは、作品の外部に広がる「知識」の準備を教員に強要し、後者のような授業は、教員に役者じみた芝居っ気が必要となる。
どちらもそれが有益な体験となる場合もあろう。だが筆者はそうした方向を選ばない。それは個人的な適性の問題でもあるが、一方で、そうしたやり方が「国語」の授業の目指す方向であるとは思えないからだ。
前者のような授業は生徒に、詩そのものに対峙するのではなく詩の周辺情報を集めることが詩を「正しく」読むことだという誤解を、後者のような読みは、結局、詩を「気分」で読むことが正しいのだという誤解を、それぞれ蔓延させる。
そう、最近も上記とはまた別のベテラン教員から「詩は分析するものではない」とか、はたまた別の教員からも「詩の解釈は人それぞれで良い」というようなお決まりの見解が語られるのを聞いて、激しい脱力感と憤りを感じた。
それは、あるレベルではそうであろう。分析を目的として詩を読む必要はないし、詩の解釈が限定的であることは散文ほどには保証されていない。
だがまずは国語科授業である。ここは詩の鑑賞をするより、言語的訓練をする場である。それに鑑賞は、まっとうなテキスト解釈が保証されて、その上でやればいいし、その上でやるしかないはずだ。
そのテキストを、まずはまっとうな作法で解釈すること。そこには広く「常識」としての「知識」だけを携えて、あとは徒手空拳で臨むしかない。その「常識」だけは生徒に保証すべきである。だが、普通の人が知るはずのない、例えば作者に特有の事情などをそこに持ち込む必要はない。それを事前に手にしていることがかろうじて授業を成立させるしかないような国語の授業など、もはや「国語」の授業ではない。
たとえば「弟に速達で」の読解にあたって、辻征夫についての予備知識は、まったく用いていない。そもそもまるでない。
だが我々があるテキストにふれるときには、基本的には手持ちの知識でその文字列に対峙するしかないのだ。
どれほど誠実にテキストに対峙するか。授業ではそうした姿勢でテキストに向き合ったときにひろがる世界を生徒ともに体験したい。
その時、詩を読むことは数独を解くことに似てくる。
詩の言葉は散文に比べてテキスト自体の情報量は少ない。だがそこには、表に表れている情報を整合的に含み込むことの出来る認識の構造があるはずだ。書かれている数字から、純粋に論理的な推論を用いて空白の枡に入る数字を見つけ出すように、現前する詩のテキストから、それが組み込まれているはずの構造を推測しつつ、書かれていない言葉を補完するのだ。
むろん数独そのもののような唯一解にはたどりつかないだろう。語り手が30才まで何をしていたかも、語り手を北に向かわせる「小さな夢」が何なのかも、確定できるほどの情報量は提示されていない。数独としては解が複数になってしまう、不完全な問題である。そういう意味で詩が解釈の自由度の高いテキストであるのは確かだ。
だが、解くという努力を放棄して安易に「自由な解釈」や「情緒的な鑑賞」に陥るのは、間違いなく詩に対する不誠実である。
それでも、詩というテキストを読解する行為は不思議だ。一見「不誠実」とは思われない語り口の次のような読解が、しかし筆者の読解とはまるで違った「構造」を背後に想定してしまうのだ。
このブログ主は第一聯を次のように語る。
弟が「疎遠」であれば「最近会ったか?」とは聞かない、と思う。確かに「あまり会っていない」のかもしれない。だがそれはとりたてて「疎遠」というほどのことはない、通常の成人の親子関係の範囲であろうと感ずる。生まれた孫についての会話を電話でしていて、その後、直接会ったかどうかが、語り手には確認できていないだけなのだ。「あったか?」という問いかけはむしろ、会っていてもおかしくはないことが前提されているように思われる。
さらに次のように言われると、戸惑いはいっそう激しい。
母親を「ちゃん」づけする成人した息子たちは、30才まで定職に就かずに母親を心配させた息子たちである。そしてまたその母親はそういう息子を育てた母親である。いわゆる戦後の新しい家族的なスタイルとして、母親を「ちゃん」づけで呼ぶ習慣のある息子たちと、友人のような母親の関係を、ここは想像すべきではないのか。
こうした解釈もまた「詩の解釈は自由だ」というお題目で許容されるのだろうか。
かりにそうだとしても、それを許容することよりも、その妥当性について議論することの方が有益な「国語」の授業たりうることは間違いない。
たとえば「永訣の朝」をやっているときに、「賢治の宗教観とかを扱うんですか」と知り合いの教員に聞かれて、それが自分にはあまりに想定外だったことに感慨を覚えた。考えもしなかった。なるほど、そういう発想もあるのか。一般的には。
あるいは「永訣の朝」にこめられた兄の悲痛な思いを切々と語って、生徒を泣かせる教員がいるという話も最近聞いた。なるほど、そこまで作品に感情移入して読むのは確かに豊かな鑑賞体験に違いない。
だが前者のような読みは、作品の外部に広がる「知識」の準備を教員に強要し、後者のような授業は、教員に役者じみた芝居っ気が必要となる。
どちらもそれが有益な体験となる場合もあろう。だが筆者はそうした方向を選ばない。それは個人的な適性の問題でもあるが、一方で、そうしたやり方が「国語」の授業の目指す方向であるとは思えないからだ。
前者のような授業は生徒に、詩そのものに対峙するのではなく詩の周辺情報を集めることが詩を「正しく」読むことだという誤解を、後者のような読みは、結局、詩を「気分」で読むことが正しいのだという誤解を、それぞれ蔓延させる。
そう、最近も上記とはまた別のベテラン教員から「詩は分析するものではない」とか、はたまた別の教員からも「詩の解釈は人それぞれで良い」というようなお決まりの見解が語られるのを聞いて、激しい脱力感と憤りを感じた。
それは、あるレベルではそうであろう。分析を目的として詩を読む必要はないし、詩の解釈が限定的であることは散文ほどには保証されていない。
だがまずは国語科授業である。ここは詩の鑑賞をするより、言語的訓練をする場である。それに鑑賞は、まっとうなテキスト解釈が保証されて、その上でやればいいし、その上でやるしかないはずだ。
そのテキストを、まずはまっとうな作法で解釈すること。そこには広く「常識」としての「知識」だけを携えて、あとは徒手空拳で臨むしかない。その「常識」だけは生徒に保証すべきである。だが、普通の人が知るはずのない、例えば作者に特有の事情などをそこに持ち込む必要はない。それを事前に手にしていることがかろうじて授業を成立させるしかないような国語の授業など、もはや「国語」の授業ではない。
たとえば「弟に速達で」の読解にあたって、辻征夫についての予備知識は、まったく用いていない。そもそもまるでない。
だが我々があるテキストにふれるときには、基本的には手持ちの知識でその文字列に対峙するしかないのだ。
どれほど誠実にテキストに対峙するか。授業ではそうした姿勢でテキストに向き合ったときにひろがる世界を生徒ともに体験したい。
その時、詩を読むことは数独を解くことに似てくる。
詩の言葉は散文に比べてテキスト自体の情報量は少ない。だがそこには、表に表れている情報を整合的に含み込むことの出来る認識の構造があるはずだ。書かれている数字から、純粋に論理的な推論を用いて空白の枡に入る数字を見つけ出すように、現前する詩のテキストから、それが組み込まれているはずの構造を推測しつつ、書かれていない言葉を補完するのだ。
むろん数独そのもののような唯一解にはたどりつかないだろう。語り手が30才まで何をしていたかも、語り手を北に向かわせる「小さな夢」が何なのかも、確定できるほどの情報量は提示されていない。数独としては解が複数になってしまう、不完全な問題である。そういう意味で詩が解釈の自由度の高いテキストであるのは確かだ。
だが、解くという努力を放棄して安易に「自由な解釈」や「情緒的な鑑賞」に陥るのは、間違いなく詩に対する不誠実である。
それでも、詩というテキストを読解する行為は不思議だ。一見「不誠実」とは思われない語り口の次のような読解が、しかし筆者の読解とはまるで違った「構造」を背後に想定してしまうのだ。
このブログ主は第一聯を次のように語る。
「おばあちゃん」にあまり会っていない弟なのだ。「おばあちゃん」から離れて、弟は遠方に住むのだろうか。その距離や時間的な空白の中には、淋しさや郷愁などが、薄い靄のように流れているのかも知れない。と同時に、疎遠な印象が、どっしりと弟の前に隔てとなって聳えているかのようである。まるで違う印象を抱いている筆者には、こうした印象が詩のテキストから生成されることがどうにも不思議に思える。
弟が「疎遠」であれば「最近会ったか?」とは聞かない、と思う。確かに「あまり会っていない」のかもしれない。だがそれはとりたてて「疎遠」というほどのことはない、通常の成人の親子関係の範囲であろうと感ずる。生まれた孫についての会話を電話でしていて、その後、直接会ったかどうかが、語り手には確認できていないだけなのだ。「あったか?」という問いかけはむしろ、会っていてもおかしくはないことが前提されているように思われる。
さらに次のように言われると、戸惑いはいっそう激しい。
「おばあちゃん」が「ノブコちゃん」と呼ばれるのは、どんな時だったろうか。「ノブコちゃん」が子供だった頃のことを良く知っている人たちが、多分そう呼び慣わしているのではなかったか。遙かな昔の時間が、すぐ目の前に迫るかのような呼び名なのである。つまり「ノブコちゃん」という呼び名は、遙かな昔を現前させることで、現実の距離や空白の時間をすっかり埋めてしまい、重層性を現前させる力をそもそも持っている、と言って良い。筆者には、ここに「『ノブコちゃん』が子供だった頃のことを良く知っている人たち」が想起される理由がまったくわからない。単に母親を「ノブコちゃん」と呼ぶ、兄弟と母親の「今どきの」関係性が感じ取れるだけだ。
母親を「ちゃん」づけする成人した息子たちは、30才まで定職に就かずに母親を心配させた息子たちである。そしてまたその母親はそういう息子を育てた母親である。いわゆる戦後の新しい家族的なスタイルとして、母親を「ちゃん」づけで呼ぶ習慣のある息子たちと、友人のような母親の関係を、ここは想像すべきではないのか。
こうした解釈もまた「詩の解釈は自由だ」というお題目で許容されるのだろうか。
かりにそうだとしても、それを許容することよりも、その妥当性について議論することの方が有益な「国語」の授業たりうることは間違いない。
辻征夫「弟に速達で」の授業3-夢見る一族
Q なぜ語り手は「おばあちゃんの老眼鏡を 思い出した」のか。承前
誘導のため、さらに考える糸口を与える。
Q 「おれ」は三十才まで何をしていたか。「正解」はない、と言っておく。自由に想像していい。
自由に、とはいえ、文脈に齟齬をきたさない範囲であることが条件である。「定職」には就かず母親に「しんぱいばかりかけた」というのだが、これを今風に「ひきこもり」だったのだと考えるのは不適切だ。短期労働か、今風に言えばフリーターででもあったものかはともかく、はずしてはならない条件として、少なくとも何かしら「夢」を追っていたのだと考えるべきであろう。そう考えてはじめて、三聯がこの詩におかれていることの意味がわかるからである。
生徒には具体的にイメージさせる。
- ミュージシャンになりたくてバンド活動していた。
- 俳優になりたくて劇団に所属していた。
- 起業家を目指して会社設立を企画していた。
- NGO組織でボランティア活動をしていた。
- 小説家を目指して投稿を繰り返していた…。
これは一人「おれ」だけではなく、弟もそうなのである。そのことが「ノブコちゃん」に「しんぱいばかりかけた」ことを語り手は自覚している。だからこそ定職について給料で買った贈り物に母親が喜んだことを印象深く覚えているのである。
次の考察に進む前に、時間をとってゆっくり展開するつもりならば、次の問いを投げておいてもいい。
Q 「おれ」は北に何をしに行くのか。詩の論理に齟齬のない範囲内でなら自由に考えていい、と言い添える。
- 流氷の軋むオホーツク海を見る。
- 見渡すばかりのラベンダー畑に佇む。
- 大雪山頂から石狩川を見下ろす。
- オーロラの空の下に立つ。
- 脱サラして北海道で牧場を営む。
むろん「何をしに行くか」に率直に答えるのなら詩の中に「はるかな山と/平原と/おれがずっとたもちつづけた/小さな夢を/見てくる」と書いてある。だからこの問いは「小さな夢を見る」という表現がどのような想像を許容するかをはかる思考を促しているのである。
さまざまな想像が教室内に提出され、そのイメージの広がりと重なりのなかで「はるか」という名に込めた願いが、いくらかなりと実感されるのは悪くない。どこまでの想像なら詩の論理に齟齬をきたさないか、という検討はむろん有益である。この北への旅が、一時的な旅行なのか、北への永住の決意なのかは見解の分かれるところかもしれない。
ともかくもこれらが筆者の言うところの「小さな夢」であり、それは、三十才で定職に就くときに一旦は密かにしまっておいたものだということを確認しておく。この四聯を踏まえて、三聯の「三十才」までの過ごし方が想像されるべきなのだ。そしてそれを再び追うことを決意させたのは、母親の、孫への命名にこめられた願いである。
さて、「夢を追う」というキーフレーズが提出されたことで、詩の論理を追う手掛かりができた。二聯と四聯の内容を「夢を追う」というフレーズを使って言い換えてみる。
二聯 祖母が孫に「はるか」という名を提案している
→祖母が孫に「夢を追う」ことを期待している/願っている。
四聯 伯父が、自分の夢を見るために北へ行くと宣言している
→伯父が姪にも「夢を追う」ことを期待している/願っている。
こうした言い方に沿って、三聯を言い換えるとどういうことになるか。
三聯 息子が定職に就いたことを母親が喜んだ。
→息子が「夢を追うのを諦めた」ことを母親が喜んだ。
母親が孫に「はるか」という名を提案していることを聞いたとき語り手が「老眼鏡」を思い出すのは、息子が「はるか」な「夢」を見ることをやめた時に喜んでいた母親の姿を連想したからである。母親はかつて息子が定職に就いて「夢」を見ることをやめたとき、そのことを喜んだのだった。
そう考えてみると、このプレゼントが老眼鏡であったことにも、いささか穿ち過ぎの解釈ができないこともない。老眼鏡とは遠くではなく目の前を見るための道具である。「夢」を追っていた二十代の終わりに定職に就くにあたって、「おれ」が贈ったのが、目の前を/現実を見るための道具としての老眼鏡であったことは何か象徴的だと言えなくもない。
「なぜ思い出したか」はこのように言えるとはいえ、まだこの詩の中で三聯が果たしている役割については一貫した論理が見えていない。その点についてさらに考える。
Q 整合的な二聯と四聯にはさまれた三聯の不整合をどう考えるか。つまり、
二聯 祖母が孫に「夢を追う」ことを期待している。願っている。という流れを納得できるように追う論理を問うのである。
三聯 息子が「夢を追うのを諦めた」ことを母親が喜んだ。
四聯 伯父が姪にも「夢を追う」ことを期待している。願っている。
さて、三聯をはさむ詩の論理展開についての最終的な生徒の意見を聴き、それらを検討しつつ、最終的には以下のような筆者の読みを語る。
母はかつて息子が「夢を諦めた」ことを喜んだはずなのに、今は生まれたばかりの孫に「夢を追う」ことを願う。そして息子はそうした母親の願いを聞いて、自らももう一度「夢を追う」ことを決意し、あわせて姪にも、母親と同じ願いをかける。
つまりこれは、懲りない一族の物語なのである。
母は確かにかつて「夢」を追ってなかなか定職に就かない息子達を心配したが、考えてみれば息子をそのように育てたのはとうの母親自身である。彼女は息子達が「夢を追うのを諦め」て定職に就いた時に喜んだはずなのに、今また性懲りもなく孫にも「遠く」を見ろと願っている。
それを知った「おれ」に生じた感慨はどのようなものか。
つまり「おれ」は、母が「はるか」という名を考えたことを聞いて、かつての自分の生き方を、母親から肯定されていると感じ取っているのである。「おれ」は母親に「しんぱいばかりかけた」が、そんな生き方を、母親は否定してはいなかったのである。それを「おれ」は、「はるか」という命名案に感じ取る。夢を追っていた日々を、母親がどのような目で見ていたか、今あらためて感じているのである。
「おれ」がこの命名に寄せる感慨はそのようなものだ。
そして定職について母親を安心させはしたものの、「おれ」も相変わらず「小さな夢」を「ずっとたもちつづけ」て、今また北へ旅立とうとしている。そして母親と同じく、姪にも「夢」を見続けろとけしかけるのである。
連綿と続く夢見る一族の性。
これはそうした懲りない一族の詩なのである。
結局、読み取った詩の主想は最初に読んだときとそれほど違いはないかもしれない。この詩は相変わらず「ユーモラスな感じと、クールな格好良さ」のある、何かしら好もしい詩である。
そして一連の授業過程を経てあらためて感じ取られたこの親子に流れる血のつながりもまた、おなじように「ユーモラスな感じと、クールな格好良さ」という印象である。
それでも、考察によって、詩を構成している論理が目に見える形で浮上してくる瞬間は、筆者にとって、ほとんどカタルシスといっていい、興味深い認識の転換であった。
「弟に速達で」はそうした仕掛けが期待できるという意味で、きわめてすぐれた教材である。
2016年10月8日土曜日
辻征夫「弟に速達で」の授業2-なぜ老眼鏡を思い出すのか
承前
詩という形式は、そもそもが「わからない」ことだらけである。単に情報量の少なさに加えて、散文に比べて、素直に意味をとらせないこと自体に、詩という形式の独自性があるとさえいっていい。
だからともすれば「わかる」こと自体を放棄してしまう一方で、わかったつもりになって看過してしまう部分も生じがちである。
さて、もう一つ、さらに気づきにくい違和感について指摘し、生徒とともに考察してみたい。次の問いは、この詩における三聯の意味である。
一・二聯 ① 祖母が初孫の名前を考え、息子に提案する
三聯 ② 母親に送った老眼鏡を語り手が思い出す
四・五聯 ③ 語り手が北へ旅立つにあたって、母親と同じ願いを姪にかける
書かれていること、書いてあることは、とりたてて「わからない」とは感じない。だが、意識してみると、なぜ①に続いて②が語られるのか、またそれが③に続く脈絡は、わかったようでわからない。
①と③の関連はわかる。祖母の考えた「はるか」という名が、そのまま語り手の「北」への思いに重なるからである。だがそこに②を挟む脈絡とはなんだろう。
この問題意識は、恐らく生徒には理解されにくい。上記の問いを投げかけても途方にくれるばかりだし、「脈絡がわからない」という、問う側の問題意識がそもそも共有されそうにない。「わからない」とは思わない、と言われてしまえばそれまでだ。
そこで問題を微分する。
しばらく考える間をとってから、次の問いを加える。
ところが実はこれは案外に即答の難しい問いなのである。そのことは、問われてみるまでは意外に気が付かないはずだ。詩の読者は詩を貫く論理・因果関係をそれほど明確には把握せずに「なんとなく」読んでいる。
契機はむろん「はるか」という名である。だが、それを語り手が耳にしたのはいつなのかは、にわかにはわからない。詩句から直接抜き出せる語句はなく、考え始めると、情報の整理に頭を使う余地がある。
もっとも、生徒から「『はるか』という名を聞いたとき」という素朴な答えが出てくる可能性もある。間違っていない。その場合は「誰から、いつ聞いたのか」という問いに切り替える。
二聯「いったのか電話で」から、弟と母親が電話で話したことがわかる。そしてそれは「そうだな」という伝聞の助動詞からすると、間接的に語り手に伝えられている。つまりその場に語り手は同席していない。②は母親が「いった」時に起こったことではないということだ。
この命名が話題に上った電話とは、たとえば娘の誕生を弟が母親に報せた電話である。当然おめでた自体はそれ以前から母親の知るところであり、誕生の報告にあわせて、母親はひそかに暖めていた命名案を息子に提示したということだろうか。
そのことを語り手が知ったのはまた別の機会である。母親と語り手がそれより後のどこかで電話でか直接にか、会って話しているのだろうか(もっといえば、母親と語り手が同居している可能性も想定していい)。
あるいは命名案のことを弟に聞いた第三者(たとえば弟の奥さん)が語り手にそのことを話した可能性もある。少なくとも弟からではない。この件を語り手も知っていることは弟にはまだ知らされておらず(「いったのか電話で」と聞いているのだから)、そして一聯「さいきん/おばあちゃんにはあったか?」から、その後弟と母親が会ったかどうかは語り手には不明である。
つまり、「老眼鏡を思い出した」のは、孫の名前として「はるか」を弟に提案(推奨?)したということを、後から母親あるいは第三者から聞いた直後「すぐに」ということになる。
ではなぜ語り手はこの話から老眼鏡を連想したのか。
詩という形式は、そもそもが「わからない」ことだらけである。単に情報量の少なさに加えて、散文に比べて、素直に意味をとらせないこと自体に、詩という形式の独自性があるとさえいっていい。
だからともすれば「わかる」こと自体を放棄してしまう一方で、わかったつもりになって看過してしまう部分も生じがちである。
さて、もう一つ、さらに気づきにくい違和感について指摘し、生徒とともに考察してみたい。次の問いは、この詩における三聯の意味である。
Q 第三聯が、この詩に置かれている意味は何か。三聯はこの詩の中で何を語っているか。この詩に書かれていることを次のようにまとめてみる。
一・二聯 ① 祖母が初孫の名前を考え、息子に提案する
三聯 ② 母親に送った老眼鏡を語り手が思い出す
四・五聯 ③ 語り手が北へ旅立つにあたって、母親と同じ願いを姪にかける
書かれていること、書いてあることは、とりたてて「わからない」とは感じない。だが、意識してみると、なぜ①に続いて②が語られるのか、またそれが③に続く脈絡は、わかったようでわからない。
①と③の関連はわかる。祖母の考えた「はるか」という名が、そのまま語り手の「北」への思いに重なるからである。だがそこに②を挟む脈絡とはなんだろう。
この問題意識は、恐らく生徒には理解されにくい。上記の問いを投げかけても途方にくれるばかりだし、「脈絡がわからない」という、問う側の問題意識がそもそも共有されそうにない。「わからない」とは思わない、と言われてしまえばそれまでだ。
そこで問題を微分する。
Q なぜ語り手は「おばあちゃんの老眼鏡を 思い出した」のか。「なぜ思い出したのか」を説明するということは、それを思い出させる契機が何であるかを明確にし、それと老眼鏡の想起の因果関係を説明するということだ。その契機を明らかにすることで①と②の脈絡を捉えようというのである。何が「おれ」に老眼鏡を思い出させたのか。
しばらく考える間をとってから、次の問いを加える。
Q 「おれはすぐに」とは、何の直後なのか。①の何事かに続いて②が起こったことが「すぐに」だと述べられているのである。その因果関係を捉えるうえで、何と何が連続しているのかを明確にしておきたい。
ところが実はこれは案外に即答の難しい問いなのである。そのことは、問われてみるまでは意外に気が付かないはずだ。詩の読者は詩を貫く論理・因果関係をそれほど明確には把握せずに「なんとなく」読んでいる。
契機はむろん「はるか」という名である。だが、それを語り手が耳にしたのはいつなのかは、にわかにはわからない。詩句から直接抜き出せる語句はなく、考え始めると、情報の整理に頭を使う余地がある。
もっとも、生徒から「『はるか』という名を聞いたとき」という素朴な答えが出てくる可能性もある。間違っていない。その場合は「誰から、いつ聞いたのか」という問いに切り替える。
二聯「いったのか電話で」から、弟と母親が電話で話したことがわかる。そしてそれは「そうだな」という伝聞の助動詞からすると、間接的に語り手に伝えられている。つまりその場に語り手は同席していない。②は母親が「いった」時に起こったことではないということだ。
この命名が話題に上った電話とは、たとえば娘の誕生を弟が母親に報せた電話である。当然おめでた自体はそれ以前から母親の知るところであり、誕生の報告にあわせて、母親はひそかに暖めていた命名案を息子に提示したということだろうか。
そのことを語り手が知ったのはまた別の機会である。母親と語り手がそれより後のどこかで電話でか直接にか、会って話しているのだろうか(もっといえば、母親と語り手が同居している可能性も想定していい)。
あるいは命名案のことを弟に聞いた第三者(たとえば弟の奥さん)が語り手にそのことを話した可能性もある。少なくとも弟からではない。この件を語り手も知っていることは弟にはまだ知らされておらず(「いったのか電話で」と聞いているのだから)、そして一聯「さいきん/おばあちゃんにはあったか?」から、その後弟と母親が会ったかどうかは語り手には不明である。
つまり、「老眼鏡を思い出した」のは、孫の名前として「はるか」を弟に提案(推奨?)したということを、後から母親あるいは第三者から聞いた直後「すぐに」ということになる。
ではなぜ語り手はこの話から老眼鏡を連想したのか。
だがこうした疑問も、一聯の「おばあちゃん/ノブコちゃん」の言い換えが必要だった理由などと同じく、読者にとっては読み進める詩句のすべてが新情報だから、何はともあれそれを解釈しようとする構えにとっては疑問として意識されにくい。だからまずは生徒に、これが疑問である、つまり因果関係はそれほど自明ではないことを確認する必要があるのである。
実際に生徒から出された説を列挙してみる。
いずれもそれなりにわからないでもない。このような解釈のアイデアが生徒から提出されたときは、なるべく「なるほど」という反応をしておく。そのうえでそれぞれの解釈について検討する。
aについては、老眼鏡が近くを見る道具であることと「遠くに見える」の齟齬がひっかかる。
bについては、老眼鏡が常にかけているものではないことから、外観上のイメージを代表しているものと考えることに疑問がある。あるいは、そもそも語り手が母親と直接会って命名の件を聞いたのだとすると、この説明は成り立たない。
cは、単に「孫の誕生」ではなく「命名」の件を母親から聞くことと連想の因果関係が明確でない。「孫の誕生」→「老齢」の連想ならわかる。だがここでは「命名」→「老眼鏡」という連想である。この因果関係はやはりよくわからない。
そして、a、b、cいずれも③に続く脈絡が不明で、②の内容がこの詩の中に置かれている充分な理由を説明してはいない。
また、a、b、cの解釈は「老眼鏡に」焦点があっている。それに対してd、eは、「老眼鏡」そのものではなく、それが「はじめてのおくりもの」であったという点に重心が置かれている。つまりa、b、cでは「老眼鏡」の出自は問題ではなく、単に「ノブコちゃん」が買ったものでもかまわないことになる。それに対してd、eでは「おくりもの」がたとえばネッカチーフなどでもかまわないことになる。
どう考えるべきなのか。
d、eは「はじめてのおくりもの」であったという点から連想の機制を説明しようとしている。それぞれなかなか巧みな考察であり、授業では称賛に値する。だが筆者の考えでは、これはいわば考え過ぎである。そうだとすると、そうした読みに読者を誘導する情報が、ほかに詩中に示されるはずだからである。それが書かれていないことが不自然だと感じられるのである。
ではなぜ「おれ」は「はるか」という名から「老眼鏡を 思い出した」のか。
続く
実際に生徒から出された説を列挙してみる。
- a 「遠くに見える」からの連想で、見るための道具としての「老眼鏡」が思い出された。
- b 母親を話題にのせるとき、その外観上の特徴として「老眼鏡」がイメージされた。
- c 孫が生まれたことから、母親の老齢が実感され、そこから「ゆるゆるになったらしい」「老眼鏡」が連想された。
- d 母親が孫に贈る名前を、あれこれ考えていたのだろうという想像が、自分が母親に老眼鏡を贈ったときにもあれこれ苦労して考えていたものだという連想に結びついた。
- e 孫娘はいわば母親にとっての贈り物であるという認識が、自分が母親に贈った老眼鏡の連想に結びついた。
いずれもそれなりにわからないでもない。このような解釈のアイデアが生徒から提出されたときは、なるべく「なるほど」という反応をしておく。そのうえでそれぞれの解釈について検討する。
aについては、老眼鏡が近くを見る道具であることと「遠くに見える」の齟齬がひっかかる。
bについては、老眼鏡が常にかけているものではないことから、外観上のイメージを代表しているものと考えることに疑問がある。あるいは、そもそも語り手が母親と直接会って命名の件を聞いたのだとすると、この説明は成り立たない。
cは、単に「孫の誕生」ではなく「命名」の件を母親から聞くことと連想の因果関係が明確でない。「孫の誕生」→「老齢」の連想ならわかる。だがここでは「命名」→「老眼鏡」という連想である。この因果関係はやはりよくわからない。
そして、a、b、cいずれも③に続く脈絡が不明で、②の内容がこの詩の中に置かれている充分な理由を説明してはいない。
また、a、b、cの解釈は「老眼鏡に」焦点があっている。それに対してd、eは、「老眼鏡」そのものではなく、それが「はじめてのおくりもの」であったという点に重心が置かれている。つまりa、b、cでは「老眼鏡」の出自は問題ではなく、単に「ノブコちゃん」が買ったものでもかまわないことになる。それに対してd、eでは「おくりもの」がたとえばネッカチーフなどでもかまわないことになる。
どう考えるべきなのか。
d、eは「はじめてのおくりもの」であったという点から連想の機制を説明しようとしている。それぞれなかなか巧みな考察であり、授業では称賛に値する。だが筆者の考えでは、これはいわば考え過ぎである。そうだとすると、そうした読みに読者を誘導する情報が、ほかに詩中に示されるはずだからである。それが書かれていないことが不自然だと感じられるのである。
ではなぜ「おれ」は「はるか」という名から「老眼鏡を 思い出した」のか。
続く
2016年10月7日金曜日
辻征夫「弟に速達で」の授業1-「おばあちゃんとは」の謎
平成26年度から高等学校で使用されている明治書院の「高等学校 現代文B」を、本校では昨年度から採択している。27年度の3年生が1年間だけ使って、その下の学年は2学年から使っている。今年はその学年が3年に進級して、こちらはもう一度3学年の授業を受け持ち、同じ教科書でもう一度授業をすることになった。
そして今年の1年生が来年から2年間使って、それでこの教科書は改訂となる。
昨年の授業で手応えを感じたいくつかの教材について、昨年度の終わり、3月から4月にかけて、まとめてみようと思い立った。昨年の今頃には、そんなつもりはなかったのだが。
それは、教材の汎用性の乏しさにもよる。それらの教材は、この教科書の、この版にしか収録されない可能性の高い教材だろうと思われる。
だが今年、もう一度授業をしてみて、まだ2年は使われる可能性のあるこの教科書の教材を使った授業について、やはり記録にとどめておこうという気になった。二つの学年で扱ってみて、やはりやるに値する教材であり、授業であると感じたからだ。
以下、辻征夫「弟に速達で」、恩田陸「オデュッセイア」、小川洋子「博士の愛した数式」を取り上げた授業について、2年分の知見をもとにまとめてみる。
最初は、昨年、「永訣の朝」をとっかかりに目覚めてしまった詩の授業である。
弟に速達で
辻 征夫
さいきん
おばあちゃんにはあったか?
おばあちゃんとは
ノブコちゃんのことで
ははおやだわれわれの
まごがうまれて
はるかという名を
かんがえたそうだなおばあちゃんは
雲や山が
遠くに見える
ひろーい感じ
とおばあちゃんは
いったのか電話で
おれはすぐに
すこしゆるゆるになったらしい
おばあちゃんの老眼鏡を 思い出した
あれはおれが 三十才で
なんとか定職についたとき
五回めか六回めかの賃銀で買ったのだ
おれのはじめてのおくりもので
とてもよろこんでくれた
なにしろガキのころから
しんぱいばかりかけたからなおれやきみは
じゃ おれは今夜の列車で
北へ行く
はるかな山と
平原と
おれがずっとたもちつづけた
小さな夢を
見てくる
よしんばきみのむすめが
はるかという名にならぬにしろ
こころにはるかなものを いつも
抱きつづけるむすめに育てよ
北から
電話はかけない
辻征夫「弟に速達で」を授業で取り上げて何ができるか。
そもそも国語科の授業で、ある教材を読むことの意義は、ともかくも生徒がそれを読むという機会を作る、というだけで既に存在する。だから、韻文でも散文でも、詩でも小説でも評論でもコラムでも、読むだけでも意味はある。
さらにそれ以上に授業に意義があるとすれば、一人で読むのとは違った何らかの認識の発展が生徒の裡に起こること以外にはない。「弟に速達で」を授業で取り扱うと、一人で読むのとは違った、どのような認識が、どのような過程を経て生徒の裡に生成されるのだろうか。
授業で読み込むまで、個人的には、この詩に、とりわけてわからないところはない、と思っていた。そして何かしら好もしい印象を抱いた。
全ての教材が、特別な解釈を必要としているわけではない。ただ読めば「わかる」文章もある。読者それぞれにその文章を受け止めればそれでいい、といったような。
それでも、素直に感じた印象を言葉にしたり、その印象がどのような作用で成立したのかを分析したりすることも、国語科の授業としては有益である。微妙な感情を他人に向けて表現すること、その感情と言語の関係について考察すること…。
だが「印象」はあくまで個人の内的なものであり、その分析は、その印象を抱いた人自身がするしかない。どんな感じ? と聞いて生徒自身にその印象を語らせ、どこからそんな感じがした? とその機制を分析させる。
もちろんそれは容易なことではない。難しければ、例えば教師自身がそれをやってみせるだけでもいい。
この詩には、ユーモラスな感じと、クールな格好良さがあると思う。そうした印象を感じさせる要因を思いつくまま挙げてみる。
「ははおやだわれわれの」の、不自然に平仮名ばかりの表記や、一字空けにすらしない倒置法をぬけぬけと読者の前にさらすふてぶてしさ(同様の詩行が何カ所もある)。
「ははおや」を「ちゃん」付けで呼びながら弟に「きみ」と呼びかけること。
「ひろーい」「ガキ」「じゃ」といったくだけた口調。
夢を見るために北へ向かうという子供っぽさと「電話はかけない」と言い切ってすっぱりと詩を断ち切る鮮やかさ。
こうした、詩の「印象」と「分析」を語る行為は、有り体に言えばいわゆる「鑑賞」であり、それは本来、詩を書くことと同じくらい創造的なことだ。どうしようもなく、それを語る人自身が問われてしまう。恐ろしくて、そうおいそれと一高校教師にやれるものではない。我々は国語の授業を主催する者ではあるが、創作家ではない。
そうではなく、何か語ることがあるとすればそれは作家の伝記的事項だったりするのだろうが、高校生に「辻征夫」がどんな詩人で、文学史的にどのように位置づけられるか、などと語ることにとりたてて意味があるとも思われない。あるいはこの詩がいつごろ、どのような状況で創られたものかを知ることは、いくらかはこの詩の理解に資するところがあるかもしれないが、そのようにしてこの詩を理解することはそもそもそれほど意味のあることでもない。右のような「鑑賞」も、なんら「教える」べき内容でありはしない。
だから詩を読む。テキストから得られる情報を検討する。するとわかったつもりになっていた詩句にも新たな発見がある。教師自らが読み返しながら更新されていく「読み」を意識化して授業として展開する。読んでわかること以上の認識を生徒の裡に生成するために「問い」を仕掛ける。
一読後、右の「印象」以外に最初に問うのは、ここに登場する人物の関係である。
「一読」だと、この関係がすんなりわかる者とわからない者に分かれるから、話し合いをさせる。先にわかった者がわからない者に説明する。わかった者の自尊心を擽る。
一読ではわからなかった者がいるとしても、ここまではすぐに「わかる」べきことである。「問い」によって、ここまでの理解を揃える。
問題は次の問いである。
そして「わかる」ことによって見過ごされてしまう。
三行目「おばあちゃんとは」は、よく考えると奇妙である。「おばあちゃん」が誰のことを指しているかが相手にとって必ずしも明確ではなく、誰のことかを特定する必要がある、という場面は特殊である。聞き手が「どこの老婦人のことだ?」と思うような文脈で「おばあちゃんにはあったか?」などと聞いたりは普通しない。
だが読者にとっては一行ずつが新情報であり、それを解釈していく中で、その不自然さに気づきにくい。「おばあちゃんとは」が、まるで読者に対する解説であるかのように受け取ってしまう。だがこの特定、言い換えは、我々読者のために必要だったわけではない。この詩句の読者とは、題名からして弟であるという設定だからである。
とすれば、言い直しが必要な理由は、「おばあちゃん」と言えば誰を指すのかが、ある程度は明確であり、なおかつ一応は確認する必要もある、という微妙な場面であるということだ。それはどんな場合か。
「祖母」と呼ばれる人は、通常は母方と父方の二人いるから、どちらの「おばあちゃん」かを特定する必要があるのだ、という意見が生徒から出る。
だがこれは無理である。「はるか」にとっての「おばあちゃん」とは「ノブコちゃん」ともう一人、弟の奥さんの母親である。だが、語り手にとっては彼女は血のつながらない他人だから、それを「おばあちゃん」と呼ぶとは考えにくい。
では「はるか」にとっての曾祖母が存命中ならばどうだろう。つまり「おれ」と「きみ」にとっての「おばあちゃん」と「はるか」にとっての「おばあちゃん」を区別する必要があったのだ、という解釈である。
これは論理的には可能な解釈である。だがそのように考えるのは不適切である。書いていないことを「論理的にはありうる」こととして想定していくと解釈の可能性は果てしなく拡散してとりとめがなくなってしまう。読者が自然な解釈をするために必要な情報は、基本的には作品中に書かれているはずだと考えるべきなのである。書かれている情報を整合的に包括する解釈を考えるべきなのだ。
では「おばあちゃんとは」という言い換えが必要な整合的で自然な解釈とは何か。
この「問題」はいささか抽象的に過ぎて考えるためにはとりとめがないから、必要に応じて誘導も必要かも知れない。たとえば「そもそも自分の母親を『おばあちゃん』と呼ぶのはなぜ? どんな場合?」と、わかりきったことをあらためて聞く。そう、孫がいる場合である。とすると…。
この言い直しが示しているのは、つまり「はるか」が「ノブコ」にとっての初孫なのだということである。
今までこの兄弟の間では、母親を「ノブコちゃん」と呼んできた。だが孫が生まれると、日本人の家族間呼称の習慣に従って、「ノブコちゃん」は今後「おばあちゃん」と呼ばれるようになる。とりわけここでは、この後で「まご」が話題に上るから、その力学で「ノブコちゃん」は「おばあちゃん」として話題に登場する。
だがその呼び名はまだこの兄弟には馴染みがなく、一応確認が必要に感じられているのである。
そこから、語り手には子供がまだいないこと(既婚/未婚の別は不明だが)、「はるか」に兄姉はいないこともわかる。語り手と弟に他に兄弟がいるかどうかは不明だが、彼らにも恐らく子供はいないということになる。
この詩は、初孫の誕生にあたって、名前を考える老婦人について、その息子が、もう一人の息子に書き送った手紙、という設定なのである。
こうした読解は、一読後ただちに読者に了解されるわけではない。上記のような問いによってあらためて考えなければ、読者の裡に生成されはしないはずの読みである。
さて、昨年の授業で思いついたのはここまでだった。
だがその時から気になっていて、その後、考えているうちに自分なりに答えにたどり着いたと思えた点があって、今年はそこまで授業を展開できた。
次のような疑問である。
この項、続く。
そして今年の1年生が来年から2年間使って、それでこの教科書は改訂となる。
昨年の授業で手応えを感じたいくつかの教材について、昨年度の終わり、3月から4月にかけて、まとめてみようと思い立った。昨年の今頃には、そんなつもりはなかったのだが。
それは、教材の汎用性の乏しさにもよる。それらの教材は、この教科書の、この版にしか収録されない可能性の高い教材だろうと思われる。
だが今年、もう一度授業をしてみて、まだ2年は使われる可能性のあるこの教科書の教材を使った授業について、やはり記録にとどめておこうという気になった。二つの学年で扱ってみて、やはりやるに値する教材であり、授業であると感じたからだ。
以下、辻征夫「弟に速達で」、恩田陸「オデュッセイア」、小川洋子「博士の愛した数式」を取り上げた授業について、2年分の知見をもとにまとめてみる。
最初は、昨年、「永訣の朝」をとっかかりに目覚めてしまった詩の授業である。
弟に速達で
辻 征夫
さいきん
おばあちゃんにはあったか?
おばあちゃんとは
ノブコちゃんのことで
ははおやだわれわれの
まごがうまれて
はるかという名を
かんがえたそうだなおばあちゃんは
雲や山が
遠くに見える
ひろーい感じ
とおばあちゃんは
いったのか電話で
おれはすぐに
すこしゆるゆるになったらしい
おばあちゃんの老眼鏡を 思い出した
あれはおれが 三十才で
なんとか定職についたとき
五回めか六回めかの賃銀で買ったのだ
おれのはじめてのおくりもので
とてもよろこんでくれた
なにしろガキのころから
しんぱいばかりかけたからなおれやきみは
じゃ おれは今夜の列車で
北へ行く
はるかな山と
平原と
おれがずっとたもちつづけた
小さな夢を
見てくる
よしんばきみのむすめが
はるかという名にならぬにしろ
こころにはるかなものを いつも
抱きつづけるむすめに育てよ
北から
電話はかけない
辻征夫「弟に速達で」を授業で取り上げて何ができるか。
そもそも国語科の授業で、ある教材を読むことの意義は、ともかくも生徒がそれを読むという機会を作る、というだけで既に存在する。だから、韻文でも散文でも、詩でも小説でも評論でもコラムでも、読むだけでも意味はある。
さらにそれ以上に授業に意義があるとすれば、一人で読むのとは違った何らかの認識の発展が生徒の裡に起こること以外にはない。「弟に速達で」を授業で取り扱うと、一人で読むのとは違った、どのような認識が、どのような過程を経て生徒の裡に生成されるのだろうか。
授業で読み込むまで、個人的には、この詩に、とりわけてわからないところはない、と思っていた。そして何かしら好もしい印象を抱いた。
全ての教材が、特別な解釈を必要としているわけではない。ただ読めば「わかる」文章もある。読者それぞれにその文章を受け止めればそれでいい、といったような。
それでも、素直に感じた印象を言葉にしたり、その印象がどのような作用で成立したのかを分析したりすることも、国語科の授業としては有益である。微妙な感情を他人に向けて表現すること、その感情と言語の関係について考察すること…。
だが「印象」はあくまで個人の内的なものであり、その分析は、その印象を抱いた人自身がするしかない。どんな感じ? と聞いて生徒自身にその印象を語らせ、どこからそんな感じがした? とその機制を分析させる。
もちろんそれは容易なことではない。難しければ、例えば教師自身がそれをやってみせるだけでもいい。
この詩には、ユーモラスな感じと、クールな格好良さがあると思う。そうした印象を感じさせる要因を思いつくまま挙げてみる。
「ははおやだわれわれの」の、不自然に平仮名ばかりの表記や、一字空けにすらしない倒置法をぬけぬけと読者の前にさらすふてぶてしさ(同様の詩行が何カ所もある)。
「ははおや」を「ちゃん」付けで呼びながら弟に「きみ」と呼びかけること。
「ひろーい」「ガキ」「じゃ」といったくだけた口調。
夢を見るために北へ向かうという子供っぽさと「電話はかけない」と言い切ってすっぱりと詩を断ち切る鮮やかさ。
こうした、詩の「印象」と「分析」を語る行為は、有り体に言えばいわゆる「鑑賞」であり、それは本来、詩を書くことと同じくらい創造的なことだ。どうしようもなく、それを語る人自身が問われてしまう。恐ろしくて、そうおいそれと一高校教師にやれるものではない。我々は国語の授業を主催する者ではあるが、創作家ではない。
そうではなく、何か語ることがあるとすればそれは作家の伝記的事項だったりするのだろうが、高校生に「辻征夫」がどんな詩人で、文学史的にどのように位置づけられるか、などと語ることにとりたてて意味があるとも思われない。あるいはこの詩がいつごろ、どのような状況で創られたものかを知ることは、いくらかはこの詩の理解に資するところがあるかもしれないが、そのようにしてこの詩を理解することはそもそもそれほど意味のあることでもない。右のような「鑑賞」も、なんら「教える」べき内容でありはしない。
だから詩を読む。テキストから得られる情報を検討する。するとわかったつもりになっていた詩句にも新たな発見がある。教師自らが読み返しながら更新されていく「読み」を意識化して授業として展開する。読んでわかること以上の認識を生徒の裡に生成するために「問い」を仕掛ける。
一読後、右の「印象」以外に最初に問うのは、ここに登場する人物の関係である。
Q 一聯から二聯の始めに登場する人物の関係を整理せよ。これを理解させたいわけではない。読み取らせたいだけだ。
A 「ノブコ」の息子である「おれ(語り手)」と「弟」、「弟」の娘(はるか?)黒板には家族図(樹形図)の形で板書する。
「一読」だと、この関係がすんなりわかる者とわからない者に分かれるから、話し合いをさせる。先にわかった者がわからない者に説明する。わかった者の自尊心を擽る。
一読ではわからなかった者がいるとしても、ここまではすぐに「わかる」べきことである。「問い」によって、ここまでの理解を揃える。
問題は次の問いである。
Q なぜ、一度「おばあちゃん」と言っておいて、それを「おばあちゃんとは/ノブコちゃんのことで」と言い直す必要があったのか。ここから何がわかるか。読者側から言うと、詩の各行を順番に読む中で、「おばあちゃん」と呼ばれる老婦人が「ノブコちゃん」と「ちゃん」づけで呼ばれることに驚きつつニヤリとさせられ、続けてそれが自分たちの母親だと言われてさらに驚く。「おばあちゃん」が「ノブコちゃん」なのも意外だが、母親を「ノブコちゃん」と呼ぶのもはなはだ突飛だ。驚きとともに一瞬混乱はするものの、だが母親を「おばあちゃん」と呼ぶ習慣は、日本人にはさして特殊なものではないから、二聯で「まご」が出たとたんに、先述の人間関係が、たちまち把握される。つまりこの詩行は、それなりに「わかる」。
そして「わかる」ことによって見過ごされてしまう。
三行目「おばあちゃんとは」は、よく考えると奇妙である。「おばあちゃん」が誰のことを指しているかが相手にとって必ずしも明確ではなく、誰のことかを特定する必要がある、という場面は特殊である。聞き手が「どこの老婦人のことだ?」と思うような文脈で「おばあちゃんにはあったか?」などと聞いたりは普通しない。
だが読者にとっては一行ずつが新情報であり、それを解釈していく中で、その不自然さに気づきにくい。「おばあちゃんとは」が、まるで読者に対する解説であるかのように受け取ってしまう。だがこの特定、言い換えは、我々読者のために必要だったわけではない。この詩句の読者とは、題名からして弟であるという設定だからである。
とすれば、言い直しが必要な理由は、「おばあちゃん」と言えば誰を指すのかが、ある程度は明確であり、なおかつ一応は確認する必要もある、という微妙な場面であるということだ。それはどんな場合か。
「祖母」と呼ばれる人は、通常は母方と父方の二人いるから、どちらの「おばあちゃん」かを特定する必要があるのだ、という意見が生徒から出る。
だがこれは無理である。「はるか」にとっての「おばあちゃん」とは「ノブコちゃん」ともう一人、弟の奥さんの母親である。だが、語り手にとっては彼女は血のつながらない他人だから、それを「おばあちゃん」と呼ぶとは考えにくい。
では「はるか」にとっての曾祖母が存命中ならばどうだろう。つまり「おれ」と「きみ」にとっての「おばあちゃん」と「はるか」にとっての「おばあちゃん」を区別する必要があったのだ、という解釈である。
これは論理的には可能な解釈である。だがそのように考えるのは不適切である。書いていないことを「論理的にはありうる」こととして想定していくと解釈の可能性は果てしなく拡散してとりとめがなくなってしまう。読者が自然な解釈をするために必要な情報は、基本的には作品中に書かれているはずだと考えるべきなのである。書かれている情報を整合的に包括する解釈を考えるべきなのだ。
では「おばあちゃんとは」という言い換えが必要な整合的で自然な解釈とは何か。
この「問題」はいささか抽象的に過ぎて考えるためにはとりとめがないから、必要に応じて誘導も必要かも知れない。たとえば「そもそも自分の母親を『おばあちゃん』と呼ぶのはなぜ? どんな場合?」と、わかりきったことをあらためて聞く。そう、孫がいる場合である。とすると…。
この言い直しが示しているのは、つまり「はるか」が「ノブコ」にとっての初孫なのだということである。
今までこの兄弟の間では、母親を「ノブコちゃん」と呼んできた。だが孫が生まれると、日本人の家族間呼称の習慣に従って、「ノブコちゃん」は今後「おばあちゃん」と呼ばれるようになる。とりわけここでは、この後で「まご」が話題に上るから、その力学で「ノブコちゃん」は「おばあちゃん」として話題に登場する。
だがその呼び名はまだこの兄弟には馴染みがなく、一応確認が必要に感じられているのである。
そこから、語り手には子供がまだいないこと(既婚/未婚の別は不明だが)、「はるか」に兄姉はいないこともわかる。語り手と弟に他に兄弟がいるかどうかは不明だが、彼らにも恐らく子供はいないということになる。
この詩は、初孫の誕生にあたって、名前を考える老婦人について、その息子が、もう一人の息子に書き送った手紙、という設定なのである。
こうした読解は、一読後ただちに読者に了解されるわけではない。上記のような問いによってあらためて考えなければ、読者の裡に生成されはしないはずの読みである。
さて、昨年の授業で思いついたのはここまでだった。
だがその時から気になっていて、その後、考えているうちに自分なりに答えにたどり着いたと思えた点があって、今年はそこまで授業を展開できた。
次のような疑問である。
Q なぜ語り手は「おばあちゃんの老眼鏡を 思い出した」のか。
この項、続く。
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