2018年2月12日月曜日

『ニンゲン合格』-これで「合格」と言われても

 比較的初期の作品だが、観始めてすぐに既視感を覚えるほどに黒沢演出のリズムはこの時期、既に確立している。10年の昏睡から覚めてリハビリを始めた主人公が、次のカットではスイスイと歩いている、物事の始まりか途中を見せて、その後で時間を飛ばしてテンポよく展開を見せる。
 が、ドラマ的にそれはどうなのか。どうみても10年の昏睡から覚めるという設定にリアリティを与えるようには描かれていない。事態の間の描写の欠落は、なんとなく洒落た感じを醸し出しつつ、実はリアリティの欠落にも通じている。
 まあ問題はそこではなくて離散した家族を取り戻すことなのだろう。長い昏睡から覚めるという特殊な設定から派生するドラマを描くことではなく、この映画で描かれるのは「失われた家族」なのだ。家族の象徴としての、かつて家族で経営していたポニー牧場の再建。もちろんそこにもリアリティはない。
 だから牧場の再建がリアリティをもっていないことを批判してもしかたがないのかもしれない。それが幻想であることは最後の崩壊によって自覚的に示されているのだが、それでいて「俺、存在した?」という主人公の科白とか「ニンゲン合格」という題名とか、あまりにあからさまで恥ずかしい。「存在した?」と問われて「お前は確実に存在した」と答える役所広司の演技がいくらうまくても、観ているこちらにはちっとも存在している気がしなかったし、これが人間として合格だと言われてもなあ、と。
 リアリティのある生活が描かれて、その上にちょっとしたお伽噺のトッピングがあるのなら、それが観る者の生きる糧にもなるものを。

 画としては、何とも言えず何とも言えないある「世界」を描き出すのがうまい監督ではある。「アカルイミライ」のエンドの妙な俯瞰による長回しも、この映画の最後の葬式の参列者を捉える微妙な俯瞰ショットも。
 「変な映画」としてやはり心に残るものの、それでやたらに有り難がるのも俗悪にも思える。

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