2019年5月24日金曜日

『ルーム』-幼児期への訣別と郷愁

 大した予備知識なしに、確か高い評価を得ていた作品だったはずだと思いつつ録画しておいたのだが、ちょっと最初の方だけ観てみようと思って観始めたら、遅い時間だったのにもかかわらず最後まで観てしまった。ものすごく面白かった。
 主演のブリー・ラーソンがアカデミー賞で主演女優賞をとっているというから、少なくともそのような人間描写がされている映画であることは間違いないという信用ができる。そういえばここ1年でも『アリスのままで』『ブルー・ジャスミン』とアカデミー賞主演女優賞映画を2本観ていてどちらもすこぶる面白かったのだった。『グリーンブック』のマハーシャラ・アリの助演男優賞受賞も、確実にそうした人間が映画の中に描かれていることは間違いないわけだ。それだけでも映画全体のドラマ性が評価ができるはずだ。
 とはいえ、『ルーム』に関して、恐るべきはジャックを演じた子役のジェイコブ・トレンブレイだった。この映画については、彼に感情移入することが最大の感動的映画体験だ。
 狭い「部屋」に閉じ込められた母子の生活を追う前半の展開から、徐々に事情が観客に明かされていく。母はティーンエイジャーだったときに拉致されて納屋に監禁され、そこで子供を生み、その子ジャックが5歳になったところから映画が始まっているのだった。
 母親が子供に語ることでそうした事情が観客にもわかるようになるのだが、そうした事実を子供は受け容れ難い。世界の変化に対する本能的な恐れである。粘り強い説得を通して、母は脱出計画を実行する。
 ジャックによる脱出の実行が前半の山場で、これはこれですこぶるサスペンスフルであり(ジャックを助ける警官の判断の的確さ、迅速さも心地良い)、そしてすこぶる感動的でもある。「世界」が一気にひろがる感覚である(今すぐに連想されるのは旧アニメ版『冒険者たち』で密航の翌日に甲板からガンバが初めて海を見る場面や、『進撃の巨人』の主人公たちが初めて海を見る場面や、『暗いところで待ち合わせ』小説版の、主人公が外に出る場面などだが、こうした感動は探せばあちこちの物語から拾えるに違いない)。
 だがここがまだ映画の半分ほどの時間であることに不審を覚える。あと半分は何を描くのだろう?
 もちろん、7年振りに戻る日常への復帰は容易なことではないのだ。肉体的にも精神的にも、社会的にも。本人にとっても家族にとっても。様々なものが失われたことを知らされ、それを受け入れていかなくてはならない。そうした困難を描くのが後半の展開であり、そこでは母親の苦悩とともに、子供が外の世界に適応していく様子が描かれる。
 そして物語最後に、もう一度「部屋」を訪れた際に「この部屋縮んだの?」とジャックが言うのは、ベタなセリフではあれ、これは間違いなく実感なのだろうとも思う。
 そして思い至る。この映画の特殊で極端な設定によって我々が受ける感動は、実は普遍的な子供の「成長」に拠るものなのである。
 もちろん主演の母親が見事な人物像を成していたことは間違いないし、物語はそこにも充分な重みを置いているのだが、やはり感動の力点は息子のジャックだ。
 「部屋」が象徴しているのはしばしば「子宮」に喩えられる母子の密着状態であり、そうした子供時代から、子供は徐々に外の世界に触れ、それに適応していく。そこに広がる世界への冒険と、同時に幼児期への喪失感を伴う郷愁がこの映画の感動なのだ。
 最後の場面で部屋の中のさまざまなもの(洗面台・椅子・クローゼット…)に「さよなら」と告げるのは、冒頭にやはりそれらに「おはよう」と呼びかけていた場面と対になっているのだが、これは幼児期への訣別と郷愁を象徴する場面として実に感動的だった。
 そういえばうちの子供たちが小さかったときに、マーガレット・ワイズ・ブラウンの絵本『おやすみなさいおつきさま』をくり返し読んで聞かせたものだが、あれは子供にウケていたのか、親が気に入っていたのかわからない。今考えてみると、ナレーションが部屋の中のいろいろな物に「おやすみなさい」といいながら、頁をめくるたびに画面が徐々に暗くなっていくこの本は、世界が人間とそれ以外に分かれたれていない幼児の世界への郷愁に満ちていたのだった。 

2019年5月20日月曜日

『ラルジャン』-ついていけない

 ロベール・ブレッソンの遺作でカンヌ映画祭で監督賞というのだが、とにかくわからない。同年のカンヌ映画祭監督賞がタルコフスキーの『ノスタルジア』だというのだが、こちらが一向に古びたものと見えないのに、なんだが冒頭から大昔な感じがする。にもかかわらず映画は昭和末期、バブル経済までもうすぐの時期なのだ。なんだか時間感覚が混乱する。
 どうして役者にこんなに棒演技をさせてしかも画としても平板で、なおかつカットのつなぎもぎこちなく感じられる映画が何かすごいものと言われているのかちっともわからない。
 それでもいくつかの映画評に目を通してみるが、それらが衝撃を受けているポイントにちっとも共感できない。
 そしてなおかつ、そのように描こうとしているという意図がちっともわからない。そういえばこのわからなさは最近見たばかりの黒沢清だ。黒沢はもちろんブレッソンっぽさを意識しているのだろう。演技のつけ方にしろカットのつなぎかたにしろ。
 それでも、黒沢清のわからなさは多分意図的だから、わからなくてもいいのだろうと思わせもするのだが、ブレッソンの方はそう判断して良いのかもわからず、といって感情が動いたりもしない。
 くり返し見る必要があるのだろうか。

2019年5月19日日曜日

『グリーンブック』-ヒューマン・ドラマとして堂々たるエンターテイメント

 GW中に娘の住んでいる近くの映画館で観ようと試みた際は客席が予約で埋まっているという予想外の事態に断念し、あらためて家の近くの映画館で。こちらはさすが田舎というか、公開後二週間だからというか、遅い上映時間のせいか、まるっきりガラガラだった。
 さて、映画はなんと2本続けてこれもまた神保哲生と宮台真司の対談で先に聞いてしまっているのだった。そしてそれ以上の見方ができるわけではないのだった。
 だが映画の全体はそれでいいのかもしれない。これは確かに「そういう」映画だ。それは宣伝用の映画の紹介の時点でわかっていたことだ。
 半世紀ちょっと前のアメリカ、特に南部における黒人差別がテーマになっていて、一方に、自身もある程度は差別される立場にあるイタリア系移民トニーと、高度な教育を受けた黒人ミュージシャン、ドンの友情を描く。もうこれだけである。ただそこにLGBT問題まで絡めるとは思わなかったが、そこまでやって、いかにものアカデミー作品賞だ。
 そして、これは後からわかったのだが、監督はコメディ作品が得意な監督なのだそうだ。なるほど、2時間を超える映画で、始終笑えた。しかもそれはギャグというよりもハートウォーミングな笑いで。
 最初の爆笑は、車の中で「本場」ケンタッキーフライドチキンを食べるところ。手掴みでフライドチキンを持つのを嫌がるドンにトニーがチキンを押しつけるのは、悪気のないトニーの無神経さと無邪気さで、それに釣られて、まあ悪くないと思わされるドンの変化もいい。骨を窓から投げ捨てるのが「決まり」だというのに釣られていく感化もいい。そういう映画だ。
 だが空容器を投げ捨てるのを見てギョッとするのは観客だけではない。ある意味では「自然物」である鳥の骨と違って、それはアリなのか? との疑念が湧いたところでドンの呆気にとられた顔でカットが変わって、バックしてきた車のドアが開いて、そのゴミを拾う。
 さすがにそれは許さないドンと、そのこだわりには従わざるを得ないトニーが、そうしてお互いに妥協点を探りながら、お互いが変わっていくのだ。
 このエピソードには伏線がある。SAの無人売店で売り物の石が地面に落ちているのをトニーが拾い、それをドンが咎める、というエピソードが先に置かれているのだ。それは泥棒だと言うドンは、地面に落ちていたのを拾っただけだというトニーの主張を受け入れずに金を払いに行くよう命ずる。雇い主に逆らえずに金を払って戻ってきたトニーに、正しいことをする方が気持ちがいいだろう、と言うドンに対し、それじゃあ意味がないんだよと毒づくトニー。つまりトニーはその石が金を払ってでも買いたいのではなく、「落ちていたのを拾っただけ」という言い訳で自分の物にできる「得した」感を得たかっただけなのだ。
 このドンの妥協なき潔癖感があって、車を戻してのゴミ拾いがある。不満気なトニーの顔も文句も想像できるが、それは映さない。その演出の見事さに笑わされつつも正しいことが行われることはドンの言うとおり「気持ちが良い」。
 そしてその石の方も、二人の友情の証として最後まで重要な小道具として使われる。アカデミー賞では作品賞と共に脚本賞も獲っているのも納得の、実にうまい語り口だ。

 一方、アメリカでは「白人の救世主」「マジカル・ニグロ」といったステレオタイプの物語であるとの批判があるそうな。なるほど、日本人には意識しにくいが、アメリカ映画的な文法に馴染んでくるとそうした見方ができ、なおかつそれが意識しにくいという問題があるのか。
 だが、そんなステレオタイプとしてドンとトニーを捉えるには、二人とも血が通ったキャラクターとして魅力的でありすぎる。そもそも「白人の救世主」と「マジカル・ニグロ」は同居するものなのか? 矛盾するんじゃないのか? 一方だけが描かれる時が問題なんじゃないのか?
 『チョコレートドーナツ』でも、その時代のゲイ差別はこんなにひどかった、という糾弾が現代の我々の鑑賞にほとんど関係がないように、アメリカの人種差別が背景にあっても、それは知識としては必要だしこの映画を通した学びもまたあるのだが、これらの映画はそうした社会批判的視点によって感動的なのではなく、もっと普遍的なものだ。
 お互いに距離を縮めながら変わってゆく二人が友情を結ぶ。それを周囲が許容する。実にわかりやすく幸せな映画なのだった。

 ところで、主役の一人、ヴィゴ・モーテンセンは『ロード・オブ・ザ・リング』の時は、まるで『ウォーキングデッド』のダリル(ノーマン・リーダス)かと思わせるロン毛のイケメンだったのだが、こちらはまるでピエール瀧だった。ほんとうにそのままピエール瀧が演じても良さそうな人物だった。 

2019年5月18日土曜日

『ハドソン川の奇跡』-期待通りであることのすごさ

 「ハドソン川の奇跡」として知られる、航空機のハドソン川着水事故後の顛末を描く。
 先に神保哲生と宮台真司の対談で聞いていたので、映画の見方もそれに沿ったものになってしまい、期待通りではあるのだが、それ以上に心揺さぶられるというようなこともなかった。
 だが期待通りに面白いというのはすごいことでもある。
 『大空港』的な航空パニック&「グランドホテル」物として観られる部分ももちろんあるのだが、それよりも中心は主人公の職業意識であり、そのような人物像が不足なく描かれているだけで大成功である。原題の『Sully』は機長の愛称なのだった。
 中盤がその不時着の顛末なのだが、同じ場面がクライマックスでもう一度再生される。国家運輸安全委員会の公聴会で、ドライブレコーダーの音声を聞く場面に合わせて、同じ映像をコラージュするのだ。最初は「あれっ? 同じ映像だ、さっきと」と戸惑って、この構成は瑕疵なのではないかとも思えたのだが、考えてみるとそのようにしかできないのかもしれない。
 中盤でその顛末を描くときには、離陸前から始めて乗客などの抱えるドラマまで描き、事故後の救出活動まで充分に見せ、映画的にも一定の見せ場を作っておく。
 そして問題の208秒(離陸してから不時着まで)がどのような意味を持つかについてあらためて観客に報せるには、もう一度同じ場面を見せる必要があるのだ。
 一度目は、全員救出という事故の結果を知ってしまっている以上、言わば観客は気を抜いている。サスペンスも半減である。
 だがそうした結果に至るには機長のプロとしての判断と技術と、副機長の協力があってこそなのだ。それが結果から見た予定調和としてではなく、「それは本当に正しかったのか」という審判の場において見直される必要があったのだ。
 満足度の高い作品である。

『ホットロード』-残念な映画化

 尾崎豊とは同世代だが、デビュー時からああいう感性が嫌いだった。なのに、支持層を同じくするだろうと思われる紡木たくの作品には激しく心揺さぶられてきた。
 そこに能年玲奈である。期待など微塵もしていないが、いわば落とし前をつけるように観てみる。
 それにしても尾崎豊支持層が、今のEXILE TRIBE支持層につながっていることを今更ながら思い知らされるのだが、その間に連続性はあったのだろうか。意識していなかったから実感としてわからない。
 そしてもちろんEXILE TRIBEに対する共感も関心も微塵もないから残念ながら面白くはない。原作の、関心のない部分でできている映画だった。もちろんそういうのを求める層があるのならしょうがないのだが。
 それにしても能年がそうした支持層に嵌まるのだろうか。無理があるとしか思えなかったが。
 紡木たくの作品の魅力は、この世代の「どうしようもなさ」を自覚的に描いていることがわかるところだ。視点の多角性と主人公たちの感性にのめりこむように繊細に描くことと同居している。そうした視点があってこそ、まるで共感のできない尾崎豊的感性も、ようやく許容できる(本当に尾崎豊的なのかどうかは実はわからないが)。その時、その切羽詰まった息苦しさや切なさにも共感できるのだ。
 映画では利重剛の演ずる教師にわずかにその視点の多角性が託されているが、いかんせん分量として足りず、むしろその視点すら主人公側からは「あちらがわ」として描かれているように感じる。原作では、作者がそうした多角的な視点から物語を捉えていることが充分わかるからこそ、主人公たちの認識がいたずらに視野の狭いものであることから救われているのに。
 ということで予想通りであり、能年玲奈という才能+この時期の可能性が可惜失われていくここ数年が残念でしょうがない。

2019年5月9日木曜日

『蛇の道』-映画的面白さはあるが

 『蜘蛛の瞳』とセットで1枚のBDに収録されているのでお得感がある。企画としてもシリーズなんだろうと思わせるし、主人公の哀川翔が同じ名前で、しかも娘を殺されているという設定も同じ(まるで同じ世界というわけではないが)。
 さてこちらの相方は香川照之で、冒頭から上手い上手い。恍惚となった表情やらそこから現実に引き戻される表情やら徐々に狂気に囚われていく表情やら。もちろんやり過ぎ感はある。だがそこまで含めての芸の力として楽しめる。一方の哀川翔は終始無表情で、これは人物造形がそうだからいいのだが、二人の演技力に相応な人物造形ではある。
 香川照之演じる男の娘が殺されて、その復讐を哀川翔が手伝っているのだが、最後には、闇組織のスナッフ・ビデオ撮影によるものだったらしいことが示され、香川照之もその組織の末端であったらしいこと、哀川翔の娘もその犠牲になったらしいことが明かされる。哀川翔の行動動機も、その復讐のためらしいということらしい。
 だがこうした大筋はともかくとして、やはりわからない要素がそこらじゅうにちりばめられるのは毎度の黒沢節だ。もちろん最も目立つのは、哀川翔が「仕事」と称している私塾のような活動で、何だか訳のわからない数学だか物理だかの問題を解いているのだが、ここに表れる天才少女がことさらに印象的に描かれているのがわからない。殺された子供たちと関連させて理解すべき何かの象徴なのかと考えるべきなのだろうと思いつつ、考えることに甲斐があるかどうかわからず。
 それでもあのわけのわからない方程式描写を採用するにいたった脚本の高橋洋的、監督の黒沢清的納得があるはずではある。それが純粋に「解釈を拒む」という意味でのナンセンスなのかどうかが確信がない。

 ところでお話としてはわからないところがいっぱいあるものの画的な面白さ、映画的な面白さは『蜘蛛の瞳』同様にあちこちに見いだせる。
 冒頭の坂道からしてすでに何だか不安定でどきりとする。車が移動するにつれて展開していくカーブの風景とか。
 廃工場や、大きなタンクに挟まれた細い道に車が入っていく画とか。そういえば『蜘蛛の瞳』でも坂道は何度も印象的に登場したし、林の中を駆けていく登場人物を移動カメラで追ったシーンは見事だった。
 そういうのを楽しめば良いのか? 黒沢映画。

2019年5月7日火曜日

『蜘蛛の瞳』-結局妄想なのか?

 借り物のBDを予備知識なしに観始めると、なんとなく演出やら編集やらのリズムに覚えがある。なんだこれは、と思って途中で止めて調べてみるとやっぱり黒沢清だった。とはいえ、寺島進やら大杉漣やらの出てくるヤクザ映画だから、北野武的でもある。ダンカンも重要な役どころだし。
 というか、場面とか物語的な展開の唐突さが北野的でもあり、黒沢的なのだった。映画中何度も、あ、結局殺しちゃうのか、となる。この唐突さが北野映画の「映画的」なところではあるのだろう。異化効果と言ってしまえば何でもありという感じでもあるが。
 さて、面白かったかというと微妙なところではある。この違和感がどのように自分にとって必要な感覚なのか。多分、割り切れる解釈を可能にしてはいないのだろうから、あんまり考察してもしょうがないのだろうと思うのだが、ではこの訳のわからなさをどこまで受け止めるべきか。よく考えられたうえでそのように描かれているのなら考える甲斐もあるのかもしれないが、たぶんそれほど意味はない。
 冒頭で主人公が、娘を殺された復讐のために誘拐犯を拉致して拷問し、殺して埋めたらしい様子が描かれるが、人体らしき、布を被せた人体大のテルテル坊主様の物体が、主人公を脅かすようにしばしば画面に登場する。それ以降の悲惨な展開も、この潜在的不安が導因となっているように見える。
 ところがあらかたの登場人物が死ぬと、主人公は日常に(以前とは違う形ではあれ)復帰するように見え、それとともに、殺して埋めたはずの、娘の誘拐犯が生きていることが示され、テルテル坊主の布がはずれて中から棒杭が表れる。
 これはそこまでの展開が妄想だったことを示しているように見えるのだが、途中の展開が、振り返ってみればそう描かれていると思えるようには描かれていない。結局なんなんだ?

 主人公の哀川翔ありきの企画なのかも知れないが、何をやっても哀川翔にしか見えないこの演技力のなさをどう評価すればいいのか。浅野忠信が評価されるのがわからないのと同様のわからなさ。演技の「うまさ」とは別の存在感というのだろうが、わかったようなわからんような。

2019年5月5日日曜日

『君よ憤怒の河を渉れ』-またしても謎のトンデモ映画

 原作の西村寿行は中高生の頃に好んで読んだ小説家のひとりだという思い入れがあったり、高倉健の映画はなるべく観ておきたいとも思ったりして録画したのだが、いやはや。やれやれ。
 見終わってから調べてみると、中国で8億人(!!)が見たとかいう、数字は信じ難いがまあそれなりにヒットしたのだろうという映画なのだった。数が信じ難い以上に、このトンデモ映画が、どういうわけか結局作られてしまうのが毎度の映画産業の不思議なのだった。
 どうにかして面白くしようとしてうまくいかない、というそれなりに事情のわかる(『稀人』のような)パターンと違って、こんな馬鹿げた誰かの思いつきをなぜ誰も止められなかったのかがわからないという不思議。
 ツッコミどころが満載なのはネット上でさんざん言われ尽くしているので繰り返すのも空しい。
 にもかかわらず、健さんや原田芳雄や中野良子が素晴らしい演技を見せているのは驚くべきことだ。演出がひどいと、良い役者でも良い演技ができないという例は枚挙に暇ないのだが。
 物語を支配している論理が人間を浅くしか捉えていないと、描かれる人間も浅くなってしまう。
 だというのに中心となる3人は、物語上の人物造形がいかに浅くても、そこにそういう人物がいるのだと思わせる自然な演技や、思いがけない微妙な感情の発露をを手堅く実現したりする。
 それだけでも観る価値はあったとまでは言わない。やはりどうにもくだらない。よもや原作(未読)はこんなことにはなっていまいな。

『稀人』-頭でっかちの観念映画

 いくつかの気になっているアニメにかかわっている小中千昭の脚本で、本人のサイトでも特別な扱いになっている作品でもあり、清水崇が監督ならば観る価値があるかと思ったのだが、結果的には大した価値はなかった。
 恐怖とは何か、がテーマになっているらしいのだが、恐怖とは何かを考察するホラー映画というメタ構造が何かしら映画的に効果的かというとそういうわけでもなく、退屈なナレーションが大量に投入されるばかりで、画で見せる魅力には乏しい。考察も、何かしら興味深いところに届いているとも思えず。
 といって、小中がこだわっているらしいクトゥルー神話やカスパー・ハウザーなどのモチーフそのものに心惹かれるでもなく。
 唯一心を動かされたのは、わけのわからないトンデモ話だと思っていたらそれが主人公の胡乱な認識による現実の事態のある写し絵かもしれないという可能性が示される瞬間だが、しかしそれもナレーションによって示されるばかりで、この辺りも映画としてやはりチャチい。惜しい。低予算だからしょうがないというべきか。アイデアが足りないというべきか。

 それにしてもサイトの小中の文章を見ると、作者は作品に対して距離を作るのが難しいんだなあ、とあらためて思わされる。なんだか作者と映画の主人公(塚本晋也がハマっている)が重なって見える。作品の現実が見えておらず、そこに思い入れを重ねて見てしまう。
 このテイストなら、頭でっかちにしか感じられないこの映画より白石晃士の方がよほど「狂気」を感じさせて面白い。