2019年6月30日日曜日

『リップヴァンウィンクルの花嫁』-映像と人物造型、そして物語

 観終わってから、感想を書くのが気重で、ずいぶん時間がかかってしまった。まともな感想になる気がしなかったからだ。どうも感想が形にならない。結局今も。
 岩井俊二は、初期のテレビドラマがどれも文句なしに「面白い」と言って済ませられるのに比べて、『スワロウテイル』以降の映画はどれも、それをどう受け止めて良いのか、割り切れるような理解ができない。とりわけ『リリィ・シュシュのすべて』と本作。
 映像的には、毎度、これがなぜ「良い画だ」と思えるのかわからないが、そこここに良い画が表れる。うまいなあと感心する。編集のテンポも多分そうなのだろう。必ずしも奇を衒っているとも思えないのに、なぜこう毎度手触りの良い映画的な画面が連続するのか。
 もちろんそれは環境ビデオのような風景描写ではなく、人間が現れて演技をしている「物語」部分においてこそだ。それだけ、人間を描くのが巧みだということだ。とりたてて重厚な人間ドラマを見せるわけではないのだが。
 本作の綾野剛やCoccoの見事な演技も、いかに本人たちが良い役者だとはいえ、演出がだめならこうは見えないはずだ。今まで大根だと思っていた黒木華さえ、今回はうまいと思った。
 それでも、この物語をどう受け止めて良いのかがよくわからなくて感想が言いにくいのは依然として変わらない。たぶん、さまざまなことをくぐりぬけて、主人公はこれから前向きに生きていきます、といった終わり方なのだろうとは思うが、それがどういう種類の解決なのか、成長なのか、よくわからない。その前の様々な展開がどう作用しているかもわからない。多分まとまったことを言うためには本格的な考察が必要で、それでも成功するかどうかわからない。
 とりあえずCoccoと、その母親を演じたりりぃのキャラクターが際立って印象的であることは言を俟たないが、その痛々しい人物造型が、岩井の脚本に拠るのか演出に拠るのか、本人たちの演技に拠るのかがわからない。もちろんどれもであるのだろうことは疑いない。
 綾野剛の、正邪両面を見事に兼ね備えた人物造型も。
 映像が良くて、人物造型が印象的で、これでもう充分? いやいや、物語がどうも評価できずに、記事にするふんぎりがどうもつかないのだ。

 野田洋次郎が、スナックみたいな店でピアノを弾くために一瞬映るのと、『カメラを止めるな』で全面に出てきた「無名」俳優が、本当に一瞬だけ映ったのは、観ながら思わず「あっ!」と言ってしまった。

2019年6月16日日曜日

『キングコング:髑髏島の巨神』-怪獣映画のバランスの悪さ

 『君の名は』を観に劇場に行ったときに予告編を観て、こういうの、映画館で観ると楽しそうだなあと思っていた。さて、テレビではどうか。
 まあそうなるとやっぱり脚本なんだよなあ。そこは残念ながら特別なものではなかった。先の展開に手に汗握るというようなことはなく予定調和で。というかむしろ予定調和的に手に汗握らされたが、まあ予定調和的には大団円になるのだろうと思うからそれほどのサスペンスはない。
 主役のトム・ヒドルストンがちっともかっこ良くないのも、本人のせいではなく演出のせいだし、物語のせいだし、ヒロインのブリー・ラーソンも、別に何でもなかった。可憐だとか凜々しいとか。
 むしろキングコングが雄々しくてかっこいいのは狙い通りなのかもしれないが。
 怪獣映画は、ただもう逃げ回るしかない災害のようなものとして怪獣を描くか、戦うべき敵ととして描くかで物語の方向が大きく変わる。『シン・ゴジラ』は災害でありながら、日本国としてそれに立ち向かうというスタンスにリアリティがあった。
 一方『モンスターズ』や『トレマーズ』などは、現実的な対抗手段を工夫する余地があった(そもそも怪獣としても適度にサイズが小さい)。
 このあたりはゾンビ映画で、ノロノロゾンビか走るゾンビかという選択にも関わる問題だ。対抗するなら対抗すべく釣り合った要素を人間側に用意しないとならない。ノロノロゾンビなら工夫次第で生き延びられそうだという期待を、走るゾンビならば、とにかく逃げるサスペンスを。
 だがキングコングほどの怪獣で、かつ孤島に孤立した部隊では、立ち向かいようもないことが明らかなのに、それでも戦う気満々な男たちを描くから、見ていてそのリアリティのなさにがっかりしてしまう。怪獣が、災害として逃げ回ることしかできないような対象として描かれていることと、人間の振る舞いが物語の論理として撞着しているのだ。
 そういう意味でこの怪獣映画のバランスの悪さには残念に思わずにいられない。
 こういう据わりの悪さは、スーパーマン映画で、スーパーマンのすごさを描くほどに、人間の振る舞い方にリアリティがなくなる問題とか、「ディストラクション・ベイビー」が「暴力の狂気」を描くことに失敗している件などと同じだ。

2019年6月10日月曜日

『関ヶ原』-ドラマとして見られない

 ここ3年くらい、原田眞人の作品にはいつも感心させられてきたので、これも見られるんだろうというくらいの期待はしていた。題材的には、教養講座のような関心はあるが、作品として見たい! というほどの興味はなく。
 さて始まってみると、期待通り上手い上手い。秀吉役の滝藤賢一がこんなに上手い役者だとは知らなかったが、これも確かな演出力あっての演技なんだろうと思わせる。役者の所作も切れがあるし、画面の重厚感も、安心の原田眞人品質だ。
 にもかかわらず、『日本のいちばん長い日』『突入せよ あさま山荘事件』のように、大きな事件に関わる人々のそれぞれの動機や必然が絡み合う物語としての重厚感が感じられない。
 主人公の石田三成の言う「義・正義」がわからない。わかるように描かれているのを読み取れないだけなのか? 描かれているように感じないのだが。その裏返しとして、対抗する徳川家康の論理に一理を感じないのも。
 おまけに、ヒロインに有村架純を迎えるのは興行的にはしかたがないのだろうし、悪い役者ではないのだが、いかんせん、関ヶ原という大事に臨んで、石田三成が一女忍者にこだわっているバランスの悪さが、見ていてうんざりしてしまうのだった。
 ネットでの評価に頻出するように、とにかく合戦の趨勢と各軍勢のせめぎ合いの論理がわからないことも、どうにも大きな瑕疵であることを否定しがたいのだが、なにより主人公の人物像がわからない上記二つの欠点が覆いようもなく、人間ドラマとして見られなかった。

2019年6月4日火曜日

『ミックス』-古沢良太はどこへ行くのか

 前作『エイプリルフールズ』があんなだったから期待はしていなかったが、『キサラギ』評価に対する落とし前というような意味で観てみる。
 が、ちっとも面白くない。「面白さ」がないというのは、ある意味では仕方がないともいえる。「面白さ」は個人的な感情で、それが喚起されるかどうかは幸運に頼るようなところがあるともいえる。
 だが、面白くなっているはずだ、という確信あるいは自信はあるべきである。ただでさえテレビでくり返しCMを流すような娯楽映画なのだ。「面白さ」を追求していない「芸術映画」ではないのだ。
 一方で「これは駄目だ」と思えるような安っぽさや志の低さは、意識して無くすことはできるはずだ。もちろんそれとてさまざまな制約との妥協の程度の問題でもあるのだが。
 さて本作は、まず古沢脚本に、ほとんど工夫の跡が見られない。ほんのわずかの伏線もないとは言わない。だが、2時間程度の映画を観ることの報酬として充分なほど、作り物を見せられる快感があるわけではない。物語は、まったくのところ予定調和であり、途中の紆余曲折、挫折、葛藤までが予定通りだ。
 そして演出もまた安っぽさ全開だと思ったら『エイプリルフールズ』と同じ監督なのだった。そしてテレビの『リーガル・ハイ』の監督でもあるのだった。
 これはやはり、テレビドラマに求められるノリと映画のそれは違う、ということなのか?
 例えばクライマックスの大会決勝戦の最後の場面、決勝点が相手に入って試合が終わり、主役の2人が静寂の中で見つめ合って抱き合って、それから観客の一人、遠藤憲一が立ち上がって拍手を送り出すとスタジアムの観客が次々とスタンディング・オベーションになる、という、およそ馬鹿げた演出を、どういう感情をもって見れば良いのだろうか。実際に感動的な試合の結末は現実のスポーツにいくらでもあり、それはこんな馬鹿げた演出のように起こったりはしない。決勝点が決まった直後、それが感動的ならば観客は直ちに大騒ぎしている。映画の観客はスポーツの試合の観客とは違うのか? 違う感動が映画の観客には期待されているのか?

 ということですっかりがっかりだったのだが、古沢良太、『デート』までは悪くなかった。『コンフィデンスマン』を見ていないのは、うっかりのチェックミスだ。問題は映画の方なのか? 『GAMBA』もひどかったし。