2020年4月27日月曜日

moumoonの「Sunshine Girl」

moumoonの「Sunshine Girl」が好きで、数年前にライブでやった。


当時はいろんなライブのバージョンを聞いたものだが、今日Youtubeのリコメンドでこれが上がっていたので聞いてみると、歌い方が随分変わっていて驚いた。


いや、これは良い。前のも良いが。
一段とウィスパーボイスになって。

2020版だとさらに。


でもギターの男性がお休みなのが残念。

うちで踊ろう



 休校が続くなか、生徒の話題作りにと、遅ればせながらコラボしてみた。

 最初に打ち込みのリズムトラックを作ったのだが、作ってみると、星野源の弾き語りはやはり相当にテンポが揺れているのだった。
 音源に合わせると、途中からテンポがかなり速くなってしまうのが、ドラムトラックであからさまになるので、テンポアップを抑えて、むしろ弾き語り音源の方をリズムトラックにあわせて加工した。それもやりすぎると、今度は映像と合わなくなるから、微妙に。
 ギターは、最初アドリブでイケないかとしばらく試してみたが、最後までミスなしで弾くことは到底無理だとわかり、結局アレンジを決めて練習した。

 演奏に使ったコード進行は以下の通り。

CM7      B7      Em9     G7  Db7-5
CM7      B7      Em9     G7
Am7  Bm7  Dm7/G

CM7  B7  Em9  G7   CM7  B7  Em9  G7
CM7  B7  Dm7  G7   CM7      F9-5

CM7  B7  Em9  G7   CM7  B7  Em9  G7
CM7  B7  Dm7  G7   CM7      F9-5

CM7  B7  F9-5

 コードはネット上にもいろんな分析があるが、それらを参考に自分でも耳コピをして。
 「F9-5」なども、サイトによって「F7#11」とか「B+/F」とかいう表記も見たが、和音としては「F9-5」と同じなので、覚えるには馴染んだ「F9-5」で。
 とても面白い。いろいろな意味で。
 1コーラス目はコードチェンジが1小節ごとだが、短い間奏の後、2,3コーラスは1小節に2回、つまり2拍ずつのコードチェンジになっているのだ。メロディは1コーラスと同じなのに。
 出だしがCだが、すぐにB7なので、ドミナントモーションからのEmで、なるほどGメジャーの曲なのだとわかる。ただし4つ目のコードはG7なので、これもドミナントモーションで、冒頭のCに展開するようになっている。
 その中で、最初のG7の後にはDb7-5が入っているのはG7の裏コードからのドミナントモーションということだ。
 「CM7  B7  Em9  G7」2回の繰り返しの後、3回目も同じメロディなのに「CM7  B7  Dm7  G7 」になるところも良い。「B7 Em9 」がドミナントモーションなら、「Dm7  G7 」もドミナントモーションでCへ戻るケーデンスになっている、という合理性があるのだが、この一時転調は好きなパターンだ。
 サブドミナントのCの後のF9-5の使い方もお洒落。CからFへの4度進行だが、Fに7thが含まれるのはブルースの特徴であり、かつF自体がトニックであるところのGからみて7thでもある。ジャズのコード進行としては定番だが、上の裏コードといい、星野源、こういうアレンジを知っているんだな、と感心。ジャズ的にはやはり「F7#11」だよなあ。

2020年4月22日水曜日

『ダカタ』-抑制的でいて切ないSF

 その昔、岩井俊二が褒めていて、レンタルで観て、なるほどよくできた映画だと思ったが、細部はすっかり忘れたまま20年くらい経って、ここ数年は宮台真司が随分高く評価しているのを何度か耳にしていたので、観直したいとは思っていた。
 20年以上前の映画だが、今観直しても、画面の感触がまるで古びない。予算に対して効率的な撮り方をしているんだろう。金属やらプラスチックやらのツルツルした感じと古い車やスーツなどのオールドファッションなガジェットが入り交じった未来。縮尺の狂ったようなでかい建造物をバックに撮影される場面。SF映画としてのルックは申し分ない。
 そういうことで言えば『ブレードランナー』が極北だが、あれとは違ってドラマがしっかりしているのがいい。

 遺伝子が人生を決めてしまう未来社会に、遺伝的「不適格者」と判定された主人公が、宇宙へ行く夢を諦めずに、遺伝子の検査を偽って宇宙への夢を実現させる、というストーリーだけ辿ると、まるでスポ根のような話だが、物語の感触はそれよりずっと切ない。
 努力をして結果を出すと認められるというわけではなく、遺伝子が既にある段階での判定を出してしまっているので、そこはもう偽るしかない。優れた遺伝子を持った協力者の運命も切ないのだが、自分の正体が知れることを恐れて過ごす日々がもう重苦しい。SF映画としてはディストピア物と言ってもいい。
 その中で宇宙への夢をつかみ取るのは、「成功」ではない。劇中でも何度も暗示されているように、恐らく彼は宇宙で生きてはいられないのだ。遺伝的な心臓疾患によって。
 劇中に語られる、遺伝的に優れた弟との「チキンレース」遠泳は、完全に生きることの暗喩になっているのだが、死ぬことを賭けて進むことをやめなかった者が、ある壁を突き抜けられる、という危険と隣り合わせの挑戦は『グラン・ブルー』の素潜りを思い出させる。

 物語の強さというだけでなく、今回観直してあらためて、作劇のうまさにも感心した。
 一つには映画の制約を逆手に取ったトリックだ。ズルいともいえる。映画の中で長い時間が経過すると登場人物を演ずる俳優が変わるから、子供から大人に成長した人物の一貫性が、そう説明されなければ観客にはわからない。実はこの人物はこの人物と同一人物でしたと、小説ならば可能なトリックが、映像作品では普通はできないのだが、このやりかたなら可能なのだ(この間の『情婦』ではマレーネ・ディートリッヒの演技力で強引にやってみせていたが)。
 それがわかっていくつかの場面を観直してみると、なるほど、そういう伏線が張ってあるのだ。
 だがしかし、これは初見ではわからないから(映画の観客はそれほど考えながら観ていないので)、映画を一度観ただけでは、この工夫には気づかず、物語はあっさりした印象にとどまる。

2020年4月20日月曜日

『パーフェクト・プラン』-小品として観るならアリ

 テレビ番組表の紹介だけみて、名もないB級映画なのかと思っていたら、『127時間』のジェームズ・フランコや『最強のふたり』のオマール・シー、ケイト・ハドソンも『あの頃ペニー・レインと』のペニー・レインだったりして、なかなかな配役なのだった。見ている間にはまるで意識しなかったか。
 だが全体としては小品であることは間違いない。が、硬質な印象を与える青暗い画面も、手堅い演出も演技も編集も確かなスリラー映画ではある。
 マフィアの麻薬取引の現場を襲って金品を奪った強盗団と、そのうちの一人の裏切りによって隠された金品を偶然に手に入れてしまった主人公夫婦と、取り戻そうとするマフィアの三つ巴の戦い。
 最後の戦いは改装中の廃屋に限定されて、そこに三勢力が集結して、銃撃戦になる。この規模感が小品たるゆえんだが、主人公は一般人なため、罠と大工道具で戦うという、この現実的な工夫が微笑ましい。舞台が限定されていて、勢力が三つ巴だから、敵同士も戦ってくれるし、廃屋は主人公の遺産相続品だから地の利もあるし、そこに定年間際の老刑事が加勢してくれたりして、結局最後は主人公夫婦と老刑事が生き残るという、安心した終わり方となる。
 キャストの豪華さはともかく、小品としてみるならまあアリなのでは。

2020年4月15日水曜日

『リメンバー・ミー』-脱帽

 ディズニー&ピクサー映画として、文句ない。『SING』あたりと比べても一枚うわてだ。カラフルな異世界のイメージも、登場人物の魅力も、起伏のある物語展開も、描かれる情感も。ハラハラドキドキで、笑って、泣いて、じんわりと暖かくなる。この人たちは映画作りが本当にうまい。
 死者の国への往還という物語の構造については、何か文化人類学的な分析ができるのかもしれないが、それより途中まで貴種流離譚なのかと思わせる展開で主人公及びそこに感情移入している観客のプライドを擽っておいて、それより家族の絆だ、と捻る見事な展開。
 危機を設定し、そこから脱するため条件を明示し、その条件に届いては手を離れという展開を幾重にも重ねた末にようやく成就するカタルシス。
 まあとにかく見事で脱帽です。

 ついでに吹き替えの男の子の歌のうまさに驚いて調べてみると、本当にうまい子が吹き替えているのだった。

2020年4月10日金曜日

『思い出のマーニー』-良い映画だと思うことを妨げる要素が多すぎる

 『夜明け告げるルーのうた』に続いて、また『メアリと魔女の花』にも続いて、アニメーションの素晴らしさとドラマが釣り合わないアニメ映画。
 それでも『借りぐらしのアリエッティ』よりは評判が良いようだから、という期待と不信で観始めると、やはりアニメーションは素晴らしい。自然描写を中心とする背景美術はもちろん、表情も含めた人間の動きも、実に「良いアニメ」を観ている快感がある。
 冒頭の公園のシーンで、数多くの幼稚園児や中学生たちが、それぞれちゃんと人間の動きで描かれる。冒頭だから手間をかけようという意志が感じられるすごいシーンではある。
 だがドラマが始まると違和感がある。
 確かにスケッチを先生に見せるかどうかでたゆとう微妙な感情の揺らぎは、宇多丸さんが褒めているとおり、うまく描かれている。だが「私は私が嫌い」という唐突なナレーションとともに喘息の発作が出始めてしまったりすると、もうそれは記号的な描き方に感じられてしまう。そのまま医者が家に来るような強い発作になるなどという展開も、およそリアリティのない、いかにもアニメ的な「劇的」さであり、それが精神的な原因によるものであることが医者と養母の間で確認されているにもかかわらず、空気の良いところで療養させるという理由で根室の親戚のところに行かされるのも、まるで筋の通らないご都合展開である。
 世話になる家のおばさんは、家に着くなり主人公の帽子をとって、肩掛け鞄をはずす。物も言わずにいきなり他人に対してそんなことをするのは「気さく」というよりもちょっとどうかしている。だがそれが「気さく」として描きたいのだということは、それが異常なことであると、たとえば主人公の反応などを通して描かれないことからわかる。このおばさんは「気さくで世話好き」なのだ。
 『メアリと魔女の花』の時に書いた感じが、やっぱりこの映画にも満ちている。どこかで見たアニメの情緒を描こうとしているのだが、その因果律が必然性を持っていないから、感情に訴えてこないし、いちいち腑に落ちずにひっかかる。
 雨の中で道端に倒れている主人公見つけた青年は、自分のシャツを脱いで主人公の体に被せる。しかし雨の中である。雨が体に降りかかることを遮ることをしないで、道端に倒れたままにして、シャツを被せてどうだというのだ。これも「具合の悪い人の体に自分の服を被せる」という行為が、相手に気遣う身振りとして記号的に演じられているに過ぎない。だがその演出があまりに状況を無視している。
 やはりこの監督はアニメしか見ておらず、現実の「人間」を見ていないのだと思う。

 それでも「失われた時間」というモチーフが、否応なく切なさを感じさせる。別れのシーンの雨や風も、波も、やはり「劇的」ではある。
 そして物語の真相がわかるシーンもまた劇的である。ああっ、そうだったのか!! という驚きと、登場人物に対する観客の愛着が相互に結びついて報われることに、強いカタルシスがある。
 と同時に、主人公がその瞬間までそのことに気づかないことに、どのような言い訳も用意されていないことに納得がいかず、憤然たる思いが湧き起こる。5歳児には人の名前が覚えられないのか。その後の人生の中で、親や祖父母の名前を聞かされなかったのか(そういう説明もない)。
 良い映画だと思いたい。だがそれを妨げる要素が多すぎる。

2020年4月5日日曜日

『夜明け告げるルーのうた』-イマジネーションの奔流

 『崖の上のポニョ』なんじゃねえの? という先入観があって、録画してすぐに観ようとは思えなかったのだが、ハードディスクから移そうと思って観る。
 もちろん悪くない。画面いっぱいに湯浅政明アニメの快楽に満ちている。海辺の街の上下に落差のある空間も、カメラが自在に回り込む動きも。寒天の様な水の描き方も。
 が、とても面白かったというには満足度は低い。
 音楽も悪くないが、それに合わせたダンスシーンはディズニーアニメであり、ミュージカルだった。そういうのに反応する感覚器官がないのだ、たぶん。
 ではドラマとしてどうかというところだが、これがどうも弱い。
 鬱屈した少年が前を向く話、という骨格はわかる。でも、出だしからそういう可愛くない主人公の言動に、もううんざりしてしまう。食傷気味なのだ、最近のアニメでは。
 この主人公をはじめとして、登場人物の感情の表出がどれも類型的で、描かれる葛藤も、人物像も、結局ドラマも類型的になる。ルーの父親は、まあ「人」ではないものの、活け締め師の件りなどは意味不明で、まあ娘を助けたいという行動原理だけはわかったが、そうなるとそれはそれで類型的になる。人魚全般がどうもよくわからない。
 そもそもルーがわからない。音楽が好きらしいという属性はわかるが、どういうわけで主人公に好意を持ったのかわからない。人間全般に好意を持っているという描き方なのかもしれないが、そうすると、主人公との関係における特別さはなくなってしまって、おそらくドラマとして成立しない。主人公との間での特別な好意の交換が必要なはずなのだが、その必然性がわからないのだった。とにかく「好き」なのだ。こういうのをご都合主義というんじゃないのか。
 「お陰様のたたり」だという津波の襲来も、どうも物語的な必然性はわからないのだが、ともあれそこからのスペクタクルはアニメ的イマジネーションの奔流に圧倒された。
 この、アニメ的品質の高さだけでは満足できないのは、もうそういう観客だからしょうがないのだった。

2020年4月4日土曜日

『トラフィック』-手堅く立体的に描かれる

 スティーブン・ソダバーグは劇場で観た『コンテイジョン』の印象が一番強い。今回のコロナウィルス騒動に既視感があるようにさえ思える。
 こちらはアメリカとメキシコをまたぐ、麻薬撲滅に奔走する政治家や警察官などの活動を描く群像劇で、タッチは『コンテイジョン』とよく似ている。したがって、よく出来ている。面白い。
 「ドキュメンタリー・タッチ」などと言われる、事態の推移を的確に追いつつも、そこに生ずる悲喜こもごもを描く。一つ一つのエピソードで過剰に情緒的にはならないが、さまざまなドラマが、しかしテンポ良く手堅く立体的に描かれる。
 麻薬組織を追うメキシコとアメリカの刑事の二組のコンビは、どちらもその片方が命を落とす。アメリカの麻薬撲滅対策の総責任者の娘がよりによって麻薬中毒で、親への反発はいささかステレオタイプにも思えるが、行方の知れなくなった娘を探し歩いて、とうとう見つけた娘が、ラリったまま、近寄った父親に微笑みかける場面はやはり感動的だった。

『アウトロー ジャック・リーチャー』-楽しみ方をはずした

 続編も作られているくらいだから、それなりには面白いんだろうと思って観てみると、ちっとも面白くない。なんだこの、弛緩した展開は、と思っているうちに終わってしまい、どういうわけなのかと思ってネット評を見てみると、同じような感想を抱いている人もいるが、あれを楽しんだ人もいたようで腑に落ちない。
 だが宇多丸さんの評を聞いて、なるほど、と思った。むしろあの「弛緩した展開」を「オフビート感」と思って楽しむのか。浪花節的言動の原理がわけがわからないと思っていたら、あれは「西部劇」風なのか。
 事前知識がなかったから、マット・デイモンの『ボーン』シリーズや、リーアム・ニーソンの『96時間』シリーズのような、シリアスでハードボイルドな話を観る構えでいたから、あんなにピンとこなかったのか。

2020年4月2日木曜日

『HAPPY HOUR』-5:17の至福

 長い映画だと聞いて『牯嶺街少年殺人事件』と混ざっていたせいで4時間だと思っていたらさにあらず、5時間17分なのだそうだ。しかも二枚組のBDのディスク2から再生してしまったのを気づかず、とりあえず出演者インタビューはオマケだと認識したものの、本編の方はそれが冒頭なのかと思って観始めたのだった。
 何やら面白い。登場人物の顔がとにかく絶妙に画面に映る。そのタイミングも表情も、実に多くの「意味」に満ちている。『桜桃の味』と違って、日本人の文化圏に属しているという前提があるせいだろうか、そこに多くの「意味」を読み取ることができるのである。必ずしも簡単に言葉になるとも言えないような様々な、微妙な「意味」を。
 もちろん脚本の緻密さと演出の問題ではある。聞いたところではほとんどが素人の役者だというのに、そんなことはまるで感じさせない。場面によってはドキュメンタリーかとさえ思わせるほどの自然さであり、かつカメラの切り替えと編集は神業とさえ思われる。
 一人だけ、いくらなんでもこの棒読みはなかろうと思われる長台詞の登場人物がいるが、それさえも、観ているうちにそういう、珍しい喋り方をする人なのかと思われてくる。
 数十分観て、どういう物語なのかわからないが、観ているだけでわくわくして、これはすごいと思いつつもその日は一旦止め、後日観直すにあたって確認したらディスク2だとわかったのだった。
 休みを取って、昼間から全編通して観る。冒頭から観ると、なるほどこういう物語かとわかる。わかりにくいところはない。だがそのわかりやすさが、やはり必ずしも言葉になるわけではない。実に微妙な心の揺れ、綾を画面に描いているのだ。
 物語は30代後半と思われる4人の女友達が、互いの支えにもなりつつ、それぞれの人生に彷徨する苦いドラマを描く。
 一人は離婚経験があり、一人は離婚調停の裁判中であり、後の二人はそれぞれに幸せな結婚の形を見せながら、不穏な空気も感じられるように描写していって、最後にはそれぞれの家庭の危機を描きつつ、結局はいくらかの希望を残して終わる。離婚調停も、不調に終わるのだが、だがそれが別の始まりにつながりそうな予感も残している。
 この、苦さに対する希望が題名の「HAPPY HOUR」なのだが、観ている時間が、まさしくそれなのだった。画面に溢れる情緒の豊穣が、どの瞬間にも、ほとんどワクワクと言って良いほどの面白さなのだ。

 5時間以上という長尺は、確かに劇場での上映としては興行的に難しいだろう。が、その気になってしまえば面白いことは間違いないから、劇場で集中して観ることができれば、特別な鑑賞体験になるはず。
 とはいえ5時間というのは、ロードショーの通例として長いということであって、テレビドラマとしては1クールの1時間ドラマよりも短い。観られないような長さではない。
 だから坂元裕二あたりの、よくできたテレビドラマと同じように観られるかというと、そういえばそうなのだが、ではこの映画を分割してテレビで放送できるかというとそれは難しい。前半のワークショップや後半の朗読会などは、やはりテレビ視聴者には長すぎて我慢ができないだろう。これの鑑賞には集中力も持続力も必要なのだった。
 感触としては是枝裕和の『ゴーイングマイホーム』が似ているが、あれも低視聴率に苦しんだとか。おそろしく面白いテレビドラマだったが。
 『いだてん』や『ごめんね青春!』の歴史的低視聴率といい、良質のドラマの苦戦は、テレビという場の特性故とはいえ、切ない。