『夜明け告げるルーのうた』に続いて、また
『メアリと魔女の花』にも続いて、アニメーションの素晴らしさとドラマが釣り合わないアニメ映画。
それでも『借りぐらしのアリエッティ』よりは評判が良いようだから、という期待と不信で観始めると、やはりアニメーションは素晴らしい。自然描写を中心とする背景美術はもちろん、表情も含めた人間の動きも、実に「良いアニメ」を観ている快感がある。
冒頭の公園のシーンで、数多くの幼稚園児や中学生たちが、それぞれちゃんと人間の動きで描かれる。冒頭だから手間をかけようという意志が感じられるすごいシーンではある。
だがドラマが始まると違和感がある。
確かにスケッチを先生に見せるかどうかでたゆとう微妙な感情の揺らぎは、宇多丸さんが褒めているとおり、うまく描かれている。だが「私は私が嫌い」という唐突なナレーションとともに喘息の発作が出始めてしまったりすると、もうそれは記号的な描き方に感じられてしまう。そのまま医者が家に来るような強い発作になるなどという展開も、およそリアリティのない、いかにもアニメ的な「劇的」さであり、それが精神的な原因によるものであることが医者と養母の間で確認されているにもかかわらず、空気の良いところで療養させるという理由で根室の親戚のところに行かされるのも、まるで筋の通らないご都合展開である。
世話になる家のおばさんは、家に着くなり主人公の帽子をとって、肩掛け鞄をはずす。物も言わずにいきなり他人に対してそんなことをするのは「気さく」というよりもちょっとどうかしている。だがそれが「気さく」として描きたいのだということは、それが異常なことであると、たとえば主人公の反応などを通して描かれないことからわかる。このおばさんは「気さくで世話好き」なのだ。
『メアリと魔女の花』の時に書いた感じが、やっぱりこの映画にも満ちている。どこかで見たアニメの情緒を描こうとしているのだが、その因果律が必然性を持っていないから、感情に訴えてこないし、いちいち腑に落ちずにひっかかる。
雨の中で道端に倒れている主人公見つけた青年は、自分のシャツを脱いで主人公の体に被せる。しかし雨の中である。雨が体に降りかかることを遮ることをしないで、道端に倒れたままにして、シャツを被せてどうだというのだ。これも「具合の悪い人の体に自分の服を被せる」という行為が、相手に気遣う身振りとして記号的に演じられているに過ぎない。だがその演出があまりに状況を無視している。
やはりこの監督はアニメしか見ておらず、現実の「人間」を見ていないのだと思う。
それでも「失われた時間」というモチーフが、否応なく切なさを感じさせる。別れのシーンの雨や風も、波も、やはり「劇的」ではある。
そして物語の真相がわかるシーンもまた劇的である。ああっ、そうだったのか!! という驚きと、登場人物に対する観客の愛着が相互に結びついて報われることに、強いカタルシスがある。
と同時に、主人公がその瞬間までそのことに気づかないことに、どのような言い訳も用意されていないことに納得がいかず、憤然たる思いが湧き起こる。5歳児には人の名前が覚えられないのか。その後の人生の中で、親や祖父母の名前を聞かされなかったのか(そういう説明もない)。
良い映画だと思いたい。だがそれを妨げる要素が多すぎる。