2021年2月21日日曜日

『ザ・クレイジーズ(リメイク版)』-完成度の高い「お話」

  確認のために観てみる。たぶん3回目だが、ブログを始めて以来は観ていないようだ。いくつかの印象的なシーン以外は、基本的には忘れていることばかりだった。

 思いのほか完成度が高かった。ロメロ作品と比較してしまうせいでもある。金もかかっているし、演技から演出から編集から、全てにおいてレベルが高い。

 だから十分面白いのだが、やはりロメロとは違うのだった。

 完成度が高いと、それはそれで余りに現実から隔絶された「お話」になってしまう。

 そしてもっぱら面白さは感染者や軍から逃げるサスペンスによることになる。つまり敵味方がはっきりと分かれてしまう。軍の作戦を内部から描くことがないから、主人公から見て、それはあまりに明確な敵でありすぎるし、感染者も、ほとんどゾンビとして襲ってくるばかり。

 そうしてみるとロメロ作品は「感染者」ではなく「感染」が怖いのだった。それぞれの人物に観客が感情移入して、それらの人物が感染によって少しずつおかしくなっていく違和感と哀切。

 なるほど、比較することによってそれぞれの魅力が明らかになる。

2021年2月20日土曜日

『ザ・クレイジーズ 細菌兵器の恐怖』-奇妙なリアルさ

  中学生の時に『ゾンビ』を観て以来のロメロ信者だが、これはレンタルされていたことがなく、観たいと願い続けて数十年、気がつくとアマゾン・ビデオに並んでいたのだった。

 軍の開発中のウイルスが、飛行機の墜落によって田舎町に拡散されてしまう。人を狂気に追いやるウイルスだというから、人から人へは感染しないものの、『28日後』が、死者の蘇りではないものの、広い括りでゾンビ映画とされていることを考えれば、これもゾンビ物の亜種ではある。本作の次が『ゾンビ Dawn of the Dead』だ。

 2010年のリメイクは観ている。悪くない映画だったが、あれも『Dawn of the Dead』のザック・スナイダーリメイクくらいに面白かったのだろうかと思っていたら、結論としてはまさしくそういう感じだった。

 ザック・スナイダーは確かに悪くなかった。だがロメロの人間描写は感じなかった。

 『クレイジーズ』もそうだった。

 確かに低予算映画らしさは全面に出てる。ウイルス感染地域を核で殲滅してしまおうと話し合われている時に挿入される爆撃機の映像があまりに借り物感満載なのは笑える。銃撃戦のシーンも、同人映画的手作り感が満載。

 だが、人物の描写が妙にリアルなのだ。とりわけ、ウイルス開発者が対策のために実験を繰り返す実験室で、助手の女性に「結婚しようか。冗談だよ」というシーンには妙に心を動かされた。二人ともそれなりの年齢で、かつ独り身という哀感が緊急事態の切迫感で浮き彫りになるところに感心した。

 一緒に観ていた娘が、対策本部での会話の場面が多すぎて飽きると言っていたが、こういうところで交わされる会話に表れる「現場」感がリアルなのだ。

 この、上手くいかない現場のバタバタ感やら、軍と住民の間で起こる戦闘やらをこそ映画は描こうとしているようにみえる。つまり感染者と軍から逃げる恐怖やサスペンスよりも、きれいな敵味方図式に分かれていないところや軍の作戦が冷徹に遂行されていないところこそが、この映画の面白さなのだ。

 上の会話の二人も、博士が対応策となる重要な発見をしたらしいのに、助手の女性がそれが何かを理解できずにいるうちに博士が研究室をとびだして、そのまま感染者に巻き込まれて結局感染してしまう、という展開の絶望感と悲しさはうまかった。

 怖いのは結局人間、というオチ自体はありふれているようにも思えるが、それでロメロ映画が面白いのは間違いない。

2021年2月15日月曜日

『Loop』-ちょっと難しい

  「ループ物」としてレコメンドされてくる作品から『残酷で異常』など、評価の低くないものをいくつかリストにいれておいて、ようやく。

 始まってみると何語で喋っているのかわからんなあと思っていたらハンガリー語なのだそうな。だがヨーロッパ映画らしい粗さはない。やや画面が暗いものの、タッチはハリウッドの小品といった感じではある。最近はドローン撮影で、安価に映画が高級そうに見えるものの、そもそもカメラの切り替えや編集などはすこぶる達者だ。


 「見直したくなる」という惹句の通り、ループの構造がどうなってるんだろうと思って二度観てみた。

 映画というのはカットの切り替えで、時間的には順につながっているという暗黙の約束があるのだが、映画が先に進むとさっきと同じ場面が描かれる。だからといって『運命じゃない人』のように、本当に時間的に前の場面が描かれているわけではなく、どこかから時間がループしているのだ。だがその展開は、少しずつ前と違ってくる。観客と同じ視点の主人公にはさっきの記憶がある。

 そのうち、主人公が二人になったりする。一方の主人公はさっきの自分だから先の展開を知らない。

 そうこうしているうちに主人公が殺されてしまう。どうなるのかと思うと、別の人物をカメラが追ううち、その人物が主人公とからむ場面に至るから、そこで物語に復帰する。

 このパターンは『トライアングル』だ。そして『トライアングル』のように暗喩的な描写もあって、読み込み甲斐があるのかもしれないとも思ったが、とりあえず二度観た感触としては、『トライアングル』ほどわかりやすくないわりに、主人公が家族の大切さを再認識するという決着のわかりやすさがどうも軽い。あまりに安易にベタベタしすぎだろ、最後。『エターナル・サンシャイン』も、ラストでそこに落ち着いたのに不満を感じたものだったが。

 ループがパズルのように解けるわけでもなく、混乱のままなのも、楽しめばいいのやらどうやら、モヤモヤ。

2021年2月13日土曜日

『オタクに恋は難しい』-コメディエンヌとしての高畑充希

  高畑充希はコメディエンヌだ。可愛いヒロイン役もやれるのに、ここまでコメディに徹して三枚目もできる。その上、歌も上手い。どういうわけだかミュージカルになっていて、そのうえ、妙に曲が良い。

 適度に楽しくて、終わるまでもうちょっとというところで地震のニュースが入って、そのまま録画が終わってしまった。といって最後が気になるというものでもない。原作はどうせ続いていくんだし、どこで終わってもいいような話ではある。


2021年2月12日金曜日

『カルト』-真っ当な創作物を

  久々に白石晃士を。だがネットの評価は低い。まあ期待も低い。

 はたしてそうなのだった。『オカルト』のあの異様な感触はない。

 画面が映画的ではなくテレビ的なのは、テレビ番組を模したモキュメンタリーという体裁だからいいのだろうけど、結局それで『オカルト』の時に感じた、これはどこまでホントっぽく見せるつもりなのかという、観客と作り手の探り合いのようなものが生まれなくなってしまった。

 例えば「フッテージもの」と呼ばれるのは、画像の粗さがリアルだったりする。映画のフィルム的な空気感も、異世界を作り上げる。

 だがテレビ的画面の平板さは、だからこそそこに生じた異変に異化効果を生み出しうるという狙いがあったのかもしれないが、結局安っぽいテレビ番組的な世界しか作れていない。どうみても自覚的にやってるとしか思えない安っぽいCGも、「どこまで本当か」という境界の揺らぎを引き起こさないから、逆効果だ。

 だからこそネットでは、この監督は何を考えているんだろうといった不安定感を楽しむ、といったもう一捻りした楽しみ方をしている人もいるのだが、その前にまず真っ当な創作物を見たい。

2021年2月7日日曜日

『天気の子』-アニメ的お約束

  細田守も、メジャーになって、アニメーションのレベルは落ちないのに、作品がつまらなくなるのは困ったもんだが、新海誠も同じような感じになってるのが残念。

 アニメーションはとても良い。空中に浮かぶときの頼りなさもうまいし(これは新海誠ではなく優れたアニメーターの仕事なのかもしれないが。沖浦啓之とかの)、上空に溜まった水が一気に地上に落ちるカタストロフ感も、日常に非日常が出現する驚きに満ちていた。そして何より東京の佇まいは、その緻密さだけで、もう溜め息が出るほどの美しさだ。

 ストーリーの骨格も悪くはないんだろう。晴れ娘サービスを始めてからの高揚感も、後半でどんどん天気が悪くなって,不穏な空気が街に立ちこめて、そのうち雪が降り出す展開もいい。ぞくぞくする。クライマックスの後に3年間雨が降り続けるという結末にもびっくりさせられた。

 音楽も感動的だ。流れ始めるタイミングや映像、音楽以外の音の調整など、巧みに演出されている。

 そうしたアニメーションと物語と音楽が重なって、雨が上がって光が射す晴れ間の崇高さはすごい。


 だから問題は人間の描き方だ。

 主人公に関わる大人達に魅力的な人物がいないのも困ったものだが、とにかく主人公の二人が決定的に薄っぺらい。少年が島を出て戻りたくないと思うことと、少女が子供二人で生きていかなければならないと思う、それぞれの事情の切迫感がまるで感じられない。この切迫感が、いつまでも雨が降り続いて、やがて東京が水に沈んでいくという事態の重大さに釣り合うことが、この物語を支えるドラマツルギーの絶対条件のはずではないか。

 それはまずはエピソードの積み上げの欠如に因る。二人の抱える事情がわからないから、どうしてそういうことになっているのか伝わらない。

 もちろんそれをひたすら細かくしていくと、いたずらに長くなるばかりの説明過多な物語になってしまうのかもしれない。説明のためのエピソードが羅列するばかりの。ではそれを削ってどうなっているかというと、結局人物は薄っぺらい。

 だがもっと問題なのは微妙な人物の演技(演出)の欠如だ。具体的に背景を描かなくても、それを感じさせる描き方がされていない。

 そして替わりに何があるかといえば、よくあるアニメ的な描写だ。最近『ねらわれた学園』で、以前には赤根和樹の『星合いの空』で激しく感じた、アニメ的お約束だ。

 以前の新海誠に、それはなかった。登場人物は、お約束など無視して不器用だったり無愛想だったりした。あの切迫感が、宇宙の果てで異星人と戦い続ける任務の重さや、何年もかけて届くメールの切実さと釣り合っていた。

 それが今や、不器用も無愛想さえも、お約束としてしか描かれない。そしてやたらと感情過多に描かれるばかりで、ちっとも迫ってこない。天気を操るとか空の生態系と通じているとか、物語の核心であるところの「世界を変えてしまった」とかいった事態の重大さに、アニメ的な既視感がまるで釣り合わない。

 もちろん「世界を変えてしまった」というのが、単なる子供っぽい思い込みでしかないようにも描かれている。それはある意味では「セカイ系」への距離の取り方として正しいのかもしれない。

 だがもちろん、本当にそうなのかもしれないとも思わせなければ面白くない。それが、ちっともそうは思えないのだ。そう明言されているにもかかわらず。


 新海誠のような特異な才能が、技術的には恐ろしく高度な、しかしどこかで見たようなアニメを作るようになっていくのは、本当に残念でいたましい。

2021年2月5日金曜日

『散歩する侵略者』-黒沢清への不信感

  ある大学の演劇部が上演した際に、ポスターを見て興味をひかれていたがその時は見損ねて、以来気になってはいた。ポスターデザインもよくできていたのだが、何よりタイトルが秀逸だ。日常と非日常が大胆に並んでいる。

 とはいえその後公開された映画はすぐに観る気にはならずに放置していたのだが、今回は上記演劇部の関係者と一緒に。


 しかしまたしても黒沢清。しかもこの間の『クリーピー』ほどには、画面に満ちる禍々しさも感じないまま、そしてストーリーやら人物の行動やらには納得もできないまま終わった。

 「概念を奪う」宇宙人、というこの物語の基本設定は、舞台のようにリアリティを要求されない、抽象度の高い表現形式ならば、最初から象徴として見ることもできるのだが、実写映画という、リアリティを前提とした表現形式には馴染まない。

 例えば、奪わなければ「概念」を持っていない宇宙人が話ができるというのは矛盾している。言葉などは概念の塊ではないか。

 それが象徴的な表現なのだと言われれば、そういう納得で見ることもできるのかもしれないが、周囲の風景まで含めて画面に映り込んでいるようなリアリティの水準で、それをどう受け止めれば良いのかわからない。


 劇団「イキウメ」主催の前川知大の脚本は、最近『太陽』の舞台をNHKの放送で見たが、これは面白かった。なるほど、舞台劇ならば見られる。

 そしてNHKのドラマ『マリオ~AIのゆくえ』はダメだった。AIが身体を持って現実に関わってくるときに何が起きるのかを本気で考えているようには思えなかった。

 本作もそうなのだ。「概念を奪う」ということがどういうことなのかを、リアリティの水準で考えることで醸し出されるかもしれないSF的な面白さはない。

 ではどんな象徴的表現になっているかといえば、それもよくわからない。わからないが、何かありそうだぞと感じさせるようにも作られていないと感じた。概念が人間性を支えている? まあそうだろうけど、そうだとしても、そうだということが観念的に示されているだけのように思える。いやそもそもそういうことではないのか?


 あちこちと納得のできないツッコミどころが多いのも困ったもんだ。そういう無用なノイズはなくしておいてほしい。

 中でも、「愛」という概念を奪われた主人公が、奪われた時には意外と何ともないという反応をして、後から廃人のようになってしまうというのは何か意味のある成り行きなのだろうか? 意外と何ともない、というのはそれはそれで意味があるように受け取れるし、廃人のようになってしまうのは、ある意味でわかりすぎる。

 その時間差に意味があるのだとすれば、それをこそ意味あることなのだと感じさせるように描かれるべきなのだが、単に一貫性・合理性の欠如にしか感じないところが黒沢清への不信感なのだ。