2021年2月5日金曜日

『散歩する侵略者』-黒沢清への不信感

  ある大学の演劇部が上演した際に、ポスターを見て興味をひかれていたがその時は見損ねて、以来気になってはいた。ポスターデザインもよくできていたのだが、何よりタイトルが秀逸だ。日常と非日常が大胆に並んでいる。

 とはいえその後公開された映画はすぐに観る気にはならずに放置していたのだが、今回は上記演劇部の関係者と一緒に。


 しかしまたしても黒沢清。しかもこの間の『クリーピー』ほどには、画面に満ちる禍々しさも感じないまま、そしてストーリーやら人物の行動やらには納得もできないまま終わった。

 「概念を奪う」宇宙人、というこの物語の基本設定は、舞台のようにリアリティを要求されない、抽象度の高い表現形式ならば、最初から象徴として見ることもできるのだが、実写映画という、リアリティを前提とした表現形式には馴染まない。

 例えば、奪わなければ「概念」を持っていない宇宙人が話ができるというのは矛盾している。言葉などは概念の塊ではないか。

 それが象徴的な表現なのだと言われれば、そういう納得で見ることもできるのかもしれないが、周囲の風景まで含めて画面に映り込んでいるようなリアリティの水準で、それをどう受け止めれば良いのかわからない。


 劇団「イキウメ」主催の前川知大の脚本は、最近『太陽』の舞台をNHKの放送で見たが、これは面白かった。なるほど、舞台劇ならば見られる。

 そしてNHKのドラマ『マリオ~AIのゆくえ』はダメだった。AIが身体を持って現実に関わってくるときに何が起きるのかを本気で考えているようには思えなかった。

 本作もそうなのだ。「概念を奪う」ということがどういうことなのかを、リアリティの水準で考えることで醸し出されるかもしれないSF的な面白さはない。

 ではどんな象徴的表現になっているかといえば、それもよくわからない。わからないが、何かありそうだぞと感じさせるようにも作られていないと感じた。概念が人間性を支えている? まあそうだろうけど、そうだとしても、そうだということが観念的に示されているだけのように思える。いやそもそもそういうことではないのか?


 あちこちと納得のできないツッコミどころが多いのも困ったもんだ。そういう無用なノイズはなくしておいてほしい。

 中でも、「愛」という概念を奪われた主人公が、奪われた時には意外と何ともないという反応をして、後から廃人のようになってしまうというのは何か意味のある成り行きなのだろうか? 意外と何ともない、というのはそれはそれで意味があるように受け取れるし、廃人のようになってしまうのは、ある意味でわかりすぎる。

 その時間差に意味があるのだとすれば、それをこそ意味あることなのだと感じさせるように描かれるべきなのだが、単に一貫性・合理性の欠如にしか感じないところが黒沢清への不信感なのだ。

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