以前この題名の映画を観た時には、こちらの映画と別であるとは知らずにいて、観終わってから調べているうちに話題の映画が別なのだとわかったのだった。
さてこちらがダニー・ボイル監督作品だけあって、当然話題性もある。期待もある。そして実際に観終わっての満足感も充分なのだった。
だが前のジョシュア・マイケル・スターン版を観ていたことが幸いしたのも確かだ。ダニー・ボイル版は、スティーブ・ジョブズやアップルに不案内な者が見るにはいささか辛い。飛び交う会話に登場する用語や人名がもつ文脈を理解していることは、その会話を理解するために必須だし、エピソード間の歴史的事実を知らずに登場人物たちの感情の軋轢を捉えることも難しい。
もう一つ、幸いしたといえばレンタルのDVDを、吹き替えで観ていたのだが、同時に字幕も表示していたのだが、これがなければニュアンスのわからない科白がどれほどあったろうかと思うと、その偶然を喜びたい。
吹き替えと字幕の翻訳者が別なのだ、おそらく。
二種類に翻訳されることでそのニュアンスがようやくわかる、という科白が多いというのは、それだけ含みのある表現をしているということなのだろう。
にもかかわらず、この映画の科白の量たるや、『ソーシャル・ネットワーク』並みだなあと思っていると、脚本のアーロン・ソーキンは『ソーシャル・ネットワーク』も書いているのか! まったく恐るべきスピードで科白がやり取りされるのだ。
この映画は基本的に口論で成り立っているといっていい。スティーブ・ジョブズによる、三つの有名な製品発表会の開始前を描き、さて発表会が始まるというところで肝心の発表会そのものは描かれずに顛末だけが紹介されて、また次の発表会開始前に時間が跳ぶ、という展開が2回繰り返される。その発表会開始前の殺気立って慌ただしい緊迫した時間の中で、これでもかというほど密度の高い口論が繰り返されるのだ。
一つ目のマッキントッシュ発表会前のパートを観終わったところで再生を一時停止して、久しぶりに一緒に映画を観た息子と、これはすごいと言い合った。基本的には脚本がよくできているのが前提ではあるが、役者の演技も、演出も編集も、そのテンションを支えきらなければこの緊迫感は出ない。
そして、その口論のすごさとは、その論理の拮抗と、プライドやらコンプレックスやらのからみあった感情の拮抗が、強い説得力をもって観客に伝わるということだ。これが単なる感情のぶつかり合いだとか水掛け論だとか、ジョブズがエキセントリックで嫌な奴だとしか感じられない人は(という評をネットで見るのだが)、「議論」というものができない人なのだろう。惜しいことだ。
「議論」によって、物事や価値観の多面性、戦略の有効性についての可能性の分岐、人間の感情の重層性が見えてくる過程は、ぞくぞくするほど楽しかった。高度な技の応酬が見応えのあるスポーツ観戦のように。
そして、時を経た三回の議論において、スティーブ・ジョブズの「成長」が描かれているのも、素朴に快い。堂々たるハッピーエンドに、終わって感じる満足感も高い。
2017年12月31日日曜日
2017年12月30日土曜日
『サプライズ』-スモールスケールな『ダイ・ハード』
家に押し入ってきた暴漢と戦う家族、という、このブログを始めてからでさえ何本か観ているシチュエーションのスリラー。だが観終わって思い出したのは『ダイ・ハード』だった。テロリスト集団に対して、偶然人質に紛れ込んでいたタフガイが意外な活躍をしてテロ集団を殲滅するという筋立ては、考えてみればこの映画に重なる。ただ、スケールはもちろん小さい。だがそこは期待していない。低予算で作られた「思いがけず面白い」映画を期待しているのだ。ついでに言えばタフ「ガイ」ではないし、「家族」でもない主人公の強さが、子供の頃に、終末妄想にとりつかれた父にサバイバルの訓練を受けたという過去からきているのだという、「サプライズ」な設定は微笑ましかった。
「正体不明の敵」だの「衝撃の結末」だのという宣伝文句に乗せられて観たが、仮面の男たちが、時々仮面を脱ぎ、しかも知らない顔だから、「誰?」というサスペンスは早々になくなるのだった。じゃあ動機は何なのかってえと結局わかりやすい遺産狙いなのだが、そこにいたる人間関係の葛藤が描かれているわけでもないので(まあ描いてしまうと首謀者が早くにわかってしまうのでそうするわけにもいかず)、なんだか唐突で説得力に欠ける。
となると後は追いかけっこのスリルだ。家の中を舞台にした殺し合いとなると『スクリーム』シリーズだが、そのくらいにはよくできていた(ただし『スクリーム』シリーズは家の外にも展開していくから、映画としてのふくらみはずっとある)。
が、どうにも腑に落ちない行動が多い脚本は杜撰でがっかりしてしまう。屋内に殺人犯がいることは確実なのに、まずそれに対する備えをしないでただ嘆いていたり、無防備に過ぎたりするのはどう不合理で、それが不合理であると意識されている様子も描かれていないのは、単に物語の質を落としてしまう。
主人公の反撃のはまり方が爽快なのを楽しむ映画としては楽しめた。
「正体不明の敵」だの「衝撃の結末」だのという宣伝文句に乗せられて観たが、仮面の男たちが、時々仮面を脱ぎ、しかも知らない顔だから、「誰?」というサスペンスは早々になくなるのだった。じゃあ動機は何なのかってえと結局わかりやすい遺産狙いなのだが、そこにいたる人間関係の葛藤が描かれているわけでもないので(まあ描いてしまうと首謀者が早くにわかってしまうのでそうするわけにもいかず)、なんだか唐突で説得力に欠ける。
となると後は追いかけっこのスリルだ。家の中を舞台にした殺し合いとなると『スクリーム』シリーズだが、そのくらいにはよくできていた(ただし『スクリーム』シリーズは家の外にも展開していくから、映画としてのふくらみはずっとある)。
が、どうにも腑に落ちない行動が多い脚本は杜撰でがっかりしてしまう。屋内に殺人犯がいることは確実なのに、まずそれに対する備えをしないでただ嘆いていたり、無防備に過ぎたりするのはどう不合理で、それが不合理であると意識されている様子も描かれていないのは、単に物語の質を落としてしまう。
主人公の反撃のはまり方が爽快なのを楽しむ映画としては楽しめた。
2017年12月29日金曜日
『スクープ 悪意の不在』-社会派ドラマとしてよりもコンゲームとして
この間は『チェンジング・レーン』で、役者として実に味わい深い演技を見たばかりのシドニー・ポラックの監督作品。
どうもネットでは「マスコミによる報道被害をテーマにした」という紹介のされ方をしているが、いたずらにマスコミを悪者にすることなく、それなりに報道の倫理感を保障しているいるところがシドニー・ポラック作品だ。それをしないと安っぽくなるばかりだろうから。
それよりも後半、マスコミと検察、警察を相手取って、被疑者とされた主人公が仕掛ける戦いが、コン・ゲーム・ストーリーとしておそろしく面白かった。そしてその決着をつけるべく開かれる予備審問(なのか、もっとうちうちの取引なのか)が白眉だった。ここは法廷物の面白さでもある。
残念ながら字幕だけではニュアンスのわからないセリフも多く、すべての論理の組み合い方が把握できていないのだが、とにかくこういうのは、どこかの勢力を愚かにしたり悪者にしたりしてはだめなのだ。それぞれがそれぞれの職業の倫理と方法論を戦わせているからこその緊張感だ。
残念なのは、吹き替えで見られなかったことだな。そのすごさを推測するばかりで、本当には充分に論理の綱引きが堪能できなかった。
どうもネットでは「マスコミによる報道被害をテーマにした」という紹介のされ方をしているが、いたずらにマスコミを悪者にすることなく、それなりに報道の倫理感を保障しているいるところがシドニー・ポラック作品だ。それをしないと安っぽくなるばかりだろうから。
それよりも後半、マスコミと検察、警察を相手取って、被疑者とされた主人公が仕掛ける戦いが、コン・ゲーム・ストーリーとしておそろしく面白かった。そしてその決着をつけるべく開かれる予備審問(なのか、もっとうちうちの取引なのか)が白眉だった。ここは法廷物の面白さでもある。
残念ながら字幕だけではニュアンスのわからないセリフも多く、すべての論理の組み合い方が把握できていないのだが、とにかくこういうのは、どこかの勢力を愚かにしたり悪者にしたりしてはだめなのだ。それぞれがそれぞれの職業の倫理と方法論を戦わせているからこその緊張感だ。
残念なのは、吹き替えで見られなかったことだな。そのすごさを推測するばかりで、本当には充分に論理の綱引きが堪能できなかった。
2017年12月28日木曜日
「夢十夜」の授業 3 ~第一夜も解釈する
承前
さて、上記のような授業過程で明らかにしたいのは、小説を読むという体験がいかなるものであるかである。上記の作業を通してそのひとつの側面は浮かび上がってきたはずである。
だが「第一夜」を読むことからは、もう一つ興味深い体験になりうる可能性が引き出せると筆者は考えている。それはやはりある種の「解釈」である。だがそれは「第六夜」で考察したような、主題を抽象したり、象徴を読み取ったりする「解釈」ではない。「第一夜」には、ある種の夢の構造が表出していると筆者は考えている。この点について生徒にも考察させたい。
まず生徒に次のような問いを投げかけてみる。
①女との約束を守って待っていた「自分」は、なぜ「百年がまだ来ない」と考えたのか。
②物語の終わりで、なぜ「百年はもう来ていた」ことに気づいたのか。
①については、自分は途中で数えることを放棄しているから、カウントが「百年」に達していないということではないことを確認する。そのうえで、この二つの問いの間を整合的な論理で捉えて、端的に答えよ、と指示する。
物語の因果関係が追える読者ならば、「百年経ったらきっと会いに来ると言った女が現れないから、百年はまだ来ていないと考えたのだ」と説明できる。つまり①の答えは「女がまだ会いに来ないから」である。これを裏返せば、「百年経ったことに気づいた」というのはつまり、百合を女の再来と認めたということに他ならない。したがって②の問いの答えは「女が百合になって会いに来たから」ということになる。①と②は裏表の関係として整合しあう。
このように理解するときこの物語は、女が百合に姿を変えて会いに来ることで、死に際の約束が成就するハッピーエンドの物語だと考えられる。物語冒頭の欠落(喪失)が試練の末に埋め合わされることで結末するというのは、物語の基本的なドラマツルギーである。もちろん女がそのままの「女」でないことに、ハッピーエンドとしての十全な満足はない。だがその不全感も、喪失感として小説の味わいを増しているのであって、前半の約束が結末への推進力としてはたらく要請は、確かに満たされて終わる。
さて、これを確認した上で、本文には本当に「女が百合になって会いに来た」と書いてあるのか、と問い直す。
本文を見直してみると、そのようには書かれていない。ではなぜ「自分」は百合が女の生まれ変わりであることに気づいたのだろうか。もちろんそうした疑問は、擬人化された百合の描写によって読者にはあっさりと看過されてしまう。百合が女の生まれ変わりであることは自明であるように感じられる。明らかに作者はそのような印象を読者に与えようとしている。
だが、やはり本文には明確にそのような思考の因果関係が書かれているわけではないのである。
そこで②について、本文に基づいて、別の答え方ができないか、とあらためて問う。
だが、あらためて読んでみると、それは読者にそう了解されるのであって、「自分」がそのことに気づいたとは直截的には書いてはいない。とはいえ、そう考えることは、明確に書いてはいなくとも自然なことのように思われる。だからむしろ「本当にそう書いてあるのか」などと問われても、なぜわざわざそんな明白な論理に疑問を投げかけるのか、と生徒は思うかもしれない。
そこでさらに次のように問う。
③「このとき初めて気がついた。」の「このとき」とはいつか。
「自分」に約束の成就の気づきをもたらす「このとき」とは何を指しているか。問題は「とき」と指定されるある時点ではない。「この」が指している範囲である。右の論理に従えば、「このとき」とは、百合に接吻してから顔を離すまでの一連の動作が終わった「とき」のことだと理解できる。そこでこの行為と「気がついた」に因果関係があると、読者はみなす。この行為が気づきをもたらしたのである。
だがそれが本当の論理的脈絡なのだろうか。
素直に本文を見直してみると、「気がつ」く直前に「自分」は「暁の星がたった一つ瞬いてい」るのを見ている。「この」が指しているのはこの部分だと考えることはできないだろうか。
すなわち、この一節から導かれる論理は、「自分」が百年経っていたことに気づいたのは、「暁の星」が瞬いているのを見たことに拠る、という因果関係なのではないか。
そうした発想が誰かから提出されたら、これを先ほどのような二択の問いとしてあらためて生徒に投げかけてもよい。②「物語の終わりで、なぜ「百年はもう来ていた」ことに気づいたのか。」の答えとして次のどちらを支持するか。
a 女が百合になって会いに来たから
b 暁の星を見たから
だが徒に生徒に混乱を与えてもしかたない。むしろaとbがどのような関係になっているかを考えるよう指示する。
「暁の星」とは何を意味するか。もちろん、意味を見出せない要素は、この小説の中にいくらでもある。「真珠貝」然り、「星の破片」然り。あるいはそれらは、小説の構造を支える明確な「意味」をもった構成要素なのかもしれない。だが今のところ筆者の目には、それらはその「意味」について考えても仕方のないような単なる「ロマンチックな」ガジェットに過ぎないように映っている。「暁の星」も同様のギミックに過ぎないのだろうか。
この部分について考察させるために「暁」の意味を生徒に確認しておく。「暁」とは何か、と聞いて「夜明けのこと」というような回答を引き出すだけでいい。そのうえでこの描写の意味することをあらためて問う。
筆者の提示したい「解釈」とは次のようなものだ。
「暁の星がたった一つ瞬いていた」という描写が意味するものは「夜明け」である。それを「暁の」星だと認識するということは、この瞬間に夜明けが近づいていることに気づいたということである。これはつまり、夢から覚める自覚が生じた、意識が覚醒しかけている、ということを意味しているのである。
「自分」に百年の経過の気づきをもたらしたのは、百合の花の正体ではなく、この覚醒の自覚である。
考えてみると、それまでいくつも通り過ぎていく「赤い日」は、それが昼間であることを意味しているような印象をまったく感じさせない。ただ書き割りのような空を背景として通り過ぎていくだけだ。昼に対応する夜も描かれていない。「自分」が眠ったり起きたりする記述もない。したがって、日が昇ったり沈んだりするからには、その度ごとに「暁」はあったはずなのだろうが、結局のところ時間がいくら経過していても、そこに本当の夜明けは来ていない。
「自分」は本当は、女を埋めた時のまま、夜の底にひとり座り続けているのではないか。
そして「自分」が「暁の星」を見た瞬間にようやく夜明けがおとずれる。これも、精確に言えば、目覚めの気配によって、それを「暁の星」だとする「解釈」がなされたと言うべきである。そして夜明けのおとずれが意味しているのは、夢の終わりである。その時、そこまでの女をめぐるあれこれ、そして「百年」が一夜の夢として完結するのである。
とすると、先ほどの論理は転倒している。百合が女の生まれ変わりだと気づいたから「百年はもう来ていたんだな」と気づいたのではなく、むしろ百年が来ていたことに気づくことによって、百合が女の生まれ変わりであったという解釈が生まれた、というのが真実なのではないか。そしてそれが、物語を振り返ってみた時には忘却されているだけなのではないか。つまり「百合が女の生まれ変わりであることに気づいた」という認識は、いわば遡って捏造されたものなのではないか。
この「気づき」に見られる奇妙な納得のありようは、紛れもない「夢」の感触として我々にも覚えがある。目が覚めて夢を思い出すとき、現実が夢に影響していたことを自覚できることがある。我々の語る夢は、覚醒時から遡って解釈されるのである。それは小説の論理が、読者によって解釈され、見出されたものであるのに似ている。先の「捏造」は「自分」がしたのではなく、実は読者がテキストを解釈する過程でしたのだと言える。
「百年」とは「永遠」のことだ、などというしばしば目にする「解釈」に対してここで筆者が提示するのは、「百年」とは夜明け、つまり夢の終わりまでの期間を意味しているのだ、という「解釈」である。夢の終わりによって約束が成就するならば、確かに女との再会は同時に直ちに訣別をも意味することになる。とすればやはりこれも女との恋愛の不可能性を意味しているという言い方もできないわけではないのだが、そうした言葉遊びは、それほど魅力的なものだとは筆者には思えない。
生徒にはもちろんこうした「解釈」を、この小説の一つの読みとして体験させたいだけで、それを「正解」として「教える」つもりはない。生徒自身の読みこそが問われるべきなのだ。右のような読みは、小説の読みの可能性の一つとして提示するだけだ。
だが、国語科の授業として、このような読みの体験をさせることには意味があるだろうという感触はある。小説の読解の自由度、可能性を感じさせることにも意味がある。だがそれだけでなく、小説の読解がどのようにして成立するかをあらためてテキストに則って検討すること自体がここでの授業の本義である。それを成立させる教材として「夢十夜」は豊かな可能性をもった小説だといえる。
さて、上記のような授業過程で明らかにしたいのは、小説を読むという体験がいかなるものであるかである。上記の作業を通してそのひとつの側面は浮かび上がってきたはずである。
だが「第一夜」を読むことからは、もう一つ興味深い体験になりうる可能性が引き出せると筆者は考えている。それはやはりある種の「解釈」である。だがそれは「第六夜」で考察したような、主題を抽象したり、象徴を読み取ったりする「解釈」ではない。「第一夜」には、ある種の夢の構造が表出していると筆者は考えている。この点について生徒にも考察させたい。
まず生徒に次のような問いを投げかけてみる。
①女との約束を守って待っていた「自分」は、なぜ「百年がまだ来ない」と考えたのか。
②物語の終わりで、なぜ「百年はもう来ていた」ことに気づいたのか。
①については、自分は途中で数えることを放棄しているから、カウントが「百年」に達していないということではないことを確認する。そのうえで、この二つの問いの間を整合的な論理で捉えて、端的に答えよ、と指示する。
物語の因果関係が追える読者ならば、「百年経ったらきっと会いに来ると言った女が現れないから、百年はまだ来ていないと考えたのだ」と説明できる。つまり①の答えは「女がまだ会いに来ないから」である。これを裏返せば、「百年経ったことに気づいた」というのはつまり、百合を女の再来と認めたということに他ならない。したがって②の問いの答えは「女が百合になって会いに来たから」ということになる。①と②は裏表の関係として整合しあう。
このように理解するときこの物語は、女が百合に姿を変えて会いに来ることで、死に際の約束が成就するハッピーエンドの物語だと考えられる。物語冒頭の欠落(喪失)が試練の末に埋め合わされることで結末するというのは、物語の基本的なドラマツルギーである。もちろん女がそのままの「女」でないことに、ハッピーエンドとしての十全な満足はない。だがその不全感も、喪失感として小説の味わいを増しているのであって、前半の約束が結末への推進力としてはたらく要請は、確かに満たされて終わる。
さて、これを確認した上で、本文には本当に「女が百合になって会いに来た」と書いてあるのか、と問い直す。
本文を見直してみると、そのようには書かれていない。ではなぜ「自分」は百合が女の生まれ変わりであることに気づいたのだろうか。もちろんそうした疑問は、擬人化された百合の描写によって読者にはあっさりと看過されてしまう。百合が女の生まれ変わりであることは自明であるように感じられる。明らかに作者はそのような印象を読者に与えようとしている。
だが、やはり本文には明確にそのような思考の因果関係が書かれているわけではないのである。
そこで②について、本文に基づいて、別の答え方ができないか、とあらためて問う。
自分は首を前へ出して、冷たい露の滴る、白い花弁に接吻した。自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。我々はこの一節に、思わず接吻してしまったその百合が女の生まれ変わりであることに気づく→女との約束が成就したことに気づく=百年が来ていたことに気づく、という論理展開をみとめる。もちろん「骨にこたえるほど匂」うのは女の官能性を表しているだろうし、「自分」が思わず接吻してしまうのも、それが女の生まれ変わりであればこそだ。
「百年はもう来ていたんだな。」とこのとき初めて気がついた。
だが、あらためて読んでみると、それは読者にそう了解されるのであって、「自分」がそのことに気づいたとは直截的には書いてはいない。とはいえ、そう考えることは、明確に書いてはいなくとも自然なことのように思われる。だからむしろ「本当にそう書いてあるのか」などと問われても、なぜわざわざそんな明白な論理に疑問を投げかけるのか、と生徒は思うかもしれない。
そこでさらに次のように問う。
③「このとき初めて気がついた。」の「このとき」とはいつか。
「自分」に約束の成就の気づきをもたらす「このとき」とは何を指しているか。問題は「とき」と指定されるある時点ではない。「この」が指している範囲である。右の論理に従えば、「このとき」とは、百合に接吻してから顔を離すまでの一連の動作が終わった「とき」のことだと理解できる。そこでこの行為と「気がついた」に因果関係があると、読者はみなす。この行為が気づきをもたらしたのである。
だがそれが本当の論理的脈絡なのだろうか。
素直に本文を見直してみると、「気がつ」く直前に「自分」は「暁の星がたった一つ瞬いてい」るのを見ている。「この」が指しているのはこの部分だと考えることはできないだろうか。
すなわち、この一節から導かれる論理は、「自分」が百年経っていたことに気づいたのは、「暁の星」が瞬いているのを見たことに拠る、という因果関係なのではないか。
そうした発想が誰かから提出されたら、これを先ほどのような二択の問いとしてあらためて生徒に投げかけてもよい。②「物語の終わりで、なぜ「百年はもう来ていた」ことに気づいたのか。」の答えとして次のどちらを支持するか。
a 女が百合になって会いに来たから
b 暁の星を見たから
だが徒に生徒に混乱を与えてもしかたない。むしろaとbがどのような関係になっているかを考えるよう指示する。
「暁の星」とは何を意味するか。もちろん、意味を見出せない要素は、この小説の中にいくらでもある。「真珠貝」然り、「星の破片」然り。あるいはそれらは、小説の構造を支える明確な「意味」をもった構成要素なのかもしれない。だが今のところ筆者の目には、それらはその「意味」について考えても仕方のないような単なる「ロマンチックな」ガジェットに過ぎないように映っている。「暁の星」も同様のギミックに過ぎないのだろうか。
この部分について考察させるために「暁」の意味を生徒に確認しておく。「暁」とは何か、と聞いて「夜明けのこと」というような回答を引き出すだけでいい。そのうえでこの描写の意味することをあらためて問う。
筆者の提示したい「解釈」とは次のようなものだ。
「暁の星がたった一つ瞬いていた」という描写が意味するものは「夜明け」である。それを「暁の」星だと認識するということは、この瞬間に夜明けが近づいていることに気づいたということである。これはつまり、夢から覚める自覚が生じた、意識が覚醒しかけている、ということを意味しているのである。
「自分」に百年の経過の気づきをもたらしたのは、百合の花の正体ではなく、この覚醒の自覚である。
考えてみると、それまでいくつも通り過ぎていく「赤い日」は、それが昼間であることを意味しているような印象をまったく感じさせない。ただ書き割りのような空を背景として通り過ぎていくだけだ。昼に対応する夜も描かれていない。「自分」が眠ったり起きたりする記述もない。したがって、日が昇ったり沈んだりするからには、その度ごとに「暁」はあったはずなのだろうが、結局のところ時間がいくら経過していても、そこに本当の夜明けは来ていない。
「自分」は本当は、女を埋めた時のまま、夜の底にひとり座り続けているのではないか。
そして「自分」が「暁の星」を見た瞬間にようやく夜明けがおとずれる。これも、精確に言えば、目覚めの気配によって、それを「暁の星」だとする「解釈」がなされたと言うべきである。そして夜明けのおとずれが意味しているのは、夢の終わりである。その時、そこまでの女をめぐるあれこれ、そして「百年」が一夜の夢として完結するのである。
とすると、先ほどの論理は転倒している。百合が女の生まれ変わりだと気づいたから「百年はもう来ていたんだな」と気づいたのではなく、むしろ百年が来ていたことに気づくことによって、百合が女の生まれ変わりであったという解釈が生まれた、というのが真実なのではないか。そしてそれが、物語を振り返ってみた時には忘却されているだけなのではないか。つまり「百合が女の生まれ変わりであることに気づいた」という認識は、いわば遡って捏造されたものなのではないか。
この「気づき」に見られる奇妙な納得のありようは、紛れもない「夢」の感触として我々にも覚えがある。目が覚めて夢を思い出すとき、現実が夢に影響していたことを自覚できることがある。我々の語る夢は、覚醒時から遡って解釈されるのである。それは小説の論理が、読者によって解釈され、見出されたものであるのに似ている。先の「捏造」は「自分」がしたのではなく、実は読者がテキストを解釈する過程でしたのだと言える。
「百年」とは「永遠」のことだ、などというしばしば目にする「解釈」に対してここで筆者が提示するのは、「百年」とは夜明け、つまり夢の終わりまでの期間を意味しているのだ、という「解釈」である。夢の終わりによって約束が成就するならば、確かに女との再会は同時に直ちに訣別をも意味することになる。とすればやはりこれも女との恋愛の不可能性を意味しているという言い方もできないわけではないのだが、そうした言葉遊びは、それほど魅力的なものだとは筆者には思えない。
生徒にはもちろんこうした「解釈」を、この小説の一つの読みとして体験させたいだけで、それを「正解」として「教える」つもりはない。生徒自身の読みこそが問われるべきなのだ。右のような読みは、小説の読みの可能性の一つとして提示するだけだ。
だが、国語科の授業として、このような読みの体験をさせることには意味があるだろうという感触はある。小説の読解の自由度、可能性を感じさせることにも意味がある。だがそれだけでなく、小説の読解がどのようにして成立するかをあらためてテキストに則って検討すること自体がここでの授業の本義である。それを成立させる教材として「夢十夜」は豊かな可能性をもった小説だといえる。
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2017年12月27日水曜日
「夢十夜」の授業 2 ~第一夜は解釈しない
承前
「第六夜」について上記のように「解釈」することは、これが「夢」そのものではなく「小説」という物語として語られる以上、可能なアプローチとして認めてもいいように思われる。
同様に「第一夜」にもさまざまな謎が、いかにも「解釈」を求めているような顔で並んでいる。だが、「第一夜」が、「第六夜」のように、全体としては、どのような意味であれ腑に落ちる「解釈」の可能な物語だと思ってはいない。なぜ女が唐突に「死にます」などと言うのか、「百年経ったら会いに来る」とはどのような意味か、「星の破片」「真珠貝」にはどのような意味があるのか、などといった、いかにも「謎めいた」設定に明確な意味を見いだすことに手応えのある見通しはない。むしろ何も言ってもこじつけになりそうだという予想はある。「百年とは永遠を意味しているから、『百年経ったら会いに来る』とは再び会うことの不可能性を意味しているのだ」とか、「星の破片やはるかの上から落ちてくる露など、天との交感が暗示されている」などというしばしば目にする「解釈」は、何かしら腑に落ちるような感覚を与えてくれはしない。だから授業では結局のところこの物語を、「解釈」を目的として「使う」つもりではない。
筆者にとって「第一夜」を教材として授業で扱う目的は、小説における描写の意義について考えさせることである。
まず生徒に「第一夜」を、一〇〇字程度に要約させる。
冒頭に、読者はすべての小説を「解釈」しているわけではないと述べた。また「第一夜」は、「第六夜」のようには解釈しないとも述べた。だが要約とは既にその過程にテキストの解釈を前提とする行為だ。テキストに書かれた何が取り除いてはいけない骨なのかという判断自体が既にある種の「解釈」に拠るからである。
だがそれは「第六夜」で行ったような、抽象化を伴う解釈ではない。物語の各要素の論理的な因果関係を判断する「解釈」である。骨として選ばれた要素が、物語中の具体/抽象レベルのままでいいのである。
授業者による要約を紹介して授業をその先に進める。
百年経ったらきっとまた逢いに来ますと言い残して死んでしまった女を墓の前で長い間待っていたが、そのうち女の約束を疑うようになった。すると墓の下から茎が伸びて目の前に百合の花が開いた。百年が来ていたことに気づいた。(105字)
右の要約において抽出した骨組みと、完成された作品の間にあるものが何なのかを考えさせる。この時点で、作品とは骨以外に何でできているかを問う。様々な答えを許容しつつ、生徒に挙げさせたい語句は「描写」と「形容」である。後の具体例を使って誘導してもいい。
それから、生徒に次のような指示をする。
取り除いて前後をつめてしまってもストーリーの把握の上で支障のない「形容」および「映像的描写」に傍線を引け。
冒頭の一段落で具体的に見てみる。
試みに、取り除いて、つめてみよう。
この作業を通して浮かび上がるこの小説の文体の特徴とは何か。それはいわば、過剰な「叙景」である。「第一夜」には異様とも言える密度で、形容詞や形容動詞や副詞によって、映像が修飾されている。またそもそも、読者に映像を喚起させる描写が、これもまた、しつこいほどに念入りに配置されているのである。
実際にそのようにして「つめ」てみた文章を朗読する。自分が傍線を引いた部分との違いを各自に意識させる。そこも「つめ」られるのか、などと思いつつ、生徒はこの小説における描写の密度を実感するはずだ。文字数にして半分ほどに原文をつめてみても、ストーリーを追う上ではほとんど支障がないどころか、物語的には原文とほとんどかわらないような印象があるのである。逆に言えば「第一夜」には、ストーリーを語る上で必須とは言えない描写や形容が、過剰とも言える密度で書き込まれているのである。
さて結局のところ、要約された作品の骨組みと、元の作品との間には何があるか。
漠然と、完成作品の方が「詳しい」「細かい」とは生徒にも言える。だが具体的に、肉として、皮膚として、衣服として塗り重ねられたものは何なのか。
まずはプロットの展開がある。だがそれでも完成作品の半分ほどの量なのである。そのうえにあるのが、先ほど傍線を引いた「形容」「描写」なのである。これらは小説にとってどのような機能を果たしているか。視覚的想像を喚起する、感情移入させる、臨場感が増す…。どのような表現であれ、生徒に考えさせたい。
こうした授業過程を経た後で、たとえば茂木健一郎の「見る」という文章を読む。茂木は「見る」という行為について次のように述べる。
ここにある「モナ・リザ」が「夢十夜」に、つまり「絵を見る」が「小説を読む」に対応しているのである。
「要約」なくして「絵を見る」ことはできないが、「絵を見る」という体験は同時に「絵を構成する色や形などの細部」が「時々刻々失われていく体験として、私たちの魂を通り過ぎる」ことでもある。「夢十夜」を読んで、それが何を語っている小説なのかを認識するために、我々は「解釈」(「第六夜」で試みたように)したり「要約」(「第一夜」で試みたように)したりする。それが小説を読むということでもある。
だが一方で、その時「指の間から砂がこぼれ落ちるように圧倒的に失われ」てしまうものこそが小説の「豊穣」でもあるのである。漱石の紡ぐ物語は、その「豊穣」によってこそ小説たりえている。
続く 「夢十夜」の授業3 ~第一夜も解釈する
「第六夜」について上記のように「解釈」することは、これが「夢」そのものではなく「小説」という物語として語られる以上、可能なアプローチとして認めてもいいように思われる。
同様に「第一夜」にもさまざまな謎が、いかにも「解釈」を求めているような顔で並んでいる。だが、「第一夜」が、「第六夜」のように、全体としては、どのような意味であれ腑に落ちる「解釈」の可能な物語だと思ってはいない。なぜ女が唐突に「死にます」などと言うのか、「百年経ったら会いに来る」とはどのような意味か、「星の破片」「真珠貝」にはどのような意味があるのか、などといった、いかにも「謎めいた」設定に明確な意味を見いだすことに手応えのある見通しはない。むしろ何も言ってもこじつけになりそうだという予想はある。「百年とは永遠を意味しているから、『百年経ったら会いに来る』とは再び会うことの不可能性を意味しているのだ」とか、「星の破片やはるかの上から落ちてくる露など、天との交感が暗示されている」などというしばしば目にする「解釈」は、何かしら腑に落ちるような感覚を与えてくれはしない。だから授業では結局のところこの物語を、「解釈」を目的として「使う」つもりではない。
筆者にとって「第一夜」を教材として授業で扱う目的は、小説における描写の意義について考えさせることである。
まず生徒に「第一夜」を、一〇〇字程度に要約させる。
冒頭に、読者はすべての小説を「解釈」しているわけではないと述べた。また「第一夜」は、「第六夜」のようには解釈しないとも述べた。だが要約とは既にその過程にテキストの解釈を前提とする行為だ。テキストに書かれた何が取り除いてはいけない骨なのかという判断自体が既にある種の「解釈」に拠るからである。
だがそれは「第六夜」で行ったような、抽象化を伴う解釈ではない。物語の各要素の論理的な因果関係を判断する「解釈」である。骨として選ばれた要素が、物語中の具体/抽象レベルのままでいいのである。
授業者による要約を紹介して授業をその先に進める。
百年経ったらきっとまた逢いに来ますと言い残して死んでしまった女を墓の前で長い間待っていたが、そのうち女の約束を疑うようになった。すると墓の下から茎が伸びて目の前に百合の花が開いた。百年が来ていたことに気づいた。(105字)
右の要約において抽出した骨組みと、完成された作品の間にあるものが何なのかを考えさせる。この時点で、作品とは骨以外に何でできているかを問う。様々な答えを許容しつつ、生徒に挙げさせたい語句は「描写」と「形容」である。後の具体例を使って誘導してもいい。
それから、生徒に次のような指示をする。
取り除いて前後をつめてしまってもストーリーの把握の上で支障のない「形容」および「映像的描写」に傍線を引け。
冒頭の一段落で具体的に見てみる。
腕組みをして枕元に坐っていると、仰向きに寝た女が、静かな声でもう死にますと言う。女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔をその中に横たえている。真っ白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇の色はむろん赤い。とうてい死にそうには見えない。しかし女は静かな声で、もう死にますとはっきり言った。自分も確かにこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上から覗き込むようにしてきいてみた。死にますとも、と言いながら、女はぱっちりと眼を開けた。大きな潤いのある眼で、長い睫に包まれた中は、ただ一面に真っ黒であった。その真っ黒な眸の奥に、自分の姿が鮮やかに浮かんでいる。斜体部分は、取り除いて前後をつめてしまっても、ストーリーの把握の上で支障がないばかりか、日本語としても不自然ではない「形容」である。傍線部もまた、除いてもストーリーの把握には支障のない「描写」である。上のように「描写」の中にもさらに「形容」が施されている。
試みに、取り除いて、つめてみよう。
枕元に坐っていると、仰向きに寝た女が、もう死にますと言う。死にそうには見えない。しかし女は、もう死にますと言った。自分もこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、ときいてみた。死にますとも、と言いながら、女は眼を開けた。眸の奥に、自分の姿が浮かんでいる。右に示したとおり、「取り除いてもかまわない」かどうかというのは、実は判断の揺れる問題で、この部分がそれに該当する「正解」であるかどうかを厳密に判定はできない。また「形容」(波線部)と「映像的描写」(傍線部)も厳密な区別ではない。だが、考えることで、この小説の文体の特徴を実感することができる。時間をおいて生徒同士で確認させるか発表させるなどして、その適否を検討していく。
この作業を通して浮かび上がるこの小説の文体の特徴とは何か。それはいわば、過剰な「叙景」である。「第一夜」には異様とも言える密度で、形容詞や形容動詞や副詞によって、映像が修飾されている。またそもそも、読者に映像を喚起させる描写が、これもまた、しつこいほどに念入りに配置されているのである。
実際にそのようにして「つめ」てみた文章を朗読する。自分が傍線を引いた部分との違いを各自に意識させる。そこも「つめ」られるのか、などと思いつつ、生徒はこの小説における描写の密度を実感するはずだ。文字数にして半分ほどに原文をつめてみても、ストーリーを追う上ではほとんど支障がないどころか、物語的には原文とほとんどかわらないような印象があるのである。逆に言えば「第一夜」には、ストーリーを語る上で必須とは言えない描写や形容が、過剰とも言える密度で書き込まれているのである。
さて結局のところ、要約された作品の骨組みと、元の作品との間には何があるか。
漠然と、完成作品の方が「詳しい」「細かい」とは生徒にも言える。だが具体的に、肉として、皮膚として、衣服として塗り重ねられたものは何なのか。
まずはプロットの展開がある。だがそれでも完成作品の半分ほどの量なのである。そのうえにあるのが、先ほど傍線を引いた「形容」「描写」なのである。これらは小説にとってどのような機能を果たしているか。視覚的想像を喚起する、感情移入させる、臨場感が増す…。どのような表現であれ、生徒に考えさせたい。
こうした授業過程を経た後で、たとえば茂木健一郎の「見る」という文章を読む。茂木は「見る」という行為について次のように述べる。
「見る」という体験は、その時々の意識の流れの中に消えてしまう「視覚的アウェアネス」と、概念化され、記憶に残るその時々に見ているものの「要約」という二つの要素からなる複合体なのである。(略)たとえばこの一節に述べられていることを上記の授業過程と比較するよう指示する。何が言えるか(実際に生徒に読ませるのはもっと長い文章である)。
視野の中に見える「モナ・リザ」の部分部分が集積してある印象を与えることで人間の脳は深い感銘を受ける。印象を結ぶ脳の編集、要約作業の過程で、ある抽象的な「要約」が生まれるからこそ、「モナ・リザ」は特別な意味を持つ。
しかし、その「要約」だけでは、「モナ・リザ」の前に立つという体験を再現することはできない。その絵の前に立つとき、さまざまな要約が脳の中では現れ、深化し、変貌し、記憶される。その一方で、絵を構成する色や形などの細部は、決してそのすべてをとどめておくことができない「意識の流れ」の中で、時々刻々失われていく体験として、私たちの魂を通り過ぎる。
何かをつかみつつも、指の間から砂がこぼれ落ちるように圧倒的に失われつつあるもの。その豊穣な喪失こそが、絵を見るという体験の本質である。
ここにある「モナ・リザ」が「夢十夜」に、つまり「絵を見る」が「小説を読む」に対応しているのである。
「要約」なくして「絵を見る」ことはできないが、「絵を見る」という体験は同時に「絵を構成する色や形などの細部」が「時々刻々失われていく体験として、私たちの魂を通り過ぎる」ことでもある。「夢十夜」を読んで、それが何を語っている小説なのかを認識するために、我々は「解釈」(「第六夜」で試みたように)したり「要約」(「第一夜」で試みたように)したりする。それが小説を読むということでもある。
だが一方で、その時「指の間から砂がこぼれ落ちるように圧倒的に失われ」てしまうものこそが小説の「豊穣」でもあるのである。漱石の紡ぐ物語は、その「豊穣」によってこそ小説たりえている。
続く 「夢十夜」の授業3 ~第一夜も解釈する
2017年12月26日火曜日
「夢十夜」の授業 1 ~第六夜は解釈する
ここ数年で1学年を担当することが3回あって、その1回目の時に、夏目漱石の「夢十夜」の「第一夜」について、今までと全く違う解釈を思いついた。その年の授業については以前まとめたことがある。(さらに最近書き直したもの『夢十夜』の最近の授業)
この、いわゆる「コペルニクス的転回」的な認識の変容は我ながらいささか衝撃的で、「夢十夜」の授業についてのアプローチを大きく変えることになった。それ以前から想定していた「夢十夜」の教材としての価値についても再考し、あらためてひとまとまりの授業の構想を立てて、その後2回の1学年担当で実施してみた。
3回目の実施となる今年度の様子を、ここに記録しておく。
「夢十夜」の教科書採録に際しては、以前は「第三夜」が収録されていることもあったが、近年は「第一夜」と「第六夜」のみの収録が一般的である。この場合、最初の通読は「第一夜」「第六夜」の順でいいが、読解は「第六夜」から行う。これは、「第六夜」の方が、生徒にとって馴染んだ「国語科授業」的扱いができるからだ。あえて「解釈」をするのである。
授業で小説を扱うということは、その小説の「解釈」を「教える」ことではない。そもそも小説を読むときに、いちいち「解釈」をしているという実感は、我々にはない。大衆小説の多くは「解釈」を必要とするような感触がなく、読めばただちに「わかる」と感ずるし、あるいは村上春樹のように、わからなくても、楽しかったり怖かったりと、何らかの感銘を与えてくれる小説もある。だから授業でも、小説によってはただ読むだけでいい。それ以上に、読めばわかる小説内情報をいたずらに整理して確認する必要などない(といってもちろん、作者の伝記的事項や作品制作の背景などの小説外情報を伝達することも、授業で小説を扱うことの本義ではない。本論における「夢十夜」の読解にも、漱石個人の伝記的事実は無関係である)。
だが、読んだだけでは何かわりきれない感触が残る小説には、何らかの「解釈」が欲求される。それは読者としての人情というだけでなく、国語科学習の好機だ。そのとき、生徒自身が「解釈」しようとするのなら、それは意味あることだ。「解釈」は小説読解にとって必須の行為ではなく、国語科学習にとっての好機なのである。それは決して教師によって提示されるべきものではなく、生徒自身が取り組むべき課題である。
「夢十夜」は「夢」という体裁をとった小説だから、物語の筋立てにせよ、情景の描写にせよ、いちいち明瞭な、見慣れた、自明の「意味」をもたない記述に満ちている。「夢」だという建前を信ずるならば、それらを既存の「意味」に落とし込むような「解釈」はいたずらに見当外れな穿ちすぎということになりかねない。
だが、これが少なくとも「小説」という器に注がれて我々の前にある以上は、それに対して作者と読者である我々の間にコミュニケーションの成立する可能性はあるはずだ。夢そのものでさえ、語られる以上は精神分析という「解釈」の対象となりうるのである。まして授業という場では、その「意味」をめぐる考察は国語学習の好機となるべく期待をしても良いかもしれない。そして「第六夜」はそうした考察の対象となりそうな感触がある。なおかつ、そうした「解釈」をすることは、後に続く「第一夜」の読解の特殊さを意識させるための伏線にもなる。
最初にまず「第六夜」を「解釈」するのだ、と宣言する。
①「第六夜」の主題は何か。「第六夜」はつまり何を言っているのか。
本当は、こんなことはあらためて言う必要もない。だが、常にこの問いの答えにつながるかどうかを視野に入れつつ以下の考察を行うべきであることを確認しておく必要性は、実際にはある。以下の問いが一問一答式の答え合わせになってしまわぬよう、生徒自身が考える方向を忘れぬためである。
「解釈」とは、小説内情報の論理について、さまざまなレベルでの結合を意図する思考だが、その中でも、全体を統覚する論理がいわゆる「主題」である。「主題」とはつまり、この小説は何を言っているのかを、小説内の出来事のレベルよりも抽象的なレベルで語ることである。まずはそのように大きな見通しを提示しておいて次の問いを提示する。
②「運慶が今日まで生きている理由」とは何か。
末尾の一文で、「自分」はこの「理由」が「ほぼわかった」という。だがそれが何かを語ることなく小説は終わる。語り手が「わかった」というものを読者がわからないままに済ますわけにはいかない。といってすべての読者にそれが自明なわけでもない。いかんともしがたく「解釈」の欲求を誘う記述である。
この問いは、たとえば「なぜ鎌倉時代の人間である運慶が今日(明治時代)まで生きているのか」という問いではない。我々がその不思議の意味を問われているわけではない。その不条理をとりあえず引き受けたところに「夢」の感触があるからだ。だからあくまでこれは語り手の「自分」が思い至った「生きている理由」が何かを問うているのである。
この「理由」は、この小説が何を言っている小説なのか、という全体の理解の中に位置づけられるべきである。物語の締めくくりに置かれたこの「自分」の悟りが小説全体の「意味」を支えていると思われるからだ。
そうした問題を意識した上であらためて小説の展開や細部から必要な情報を読み取っていく。そのために、さらに補助的な問いを提示していく。
③「明治の木にはとうてい仁王は埋まっていない」とはどういうことか。
②を明らかにするためには、まず③を解決する必要がある。③の認識によって、「それで」②が「わかった」と「自分」は言っているからである。
「仁王は埋まっていない」とは、「仁王が掘り出せない=仁王像を彫れない」の隠喩である。だが隠喩で表される認識が「彫れない」という認識と同じだというわけではない。なぜ「自分には彫れない」ではなく「仁王は埋まっていない」なのか。なぜそれが「とうてい」なのか。
「どういうことか」という問いは、包括的であることに意義がある一方で、目標が定まらないから思考や論議が散漫になるきらいがある。生徒の様子を見て、問いを変形する。
たとえば上述の問いを次のように変形する。
③仁王が彫れないのは、「自分のせい」か、「木のせい」か。
複数の選択肢を提示して生徒に選択させる、という発問は、思考を活性化させるために有効である。人間の思考は、物事の対比において、差異線をなぞるようにしか成立しないからだ。もちろん結論がどちらかを決定しようとしているわけではない。どちらが適切だろうか、と考えることで、文中から根拠となるべき情報を読み取ろうとするのである。それが思考を活性化させる。そのインセンティブを導引するには、問いという形式は有効だし、とりわけ選択肢のある問いは、生徒の思考を読解に向かわせる。
本文は「明治の木にはとうてい仁王は埋まっていない」といっているのだから、「木のせい」というのが素直な答えだが、どうもすんなりと納得はしがたい。「明治の木には…埋まっていない」というのはなんとなく無責任に過ぎるような気もして、ではどういう意味で「自分のせい」だと言えるかと考えると、ことはそれほど簡単ではなさそうである。実際に印象のみを二択で聞いてみると、生徒の意見は分かれる。
この問いをさらに微分すると、「明治の木にはとうてい仁王は埋まっていない」とは「運慶には彫れるが自分には彫れない」ということなのか「鎌倉時代の木には仁王が埋まっているが明治の木には埋まっていない」ということなのか、と言い換えることができる。これはつまり「運慶にも、明治の木から仁王を掘り出すことはできないのか?」という問いを背後に隠し持っているということになる。
②についても例えば次のように選択的な問いに変形することができる。
②x「運慶が今日まで生きている理由」とは「運慶にとって自分が今日まで生きている理由」なのか、「我々(語り手)にとって運慶が生きている理由」なのか。
②y「運慶が今日まで生きている理由」とは「今日まで生きていられた理由」なのか、「生きていなければならない理由」なのか。
これらは単に日本語の解釈の可能性を押し広げて創作した問いだ。xとyの組み合わせで4つの解釈ができる。「運慶が考える、自身が生きていられる理由」「運慶が考える、自身が生きていなければならない理由」「運慶が生きていられると『自分』が考える理由」「運慶は生きていなければならない、と『自分』が考える理由」である。ニュアンスを細分化することで、ここで明らかにしなければならないことを互いに共有する。
といって、どれかを排他的に正解とすることを目指すのではない。やはり、どちらであるかを考えることが、思考を推し進めていくことに資すれば良い。
さて③における「明治の木」は、なぜ「明治の」でなければならないのか。仁王を堀り出せないのは、それが「明治の」木であったからだ。だが、例えば「鎌倉時代の木」からならば「自分」にも仁王が掘り出せるのだろうか。そもそも護国寺の山門で今しも運慶が刻んでいるのは、いったいいつの木なのだろうか。「鎌倉の木」か。それが「明治の木」だったなら、運慶にも仁王を彫ることは適わないのだろうか。
そう考えてみると、「明治の木」とはそもそも、明治人であるところの「自分」が彫っている木のことなのかもしれない。たとえ運慶でも「明治の木」からは仁王が掘り出せないのだ、ということではなく、運慶が掘ればそれはすなわち「鎌倉の木」ということになるのかもしれない。
つまりそれは「自分」という個人の問題ではなく、明治の人間としての「自分」の問題である。とすれば③は「自分のせい」だと言っても「木のせい」だと言っても同じことになる。問題は「明治」という時代なのである。
そこでさらなる誘導として、次のような直裁的な問いを投げかける。
④明治とはどういう時代か。
たとえば「こころ」で言及される「明治」という時代について考察することは、高校生一年生には手に余る問題だ。それは人類史にとっての「近代」の問題である。
だがここでの「明治」は日本史にとっての江戸の終焉に続く特殊な時代のことである。つまり生徒には、まず「黒船」「開国」「維新」「文明開化」などが想起されれば良い(もちろんそれも、ひいては世界史の「近代」の問題に敷衍できるだろうが)。
時間に余裕があれば補助的に次のような問いを投げかけてもいい。
⑤見物人はどのような存在として描かれているか。
作品細部の描写には、作品をどのようなものとして成立させたいかという作者の意図が表れている。これもまた「解釈」するための重要な要素として取り上げるに値する。
もうひとつ聞いておきたいことがある。「運慶」とはそもそも何者か。
⑥この小説における「運慶」とはどういった存在か、何を象徴するか?
鎌倉時代の実在の人物が明治という時代に現れるという設定は、夢らしい荒唐無稽さであるというより、むしろ小説としての意図がありそうである。それを明確に語ることこそこの小説の主題を語ることにほかならない。
だが「どういった」という問いはどこをめざして考察すればいいのかがはっきりしない。考えあぐねているようならば、たとえば「何の象徴か」と聞く。名詞(名詞句)を挙げさせるのである。
「運慶は見物人の評判には委細頓着なく」「眼中に我々なし」といった描写から、見物人は運慶を見ているが、逆に運慶からはこちらが見えていないのではないか、と言った生徒がいたが、こうした発想は面白いものの、どこにたどりつくのか、今のところ筆者にはわからない。それより注目させたいのは次の一節である。
運慶の仕事ぶりについて見物の若い男が「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あのとおりの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。」と語る。運慶が象徴しているものとは、運慶自身というより、このように表現される行為そのものである。
こういった表現は、ある種の「芸術」創造についての語り口として見覚えがある。そこでの芸術作品は「天啓」として降りてくるのであり、芸術家は神の声を聴く預言者である。作品は彼自身が作ったものではなく、彼の手を通じて神が地上にもたらしたのである。
とすれば運慶は「芸術家」であり、また「芸術」あるいは「芸術創造」の象徴、ということになる。
だがこうした言い方は、筆者には芸術創造についての神話、神秘思想とでもいったもののように思える。それよりも、運慶が迷いなく仁王を掘り出せるのは、何万回と重ねてきた技術の研鑽の結果ではないか。それが見る者に神秘的な技と見えるほどに高められた熟練の技術の賜物なのではないか。
こうした疑問を、次のような選択肢のある問いに言い換えてみる。
⑥ここに登場する「運慶」は、「芸術家」か「職人」か?
迷いなく仁王を彫れるのは運慶が芸術家だからなのか、熟練した職人だからなのか。これは裏返していえば、「自分」に仁王が彫れないのは、「自分」が芸術家ではないということなのか、職人ではないということなのか、ということだ。運慶と「自分」の違いとは何なのか。
運慶と「自分」の違いを考えさせる上で補助的に付け加えるとよいのは、「芸術家」「職人」それぞれが備えていて「自分」に具わっていないものは何か、という問いである。例えばどちらも二字熟語で答えよ、と指示する。
ただちに想起されるのは「芸術家=才能/職人=技術」といったところだ。
むろん「自分」は芸術家でも職人でもない。天才を有しているわけでもないし、熟練の技術を持っているわけでもない。だが、なぜか「自分」は、いったんは自分にも仁王が彫れるはずだと思い、彫れない理由を「明治の木には仁王は埋まっていない」からだと考える。したがって物語上は、ここから遡って運慶が仁王を掘り出せる必然性を考えるしかない。つまり、明治に失われたのは、芸術家の天才なのか職人の技術なのか。
だが、「芸術家」とは才能を持った者、「職人」は技術を身につけた者と捉えることには、それほど発展的な思考は期待できない、と筆者は考えている。「自分」にそれらが欠けているのは自明なことである上に、「明治の木には」という限定が意味をなさないからである。
「才能/技術」以外に想起されるものはないか。「文化」の声が生徒から挙がる。確かに「明治」という時代と結びつけて考察するなら、「才能/技術」よりは「文化」の方が発展性がありそうだ。だが「芸術的才能」「職人的技術」それぞれがそれぞれの形で「文化」を形成している。どちらかについてさらに別の方向から捉えることはできないか。
いくつかの問いは、相互の意見の出し合いの中で考える糸口になればよい。そして頃合いを見計らってある種の見通しを提示する。
上記の通り、②を最後に語るとして、③については選択的な正解などなく、問題は「明治」という時代なのだと筆者は考えている。④は「文明開化」が想起されればいいし、⑤は「自分」同様「明治人」として造形されていると考えられる。
⑥について筆者は、運慶を「職人」として読む方が整合的だと考えている。「職人」たる運慶が備えているものは何か。全体の解釈の整合性の中で、それに思い至る生徒は必ずいる。「伝統」である。
筆者の提示する見通しはこうだ。この運慶は時代を超越するような形で出現する天才芸術家ではなく、熟練した職人として描かれている。運慶の仕事ぶりが芸術家としての創作だとしたら、③の問いの「明治の木には」という限定に何の意味があるのかがわからない。そうではなく、それを伝統的な職人技の発現としてのルーチン・ワークだと考えることによって「明治の」という条件が理解できる。
職人の技術とは、単に繰り返した修練によって彼個人が体得した技術、というだけではない。それはその技を磨き上げてきた数知れない先人の営みの分厚い積み上げの上に成り立つものだ。運慶が体現しているのは、そうした職人集団の伝統なのである。
もちろん、芸術家と職人を区別すること自体が近代的な発想ではある。近代以前には芸術作品と工芸品に区別はなかったかもしれない。時代を画したかに見える天才の残した「芸術」作品にも、実は職人集団の技術の蓄積がある。だからそれを、ある種の神秘思想のように、「天啓」として語るのをやめるならば運慶が芸術家か職人かという問いには意味がなくなる。それは同じことだ。問題は運慶が伝統を引き継ぐ者である、という点である。
こうした読みは、「第六夜」全体の主題の設定、①の問いとどう対応するか。
「第六夜」の主題は「西洋文明の流入によって、それ以前の文化や伝統が失われつつある『明治』という時代」とでもいったようなものだと筆者は考えている。⑤についても、車夫と中心とする見物人の造形を、「芸術を理解しない無教養な人々」として理解するような議論を目にすることがあるが、それよりむしろ「古い文化を失いつつある明治の人々」として読むべきだと思う。
とすると、②の問いはどう考えたらいいのだろう。「開化」という名の文化的な断絶を経験する時代状況において「運慶が今日まで生きている理由」とは何か。「自分」は「なぜ生きていられるか」「なぜ生きていなければならないか」どちらの理由に納得したのか。
これもまたどちらと言ってもかまわないのだが、上記の読解に従って言えばどちらかといえば、「生きていられる」という言い方に馴染むのは運慶を芸術家として見る読解であり、「生きていなければならない」という言い方は運慶を職人として見る読解に整合的であるように思える。運慶が天才芸術家であればこそ、時代を超越して明治の「今日まで生きていられる」のであり、伝統を継承する職人だからこそ「今日まで生きていなければならない」のである。
そしてそれは運慶がそう考えているのではなく、やはり我々が運慶に託した期待である。我々が運慶に生きていてほしいと思っているのである。
そのとき運慶は、時代を越えて継承されるべき伝統文化の象徴である。
こんなふうに「第六夜」の主題を捉えた時、次の一節も意味あるものとして物語の文脈に位置づけられる。
裏へ出てみると、先だっての暴風(あらし)で倒れた樫を、薪にするつもりで、木挽きに挽かせた手ごろなやつが、たくさん積んであった。
こうして積まれたものが「明治の木」というわけだが、この「先だっての暴風」とは何のことだ? とは是非聞いてみたい。
もはや明らかである。「暴風」とは1853年の黒船来航に続く幕末の動乱とそれに続く文明開化のことに他ならない。西洋文明の流入は、「あらし」のように日本文化を薙ぎ倒したのである。
仁王の埋まっていない「明治の木」を物語に登場させる際にさりげなく冠せられたこのような形容を、漱石が意識せずに書き付けているはずはない。全体を貫く論理が見えてきた時にのみ、その意味がわかるように、漱石はさりげない形容として、仁王の埋まっていない「明治の木」の来歴を語るのである。
さて、繰り返すがこうした「解釈」を「学習内容」として「教える」ことが授業の意義だと考えているわけではない。これは「第六夜」の「正解」なのではなく、あくまでこの小説についての、私の納得のありようなのだ、と生徒には言っておく。
続く 「夢十夜」の授業2 ~「第一夜」は解釈しない
「夢十夜」の授業3 ~「第一夜」も解釈する
この、いわゆる「コペルニクス的転回」的な認識の変容は我ながらいささか衝撃的で、「夢十夜」の授業についてのアプローチを大きく変えることになった。それ以前から想定していた「夢十夜」の教材としての価値についても再考し、あらためてひとまとまりの授業の構想を立てて、その後2回の1学年担当で実施してみた。
3回目の実施となる今年度の様子を、ここに記録しておく。
「夢十夜」の教科書採録に際しては、以前は「第三夜」が収録されていることもあったが、近年は「第一夜」と「第六夜」のみの収録が一般的である。この場合、最初の通読は「第一夜」「第六夜」の順でいいが、読解は「第六夜」から行う。これは、「第六夜」の方が、生徒にとって馴染んだ「国語科授業」的扱いができるからだ。あえて「解釈」をするのである。
授業で小説を扱うということは、その小説の「解釈」を「教える」ことではない。そもそも小説を読むときに、いちいち「解釈」をしているという実感は、我々にはない。大衆小説の多くは「解釈」を必要とするような感触がなく、読めばただちに「わかる」と感ずるし、あるいは村上春樹のように、わからなくても、楽しかったり怖かったりと、何らかの感銘を与えてくれる小説もある。だから授業でも、小説によってはただ読むだけでいい。それ以上に、読めばわかる小説内情報をいたずらに整理して確認する必要などない(といってもちろん、作者の伝記的事項や作品制作の背景などの小説外情報を伝達することも、授業で小説を扱うことの本義ではない。本論における「夢十夜」の読解にも、漱石個人の伝記的事実は無関係である)。
だが、読んだだけでは何かわりきれない感触が残る小説には、何らかの「解釈」が欲求される。それは読者としての人情というだけでなく、国語科学習の好機だ。そのとき、生徒自身が「解釈」しようとするのなら、それは意味あることだ。「解釈」は小説読解にとって必須の行為ではなく、国語科学習にとっての好機なのである。それは決して教師によって提示されるべきものではなく、生徒自身が取り組むべき課題である。
「夢十夜」は「夢」という体裁をとった小説だから、物語の筋立てにせよ、情景の描写にせよ、いちいち明瞭な、見慣れた、自明の「意味」をもたない記述に満ちている。「夢」だという建前を信ずるならば、それらを既存の「意味」に落とし込むような「解釈」はいたずらに見当外れな穿ちすぎということになりかねない。
だが、これが少なくとも「小説」という器に注がれて我々の前にある以上は、それに対して作者と読者である我々の間にコミュニケーションの成立する可能性はあるはずだ。夢そのものでさえ、語られる以上は精神分析という「解釈」の対象となりうるのである。まして授業という場では、その「意味」をめぐる考察は国語学習の好機となるべく期待をしても良いかもしれない。そして「第六夜」はそうした考察の対象となりそうな感触がある。なおかつ、そうした「解釈」をすることは、後に続く「第一夜」の読解の特殊さを意識させるための伏線にもなる。
最初にまず「第六夜」を「解釈」するのだ、と宣言する。
①「第六夜」の主題は何か。「第六夜」はつまり何を言っているのか。
本当は、こんなことはあらためて言う必要もない。だが、常にこの問いの答えにつながるかどうかを視野に入れつつ以下の考察を行うべきであることを確認しておく必要性は、実際にはある。以下の問いが一問一答式の答え合わせになってしまわぬよう、生徒自身が考える方向を忘れぬためである。
「解釈」とは、小説内情報の論理について、さまざまなレベルでの結合を意図する思考だが、その中でも、全体を統覚する論理がいわゆる「主題」である。「主題」とはつまり、この小説は何を言っているのかを、小説内の出来事のレベルよりも抽象的なレベルで語ることである。まずはそのように大きな見通しを提示しておいて次の問いを提示する。
②「運慶が今日まで生きている理由」とは何か。
末尾の一文で、「自分」はこの「理由」が「ほぼわかった」という。だがそれが何かを語ることなく小説は終わる。語り手が「わかった」というものを読者がわからないままに済ますわけにはいかない。といってすべての読者にそれが自明なわけでもない。いかんともしがたく「解釈」の欲求を誘う記述である。
この問いは、たとえば「なぜ鎌倉時代の人間である運慶が今日(明治時代)まで生きているのか」という問いではない。我々がその不思議の意味を問われているわけではない。その不条理をとりあえず引き受けたところに「夢」の感触があるからだ。だからあくまでこれは語り手の「自分」が思い至った「生きている理由」が何かを問うているのである。
この「理由」は、この小説が何を言っている小説なのか、という全体の理解の中に位置づけられるべきである。物語の締めくくりに置かれたこの「自分」の悟りが小説全体の「意味」を支えていると思われるからだ。
そうした問題を意識した上であらためて小説の展開や細部から必要な情報を読み取っていく。そのために、さらに補助的な問いを提示していく。
③「明治の木にはとうてい仁王は埋まっていない」とはどういうことか。
②を明らかにするためには、まず③を解決する必要がある。③の認識によって、「それで」②が「わかった」と「自分」は言っているからである。
「仁王は埋まっていない」とは、「仁王が掘り出せない=仁王像を彫れない」の隠喩である。だが隠喩で表される認識が「彫れない」という認識と同じだというわけではない。なぜ「自分には彫れない」ではなく「仁王は埋まっていない」なのか。なぜそれが「とうてい」なのか。
「どういうことか」という問いは、包括的であることに意義がある一方で、目標が定まらないから思考や論議が散漫になるきらいがある。生徒の様子を見て、問いを変形する。
たとえば上述の問いを次のように変形する。
③仁王が彫れないのは、「自分のせい」か、「木のせい」か。
複数の選択肢を提示して生徒に選択させる、という発問は、思考を活性化させるために有効である。人間の思考は、物事の対比において、差異線をなぞるようにしか成立しないからだ。もちろん結論がどちらかを決定しようとしているわけではない。どちらが適切だろうか、と考えることで、文中から根拠となるべき情報を読み取ろうとするのである。それが思考を活性化させる。そのインセンティブを導引するには、問いという形式は有効だし、とりわけ選択肢のある問いは、生徒の思考を読解に向かわせる。
本文は「明治の木にはとうてい仁王は埋まっていない」といっているのだから、「木のせい」というのが素直な答えだが、どうもすんなりと納得はしがたい。「明治の木には…埋まっていない」というのはなんとなく無責任に過ぎるような気もして、ではどういう意味で「自分のせい」だと言えるかと考えると、ことはそれほど簡単ではなさそうである。実際に印象のみを二択で聞いてみると、生徒の意見は分かれる。
この問いをさらに微分すると、「明治の木にはとうてい仁王は埋まっていない」とは「運慶には彫れるが自分には彫れない」ということなのか「鎌倉時代の木には仁王が埋まっているが明治の木には埋まっていない」ということなのか、と言い換えることができる。これはつまり「運慶にも、明治の木から仁王を掘り出すことはできないのか?」という問いを背後に隠し持っているということになる。
②についても例えば次のように選択的な問いに変形することができる。
②x「運慶が今日まで生きている理由」とは「運慶にとって自分が今日まで生きている理由」なのか、「我々(語り手)にとって運慶が生きている理由」なのか。
②y「運慶が今日まで生きている理由」とは「今日まで生きていられた理由」なのか、「生きていなければならない理由」なのか。
これらは単に日本語の解釈の可能性を押し広げて創作した問いだ。xとyの組み合わせで4つの解釈ができる。「運慶が考える、自身が生きていられる理由」「運慶が考える、自身が生きていなければならない理由」「運慶が生きていられると『自分』が考える理由」「運慶は生きていなければならない、と『自分』が考える理由」である。ニュアンスを細分化することで、ここで明らかにしなければならないことを互いに共有する。
といって、どれかを排他的に正解とすることを目指すのではない。やはり、どちらであるかを考えることが、思考を推し進めていくことに資すれば良い。
さて③における「明治の木」は、なぜ「明治の」でなければならないのか。仁王を堀り出せないのは、それが「明治の」木であったからだ。だが、例えば「鎌倉時代の木」からならば「自分」にも仁王が掘り出せるのだろうか。そもそも護国寺の山門で今しも運慶が刻んでいるのは、いったいいつの木なのだろうか。「鎌倉の木」か。それが「明治の木」だったなら、運慶にも仁王を彫ることは適わないのだろうか。
そう考えてみると、「明治の木」とはそもそも、明治人であるところの「自分」が彫っている木のことなのかもしれない。たとえ運慶でも「明治の木」からは仁王が掘り出せないのだ、ということではなく、運慶が掘ればそれはすなわち「鎌倉の木」ということになるのかもしれない。
つまりそれは「自分」という個人の問題ではなく、明治の人間としての「自分」の問題である。とすれば③は「自分のせい」だと言っても「木のせい」だと言っても同じことになる。問題は「明治」という時代なのである。
そこでさらなる誘導として、次のような直裁的な問いを投げかける。
④明治とはどういう時代か。
たとえば「こころ」で言及される「明治」という時代について考察することは、高校生一年生には手に余る問題だ。それは人類史にとっての「近代」の問題である。
だがここでの「明治」は日本史にとっての江戸の終焉に続く特殊な時代のことである。つまり生徒には、まず「黒船」「開国」「維新」「文明開化」などが想起されれば良い(もちろんそれも、ひいては世界史の「近代」の問題に敷衍できるだろうが)。
時間に余裕があれば補助的に次のような問いを投げかけてもいい。
⑤見物人はどのような存在として描かれているか。
作品細部の描写には、作品をどのようなものとして成立させたいかという作者の意図が表れている。これもまた「解釈」するための重要な要素として取り上げるに値する。
もうひとつ聞いておきたいことがある。「運慶」とはそもそも何者か。
⑥この小説における「運慶」とはどういった存在か、何を象徴するか?
鎌倉時代の実在の人物が明治という時代に現れるという設定は、夢らしい荒唐無稽さであるというより、むしろ小説としての意図がありそうである。それを明確に語ることこそこの小説の主題を語ることにほかならない。
だが「どういった」という問いはどこをめざして考察すればいいのかがはっきりしない。考えあぐねているようならば、たとえば「何の象徴か」と聞く。名詞(名詞句)を挙げさせるのである。
「運慶は見物人の評判には委細頓着なく」「眼中に我々なし」といった描写から、見物人は運慶を見ているが、逆に運慶からはこちらが見えていないのではないか、と言った生徒がいたが、こうした発想は面白いものの、どこにたどりつくのか、今のところ筆者にはわからない。それより注目させたいのは次の一節である。
運慶の仕事ぶりについて見物の若い男が「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あのとおりの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。」と語る。運慶が象徴しているものとは、運慶自身というより、このように表現される行為そのものである。
こういった表現は、ある種の「芸術」創造についての語り口として見覚えがある。そこでの芸術作品は「天啓」として降りてくるのであり、芸術家は神の声を聴く預言者である。作品は彼自身が作ったものではなく、彼の手を通じて神が地上にもたらしたのである。
とすれば運慶は「芸術家」であり、また「芸術」あるいは「芸術創造」の象徴、ということになる。
だがこうした言い方は、筆者には芸術創造についての神話、神秘思想とでもいったもののように思える。それよりも、運慶が迷いなく仁王を掘り出せるのは、何万回と重ねてきた技術の研鑽の結果ではないか。それが見る者に神秘的な技と見えるほどに高められた熟練の技術の賜物なのではないか。
こうした疑問を、次のような選択肢のある問いに言い換えてみる。
⑥ここに登場する「運慶」は、「芸術家」か「職人」か?
迷いなく仁王を彫れるのは運慶が芸術家だからなのか、熟練した職人だからなのか。これは裏返していえば、「自分」に仁王が彫れないのは、「自分」が芸術家ではないということなのか、職人ではないということなのか、ということだ。運慶と「自分」の違いとは何なのか。
運慶と「自分」の違いを考えさせる上で補助的に付け加えるとよいのは、「芸術家」「職人」それぞれが備えていて「自分」に具わっていないものは何か、という問いである。例えばどちらも二字熟語で答えよ、と指示する。
ただちに想起されるのは「芸術家=才能/職人=技術」といったところだ。
むろん「自分」は芸術家でも職人でもない。天才を有しているわけでもないし、熟練の技術を持っているわけでもない。だが、なぜか「自分」は、いったんは自分にも仁王が彫れるはずだと思い、彫れない理由を「明治の木には仁王は埋まっていない」からだと考える。したがって物語上は、ここから遡って運慶が仁王を掘り出せる必然性を考えるしかない。つまり、明治に失われたのは、芸術家の天才なのか職人の技術なのか。
だが、「芸術家」とは才能を持った者、「職人」は技術を身につけた者と捉えることには、それほど発展的な思考は期待できない、と筆者は考えている。「自分」にそれらが欠けているのは自明なことである上に、「明治の木には」という限定が意味をなさないからである。
「才能/技術」以外に想起されるものはないか。「文化」の声が生徒から挙がる。確かに「明治」という時代と結びつけて考察するなら、「才能/技術」よりは「文化」の方が発展性がありそうだ。だが「芸術的才能」「職人的技術」それぞれがそれぞれの形で「文化」を形成している。どちらかについてさらに別の方向から捉えることはできないか。
いくつかの問いは、相互の意見の出し合いの中で考える糸口になればよい。そして頃合いを見計らってある種の見通しを提示する。
上記の通り、②を最後に語るとして、③については選択的な正解などなく、問題は「明治」という時代なのだと筆者は考えている。④は「文明開化」が想起されればいいし、⑤は「自分」同様「明治人」として造形されていると考えられる。
⑥について筆者は、運慶を「職人」として読む方が整合的だと考えている。「職人」たる運慶が備えているものは何か。全体の解釈の整合性の中で、それに思い至る生徒は必ずいる。「伝統」である。
筆者の提示する見通しはこうだ。この運慶は時代を超越するような形で出現する天才芸術家ではなく、熟練した職人として描かれている。運慶の仕事ぶりが芸術家としての創作だとしたら、③の問いの「明治の木には」という限定に何の意味があるのかがわからない。そうではなく、それを伝統的な職人技の発現としてのルーチン・ワークだと考えることによって「明治の」という条件が理解できる。
職人の技術とは、単に繰り返した修練によって彼個人が体得した技術、というだけではない。それはその技を磨き上げてきた数知れない先人の営みの分厚い積み上げの上に成り立つものだ。運慶が体現しているのは、そうした職人集団の伝統なのである。
もちろん、芸術家と職人を区別すること自体が近代的な発想ではある。近代以前には芸術作品と工芸品に区別はなかったかもしれない。時代を画したかに見える天才の残した「芸術」作品にも、実は職人集団の技術の蓄積がある。だからそれを、ある種の神秘思想のように、「天啓」として語るのをやめるならば運慶が芸術家か職人かという問いには意味がなくなる。それは同じことだ。問題は運慶が伝統を引き継ぐ者である、という点である。
こうした読みは、「第六夜」全体の主題の設定、①の問いとどう対応するか。
「第六夜」の主題は「西洋文明の流入によって、それ以前の文化や伝統が失われつつある『明治』という時代」とでもいったようなものだと筆者は考えている。⑤についても、車夫と中心とする見物人の造形を、「芸術を理解しない無教養な人々」として理解するような議論を目にすることがあるが、それよりむしろ「古い文化を失いつつある明治の人々」として読むべきだと思う。
とすると、②の問いはどう考えたらいいのだろう。「開化」という名の文化的な断絶を経験する時代状況において「運慶が今日まで生きている理由」とは何か。「自分」は「なぜ生きていられるか」「なぜ生きていなければならないか」どちらの理由に納得したのか。
これもまたどちらと言ってもかまわないのだが、上記の読解に従って言えばどちらかといえば、「生きていられる」という言い方に馴染むのは運慶を芸術家として見る読解であり、「生きていなければならない」という言い方は運慶を職人として見る読解に整合的であるように思える。運慶が天才芸術家であればこそ、時代を超越して明治の「今日まで生きていられる」のであり、伝統を継承する職人だからこそ「今日まで生きていなければならない」のである。
そしてそれは運慶がそう考えているのではなく、やはり我々が運慶に託した期待である。我々が運慶に生きていてほしいと思っているのである。
そのとき運慶は、時代を越えて継承されるべき伝統文化の象徴である。
こんなふうに「第六夜」の主題を捉えた時、次の一節も意味あるものとして物語の文脈に位置づけられる。
裏へ出てみると、先だっての暴風(あらし)で倒れた樫を、薪にするつもりで、木挽きに挽かせた手ごろなやつが、たくさん積んであった。
こうして積まれたものが「明治の木」というわけだが、この「先だっての暴風」とは何のことだ? とは是非聞いてみたい。
もはや明らかである。「暴風」とは1853年の黒船来航に続く幕末の動乱とそれに続く文明開化のことに他ならない。西洋文明の流入は、「あらし」のように日本文化を薙ぎ倒したのである。
仁王の埋まっていない「明治の木」を物語に登場させる際にさりげなく冠せられたこのような形容を、漱石が意識せずに書き付けているはずはない。全体を貫く論理が見えてきた時にのみ、その意味がわかるように、漱石はさりげない形容として、仁王の埋まっていない「明治の木」の来歴を語るのである。
さて、繰り返すがこうした「解釈」を「学習内容」として「教える」ことが授業の意義だと考えているわけではない。これは「第六夜」の「正解」なのではなく、あくまでこの小説についての、私の納得のありようなのだ、と生徒には言っておく。
続く 「夢十夜」の授業2 ~「第一夜」は解釈しない
「夢十夜」の授業3 ~「第一夜」も解釈する
2017年12月25日月曜日
『トレマーズ5 ブラッドライン』ー午後のロードショーにふさわしい
「午後のロードショー」という放送枠にふさわしいB級映画だが、観る。もちろん傑作だった第1作に操を立てているのだ。
といって2作目も3作目も、1にもましてB級の極みに突き進んで、そこまで設定をトンデモな方向に展開してどうする、と思ったものの、それなりの面白さはあった。
それは何にもまして脚本の出来であり、演出の手堅さあってのことだ。
だが(期待していたわけでもないが、やはり)5作目では残念なできだった。CGの進歩で、クリーチャーの質感こそ悪くないが、実際のところ別にそんなところを見たいのではない。とにかくサスペンスとアイデアと愛すべきキャラクターたちなのだ。第1作が傑作たり得ていたのはそれだったではないか。
何を「面白さ」として想定するかというアイデアが足りないのは、金のかかる映画という創作物にとっていかにも不幸なことだと思われるが、もう一つ、この映画で気になったのは、空間の見せ方の不親切だ。どういう空間にだれがどこにいて、怪物がどこから襲っているのかという把握がしづらい。観客が体で恐怖を感じ取れない。
これがサスペンスを減じているのは演出の問題だ。
といって2作目も3作目も、1にもましてB級の極みに突き進んで、そこまで設定をトンデモな方向に展開してどうする、と思ったものの、それなりの面白さはあった。
それは何にもまして脚本の出来であり、演出の手堅さあってのことだ。
だが(期待していたわけでもないが、やはり)5作目では残念なできだった。CGの進歩で、クリーチャーの質感こそ悪くないが、実際のところ別にそんなところを見たいのではない。とにかくサスペンスとアイデアと愛すべきキャラクターたちなのだ。第1作が傑作たり得ていたのはそれだったではないか。
何を「面白さ」として想定するかというアイデアが足りないのは、金のかかる映画という創作物にとっていかにも不幸なことだと思われるが、もう一つ、この映画で気になったのは、空間の見せ方の不親切だ。どういう空間にだれがどこにいて、怪物がどこから襲っているのかという把握がしづらい。観客が体で恐怖を感じ取れない。
これがサスペンスを減じているのは演出の問題だ。
2017年12月22日金曜日
アクティブラーニング「ブーム」の弊害
忘れないうちに書き留めておく。
若い先生方の授業をちょくちょくのぞきに行って、どうも気になっていることがある。複数の要素にわたっているのだが、根は一緒、という気もする。たぶん昨今のアクティブラーニング「ブーム」の弊害、というあたりで。
アクティブラーニングの弊害というと、しばしば語られるのは知識の重要さがないがしろにされる、という弊害だが、国語についてはそもそも生徒に知識を伝授することが少ないので、アクティブラーニングばかりでなく講義も必要だ、という話ではない。あくまでアクティブラーニングはいいことに決まっているという前提で、そのうえで注意すべき落とし穴の話である。
まずは、アクティブラーニングといえば、というくらいに定番の、「グループワーク」と称する班を作っての話し合いと、その間の机間巡視だ。
基本的に国語科が言語の学習である以上、話し合いは必須の要素でもあり、有用な手法でもある。我が授業でも半分くらいは話し合いの時間だ(残りのほとんどは発表とその応答で、説明や講義などはわずかだ)。
だがそれには、話し合うに値する問いが提示されていなければならない。話し合うに値する問いとは、考えるに値する問いということでもあるが、同時に他人の考えを聞くことに価値のある問いということでもある。そして他人に説明するために言葉にすることに学習意義がある。
それには問いの難易度の設定と、想定される回答のバリエーションが保障されていなければならない。易しすぎては話し合いはすぐに終わってしまうし、難しすぎるとあきらめてしまう。いきなり答えることはできないが、時間をかけて掘り下げていくうちに何事かが発見されるという見込みがなければならない。あるいは、意見の相違を生むか、そもそも個人の「感じ」を各自が語るような問いでなければならない。
こうした問いを、ある程度コンスタントに授業に供給していくことは、若い先生方には難しい(といってベテランの授業でそれがなされているのを見たことがあるわけでもない)。
またこうしたグループワークに入る前には、一人一人の生徒がある程度考えてからでないと有効に話し合いが始まらない。だから、問いを投げてから話し合いに入るまでに時間をおいて、自分なりに問題を咀嚼し、自分の考えをそれぞれの生徒が持つ(持とうという自覚を持たせる)必要もある。
「グループワーク」の称揚が、班活動を促すから、先生方はすぐに生徒たちに、机を班隊形に並べさせる。そこに、話し合いには不適切な問いが投げかけられたり、あるいは生徒各自が考える態勢を調えていないと、話し合いはすぐに無秩序なお喋りと化す。さらにそれが全体での検討の場面にまで流れ込んで、しばしば授業が阻害される。
班活動にともなって称揚されるのが授業者による机間巡視だ。
だがこれも、見ていると必ずしも有効に授業を活性化してはいない場面に出くわす。
教室全体の話し合いはとうに集中力を欠いているのに、一部の班の話し合いに教員が対応していて徒に時間が浪費されていくことがしばしば起こっているのだ。
教員が参加することで話し合いが有用なものとなるのなら、全体でやればいいし、やらなければならない。
筆者の授業では、話し合いの際に机を動かすよう指示することは少ない。椅子の向きだけで話し合いの隊形を作らせる。補足説明や全体での発表の際には、椅子の向きだけで態勢をもどす。
また机間巡視はそれほどせずに、大抵は動かずに全体を見渡しながら、聞こえてくる声を拾っている。話し合いが有効に行われているかどうかを、全体的に把握して授業を進行していく方がいいのである。
様子を見て補足の説明が必要な場合も多いし、ときどき定期的に燃料を追加することもある。長いスパンの問いであるときこそ、集中力の持続と、議論レベルの班ごとのばらつきを揃えるために、問いは何段階かにわける必要があるのだ。話し合いを続けさせるには、それなりのコントロールが必要なのである。そのためには机間巡視をしてしまうと全体のコントロールを失うことにもなりかねない。
だが実際には板書の劣化版というようことになっているプリントも多い。生徒が書き込むべき空欄が指定された、ほぼ板書予定の内容がプリントされて生徒に配布されているのである。
思うに、プリントを作るのは、それによって教員が何か仕事をしている気になるというのと、授業の流れを迷わずに済むという安心が得られるところが若い先生方をひきつけるのだ。
一方、生徒の側からみると何が起きているかというと、全体の流れが一望できるのはいいが、実際には生徒は空欄に何かを書き込むことが自己目的化しているように見える。全体の流れを把握するよりも、空欄にしか注目しない、というのが現状なのだ。
しかもそこに書き込まれることは予め決まっていて、いわばその「答え」が授業という場に提出されさえすれば良いというふうに生徒は捉えているように見える。そしてこうしたプリントを作る先生は、その「答え」を板書するものなのだ。生徒は板書されたものを空欄に書き写す。
これはいったい何の儀式か?
ここまでくると次は板書の電子化である。板書予定の内容をパワーポイントなどで作成して、プロジェクタでスクリーンに投影する。
プロジェクタによる映像や文字情報の提示は、有用な場合もあるとは思うが、基本的には作成の手間と学習効果が見合っていないというのが実態であると思う。
またこれも、事前に内容が決まっているという点で、プリント同様の弊害がある。
最初から、授業が何かの知識を「説明する」「伝達する」というイメージで成立しているときには、板書の電子化もプリントも、たぶんプリントに代わる今後のタブレット利用も有用なのかもしれない。
だが国語の授業はそのときそこで何事かが生み出される場なのだ。もちろん授業者にはある程度の見通しはあるが、それでもその場で生み出される授業全体の成果を記録できる状態になっているかどうかは重要である。板書は、そのときに語られながら書かれる瞬間を生徒が見ていることに意味があるのだし、ノートは板書を写すものではなく、むしろ板書に先立って書かれるべきである。
班隊形も机間巡視もプリントも電子機器の活用も、もちろんそれ自体に善し悪しがあるのではない。ただ無条件に良いもののようなイメージが先行して手段が自己目的化することのないよう心がけるべきだというだけのことである。
そしてアクティブラーニングも、学習にとっての有効な方法に過ぎない。それを実行することが無条件に良いわけではない。
自己目的化の陥穽は常にそこにある。
若い先生方の授業をちょくちょくのぞきに行って、どうも気になっていることがある。複数の要素にわたっているのだが、根は一緒、という気もする。たぶん昨今のアクティブラーニング「ブーム」の弊害、というあたりで。
アクティブラーニングの弊害というと、しばしば語られるのは知識の重要さがないがしろにされる、という弊害だが、国語についてはそもそも生徒に知識を伝授することが少ないので、アクティブラーニングばかりでなく講義も必要だ、という話ではない。あくまでアクティブラーニングはいいことに決まっているという前提で、そのうえで注意すべき落とし穴の話である。
まずは、アクティブラーニングといえば、というくらいに定番の、「グループワーク」と称する班を作っての話し合いと、その間の机間巡視だ。
基本的に国語科が言語の学習である以上、話し合いは必須の要素でもあり、有用な手法でもある。我が授業でも半分くらいは話し合いの時間だ(残りのほとんどは発表とその応答で、説明や講義などはわずかだ)。
だがそれには、話し合うに値する問いが提示されていなければならない。話し合うに値する問いとは、考えるに値する問いということでもあるが、同時に他人の考えを聞くことに価値のある問いということでもある。そして他人に説明するために言葉にすることに学習意義がある。
それには問いの難易度の設定と、想定される回答のバリエーションが保障されていなければならない。易しすぎては話し合いはすぐに終わってしまうし、難しすぎるとあきらめてしまう。いきなり答えることはできないが、時間をかけて掘り下げていくうちに何事かが発見されるという見込みがなければならない。あるいは、意見の相違を生むか、そもそも個人の「感じ」を各自が語るような問いでなければならない。
こうした問いを、ある程度コンスタントに授業に供給していくことは、若い先生方には難しい(といってベテランの授業でそれがなされているのを見たことがあるわけでもない)。
またこうしたグループワークに入る前には、一人一人の生徒がある程度考えてからでないと有効に話し合いが始まらない。だから、問いを投げてから話し合いに入るまでに時間をおいて、自分なりに問題を咀嚼し、自分の考えをそれぞれの生徒が持つ(持とうという自覚を持たせる)必要もある。
「グループワーク」の称揚が、班活動を促すから、先生方はすぐに生徒たちに、机を班隊形に並べさせる。そこに、話し合いには不適切な問いが投げかけられたり、あるいは生徒各自が考える態勢を調えていないと、話し合いはすぐに無秩序なお喋りと化す。さらにそれが全体での検討の場面にまで流れ込んで、しばしば授業が阻害される。
班活動にともなって称揚されるのが授業者による机間巡視だ。
だがこれも、見ていると必ずしも有効に授業を活性化してはいない場面に出くわす。
教室全体の話し合いはとうに集中力を欠いているのに、一部の班の話し合いに教員が対応していて徒に時間が浪費されていくことがしばしば起こっているのだ。
教員が参加することで話し合いが有用なものとなるのなら、全体でやればいいし、やらなければならない。
筆者の授業では、話し合いの際に机を動かすよう指示することは少ない。椅子の向きだけで話し合いの隊形を作らせる。補足説明や全体での発表の際には、椅子の向きだけで態勢をもどす。
また机間巡視はそれほどせずに、大抵は動かずに全体を見渡しながら、聞こえてくる声を拾っている。話し合いが有効に行われているかどうかを、全体的に把握して授業を進行していく方がいいのである。
様子を見て補足の説明が必要な場合も多いし、ときどき定期的に燃料を追加することもある。長いスパンの問いであるときこそ、集中力の持続と、議論レベルの班ごとのばらつきを揃えるために、問いは何段階かにわける必要があるのだ。話し合いを続けさせるには、それなりのコントロールが必要なのである。そのためには机間巡視をしてしまうと全体のコントロールを失うことにもなりかねない。
次に気になるのは、授業の際に教師の配るプリントである。
これも、板書とともになされる講義を生徒がノートに写す、といういわゆる「ボード&ノート」授業スタイルに対抗して、教員手作りのプリントは、生徒が能動的になるかのようなイメージがある。だが実際には板書の劣化版というようことになっているプリントも多い。生徒が書き込むべき空欄が指定された、ほぼ板書予定の内容がプリントされて生徒に配布されているのである。
思うに、プリントを作るのは、それによって教員が何か仕事をしている気になるというのと、授業の流れを迷わずに済むという安心が得られるところが若い先生方をひきつけるのだ。
一方、生徒の側からみると何が起きているかというと、全体の流れが一望できるのはいいが、実際には生徒は空欄に何かを書き込むことが自己目的化しているように見える。全体の流れを把握するよりも、空欄にしか注目しない、というのが現状なのだ。
しかもそこに書き込まれることは予め決まっていて、いわばその「答え」が授業という場に提出されさえすれば良いというふうに生徒は捉えているように見える。そしてこうしたプリントを作る先生は、その「答え」を板書するものなのだ。生徒は板書されたものを空欄に書き写す。
これはいったい何の儀式か?
ここまでくると次は板書の電子化である。板書予定の内容をパワーポイントなどで作成して、プロジェクタでスクリーンに投影する。
プロジェクタによる映像や文字情報の提示は、有用な場合もあるとは思うが、基本的には作成の手間と学習効果が見合っていないというのが実態であると思う。
またこれも、事前に内容が決まっているという点で、プリント同様の弊害がある。
最初から、授業が何かの知識を「説明する」「伝達する」というイメージで成立しているときには、板書の電子化もプリントも、たぶんプリントに代わる今後のタブレット利用も有用なのかもしれない。
だが国語の授業はそのときそこで何事かが生み出される場なのだ。もちろん授業者にはある程度の見通しはあるが、それでもその場で生み出される授業全体の成果を記録できる状態になっているかどうかは重要である。板書は、そのときに語られながら書かれる瞬間を生徒が見ていることに意味があるのだし、ノートは板書を写すものではなく、むしろ板書に先立って書かれるべきである。
班隊形も机間巡視もプリントも電子機器の活用も、もちろんそれ自体に善し悪しがあるのではない。ただ無条件に良いもののようなイメージが先行して手段が自己目的化することのないよう心がけるべきだというだけのことである。
そしてアクティブラーニングも、学習にとっての有効な方法に過ぎない。それを実行することが無条件に良いわけではない。
自己目的化の陥穽は常にそこにある。
2017年12月20日水曜日
「サクラダリセット」ふたたび
アニメ放送の終了時に一度ふれたことがあったが、その後、原作の小説を読みすすめて終盤にさしかかったところで、図書委員から「おすすめ図書」を挙げろという依頼が入ったのを機に、最後までいっきに読み終えた。最終7巻は一日で。巻の後半に入って、これはこのままいこうと決めた。布団の中で深夜までかかって読み終えるという読書は幸福だ。すごい物語だった。
というわけで以下、前回の記事を使い回しつつ「おすすめ図書」。
2009年に刊行の始まったこのシリーズを知ったのは、 遅ればせながら今年のアニメ化によってだった。初回から、「 時間を巻き戻せる」 という設定のせいでなんだか筋を追うのが大変だぞというのと、 台詞回しが妙に面白いなというのが印象的だった。ただ、 その後2クールの放送を追ってみて、 花澤香菜と悠木碧の演技の素晴らしさが特筆に値するという以外は 、 アニメーションとしては凡庸な量産深夜アニメレベルを脱しなかっ た。それでも最後まで見続ける気になったのは、 物語のあまりの力量に圧倒されたからだ。
これは原作の面白さに決まっている、 と図書室に購入を希望して揃えてもらった。 そういうわけで全巻の貸し出し第一号は私だ。読んでみると、 複雑なストーリーラインも、ウィットに富んだ台詞も、 やはりこの物語の素晴らしさは原作に拠るのだった。
ある種のタイムリープを設定としてもちこむと、 物語の論理はすぐに複雑になる。設定上、 パラドクスこそ回避されているが、可変的な未来を知る者同士が、 どの時点で何を知っていて、 何を意図しているかを個々の状況に応じて把握しなければならない 。その上で十分に頭の良い複数の登場人物が、 互いに相手の思惑を上回ろうと策略をめぐらす。 それは相手も十分読んでいるだろうから、 その上を行こうとすれば…と、 まるで将棋や囲碁の対戦のような複雑な論理の絡み合いになる。 ある条件下でこの難問を解決するにはどんな方法をどんな手順で実 行すれば可能なのか…。 どこまでも複雑な構築物としての物語に目の眩む思いがした。
そして、この物語では何より「言葉」が大切にされている。 超能力者たちが跋扈する世界での戦いであるにもかかわらず、 この物語の主人公とラスボスの最終決戦は、 凡百のSFのような物理法則を超えた物理的破壊合戦ではなく、 なんと「議論」と「説得」なのである。 相手との合意がなければ戦いは終わらない。そうでなければ「 幸せ」になれないと主人公は考える。
クールだったりユーモラスだったり哲学的だったりする言い回しは 村上春樹を思わせもするのだが、にもかかわらず、ハルキ・ ワールドの不健全さとはまるで違って、この小説では、 どこまでもまっすぐでまっとうでまえむきな言葉が、 陳腐で恥ずかしいと思うより、 すがすがしくも感動的でさえあるのだった。
2017年12月12日火曜日
『Oh Lucy!』-苦々なOLの冒険譚
海外の映画祭でも高い評価を得たという平栁敦子監督映画だが、どういうわけで再編集してNHKでテレビ放送するのかわからない。宣伝として? 映画制作のドキュメンタリーにはできなかったのか?
この形での鑑賞でまっとうな評価ができるのかどうか心許ないが、感想のみ。
主人公のOLが、姪の頼みで通い始めた英会話教室で出会った米国人講師に恋して、米国まで彼を追いかける。
冴えないオールドミスのOLのほろ苦い冒険、という体の物語なのだろうと見当をつけて観ていると、はたしてそのとおりなのだった。
「体」としてはそのとおりであるにもかかわらず、残念ながら「ほろ苦い」とはいかなった。苦々だ。
といって、観客の予断を裏切ることに何か価値のある要素があるかというと、どうもそうにも思われない。
彼女の人生において数少ない「冒険」が、成功はしないものの、しかし何事かポジティブな影響を与えるという展開を期待していると、最後の役所広司の登場で多少救われもするものの、差し引きはマイナスなまま物語が終わる。どういうわけで主人公をそのようにして虐めたいのかわからない。それが狙っているものは何なのか。
とりわけ冒頭の電車飛び込み自殺と、姪の唐突な投身自殺未遂は、そのエピソードが作る磁場の強さと、それ以外の物語の強さが釣り合っていないから、単に唐突で浮いている。そのことに仮にどんな狙いがあったとしても(本当にあったのか?)、成功しているとは思えない。
観客になにがしかの勇気を与えるとかいう目的ではなく、単に批評的なのか?
だが何に対するどのような批評になっているというのか?
すべての物語がハッピーエンドでなければならないとは言わないが、それならば何を描きたいのかといえば結局わからず、もやもやと終わるのだった。
この形での鑑賞でまっとうな評価ができるのかどうか心許ないが、感想のみ。
主人公のOLが、姪の頼みで通い始めた英会話教室で出会った米国人講師に恋して、米国まで彼を追いかける。
冴えないオールドミスのOLのほろ苦い冒険、という体の物語なのだろうと見当をつけて観ていると、はたしてそのとおりなのだった。
「体」としてはそのとおりであるにもかかわらず、残念ながら「ほろ苦い」とはいかなった。苦々だ。
といって、観客の予断を裏切ることに何か価値のある要素があるかというと、どうもそうにも思われない。
彼女の人生において数少ない「冒険」が、成功はしないものの、しかし何事かポジティブな影響を与えるという展開を期待していると、最後の役所広司の登場で多少救われもするものの、差し引きはマイナスなまま物語が終わる。どういうわけで主人公をそのようにして虐めたいのかわからない。それが狙っているものは何なのか。
とりわけ冒頭の電車飛び込み自殺と、姪の唐突な投身自殺未遂は、そのエピソードが作る磁場の強さと、それ以外の物語の強さが釣り合っていないから、単に唐突で浮いている。そのことに仮にどんな狙いがあったとしても(本当にあったのか?)、成功しているとは思えない。
観客になにがしかの勇気を与えるとかいう目的ではなく、単に批評的なのか?
だが何に対するどのような批評になっているというのか?
すべての物語がハッピーエンドでなければならないとは言わないが、それならば何を描きたいのかといえば結局わからず、もやもやと終わるのだった。
2017年12月3日日曜日
『炎のランナー』-テレビ放送で映画なぞ
オリンピックに向けての「戦意高揚」といったところだろうが、世評に高いこの映画を観たことがなかったので、TV放送されたのを機に。
だが結果として、またしても、カットのために無残なことになったのだと後になって分かった。見ている最中は、このあたりの事情については説明がないのか、とか、感動的であるために必要と思える前振りがなさ過ぎるなあ、とその不自然さに首をひねっていたのだが、後で調べてみると30分以上のカットがあるようなのだ。
それでもシーン毎の力は疑う余地がない。
有名な海岸の集団走のスローモーションは何やら力強かったりそれぞれの人柄が見えてきたりするし、それ以外の練習風景やら競技風景やらが実に映画的だ。リアルな作り物といったような矛盾した形容をしたくなるような、手の込んだ創作物なのだ。画面の隅々まで演出の手が行き届いているのが感じられる。
そうなると惜しむらくはカットのあるテレビ放送なぞで見たことだな。
だが結果として、またしても、カットのために無残なことになったのだと後になって分かった。見ている最中は、このあたりの事情については説明がないのか、とか、感動的であるために必要と思える前振りがなさ過ぎるなあ、とその不自然さに首をひねっていたのだが、後で調べてみると30分以上のカットがあるようなのだ。
それでもシーン毎の力は疑う余地がない。
有名な海岸の集団走のスローモーションは何やら力強かったりそれぞれの人柄が見えてきたりするし、それ以外の練習風景やら競技風景やらが実に映画的だ。リアルな作り物といったような矛盾した形容をしたくなるような、手の込んだ創作物なのだ。画面の隅々まで演出の手が行き届いているのが感じられる。
そうなると惜しむらくはカットのあるテレビ放送なぞで見たことだな。
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