2019年4月29日月曜日

全日本柔道選手権大会2019

 「平成最後の」全日本柔道選手権大会は、近年になく楽しかった。
 原沢は真面目そうな人柄が好もしいものの、申し訳ないが彼や王子谷のような最重量級が準々決勝で負けたところが、俄然優勝の行方を興味深いものにして、中でも毎年勝ち上がりが楽しみな加藤博剛があれよと決勝まで上がったのには興奮させられた。
 加藤は2回戦、3回戦と50kg以上の体重差がある相手に一本勝ち。とりわけ注目の最年少出場、スーパー高校生の斉藤立との対戦は、正直、まあ斉藤だろうなあ、斉藤はどこまで勝ち上がれるかなあ、と思っていたところ、あれよと関節をとって相手を前転させて後ろ袈裟で抑えるというお手本のような展開で、今年もベスト8に進んだ。
 次も次も見たいと思っていると、準々決勝の支え釣り込み足も、ちょっとめったに見られないような見事な決まり方で相手を宙に舞わせ、準決勝も巴で一本勝ちと、すべて一本で決勝に上がる。
 一方のウルフ・アロンも全て投げ技による一本勝ちで決勝まで上がってきた。しかも100kg級の選手が、最重量級の王子谷や小川を投げきってだ。文句のない決勝の対戦だ。
 加藤の柔道の楽しさは、大抵の場合加藤の方が軽いということと、時折笑顔の見られるリラックスした戦いぶりだ。
 決勝のウルフは手堅く戦って体重差で勝ったようなもんだが、加藤ともども本当に見事な戦いを見せた二人だった。

2019年4月28日日曜日

『死霊館 エンフィールド事件』-これは凡作

 第一作の『死霊館』はなかなか面白くて、以前「佳品」と表現したのだが、こちらは凡作と言っていいと思う。展開的には想定の範囲内のことしか起こらず、演出的にもそれほど目新しいものはなく。
 例えば心霊現象が、それを疑う人には信じられないことがもどかしくなるような展開にもできたろうに、関係者のほとんどが、疑いようもない怪奇現象にあっさりと直面してしまい、観客的には疑いようもないにもかかわらず、疑う人はそれでも疑う。疑う人の疑いに観客は共感もできない。
 もちろんこれは心霊現象なのか心理現象なのか狂言なのかと観客が自問するような作品は最初から目指されてはいないのだが。
 あるいは恐くないかと言えば恐いのだが、それは専ら恐いメイクをした「悪霊」が迫ってくるのが生理的に恐いのだし、脅威もほとんどポルターガイストによる物理的な危険だ。しかも、肝心なところでは決して致命的な危険は感じないような演出になってしまっている。史実に基づいて、ということなのか、あるいは子供たちを血祭りにあげるわけにはいかないから、まあしょうがないのかもしれないし、ともかくもホラー映画としてはあまり効果をあげていない。

2019年4月21日日曜日

『Eight Days A Week』-今更ながら

 偶然にもロン・ハワード監督作品を二作続けて。そしてこちらも細切れに。
 まあビートルズのドキュメンタリーだから、続けなくてもいいだろ、と思っていたのだが、後半まとめて観てそれなりの感銘もあった。今まで十分知っていると思っていた、ビートルズの社会的影響力を、今更ながら(ちょっとだけ)実感したり、そこでの4人がどんな思いでツアーから離れていったか、とか4人の結束がいかに彼らを救ったか、とか。その後で彼らの心がどんな風に離れていったか、というところまではこのドキュメンタリーでは扱っていないが、そのあたりは『Let it Be』の映画版を再び観たいものだ。
 その一部分となるべき屋上ライブは、これまで観たことのある映像とちょっと違った。リマスター? カットも違うような。これは観る価値があった。

2019年4月20日土曜日

『インフェルノ』-申し分のない娯楽映画なのに

 『ダヴィンチ・コード』『天使と悪魔』とも、娯楽映画として充分な面白さだったのだが、これもまた、同様に豪華なロケと絵作り、緊迫した展開でみせるとはいえ、どうも既視感を覚えてしまい、緊張感がなく終わってしまった。ついでにいえば娯楽映画の悪いところで、録画したものを観るのに、細切れに観てしまって感興を損なうというパターンにはまってしまった(こちらが悪いのだが)。
 そうなると展開のご都合主義が目についたりして、サスペンスも半減。本人の危機も世界の危機(バイオテロによる人類粛清)も、本気でハラハラしない。トム・ハンクスにアクションをさせる必要はないのに。謎解きの興味で引っ張っていって欲しいのに、そこはむしろついて行けないほど急展開で、わからないことだらけだから、真相がわかってもむしろ拍子抜け。
 「扉の前では興味深いことが起こる」とかいう気になる箴言が語られるのだが、これが、真意をつかめないままで深みを与えるには至らず。

 冒頭でテロ首謀者が塔から飛び降りて死ぬという展開は『機動警察パトレイバー the Movie』だ! 残念ながら帆場の持っていた神秘性は、本作のゾブリストには感じられない。単に極端な人、というくらい。
 謎の組織の幹部を演ずるイルファン・カーンが格好良いのだが、何で観た人かと調べてみると、NHKのドラマ『東京裁判』でパール判事を演じていたあの人だ!

2019年4月19日金曜日

『夜は短し歩けよ乙女』-安心の湯浅クオリティ

 『四畳半神話体系』のつもりで見始めると、主人公の浅沼晋太郎が星野源なぞになっているのは許しがたいという感じがするが、ヒロインの坂本真綾が花澤香菜になっているのは許せる。まあ違う物語なんだから、声優まで同じにしては混同してしまうということもあるが、確かにあちらの「明石さん」とこちらの「黒髪の乙女」は違う人物で、なんといってもこのヒロインのキャラクターがこの映画の大きな魅力なのだった。
 もちろん坂本真綾がやればまた違う魅力があったのだろうが、花澤香菜の声は、あの真っ直ぐで天真爛漫でそのくせエネルギッシュなヒロインを見事に生きたものにしていたのだった。
 もちろん湯浅政明の奔放なイマジネーションには圧倒されるし、森見登美彦の軽妙な調子も心地良い。
 そして、物語の最後まできて、これが一夜の物語だと言われた時の時間感覚の揺らぎが起こす眩暈がなんとも素晴らしい。約90分と、決して長い映画ではないのだが、めまぐるしいイメージの奔流に、長い時間が経ったような錯覚に陥るのだ。
 これがまた、調べてみると原作では1年間の物語が一夜の出来事として再構成されているのだそうだ。上田誠か湯浅政明か、良い仕事をした。

2019年4月17日水曜日

『お米とおっぱい』-低予算だから腹も立たない

 『カメラを止めるな』の上田慎一郎監督の初期の長編。この世からお米とおっぱいのどちらかがなくなるとして、残すならどっちか、というテーマで議論をする4人と、見届け人として部屋の外に待つ老人の男の、キャストは5人のみの密室劇。
 事前に情報として知っていたとおり、『12人の優しい日本人』オマージュ、というかパロディである。ほとんどそのままの役割分担に演技プラン。そこに新しい何物も足してはいない、と感じた。
 ばかばかしいことに開き直っている、というのは別に褒め言葉ではない。議論が知的に展開されるわけでもないし、議論から、それぞれの人物の背景が明らかになっていくにつれて引き込まれていくようなドラマがあるわけでもなく、パロディとしてのメタドラマに感心するでもなく、つまり特に何に感銘することもなく。
 でもここまで自主映画として低予算だと、特に腹も立たない。これは重要なことだ。面白くない映画に腹が立つのは、それが金と時間と多くの人の手間のかかった結果だからだ。
 低予算でも良い映画はできるのだろうし、『カメラを止めるな』も低予算をうたってはいるが、いやいや、あちらはちゃんと撮られている。それに比べてこちらのちゃちいことは覆うべくもない。そして結局のところこれは、上田監督の才気は感ずることができるが、残念ながらエンターテイメントとしては金の取れるものとは言いがたい代物だった。
 だがこういうのは作り上げることが重要なのだ。これがあってこそ『カメラを止めるな』があるのだろうから。

2019年4月7日日曜日

『12か月の未来図』-楽しく幸せな教育映画

 朝、突然家人に誘われて、『ハンナ・アーレント』以来6年振り(?)の岩波ホールに。
 『12か月の未来図』という題名は後から知ったのだが、とりあえず、エリート校に務める主人公の教師が教育困難中学に送り込まれる話なのだと。面白そうではある。しかも主人公の先生、国語の先生だという。さて、どうなることやら。
 映画が始まってみると、フランス映画ではあるが、ヨーロッパ映画独特の、画面から既に荒んでいるような暗さがない。東京国際映画祭で観たJellyfish』も画面の感触がアメリカ映画と変わらない印象だったが、こちらはさらに。
 そして物語としても、コメディタッチで描かれる展開は文芸的というよりかなり「物語的」である。サイトでは「ドキュメンタリー風」とも評されていて、最初のうち、やたらと画面が揺れる手持ちカメラ風な画面が「ドキュメンタリー風」なんだなと思っていたが、観ていると結局カット割りもどんどん劇映画的になっていく。この感じははっきりいって、どこかで見たことがある。いくらか「金八先生」的でもあり、実は最近たまたま読み返した、ちばあきおの「校舎裏のイレブン」にもそっくりである。
 パーティーで出会った政府の教育関係機関(日本の文科省的な)の職員だという若い美人に食事に誘われ、期待しながら出かけていくと、役所の施策として、ベテラン教員を「郊外」の教育困難校に派遣する事業への協力を求められてしまう。下心の後ろめたさと、大臣が登場する大がかりな事業の規模に断れずに、1年間の派遣依頼を受けてしまう(この辺の展開の描き方がハリウッド映画っぽい)。
 もちろん本意ではない。浮かない顔で「郊外」に赴くと、そこはいわゆる「スラム」的な場所のあるような移民の多く住む地域なのだった。学校の様子は、アメリカ映画でよく見る雰囲気で、いかにも都会のエリート校に勤務する主人公には、そのガチャガチャした雰囲気は眉をひそめたくなるだろうと思わせる。
 そして、まるでアメリカ映画の中の学校みたい、と思わせるのは、アフリカ系の生徒の多いことによる。なるほど、「郊外」の問題とは移民の貧困の問題なのか。
 真面目な主人公が生徒の名前を覚えようと、夜、自宅で四苦八苦するのも、なるほど名前がアフリカ系だからだ。それでも、それをやろうとする真面目さが救いである。この誠実さが、結局この映画を明るいものにしている。誠実故の挫折が物語を暗くすることだってありうるのだろうが、教育は、大体のところ、誠実に取り組む方が良い結果を生むのだ。
 それでも、パンフレットにあるように「来たるべき日本の教育問題にヒントを与えてくれる」というより、日本の現場の経験からすると、まったく我が事のような「あるある」なのだった。生徒の雰囲気も職場の雰囲気も。フランスでは移民の問題かも知れないが、日本にも地域格差があるから公立中学校は同じような事態にもなりうるし、高校などは学力で「格差」化しているから、問題はまったく共通している。
 そうした問題の解決のヒントになるのは、教科横断型の学びであり、アクティブ・ラーニングだったりするのも、まるで日本の流行だが、これもつまり世界的な潮流だということだろうか。
だからこそ、物語は、コメディタッチに笑わされながら、最終的には事態の好転と別れの寂しさで、実に気持ちの良いエンターテイメントだった。「文科省 特別選定作品」「厚労省 推薦作品」でありながら!
 
 そのうえでいくらかの考察。
 主人公はカリスマ教師ではない。特殊な能力があるわけでも人並み外れた献身があるわけでもない。何か奇跡のような教育活動が行われるわけではない。
 こうした教育を題材とする物語ではしばしば、熱意ある若い先生と、現状を諦めた現状維持に汲々とする、もしくは教条主義的に硬直したベテラン教員との対立が描かれる。もちろん主人公は若い教員であり、若い教員こそが生徒の理解者であり、その熱意が事態を好転させるのだ。
 若い先生の熱意は無論歓迎されるべきだが、現実にはこの映画にあるように、出口の見えない事態に挫折することにもなりかねない。
 だがこの映画では、成功の鍵は上記の誠実さであり、肩書き通りの「ベテラン」故の経験値なのだ。いくらか劇的な事件の起伏はあるものの、基本的には事態の好転は、地道な取り組みと、ちょっとした工夫の積み重ねが、そしてそれを可能にする教養と経験が事態を好転させるのだ。
 これには納得させられるとともに、深い共感を覚える。
事態の好転のキーになるのが「学習性無気力」(だったか?)という概念である。挫折を何度も経験するうちに無気力になってしまうという、動物実験をもとにしたこの概念を妹から聞いた主人公は、それまで嫌悪感だけで見ていた生徒の現状をそうした観点から捉え直し、といって劇的に変わるわけではないが、粘り強い取り組みを再開する。
 この「学習性無気力」は、生徒の現状にだけ適用できる概念ではないのかもしれない。
主人公が主人公たる成功に至ったのは、少々意地悪く見れば、任期が1年だということによるとも言える。
 期限のない教育活動の中で、若い先生方はいわば「学習性無気力」に陥りやすいとも言える。主人公は(もちろんベテラン故の経験と誠実さが必須だったとはいえ)1年で終わると思えばこそ、生徒の反発を招いても規律を守ろうとしつづけたり、新しい取り組みを工夫することができたのだ。
 生徒の「学習性無気力」を回避するのは教員の役割かもしれないが、教員の「学習性無気力」を回避するのは誰の仕事なんだろう。とりあえず若い教員の「学習性無気力」を救うためにはベテラン教員がその経験に基づく、有意義な教育活動の実例を見せるるか。
 もちろん現実にはベテラン教員の「学習性無気力」だって、実例には事欠かないのだが。

 最後のしんみりした別れの場面が、いくぶん情緒的に流れそうになったとたん、そこに子供たちの遊ぶボールがとびこんでくる動的なカットには思わずうなってしまった。映画的な技量の高い監督だと感じた。

 ところで、チケットだけ早めに押さえて、ひさしぶりの神保町は、書泉グランデで時間つぶし。何年ぶりかわからないが、コミックコーナーに行くと、その充実した品揃えに感動する。ネット通販のなかった学生時代には、時折訪れては、他では買えない品物を買ったものだったが、今日、棚に近藤ようこの『仮想恋愛』があったのを見て感激して買ってきた。
 近藤ようこは、第一短編集である『月夜見』のうちの一編を卒論で取り上げたりもして、当時手に入る作品を買い集めたものだったが、第二作品集である『仮想恋愛』だけは手に入らず、数年間本屋に行くたび探し続けたのだった。
 近藤ようこ作品は年を経るにつれ特に感興のわかないものばかりになって、新作を買うことも、『仮想恋愛』を探すこともなくなっていったが、初期のものには良い思い出がある。『月夜見』も現在は古書相場では数千円だし、当時の『仮想恋愛』も手には入らないが、初期作品集ということで3年程前に再販されたのは、どこかで聞いた気もしていた。そしてついに実物を手にしたわけだ。
p.s
 読んでみると、悪くはないが圧倒されるような輝きはない。やはり第一作品集である『月夜見』は、荒削りでありながらそれゆえの稀有な輝きを実現していたのだ。