朝、突然家人に誘われて、『ハンナ・アーレント』以来6年振り(?)の岩波ホールに。
『12か月の未来図』という題名は後から知ったのだが、とりあえず、エリート校に務める主人公の教師が教育困難中学に送り込まれる話なのだと。面白そうではある。しかも主人公の先生、国語の先生だという。さて、どうなることやら。
映画が始まってみると、フランス映画ではあるが、ヨーロッパ映画独特の、画面から既に荒んでいるような暗さがない。
東京国際映画祭で観た『
Jellyfish』も画面の感触がアメリカ映画と変わらない印象だったが、こちらはさらに。
そして物語としても、コメディタッチで描かれる展開は文芸的というよりかなり「物語的」である。サイトでは「ドキュメンタリー風」とも評されていて、最初のうち、やたらと画面が揺れる手持ちカメラ風な画面が「ドキュメンタリー風」なんだなと思っていたが、観ていると結局カット割りもどんどん劇映画的になっていく。この感じははっきりいって、どこかで見たことがある。いくらか「金八先生」的でもあり、実は最近たまたま読み返した、ちばあきおの「校舎裏のイレブン」にもそっくりである。
パーティーで出会った政府の教育関係機関(日本の文科省的な)の職員だという若い美人に食事に誘われ、期待しながら出かけていくと、役所の施策として、ベテラン教員を「郊外」の教育困難校に派遣する事業への協力を求められてしまう。下心の後ろめたさと、大臣が登場する大がかりな事業の規模に断れずに、1年間の派遣依頼を受けてしまう(この辺の展開の描き方がハリウッド映画っぽい)。
もちろん本意ではない。浮かない顔で「郊外」に赴くと、そこはいわゆる「スラム」的な場所のあるような移民の多く住む地域なのだった。学校の様子は、アメリカ映画でよく見る雰囲気で、いかにも都会のエリート校に勤務する主人公には、そのガチャガチャした雰囲気は眉をひそめたくなるだろうと思わせる。
そして、まるでアメリカ映画の中の学校みたい、と思わせるのは、アフリカ系の生徒の多いことによる。なるほど、「郊外」の問題とは移民の貧困の問題なのか。
真面目な主人公が生徒の名前を覚えようと、夜、自宅で四苦八苦するのも、なるほど名前がアフリカ系だからだ。それでも、それをやろうとする真面目さが救いである。この誠実さが、結局この映画を明るいものにしている。誠実故の挫折が物語を暗くすることだってありうるのだろうが、教育は、大体のところ、誠実に取り組む方が良い結果を生むのだ。
それでも、パンフレットにあるように「来たるべき日本の教育問題にヒントを与えてくれる」というより、日本の現場の経験からすると、まったく我が事のような「あるある」なのだった。生徒の雰囲気も職場の雰囲気も。フランスでは移民の問題かも知れないが、日本にも地域格差があるから公立中学校は同じような事態にもなりうるし、高校などは学力で「格差」化しているから、問題はまったく共通している。
そうした問題の解決のヒントになるのは、教科横断型の学びであり、アクティブ・ラーニングだったりするのも、まるで日本の流行だが、これもつまり世界的な潮流だということだろうか。
だからこそ、物語は、コメディタッチに笑わされながら、最終的には事態の好転と別れの寂しさで、実に気持ちの良いエンターテイメントだった。「文科省 特別選定作品」「厚労省 推薦作品」でありながら!
そのうえでいくらかの考察。
主人公はカリスマ教師ではない。特殊な能力があるわけでも人並み外れた献身があるわけでもない。何か奇跡のような教育活動が行われるわけではない。
こうした教育を題材とする物語ではしばしば、熱意ある若い先生と、現状を諦めた現状維持に汲々とする、もしくは教条主義的に硬直したベテラン教員との対立が描かれる。もちろん主人公は若い教員であり、若い教員こそが生徒の理解者であり、その熱意が事態を好転させるのだ。
若い先生の熱意は無論歓迎されるべきだが、現実にはこの映画にあるように、出口の見えない事態に挫折することにもなりかねない。
だがこの映画では、成功の鍵は上記の誠実さであり、肩書き通りの「ベテラン」故の経験値なのだ。いくらか劇的な事件の起伏はあるものの、基本的には事態の好転は、地道な取り組みと、ちょっとした工夫の積み重ねが、そしてそれを可能にする教養と経験が事態を好転させるのだ。
これには納得させられるとともに、深い共感を覚える。
事態の好転のキーになるのが「学習性無気力」(だったか?)という概念である。挫折を何度も経験するうちに無気力になってしまうという、動物実験をもとにしたこの概念を妹から聞いた主人公は、それまで嫌悪感だけで見ていた生徒の現状をそうした観点から捉え直し、といって劇的に変わるわけではないが、粘り強い取り組みを再開する。
この「学習性無気力」は、生徒の現状にだけ適用できる概念ではないのかもしれない。
主人公が主人公たる成功に至ったのは、少々意地悪く見れば、任期が1年だということによるとも言える。
期限のない教育活動の中で、若い先生方はいわば「学習性無気力」に陥りやすいとも言える。主人公は(もちろんベテラン故の経験と誠実さが必須だったとはいえ)1年で終わると思えばこそ、生徒の反発を招いても規律を守ろうとしつづけたり、新しい取り組みを工夫することができたのだ。
生徒の「学習性無気力」を回避するのは教員の役割かもしれないが、教員の「学習性無気力」を回避するのは誰の仕事なんだろう。とりあえず若い教員の「学習性無気力」を救うためにはベテラン教員がその経験に基づく、有意義な教育活動の実例を見せるるか。
もちろん現実にはベテラン教員の「学習性無気力」だって、実例には事欠かないのだが。
最後のしんみりした別れの場面が、いくぶん情緒的に流れそうになったとたん、そこに子供たちの遊ぶボールがとびこんでくる動的なカットには思わずうなってしまった。映画的な技量の高い監督だと感じた。
ところで、チケットだけ早めに押さえて、ひさしぶりの神保町は、書泉グランデで時間つぶし。何年ぶりかわからないが、コミックコーナーに行くと、その充実した品揃えに感動する。ネット通販のなかった学生時代には、時折訪れては、他では買えない品物を買ったものだったが、今日、棚に近藤ようこの『仮想恋愛』があったのを見て感激して買ってきた。
近藤ようこは、第一短編集である『月夜見』のうちの一編を卒論で取り上げたりもして、当時手に入る作品を買い集めたものだったが、第二作品集である『仮想恋愛』だけは手に入らず、数年間本屋に行くたび探し続けたのだった。
近藤ようこ作品は年を経るにつれ特に感興のわかないものばかりになって、新作を買うことも、『仮想恋愛』を探すこともなくなっていったが、初期のものには良い思い出がある。『月夜見』も現在は古書相場では数千円だし、当時の『仮想恋愛』も手には入らないが、初期作品集ということで3年程前に再販されたのは、どこかで聞いた気もしていた。そしてついに実物を手にしたわけだ。
p.s
読んでみると、悪くはないが圧倒されるような輝きはない。やはり第一作品集である『月夜見』は、荒削りでありながらそれゆえの稀有な輝きを実現していたのだ。