最近、小説の方を読んで。69年のピーター・オトゥール版を。観た記憶はあるんだが、見覚えのあるシーンは全くなかった。おまけにミュージカルだったのも記憶になかったので、歌い出してビックリ。なんとも古き良きイギリスのパブリック・スクールの日々が描かれているが、映画のつくりとしても古き良きハリウッド映画という感じ。あんなに多くの学生をエキストラで登場させるだけでも、大変な金と手間がかかっているだろうに。
さて、ミュージカル要素にはまったく心を動かされないのでそこにはプラスもマイナスもない。それ以外の物語要素は、小説と同じ手触りの愛おしさがあった。大きく脚色されていて、ほとんど重なるエピソードはないのだが、それでも。
長い時間が経過する。チップスは登場する時点で中年なのだが、そこから最晩年まで(小説ではその最期まで)が、世代の入れ替わりで示される。変わってゆくチップスと変わらない学生たちが対比される。チップス自身の変わらない部分と変わってゆく部分も。
そうしたテーマを描くのに、チップスの専門教科が古典というのが的確に対応している。こんな勉強が何になるのかという引いた視線も持ちつつも、戦争の色濃い非常時に通常の古典の授業をやり続けることの意義を説く教師魂は共感できる。
そして小説版、映画版とも、自分には何千人の子供がいると語るシーンが感動的だったのは不思議だった。映画版のピーター・オトゥールの演技が感動的なのは間違いないのだが、テキストで読んでもやはりそのくだりは感動的だった。
メディアの語り口というのは、物語の感動にとって最重要要素だと思っていたのだが、必ずしもそうとも限らないか。いや、その内容の感動的であることを充分伝えるだけの語り口をそれぞれの作品が実現していたということか。
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