毎週胸躍らせた『最高の教師』再びの期待と、一方で、おそるべき駄作だった『新聞記者』の脚本でもある詩森ろばの作ではあるもののテレビはまた違ったスタッフ相互の作用もあるかもしれず、と見始めた。
しばらくは面白かった。画面の感触は軽くはなく、鷺巣詩郎の音楽が盛り上げてもいる。1話で完結するエピソードも悪くないし、謎かけの引きも効いている。『最高の教師』と共通したキャストが数人いるのも愛着のプラス作用を生じさせる。蒔田彩珠が芸達者なのは当然として、高石あかりがキャスティングされているわりに目立たないなと思っていたら、最終回での演技には脱帽した。視線の動かし方や表情の変化であれほどの感情を見る者に伝える演技力おそるべし。
が、ドラマ全体としては真ん中あたりで松坂桃李が熱血教師になってきて「僕の生徒だ」と言うあたりからちょっと興ざめしてきた。生徒に対して「全員」と言ったり、無条件に「信じる」などと言われると鼻白む。そんなわけがあるか。生徒を「全員」などというのは、まったく一人一人を見ていないことの裏返しでしかないではないか。無条件に「信じる」などというどのような正当性があるでもない世迷い言を口にすることの嘘くささ。学校を舞台にしたドラマがこれをやることが致命的に質を落とすことになると、なぜ誰かが止めないのか。
そして結局はあの『新聞記者』の脚本家かあ、とがっかりして終わった。
例えば冒頭に描かれる殺人事件が、まったく本筋から浮いていたのは明らかに構成上の瑕疵だった。もちろん事情は絡んでいる。それは何事か「教育」の問題でもあるようだった。だが、まったくその動機に共感もできなかった。筆者がというだけでなく、おそらくできる人がいるようには描かれていなかった。だから完全に「浮いて」いた。「教育のゆがみ」が殺人に結びつくという想定が、単に空想の産物にしかなっていなかった。
さらにエンタメとして致命的なことは、敵があまりに矮小だという真相だ。これは『新聞記者』再びの感が強い。あそこで描かれている陰謀・巨悪は、「なんとなく悪そうな話」でしかなかった。そして本作の「不正」入学という真相は、矮小であるだけでなく、教育の本質の議論にほとんど関わりがない。学校に多額の寄付をしてくれる家庭の子女を優遇して入学させるのは、アメリカの大学では公然だし、私立ならば、それも合理性のある判断だ。公表していないところに「不正」らしい匂いがあるが、それを悪とする根拠は薄弱だ。金を出せば入学できるからといって、学力の釣り合わない生徒を受け入れれば、進学実績で売っている学校側にとってデメリットなのだから、そんなことがバランスを崩してまで行われるはずはない。あるいは低学力の生徒が一部にいても、その見返りの補助金で高い水準の教育環境が維持されるのなら、学校全体にとって好ましいという判断はあり得る。
敵の想定がこのようにとんちんかんである一方、教育をテーマとするドラマとしては、そこで描かれる教育理念が何なのかはわからなかった。良い教育として描かれているのは、生徒による自主的な協働による学習、とでもいったようなイメージらしいが、それこそが、このドラマが敵として描こうとしている文科省の推進しようとしている教育だ。一体どんな理念とどんな理念が戦っているんだ? せいぜいが自己保身と自己利益を求める個人くらいしか、「悪」らしきものは描かれていなかった。組織としての文科省は、『新聞記者』の内調よろしく、のっぺりとしたイメージでしかない。
そもそも「不正」を描いてしまったら、教育の問題が描けなくなるとなぜ考えなかったのか。理念的には立派なのに、その実践としての学校教育が何事か問題だと思えるところにこそ、問題の難しさがある。単なる不正なら刑事事件でも民事でも裁ける。
何やら理想の教育を目指しているらしい主人公の動機は、そうおいそれとは「不正」を指摘できないどころか、それ自体には反対できない「理念」に基づいて行われている「現実」の教育行政か教育現場を敵として想定しているのではなかったか。
ああやっぱりあの脚本家。いや、アドバイザーとして工藤勇一の名前があったりもするのだが、それでも結局あれなのか。
いや、教育問題をまっとうに描くのはどうであれ難しいのだが。
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