2014年9月30日火曜日

ツイッター、「残響のテロル」

 ブログの開設に先立って、縁あってツイッターを始めたのだった。
 だがやはりツイッターというのは、基本、モバイルから発信するものなのだろう。ガラケーからはメールも億劫で、ましてツイッターなど利用する気になれない。パソコンを開いて呟くくらいなら、ブログに書いてしまえばいいのだ。どうせ長くなるんだし。
 というわけで最初の頃のいくつかのあとはすっかりご無沙汰なのだが、フォローの方はしてる。
 が、
最近「残響のテロル」の番組最後のクイズの答えを公式サイトで確認するには、公式ツイッターのフォローをしなければならないということで、やむなくフォロワーになったのだが、そうするとツイッターのタイムラインに「残響」関係のツイートが溢れかえってしまい、もともとフォローしている人のツイートが埋もれてしまう、という、まことに迷惑な状態になっていた。
 さて、放送も終わって、フォローを辞めたら、いきなりタイムラインがすっきりして、もともとフォロワーだった人のツイートだけが残った。あーすっきり。
 そもそも三人しかフォローしてないのだ。

 この「すっきり」には「残響のテロル」に対する不満が鬱積していたことの反動でもある。途中で、どうもつまらないぞ、これは、と思いつつも渡辺信一郎だしなあ、と最後まで見たのだが、やっぱりつまらなかった。怒りさえ覚えた。あの、いろんな物語からパクっただけの、どこかで見たことのある物語の断片を寄せ集めただけの矮小版「社会派サスペンス」が企画として通ってしまう不毛を、誰か止めろよ。作画が最後までレベルを落とさなかっただけにいっそう、脚本・演出とのギャップに怒りを覚えるのだった。
 つっこみどころはいくらでもある。だが一つだけ挙げる。三島リサの存在が、この物語のレベルを果てしなく引き下げている。ヒロインの存在が物語に必須だとしても、結局このキャラクターにかかわっている部分がどこもかしこも足をひっぱって、物語のテンションを引き上げさせない。

2014年9月28日日曜日

推薦入試の小論文

 とりあえず推薦入試を受ける予定の息子の小論文をみている(見ている? 看ている? 診ている?)
 毎回面白い。もともと小論文の指導は好き好んでやりたいとさえ思うほど楽しい。文章の添削なんぞをしているだけでは無論ない。問題を読んでこちらも考え、展開できる論旨の可能性を探りながら、まずは生徒の考えてきた文章に沿って検討していく。恐らく自分一人で考えても、1~2時間の集中は必ず何事かを生み出すものだが、検討すべき他人の思考があると、その批判による反動・反作用や、可能性の敷衍によって、自分だけで考えているよりも豊かな可能性にたどりつくことができる。それまでの認識の一部は必ず再構成される。2~3時間の豊かな時間を過ごす充実感が必ず得られる。まして今回の場合のように、基本的に歯応えのある奴を遠慮なく叩きのめすのはサディスティックな愉しさもある(本人は負けてないと主張するが)。
 この間の「人文学分野を学ぶために必要な感受性とはどのようなものか(引用不正確。後日確認)」というような問いについては、彼は「感受性」って何よ、と書きあぐねた挙げ句に本人も苦し紛れであることは自覚しながら「論理的思考力」「独創性」とかいう毒にも薬にもならぬ結論に向けて強引に論を展開していたが、それを文章レベルでいくら添削してもはじまらない。細かい瑕疵は無論あるが、もともと文章力は高校生としてはかなりのレベルではある。それより問題はこの問いが求めているものを捉えているかどうかだ。「論理的思考力」「独創性」などという、そりゃある方が良いに決まっているとしか言えないような「感受性」(なのか?)を挙げてこねくりまわすより、まず問題の意図するものを捉えるのが先決である。
 ではどう考えたら良かったのか。まずは問題文自体をじっくりと検討するのである。問われている条件は「人文学分野を学ぶため」である。つまりこれは「自然科学分野を学ぶため」との違いを問うているのである。「論理的思考力」「独創性」などはどちらにとっても必要であることは明らかだから、問題の要求している点にからすれば甚だ焦点のぼやけた論にしかならない。
 などということに、私とて問題を見た瞬間に自明のことのように気づいているわけではない。「論理的思考力」「独創性」といった可もなく不可もない答案を自分ならどう評価するだろうかと考えているうちに、ふと気付くのである。その瞬間が愉しい。
 さて、では「人文学」と「自然科学」とはそれぞれ、向き合う姿勢においてどのような違いを要求する学問分野なのか。ここから先は一つのアイデアとして提示したのだが、私なら、「自然科学」が研究対象からなるべく自分を切り離す客観的態度を要求される学問であるのに対し、「人文学」は、その研究対象から自分を排除することが不可能である、もしくは排除することを必ずしも良しとしない学問分野である、というような趣旨を展開する。別に独創的な見解ではない。考えるべき問題の方向が見えてしまえば誰もが思いつく結論の一つだろう。だが、要求されるのは、こうした適切な問題の捉え方と、後は論の展開を支える論理力や構成力、文章表現力なのだろう。

 さて、前置きの「この間」が長くなった。書こうと思ったのは今回持ってきた問題の、要約とそれについての考察を要求される問題文についてである。
 当たり前のことを言っていてつまらないばかりか、文章が読みにくいと彼が言うのは信用に値するから、本当か、と一応は思いつつも読んでみると、なるほどそうだ。なんなんだこれはとネットで調べてみると、一種の名著として結構有名な著作らしい。『人はいかに学ぶか―日常的認知の世界』(稲垣佳世子・波多野誼余夫)。
 だが、ほんとうにそうなのだ。あまりにもひどい文章なのだ。主述の対応や修飾関係が曖昧だったり、段落の論理関係が不明だったり。いくら読み返しても文意がとれないのは、切り取り方が悪いせいかもしれないとも思ったが、ともあれ読み返せば読み返すほどにそのひどさが確信されてくる。文章の論理からはわからないから、むしろ「常識」で補ってその文意を判断するしかない。つまり「当たり前のことを言っていてつまらない」のである。なんなんだ、これは。
 こんな文章を天下の筑波大学が入試に使っていいのか? というか、どういうつもりで選んでいるのだろう? 本心から不思議だ。
 しかしいくつかのブログから知れるように、これが大学の授業のテキストとしてもしばしば使われてきたらしい、斯界の著名な著作であるらしいとこをみると、単行本として通読する上ではそれなりに学ぶべき見解があると思われるような内容であるということなのだろう。とすると、受験者に考えさせたいのは「内容」であって、それは考えさせるに値すると思い込んでいる出題者は、それがこの限定された文章から読み取れるようには達意の文章ではないということにまで意が及んでいない、ということなのかもしれない。
 これは、こちらが読んでいる全文を目にすることなく、一部を切り取った文章だけしか読めない受験者の認識について充分に想像しなければならない、という、我々も陥りがちな誤謬に対する自戒を教訓とすべき事例なのかも知れない。

2014年9月26日金曜日

『ファンタスティック・フォー 銀河の危機』『心霊写真』

 もともと観た映画の記録をしようという目的で始めたブログなので、言いたいことがあろうがなかろうが、映画のことだけは書く。
 …などという言い訳をしなければならないくらいどうでもいい映画だった。とりあえずテレビで放送するSFとホラーは、とりあえず気になるので片っ端から観てしまうんだが、そういえば、ハリウッドでのリメイクが決まったとかいうタイのホラー映画『心霊写真』を観たのもこのブログ開設以降だったことを思い出した。
 とりあえずホラーとSFってのは、素材をどう扱うかという共通した基準で観られるので、その決着が気になってしまうのだ。ブログ開設直前に観た『トライアングル 殺人ループ地獄』というどうしようもない邦題の、題からしてB級のホラーは、予想に反してよくできていて、この夏休みの最大の収穫だったが、タイミングが悪くてブログに書かれずにいたので、とりあえず子供たちに見せようとHDに入れたままにしてある。
 それに比べて、「心霊写真」とか「ファンタスティック・フォー」とか、途中を早送りにせずにはいられないくらいにどうでもいい映画だった。まあ厳密にいえばちゃんと全編を観ないでそんな評価をするのはフェアではないのだが、もう端々が「どうでもいい」という感じを発しているのだ。「ファンタスティック・フォー」の第一作も観ているはずで、しかも悪い印象ではなかったような記憶が微かにあるのだが、この忘れっぷりはやっぱり「どうでもいい」映画だったんだろうな。
 「心霊写真」ともども、内容を紹介するのも分析して評価するのも億劫なほど「どうでもいい」。

金木犀

 柔道場の窓から吹き込む風にのって金木犀の香りがした。
 秋だ。

2014年9月23日火曜日

『ウォンテッド』『幸せのレシピ』「おやじの背中」

 文化祭後の柔道がこたえて、体はきつかったが、どこにも出かけない、急ぎの用もない、贅沢な休日。休日に子供たちと食べる昼食の幸福。

 この休日に見終わった映画。
 「見終わった」とは妙な言い回しだが、実際録画されている映画をどれもこれも途中まで見ていて、さてどれから見終えるか、という感じなのだ。

 夏休み中に録画したものだから一ヶ月越しの鑑賞でようやく見終えた『Wanted』(ティムール・ベクマンベトフ監督)は、まあ完全に映像を見るだけの映画だったな。このブログの開設のきっかけとなった「マレフィセント」のアンジェリーナ・ジョリーは、『トゥーム・レイダー』以来、タフなアクション女優ばっかりやってるような気がして、作品数が多いから多分そういうわけではないんだろうが、『ソルト』とこれと、実におんなじような役どころだった。モーガン・フリーマンが深みのないこの程度の悪役なのも残念。これも、映画館で観ればもっと楽しめるのかもしれないが、だからといってこんな脚本にこんな金をかけていいのか? ティムール・ベクマンベトフは『ナイト・ウォッチ』もやはり「驚愕の映像」で、でも面白かったという印象もない。

 一方『幸せのレシピ』(スコット・ヒックス監督)は、あまりによくできているので、途中まで観ては子供たちにも見せたくて戻って再生したりして、最初の方は3回観てるところもあるが、ようやく最後の3分の1を娘と見通した。良かった。実に「幸せ」だった。
 だがこれは『Wanted』に比べてそんなに良くできた物語だろうか。同程度に単純なお話のような気もする。気になってネットの映画評など見てみると、低評価の人の言い分も実に的確な気もする。
 それでも観ていて幸せな気分になれるのは、なにより細部の演出が見事だったからだ。美しい抑揚によって書かれた文章が、読むだけで良い気分にさせてくれるように(ちょうどさっき向田邦子の文章を読んだので、それがイメージされている)、細部まで気配りの行き届いた画面が適切なテンポで展開していく映画は、観ているだけで気分がいい。こういうのは、「ドラマツルギー」とか言って物語の構造を考えたりして工夫していくだけでは生み出せない魅力で、ちょっと敵わんなあ、という気がする。言いたくないが「センス」というやつだ(ここは具体的な場面を挙げて分析すべきかとも思うが、それにはもう一度見直さなければならず時間がとれない)。
 キャサリン・ゼタ=ジョーンズは恐ろしく綺麗だったし、アーロン・エッカートはかっこよかったし、アビゲイル・ブレスリンは可愛かった。それもまた優れた演出の賜物である。スコット・ヒックスは『アトランティスのこころ』でも、うまいなあと思って見ていたんだが、監督を覚えるに至らなかったが、これを期に心に留めておこう。
 ところで思いのほか低い評価をする人の中で、元になっているドイツ映画を高く評価している人もいた。そうか、そういうのがあるのか。機会があったら観てみよう。

 それに比べて「おやじの背中」の最終話は無惨だった。三谷幸喜があんな脚本を書いていいのか。登場人物の嘘がどんどん大がかりな展開になるというのは『マジック・アワー』でも『有頂天ホテル』でも実にうまく構成できていたのに、なんなんだ、このちゃちな展開は。ハラハラもドキドキもなくその無理さ加減にうんざりするばかりで、といって「笑いと涙」もなく。そして残念ながら小林隆はどうしようもなく大根だし。それを「味」だの「ほのぼの」だの「人柄」だのといって弁護する気には到底なれないのだった。
 もうひとつ、億劫で見終わってなかった第8話の池端俊策も、これが紫綬褒章を受勲しているような脚本家のドラマかとがっかりだった。あながち演出のせいとも思えないほど、どこに魅力を感じればいいのかわからなかった。大泉洋の使い方も、決定的に間違ってる。彼には軽妙な演技をさせれば絶妙な味わいのある演技をする俳優なのに、それ以外に存在価値があるのか? 少なくともこのドラマではなかったと思う。

2014年9月21日日曜日

文化祭 「白犬伝 ある成田物語」

 ブログの位置付けを「随筆集」のようなものとすると、そうおいそれとは更新ができないのだが、「備忘録」や「日記・日録」のようなものとすれば、ことの大小にかかわらず毎日書かねばならない。そう、「気の利いたこと」などと考えず。だがなかなかそういうわけにもいかず、更新が滞っている。
 とりあえず文化祭が終わった。もう昨日のことだ。Bloggerは投稿日時を指定できるから、今日書いたものを「昨日」投稿することもできるのだが(今までのいくつかもそうだ)、素直に今日の日付でアップしようか(「今日」のうちに書き終われば)。

 クラスの方は細かく書き込むようなネタはない。アイス・ジュース販売などという不本意な参加形態に基本的に愛着を抱けないクラス発表だったことは、自分の力不足、戦略の失敗という点で反省するとして、一旦そう決まったからには、可能な限り良い活動であったという記憶を残したいものではある。
 その点、全体としての生徒の活動は、実に好意的に見ていられた。何人かの、積極的に動ける生徒たちの行動力、責任感、気配り、アイデア、献身、クラス全体としてのノリ…、どれも見ていて微笑ましく、うんざりさせられたり苛立たしい思いをさせられたりというようなことがほとんどなく過ごせた三日半(準備日から数えて)だった。二日間で8万数千円の売り上げのある金銭のやりとりがあって、仕入れから計算した予定売り上げと、完売しての手元の現金が二百円ちょっとのズレで決算できたのも、上出来と言っていい(完全に一致するのを望むのは無理というものだ)。みんな金銭の管理に責任感をもって臨んだのだろうと、素直に誉めたい。

 それより、例年、文化祭といえば大抵は音楽系の発表場所で過ごすのだが、今年もまた大半の時間を体育館で過ごした。
 3年と1年に演劇の発表クラスがあって、3年生の演劇は体育館だったので、その準備や裏方の仕事ぶりや、劇の舞台そのものを見ることができた。劇自体は「白雪姫」のディズニー映画版をもとにしたもので、王子様のキスで白雪姫が生き返るところで劇が終わってしまう、30分ほどの簡略版、といったところである。基本的には小人たちや魔女役の男子生徒(なのだ、やはり)の個人技で、半ばは内輪受けのギャグで観客を沸かせる、といった体のクラス演劇ではある。だが、うちのような学校でクラス演劇をやることの困難はわかるだけに、担任の熱意と指導力と、それに応えた生徒たちの感じているであろう充実感は、見ていてやはり羨ましかった。体育館には恐らく四百人を超える観客がいたと思う。クラス全員でそのことを誇っていいと思った。

 だが私が今回の文化祭で最も印象的だったのは演劇部の舞台だった。地区大会での実績をみる限り、そこそこの舞台にはなるんだろうと思っていたが、あんなに感動させられてしまうとは、申し訳ないが予想していなかった。
 恐ろしく手抜きのポスターにある「白犬伝」という題名は、それがパロディであり、コメディなのかと思わせるが、それにしては「~ある成田物語」という副題が不審だ。リードには成田空港闘争を背景にした物語だというからこれはもしや社会派の演劇なのかと思って見始めると、主人公の白い犬のモノローグから始まる。やはりコメディタッチではある。が、早々に登場人物の一人が交通事故で死に、ドキリとしていると、そこから生ずる人間ドラマはシリアスである。
 登場人物の何人かは知っている生徒が演じているので、どうにも冷静には見られない。頑張って練習してきたんだろうなとか、緊張して失敗しなければいいなとか(実際、結構噛み噛みだった)、そもそもこちらが不安定な心理状態で見ているせいか、些細な物語の起伏にどうにも感情が動いてしまって、やたらと感動しやすくなっていたのだった。笑うよりもむしろ胸にこみあげる場面が多かった。
 物語は本当に成田空港闘争における1971年の「第2次行政代執行」を背景にしていて、やはり後へいくほど、笑うよりはシリアスなドラマが展開されるのだった。
 だが、これが社会問題についてリアルに考えさせる物語になっていると単純に考えるわけにはいかない。というか、権力の横暴を単純に批判するような力が、直ちにこの演劇にあると言ってしまうのは危険だ。社会問題として真っ当に考えるならば、成田闘争における左翼運動の介入についても勘案したうえで評価しなければならないからだ。
 それよりもむしろこの物語は、社会問題の複雑さに、家族間の人間ドラマを対置させ、そのいずれもの解決の見えなさに対して、主人公の犬がいわば「無垢」として機能することで一筋の救いを感じさせるところに魅力があると考えるべきだろう。もちろんそれが「無私」や「献身」といった安易なヒロイズムに見えかねないこともわかったうえで。
 ただ、こんな真面目な問題を扱って、真面目になっている登場人物たちを動かしておいて、それでもうちのような学校の生徒に「何だか難しくて退屈な話だった」というだけでない感動を与える物語になっていたのは確かだった。
 見に来ていた生徒の一人に、後で「演劇部の劇、良かったね」と言ったら、「本当に。何度も泣いちゃった」と言っていたのは、私の感想が他の観客にも共有されていたことを確信させたのだった。
 
 さて、結局日をまたいでしまったのだが、冒頭に書いたとおり、文化祭が「昨日」であった日付でアップすることにするか。

2014年9月14日日曜日

喩え話 その2 ~スキーマ

 続くのか。続くのである(「だけ」と言ったのに)。
  昨夜は眠くて完結を断念したのだった。

 人が何かを理解するとはどういうことか。
 この、あまりに「そもそも」的な疑問に自分なりの答えを見つけたと思ったのは大学生の時だと思うが、この答えは今でも基本的には変わっていない。
 人が何かを理解するとはつまり、その情報が、もともとその人の中にあった認識の体系に位置づけられるということだ。位置づけられない情報は認知はできるが理解はできないということであり、理解力とは体系への位置づけの処理が柔軟であったり、位置づけるべき体系が精緻であったりするということだ。
 この「認識の体系」のことを以前個人的に「比較読み」についてまとめた際には、認知論で使われる「スキーマ」という用語を用いて論じた。
スキーマ (英語: schema)とは、もともと図や図式や計画のことを指す言葉で、今では様々な分野で広く用いられる言葉である。Wikipedia
新しい経験をする際に,過去の経験に基づいて作られた心理的な枠組みや認知的な構えの総称。Weblio辞典
その他の参考リンク 

 道を歩く際に参照する地図が、経路を把握するための「スキーマ」である。同様に、スケールは、音列を「理解」するための「スキーマ」なのである。
 もちろん「認知はできるが理解はできない」などという言い方は精確ではない。「認知」も「理解」も慣用的な差異はあるものの、どちらもあるレベルでの認識のありようを言っているだけだ。だから「認知」には「認知」のためのスキーマが必要だし(それは「パターン」などと呼ばれる)、スキーマ自体、さまざまな階層構造をもつものだ。だから、楽譜の音列を追うこと自体にもある「スキーマ」は活用されているはずだし(五線に対する音符の位置とか、音符の示す音の長さとか)、曲を「理解」するためにも、スケールだけでなく様々なレベルのスキーマが必要とされる。例えば「A-A'-B-A」などと表記されたりする「イントロ」や「バース」や、「フック」「ブリッジ」「コーラス」などと呼ばれる曲のまとまりを把握するためのスキーマも活用されるべきだ。
 それにしても、とりあえずスケールである。その為のなにより効果的な練習方法はやはりジャムセッションだと思うのだが。

 「比較読み」はスキーマ形成に有効なはずだというのが年来の確信なのだが、そもそもそういう読み方は端的に言って面白い。先週7日の記事に書いた須賀敦子の「塩一トンの読書」の読解もそうだ。
 別な事柄の中に共通する構造を見つけて喜ぶとか面白がるとかいうのは、芸人の物まねを面白がったり似顔絵を面白がったりするのと共通する、人類が進化の過程で身につけてきた適応能力の一つなのだろうと思うが、そもそもこの話の出発点である「喩え話」というのがそもそもそれだ。音楽におけるスケールと道歩きにおける地図が同じ構造だというところに気づくこと自体が人類が進化の過程で身につけてきた喜びなのだ(たぶん)。

 そこでさらに最近の喩え話一題。
 『徒然草』の第二百三十六段の冒頭「丹波に出雲といふ所あり。大社を移して、めでたく造れり。」とは何のことか。一文目はともかく、二文目はどこかから「大社」を移築したのかと思ってしまうが、そうではない。丹波(京都)の出雲に、地名に因んで出雲(島根)の出雲大社から勧請かんじょう(分霊)を受けて分祀された神社を建てたということなのだ。この事態を生徒にどう説明したものかと悩んでいた先生と話していて思いついた喩え話。
 昔「カスピ海ヨーグルト」なるものが流行したことがあった。その頃、その株を知人から分けてもらう機会があって、一時期、我が家でも作っていたことがあった。カスピ海ヨーグルトに限らず、ヨーグルトというのは、その一部を牛乳の中に「移す」と、その牛乳をヨーグルトにする。つまり「移す」といっても、元のヨーグルトが無くなってしまうわけではなく、どちらも牛乳を足せばそれぞれにヨーグルトとして在り続けるのだ。これが神社の「勧請・分霊」であり、二百三十六段は、出雲大社からの分霊を受けた丹波にある分祀が舞台になっているということだ。
 「分霊」における神様をヨーグルトにたとえるこの喩え話は、二人とも、なかなかに気に入ったのであった。

 追記
 この喩えなら神様は乳酸菌じゃないかという突っ込みを受けた。息子から。そりゃまそうだけど。「分霊」が「ヨーグルトの株分け」に対応しているんだから、ま、神様は乳酸菌? 
 

2014年9月13日土曜日

喩え話 ~キーとスケール

 部活(比較的珍しいジャンルの音楽系)の練習効率の悪さについては以前からもどかしく思っていたのだが、早急に改善すべき点の一つとして、理論の把握の弱さが重要な懸案事項だと思っていた。無論、こうした考え方の陥穽については充分自覚している。理論を教えても、それを実践に結びつけない者にとってはまるで無駄になってしまうという失敗例は数々(それこそうんざりするほど)経験してきた。それでも理論を知らないままでやりつづけるのはいかにも勿体ないと思われて、どうにももどかしくなってしまうのが理屈っぽいのが苦にならない私の悪い癖ではある。
 ずっとタイミングをとれずにいて、今日ようやっと、部活の開始の時点で話す機会をつくって、とりあえずこれだけは、と話したのは、練習の段階から通しで曲を演奏する段階まで、常にその曲のキー(調性)を意識しなさい、ということだった。その曲のキーが何であるかを意識せずに練習したり演奏したりするなどということは今ではアリエナイことだ私などには思えるのだが、実際に生徒を見ていると、むしろ意識している者がほとんどいない様子なのだ。
 もちろん、実は私にも思い当たる。その昔、友達に教えてもらってギターを始めた頃、キーなどという概念はなかった。音楽の時間に聞いたことのある「ハ長調」とか「ニ短調」とかいう言葉が、自分のやっている音楽とどう結びつくのか、まるで理解していなかった。フォークやポップスの弾き語りというスタイルの、いわゆる歌本が楽譜代わりであるような演奏にとって、示されたコードネームを指のコードフォームに翻訳して、ストロークかアルペジオかで演奏するだけで演奏として完結するのであり、それがなんというキーであるかを知る必要は、とりあえず存在しないのだ。
 私がそれを意識するようになったのは、別に教えてくれた人がいたわけも、本で勉強したわけでもない。多くの曲をやっているうちに、ある種の傾向、言ってしまえば法則があることがわかってきたからだ。曲ごとに、使うコードにはグループらしきものがあるようだとわかってきたのだ。これがあるキーにとっての「ダイアトニック・コード」というものであるなどと、その呼び名を知ったのは随分後だが、とにかく、コード弾きが中心のギター演奏にとって、キーの認識は、「ダイアトニック・コード」=「コードのグループ」のことなのだ。同時に、そうしたグループの中での、トニックやドミナント、サブドミナントなどの各コードの役割もわかってきた。ある曲ではCがトニックだが、別な曲でCがサブドミナントであるような時にはGがトニックだ。もちろんそんな用語を知ったのは随分後になってからだ。だが、そういう法則については、曲の中から洗練されるようにしてわかってきた。Eのキーでトニックとして聞こえるEメジャーと、Amのキーでドミナントとして聞こえるEがまるで違った音に聞こえることも、実際の演奏の中で気づいて驚いたのだった。
 一方、それに対して楽譜を読んで演奏する生徒たちにとって、キーの認識とは、つまりスケール(音階)の認識だ。この曲がCメジャー(ハ長調)であると認識することはCメジャーのスケールを意識した状態で楽譜を読んだり演奏したりするということだ。だが、これを実践していない者が多い(というかほとんどやっていない)。教えられていないのだ。スケールは上級生が教えている。だが、それが何の意味を持っているのかは教えていない。上級生がそもそも教わっていない。スケールの練習は大切だと、例えば経験者から言われているから真面目な者は実行するし、下級生にも教える。が、何のために覚えているかというと、スケールを弾くことを要求されたときに弾けるようなするためなのだ。つまりテストのために勉強する、という、例によって「学校」という制度にはびこる毎度毎度の自己完結、予定調和、自己目的化だ。
 では、演奏のためにスケールを意識することはなんの意味があるのか。単に「効用」と言ってしまえば、つまりはキーを意識しておくと、練習の段階で、より早く演奏できるようになるということであり、演奏の段階で間違えにくくなるということだ。なぜか。使う可能性の高い音が把握されているからだ、というような言い方をしてきたのだが、今日、この話をするにあたって喩え話を一つ考えた。
 スケールを意識しておくということは、案内されて道を歩くときに、地図を手にしておくということに似ている。道案内に従って初めての道を往く。目的地まで辿り着いて、さてもう一度今の道をたどれるかといえば、行程の長さや経路の複雑さによるだろうが、その界隈の全体像を俯瞰できる地図があれば、ない場合に比べてそれははるかに容易になることは間違いない。
 演奏における楽譜は、辿るべき道をその都度示している道案内のようなものだ。ここは右に曲がれとか真っ直ぐとか東方向に三歩とか。楽譜を読み慣れてくるとそうした指示に瞬時に反応できるようになるから、楽譜を見ていると演奏はできるようになる。だが演奏全体が楽譜なしに可能になるまでには、地図なしに道案内だけで経路を把握するのと同様の手間がかかる。また、それだけでは、たとえば違った小道を辿って同じ目的地に行ったり、その地域を自由に行き来したりすることができるようになるわけではない。
 地図を見ながらそうした案内を受けるということは、自分の現在位置が全体の中に位置づけられ、同時に周りの状況も見えているということだ。経路の把握は速やかに為され、再び同じ道を辿るときに迷うことがない。これが「練習の段階で、より早く演奏できるようになり、演奏の段階で間違えにくくなる」ということだ。例えば、キーを意識していない者にとってCの音は単にCの音でしかないが、キーが、つまりスケールが意識されている者にとってのCの音は、Cのキーの曲においては第1音(ルート)であり、Fのキーでは第5音、A♭では第3音、E♭では第6音、B♭では第2音か第9音だ。つまり、地図上に自分の位置が位置づけられるように、自分のいる位置が把握できるということだ。キーを意識していない者は、自分のいる位置が把握できない。次に移動するべき指示に従って道を辿るしかないのである。
 また、覚えが早い、間違えにくいというだけでなく、自分で経路をアレンジできるということでもある。この道はどうつながっているのか、そもそもそちらへ進んでいいのかは、地図として全体像が把握されているから可能なのである。同様にスケールを意識していれば演奏すべき音列を自分でアレンジできる。つまり自由なアドリブが可能になるのである。

 ここまで書くことになる予定はまるでなかった。言いたかったのは次の一言だけ。
 うまい喩え話を思いついたときは嬉しい。

2014年9月11日木曜日

ブログ名 変更

 あまりに考えなしでつけたブログ名を、娘のアドバイスに従って変更しました。
 というか彼女の命名。

追記
 Bloggerというのは外国企業が提供している、基本、英語向けのサービスだからなのか、編集画面は日本語に「翻訳」されたものらしく、このブログ名が「麹ん的な見解」と表記されていて、何事かと思った。漢語の音に筆者名のローマ字表記を重ねるという、複数の文字系統を併用する日本語ならではの言葉遊びは、英語ベースの言語体系には理解されないようで、それにしても「こーじ」の長音はどこから出た?

2014年9月10日水曜日

『誰も守ってくれない』「進撃の巨人」

 平日で、宵のうちから眠くて、「進撃の巨人」の14巻に思う存分感動したあとだというのに、録画されていた『誰も守ってくれない』を見てしまった。5年前の公開の時に話題だったから、脚本か監督かが別の作品で知ってる人なんだろうと思ったら『踊る大走査線』の君塚良一だった。見終わってから知ったのは失敗だった。
 重大な犯罪を犯した者の家族に対する世間の非難は妥当なものか? テーマとしては決着が難しい、興味深い題材を取り上げている。展開も演出も安っぽくはない、だが密度が薄い、と思ってみてるうち、ラスト近く、多分最も感動的であるべき主人公の台詞があまりに安っぽくて、ここまで見せといて(こっちが勝手に見ているのだが)、最後でこれかよ! と怒ってしまった。犯罪者の家族はどこまでその罪を共有しなければならないのか? 本気で考える気が脚本家か監督にあれば、どう転んでも面白くなりそうなテーマ設定なのに(どちらも君塚良一だが)。
 確かに難しい。説得力のある見解を提示するのはどうしたって難しいことは理解できるが、それにしたって、あの大仰で感動的だろ? と言わんばかりの作り物の台詞は何事だ。
 それにしてもどこにもここにも佐藤浩市。日本の役者には佐藤浩市と役所広司と香川照之しかいないのか。三人とも、いつ見ても見事な演技をする人たちだから、まあそれで不満があるわけではないが。いったい、佐藤浩市と役所広司と香川照之は、それぞれ何人ずついるんだ?

 それにしても「進撃の巨人」は、10巻くらいで一度ピークがあったが、またそのピークに再び到達している。しかも10巻のはとにかく衝撃的なネタで勝負、というピークだったが、この14巻のは、丁寧に練り込まれた設定と圧倒的なストーリーテリング、名台詞に酔い、絵のスピード感に昂揚する、という、まことに真っ当な力業によって押し上げられたピークだ。脱帽。

2014年9月7日日曜日

続 週末 ~「塩一トンの読書」

 昨日の記事は、今週の平日のことを書ききれてはおらず、今日にまで続いてしまうのだが、それでも今日もまた書ききれない。今日は今日で、息子の文化祭に行ったことやら、アニメ「ハイキュー!!」が毎週毎週あまりに素晴らしいこととか、「おやじの背中」の井上由美子はつまらなかったことなど、書き留めておきたいことがあるのに、それよりもまず昨日の続きを書いておかねばならない。ブログを放置してしまうことがあるとしたら、書くことがないのではなく、書きたいことを書ききれずに流れてしまう日々への焦燥感、喪失感、徒労感によるものではないかと予感している。

 とりあえず続き。
 「カンガルー日和」に続いて、さて、もう一時限。
 新学期2回目の授業でいよいよ「こころ」かと思いきや、回り道をすることにする。野球部が試合で、各クラスに公欠者が出てしまう。「こころ」の第一回は可能な限り全員に受けさせたい。そこでもうひとつ、一時限の読み切りを扱う。須賀敦子の「塩一トンの読書」。
 須賀敦子は「となり町の山車のように」のように複雑な陰影を持った随筆も別の教科書には載っているのだが、「塩一トン」はいたってシンプルなメッセージを読み取ればおしまい、といった文章に見えて、年度当初には扱うつもりがなかった。だが、一回読み切りの文章を選ぶために読み返して、俄かに、このタイミングで読むことの意義に気づいたのだった。
 「シンプルなメッセージ」とは言ってみれば「人は簡単に理解できるものではなく、長い間じっくりつきあってみなければわからない。本もまた同じである。」といったような、国語教科書に似つかわしいお説教じみた教訓である。もちろん須賀本人がそれを言うときには、したり顔で教訓を垂れる教師としてではなく、読書人としての実感を素直に語っているだけではある。もちろんとりあえずこの文章から読み取るべきメッセージを真っ当に読み取れる必要性はあり、授業では真っ当にそれを生徒に要求すればいいのだ(もちろんそれを「教える」ことなど何ら意味のあることではなく、あくまで「生徒に読み取ることを要求する」ことにのみ意味があるだけだ)。
 それでもその過程も、果実としての教訓も、それほど魅力的なものとは思えない。ただ、問いの形としていくらか面白いと自分ながら思えたのは「この文章で前半の5分の2と後半の5分の3の内容が何についてであるかを、それぞれ漢字一字の一語で言え。」という問いだった。
 こういう、シンプルな答えを要求するような問いで、その答えを考えることで文章についての認識がクリアになるような問いを思いついたときは嬉しい。生徒はすぐにどちらかが「塩」だろうと考えるのだが、それは「前半・後半」というような並列の片方に適用すべきキーワードではない、という感覚が、全体の趣旨をバランスよく把握する読解に根拠づけられる時、訂正されなければならない。上にまとめた「メッセージ」で明らかなように「人」と「本」である。これが提出されれば「メッセージ」はそこから容易にまとめられる。こちらが「教える」必要などない。
 だがここが目的地ではない。
 この文章で「面白い」ところはどこか? 上のような「メッセージ」に、なるほどと頷くことが「面白い」と思うことなのだと感ずる人は、そもそもそうした「メッセージ」の内容にあらためて何か目を見開かれたとかいうことではなく、そもそもそうした「メッセージ」を誰かが言ってくれることを予め求めていた人なのだろう。だが私自身はそれには当たらなかった。では何か?
 たとえば最終章に
 ずっと以前に読んで、こうだと思っていた本を読み返してみて、前に読んだ時とはすっかり印象が違って、それがなんともうれしいことがある。それは、年月のうちに、読み手自身が変わるからで、子どもの時にはけんかしたり、相手に無関心だったりしたのに、大人になってから、何かのきっかけで、深い親しみを持つようになる友人に似ている。
といった一節がある。ここで言っていること自体には、そりゃそういうこともあるだろう、くらいの感慨しか持てないのだが、この文章を生徒が授業で読むことには、いくぶん不思議な感慨を抱いてもいい。国語の授業という限定があって、去年読んだ文章をなんか連想しない? といった誘い水を差すと、どこのクラスにも気づく者がいる。一年の時の教科書に載っていた角田光代の「旅する本」は、まさしくそういうことを言っていた小説だったのだ。誰かがそう指摘すると、他の者も、ああ、なるほどそういえば、という反応をする。ちょっと面白い。
 それだけではない。
 ある本「についての」知識を、いつの間にか「実際に読んだ」経験とすりかえて、私たちは、その本を読むことよりも、「それについての知識」を手っ取り早く入手することで、お茶を濁しすぎているのではないか。
は、松浦寿輝の「『映像体験』の現在」
 今日のような映像の氾濫状態に慣れてしまうと、自分がその場で実際に体験したわけではない出来事を、映像を見ただけであたかも全部わかってしまったかのように考えがちだということがある。
を連想させるし、
 (小説を)すじだけで語ってしまったら、作者が実際に力を入れたところを、きれいに無視するのだから、ずいぶん貧弱な楽しみしか味わえないだろう。
は、茂木健一郎の「『見る』」
 しかし、その「要約」だけでは、「モナ・リザ」の前に立つという体験を再現することはできない。…絵を構成する色や形などの細部は、決してそのすべてをとどめておくことができない「意識の流れ」の中で、時々刻々失われていく体験として、私たちの魂を通り過ぎる。
を連想させる。これらを生徒はちゃんと思い出して指摘する。
 別の時期に別の筆者が別の関心で別の主題について(文章のジャンルさえ異なって)書き留めた思考が、奇妙な共通点を持っている。両者が結びついたとき、わかったつもりになっていたそれぞれの文章が言っているのはそういうことか、とふと腑に落ちる。面白い。
 そしてまた、これから「こころ」を読むにあたって、「塩一トンの読書」が言っていることは、まさしく心に留めておいてほしいことなのだ。世間で言われている「こころ」についての「知識」や「すじ」でわかったつもりにならずに、何度でも本文を読み返してほしい。それらはわかったつもりになっていた「こころ」とどれほど違った顔を見せることか。

2014年9月6日土曜日

週末 ~「カンガルー日和」

 予想はしていたが、新学期が始まると途端に放置になるな。
 そもそも開設してからの更新が無理矢理ではあったのだ。文章書く速度がそれほど速いというわけでもないのに。
 それにしても月曜日に始業式というのはしんどいパターンで、そのまま続く4日間が授業になってしまう。だが火曜日にはもう平常モードになって、前日の始業式、まして前々日の夏季休暇が遙か昔のことのように思われるのも毎度のパターンではある。

 平日はさすがに映画も一本見終わることもなく過ぎてしまう(それでも録画してあるのを少し観ては寝てしまったりして、一本の映画に何日もかけるこういう映画鑑賞はどうなの? とは我ながら思う。それで低評価される映画は同情に値する)。
 で、ブログ開設当初からどうしようかとは思っていたが、どうせ見る者も多くはないブログのこと、備忘録的にこれを書いてしまうことにするか。

 2学期は「こころ」を扱う予定だ。もうこれはやりだすと2学期いっぱいやっても終わらないほどの「ネタ」があるのだから、すぐに始めても構わないのだが、そうするといかにも2学期が「それだけ」感が強いので、まずはこちらの発声及び滑舌のリハビリに、最初の時間は朗読をする。村上春樹の「カンガルー日和」にしよう。
 あくまで2時間以上の扱いをする気はなく、他の小説が、あまりに読む(読ませる)気のしないものばかりなので。途中に出てくる「スティービー・ワンダーとビリー・ジョエル」をCDに焼いておいて、それをBGMにして朗読をしようと、年度当初から思ってはいた。とりわけ「Overjoyed」は「カンガルー日和」のイメージにピッタリなのだ。尤も発表は「Overjoyed」の方が後だから、村上春樹がそれをイメージしたはずはなく、あるいはもう一曲の「Isn't She Lovely」の方が可能性はあるか。
  Youtubeで見る→OverjoyedIsn't She Lovely
 ついでに脚注で、村上春樹がビリー・ジョエルと同い年で、かつスティービー・ワンダーがその一つ下であることなどを知って妙な感じがしたりもした。

 「カンガルー日和」は大学生の時から何度も読んでいるから、今更考える余地もないような気がしていたが、授業で読むということは個人的に読むことよりはるかに濃密に頭を使って読むことになるから、読んでおしまいのつもりのこのお話も、やはりもう少しだけ新しい顔を見せる。
 毎度の村上のアクロバティックな比喩も、諦観に裏打ちされた冷静な語り手の判断も、それでいて夏の一日の気持ち良さを感じさせるに充分な描写や結末も、それだけ味わえば村上春樹を読む快感はもう満たされているのではないかと思うが、それでも、なぜ「カンガルーの赤ん坊なのか?」という彼女のこだわりにそれなりの納得をしないことには、この小説を読んだ落とし前はつかない、とも思う。
 指導書は人間には論理で解決できない心情がある。そこには、他人にも理解できない人それぞれのこだわりというものがある。僕はカンガルーの赤ん坊をそれほど重要には考えていないが、彼女にとってカンガルーの赤ん坊は特別な存在であった。などと言っている。つまりこの「こだわり」は理解しないで受け入れるべきだということらしいし、「僕」もまたそれを理解していないということらしい。
 確かに僕が、彼女の奇妙な断定を共感するでもなく半ば諦念とともに受け入れているところがあるのは確かだが、一方、この小説の核心である彼女のカンガルーの赤ん坊に対する思い入れについては語り手の「僕」にも結末時には共有されているように読める。
 「理解せずに受け入れている」と読むべきか「ある種の理解をしている」と読むべきか?
 筆者の印象としては後者である。一方指導書執筆者はある種のディスコミュニケーションが村上春樹的主題なのだと考えているのだろう。
 また、カンガルーの赤ん坊へのこだわりについても「論理では解決できない」と考えるべきか「ある種の論理がはたらいている」と考えるべきか?
 やはり筆者の印象は後者である。
 では彼女が求めているのは何なのか?
 授業ではまず「彼女はなぜカンガルーの赤ん坊を見たがったか?」といった質問から始める。こういう質問には「新聞で知ったから」とか「珍しいから」とかいった、間違いではないが、いっこうに核心に触れない答えを出してくる生徒がいて、こういうのも、そういう回答を聞いて、そうか、そういうふうに考えたりするのか、と意外に思わされるところが面白い。
 そこでさらに「彼女のこだわりポイントは何なのか?」というように方向を誘導する。「赤ん坊であること」が出たら、「なぜそこがこだわりポイントなのか?」と詰めていく。「小型のカンガルー」と形容するのが適当な、もはや「赤ん坊」に見えないカンガルーの子供に一旦はがっかりした彼女が、結局は満足したらしいのは、つまりカンガルーの子供が母親の袋に入っているのを見ることができたからだ。つまりこだわりポイントはそこである。
 ではなぜそれが問題なのか? 考えるためのヒントはどこにあるか、と探させる。勘の良い者はすぐに気づく。繰り返される「保護されている」という言葉である。つまり彼女が見たかったのは「カンガルーの赤ん坊」ではなく、カンガルーの赤ん坊が「保護されている」姿である。
 ここまで読めればおしまいでいい。だが、最後の最後で、どうして「保護されていること」が問題なの? とは訊いてみたい。これも予想外に複数の者から「自分が妊娠しているか、もしくは妊娠を考えていることを示唆している」という理解が示された。こういう発言はもちろん誉めておくが、筆者個人はちょっと違った理解をしていた。
 「妊娠」が問題になってしまうと、彼女が自分を重ねているのが母親カンガルーということになる。だが素直に読めば、彼女が重ねているのはやはり「カンガルーの赤ん坊」ではないのか?
 とすれば、「保護されている」ことによる安心を求めている彼女は、それだけ不安を抱えているということではないか?
 休日の動物園訪問が、結局はハッピーエンドに終わるとはいえ、やはりこの小説は背後に、「不安」(いわゆる「現代人の抱える」?)を前提しているのであり、それでもそれが一時でも解消することを、やはりハッピーエンドとして素直に愛でる小説なのではないかと思う。