2014年9月28日日曜日

推薦入試の小論文

 とりあえず推薦入試を受ける予定の息子の小論文をみている(見ている? 看ている? 診ている?)
 毎回面白い。もともと小論文の指導は好き好んでやりたいとさえ思うほど楽しい。文章の添削なんぞをしているだけでは無論ない。問題を読んでこちらも考え、展開できる論旨の可能性を探りながら、まずは生徒の考えてきた文章に沿って検討していく。恐らく自分一人で考えても、1~2時間の集中は必ず何事かを生み出すものだが、検討すべき他人の思考があると、その批判による反動・反作用や、可能性の敷衍によって、自分だけで考えているよりも豊かな可能性にたどりつくことができる。それまでの認識の一部は必ず再構成される。2~3時間の豊かな時間を過ごす充実感が必ず得られる。まして今回の場合のように、基本的に歯応えのある奴を遠慮なく叩きのめすのはサディスティックな愉しさもある(本人は負けてないと主張するが)。
 この間の「人文学分野を学ぶために必要な感受性とはどのようなものか(引用不正確。後日確認)」というような問いについては、彼は「感受性」って何よ、と書きあぐねた挙げ句に本人も苦し紛れであることは自覚しながら「論理的思考力」「独創性」とかいう毒にも薬にもならぬ結論に向けて強引に論を展開していたが、それを文章レベルでいくら添削してもはじまらない。細かい瑕疵は無論あるが、もともと文章力は高校生としてはかなりのレベルではある。それより問題はこの問いが求めているものを捉えているかどうかだ。「論理的思考力」「独創性」などという、そりゃある方が良いに決まっているとしか言えないような「感受性」(なのか?)を挙げてこねくりまわすより、まず問題の意図するものを捉えるのが先決である。
 ではどう考えたら良かったのか。まずは問題文自体をじっくりと検討するのである。問われている条件は「人文学分野を学ぶため」である。つまりこれは「自然科学分野を学ぶため」との違いを問うているのである。「論理的思考力」「独創性」などはどちらにとっても必要であることは明らかだから、問題の要求している点にからすれば甚だ焦点のぼやけた論にしかならない。
 などということに、私とて問題を見た瞬間に自明のことのように気づいているわけではない。「論理的思考力」「独創性」といった可もなく不可もない答案を自分ならどう評価するだろうかと考えているうちに、ふと気付くのである。その瞬間が愉しい。
 さて、では「人文学」と「自然科学」とはそれぞれ、向き合う姿勢においてどのような違いを要求する学問分野なのか。ここから先は一つのアイデアとして提示したのだが、私なら、「自然科学」が研究対象からなるべく自分を切り離す客観的態度を要求される学問であるのに対し、「人文学」は、その研究対象から自分を排除することが不可能である、もしくは排除することを必ずしも良しとしない学問分野である、というような趣旨を展開する。別に独創的な見解ではない。考えるべき問題の方向が見えてしまえば誰もが思いつく結論の一つだろう。だが、要求されるのは、こうした適切な問題の捉え方と、後は論の展開を支える論理力や構成力、文章表現力なのだろう。

 さて、前置きの「この間」が長くなった。書こうと思ったのは今回持ってきた問題の、要約とそれについての考察を要求される問題文についてである。
 当たり前のことを言っていてつまらないばかりか、文章が読みにくいと彼が言うのは信用に値するから、本当か、と一応は思いつつも読んでみると、なるほどそうだ。なんなんだこれはとネットで調べてみると、一種の名著として結構有名な著作らしい。『人はいかに学ぶか―日常的認知の世界』(稲垣佳世子・波多野誼余夫)。
 だが、ほんとうにそうなのだ。あまりにもひどい文章なのだ。主述の対応や修飾関係が曖昧だったり、段落の論理関係が不明だったり。いくら読み返しても文意がとれないのは、切り取り方が悪いせいかもしれないとも思ったが、ともあれ読み返せば読み返すほどにそのひどさが確信されてくる。文章の論理からはわからないから、むしろ「常識」で補ってその文意を判断するしかない。つまり「当たり前のことを言っていてつまらない」のである。なんなんだ、これは。
 こんな文章を天下の筑波大学が入試に使っていいのか? というか、どういうつもりで選んでいるのだろう? 本心から不思議だ。
 しかしいくつかのブログから知れるように、これが大学の授業のテキストとしてもしばしば使われてきたらしい、斯界の著名な著作であるらしいとこをみると、単行本として通読する上ではそれなりに学ぶべき見解があると思われるような内容であるということなのだろう。とすると、受験者に考えさせたいのは「内容」であって、それは考えさせるに値すると思い込んでいる出題者は、それがこの限定された文章から読み取れるようには達意の文章ではないということにまで意が及んでいない、ということなのかもしれない。
 これは、こちらが読んでいる全文を目にすることなく、一部を切り取った文章だけしか読めない受験者の認識について充分に想像しなければならない、という、我々も陥りがちな誤謬に対する自戒を教訓とすべき事例なのかも知れない。

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