2014年9月6日土曜日

週末 ~「カンガルー日和」

 予想はしていたが、新学期が始まると途端に放置になるな。
 そもそも開設してからの更新が無理矢理ではあったのだ。文章書く速度がそれほど速いというわけでもないのに。
 それにしても月曜日に始業式というのはしんどいパターンで、そのまま続く4日間が授業になってしまう。だが火曜日にはもう平常モードになって、前日の始業式、まして前々日の夏季休暇が遙か昔のことのように思われるのも毎度のパターンではある。

 平日はさすがに映画も一本見終わることもなく過ぎてしまう(それでも録画してあるのを少し観ては寝てしまったりして、一本の映画に何日もかけるこういう映画鑑賞はどうなの? とは我ながら思う。それで低評価される映画は同情に値する)。
 で、ブログ開設当初からどうしようかとは思っていたが、どうせ見る者も多くはないブログのこと、備忘録的にこれを書いてしまうことにするか。

 2学期は「こころ」を扱う予定だ。もうこれはやりだすと2学期いっぱいやっても終わらないほどの「ネタ」があるのだから、すぐに始めても構わないのだが、そうするといかにも2学期が「それだけ」感が強いので、まずはこちらの発声及び滑舌のリハビリに、最初の時間は朗読をする。村上春樹の「カンガルー日和」にしよう。
 あくまで2時間以上の扱いをする気はなく、他の小説が、あまりに読む(読ませる)気のしないものばかりなので。途中に出てくる「スティービー・ワンダーとビリー・ジョエル」をCDに焼いておいて、それをBGMにして朗読をしようと、年度当初から思ってはいた。とりわけ「Overjoyed」は「カンガルー日和」のイメージにピッタリなのだ。尤も発表は「Overjoyed」の方が後だから、村上春樹がそれをイメージしたはずはなく、あるいはもう一曲の「Isn't She Lovely」の方が可能性はあるか。
  Youtubeで見る→OverjoyedIsn't She Lovely
 ついでに脚注で、村上春樹がビリー・ジョエルと同い年で、かつスティービー・ワンダーがその一つ下であることなどを知って妙な感じがしたりもした。

 「カンガルー日和」は大学生の時から何度も読んでいるから、今更考える余地もないような気がしていたが、授業で読むということは個人的に読むことよりはるかに濃密に頭を使って読むことになるから、読んでおしまいのつもりのこのお話も、やはりもう少しだけ新しい顔を見せる。
 毎度の村上のアクロバティックな比喩も、諦観に裏打ちされた冷静な語り手の判断も、それでいて夏の一日の気持ち良さを感じさせるに充分な描写や結末も、それだけ味わえば村上春樹を読む快感はもう満たされているのではないかと思うが、それでも、なぜ「カンガルーの赤ん坊なのか?」という彼女のこだわりにそれなりの納得をしないことには、この小説を読んだ落とし前はつかない、とも思う。
 指導書は「人間には論理で解決できない心情がある。そこには、他人にも理解できない人それぞれのこだわりというものがある。僕はカンガルーの赤ん坊をそれほど重要には考えていないが、彼女にとってカンガルーの赤ん坊は特別な存在であった。」などと言っている。つまりこの「こだわり」は理解しないで受け入れるべきだということらしいし、「僕」もまたそれを理解していないということらしい。
 確かに僕が、彼女の奇妙な断定を共感するでもなく半ば諦念とともに受け入れているところがあるのは確かだが、一方、この小説の核心である彼女のカンガルーの赤ん坊に対する思い入れについては語り手の「僕」にも結末時には共有されているように読める。
 「理解せずに受け入れている」と読むべきか「ある種の理解をしている」と読むべきか。私の印象としては後者である。また、カンガルーの赤ん坊へのこだわりについても「論理では解決できない」と考えるべきか「ある種の論理がはたらいている」と考えるべきか。やはり私の印象は後者である。
 では彼女が求めているのは何なのか?
 授業ではまず「彼女はなぜカンガルーの赤ん坊を見たがったか?」といった質問から始める。こういう質問には「新聞で知ったから」とか「珍しいから」とかいった、間違いではないが、いっこうに核心に触れない答えを出してくる生徒がいて、こういうのも、そういう回答を聞いて、そうか、そういうふうに考えたりするのか、と意外に思わされるところが面白い。
 そこでさらに「彼女のこだわりポイントは何なのか?」というように方向を誘導する。「赤ん坊であること」が出たら、「なぜそこがこだわりポイントなのか?」と詰めていく。「小型のカンガルー」と形容するのが適当な、もはや「赤ん坊」に見えないカンガルーの子供に一旦はがっかりした彼女が、結局は満足したらしいのは、つまりカンガルーの子供が母親の袋に入っているのを見ることができたからだ。こだわりポイントはそこである。
 ではなぜそれが問題なのか? 考えるためのヒントはどこにあるか、と探させる。勘の良い者はすぐに気づく。繰り返される「保護されている」という言葉である。つまり彼女が見たかったのは「カンガルーの赤ん坊」ではなく、カンガルーの赤ん坊が「保護されている」姿である。
 ここまで読めればおしまいでいい。だが、最後の最後で、どうして「保護されていること」が問題なの? とは訊いてみたい。これも予想外に複数の者から「自分が妊娠しているか、もしくは妊娠を考えていることを示唆している」という理解が示された。こういう発言はもちろん誉めておくが、私個人はちょっと違った理解をしていた。「妊娠」が問題になってしまうと、彼女が自分を重ねているのが母親カンガルーということになる。だが素直に読めば、彼女が重ねているのはやはり「カンガルーの赤ん坊」ではないのか?
 とすれば、「保護されている」ことによる安心を求めている彼女は、それだけ不安を抱えているということではないか? 休日の動物園訪問が、結局はハッピーエンドに終わるとはいえ、やはりこの小説は背後に、「不安」(いわゆる「現代人の抱える」?)を前提しているのであり、それでもそれが一時でも解消することを、やはりハッピーエンドとして素直に愛でる小説なのではないかと思う。

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