2014年9月13日土曜日

喩え話 ~キーとスケール

 部活(比較的珍しいジャンルの音楽系)の練習効率の悪さについては以前からもどかしく思っていたのだが、早急に改善すべき点の一つとして、理論の把握の弱さが重要な懸案事項だと思っていた。無論、こうした考え方の陥穽については充分自覚している。理論を教えても、それを実践に結びつけない者にとってはまるで無駄になってしまうという失敗例は数々(それこそうんざりするほど)経験してきた。それでも理論を知らないままでやりつづけるのはいかにも勿体ないと思われて、どうにももどかしくなってしまうのが理屈っぽいのが苦にならない私の悪い癖ではある。
 ずっとタイミングをとれずにいて、今日ようやっと、部活の開始の時点で話す機会をつくって、とりあえずこれだけは、と話したのは、練習の段階から通しで曲を演奏する段階まで、常にその曲のキー(調性)を意識しなさい、ということだった。その曲のキーが何であるかを意識せずに練習したり演奏したりするなどということは今ではアリエナイことだ私などには思えるのだが、実際に生徒を見ていると、むしろ意識している者がほとんどいない様子なのだ。
 もちろん、実は私にも思い当たる。その昔、友達に教えてもらってギターを始めた頃、キーなどという概念はなかった。音楽の時間に聞いたことのある「ハ長調」とか「ニ短調」とかいう言葉が、自分のやっている音楽とどう結びつくのか、まるで理解していなかった。フォークやポップスの弾き語りというスタイルの、いわゆる歌本が楽譜代わりであるような演奏にとって、示されたコードネームを指のコードフォームに翻訳して、ストロークかアルペジオかで演奏するだけで演奏として完結するのであり、それがなんというキーであるかを知る必要は、とりあえず存在しないのだ。
 私がそれを意識するようになったのは、別に教えてくれた人がいたわけも、本で勉強したわけでもない。多くの曲をやっているうちに、ある種の傾向、言ってしまえば法則があることがわかってきたからだ。曲ごとに、使うコードにはグループらしきものがあるようだとわかってきたのだ。これがあるキーにとっての「ダイアトニック・コード」というものであるなどと、その呼び名を知ったのは随分後だが、とにかく、コード弾きが中心のギター演奏にとって、キーの認識は、「ダイアトニック・コード」=「コードのグループ」のことなのだ。同時に、そうしたグループの中での、トニックやドミナント、サブドミナントなどの各コードの役割もわかってきた。ある曲ではCがトニックだが、別な曲でCがサブドミナントであるような時にはGがトニックだ。もちろんそんな用語を知ったのは随分後になってからだ。だが、そういう法則については、曲の中から洗練されるようにしてわかってきた。Eのキーでトニックとして聞こえるEメジャーと、Amのキーでドミナントとして聞こえるEがまるで違った音に聞こえることも、実際の演奏の中で気づいて驚いたのだった。
 一方、それに対して楽譜を読んで演奏する生徒たちにとって、キーの認識とは、つまりスケール(音階)の認識だ。この曲がCメジャー(ハ長調)であると認識することはCメジャーのスケールを意識した状態で楽譜を読んだり演奏したりするということだ。だが、これを実践していない者が多い(というかほとんどやっていない)。教えられていないのだ。スケールは上級生が教えている。だが、それが何の意味を持っているのかは教えていない。上級生がそもそも教わっていない。スケールの練習は大切だと、例えば経験者から言われているから真面目な者は実行するし、下級生にも教える。が、何のために覚えているかというと、スケールを弾くことを要求されたときに弾けるようなするためなのだ。つまりテストのために勉強する、という、例によって「学校」という制度にはびこる毎度毎度の自己完結、予定調和、自己目的化だ。
 では、演奏のためにスケールを意識することはなんの意味があるのか。単に「効用」と言ってしまえば、つまりはキーを意識しておくと、練習の段階で、より早く演奏できるようになるということであり、演奏の段階で間違えにくくなるということだ。なぜか。使う可能性の高い音が把握されているからだ、というような言い方をしてきたのだが、今日、この話をするにあたって喩え話を一つ考えた。
 スケールを意識しておくということは、案内されて道を歩くときに、地図を手にしておくということに似ている。道案内に従って初めての道を往く。目的地まで辿り着いて、さてもう一度今の道をたどれるかといえば、行程の長さや経路の複雑さによるだろうが、その界隈の全体像を俯瞰できる地図があれば、ない場合に比べてそれははるかに容易になることは間違いない。
 演奏における楽譜は、辿るべき道をその都度示している道案内のようなものだ。ここは右に曲がれとか真っ直ぐとか東方向に三歩とか。楽譜を読み慣れてくるとそうした指示に瞬時に反応できるようになるから、楽譜を見ていると演奏はできるようになる。だが演奏全体が楽譜なしに可能になるまでには、地図なしに道案内だけで経路を把握するのと同様の手間がかかる。また、それだけでは、たとえば違った小道を辿って同じ目的地に行ったり、その地域を自由に行き来したりすることができるようになるわけではない。
 地図を見ながらそうした案内を受けるということは、自分の現在位置が全体の中に位置づけられ、同時に周りの状況も見えているということだ。経路の把握は速やかに為され、再び同じ道を辿るときに迷うことがない。これが「練習の段階で、より早く演奏できるようになり、演奏の段階で間違えにくくなる」ということだ。例えば、キーを意識していない者にとってCの音は単にCの音でしかないが、キーが、つまりスケールが意識されている者にとってのCの音は、Cのキーの曲においては第1音(ルート)であり、Fのキーでは第5音、A♭では第3音、E♭では第6音、B♭では第2音か第9音だ。つまり、地図上に自分の位置が位置づけられるように、自分のいる位置が把握できるということだ。キーを意識していない者は、自分のいる位置が把握できない。次に移動するべき指示に従って道を辿るしかないのである。
 また、覚えが早い、間違えにくいというだけでなく、自分で経路をアレンジできるということでもある。この道はどうつながっているのか、そもそもそちらへ進んでいいのかは、地図として全体像が把握されているから可能なのである。同様にスケールを意識していれば演奏すべき音列を自分でアレンジできる。つまり自由なアドリブが可能になるのである。

 ここまで書くことになる予定はまるでなかった。言いたかったのは次の一言だけ。
 うまい喩え話を思いついたときは嬉しい。

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