2014年9月14日日曜日

喩え話 その2 ~スキーマ

 続くのか。続くのである(「だけ」と言ったのに)。
  昨夜は眠くて完結を断念したのだった。

 人が何かを理解するとはどういうことか。
 この、あまりに「そもそも」的な疑問に自分なりの答えを見つけたと思ったのは大学生の時だと思うが、この答えは今でも基本的には変わっていない。
 人が何かを理解するとはつまり、その情報が、もともとその人の中にあった認識の体系に位置づけられるということだ。位置づけられない情報は認知はできるが理解はできないということであり、理解力とは体系への位置づけの処理が柔軟であったり、位置づけるべき体系が精緻であったりするということだ。
 この「認識の体系」のことを以前個人的に「比較読み」についてまとめた際には、認知論で使われる「スキーマ」という用語を用いて論じた。
スキーマ (英語: schema)とは、もともと図や図式や計画のことを指す言葉で、今では様々な分野で広く用いられる言葉である。Wikipedia
新しい経験をする際に,過去の経験に基づいて作られた心理的な枠組みや認知的な構えの総称。Weblio辞典
その他の参考リンク 

 道を歩く際に参照する地図が、経路を把握するための「スキーマ」である。同様に、スケールは、音列を「理解」するための「スキーマ」なのである。
 もちろん「認知はできるが理解はできない」などという言い方は精確ではない。「認知」も「理解」も慣用的な差異はあるものの、どちらもあるレベルでの認識のありようを言っているだけだ。だから「認知」には「認知」のためのスキーマが必要だし(それは「パターン」などと呼ばれる)、スキーマ自体、さまざまな階層構造をもつものだ。だから、楽譜の音列を追うこと自体にもある「スキーマ」は活用されているはずだし(五線に対する音符の位置とか、音符の示す音の長さとか)、曲を「理解」するためにも、スケールだけでなく様々なレベルのスキーマが必要とされる。例えば「A-A'-B-A」などと表記されたりする「イントロ」や「バース」や、「フック」「ブリッジ」「コーラス」などと呼ばれる曲のまとまりを把握するためのスキーマも活用されるべきだ。
 それにしても、とりあえずスケールである。その為のなにより効果的な練習方法はやはりジャムセッションだと思うのだが。

 「比較読み」はスキーマ形成に有効なはずだというのが年来の確信なのだが、そもそもそういう読み方は端的に言って面白い。先週7日の記事に書いた須賀敦子の「塩一トンの読書」の読解もそうだ。
 別な事柄の中に共通する構造を見つけて喜ぶとか面白がるとかいうのは、芸人の物まねを面白がったり似顔絵を面白がったりするのと共通する、人類が進化の過程で身につけてきた適応能力の一つなのだろうと思うが、そもそもこの話の出発点である「喩え話」というのがそもそもそれだ。音楽におけるスケールと道歩きにおける地図が同じ構造だというところに気づくこと自体が人類が進化の過程で身につけてきた喜びなのだ(たぶん)。

 そこでさらに最近の喩え話一題。
 『徒然草』の第二百三十六段の冒頭「丹波に出雲といふ所あり。大社を移して、めでたく造れり。」とは何のことか。一文目はともかく、二文目はどこかから「大社」を移築したのかと思ってしまうが、そうではない。丹波(京都)の出雲に、地名に因んで出雲(島根)の出雲大社から勧請かんじょう(分霊)を受けて分祀された神社を建てたということなのだ。この事態を生徒にどう説明したものかと悩んでいた先生と話していて思いついた喩え話。
 昔「カスピ海ヨーグルト」なるものが流行したことがあった。その頃、その株を知人から分けてもらう機会があって、一時期、我が家でも作っていたことがあった。カスピ海ヨーグルトに限らず、ヨーグルトというのは、その一部を牛乳の中に「移す」と、その牛乳をヨーグルトにする。つまり「移す」といっても、元のヨーグルトが無くなってしまうわけではなく、どちらも牛乳を足せばそれぞれにヨーグルトとして在り続けるのだ。これが神社の「勧請・分霊」であり、二百三十六段は、出雲大社からの分霊を受けた丹波にある分祀が舞台になっているということだ。
 「分霊」における神様をヨーグルトにたとえるこの喩え話は、二人とも、なかなかに気に入ったのであった。

 追記
 この喩えなら神様は乳酸菌じゃないかという突っ込みを受けた。息子から。そりゃまそうだけど。「分霊」が「ヨーグルトの株分け」に対応しているんだから、ま、神様は乳酸菌? 
 

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