新学期の授業について少々書く。だが扱っているのは「こころ」のように汎用性のある教材ではない。一学期の「ミロのヴィーナス」(清岡卓行)の頃はまだブログを開設していなかった。だが今の時点でそれを授業で扱っていたときの豊穣が記録できるかどうか怪しい。一方最近展開したばかりの授業の感触ならばいくらか表現することができるが、それがどれほど意味のあることかは心許ない。だが意味など求めずに書き出してしまおう。
内山
内山節の文章は、どれを読んでもいつもぼんやりと印象がない。そのわりには好きな人がいるらしく(と言うか案外多いらしく)、教科書の常連ではある。面白いと思ったことはないので、かつて授業で扱ったことがないのだが、現在使用中の教科書はそもそも教材の選択肢がなく、さらに面白くない
だが、読んで面白いかどうかということと、授業で扱って面白いかどうかは別である。吉本ばななの「みどりのゆび」は作為の透けて見える、安っぽい小説だと思って取り上げてこなかったが、やはり他の選択肢がさらに魅力に乏し過ぎて仕方なく今年授業で扱ってみると、実に面白い発見が相次ぐ、宝の山のような教材だったことがわかった。作為が見えるのも、その作為を敢えて探るという考察が可能になるという意味で、学習教材としては丁度よいとも言えるのである。だがそうした楽しい授業を通して作品の感興が増したかといえば、結局そうでもない。
ともあれ内山節である。最初の1ページはこんな文章である。
「おのずから」を感じ取る
立秋の便りが届いたというのに、群馬県上野村の私の家では、まだ夏の仕事が山積みになっている。畑仕事、夏の山の手入れ、草刈り、木の剪定、こういう状態が続くと、村の人間としては、よくないことをしているような気分になってくる。
といっても、それらはいずれも、経済の合理性から見れば、しなくてもよい仕事ばかりである。自分で畑を作るよりは、作物をもらったり買ったりしたほうが効率的だし、山の手入れをしなければ困る経済的な理由が、私にあるわけでもない。私の仕事の遅れが、環境や社会に負担を与えていることもないだろう。それなのに、村の人間としては、そう簡単に開き直ってしまう気分にはなれないのである。
読んでいて「わからない」と感じる部分はないのに、この調子で最後まで読んでも、さて結局何を言っていたのかと考えるとちっとも思い出せない、といういつもの内山
国語科現代文の授業は生徒に教材となる文章の内容を理解させることを目差しているわけではない。だから教師が文章の内容を説明することには意味がない。だが、仮にそれを目差すとしても、「わからなさ」の構造がどうなっているのかの見当がつかなければ授業の構想が成り立たないはずだ。そもそも自分自身がこの文章を「わからない」と感じている理由が俄には「わからない」。扱われている話題に知らないことがあるとか、論理が難しいとか、抽象性の高い表現がどのような具体例に対応するのか見当がつかないとか、「わからなさ」の要因は様々である。だが、内山の文章はそのような自覚しやすい構造をもった「わからなさ」ではない。まして他人である生徒がどのように「わかる/わからない」のかはなおさら見当がつかない。
授業で実現しようとしているのは、「わからない」が「わかる」に変化する実感を生徒自身の裡に生じさせることである。わかった内容に価値があるのではない。変化の実感と、そのための生徒自身の思考にのみ意味がある(というのはまあ大げさだが、文章の内容に価値があるかどうかはいわば「余禄」である)。変化を起こすための仕掛けとは、つまり読解の技術である。技術は自覚的に使用できるに越したことはないが、使ったという体験自体に既に意味がある。
去年から何度か使っているのが、その文章で筆者がとりあげている問題(テーマ)を「~か?」という疑問形で表現し、それに対する筆者自身の結論を簡潔にまとめる、という方法である。この課題に対する「答え」が重要なのでは無論ない。この課題に答えようとする思考が、生徒自身に文章を読ませるのである。上の文章で内山は何を考察すべき問題としてとりあげているのか?
「問題」は、文章に明示されている場合もある。「~とはなんだろうか。」「なぜ~なのだろうか。」などの疑問文が文中にあれば候補となる。その問いが文章全体のテーマとして取り立てるに値するかを、その結論部とともに検討するのである。だがそうした疑問文が文中にない文章ももちろんある。疑問文が、文章全体のテーマとはつり合わない場合もある。上の内山の文章には疑問文がない。だからどこを目差して文章が綴られているのか「わかならい」。その場合は筆者の結論/主張から遡って、それを導き出した「問題」を読者の方で想定するのである。もちろんこの課題は容易ではない。だがそれができないときに解答を教師が提示するべきではなく、別の迂回路をたどるしかない。ここでも、性急にこの課題の考察に進むことなく、課題の提示だけして先に進む。
次に別の読解技術を試してみる。「対比」である。
文中から「対比」を読み取る、という読解方法は、評論の読解においてきわめて汎用性の高い方法である。人間の思考は不可避的に何かと何かを比較することで展開するからである。「二項対立」という言い方をされることも多いが、稀に二項でない場合もある(柄谷行人「場所と経験」の場合は三項対立だった)し、「対立」ではとりあげるべき二項の関係が限定されすぎている。実際には多項が「対立」だったり「並列」だったり「類比」だったりすることもあることを想定して、それらを含むつもりで「対比」といっておく。
これも、実際に適用するに容易な文章とそうでない文章がある。二項が明示されていない文章があるのである。たとえば上の文章では何と何が対比されているか。明示はされていない。読み取るしかない。読み取ろうとする思考が読解を促す。
こちらの想定する対比は「村の人間として/経済の合理性から見る」である。これが対比であると感じられるのはたぶん相当に高度な読解力が必要である。最初のクラスでは、無作為に指名しても徒労であることは必至だから、はじめから期待できる生徒しか指名しなかった。だがある生徒が見事にこれを言い当てた(「こころ」において、Kが遺書を書いたのは上野公園の散歩の晩ではないかという説を唱えた生徒である。むべなるかな)。だがどうしてこれが「対比」なのか?
読解の成立事情を自覚することは、読解自体にとって必ずしも必要ではない。なぜそう読み取れるのか、は、思考のネタとしては面白い場合もある、というくらいのことではある。だが「『こころ』の曜日を特定する」でも、どうして「二、三日」と「五、六日」が重なっていると読めるのかという読みの生成する機制は、自覚できた方が面白いというだけでなく、見解の違う人との議論を可能にするという効用もあるのである。
上記の対比の場合は、「といっても」「それなのに」という接続が逆接として機能しているから、その前後に何らかの「対比」要素を含んでいることを感じさせ、それが「よくないことをしている」と「しなくてもよい」「困る理由があるわけでもない」といった反対方向のベクトルをもった表現によって支持されることによって読者に「対比」として読み取れるようになっているのである。だがその「対比」要素を引き受けた表現が「村の人間として/経済の合理性から見る」であるところがこの文章の「わからなさ」を生む要因となっている。名詞句や動詞句、形容句、などといった文法的な型の統一もなく、「村/都市」とか「文化/経済」とか「環境倫理/経済の合理性」とかいったわかりやすい名詞で表される概念の対比で明示されているわけでもないからである。
試みに傍線を付して再掲してみる。
立秋の便りが届いたというのに、群馬県上野村の私の家では、まだ夏の仕事が山積みになっている。畑仕事、夏の山の手入れ、草刈り、木の剪定、こういう状態が続くと、村の人間としては、よくないことをしているような気分になってくる。やはり長い。後半は次回。
といっても、それらはいずれも、経済の合理性から見れば、しなくてもよい仕事ばかりである。自分で畑を作るよりは、作物をもらったり買ったりしたほうが効率的だし、山の手入れをしなければ困る経済的な理由が、私にあるわけでもない。私の仕事の遅れが、環境や社会に負担を与えていることもないだろう。それなのに、村の人間としては、そう簡単に開き直ってしまう気分にはなれないのである。
内山節の文章を面白いと思ったことは無く、内田樹の文章が面白い? 私は全く逆の印象を持っています。内山節さんの文章は、確かに仰る通りに場合によっては何を言っているのか分からなかったりします。でもそれは、平易な言葉遣いの中に、もの凄くラジカルな哲学的、科学的、歴史的考察が詰め込まれているのです。近現代を常にパワフルに相対化して、今からの生き方を探る、と言うテーマが普遍として持つ様に思われます。それを、なんとも普通の言葉の選択で持って且つ一センテンスが比較的長い文章をじっくり書かれます。だから、読み手は猛烈なエネルギーと集中力を要されます。でも、一センテンスの意味が分かる毎に、あっーーーー、とかぬあーーーー、とか、たった一冊で何時も凄い哲学的コンテンツの濃密さです。同時代を生きてきた先輩哲学者としては最も尊敬出来る、というか毎度感嘆します、その密度と文章の強度に。これに対し内田樹さんというのは、読みやすく、トレンディーなテーマをよく勉強している方風に沢山本を書いている人ですよね。だから、読みやすい、売りやすい! そして、20年後、内田樹さんの大半の文章は、日本の重要な文筆物として残っていないでしょう。
返信削除コメントを期待していなかったので、気付くのが遅れました。感想ありがとうございます。なるほど、感じ方は人それぞれ、と感じ入りました。不思議です。
削除内山節を単行本で読んだことはなく、どれも教科書や問題集用に切り取られた短いものに触れたことしかない私が、内山節の仕事の全体像について云々するのは僭越です。そして、そのような場に選抜された文章も、やはり「国語教育」的フィルターのかかったものばかりになってしまっているのかもしれません。
でもとりあえず、そのようにして目に触れる文章は、どれも結局凡庸な「里山自然主義」のような近代批判にしか見えないのです。それがバランスを欠いた内山節評だとしても、バランスのとれた評価をしようという動機は生まれようがないわけです。
一方の内田樹は、最初「寝ながら学べる構造主義」で知られるようになった頃は、なんだかやたら大仰な言い方で受けを狙って、論理的精度の怪しい文章を書く人だと思っていました。が、現在では、そのアクロバティックな論理展開と見事な着地に感心して、毎度毎度楽しませてもらっています。大した芸だと思います。
これが「20年後」に残るかどうかはまったくわかりません。トレンディーでしかないものは残らないでしょうね。ですが一方の内山節の文章も、同様にそれを欲する人にとってのサプリメントでしかないような気もします。