2018年7月29日日曜日

『父と暮らせば』-原爆という悲劇の特殊さは描けているか

 縁があって舞台を観てきた。役者も含めて素人の劇団なのだが、演目は井上ひさしの「父と暮らせば」だから、観て損はなかろうというくらいの期待度だったのだが、舞台美術やら役者二人の演技などは文句なくよくできていた。
 そしてもちろん感動的でもあったのだが、もやもやとした腑に落ちなさがあった。これは脚本の問題だ。

 さてこの物語については映画で観ている。もう10年以上前のことだから、どの程度舞台と同じなのかは忘れていた。
 原爆で生き残った娘のもとに、死んだ父親の幽霊が現れて、娘のその後の人生を励ます。覚えている物語の骨格が昼間の舞台でも同じだったことは確かだ。
 そこで、観劇の帰りにTSUTAYAに寄って映画のDVDを借りて観る。
 さて、どうなのかというと、まったく舞台劇の脚本そのままなのだった。
 画面が舞台っぽいとは思っていたが、基本はそのまま舞台劇として上演できるような美術セットの中で原田芳雄と宮沢りえが演ずる芝居は、昼間見た舞台そのままだ。話の中にだけ登場する「木下さん」を浅野忠信に演じさせているのと、原爆投下後の場面や焼け野原などはCGで描いて挿入するというところが映画的工夫ではある。
 あるいは例えば舞台劇では役者が無意味に客席の方を向いて喋る。それがお約束だからと無視してもいいのだが、なぜそれを相手の方を向いて喋らないのかというつっこみもありうるだろう。それが映画ではそんな風に描かなくてもいい。カメラを切り替えて編集すればいい。あくまで舞台でも上演できそうな芝居ではあるが、そこは映画用にアレンジされているのだった。
 だからといって、浅野にしてもCGにしても映像の編集にしても、役者の演技や脚本という要素に比べてまるで問題にならない。だからまるで同じ「物語」に思えるのだった。
 宮沢りえも原田芳雄も(一部で批判されている広島弁については関東人としては判断できないので)もちろん見事な仕事をしている。が、昼間の素人役者二人もまた、同じようにその二人を見事に体現していたのだった。

 そのうえでいずれにせよ感動的な物語であることは間違いないのだが、上記の通り、どうにも文句のつけようのない物語と感じにくいのはなぜか。
 途中までが笑えるというほど楽しい展開でもなく、感動的なポイントであるはずの2点、原爆で死んだ友人の母親に「どうしてうちの娘ではなくあんたが生きているのだ」と問われたというエピソードを語る場面と、本当に申し訳ないと思っているのは父親を見捨てて逃げたことだと語る場面に、感動しつつも納得のいかない思いも抱く。
 父親は、娘の贖罪意識を「病気」だと表現する。生き残ったことが申し訳なくて、前向きに生きていけないというのだが、これが「病気」と表現されていることからみても、それが異常であることが物語の中では充分自覚されている。そうした異常な心理が生じてしまうことが、原爆の悲劇の異常さを表してもいるのだが、残念なことには、だからこそ、共感もできない。参った。この異常な心理に共感できなくては物語の最も重要なメッセージを受け取れないではないか。
 これはこの物語の決定的な弱点だと思うのだが、それでも感動的なことで押し切ってしまって、結局「名作」ということになってしまう。
 悲劇は忘れてはいけない。それは確かだ。それを思い出させる機会になることはこの物語の大いなる価値ではある。だが悲劇は交通事故であれ何であれいつも存在するし、戦争に限っても現在も続いている。その中で原爆が特権的な悲劇でありうるのは、その規模だけなのだろうか。

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