2021年5月27日木曜日

『クワイエット・プレイス』-馬鹿げた非難に抗して

  続編が公開されるというのでテレビ放送される。公開当時も見たかったが、見逃していたので、これを機に、とは思ったが、それよりもいつの間にかアマゾン・プライムで見られるようになっている。ノーカットでCMもないとなれば。

 さて、とても面白かった。息を潜める生活を強いられる圧迫感も、人気がなくなった街のディストピアの空気も、展開でハラハラさせられ、カタルシスもあり。

 そう思ってからアマゾンのレビューを見ると、驚くほど低評価がついているのだった。

 その理由と挙げられている非難の的は共通して次の2点。音を出すと襲ってくる化け物から隠れているのに、子供を作ってどうする、というのと、最後にライフルで倒すことができる化け物を米軍あたりがなぜ殲滅させられないのか、という点。これらに納得いかない、というのだ。

 大体において辻褄が合わないのが気に入らんというのむしろ筆者の常套句だ。リアリティが損なわれるような不合理はやはり興醒めだ。そうなることの必然性とか妥当性とかは、緊迫感やカタルシスの前提ではないか。

 ところが今回のこの映画に関しては、みんなの不満が集中しているツッコミどころは、まるで気にならない「どころ」だった。

 人類滅亡の危機に際して、特にリスクの高い子作りは不合理?

 馬鹿げた非難だと思う。子作りを否定するのなら、もはや生き延びることを否定するしかないではないか。そこが「おかしい」などというのなら、生き延びようとする物語がそもそも成り立たない。

 そのうえで、声を潜めて行われたであろう夫婦の営みや、やがて生まれる子供がたてる泣き声を思って、緊迫感を否応なく感じるというのが、真っ当な観客の反応なはずだ。そのリスクがあるのにそれを選ぶのは登場人物の行動が不合理だとか、頭が悪い、などという理屈で物語の論理を否定するのは、何か過剰に肥大したリスク意識の病弊だと思う。

 もう一点の、このエイリアンをなぜアメリカ軍あたりが殲滅できないのか、という非難も、無茶ないちゃもんだと思う。

 クリーチャーを人類が殲滅するのは意外と難しいかもしれないという想像は、前に『モンスターズ』の感想でも書いた。

 殲滅できる程度の敵は、そういう設定なのであって、この映画のクリーチャーは殲滅できなかったのだ、設定上。画面にチラッと映される新聞記事によれば、電磁パルス攻撃でハイテク機器が使えなくなっていたという設定なのだそうだ。後は、クリーチャーの数が充分に多ければ、殲滅などできなくてもしかたがない。人々が孤立し始めれば、音をたてると襲ってくるという設定によって、攻撃がためらわれる。そうなればあとはずるずると人類は数を減らすしかない。

 敵の強さのバランスはホラー映画には決定的に重要な問題で、本作の、音に寄ってくるが目は見えない、外皮は硬いが、直接に口の中を銃で撃てば死なないこともない、という設定は、バランスの良い設定だと感じた。

 それよりも最初のうちは、やはり様々な音が発生しているこの世界で、エイリアンがどうして人間の音に反応できるのか、という疑問があった。

 だがそれは人工音と自然音を区別しているのだ、と考えればいいのだった。どこまでの自然音っぽい生活音かは、やはり常に賭けのようなものなのだと考えれば、それも緊迫感を増す。

 設定の不合理さよりも、やはり長女を聾者にした設定の巧みさの方を賞賛すべきで、全体としてとても面白い映画だったと言っていい。 


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