この間、題名を挙げたもののいまいち記憶がないなと思っていたのだが、観てみると、そもそも観た覚えがなかった。いや、記憶に残らなかっただけかもしれない。
アルカトラズ刑務所からの脱獄映画だとは、題名から知れる。知っていて観ている。そのつもりで期待し、かつ名作と評判が高い映画なのだが、ひたすら地味だった。別に派手であってほしいというわけではない。でも、何を楽しめばいいのか。
いや、考えれば「良い映画」的要素はいっぱいあったような気もする。キャラクターはそれぞれ立っているし、囚人同士の友情やら、憎たらしい所長の鼻を明かす爽快感もある。脱獄の計画の段階のサスペンスはもちろん丁寧に描かれている。
にもかかわらず、結局、これで終わり!? 的なガッカリ感で終わった。言葉に挙げて数えられるほどには、それぞれの要素が面白さにつながっているように思えなかったのだ。脱獄にかける執念や、その能力の高さということなら『破獄』や、同じアルカトラズを舞台にした『ザ・ロック』の方がよほど見応えがあったし、刑務所での悲喜こもごもをドラマとして描くなら『ショーシャンクの空に』にはるかに及ばない。
脱獄にともなうサスペンスがあった、といいつつ、どうにも計画がうまくいきすぎて呆気ないという感じがしてしまうところと、クリント・イーストウッドが、どうしても脱獄したいという動機を強く持っている人物に感じられない、というところに問題があるような。
どうしても出たい、だが困難だ、という葛藤の原動力となる双方の力が、いずれも弱く感じたのだった。
ドン・シーゲルとクリント・イーストウッドといえば『ダーティー・ハリー』だが、あれに比べてもよほど地味だ。
2015年10月31日土曜日
2015年10月27日火曜日
秋刀魚
台湾の漁船が公海上で乱獲するから日本の近海で秋刀魚が不漁だと何度かニュースで見ていたので今年は機会がないかと思っていたら、まずまずの安い秋刀魚が出回っているので、今年も秋刀魚の煮物を作る。小ぶりのが5匹で200円くらいになったら。
かつてレシピを見たことも、調味料の量をはかったこともないが、失敗したことがない。ぶつ切りにして圧力鍋に放り込み、醤油と味醂と砂糖と生姜で味付けして煮るだけ。骨まで柔らかくなってそのまま食べられる。
うまい。
かつてレシピを見たことも、調味料の量をはかったこともないが、失敗したことがない。ぶつ切りにして圧力鍋に放り込み、醤油と味醂と砂糖と生姜で味付けして煮るだけ。骨まで柔らかくなってそのまま食べられる。
うまい。
2015年10月23日金曜日
宮沢賢治「永訣の朝」を授業する 8 「から」の謎 1
前回までの語り手のいる場所についての考察は、詩の中を流れる時間についての把握や、賢治の世界認識のありかたにまでいたる、案外に広い射程に至る考察であった。もともとは「コペルニクス的転回」のスペクタクルを筆者が楽しんでいただけだったのだが。
さて残るは、この詩の主想に至る考察を導く問いである。
前回触れた27行目「雪のさいごのひとわんを…」は、「段落分け」の回にも触れたとおり、25行目の「おまへはわたくしにたのんだのだ」に返っていく。こういうのを何と言う? と聞く。「倒置法」は中学以来馴染んだ詩の技法である。
では22行目の「わたくしもまつすぐにすすんでいくから」はどこにかかる?
23行目は「(あめゆじゆとてちてけんじや)」のリフレインでつながらないし、24・25行目「はげしいはげしい熱やあへぎのあひだから/おまへはわたくしにたのんだのだ」でも意味不明だ。「倒置法」のやりとりを枕にしておいたのは、前を遡って探すことにも誘導するためだ。しばらく考えさせておく。だが見つからない。
つまりこの「から」はどこにも続かない。かかっていない。では何だ?
何だと言われて、生徒は答えに窮する。考えさせるのは一瞬でいい。何のことはない、つまり文末が省略されているのである。何が省略されている? 何を補う? 何に続く?
これはとりわけ難しい問いではない。「安心して逝きなさい」「心配しないで天国に行ってくれ」…。
さて、ここからが問題である。
「から」は理由を表す接続助詞だ。「わたくしもまつすぐにすすんでいく」ことは、なぜ妹が「安心する」ことの理由になるのか?
しばらく考えさせてから、考えるための糸口を提供する。「も」は並列を表す副助詞だが何と何を並列しているか?
言うまでもなく、妹と兄(わたくし)である。これを条件に入れて「まつすぐにすすんでいく」ことが何を意味しているかを、より具体的に説明せよ、と問う。
読者は、ここがとりわけ「分からない」とは思っていないはずだ(少なくとも授業前の筆者はそうだった)。したがってここまでのやりとりは、既にわかっていることを微分しながら確認しているだけである。省略も理由も並列も、特に考えるでもなく「分かる」。
だがなぜそれが「理由」になるのかを説明しようとすると、俄にその確信が曖昧になる。
この項続く 「『から』の謎 2」
さて残るは、この詩の主想に至る考察を導く問いである。
では22行目の「わたくしもまつすぐにすすんでいくから」はどこにかかる?
23行目は「(あめゆじゆとてちてけんじや)」のリフレインでつながらないし、24・25行目「はげしいはげしい熱やあへぎのあひだから/おまへはわたくしにたのんだのだ」でも意味不明だ。「倒置法」のやりとりを枕にしておいたのは、前を遡って探すことにも誘導するためだ。しばらく考えさせておく。だが見つからない。
つまりこの「から」はどこにも続かない。かかっていない。では何だ?
何だと言われて、生徒は答えに窮する。考えさせるのは一瞬でいい。何のことはない、つまり文末が省略されているのである。何が省略されている? 何を補う? 何に続く?
これはとりわけ難しい問いではない。「安心して逝きなさい」「心配しないで天国に行ってくれ」…。
さて、ここからが問題である。
「から」は理由を表す接続助詞だ。「わたくしもまつすぐにすすんでいく」ことは、なぜ妹が「安心する」ことの理由になるのか?
しばらく考えさせてから、考えるための糸口を提供する。「も」は並列を表す副助詞だが何と何を並列しているか?
言うまでもなく、妹と兄(わたくし)である。これを条件に入れて「まつすぐにすすんでいく」ことが何を意味しているかを、より具体的に説明せよ、と問う。
読者は、ここがとりわけ「分からない」とは思っていないはずだ(少なくとも授業前の筆者はそうだった)。したがってここまでのやりとりは、既にわかっていることを微分しながら確認しているだけである。省略も理由も並列も、特に考えるでもなく「分かる」。
だがなぜそれが「理由」になるのかを説明しようとすると、俄にその確信が曖昧になる。
この項続く 「『から』の謎 2」
2015年10月21日水曜日
宮沢賢治「永訣の朝」を授業する 7 ~語り手はどこにいるか その3
さて、語り手が詩の最初から「おもて」にいるとすると、6行目の「みぞれはびちよびちよふつてくる」と15行目の「みぞれはびちよびちよ沈んでくる」の違いはどうなるか?
生徒たちから出てきた「降る」は「軽い・速い」、「沈む」は「重い・遅い」は、否定する必要もないが、それほど重要でもないと思う。確かにこの「みぞれ」の水分含有量は多いが、それは「沈む」の方が、というわけではない。「降る」は、みぞれの下降を表す動詞として、いわばニュートラルな、無色透明な動詞だ。だから「びちよびちよ」と降るみぞれは、最初から水を多く含んでいるのである。
そして「沈む」という動詞に語り手の気分が反映しているであろうという見解にも首肯しない。最初から語り手が庭先にいるという想定で読み下してみると、6行目と15行目の時間的経過は、問題にするほどには感じられない。気分が「沈んで」いるとすれば、それは詩の語り出しの時点からそうだったのだ。だからこそ「へんに」なのだし「いつさう陰惨な雲」なのだ。そして「沈んでくる」みぞれは「さっぱりした雪」だし、それを採っていくことが「わたくしをいつしやうあかるくする」のである。とりわけ6行目から15行目に向かって気分が「沈む」ような変化があるようには感じない。
ではなぜ「沈んでくる」なのか?
賢治がなぜ「沈む」という動詞を選んだのか、と考えることは留保しよう、と先ほど述べた。そう、まずは読み手が「沈む」をどう読むか、である。そしてそれが本当に筆者の表現したいことなのかを推測すべきなのだ。
筑摩書房の「自分の足元にみぞれが沈みたまっていく様子を描いている。」などという読みは、そうした読者としての印象を無視しているとしか思えない。それは「沈む」という動詞が持っている「視線を下に向ける」という性質をどうにか説明しようとした挙げ句、「みぞれは…沈んでくる」という実際の詩の言葉を無視してしまった惨状だ(それともまさか、本当にそう読んだのか? 一読者として)。
「沈んでくる」は確かに雲を見上げてみぞれの落ちてくる光景を捉えた表現だ。「~から~てくる」という文型で表されている以上、視線は「から」の方向に向けられているとしか受け取れない。もちろんそれは6行目も同じで、だからこそ見上げる視線だと考えられるのは、「ふつてくる」の時点で既にそうなのだ。「ふつてくる」が横から見た視線だ、などという指導書の説明はそうした自然な解釈を無視して、語り手が室内にいるという想定から無理矢理説明を組み立てていることによるものに過ぎない。
一方でその文型に「沈む」という動詞をはめこむとどういうことになるか?
語り手はみぞれの落ちてくる雲を見上げながら、同時に自分が「底」にいるのだと感じている、ということだ。「沈む」が見下ろす視線をイメージさせるとすれば、語り手は空を見上げながら、同時に見上げる自分を、「底」にいる自分を、広い空間から見下ろしているのである。
こんなことがありうるか? 何の問題もない、と一読者としての筆者は感ずる。言葉によって構成された虚構が、複数の視線の複合体として捉えられている状態など、珍しいものではない。先に挙げた「彼が部屋の中に入った」なども、イメージしようとすれば、いくつかの方向の視線の交錯した映像として浮かぶ。スタイリッシュな映像を作りたい映画監督ならば、いくつかの方向からのカメラで撮影した短いカットをつないで、その動作や表情や周囲の部屋の造作などから、多くの情報を観客に見せることができるはずだ。小説の、あるいは詩の一節を読む読者にも、同様の映像イメージを脳内に出現させることが可能なのである。「沈む」という動詞と「~から~くる」という不整合な文型が、そうした、二重の映像を同時に生み出しているのである。
こうした解釈は、詩の中のどの言葉と響き合っているか?
生徒に問うてみる。必ず答える生徒はいる(どこのクラスでもそうした答えが出てきた)。
14行目の「銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの」である。とりわけ「気圏」は、自分のいる地上が「底」であるという認識と響き合って、大気圏全体を(さらにその先に拡がる宇宙を)、広い空間として捉えさせる。
そして逆に、そうした賢治の認識から生み出されたのが「沈んでくる」という表現なのではないか。この地上を「空気の底」「大気の底」と捉える認識は、科学的な認識と宗教的な認識が合致する地点にある。そのように世界を捉える人としての賢治という詩人を表したのがこの「沈んでくる」という表現なのではないかと考えるのだ。
さて、語り手のいる場所についての以上のような見解は、詩の中を流れる時間の捉え方についても変更を迫る。
冒頭から12行目「とびだした」までが時間順に沿っているというのが従来の捉え方だ。だが、冒頭から「おもて」にいるとすれば、そこが詩の中の「現在」であり、詩の展開に沿って時間が進行しているのではなく、むしろ時間は遡っていく。語り手の思いは遡って「おもて」に飛びだす場面が回想され、一旦14・15行目で現在に戻るものの、再びさらに遡って、飛びだすにいたるきっかけとしての妹の言葉の発せられた時点へと戻る。
先に
そして後半では36行目に「わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ」という遠い過去のイメージが重なってくるものの、基本的には時間は遡ることなく、むしろ掉尾では未来へ思いを馳せることになる。
生徒たちから出てきた「降る」は「軽い・速い」、「沈む」は「重い・遅い」は、否定する必要もないが、それほど重要でもないと思う。確かにこの「みぞれ」の水分含有量は多いが、それは「沈む」の方が、というわけではない。「降る」は、みぞれの下降を表す動詞として、いわばニュートラルな、無色透明な動詞だ。だから「びちよびちよ」と降るみぞれは、最初から水を多く含んでいるのである。
そして「沈む」という動詞に語り手の気分が反映しているであろうという見解にも首肯しない。最初から語り手が庭先にいるという想定で読み下してみると、6行目と15行目の時間的経過は、問題にするほどには感じられない。気分が「沈んで」いるとすれば、それは詩の語り出しの時点からそうだったのだ。だからこそ「へんに」なのだし「いつさう陰惨な雲」なのだ。そして「沈んでくる」みぞれは「さっぱりした雪」だし、それを採っていくことが「わたくしをいつしやうあかるくする」のである。とりわけ6行目から15行目に向かって気分が「沈む」ような変化があるようには感じない。
ではなぜ「沈んでくる」なのか?
賢治がなぜ「沈む」という動詞を選んだのか、と考えることは留保しよう、と先ほど述べた。そう、まずは読み手が「沈む」をどう読むか、である。そしてそれが本当に筆者の表現したいことなのかを推測すべきなのだ。
筑摩書房の「自分の足元にみぞれが沈みたまっていく様子を描いている。」などという読みは、そうした読者としての印象を無視しているとしか思えない。それは「沈む」という動詞が持っている「視線を下に向ける」という性質をどうにか説明しようとした挙げ句、「みぞれは…沈んでくる」という実際の詩の言葉を無視してしまった惨状だ(それともまさか、本当にそう読んだのか? 一読者として)。
「沈んでくる」は確かに雲を見上げてみぞれの落ちてくる光景を捉えた表現だ。「~から~てくる」という文型で表されている以上、視線は「から」の方向に向けられているとしか受け取れない。もちろんそれは6行目も同じで、だからこそ見上げる視線だと考えられるのは、「ふつてくる」の時点で既にそうなのだ。「ふつてくる」が横から見た視線だ、などという指導書の説明はそうした自然な解釈を無視して、語り手が室内にいるという想定から無理矢理説明を組み立てていることによるものに過ぎない。
一方でその文型に「沈む」という動詞をはめこむとどういうことになるか?
語り手はみぞれの落ちてくる雲を見上げながら、同時に自分が「底」にいるのだと感じている、ということだ。「沈む」が見下ろす視線をイメージさせるとすれば、語り手は空を見上げながら、同時に見上げる自分を、「底」にいる自分を、広い空間から見下ろしているのである。
こんなことがありうるか? 何の問題もない、と一読者としての筆者は感ずる。言葉によって構成された虚構が、複数の視線の複合体として捉えられている状態など、珍しいものではない。先に挙げた「彼が部屋の中に入った」なども、イメージしようとすれば、いくつかの方向の視線の交錯した映像として浮かぶ。スタイリッシュな映像を作りたい映画監督ならば、いくつかの方向からのカメラで撮影した短いカットをつないで、その動作や表情や周囲の部屋の造作などから、多くの情報を観客に見せることができるはずだ。小説の、あるいは詩の一節を読む読者にも、同様の映像イメージを脳内に出現させることが可能なのである。「沈む」という動詞と「~から~くる」という不整合な文型が、そうした、二重の映像を同時に生み出しているのである。
こうした解釈は、詩の中のどの言葉と響き合っているか?
生徒に問うてみる。必ず答える生徒はいる(どこのクラスでもそうした答えが出てきた)。
14行目の「銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの」である。とりわけ「気圏」は、自分のいる地上が「底」であるという認識と響き合って、大気圏全体を(さらにその先に拡がる宇宙を)、広い空間として捉えさせる。
そして逆に、そうした賢治の認識から生み出されたのが「沈んでくる」という表現なのではないか。この地上を「空気の底」「大気の底」と捉える認識は、科学的な認識と宗教的な認識が合致する地点にある。そのように世界を捉える人としての賢治という詩人を表したのがこの「沈んでくる」という表現なのではないかと考えるのだ。
さて、語り手のいる場所についての以上のような見解は、詩の中を流れる時間の捉え方についても変更を迫る。
冒頭から12行目「とびだした」までが時間順に沿っているというのが従来の捉え方だ。だが、冒頭から「おもて」にいるとすれば、そこが詩の中の「現在」であり、詩の展開に沿って時間が進行しているのではなく、むしろ時間は遡っていく。語り手の思いは遡って「おもて」に飛びだす場面が回想され、一旦14・15行目で現在に戻るものの、再びさらに遡って、飛びだすにいたるきっかけとしての妹の言葉の発せられた時点へと戻る。
先に
27行目「雪のさいごのひとわんを…の「…」は何を意味しているのかという疑問を提示しておいた。それは、遡った時間を再び現在に戻す、いわば「我に返る」瞬間の落差を表しているのだといえる。したがって、ここを境として詩全体を二つに分けるという捉え方は妥当なものだと思われる。
28行目…ふたきれのみかげせきざいに」
そして後半では36行目に「わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ」という遠い過去のイメージが重なってくるものの、基本的には時間は遡ることなく、むしろ掉尾では未来へ思いを馳せることになる。
2015年10月20日火曜日
宮沢賢治「永訣の朝」を授業する 6 ~語り手はどこにいるか その2
承前
6行目「みぞれはびちよびちよふつてくる」の語り手は室内にいる。とすればこれは窓から外を眺めた光景であるはずだ。
15行目「みぞれはびちよびちよ沈んでくる」は屋外にいる。とすればこれは見上げる視線で捉えた光景であるはずだ。
これは実感に合っているだろうか?
だが生徒からは、
どういうことだろうか。
この不整合を解消するアイデアはないか、と問いかけても良い。が、これはかなりな難問だし、そもそもこれを不整合だと見なさないと強弁されては、考察を促すこともできない。窓の中からだって、空を見上げて「ふつてくる」ということは可能だし、筑摩書房のように「自分の足元にみぞれが沈みたまっていく様子を描いている」と言うこともできる(よくもまあこんな無理矢理な「トンデモ」解釈を思いついたものだと思うが)。
だが、ここまでの「了解」に納得していない生徒がいる可能性もないわけではない。これは考察に値する問題である。時間をとって考えさせたかった。
実際に今回の授業では時間もとれなかったが、誘導するのなら「語り手の場所」と「視線の向き」を一致させる解釈はできないか? と素直に聞いてみたい。もっとはっきりと誘導してしまうのなら、本当に語り手は室内からみぞれが「ふつてくる」のを見ているの? と聞いてもいい。
教師がこんなふうに言えば、生徒はそうでない可能性を考えざるをえない。考えてほしい。そのとき何が起こるか?
筆者が誘導しようとしているのは次のような「読み」である。
語り手は、詩の最初から屋外にいるのである。
生徒に想像させる。語り手はみぞれの降る庭にいる。「けふのうちに/とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ」という語りかけは、枕元にいる語り手が目の前の妹に呼びかけているのではなく、屋外から室内への呼びかけなのである。「みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ」という語り手は、既に「おもて」にいて、その場の様子を、妹のいる室内から見た時と違って「へんにあかるい」と表現しているのである。
驚くべき認識の変更が訪れないだろうか。これはちょっとした「コペルニクス的転回」である。
したがって「うすあかくいつそう陰惨な雲から/みぞれはびちよびちよふつてくる」もまた、屋外にいて、空を見上げているのである。視線の向きは「降る」の印象と整合する。
では、そもそも最初の語り手を室内にいるものと考えた根拠であるところの「わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに/このくらいみぞれのなかに飛びだした」はどうなるのか?
回想なのである。屋外に佇む語り手が、自分が外にいる事情を回想しているのである。「わたくしは」さっき「飛びだし」て、今ここにいるのである。
さて、最初のところで語り手は屋内にいるのだという読みは、御大吉田精一をはじめとして、上に見た指導書にあるように世の大勢を占めている。
白状すると、実は筆者もまた、疑うことなく語り手が室内にいるものと考えていた。妹の枕元にいる語り手が窓から、みぞれの降る外を見ているのだと思っていた。だがこれは、上の二つの解釈の可能性を考えた上で選んだものではない。単にそうした解釈しかしていなかったというだけなのだ。
はじめから外にいる、という読みを筆者に提示してくれたのは、当時高校2年生の息子である。
彼が受けた授業でも、当然のように室内にいる語り手を前提とした解説がなされ、それを前提として「ふつてくる」と「沈んでくる」の違いが説明され、「(あめゆじゆとてちてけんじや)」リフレインの4回のうち、最初の2回と後の2回の違いは何か、と問われたのだそうだ(前二つは室内で妹に語られたものであり、あと二つは回想である)。そうした解説に違和感を感じた息子は、彼自身にとって自然な読みとして、語り手が詩の最初から外にいるものとして読んだのである。
授業の意義はここにある。それぞれ読者は自分の読みを相対化することができない。自分の中に生成された「読み」は、あらためて自覚的に考え直さない限りは絶対的なものである。それ以外の「読み」の可能性は視野に入らないからである。だからこそ、自分以外のものが周りにいて、それぞれの「読み」を提出しあうことに意味があるのである。
最初は何の疑いもなく、語り手は室内にいるものとして読んでいた。だが一度、最初から外にいるという読みについて本気で想像してみると、筆者にはもう、そうとしか思えない。
本当に、両方の読みの可能性を知った上で、やはり室内なのだと主張する論者はいるのだろうか。
授業では、教師の主張する結論を教えることが目的ではないから、できれば生徒自身にその妥当性を比較させたい。だが、これも今回は充分な時間がとれず、生徒からの意見はかろうじて一つだけ聞けたにとどまった。
室内にいるのなら「ふつてくる」ではなく「ふつている」ではないか、というのである。
もちろんこれは「室内ではあり得ない」と確信するだけの絶対性のある根拠ではない。だが少なくとも一つは説得力のある根拠が挙がったのは収穫だった。
筆者にとって説得力があると思える根拠は、12行目の「このくらいみぞれのなかに飛びだした」である。「この」は、既に外にいる語り手が発している言葉だと感じる。現に行為しつつあることの表現ならば単に「くらいみぞれのなかに飛びだした」が自然である。
そう思ってみると冒頭の「みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ」も、現に妹の枕元にいるのだとしたら「いもうとよ」と呼びかける意図がよくわからない。妹は熱にうなされて朦朧として外を見ることができないとでも考えればいいのだろうか。あるいは単に眠っているか。
それより、妹の枕元から離れて「おもて」へ「飛びだした」語り手が、「おもて」に出てみると、そこは中から見ていたのとは違って「へんにあかるいのだ」と、その不安定な、落ち着かない思いを語りかけているということではないか。
実はネット上で世の好事家や教師の意見を漁ってみた。基本的には最初は室内にいるものとして読む見解ばかりしか見つからない。筆者もその一人だったわけだ。
だが一人だけ、語り手は最初から外にいるという読みを提示しているのを見つけた。中央大学附属高校の長谷川達哉教諭である。
驚愕した。彼とは浅からぬ因縁がある。こんなところで彼の名に出くわそうとは。
彼の挙げる根拠は9行目の「これらふたつのかけた陶椀に」だ。語り手は今初めて陶椀を手にしたわけではなく、それは既に手の中にある。とすればこの言葉を発するより前に既に語り手は外にいるのである。卓見である。
すると「(あめゆじゆとてちてけんじや)」のリフレインはどういうことになるか。
最初語り手が室内にいるとすると「(あめゆじゆとてちてけんじや)」は、横たわるトシの姿に重なって詩の中に流れることになる。あるいは、最初のそれは直接話法としての台詞だとでも考えるのか。そうした妹の台詞に突き動かされるように「わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに/このくらいみぞれのなかに飛びだ」したのであろうか。
だが、最初から外にいるのだとすると、リフレインは4回とも同じトーンで繰り返されているということになる。外にいる自分の使命を常に証すものとして、さっきの室内で聞いた妹の言葉が繰り返されるのだ。
この項、続く
6行目「みぞれはびちよびちよふつてくる」の語り手は室内にいる。とすればこれは窓から外を眺めた光景であるはずだ。
15行目「みぞれはびちよびちよ沈んでくる」は屋外にいる。とすればこれは見上げる視線で捉えた光景であるはずだ。
これは実感に合っているだろうか?
「ふってくる」の方は、家の中から外を見やっての情景として印象づけられるが、「沈んでくる」の方は、みぞれが地面=底にいる自分に向かって降ってきて、自分がそのみぞれを仰ぎ見ている情景という印象が強い。(大修館「指導資料」)
「ふつてくる」は室内から見える雪の様子を捉えているが、「沈んでくる」は外に出た「わたくし」に向かって降ってくる雪の動きの印象を捉えた表現となっている。(明治書院「指導書」)
「ふつてくる」の方は、室内から戸外に降るみぞれに対して眼差しを向けた表現であり、「沈んでくる」は、実際に戸外においてみぞれを感じながら、自分の足元にみぞれが沈みたまっていく様子を描いている。「みぞれはびちよびちよふつてくる」と「みぞれはびちよびちよ沈んでくる」から、さらに「みぞれはさびしくたまつてゐる」と言い換えられている。詩の世界における場面展開と時間の経過がこれらの書き分けによって見事に表現されている。(筑摩書房「学習指導の研究」)いずれの解説でも「ふつてくる」は室内から外を眺める視線であり、「沈んでくる」は外にいて見上げる視線である。
だが生徒からは、
「降る」は視線が上を向いているような気がするのに対し、「沈む」は下を向いているような気がする。という意見が出ていた。語り手の視線の方向と、動詞が元々持っている意味とは食い違っている。
どういうことだろうか。
この不整合を解消するアイデアはないか、と問いかけても良い。が、これはかなりな難問だし、そもそもこれを不整合だと見なさないと強弁されては、考察を促すこともできない。窓の中からだって、空を見上げて「ふつてくる」ということは可能だし、筑摩書房のように「自分の足元にみぞれが沈みたまっていく様子を描いている」と言うこともできる(よくもまあこんな無理矢理な「トンデモ」解釈を思いついたものだと思うが)。
だが、ここまでの「了解」に納得していない生徒がいる可能性もないわけではない。これは考察に値する問題である。時間をとって考えさせたかった。
実際に今回の授業では時間もとれなかったが、誘導するのなら「語り手の場所」と「視線の向き」を一致させる解釈はできないか? と素直に聞いてみたい。もっとはっきりと誘導してしまうのなら、本当に語り手は室内からみぞれが「ふつてくる」のを見ているの? と聞いてもいい。
教師がこんなふうに言えば、生徒はそうでない可能性を考えざるをえない。考えてほしい。そのとき何が起こるか?
筆者が誘導しようとしているのは次のような「読み」である。
語り手は、詩の最初から屋外にいるのである。
生徒に想像させる。語り手はみぞれの降る庭にいる。「けふのうちに/とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ」という語りかけは、枕元にいる語り手が目の前の妹に呼びかけているのではなく、屋外から室内への呼びかけなのである。「みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ」という語り手は、既に「おもて」にいて、その場の様子を、妹のいる室内から見た時と違って「へんにあかるい」と表現しているのである。
驚くべき認識の変更が訪れないだろうか。これはちょっとした「コペルニクス的転回」である。
したがって「うすあかくいつそう陰惨な雲から/みぞれはびちよびちよふつてくる」もまた、屋外にいて、空を見上げているのである。視線の向きは「降る」の印象と整合する。
では、そもそも最初の語り手を室内にいるものと考えた根拠であるところの「わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに/このくらいみぞれのなかに飛びだした」はどうなるのか?
回想なのである。屋外に佇む語り手が、自分が外にいる事情を回想しているのである。「わたくしは」さっき「飛びだし」て、今ここにいるのである。
さて、最初のところで語り手は屋内にいるのだという読みは、御大吉田精一をはじめとして、上に見た指導書にあるように世の大勢を占めている。
白状すると、実は筆者もまた、疑うことなく語り手が室内にいるものと考えていた。妹の枕元にいる語り手が窓から、みぞれの降る外を見ているのだと思っていた。だがこれは、上の二つの解釈の可能性を考えた上で選んだものではない。単にそうした解釈しかしていなかったというだけなのだ。
はじめから外にいる、という読みを筆者に提示してくれたのは、当時高校2年生の息子である。
彼が受けた授業でも、当然のように室内にいる語り手を前提とした解説がなされ、それを前提として「ふつてくる」と「沈んでくる」の違いが説明され、「(あめゆじゆとてちてけんじや)」リフレインの4回のうち、最初の2回と後の2回の違いは何か、と問われたのだそうだ(前二つは室内で妹に語られたものであり、あと二つは回想である)。そうした解説に違和感を感じた息子は、彼自身にとって自然な読みとして、語り手が詩の最初から外にいるものとして読んだのである。
授業の意義はここにある。それぞれ読者は自分の読みを相対化することができない。自分の中に生成された「読み」は、あらためて自覚的に考え直さない限りは絶対的なものである。それ以外の「読み」の可能性は視野に入らないからである。だからこそ、自分以外のものが周りにいて、それぞれの「読み」を提出しあうことに意味があるのである。
最初は何の疑いもなく、語り手は室内にいるものとして読んでいた。だが一度、最初から外にいるという読みについて本気で想像してみると、筆者にはもう、そうとしか思えない。
本当に、両方の読みの可能性を知った上で、やはり室内なのだと主張する論者はいるのだろうか。
授業では、教師の主張する結論を教えることが目的ではないから、できれば生徒自身にその妥当性を比較させたい。だが、これも今回は充分な時間がとれず、生徒からの意見はかろうじて一つだけ聞けたにとどまった。
室内にいるのなら「ふつてくる」ではなく「ふつている」ではないか、というのである。
もちろんこれは「室内ではあり得ない」と確信するだけの絶対性のある根拠ではない。だが少なくとも一つは説得力のある根拠が挙がったのは収穫だった。
筆者にとって説得力があると思える根拠は、12行目の「このくらいみぞれのなかに飛びだした」である。「この」は、既に外にいる語り手が発している言葉だと感じる。現に行為しつつあることの表現ならば単に「くらいみぞれのなかに飛びだした」が自然である。
そう思ってみると冒頭の「みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ」も、現に妹の枕元にいるのだとしたら「いもうとよ」と呼びかける意図がよくわからない。妹は熱にうなされて朦朧として外を見ることができないとでも考えればいいのだろうか。あるいは単に眠っているか。
それより、妹の枕元から離れて「おもて」へ「飛びだした」語り手が、「おもて」に出てみると、そこは中から見ていたのとは違って「へんにあかるいのだ」と、その不安定な、落ち着かない思いを語りかけているということではないか。
実はネット上で世の好事家や教師の意見を漁ってみた。基本的には最初は室内にいるものとして読む見解ばかりしか見つからない。筆者もその一人だったわけだ。
だが一人だけ、語り手は最初から外にいるという読みを提示しているのを見つけた。中央大学附属高校の長谷川達哉教諭である。
驚愕した。彼とは浅からぬ因縁がある。こんなところで彼の名に出くわそうとは。
彼の挙げる根拠は9行目の「これらふたつのかけた陶椀に」だ。語り手は今初めて陶椀を手にしたわけではなく、それは既に手の中にある。とすればこの言葉を発するより前に既に語り手は外にいるのである。卓見である。
すると「(あめゆじゆとてちてけんじや)」のリフレインはどういうことになるか。
最初語り手が室内にいるとすると「(あめゆじゆとてちてけんじや)」は、横たわるトシの姿に重なって詩の中に流れることになる。あるいは、最初のそれは直接話法としての台詞だとでも考えるのか。そうした妹の台詞に突き動かされるように「わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに/このくらいみぞれのなかに飛びだ」したのであろうか。
だが、最初から外にいるのだとすると、リフレインは4回とも同じトーンで繰り返されているということになる。外にいる自分の使命を常に証すものとして、さっきの室内で聞いた妹の言葉が繰り返されるのだ。
この項、続く
2015年10月19日月曜日
陽月メグミ という人
連日の「永訣の朝」論はちょっと息切れして、お休み。
先日、Esperanza SpaldingをYou-tubeで漁っていてこういう人にたどりついた。すごい。恐ろしいアマチュアがいる。関西の人みたいだが、関東に来る機会もあるらしいから、ちょっと情報を追いかけて、可能なら出かけてみようか。
先日、Esperanza SpaldingをYou-tubeで漁っていてこういう人にたどりついた。すごい。恐ろしいアマチュアがいる。関西の人みたいだが、関東に来る機会もあるらしいから、ちょっと情報を追いかけて、可能なら出かけてみようか。
2015年10月18日日曜日
宮沢賢治「永訣の朝」を授業する 5 ~語り手はどこにいるか その1
実は「永訣の朝」を授業で扱おうと思ったのは、次の点について考えてみたかったからだ。
例文で示す。
aは室内でbは室外(廊下?)である。aではドアから入ってくる彼の顔が見える。bではドアの内部に消える彼の背中が見える。
これは生徒にもわかりやすい例だ。すぐに適切な答えが返ってくる。
それに比べて「天皇は日本の象徴だ。」「愛は地球を救う。」などの文は、「天皇」や「地球」の映像が思い浮かびはするものの、カメラの位置が想像できるような空間は想定できない。文の内容が抽象的になれば語り手の位置・場所を確定することはできない。する必要もない。
だが実は「彼は部屋の中に入った。」でさえ、事態は充分に具体的だが、カメラの位置は任意なものとなる。読み手は恣意的に映像を思い浮かべる。その像に妥当性があるとすれば、文脈の中での整合性が保証されるかどうかだ。
答えを提出させるより先にもう一つの問いを投げかけておく。
次の二つの表現はどう違うか?
ただ、こういうときに、作者はなぜ変えたのか、と問うことには留保がいる。結局のところそんなことはわからないではないか、という気も実のところ教師にもしているのであり、それを生徒に本気で考えさせるというのは、ある種の欺瞞がつきまとうからである。本気で教師がそれを問うているのなら、それはそれでついて行けない、という感触を生徒に与えてしまうかもしれない。
だが、少なくとも読者の我々は、自分自身がどのような違いを感じるかについては本気で考えることができる。自分の心に問いかければいいからだ。そしてその違いは、作者の意図したものではないかと常に推測しつつ、自問自答は続くはずだ。
だから「なぜ作者は『沈む』にしたのか?」ではなく「『沈む』だとどのような印象になるか?」と聞かなければならない。
しばらく時間をとって考えさせ、話し合いに持ち込み、ある程度の考察が進み、狙い通りの話題が展開している様子が聞こえてきたら「この二つの問いを関係づけて考えているグループはあるか?」と問う。時折こんなふうに話し合いに拍車をかける。
生徒の答えやすいのは「ふってくる」と「沈んでくる」の違いの方だ。発言を整理して教室全体に提示する。
「ふってくる」の方が、下降の様子が相対的に「軽い・速い」、「沈んでくる」の方が「重い・遅い」。それは「降る/沈む」、「みぞれ」のイメージに直結する。
全体が納得したら、こうした違いがどうして生じているのか、と問い直す。聞いてみると、理由の説明は二つの方向から考えられるようだ。「降る/沈む」という動詞そのものの違い。そして文脈の違い。
まず、「降る」と「沈む」という二つの動詞はどう違うか?
誰も「降る」と「沈む」の違いがわからないはずはない。だがその違いを明晰に語ることが容易なわけではない。だから、考えることに意義はある。考えているうちに語る糸口を見つける生徒が必ず現れる。
動詞自体の違いを明らかにするための糸口は二つ。
一つ目。 「降る」は空気中を下降する様子であり、「沈む」は主に液体中を下降する様子を表している動詞だと説明する生徒が現れる。「降る」が「軽い・速い」、「沈む」が「重い・遅い」とイメージされるのはそういうわけである。したがって同じ「みぞれ」でも「沈む」の方が水分含有量が多いような印象がある。
もう一つ。「降る」は視線が上を向いているような気がするのに対し、「沈む」は下を向いているような気がする、という印象を語る者がいる。「降る」は「~から降る」、「沈む」は「~へ沈む」の形で使われることが多い、という発見を語る者もいる。もちろん「降る」のは「空から」であり、「沈む」のは「底へ」である。
実際に詩の中では、「陰惨な雲から/みぞれはびちよびちよふつてくる」と「暗い雲から/みぞれはびちよびちよ沈んでくる」と、形の上で違いはない。だが、動詞自体が持っている文脈的習慣とでもいうべきイメージは、この詩の言葉からイメージを作る際にも影響しないはずはない。
この、「降る」は見上げるイメージ、「沈む」は見下ろすイメージ、という印象は適切か?
もう一つ、両者の表現の違いを文脈から考えた生徒の見解は、妹の病状の変化、あるいは妹の病状を思う兄の心情の変化として「沈む」の方が重くなっている、というものだ。「沈む」は「液体中を下降する」というだけでなく「気分が沈む」という慣用表現で日頃から馴染んでいる。したがって、妹の病状を思いやるにつれ、兄の気分は「沈んで」いく。こちらも、詩に描かれた情景は基本的に感情の表現だ、と何度か言っている。
ここまで検討しておいて、授業者の見解はまだ明らかにしない。だが実は、「沈む」の方が水分含有量が多いというのは必ずしも適切な印象ではないと思っているし、感情の「重さ」の変化を表しているとも思っていない。
だが、だからといって、ここまでの検討が無駄だとは思っていない。「永訣の朝」を読むことよりも、国語の授業であることが本来の目的だからだ。
そして一方、視線の向きについてはいくらか修正がいるが、重要で適切な見解だと思っている。これはこの後の展開と関係させて検討するつもりである。
もう一つの問い「語り手の場所」はどうだろう?
生徒の発言は一本道にとはいかないが、紆余曲折を経て、大体のところ、詩の最初の4分の1ほどは病室内、12行目の「このくらいみぞれのなかに飛びだした」以降が屋外、というような解釈に落ち着く。屋外であることの根拠を挙げさせると、33行目の「このつややかな松のえだから」や41行目の「あのとざされた病室」が挙がる。そのまま室内に戻った様子はないことを確認する。
この見解は、先ほどの「ふつてくる」と「沈んでくる」の視線の向きの印象と食い違ってはいないか?
6行目「みぞれはびちよびちよふつてくる」では、右の想定に拠れば語り手は室内にいる。一方15行目「みぞれはびちよびちよ沈んでくる」は屋外にいる。とすれば、室内にいる語り手が窓から外を眺める際には、視線は相対的に横向きであり、屋外にいる語り手に映る「暗い雲から/みぞれはびちよびちよ沈んでくる」という情景は、見上げる視線で捉えられているはずではないか。
どういうことだろうか。
以下次号 「語り手はどこにいるか2」
この詩において、語り手はどこにいるか?文学の分析方法としては一般的な「語り手」という概念は、もちろん生徒には馴染みがない。だからこの問い方では何のことか生徒はわからない。すぐに付け加える。「この詩の情景を語っている視点はどこにあるか?」。さらに「この詩を読んで思い浮かぶ情景は、どこにあるカメラから撮影されているか?」。
例文で示す。
a.彼は部屋の中に入ってきた。カメラはどこにあるか?
b.彼は部屋の中に入っていった。
aは室内でbは室外(廊下?)である。aではドアから入ってくる彼の顔が見える。bではドアの内部に消える彼の背中が見える。
これは生徒にもわかりやすい例だ。すぐに適切な答えが返ってくる。
それに比べて「天皇は日本の象徴だ。」「愛は地球を救う。」などの文は、「天皇」や「地球」の映像が思い浮かびはするものの、カメラの位置が想像できるような空間は想定できない。文の内容が抽象的になれば語り手の位置・場所を確定することはできない。する必要もない。
だが実は「彼は部屋の中に入った。」でさえ、事態は充分に具体的だが、カメラの位置は任意なものとなる。読み手は恣意的に映像を思い浮かべる。その像に妥当性があるとすれば、文脈の中での整合性が保証されるかどうかだ。
答えを提出させるより先にもう一つの問いを投げかけておく。
次の二つの表現はどう違うか?
6行目「みぞれはびちよびちよふつてくる」5・6行目と14・15行目はほとんど同じだからこそ、この「ふつてくる」と「沈んでくる」の違いは何を意味しているのかを考える余地がある。
15行目「みぞれはびちよびちよ沈んでくる」
ただ、こういうときに、作者はなぜ変えたのか、と問うことには留保がいる。結局のところそんなことはわからないではないか、という気も実のところ教師にもしているのであり、それを生徒に本気で考えさせるというのは、ある種の欺瞞がつきまとうからである。本気で教師がそれを問うているのなら、それはそれでついて行けない、という感触を生徒に与えてしまうかもしれない。
だが、少なくとも読者の我々は、自分自身がどのような違いを感じるかについては本気で考えることができる。自分の心に問いかければいいからだ。そしてその違いは、作者の意図したものではないかと常に推測しつつ、自問自答は続くはずだ。
だから「なぜ作者は『沈む』にしたのか?」ではなく「『沈む』だとどのような印象になるか?」と聞かなければならない。
しばらく時間をとって考えさせ、話し合いに持ち込み、ある程度の考察が進み、狙い通りの話題が展開している様子が聞こえてきたら「この二つの問いを関係づけて考えているグループはあるか?」と問う。時折こんなふうに話し合いに拍車をかける。
生徒の答えやすいのは「ふってくる」と「沈んでくる」の違いの方だ。発言を整理して教室全体に提示する。
「ふってくる」の方が、下降の様子が相対的に「軽い・速い」、「沈んでくる」の方が「重い・遅い」。それは「降る/沈む」、「みぞれ」のイメージに直結する。
全体が納得したら、こうした違いがどうして生じているのか、と問い直す。聞いてみると、理由の説明は二つの方向から考えられるようだ。「降る/沈む」という動詞そのものの違い。そして文脈の違い。
まず、「降る」と「沈む」という二つの動詞はどう違うか?
誰も「降る」と「沈む」の違いがわからないはずはない。だがその違いを明晰に語ることが容易なわけではない。だから、考えることに意義はある。考えているうちに語る糸口を見つける生徒が必ず現れる。
動詞自体の違いを明らかにするための糸口は二つ。
一つ目。 「降る」は空気中を下降する様子であり、「沈む」は主に液体中を下降する様子を表している動詞だと説明する生徒が現れる。「降る」が「軽い・速い」、「沈む」が「重い・遅い」とイメージされるのはそういうわけである。したがって同じ「みぞれ」でも「沈む」の方が水分含有量が多いような印象がある。
もう一つ。「降る」は視線が上を向いているような気がするのに対し、「沈む」は下を向いているような気がする、という印象を語る者がいる。「降る」は「~から降る」、「沈む」は「~へ沈む」の形で使われることが多い、という発見を語る者もいる。もちろん「降る」のは「空から」であり、「沈む」のは「底へ」である。
実際に詩の中では、「陰惨な雲から/みぞれはびちよびちよふつてくる」と「暗い雲から/みぞれはびちよびちよ沈んでくる」と、形の上で違いはない。だが、動詞自体が持っている文脈的習慣とでもいうべきイメージは、この詩の言葉からイメージを作る際にも影響しないはずはない。
この、「降る」は見上げるイメージ、「沈む」は見下ろすイメージ、という印象は適切か?
もう一つ、両者の表現の違いを文脈から考えた生徒の見解は、妹の病状の変化、あるいは妹の病状を思う兄の心情の変化として「沈む」の方が重くなっている、というものだ。「沈む」は「液体中を下降する」というだけでなく「気分が沈む」という慣用表現で日頃から馴染んでいる。したがって、妹の病状を思いやるにつれ、兄の気分は「沈んで」いく。こちらも、詩に描かれた情景は基本的に感情の表現だ、と何度か言っている。
ここまで検討しておいて、授業者の見解はまだ明らかにしない。だが実は、「沈む」の方が水分含有量が多いというのは必ずしも適切な印象ではないと思っているし、感情の「重さ」の変化を表しているとも思っていない。
だが、だからといって、ここまでの検討が無駄だとは思っていない。「永訣の朝」を読むことよりも、国語の授業であることが本来の目的だからだ。
そして一方、視線の向きについてはいくらか修正がいるが、重要で適切な見解だと思っている。これはこの後の展開と関係させて検討するつもりである。
もう一つの問い「語り手の場所」はどうだろう?
生徒の発言は一本道にとはいかないが、紆余曲折を経て、大体のところ、詩の最初の4分の1ほどは病室内、12行目の「このくらいみぞれのなかに飛びだした」以降が屋外、というような解釈に落ち着く。屋外であることの根拠を挙げさせると、33行目の「このつややかな松のえだから」や41行目の「あのとざされた病室」が挙がる。そのまま室内に戻った様子はないことを確認する。
この見解は、先ほどの「ふつてくる」と「沈んでくる」の視線の向きの印象と食い違ってはいないか?
6行目「みぞれはびちよびちよふつてくる」では、右の想定に拠れば語り手は室内にいる。一方15行目「みぞれはびちよびちよ沈んでくる」は屋外にいる。とすれば、室内にいる語り手が窓から外を眺める際には、視線は相対的に横向きであり、屋外にいる語り手に映る「暗い雲から/みぞれはびちよびちよ沈んでくる」という情景は、見上げる視線で捉えられているはずではないか。
どういうことだろうか。
以下次号 「語り手はどこにいるか2」
2015年10月17日土曜日
『96時間/リベンジ』(原題: Taken 2)
前作『96時間』も面白かったから、前向きな気持ちで見ることができた(後ろ向きな気持ちで観るのは、もう駄目だろうという予想を確認するために観るようなときだ)。
良かった。期待を裏切らない出来だ。
元CIAの特殊工作員、リーアム・ニーソン演ずるブライアンの強さはもうほとんどスティーブン・セガール並で、安心感があるのはいいのだが、ありすぎるとサスペンスがなくなる。だが基本的に、ストーリーの展開にサスペンスがあるから、「負けない」だろうとは思うが「間に合う」かどうかが、やはり観ていてドキドキする。楽しい。ドキドキさせながら、着実に敵を倒し、目的に向かっていく爽快感がある。途中、全くダレることのない緊密に構成されたストーリー展開は見事だった。
この間の『ザ・バンク』で効果的だったイスタンブールの街並みは、ここでも味わい深い迷宮感を出していた。
まあ、結末は予定調和で、何か凄いものを観たとか、感動的だったとかいうことはないのだが、確実に面白い映画を観た、という感じではある。
リュック・ベッソンは、やっぱりはずさない。
良かった。期待を裏切らない出来だ。
元CIAの特殊工作員、リーアム・ニーソン演ずるブライアンの強さはもうほとんどスティーブン・セガール並で、安心感があるのはいいのだが、ありすぎるとサスペンスがなくなる。だが基本的に、ストーリーの展開にサスペンスがあるから、「負けない」だろうとは思うが「間に合う」かどうかが、やはり観ていてドキドキする。楽しい。ドキドキさせながら、着実に敵を倒し、目的に向かっていく爽快感がある。途中、全くダレることのない緊密に構成されたストーリー展開は見事だった。
この間の『ザ・バンク』で効果的だったイスタンブールの街並みは、ここでも味わい深い迷宮感を出していた。
まあ、結末は予定調和で、何か凄いものを観たとか、感動的だったとかいうことはないのだが、確実に面白い映画を観た、という感じではある。
リュック・ベッソンは、やっぱりはずさない。
宮沢賢治「永訣の朝」を授業する 4 ~段落分け・比喩
承前
例えば、散文の読解授業でよく用いられる「段落分け」は、基本的に常に有益な発問だ。
だが勘違いしてはならないのは、既に分けられた「段落」を提示することが、生徒にその文章の構造を捉えさせることに資するものだなどというわけでは、決してないということだ。ただ、段落を分けようとする思考のみが、文章の読解を推進するのである。したがって、「段落分け」は、ただ生徒自身がそれをしようとすることにだけ意味があるのであり、そうした過程を経て、分けられた段落の妥当性を検討することにだけ意味があるのである。「正解」はない。妥当性の程度があるだけである。その妥当性を検討することにだけ、意味があるのである。
ここでも、詩の全体を捉えさせるために、この詩をいくつかの部分に分けよ、と問うことには意味がある。いくつでもいい。指導書などでも、見解はさまざまである。
ただ、文を途中で分断するような分け方はさすがに妥当性が低いと言ってもいい。例えば25行目の「おまへはわたくしにたのんだのだ」で段落を終えることはできない。だがそこで切ろうとする生徒はいる。そうした説が授業という場に提出されればしめたものだ。皆でその妥当性について検討できる。
27行目の「雪のさいごのひとわんを…」は、25行目に返ってかかっているように思われる。「たのんだのだ」が目的語を備えていないからである(19行目がそれを兼ねていると考えられないことはないから、一応保留にしてもいいが)。念のため27行目の後ろを確認しても、「ひとわんを」を受ける語は結局見つからない。やはり「ひとわんを」は返って「たのんだのだ」にかかっていくのである。こういう表現方法を何という? と勿論問う。倒置法は「旅上」でも「弟に 速達で」でも触れているから、答える者は必ずいる。答えられる問いはなるべくしておくに如くはない。答える習慣、考えようとする姿勢が習慣づくからである。
段落分けしようとする生徒の頭は、こうした文脈の確認とともに、内容の確認ももちろんしているはずである。場面展開はあるか。時間的な経過はあるか。
一つ、確認したいことがある。27行目「雪のさいごのひとわんを…」と28行目「…ふたきれのみかげせきざいに」の間の「…」の意味である。なぜここだけに「…」が付されているのか。
この特徴によって、この詩を大きく二つに分けるときの分かれ目をここだと見なすことは多くの論者に共通している。だがなぜここにだけ「…」がつくのか。これは伏線として生徒に投げかけておくにとどめ、考察を続ける。
こんなふうに、基本的には生徒自身に読ませるように誘導して、細部を解説したりまとめたりはしない。読んでわかるべきことは生徒自身がわかるべきだ。こちらにもわからないことはある。二十八行目からの「ふたきれのみかげせきざいに/みぞれはさびしくたまつてゐる/わたくしはそのうへにあぶなくたち」などは、どういう状況・情景なのかも、どうしてこの一節が必要なのかもわからない。
そうした中で十一行目の「わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに」という比喩も、やはり「わからない」。勿論、ある種の解釈をしながら読んではいる。だが確信はない。だから「全然わからない」と言い放ってしまって、生徒の解釈を聞く。教室の雰囲気次第ではあれこれ解釈のバリエーションが提出されて面白い。だが意図的に解釈のための思考を促すのなら問いにも工夫のしようがある。問いを2択などの選択肢にするのは、生徒の思考の焦点を明らかにしやすいから、問いが漠然として考えることが難しい時には有効な方法だ。例えば次のように。
だが上のような問いは、この詩の解釈に決定的な変更を迫るようなものではない。
次はいくらか手応えのある問いを投げかけてみる。
以下次号 「語り手はどこにいるか 1」
例えば、散文の読解授業でよく用いられる「段落分け」は、基本的に常に有益な発問だ。
だが勘違いしてはならないのは、既に分けられた「段落」を提示することが、生徒にその文章の構造を捉えさせることに資するものだなどというわけでは、決してないということだ。ただ、段落を分けようとする思考のみが、文章の読解を推進するのである。したがって、「段落分け」は、ただ生徒自身がそれをしようとすることにだけ意味があるのであり、そうした過程を経て、分けられた段落の妥当性を検討することにだけ意味があるのである。「正解」はない。妥当性の程度があるだけである。その妥当性を検討することにだけ、意味があるのである。
ここでも、詩の全体を捉えさせるために、この詩をいくつかの部分に分けよ、と問うことには意味がある。いくつでもいい。指導書などでも、見解はさまざまである。
ただ、文を途中で分断するような分け方はさすがに妥当性が低いと言ってもいい。例えば25行目の「おまへはわたくしにたのんだのだ」で段落を終えることはできない。だがそこで切ろうとする生徒はいる。そうした説が授業という場に提出されればしめたものだ。皆でその妥当性について検討できる。
27行目の「雪のさいごのひとわんを…」は、25行目に返ってかかっているように思われる。「たのんだのだ」が目的語を備えていないからである(19行目がそれを兼ねていると考えられないことはないから、一応保留にしてもいいが)。念のため27行目の後ろを確認しても、「ひとわんを」を受ける語は結局見つからない。やはり「ひとわんを」は返って「たのんだのだ」にかかっていくのである。こういう表現方法を何という? と勿論問う。倒置法は「旅上」でも「弟に 速達で」でも触れているから、答える者は必ずいる。答えられる問いはなるべくしておくに如くはない。答える習慣、考えようとする姿勢が習慣づくからである。
段落分けしようとする生徒の頭は、こうした文脈の確認とともに、内容の確認ももちろんしているはずである。場面展開はあるか。時間的な経過はあるか。
一つ、確認したいことがある。27行目「雪のさいごのひとわんを…」と28行目「…ふたきれのみかげせきざいに」の間の「…」の意味である。なぜここだけに「…」が付されているのか。
この特徴によって、この詩を大きく二つに分けるときの分かれ目をここだと見なすことは多くの論者に共通している。だがなぜここにだけ「…」がつくのか。これは伏線として生徒に投げかけておくにとどめ、考察を続ける。
こんなふうに、基本的には生徒自身に読ませるように誘導して、細部を解説したりまとめたりはしない。読んでわかるべきことは生徒自身がわかるべきだ。こちらにもわからないことはある。二十八行目からの「ふたきれのみかげせきざいに/みぞれはさびしくたまつてゐる/わたくしはそのうへにあぶなくたち」などは、どういう状況・情景なのかも、どうしてこの一節が必要なのかもわからない。
そうした中で十一行目の「わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに」という比喩も、やはり「わからない」。勿論、ある種の解釈をしながら読んではいる。だが確信はない。だから「全然わからない」と言い放ってしまって、生徒の解釈を聞く。教室の雰囲気次第ではあれこれ解釈のバリエーションが提出されて面白い。だが意図的に解釈のための思考を促すのなら問いにも工夫のしようがある。問いを2択などの選択肢にするのは、生徒の思考の焦点を明らかにしやすいから、問いが漠然として考えることが難しい時には有効な方法だ。例えば次のように。
・「まがつた」は「てつぽうだま」「とびだした」のいずれにかかっているか。曲がっているのは鉄砲玉か軌道か。筆者は高校生の時に授業でこの詩を読んで「てつぽうだま」が曲がっている様子を思い浮かべていたが、教師の「室内から外までの屈曲した経路を急いでとびだす様子」という解説を聞いて驚愕した記憶がある。それでも速いには違いないと思っていたら、生徒からは「速く行きたいと気持ちは焦るのに進めない」といった解釈も出てくる。「狙い通りに行き着かない」といった解釈も出る。それぞれ否定はできない。面白い。
・この比喩によって表される語り手の行動は「速い」のか「遅い」のか。
だが上のような問いは、この詩の解釈に決定的な変更を迫るようなものではない。
次はいくらか手応えのある問いを投げかけてみる。
以下次号 「語り手はどこにいるか 1」
2015年10月16日金曜日
宮沢賢治「永訣の朝」を授業する 3 ~なぜ頼んだのか?
承前
ちょっとした頭の体操としての導入に続いて、いよいよ詩に分け入る最初の問いは
しばらく間を置く。それから付け加える。答えは大きく分けて二つ。階層が異なる答えだ。一つは詩の中に書かれてあることから推測する。もう一つは詩の中に直接書いてある。
こうした条件に合う「二つ」の理由を揃えるとなると、どちらの答えが浮かんだ者であれ、しばらくは考えざるを得ない。こうなるともう生徒同士の話し合いに持ち込める。話し合いによって、複数の答えが誰かしらから提出されることを期待する。それが先の条件に合うかどうかを複数の目で検討する。
さて、一つ目の答えは
二つ目の、「詩の中に直接書いてある」理由は、そのまま詩の一節を指摘させる。十八~二十行目の「わたくしをいつしやうあかるくするために/こんなさつぱりした雪のひとわんを/おまへはわたくしにたのんだのだ」とある。つまり
多くの指導案で、同じ問いを見かけるが、いずれも想定している答えは右のどちらか一方である。どちらも正しい。にもかかわらず問われた生徒も、発問する教師でさえ、通常はどちらかの答えを念頭に置いて質疑に臨むのである。他方はいわば盲点になっている。だから「二つ」と指定する意味がある。「わかっている」と思っている状態に揺さぶりをかけるのである。さらに、授業の意義は周囲に他人のいる状態で、同じ問題に臨んでいることである。この利点を活かさぬ手はない。
だがこれで終わりではない。問題は後者である。続けて問う。
「わからない」生徒には無論考えさせる意味はあるし、「わかっている」と感じて過ごしている生徒にも、再度、その納得のありように自覚を促す。
正解としての短い答えを求めているわけではない。その納得の内容を語り、相手に同意を得ることができるかを各自に要求しているのである。
さて、みぞれの採取を頼んだのは妹である。それは何事か妹自身の欲求によるはずである、というのがとりあえず病室にいる者たちの了解であるはずである。それがAだ。なのになぜその依頼を叶えることが「兄を一生明るくする」のか。というより、なぜその要請を「兄を一生明るくするため」だと考えることに賢治だけでなく読者もが納得するのか。
さて、どう説明したらいいだろう。
生徒の説明が充分であると感じるまで、多くのやりとりが必要になるかも知れない。もちろん誰かがあっさりと的確な説明をしてしまうかもしれない。思うように進まないようなら、逆に「暗くなる」としたらそれはどうしてか、あるいは、兄自身はどうしたいのか、などと誘導のヒントを与える。ともあれ、誰かがたどりつくものだ。
つまりこうだ。妹のささやかな最後の頼みを叶えることが、手をこまねいて妹の最期を看取る以外に何も出来ない兄の無力感、罪悪感を、いくらかなりと救うのである。その小さな救いが、それ以降の兄の一生を明るくする、と妹は考えているのである。
生徒にはこんなふうに言うわけではない。この一節から読み取れることは、トシのために何かしてやりたいと賢治が思っている、…とトシが考えている、…と賢治が考えている、ということだ。そのことを我々は直ちに自覚するわけではないが、なおかつそれを理解しているのである。自分が理解しているものを自覚すること、さらにそれを他人に説明することの難しさはいかばかりか。
この問いはそうした国語学習でありながら、さらに後に続く読解の伏線になっている。
以下次号 「段落わけ・比喩」
ちょっとした頭の体操としての導入に続いて、いよいよ詩に分け入る最初の問いは
なぜ妹は兄に、みぞれをとってきてくれと頼んだのか?である。
しばらく間を置く。それから付け加える。答えは大きく分けて二つ。階層が異なる答えだ。一つは詩の中に書かれてあることから推測する。もう一つは詩の中に直接書いてある。
こうした条件に合う「二つ」の理由を揃えるとなると、どちらの答えが浮かんだ者であれ、しばらくは考えざるを得ない。こうなるともう生徒同士の話し合いに持ち込める。話し合いによって、複数の答えが誰かしらから提出されることを期待する。それが先の条件に合うかどうかを複数の目で検討する。
さて、一つ目の答えは
A「高熱にあえぐ喉を潤したいから」である。生徒は「食べるため」と答えるかもしれない。「おまへがたべるあめゆきをとらうとして(十行目)」からの抽出である。その場合はさらに「どうして食べたいの?」と聞き返す。この病室で、兄が妹の頼みでみぞれをとってくるという行為が、人々にどのように了解されているかを確認したいのである。たとえ妹と兄の二人しか病室にいなかったとしても事情は同じである。そうした了解を読者も共有しなければならない。理由は知らず、みぞれを食べたいと言う妹のためにみぞれをとりに走るわけではない。なぜ妹がみぞれをとってきてくれと頼んでいるかは、それを食べるためであると病室の皆に了解されているし、なぜみぞれを食べたいのかも、妹がはっきりと口にしたかどうかはわからないが、やはり皆に了解されているだろう。兄がそれを不審がっている様子がないからである。とすれば後は「はげしいはげしい熱やあへぎのあひだから」から推測される理由をもって一つ目の理由を完結させればいい。
二つ目の、「詩の中に直接書いてある」理由は、そのまま詩の一節を指摘させる。十八~二十行目の「わたくしをいつしやうあかるくするために/こんなさつぱりした雪のひとわんを/おまへはわたくしにたのんだのだ」とある。つまり
B「兄を一生明るくするため」である。
多くの指導案で、同じ問いを見かけるが、いずれも想定している答えは右のどちらか一方である。どちらも正しい。にもかかわらず問われた生徒も、発問する教師でさえ、通常はどちらかの答えを念頭に置いて質疑に臨むのである。他方はいわば盲点になっている。だから「二つ」と指定する意味がある。「わかっている」と思っている状態に揺さぶりをかけるのである。さらに、授業の意義は周囲に他人のいる状態で、同じ問題に臨んでいることである。この利点を活かさぬ手はない。
だがこれで終わりではない。問題は後者である。続けて問う。
「みぞれをとってくること」がなぜ「兄を一生明るくする」ことになるのか?この因果関係は、読者には「わかっている」。だがそれを説明することは容易ではない。こうしたポイントは問いの成立する糸口になる。考える方向を指示する。必ずしもわからないわけではないはずだ、同時に説明は難しいはずだ、にわかに答えられないからといって、「わからない」わけではない、お互いに説明しあってごらん。
「わからない」生徒には無論考えさせる意味はあるし、「わかっている」と感じて過ごしている生徒にも、再度、その納得のありように自覚を促す。
正解としての短い答えを求めているわけではない。その納得の内容を語り、相手に同意を得ることができるかを各自に要求しているのである。
さて、みぞれの採取を頼んだのは妹である。それは何事か妹自身の欲求によるはずである、というのがとりあえず病室にいる者たちの了解であるはずである。それがAだ。なのになぜその依頼を叶えることが「兄を一生明るくする」のか。というより、なぜその要請を「兄を一生明るくするため」だと考えることに賢治だけでなく読者もが納得するのか。
さて、どう説明したらいいだろう。
生徒の説明が充分であると感じるまで、多くのやりとりが必要になるかも知れない。もちろん誰かがあっさりと的確な説明をしてしまうかもしれない。思うように進まないようなら、逆に「暗くなる」としたらそれはどうしてか、あるいは、兄自身はどうしたいのか、などと誘導のヒントを与える。ともあれ、誰かがたどりつくものだ。
つまりこうだ。妹のささやかな最後の頼みを叶えることが、手をこまねいて妹の最期を看取る以外に何も出来ない兄の無力感、罪悪感を、いくらかなりと救うのである。その小さな救いが、それ以降の兄の一生を明るくする、と妹は考えているのである。
こうした説明は、充分に問いの「なぜ」に答えていると感じられる。だが、こうした答えを引き出した後で付け加えたいのは次のことである。
ここには、1.みぞれを食べたいというトシの欲求(A)が入れ子状に重なり合っている。
2.トシの1の欲求を叶えたいという賢治の希望
3.2の希望を実現させることで兄の無力感を軽くしたいというトシの配慮
4.妹の要請が3の配慮に拠るものなのだと考える賢治の推理(妄想?)
生徒にはこんなふうに言うわけではない。この一節から読み取れることは、トシのために何かしてやりたいと賢治が思っている、…とトシが考えている、…と賢治が考えている、ということだ。そのことを我々は直ちに自覚するわけではないが、なおかつそれを理解しているのである。自分が理解しているものを自覚すること、さらにそれを他人に説明することの難しさはいかばかりか。
この問いはそうした国語学習でありながら、さらに後に続く読解の伏線になっている。
以下次号 「段落わけ・比喩」
2015年10月15日木曜日
宮沢賢治「永訣の朝」を授業する 2 ~全体を捉える問い
承前(「導入」)
さてでは、「永訣の朝」に対するどのような「問い」が生徒にどのような活動を促し、どのような「読み」にいざなうことができるのだろう。
教材を前にして発問をどう発想するか。定番の発問も何種類かはある。それが有益かどうかは教材に拠るから、いつも使えるわけではない。また、その教材に特有の発問もある。その教材の「わからなさ」を問いとして投げかける場合もあるし、生徒がわかったつもりになっている事柄にあらためて疑問を投げかけることもある。
例えば一読して、「『永訣』とは何か?」と問う。誰もが知らないという前提で考えよ、と問う。これは別の機会にあらかじめ知っているのでなければ、高校生がまず知っているはずのない知識だから、今読んだばかりの詩の内容から推測して答えるしかない。もちろん生徒はすぐに「わからない」と答えたがるから、あらかじめそれを禁じておくことを日頃から習慣化しておかなければならない。正解を「知っている」事を要求しているのではなく、推測したことを答えればいいのだ、と繰り返し言う。
「永遠」の「けつ」って何だろう、と生徒は考える。「決意」「決心」「決定」? もちろんそうした推測を、ある意味で無責任に語ればいい。それが詩の内容とどう関わるかを考えることが、詩の内容を捉えようという思考に結びつけばいいのだ。「永遠の決意」などと答える生徒には、何を決意したの? と聞き返す。それに答えようとすれば、自分で詩の内容を考えざるをえない。
もちろんすぐに「永遠の別れ」のことだと答える生徒もいるだろう。それは別の機会にそのことを知っていたからかもしれないが、ともかくもどうしてそうだと考えたのだ、と聞き返す。妹の死をうたった詩だから、と答えれば賞賛する。すぐに、「訣」という字で作れる熟語を知らないか、と問う。誰かが「訣別」という語を挙げられればさらに賞賛する。「訣」が「わかれ」と訓読みできることを紹介する。
これだけのことでさえ、導入としては上出来だ。「永訣」とは「永遠の別れ」という意味だ、などと最初から解説してしまっては、こうした活動の機会を逃してしまう。
こうした活動が意味あることだと考えるのは、つまり「永訣の朝」を教えるつもりはないからだ。生徒に「永訣の朝」を教えたり、理解させたり、覚えさせたりすることに何の意味があるのだろう。国語の授業では、「永訣の朝」をきっかけとして、ともかくもなにがしかの言語活動を始めるのである。
さて、引き続き「導入」をもうちょっと。次の問いは二つまとめて。
さて、「永訣の朝」とは、「妹との永遠の別れ」=「妹の死」に際して、「妹のためにみぞれを採ってくる」という詩である。これでこの詩を読むための構えができた。
次の問いは「なぜ妹は兄に、みぞれをとってきてくれと頼んだのか」である。
以下次号(「なぜ頼んだのか?」)
さてでは、「永訣の朝」に対するどのような「問い」が生徒にどのような活動を促し、どのような「読み」にいざなうことができるのだろう。
教材を前にして発問をどう発想するか。定番の発問も何種類かはある。それが有益かどうかは教材に拠るから、いつも使えるわけではない。また、その教材に特有の発問もある。その教材の「わからなさ」を問いとして投げかける場合もあるし、生徒がわかったつもりになっている事柄にあらためて疑問を投げかけることもある。
例えば一読して、「『永訣』とは何か?」と問う。誰もが知らないという前提で考えよ、と問う。これは別の機会にあらかじめ知っているのでなければ、高校生がまず知っているはずのない知識だから、今読んだばかりの詩の内容から推測して答えるしかない。もちろん生徒はすぐに「わからない」と答えたがるから、あらかじめそれを禁じておくことを日頃から習慣化しておかなければならない。正解を「知っている」事を要求しているのではなく、推測したことを答えればいいのだ、と繰り返し言う。
「永遠」の「けつ」って何だろう、と生徒は考える。「決意」「決心」「決定」? もちろんそうした推測を、ある意味で無責任に語ればいい。それが詩の内容とどう関わるかを考えることが、詩の内容を捉えようという思考に結びつけばいいのだ。「永遠の決意」などと答える生徒には、何を決意したの? と聞き返す。それに答えようとすれば、自分で詩の内容を考えざるをえない。
もちろんすぐに「永遠の別れ」のことだと答える生徒もいるだろう。それは別の機会にそのことを知っていたからかもしれないが、ともかくもどうしてそうだと考えたのだ、と聞き返す。妹の死をうたった詩だから、と答えれば賞賛する。すぐに、「訣」という字で作れる熟語を知らないか、と問う。誰かが「訣別」という語を挙げられればさらに賞賛する。「訣」が「わかれ」と訓読みできることを紹介する。
これだけのことでさえ、導入としては上出来だ。「永訣」とは「永遠の別れ」という意味だ、などと最初から解説してしまっては、こうした活動の機会を逃してしまう。
こうした活動が意味あることだと考えるのは、つまり「永訣の朝」を教えるつもりはないからだ。生徒に「永訣の朝」を教えたり、理解させたり、覚えさせたりすることに何の意味があるのだろう。国語の授業では、「永訣の朝」をきっかけとして、ともかくもなにがしかの言語活動を始めるのである。
さて、引き続き「導入」をもうちょっと。次の問いは二つまとめて。
「この詩で起こっている最も大きな出来事は何か?」「出来事」を問われてすぐに「妹の死」と思い浮かぶとして、それでいいのか、という自問自答が、詩全体を捉えようという思考を促す。そして「行為」はもう少しばかり高度な問いだ。語り手は詩の中で大小様々なことを「して」いる。そのうち「最も大きな行為」とは何か。ページをめくって全体を見回し、それが全体に渡る「最も大きな行為」であるかどうかを検討しなければならない。「空を見上げる」「飛び出す」「茶碗に掬う」など、小さな「行為」が挙がるのもよし、すんなり「妹のためにみぞれを採ってくること」と答える者が現れるにせよ、ある程度、教室全体が考えている時間をとっておきたい。詩の最後まで確認して、なるほど「妹のためにみぞれを採ってくる」ならば全体を包括する表現だ、と生徒自身が納得することが必要なのである。
「この詩の中で語り手がしている最も大きな行為は何か?」
さて、「永訣の朝」とは、「妹との永遠の別れ」=「妹の死」に際して、「妹のためにみぞれを採ってくる」という詩である。これでこの詩を読むための構えができた。
次の問いは「なぜ妹は兄に、みぞれをとってきてくれと頼んだのか」である。
以下次号(「なぜ頼んだのか?」)
宮沢賢治「永訣の朝」を授業する 1 ~導入
2学期に入って、しばらく何をやろうか迷っているうちに、とりあえず夏休み明けのリハビリに俺が朗読をしたいと、小川洋子の「博士の愛した数式」を読み、ついでに面白い論点が見つかったのでしばらく考察に時間を費やし、その後はまだ評論に入る気合いが不足していたので、珍しく詩でも読んで、と思って教科書に収録されている三編の詩を読んだりした。萩原朔太郎の「旅上」はさらりと、辻征夫の「弟に速達で」は、意外や意外の楽しさで、それから心に期した「永訣の朝」に進んだのだった。
それから、あれよと中間考査が迫ってきた。「永訣の朝」は5時間くらいかけて、あれこれ考えてきたのだが、これが結構な手応えだったので、ちょっとまとめておこうという気になった。
本当は「博士の愛した数式」も「弟に速達で」も、これを授業でやるならこういう順序でこういう発問で…と若いもんに講釈したいところではある。だがまあ、こちらも一回きりの授業で、まだまだ教材の持っている可能性を充分に引き出したかどうか心許ないし(とはいえ5クラスもやっていると、そうとう練り込まれてもくるのだが)、何より、教材としての汎用性がそれほどないというのが正直なところなので、今回は略。何より汎用性が高い「永訣の朝」についてのみのまとめである。
やや外向きに、「ちゃんと」まとめようかという気もないでもないのだが、当ブログではとりあえずラフに、ライブ感を残してまとめる。
ある程度まとまった量書けたらアップ、というような感じで、何回かに分ける。先の見通しはない。
「永訣の朝」を授業で扱いたいと思う国語教師は「永訣の朝」という詩が好きなのだろうか。この素晴らしい詩を是非高校生に読ませたいと思って授業に臨むのだろうか。高校生が同様に感動してくれるかどうかは無論保証の限りではないが、そもそも授業とは本来そうありたいものである。できるかぎり自らの感動を語り、それに生徒が共感してくれることを期待するばかりである。
だが現場の実態は必ずしもそうではない。「永訣の朝」を授業で扱うのは、採択した教科書に収録されているからである。もちろん教科書に収録されているからといって、すべての教材を授業で取り上げるわけではないから、やる気がなければ「永訣の朝」で授業などする必要はない。
そう思ってこれまで授業で「永訣の朝」を取り上げたことはない。そもそも詩を授業でとりあげたことがほとんどないのだ。これまで使っていた教科書に「永訣の朝」が収録されていたかどうかも、正直わからない(だが、自分が高校生の時に使っていた教科書には収録されていた! それが授業で扱われたことも覚えている!)。
だが「永訣の朝」を今回、授業で取り上げてみて、これが教材としてきわめてすぐれたテキストであることに驚いた。授業で扱うに十分な手応えを得られたのである。
これは「永訣の朝」がすぐれた詩である、とか、好きだ、とかいうことではない。詩人としての宮沢賢治が天才であるという評価にはなんら異論はない。その言葉遣いにはいつも驚嘆させられる。だがその詩作品の中で、とりわけ「永訣の朝」が優れたものであると感じたことはない。「雨ニモマケズ」も同様である。だから上記のように、自らの「感動」を語るというような形での授業を構想したいわけではない。そんなことをするなら、そもそもこの詩を授業で扱うことのできる教員が限定されてしまう。
といって、その内容が生徒にとって感動的であることを期待しているわけでもない。もちろん生徒が勝手に感動することは自由である。そうなってほしい。だがそれはいわば僥倖である。残念ながら高校生の私は感動した覚えがないし、現在も感動したりはしない。だから私の授業での「永訣の朝」の扱いは、言ってみれば不謹慎である。賢治の哀しみに共感しようとか、賢治の祈りの崇高さにこうべを垂れようなどとは、ちっともしていない。だが、「雨ニモマケズ」を道徳教材のように扱ったり、「永訣の朝」に感動してみせることが敬虔な態度であると言えるかどうかも、たぶん怪しい。
真摯にテキストに向き合うことだけが、筆者にとっての「敬虔」である。
さて、国語科教材としての「永訣の朝」である。とりあえず、少々長いが掲げておく。
もちろん授業の中心に、その教材の「読み」があるのも確かだ。だが優れた「読み」が優れた授業を保証するわけではない。先行研究や鑑賞によって、この詩はある意味では「読み」尽くされている。だから、これから展開しようと思っている論も、作品を読み込むとか鑑賞するとかいうことではなく、このテキストを使って授業する、その方法と見通しについて、そして実際の教室の様子の描写だ(といいつつ、実はある「読み」も提示しようという野心もあるのだが)。
そもそも教材を読むのは生徒である。授業において生徒をある種の「読み」にいざなうのは基本的には「問い」である。あるいは、どのような「読み」であれ、その教材を国語科の授業として有益な活動に資するものとすることができるかどうかは、どのような活動を指示するかにかかっている。その活動を促すものとしての「問い」こそが授業の質を決める。
だから「この詩の形式は?」などという問いも、その内容を理解させる気も覚えさせる気もないが、生徒に投げかける価値はある。直前の朔太郎「旅上」で、文語・口語に言及したからである。ほとんどの生徒は「文語=文章言葉」「口語=話し言葉」だと思っている。間違っているわけではないが、慣用的には「文語=古語」「口語=現代語」の意味で使われているのが「文語/口語」という語だと確認する。もちろんそれも誰かがそこに辿り着くまで、ヒントを出したり誘導したりして考えさせる。古典の時間に「口語訳」って言ってるだろ、と確認する。それで「旅上」が「文語詩」なのは、どこでわかる? と聞く。もちろん「口語だとどうなる?」かを併せて聞く。
そんなやりとりを経て、じゃあ「永訣の朝」は「文語/口語」どっち? と聞くのである。多くの者は「文語」と答える。ほんと? と意味ありげに問い返す。「永訣の朝」は「口語自由詩」なのである。なのに「文語」と感じられるのはなぜだ? と聞く。誰かが「けふ」などの語彙が文語だと言う。だが口語詩だ、と断言する。じゃあ「けふ」は何だ? と聞く。つまりは「歴史的仮名遣い」と「文語」を混同しているのだが、そう言ってわかる生徒は「なるほど」という顔をしている(もちろん大半の生徒はそう言っただけでは理解しないで、何のことやらという顔をしている)。これも古典のテストの回答の仕方で「現代仮名遣いで答えよ」などと指定されているはずなのだが、こういうところに結びつけるには、ちょっと考える手間が必要なのだ。
こんなやりとりは「永訣の朝」を読むこととはほとんど関係ない。そしてこうしたやりとりが可能なのは、教科書の同じ単元に「旅上」が収録されていて、なおかつ「永訣の朝」が歴史的仮名遣いで教科書に収録されているという条件に拠っている(教科書によっては現代仮名遣いなのだ)。
だが、授業とはそういうものなのだ。その時のメンバーとその時の教科書の収録教材、それまでの授業の経過…諸々の条件の中からチャンスを見つけて、なにはともあれ言語活動を展開するのである。
以下次号。
それから、あれよと中間考査が迫ってきた。「永訣の朝」は5時間くらいかけて、あれこれ考えてきたのだが、これが結構な手応えだったので、ちょっとまとめておこうという気になった。
本当は「博士の愛した数式」も「弟に速達で」も、これを授業でやるならこういう順序でこういう発問で…と若いもんに講釈したいところではある。だがまあ、こちらも一回きりの授業で、まだまだ教材の持っている可能性を充分に引き出したかどうか心許ないし(とはいえ5クラスもやっていると、そうとう練り込まれてもくるのだが)、何より、教材としての汎用性がそれほどないというのが正直なところなので、今回は略。何より汎用性が高い「永訣の朝」についてのみのまとめである。
やや外向きに、「ちゃんと」まとめようかという気もないでもないのだが、当ブログではとりあえずラフに、ライブ感を残してまとめる。
ある程度まとまった量書けたらアップ、というような感じで、何回かに分ける。先の見通しはない。
「永訣の朝」を授業で扱いたいと思う国語教師は「永訣の朝」という詩が好きなのだろうか。この素晴らしい詩を是非高校生に読ませたいと思って授業に臨むのだろうか。高校生が同様に感動してくれるかどうかは無論保証の限りではないが、そもそも授業とは本来そうありたいものである。できるかぎり自らの感動を語り、それに生徒が共感してくれることを期待するばかりである。
だが現場の実態は必ずしもそうではない。「永訣の朝」を授業で扱うのは、採択した教科書に収録されているからである。もちろん教科書に収録されているからといって、すべての教材を授業で取り上げるわけではないから、やる気がなければ「永訣の朝」で授業などする必要はない。
そう思ってこれまで授業で「永訣の朝」を取り上げたことはない。そもそも詩を授業でとりあげたことがほとんどないのだ。これまで使っていた教科書に「永訣の朝」が収録されていたかどうかも、正直わからない(だが、自分が高校生の時に使っていた教科書には収録されていた! それが授業で扱われたことも覚えている!)。
だが「永訣の朝」を今回、授業で取り上げてみて、これが教材としてきわめてすぐれたテキストであることに驚いた。授業で扱うに十分な手応えを得られたのである。
これは「永訣の朝」がすぐれた詩である、とか、好きだ、とかいうことではない。詩人としての宮沢賢治が天才であるという評価にはなんら異論はない。その言葉遣いにはいつも驚嘆させられる。だがその詩作品の中で、とりわけ「永訣の朝」が優れたものであると感じたことはない。「雨ニモマケズ」も同様である。だから上記のように、自らの「感動」を語るというような形での授業を構想したいわけではない。そんなことをするなら、そもそもこの詩を授業で扱うことのできる教員が限定されてしまう。
といって、その内容が生徒にとって感動的であることを期待しているわけでもない。もちろん生徒が勝手に感動することは自由である。そうなってほしい。だがそれはいわば僥倖である。残念ながら高校生の私は感動した覚えがないし、現在も感動したりはしない。だから私の授業での「永訣の朝」の扱いは、言ってみれば不謹慎である。賢治の哀しみに共感しようとか、賢治の祈りの崇高さにこうべを垂れようなどとは、ちっともしていない。だが、「雨ニモマケズ」を道徳教材のように扱ったり、「永訣の朝」に感動してみせることが敬虔な態度であると言えるかどうかも、たぶん怪しい。
真摯にテキストに向き合うことだけが、筆者にとっての「敬虔」である。
さて、国語科教材としての「永訣の朝」である。とりあえず、少々長いが掲げておく。
永訣の朝
けふのうちに
とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
(あめゆじゆとてちてけんじや)
うすあかくいつそう陰惨な雲から
みぞれはびちよびちよふつてくる
(あめゆじゆとてちてけんじや)
青い蓴菜のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
(あめゆじゆとてちてけんじや)
蒼鉛いろの暗い雲から
みぞれはびちよびちよ沈んでくる
ああとし子
死ぬといふいまごろになつて
わたくしをいつしやうあかるくするために
こんなさつぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまつすぐにすすんでいくから
(あめゆじゆとてちてけんじや)
はげしいはげしい熱やあへぎのあひだから
おまへはわたくしにたのんだのだ
銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
……ふたきれのみかげせきざいに
みぞれはさびしくたまつてゐる
わたくしはそのうへにあぶなくたち
雪と水とのまつしろな二相系をたもち
すきとほるつめたい雫にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものをもらつていかう
わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ
みなれたちやわんのこの藍のもやうにも
もうけふおまへはわかれてしまふ
(Ora Orade Shitori egumo)
ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
あああのとざされた病室の
くらいびやうぶやかやのなかに
やさしくあをじろく燃えてゐる
わたくしのけなげないもうとよ
この雪はどこをえらばうにも
あんまりどこもまつしろなのだ
あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ
(うまれでくるたて
こんどはこたにわりやのごとばかりで
くるしまなあよにうまれてくる)
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになつて
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ
もちろん授業の中心に、その教材の「読み」があるのも確かだ。だが優れた「読み」が優れた授業を保証するわけではない。先行研究や鑑賞によって、この詩はある意味では「読み」尽くされている。だから、これから展開しようと思っている論も、作品を読み込むとか鑑賞するとかいうことではなく、このテキストを使って授業する、その方法と見通しについて、そして実際の教室の様子の描写だ(といいつつ、実はある「読み」も提示しようという野心もあるのだが)。
そもそも教材を読むのは生徒である。授業において生徒をある種の「読み」にいざなうのは基本的には「問い」である。あるいは、どのような「読み」であれ、その教材を国語科の授業として有益な活動に資するものとすることができるかどうかは、どのような活動を指示するかにかかっている。その活動を促すものとしての「問い」こそが授業の質を決める。
だから「この詩の形式は?」などという問いも、その内容を理解させる気も覚えさせる気もないが、生徒に投げかける価値はある。直前の朔太郎「旅上」で、文語・口語に言及したからである。ほとんどの生徒は「文語=文章言葉」「口語=話し言葉」だと思っている。間違っているわけではないが、慣用的には「文語=古語」「口語=現代語」の意味で使われているのが「文語/口語」という語だと確認する。もちろんそれも誰かがそこに辿り着くまで、ヒントを出したり誘導したりして考えさせる。古典の時間に「口語訳」って言ってるだろ、と確認する。それで「旅上」が「文語詩」なのは、どこでわかる? と聞く。もちろん「口語だとどうなる?」かを併せて聞く。
そんなやりとりを経て、じゃあ「永訣の朝」は「文語/口語」どっち? と聞くのである。多くの者は「文語」と答える。ほんと? と意味ありげに問い返す。「永訣の朝」は「口語自由詩」なのである。なのに「文語」と感じられるのはなぜだ? と聞く。誰かが「けふ」などの語彙が文語だと言う。だが口語詩だ、と断言する。じゃあ「けふ」は何だ? と聞く。つまりは「歴史的仮名遣い」と「文語」を混同しているのだが、そう言ってわかる生徒は「なるほど」という顔をしている(もちろん大半の生徒はそう言っただけでは理解しないで、何のことやらという顔をしている)。これも古典のテストの回答の仕方で「現代仮名遣いで答えよ」などと指定されているはずなのだが、こういうところに結びつけるには、ちょっと考える手間が必要なのだ。
こんなやりとりは「永訣の朝」を読むこととはほとんど関係ない。そしてこうしたやりとりが可能なのは、教科書の同じ単元に「旅上」が収録されていて、なおかつ「永訣の朝」が歴史的仮名遣いで教科書に収録されているという条件に拠っている(教科書によっては現代仮名遣いなのだ)。
だが、授業とはそういうものなのだ。その時のメンバーとその時の教科書の収録教材、それまでの授業の経過…諸々の条件の中からチャンスを見つけて、なにはともあれ言語活動を展開するのである。
以下次号。
2015年10月13日火曜日
「ハイキュー!」2期、Esperanza Spalding
去年の秋に熱弁した「ハイキュー!」の続編が放送開始。実はこの間に生徒に原作漫画を借りて、先まで展開を知っている。だからもうアニメーションによってその物語を味わうことができるかどうかだけが、先を見続けるかどうかの動機だ。1話を見る限り、やはりアニメーションは素晴らしい。ほとんど観るものがなかった前期に比べて、今期は『終物語』はじめ、いくつか期待。
「ハイキュー!」同志の娘はまた、エスペランサ・スポルディング(Esperanza Spalding)の良さがわかる同志でもある。
「ハイキュー!」同志の娘はまた、エスペランサ・スポルディング(Esperanza Spalding)の良さがわかる同志でもある。
2015年10月11日日曜日
『オブセッション ~歪んだ愛の果て』
ネットで見た面白そうな映画の題名と混同して、観てしまった。作りがちゃちだとか、辻褄が合わなくてイライラするとかいうことはないのだが、面白かったとも言えない。思い込みの激しいストーカーにつきまとわれる恐怖、というただそれだけの映画。それとて『危険な情事』のグレン・クローズのように、ホラー映画として見られるくらいの熱演、演出でもあれば面白くもなろうに、お話としては去年観た『ルームメイト』と同じように、展開はまるで予想の範囲内で、演出に感嘆すべき点もない。
主演はあのビヨンセだよなあ、と思っていると、公開時は全米1位のヒット映画なのだそうだ。まあビヨンセに興味はないので、映画は凡作という以上の感想はない。
とすると、勘違いした方の映画は、はて、なんといったか。
主演はあのビヨンセだよなあ、と思っていると、公開時は全米1位のヒット映画なのだそうだ。まあビヨンセに興味はないので、映画は凡作という以上の感想はない。
とすると、勘違いした方の映画は、はて、なんといったか。
2015年10月10日土曜日
『運命のボタン』(監督:リチャード・ケリー)
ここ2~3年のうちに観たことは明瞭に覚えている。コメディかと思って観始めると意外とシリアスな話だったという記憶はある。ボタンをめぐる選択を迫られる話だった。大金が手に入るが、どこかで誰かが死ぬというボタンを押すかどうか?
例によって、観たはずなのに先が読めないのは良い映画であったはずはないのに、そのことを確かめるためだけに観た。どのシーンも、まるで見覚えがない。だがその映画を一緒に観たことは娘も覚えている。この印象の薄さは何事だ。キャメロン・ディアスが主演で、明白にB級な映画だというわけではないというのに。
じきに見覚えのあるシーンも出てきた。だがそれも単発で、とにかく先が読めない。次々と謎が提示され、風呂敷はひろがっていくばかり。どうなる? と思うと、まるで納得のないまま終わる。よく考えれば合理的な説明はつくのか? 多分つかない。キリスト教的な寓意があるとはネット上の解釈に見られるが、まあそれを認めるとしても、映画として細部が納得いくほどの整合性をもっているとは到底認められない。
これもまた、完成に至るまでどうして最後まで誰も止めなかったのか不思議な映画だ。
例によって、観たはずなのに先が読めないのは良い映画であったはずはないのに、そのことを確かめるためだけに観た。どのシーンも、まるで見覚えがない。だがその映画を一緒に観たことは娘も覚えている。この印象の薄さは何事だ。キャメロン・ディアスが主演で、明白にB級な映画だというわけではないというのに。
じきに見覚えのあるシーンも出てきた。だがそれも単発で、とにかく先が読めない。次々と謎が提示され、風呂敷はひろがっていくばかり。どうなる? と思うと、まるで納得のないまま終わる。よく考えれば合理的な説明はつくのか? 多分つかない。キリスト教的な寓意があるとはネット上の解釈に見られるが、まあそれを認めるとしても、映画として細部が納得いくほどの整合性をもっているとは到底認められない。
これもまた、完成に至るまでどうして最後まで誰も止めなかったのか不思議な映画だ。
2015年10月3日土曜日
『ノロイ』(監督:白石晃士)
『オカルト』に続いてもう一本、白石晃士。『オカルト』の前作らしいが、なるほど、「モキュメンタリー」という形式についての試行錯誤の最中、という感じで、『オカルト』でその成果が発揮されるとして、まだまだ『ブレアウィッチ・プロジェクト』の真似をしてみました、という域を出ない。
「実話」だという話を半信半疑で見たりするともっと面白いんだろうが、もうすっかりフェイク・ドキュメンタリーを見るつもりでいるから、そうしたジャンルとして、またホラーとしての出来だけが評価の対象となる。
とすればまあ凡作。好きな人は高評価をしているが、アマゾンでは星一つ評価が最も多い。駄作、と口を極めてののしるほどではないと思う。面白さはともかく、頭が悪くて腹立たしい映画も多い中で、やろうとしている方向は見えていた。
『オカルト』よりは怖かったが、だからといってそれで楽しかったというわけでもない。ホラーの恐怖は基本的には解消して欲しい。それが素直なカタルシスというものだ。
「実話」だという話を半信半疑で見たりするともっと面白いんだろうが、もうすっかりフェイク・ドキュメンタリーを見るつもりでいるから、そうしたジャンルとして、またホラーとしての出来だけが評価の対象となる。
とすればまあ凡作。好きな人は高評価をしているが、アマゾンでは星一つ評価が最も多い。駄作、と口を極めてののしるほどではないと思う。面白さはともかく、頭が悪くて腹立たしい映画も多い中で、やろうとしている方向は見えていた。
『オカルト』よりは怖かったが、だからといってそれで楽しかったというわけでもない。ホラーの恐怖は基本的には解消して欲しい。それが素直なカタルシスというものだ。
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