信頼できる筋の高評価があり、なおかつ折しもヴェネチア国際映画祭で黒沢清が監督賞をとったりもして、期待もある一方で、アマゾンレビューでは☆一つが最も多いという呆れるばかりの低評価。
一体どうなることやら。
例によってとてもバランスが悪い。
画面の隅々まで、禍々しい映画の力で満ちている。とにかく画面が暗いのが、どうしようもなく異界の雰囲気を漂わせているのに、あちこちが妙に明るいのも異様だ。あるいは基本的に明るい場面なのに、部分的に暗かったり急に暗くなったり。
風も、自然に吹いているのを撮っている部分もあるんだろうが、おそらく大きな扇風機で背景を揺り動かしているんだろう。
相変わらずビニールカーテンが揺れる。
だからとにかく背景を見てしまう。何かあるんじゃないか、何か起こるんじゃないかと、常にビクビクしながら見ている。そして時々は起こる。
そうした映画の力に満ちているにもかかわらず、人間はとても不自然に描かれる。もちろん「クリーピー」な香川照之が不自然なのはいい。それはとても見事だ。『蛇の道』『贖罪』以上だと言っていい。
だが主人公の西島秀俊が不自然なのは許しがたい。
実は主人公こそ人間性の欠如した人物だったのだ、というオチがあるのだが、そのために不自然に描かれていることと、脚本や演出や演技が単に下手だからリアルな人間に見えないということの区別がつかない。
主人公の妻、竹内結子がなぜ易々と香川照之にとりこまれてしまうのかも到底納得がいかないのだが、それは実はそもそも西島竹内夫婦の心が離れていたからだ、という設定を終盤でいきなり示されても、そんなことはそこまで観客に示されていなかったではないか、という不満を感じさせるばかりだ。これなども、単に物語を描くことに巧みでない、ということにしか感じられない。夫婦間の溝というのならこの間の『来る』は、そのあたりが上手く描かれていたのだが。
テーマであるところの「隣人」の薄気味の悪さも、香川の演技で感じさせられはするが、その悪行がなぜ成功するかのメカニズムが描けているとはとても思えない。だから警察はやたらと無能に見えるし、被害者達が適切に抵抗しないことも、単に不自然にしか感じない。
もちろん、監督が自ら言うように、あれは犯人が行き当たりばったりなのにもかかわらずたまたま上手くいっているということなのでもある。そしてやはり、抵抗なんかできないんだよ、こういう場合、ということなんだろう。そういうことが起こりうることはわかる。人間関係の中で自由に振る舞えないことは程度問題としては茶飯事である。
だが「隣人」が巧みに相手の抵抗力を奪っていく手口を(それが計算尽くでない「たまたま」であったとしても)適切に描くことでしか、そのことが映画的な説得力を持つことはない。そしてそれに成功しているとはとても思えない。だから香川の「隣人」はとても不気味だが、その不気味さが日常に侵入していく恐怖にリアリティはないのだった。
家の配置が生み出す禍々しさも、見ていてなるほど、とは思えなかった。
わざわざドローンで上空から配置を見せられても、その前に、そもそもどの家が「それ」なのかわかってない状態で俯瞰されても。
日野市と主人公たちの稲城市と最後にこれから標的になる家がそれぞれ「同じ配置」だというのが、言葉で示されても、視覚的に把握できないというのは、映画として致命的な描写力のなさだと思うのだが(もちろん観客としての読解力のなさかもしれない。しかしやはり言葉でしか伝わらなかった)。
事ほど然様に、必要なことが描かれていないとしか思われず、物語としては「人間」を描けていないと思う。
にもかかわらず画面には映画としての力が満ちている。
それを唯一つなぐのが、ラストの竹内結子の叫びだった。あれは、あの凄惨な非現実と現実の落差のあまりの大きさを示す、心震わす叫びだった。