2020年9月30日水曜日

『ジャック・リーチャー NEVER GO BACK』-実に楽しい

 楽しみ方をはずしてしまった第一作に比べて、こちらは実に素直に楽しかった。

 軍の上層部の不正にからんで窮地に陥った自分の後任者を助けようと、みずからトラブルに巻き込まれていく主人公が、法を犯し、軍に逆らって不正を暴いていく。

 絶体絶命に思える窮地を乗り切る機転や行動力、戦闘力はもちろん痛快で、一緒に追われる女性士官との掛け合いも楽しい。ユーモラスな「ボーン」シリーズ(の縮小版)という感じではある。

 そこに、主人公の娘ではないかという疑いのために巻き込まれる女子高生が加わって、危なっかしさにハラハラし、意外な活躍に喝采し、そのうち醸成される絆にホロリとさせられる。

 何かすごいものを観たというような感動はないが、実によくできた楽しいエンターテインメント作品。

2020年9月25日金曜日

『CABIN』-わがままな神

  監督のドリュー・ゴダードは「クローバーフィールド」の脚本家でもある。となれば大いに期待できる。

 「マルチ・レイヤー・スリラー」というキャッチコピーで、『キャビン(原題は「森の中の山小屋」)』といういかにもな題名をつけているのも、最初からその「レイヤー」以外のレイヤーの存在を観客に知らせているのだった。

 とりあえずは「山小屋にやってきた若者グループが次々と殺される」という、「よくある」レイヤーがある。

 最初のうちはそのレイヤーでのみ語り進めるのかと思っていたら、そもそも映画の最初が別のレイヤーから始まるのだった。

 冒頭は「CABIN」の方ではなく「謎の組織が登場人物を監視している」という、これも「よくある」レイヤーで、まあそこまでは公開情報なのだった。予告編で既にそれを見せているし。そこまでも「よくある」設定なのだった。

 さらに上のレイヤーがあるらしいと知らされてはいる。

 「神々」が「山小屋」のレイヤーの物語を見たがっている、などと言われているのだが、「古代の神々」という言葉だけは「よくある」ものの、それがどういう設定になっているのか、最後までわからない。神々はなぜそんな「ありがち」な物語を欲するのか。

 どんな真相にたどり着くのかはともかく、どこもかしこもすこぶる楽しい。台詞といい演出といい、とにかく上手い。ホラーを観るつもりだったのに、そこら中で笑わされる。

 もちろんさまざまなびっくり展開もあり、じっくりと怖がらせる演出もある。

 そしてゾンビから逃げる主人公達を応援したくなるばかりでなく、謎の組織の仕事人たちもまた応援したくなるような仕事ぶりなのだった。


 展開にひねりもあり、それが最後に向けて大盛り上がりを見せるのも大したものだ。

 さてそのうえで、結末がよくわからない。

 「古代の神々」というから、クトゥルー神話的な何かかと思った。それがどういうわけで「山小屋」もののホラー映画何か観たがるのか。

 そして正体が何か示されはしない。

 あれ?


 なるほどあれは我々のメタファーなのだ。わがままな「観客」という名の「神々」。

 そう考えればすこぶる納得のいく結構を備えた、すこぶるよくできた、すこぶる楽しい映画なのだった。


2020年9月21日月曜日

『ウインド・リバー』-重量感のある傑作

 ジェレミー・レナーって、何で観た人かと調べてみると『ハート・ロッカー』と『ボーン・レガシー』の主演か。二枚目ではないが、寡黙なタフガイが実に嵌まる。

 「なぜ少女ばかりが殺されるのか」というコピーから連続殺人を扱ったサイコ物なのかと思っていたら、カップルが物語の最初に死ぬだけで、しかも死因は他殺ではない。物語の3年前にもう一人の少女が死んでいるが、そちらの事件の真相は全くわからずじまいだから関係もないかもしれない。まったくミスリーディングなコピーはどうしたわけだ。

 というわけでサイコな連続少女殺人鬼が出てくるわけではまったくないのだが、実にまあ重量感のある傑作だった。

 ネイティブ・アメリカンの居留地「ウインド・リバー」で、他殺ではない殺人事件が起こる。FBIの新米女性捜査官が、ジェレミー・レナー演ずるハンターとともに事件の真相を追う。

 「他殺ではない殺人」というのは何事か。

 死因は零下20度の屋外を走ったために肺が失血した窒息死と検死官は言う。だがレイプされており、裸足で屋外を走るのは逃げているからだろうから、殺人と言っていいはずだ。だが検死官は単なる職業倫理から、死因を「他殺」とすることはできないという。死因が「他殺」でないと、他の捜査員は回されない。新米一人では心許ない。なんとか「他殺」にしてもらえないか。検死官は、間違いなく殺人だが、報告書に嘘は書けないと言う。

 このやりとりにしびれる。設定の微妙さにも、検死官の倫理感にも、捜査官の焦燥にも。

 こういうことがちゃんと描ける脚本も演出も演技も、実に信用がおける。まっとうな映画だ。

 そして基本的には真相に向かって少しずつ迫っていく捜査過程が的確に、緊張感を持って描かれるのが、観ていて心地良い。


 そうしているうちに、トリッキーな映画的描写が不意に使われたりして驚く。部屋の外からノックをしている。画面が切り替わって室内からノックに応じてドアを開けると、外にいるのはさっきのノックの主ではない。別の時間が編集で接続するのだ。

 これを時間ではなく場所でやったのが『羊たちの沈黙』で、最初に観た時は唸ったものだ。

 面白いものを作ろうという意気込みが伝わる。とりあえずこういうふうに驚かされるのも悪くない。


 あるいは銃撃戦の緊迫感も実にうまく描写されている。

 疑心暗鬼から二つの陣営が銃を向け合って一触即発の状態になる。今にも誰かが発砲しそうな緊張感の中、FBIが警察権限を宣言し、自ら銃を収める。

 いったんは収まったものの、その後また結局銃撃戦になってしまうのだが、その絶望的な感じや、にもかかわらずその輪の外にいるハンターが、圧倒的な力で狙撃して相手を倒す爽快感、派手なアクションに度肝を抜かれる感じなど、優れた映画ならではの、観客を揺さぶる力が漲っている。


 さて、世間的な高評価の理由である、ネイティブ・アメリカンの現状を描いた社会的意味についても、もちろん賞賛に値する。

 だがそこにとりわけ価値があるという映画ではない。ドキュメンタリーとしてそうした社会問題を知らされ、考えさせられた、というような映画ではないのだ。何より優れたドラマとして、優れたエンタテインメントとして普遍的な魅力があった。その上で、背景となるアメリカの問題についても知ることができたのはオマケである。貴重なオマケではあるが、決してそのための映画ではない。

2020年9月13日日曜日

『ハッピー・デス・デイ 2U』-おそるべき構成力

  続編を名乗っていても全く別の作品であるようなのもあるし、続いてはいてもスタッフが変わっていたり、無残にレベルが落ちたり、といろいろある『2』の中でも、これは前作の翌日から始まり、なおかつ前作当日にループで戻るという完全な続編であるばかりか、前作の枠組み自体を再構築する、おそるべき脚本の構成力で、脱帽した。この感じは『SAW』シリーズ以来だ。

 もっともこれは2本セットで脚本が書かれているのかもしれない。『1』の中で一瞬の停電が描かれるのに特別な説明がなかったような気がするのだが、それが『2』の重要な出来事にかかわっているからだ。

 そうだとしても、『1』だけで完璧な完成度、完結度を達成しつつの、さらに2本で全体の見える物語構造というのはやはりおそるべきことだ。


 前作を観てこその楽しみももちろんある。ヒロインの成長もそうだし、サブキャラの活躍もある。

 とりわけループの中でパラレルワールド化した中で、ある感動的な、別の可能性が示される瞬間は見事だった。これも、『1』の脚本の時点で既に予定されていたことだと考えるのが自然だが、『1』の後で考えたことだとすればすごい発想だ。もちろんセットで考えておいて、『1』の完結感と『2』での新展開を狙ったのだとしてもその構想力はおそるべきことだ。


 犯人の正体という、ミステリー要素についても、前作だけでも「意外な犯人」を提示していたというのに、パラレルワールドにおいては別の可能性において別の犯人を、しかも前作からの設定の枠内で用意するという、志の高いお話作りをする。

 その上で小ネタも効いた、見事な映画作りである。

『マッドマックス/サンダードーム』-ちょっと格調高くなってる

  連続でシリーズ三作目を。

 こちらはカーアクション成分は、はるかに抑えめで、その分「バータータウン」と子供だけで暮らしているオアシスの、二つのコミュニティの造型が面白い。というか、『2』の採掘場はコミュニティというほどの描き込みはしていなかったから比較にはならないのだが。

 子供だけのコミュニティはどうみても非現実的だが、それだけに何やら神話的なメタファーの味わいである。マックスは伝説の人物のように誤解される。飛行機が自分たちを連れて行ってくれるという言い伝えが、それこそ「神話」のように伝えられているのだが、ジャンボ旅客機の残骸のスカイラインに子供たちが並んでいるショットはまるで宗教画のような、なんとも印象的な画だった。

 それにモーリス・ジャールの、あまりに壮麗なオーケストレーションが、ますますアクション映画離れした格調を与えている。

 最後に一応のカーアクションも見せて、さらに空に飛び立つのもやはり神話的な隠喩的な展開だった。そして廃墟となったシドニーの上空を飛ぶ。

 ようやく都市が出てきた。廃墟としての都市。

 そしてやはりマックスもまた「神話」のように語り継がれるのだった。この形式は『1』もなのか?

2020年9月12日土曜日

『マッドマックス2』-映画館で観るべき

 『怒りのデスロード』を観るための予習として。

 第一作を観たことは、たぶんある。さだかではない。何も覚えていない。メル・ギブソンとしては『リーサル・ウェポン』ほどにも覚えていない。

 で、たぶんこういうディストピアにまず惹かれるべきなんだろうと思うが、ディストピアは都会であってほしい。撮影費用の問題で荒野を舞台としている本作には、ディストピア映画に感ずる魅力を感じなかった。

 ヒーローものとしても、例えばジェイソン・ステイサムのアクションを見てしまうと、時代を感じざるをえない。侠気があるか? まあそこそこには。

 何より、コミュニティに深入りしないで出て行こうという中盤の行動はいいのだが、あまりにあっさり敵の攻撃の前に敗れる情けなさは、見ていてひどくがっかりする。不運ではなく単なるバカにしか見えず。ヒーローとしての主人公に惹かれなかった。


 だがアクションとしてはすごかった。終盤の石油採掘所からの脱出劇は。

 見ていて、撮影で死人は出てないんだろうかと心配になるようなカーレースと、走る車上でのバトル(実際に大怪我はあったそうだが)。

 これは大画面で大音量で観るべき、まさしく「映画」なんだろう。


 最後で満足して、全体が回想の枠組みに閉じ込められるエピローグのナレーションも、安易な手法だと思いつつもなんだか感慨深い。

2020年9月11日金曜日

『クリーピー 偽りの隣人』-とてもバランスが悪い

 信頼できる筋の高評価があり、なおかつ折しもヴェネチア国際映画祭で黒沢清が監督賞をとったりもして、期待もある一方で、アマゾンレビューでは☆一つが最も多いという呆れるばかりの低評価。

 一体どうなることやら。


 例によってとてもバランスが悪い。

 画面の隅々まで、禍々しい映画の力で満ちている。とにかく画面が暗いのが、どうしようもなく異界の雰囲気を漂わせているのに、あちこちが妙に明るいのも異様だ。あるいは基本的に明るい場面なのに、部分的に暗かったり急に暗くなったり。

 風も、自然に吹いているのを撮っている部分もあるんだろうが、おそらく大きな扇風機で背景を揺り動かしているんだろう。

 相変わらずビニールカーテンが揺れる。

 だからとにかく背景を見てしまう。何かあるんじゃないか、何か起こるんじゃないかと、常にビクビクしながら見ている。そして時々は起こる。


 そうした映画の力に満ちているにもかかわらず、人間はとても不自然に描かれる。もちろん「クリーピー」な香川照之が不自然なのはいい。それはとても見事だ。『蛇の道』『贖罪』以上だと言っていい。

 だが主人公の西島秀俊が不自然なのは許しがたい。

 実は主人公こそ人間性の欠如した人物だったのだ、というオチがあるのだが、そのために不自然に描かれていることと、脚本や演出や演技が単に下手だからリアルな人間に見えないということの区別がつかない。

 主人公の妻、竹内結子がなぜ易々と香川照之にとりこまれてしまうのかも到底納得がいかないのだが、それは実はそもそも西島竹内夫婦の心が離れていたからだ、という設定を終盤でいきなり示されても、そんなことはそこまで観客に示されていなかったではないか、という不満を感じさせるばかりだ。これなども、単に物語を描くことに巧みでない、ということにしか感じられない。夫婦間の溝というのならこの間の『来る』は、そのあたりが上手く描かれていたのだが。

 テーマであるところの「隣人」の薄気味の悪さも、香川の演技で感じさせられはするが、その悪行がなぜ成功するかのメカニズムが描けているとはとても思えない。だから警察はやたらと無能に見えるし、被害者達が適切に抵抗しないことも、単に不自然にしか感じない。

 もちろん、監督が自ら言うように、あれは犯人が行き当たりばったりなのにもかかわらずたまたま上手くいっているということなのでもある。そしてやはり、抵抗なんかできないんだよ、こういう場合、ということなんだろう。そういうことが起こりうることはわかる。人間関係の中で自由に振る舞えないことは程度問題としては茶飯事である。

 だが「隣人」が巧みに相手の抵抗力を奪っていく手口を(それが計算尽くでない「たまたま」であったとしても)適切に描くことでしか、そのことが映画的な説得力を持つことはない。そしてそれに成功しているとはとても思えない。だから香川の「隣人」はとても不気味だが、その不気味さが日常に侵入していく恐怖にリアリティはないのだった。


 家の配置が生み出す禍々しさも、見ていてなるほど、とは思えなかった。

 わざわざドローンで上空から配置を見せられても、その前に、そもそもどの家が「それ」なのかわかってない状態で俯瞰されても。

 日野市と主人公たちの稲城市と最後にこれから標的になる家がそれぞれ「同じ配置」だというのが、言葉で示されても、視覚的に把握できないというのは、映画として致命的な描写力のなさだと思うのだが(もちろん観客としての読解力のなさかもしれない。しかしやはり言葉でしか伝わらなかった)。


 事ほど然様に、必要なことが描かれていないとしか思われず、物語としては「人間」を描けていないと思う。

 にもかかわらず画面には映画としての力が満ちている。

 それを唯一つなぐのが、ラストの竹内結子の叫びだった。あれは、あの凄惨な非現実と現実の落差のあまりの大きさを示す、心震わす叫びだった。


2020年9月8日火曜日

『ザ・ウォード 監禁病棟』-単にB級でしかない

  ジョン・カーペンターの、現在までの最新作。もう10年前になるが年齢的にはまだ次回作の可能性はあるんだろうか。それとも本作の結果、もう監督作制作は難しいのだろうか。


 精神病院のある病棟に収容されている5人の少女が次々と殺されていく、というただそれだけの話、だと終わり近くまでは思わされる。

 となれば演出の問題でしかないのだが、これがどうにも平板で、さすがジョン・カーペンター、と思える場面のないまま過ぎていく。

 連続殺人鬼は、いかにも、という感じの「亡霊」少女で、なのに攻撃はすこぶる物理的だ。ナイフを使ったり、主人公を振り回して壁にたたきつけたりする。にもかかわらず神出鬼没なところは亡霊ならでは。

 ホラーは「ルール」がミソだ。この脅威はどのようなルールになっているかを探って、それに対抗する手段を講ずる。そういう闘争のはずだ。

 ここではまず監禁する病院側との闘争があり、そこに亡霊との闘争がからんできて、うまくやればこうした設定は複雑になって面白さを生むんだろうが、亡霊のルールがわからず、中途半端に病院側と同じような脅威を与えている。ひたすら隠れん坊と鬼ごっこ。


 さて最後には意外といえば意外なドンデン返しがあるのだが、これはどうしたって『アイデンティティー』を思い出さざるをえない。そしてはるかに及ばない。

 『アイデンティティー』の面白さはホラーではなくサスペンスであることによって生まれている。連続殺人は「謎」なのだ。どういうことなのか? という観客の興味を引っ張って物語が進行するから、ドンデン返しも意味があるのである。

 ところが『ザ・ウォード』はホラーである。亡霊は「謎」ではなく「恐怖」である。そこにドンデン返しをされても、単に唐突なだけである。

 『アイデンティティー』は伏線が巧妙に張ってあって、最後に真相が明かされた時にそれらが意味あるものとして回収される快感があるが、『ザ・ウォード』には、(全くとは言わないが)ほとんどなかった。

 また『アイデンティティー』は単に物語としては後味悪く終わって良いのだが(それでも面白いので)、本作は基本的にはハッピーエンドであるはずの物語であるにもかかわらず、観客の感情移入はほとんどの部分を占める主人公に対してなされているから、最後の少女に思い入れることはできない。釈然としない。

 ラストショットも典型的なB級ホラーの「脅かし」じゃないか。


 ジョン・カーペンターはもちろんB級映画作家なのだが、B級なりの面白さを演出によって実現するところが偉大なのであって、本作は埋もれてもおかしくない単なるB級でしかなかった。

2020年9月7日月曜日

『ハッピー・デス・デイ』-最高にエンターテインメントなホラー

  『スクリーム』的な殺人鬼ホラーにタイムループをからめた設定は面白そうだとは思っていたがここまで観るタイミングがなく、ようやく。


 結果としては大満足。最高度に練り込まれた起伏に富んだお話作りに唸った。

 殺されるたびに時間が巻き戻ると、さっきと同じ場面が繰り返される。あ、これはさっきと同じだ、と思う感覚はタイムループ物のお約束。これこれ。こういう展開はもちろん枚挙に暇ないが、やはり楽しい。

 殺される前に手を打とうとあれこれ苦闘するが、毎回違ったパターンで、やっぱり殺されてしまう。

 最初のうちゴージャスで美人だけれど嫌な女に見えていた主人公が、繰り返し殺されるうちどんどんおちぶれて、そのうちほとんど笑えるような情けない姿になる。ホラー映画だったはずなのに、コメディと化してくる。それとともに彼女が愛おしくさえなってくるのだった。

 そしてさらに繰り返しの中で自己認識と反省が進むことで好感度を増して、堂々たるヒロインになった彼女を、最後にはすっかり応援したくなっている。

 最初はオタク的に冴えない奴に見えた男の子も、いつの間にかかっこ良くなっている。


 それとともに、ホラーとしてはすっかり怖くはなくなっているが、サスペンスは継続して、犯人捜しと真相究明、その解決に向けては、実に曲折のある展開が続いて、最後の解決に至る高揚感は実にうまい。

 最高にエンターテインメントな映画だった。

2020年9月6日日曜日

『ランダム 存在の確率』-実に知的なパズル

  神保哲生さんが奨めているのを聞いていて、レンタル屋で探していたんだが見つからず、アマゾンビデオにはちゃんとあるのだった。


 彗星が接近する中、パーティーに集まった中年男女8名が経験する不思議な夜の出来事を描く。

 劇中では、近年SFあるいは哲学ガジェットとして引っ張りだこの「シュレーディンガーの猫」に言及しているので、ネットでも大抵この言葉で説明されるのだが、それよりはパラレルワールドものだと言う方がてっとりばやい。

 彗星の接近がどう影響しているのかといった科学的な説明はないが、ともかくその夜、パラレルワールドが行き来可能になってしまうというのが基本設定。

 「ランダム」でさえ邦題で、原題は「COHERENCE」という。

 二つの波動が影響を及ぼし合う状態を「互いにコヒーレントな状態」だというのだそうだが、原題の「コヒーレンス」とはパラレルワールドが互いに行き来可能になっている状態を指しているものと思われる。

 この「行き来」というのがどう表現されるかというと、パラレルワールドは、家の近所の、ただ一つ灯りのついた家で、そこに歩いて行ける、というのだった。そこに自分たちと同じ8人がいるのである。

 最初のうちは、そことここの二つかと思っていたパラレルワールドは、実は無数にあるらしいことや、しかも「そことここの行き来」の際に、ランダムに行き先を変えてしまっているらしいことが徐々にわかってくる。世界はそれぞれ確率的に差異を生じていて、そこから邦題がついている。

 

 映画は超低予算だから、ここから舞台を拡げていかない。登場人物もこの8人以外には出てこない(舞台となる家さえ監督の自宅なのだとか)。SF的な説明もこれ以上しない。

 それで、これだけの、奇妙なアイデアだけで物語をどう膨らませるかといえば、もう、こうした状況に陥った人々がどう振る舞うか、ということしかない。

 たとえば状況を把握するために何をするか。原因もわからなければ法則もわからない。危険も予想できない。

 それでも状況がわかるにつれて解けていく謎が設定されていたりもして、伏線の張り方も巧みだ。

 物語は、違う世界の自分を、まったく自己中心的に排除できるかというところに向かっていくのだが、そうするとこれはあの『ザ・ドア 交差する世界』に近い。そう、印象は近い。

 奇妙な設定に投げ込まれた人の思考と決断。

 

 ところで、超低予算で、メジャー映画的な壮麗さや豪華さとはまるで無縁なのだが、人物の演技や編集が驚くほど上手くて、観ているだけで映画鑑賞としての基本的快感がある映画だった。上手いダンスや歌唱はそれだけで心地良いがごとく。

 あまりに上手いのはどうしたわけかと思ったら、後でネットで知ったところによると、俳優達は完全な脚本を与えられず、場面ごとに設定と基本的な目的を知らされるだけで、後は互いの言葉に対応して芝居をしているのだそうだ。

 なるほど。

 それにしても、それなら撮影があんなにうまいのはどうしたわけか。カメラ同士が映らないように、一体何台のカメラで撮影したものをつないでいるんだろう。

 不思議だ。そしてとても感心する。

2020年9月5日土曜日

『Yesterday』-幸せなラブコメディではあるが

 突然自分がアマゾンプライム会員であることを自覚した。いつからなのだ。ある程度買い物を続けているというだけで自動的にそういう呼称になっているのかと思っていたら、どうやら会員料を払っているらしいことがわかった。いつの間に。支払いは口座引き落としだから見落として自覚もしていなかった。
 で、にわかにアマゾンビデオで観られる映画を検索しだした。レンタルは300~500円くらいだから、DVDレンタルの方が安い。だが無料で観られるものも案外ある。
 人気作は有料だろうと思っていたら、宣伝的な「特売」扱いなのか、本作が無料なのだった。

 さて、ビートルズだしダニー・ボイルだし、面白くないわけがない。
 コメディとして笑えたし、ラブロマンスとして切なくも微笑ましかった。
 そして最後のハッピーエンドまで、実に幸せな映画だった。

 だがダニー・ボイルに対する期待ということでは、期待値に対して充分ではなかった。
 曲はもちろん良いが、音楽映画としては『ボヘミアン・ラプソディ』や『ジャージー・ボーイズ』の方が感動的ではあった。
 その要因として、観ながら不満だったのは、主人公がソロで活動し続けることに納得がいかない、という点がある。一人で歌えば歌うほど、原曲はリンゴのリズムや、コーラスも入ってこそ「ビートルズ」の曲なんだと思わされる。
 それでも、異世界でビートルズの曲を演奏しても最初のうちは誰にも注目されなくて、自分にはカリスマ性がないからだとがっかりするくだりは必要な過程だとして、それがなぜ世間に届き始めたかは、どうもはっきりしない。現代的に、SNSの影響で、というほどの描き方の工夫があったようでもない。

 それと、文化的なビートルズの位置づけについての考察の後は感じられなかった。突然の異世界ジャンプの理屈は別につかなくてもいい。ただ、ビートルズが存在しなかったら世界がどうなっているかは、もっと考えれば興味深い問題のはずだ。オアシスが存在しない、くらいの影響ではないはずだ。
 それは上記の音楽としての力も、単純に曲のメロディーと歌詞だけではないはずだというだけではなく、彼らのキャラクターやらファッションやら、時代との相互作用とか、さまざまな要因があるはずなのに、単に曲が良ければ受け容れられるかのように描いているのが浅く感じられるということとも繋がっている。
 そういう意味では、これはとても幸せなラブコメディではあるが、真剣なビートルズ映画ではなかった。

 それでも、ビートルズ愛自体は疑わない。
 そして、ここはどうしたって実にうまい脚本上の工夫でもあり、まったく感動的な展開だった。
 同じアイデアに基づいたかわぐちかいじのマンガ『僕はビートルズ』でも、(全体としては面白くないマンガだったが)、ホンモノが出てくるところだけはゾクっとさせられたが、それだけではない、幸福な感動があった。

 そうすると、ビートルズがいないからといってポール・マッカートニーがいないわけではない。ポールはジョンと出会うことなく、ソロ歌手として活動している、とか、ポールが早死にしているとか、なんらかの展開がありそうだ。
 ただしそれは描けない。存命中のポール・マッカートニーに許されるわけがない。
 このあたりも何やら考えてみると面白そうな問題ではあるが、まあそういう映画ではないんだろう。
 やはりそのあたりは浅薄なのだった。

2020年9月3日木曜日

『私は、ダニエル・ブレイク』-他者への想像力

 ケン・ローチ監督のカンヌ映画祭パルムドール作品。
 心臓疾患で働けなくなった老大工が、社会福祉手当の申請に役所を訪れては審査を却下されたり、申請の手続きに手間取ったり、といった苦労をしたあげく、役所の対応の不誠実なことに業を煮やして役所の壁に落書きをする。その一節が題名の「I, Daniel Blake」だ。
 巨匠の演出は手堅く、登場人物はそれぞれに強いリアリティをもって存在している。真面目に仕事をしてきた大工にせよ、隣人の黒人(だが中国系らしい)といい、たまたま役所で知り合った母子家庭の親子といい。
 母子家庭の母親が体を売らなければならなく状況のやむをえなさと痛みや、子供の父親が白人でないことからくる娘が学校で直面する問題や、下の子供が恐らく自閉傾向があるらしいことも、実に豊かなドラマをはらんでいる。
 そしてそうした描き方の豊かさは、役所の職員もまたそうなのだ。ここが肝心だ。役所の職員にリアリティのない、記号的な「役人」的な描き方をして悪役に仕立ててしまっては、問題が見えなくなってしまう。
 時折彼らが、あまりに型どおりの対応をしすぎて、主人公同様観客もイライラさせられる場面もあるが、それでも問題は制度の問題、社会の問題であるとしないと、問題が矮小化されてしまう。
 そして、これが先日感動したサッチャーイズムの遺産だと思うと複雑な思いもある。

 確かに問題の解決は難しい。社会の富をどう分配するかという問題は、どこにも不満のない解決はできない。効率化も必要だから、IT化だって必要で、これが老人を苦しめるからといって一概に否定できない。
 同時に、制度の問題であることを描いた上で、その制度の中で機械的に振る舞うか、人間としてどこまで誠実であり続けるかは、やはり人間の魂の問題でもある。他人への想像力の問題だ。自分たちが相手にしているのは一人の人間だという想像力の喚起を呼びかけているのが題名の「I, Daniel Blake」だ。
 これが行政に届くことを期待するのは絶望的に難しい。だが同時に現場の職員に届くこともまた果てしなく難しく感じた。現場の職員にはそれぞれの職業上の義務も人間関係も自分の生活もあるのだ。自分の仕事を困らせる者は迷惑者として敵対関係で意識されてしまう。仕事上の決まりだって、もちろん必要があるから定められているのだ。それを遵守しなくていいわけがない。
 それでも、簡単に誰かを悪者にして問題が解決するわけではない。

 制度や社会の問題を描きながら、人間がくっきりと描き出されるところが見事な映画だった。