2020年9月3日木曜日

『私は、ダニエル・ブレイク』-他者への想像力

 ケン・ローチ監督のカンヌ映画祭パルムドール作品。
 心臓疾患で働けなくなった老大工が、社会福祉手当の申請に役所を訪れては審査を却下されたり、申請の手続きに手間取ったり、といった苦労をしたあげく、役所の対応の不誠実なことに業を煮やして役所の壁に落書きをする。その一節が題名の「I, Daniel Blake」だ。
 巨匠の演出は手堅く、登場人物はそれぞれに強いリアリティをもって存在している。真面目に仕事をしてきた大工にせよ、隣人の黒人(だが中国系らしい)といい、たまたま役所で知り合った母子家庭の親子といい。
 母子家庭の母親が体を売らなければならなく状況のやむをえなさと痛みや、子供の父親が白人でないことからくる娘が学校で直面する問題や、下の子供が恐らく自閉傾向があるらしいことも、実に豊かなドラマをはらんでいる。
 そしてそうした描き方の豊かさは、役所の職員もまたそうなのだ。ここが肝心だ。役所の職員にリアリティのない、記号的な「役人」的な描き方をして悪役に仕立ててしまっては、問題が見えなくなってしまう。
 時折彼らが、あまりに型どおりの対応をしすぎて、主人公同様観客もイライラさせられる場面もあるが、それでも問題は制度の問題、社会の問題であるとしないと、問題が矮小化されてしまう。
 そして、これが先日感動したサッチャーイズムの遺産だと思うと複雑な思いもある。

 確かに問題の解決は難しい。社会の富をどう分配するかという問題は、どこにも不満のない解決はできない。効率化も必要だから、IT化だって必要で、これが老人を苦しめるからといって一概に否定できない。
 同時に、制度の問題であることを描いた上で、その制度の中で機械的に振る舞うか、人間としてどこまで誠実であり続けるかは、やはり人間の魂の問題でもある。他人への想像力の問題だ。自分たちが相手にしているのは一人の人間だという想像力の喚起を呼びかけているのが題名の「I, Daniel Blake」だ。
 これが行政に届くことを期待するのは絶望的に難しい。だが同時に現場の職員に届くこともまた果てしなく難しく感じた。現場の職員にはそれぞれの職業上の義務も人間関係も自分の生活もあるのだ。自分の仕事を困らせる者は迷惑者として敵対関係で意識されてしまう。仕事上の決まりだって、もちろん必要があるから定められているのだ。それを遵守しなくていいわけがない。
 それでも、簡単に誰かを悪者にして問題が解決するわけではない。

 制度や社会の問題を描きながら、人間がくっきりと描き出されるところが見事な映画だった。

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