ジョン・カーペンターの、現在までの最新作。もう10年前になるが年齢的にはまだ次回作の可能性はあるんだろうか。それとも本作の結果、もう監督作制作は難しいのだろうか。
精神病院のある病棟に収容されている5人の少女が次々と殺されていく、というただそれだけの話、だと終わり近くまでは思わされる。
となれば演出の問題でしかないのだが、これがどうにも平板で、さすがジョン・カーペンター、と思える場面のないまま過ぎていく。
連続殺人鬼は、いかにも、という感じの「亡霊」少女で、なのに攻撃はすこぶる物理的だ。ナイフを使ったり、主人公を振り回して壁にたたきつけたりする。にもかかわらず神出鬼没なところは亡霊ならでは。
ホラーは「ルール」がミソだ。この脅威はどのようなルールになっているかを探って、それに対抗する手段を講ずる。そういう闘争のはずだ。
ここではまず監禁する病院側との闘争があり、そこに亡霊との闘争がからんできて、うまくやればこうした設定は複雑になって面白さを生むんだろうが、亡霊のルールがわからず、中途半端に病院側と同じような脅威を与えている。ひたすら隠れん坊と鬼ごっこ。
さて最後には意外といえば意外なドンデン返しがあるのだが、これはどうしたって『アイデンティティー』を思い出さざるをえない。そしてはるかに及ばない。
『アイデンティティー』の面白さはホラーではなくサスペンスであることによって生まれている。連続殺人は「謎」なのだ。どういうことなのか? という観客の興味を引っ張って物語が進行するから、ドンデン返しも意味があるのである。
ところが『ザ・ウォード』はホラーである。亡霊は「謎」ではなく「恐怖」である。そこにドンデン返しをされても、単に唐突なだけである。
『アイデンティティー』は伏線が巧妙に張ってあって、最後に真相が明かされた時にそれらが意味あるものとして回収される快感があるが、『ザ・ウォード』には、(全くとは言わないが)ほとんどなかった。
また『アイデンティティー』は単に物語としては後味悪く終わって良いのだが(それでも面白いので)、本作は基本的にはハッピーエンドであるはずの物語であるにもかかわらず、観客の感情移入はほとんどの部分を占める主人公に対してなされているから、最後の少女に思い入れることはできない。釈然としない。
ラストショットも典型的なB級ホラーの「脅かし」じゃないか。
ジョン・カーペンターはもちろんB級映画作家なのだが、B級なりの面白さを演出によって実現するところが偉大なのであって、本作は埋もれてもおかしくない単なるB級でしかなかった。
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