2021年8月9日月曜日

『ペンギン・ハイウェイ』-夏休み

 気になることがあって、観終わってから原作を読んで、もう一度観直した。その上での感想。

 原作は日本SF大賞を受賞しているのだが、どういうわけでこれがSFとして評価されているのかわからない。物語の「謎」が、映画を観ても納得できるような説明になっていないのだが、それは映画ばかりでなく原作がそうなのだった。SFの面白さってこういうの? 架空の設定があるのは当然として、架空であることと辻褄が合っていることの両立がSFの面白さだというのが筆者の理解なのだが。

 「海」や「ペンギン」についての充分に「科学的」な説明が必要だとは、必ずしも期待しない。だがあの「お姉さん」の設定は納得できない。なぜ彼女なのか、という疑問を素通りして、そもそも彼女が人間ではないという真相に至るのだが、それと彼女があまりに人間らしく描かれていることとの不整合が腑に落ちない。

 最近「Vivy -Fluorite Eye's Song-」を観ての不満もそこだった。AIを描くなら、人間とは違う情動をどう描くかがテーマではないか。異星人でも同様だ。最近『ヴェノム』でも感じた。

 それが実現されている作品は間違いなくあるのだ。

 そもそも原作は『ソラリスの陽の下に』に対するオマージュだというのだが、いやいや、『ソラリス』は異生命体コンタクトものとしての極北だ。あそこで描かれる、人間が人間的な推論(感情移入による推論)をすることの不可能性はあまりに鮮烈で、AIでも異星人でも、こうした範があるというのに、なぜ浅慮のままに人間らしく描いてしまうのだろうといつも残念に思う。

 が、一方で「お姉さん」は人間として描かれる必要がある。それこそがこの物語の魅力なのだから。少年の愛情の対象として、彼女は魅力的な「人間」でなければならない。

 だとすればこの物語は基本的な設定として破綻している。SFとしては。


 だが一方で、ジュブナイルとしての愉しさは全開だった。理屈っぽく、小学生離れして大人びているという主人公の人物造型が逆に小学生の時間を鮮やかに描き出すという目論みは原作でも映画でも同じく成功していた。

 学校の場面がいくつか必要なのは仕方がないが、できればこの物語を夏休みの中だけで完結させてほしかった。途中から展開される夏休みは、本当にジュブナイルの象徴のようなかけがえのない子供時代を感じさせて、途中からそれが終わって2学期に入ってしまっているのが本当に惜しかった。

 この、夏休みに象徴される子供時代の空気感が魅力的に描かれているというだけで、この物語は成功である。


 その上で、原作を読んでみて、アニメーションの成功と失敗がやはりどうしてもあるのだと感じられた。

 アニメーションとしては無論良くできている。緑がきれいだ。水や風が感じられるし、スピード感も素晴らしかった。

 主人公の北香那も、特異なキャラクターの「少年」を演じて文句なく上手かったし、最初、合わないと感じていた蒼井優の「お姉さん」も、小説を読むときにはもうすっかり蒼井優の声でしか読めなかった。

 だが、小説を読むと、やはりこれくらいの映像描写では、まだ小説で感じる繊細な心の動きが描き足りないとも感じた。その代わり毎度のこと、アニメ的お約束に流れていると感じる描写が多かった。そういうアニメ的ユーモア、ギャグを、観客として想定している子供が本当に喜ぶのか、それとも作り手の思い込みにすぎないのかは、実は定かではない。だがそれが大人の鑑賞に堪えないのは残念ながら確かだ。

 だから、小説の最後には泣かされてしまった少年の一人語りは映画でもそのままナレーションとして流れるのだが、その後に挿入される短い小芝居がエンディングとなることで、その感動は小説のようには起こらないのだった。

 小説が情景描写や心理描写で描き出す微妙な心の機微。それをどうやってアニメが描くのかはやはり大いなる課題である。

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