2020年8月22日土曜日

『FAKE』-これもまた一つの

 「全聾の天才音楽家」佐村河内守を追ったドキュメンタリー。
 『なぜ君は総理大臣になれないのか』の映画評を漁っている時に森達也の文章を見つけて、ついでにまだ観ていない本作がレンタル屋にあるかどうか探してみたら見つかったのだった。
 『A』以来数年ぶりの森作品。その間、作品を観ていないのに、森達也自身の言説や森達也に対する言説はあちこちで見かけもしている。観るための構えは、ある程度はある状態で観始める。
 それはつまり、真実の相対性やら主観性やらといったドキュメンタリー作家としての姿勢だ。
 そして本作の題名が「偽造・捏造」だというのだから、どういう映画になりそうなのかは見当がつく。そしてそれは大筋では外れていない。
 映画では驚くほど説明不足で、もともとの「ゴーストライター騒動」を知らないと観られない。これでは作品としての完結性を持てないと思うが、それを説明し出すときりがなく、同時にそれをやっていると逆に映画としての独立性が保てなくなるんだろうという判断なのだろうか。
 ともあれ、映画では親切には説明されていないが、一応問題のNHKスペシャルも佐村河内本人の会見も当時見たので、背景はわかるつもり。

 画面に頻繁に登場する猫が可愛いとか、奥さんとの愛が感動的、などというつもりは毛頭ない。夫婦に、互いの愛を口にするよう促す場面など、むしろ不快だった。
 やはり面白さは「事実とは何か」という問題をこの映画がどう描いているという点に感ずるべきだろうと思う。
 つまりは、マスコミによる美談からその後の全否定への、両極端の振幅の中で、中立的に事実を捉えようというしつつ、そこで伝えられる「真実」がどうなるかについての予断も結論もないというのが「森達也的」なんだろう。
 ということは題名の「FAKE」とは、かつて偽物と呼ばれた佐村河内本人を指しているとともに、それを伝えたマスコミの報道を指しているのだろうが、同時にこの映画そのものをも指していることになる。当然森はそのことに自覚的なはずだ。
 例えば「衝撃のラスト」と紹介される最後の、エンドクレジットさえ終わった後の問い。「何か嘘をついたり隠したりしていることはありませんか?」と聞いて、長い沈黙の後、佐村河内が答える前に映画は断ち切れてしまう。観客は何かあるのではないか、という疑いを抱く。抱かせるように編集している。
 だが映画の途中で佐村河内に「森さんは僕を信じていますか?」と聞かれて、森は「信じなければ撮れない」と答える。
 これは論理的に矛盾している。信じているなら、嘘をついていないか、という問いは発生しない。
 もちろん途中の「信じている」が嘘なのだ。
 「信じている」などという言葉は森の基本的な姿勢と矛盾している。森が佐村河内の言うことを全て真実として受け取るはずはない。取材中、常に「どっちなんだろう」と思いながら取材しているに決まっている。だが「信じている」と言わなければ取材は終了してしまうから、そこではそう答えざるを得ない。
 つまり作者が取材対象である佐村河内本人を騙しつつ、映画全体が観客を騙している。途中まで、世間の佐村河内全否定に対して、真実の佐村河内守を伝えるかのように誤解させるが、そんな映画を森達也が作るわけがない。
 とすれば、どこまでいっても「FAKE」でないものなどないという当然の事態をこの映画自体が示しているわけだ。

 一方で「信じている」のは、たぶん本当でもある。それは佐村河内の言うことを事実だと受け容れるという意味ではなく、対象に真摯に向き合うつもりがあるという意味だ。
 だが途中まで、淡々と佐村河内を写しているだけの取材の突っ込みの浅さには、いかんせんもどかしく思っていた。
 それでもテレビ番組の制作者が登場して、またマスコミという装置がいかに真実を無視して、目先の面白さをでっち上げるかを暴露してしまうくだりなど、もちろん面白い。
 だが「マスコミ」の軽薄さを暴いて、では森は何を描くか。
これが外国人記者による佐村河内取材の場面から一転する。記者の質問は的確で、そこを訊きたい、という観客の欲求を満たしてくれる。これをなぜ森本人が問わなかったかといえば、上記の通り、自分を守ることに精一杯になっている佐村河内を取材し続けるにはしかたのないことだったのだ。
 ともあれ佐村河内の言葉を受け容れる方向に引っ張られていた観客の姿勢が、このインタビューによって、もう一度、健全な疑惑の側に戻される。
 そして、試写の際には口外を禁じられたという「ラスト12分」に至る「物語」的流れが形成される。
 本当に佐村河内守は音楽が作れるのか?
 なるほど、作れるのだった。
 だがその音楽はひどく凡庸だと感じた。これは主観的な問題なので、それを感動的と感ずる人がいてもいい。
 なるほど、だから佐村河内守は「ペテン師」だと言うつもりはない。彼はプロデューサーなんだろうし、宣伝担当でもあるのだろう。それが一時の成功をもたらしたのは間違いなく、あとはマスコミやら大衆やらがのせられただけだ。皆がそういう「物語」を消費したかったんだし、それができて経済的にも感情的にもそれなりに満足したのだった。
 そしてこの映画もまたそうした、この素材に対する新しい切り口による消費の一つだ。
 その意味では大いに楽しませてもらった。

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