2019年1月24日木曜日

Kはその時、何をしていたか 11 授業案を伝える難しさ

 さて、四十三章の夜のエピソードの授業案は、前回までで終了である。だが、授業を終了しての所感を付け加えておく。
 今回の連載の初回に書いたとおり、この授業のために、同学年を担当している若い先生方と打ち合わせをした。ここまでの授業過程が比較的計画的なのはそのためだ(むしろあざといくらいに意図的に仕組んでいる)。筆者がひとりでやるならば、解釈の見当がついた後はもっと行き当たりばったりでもいい。
 だがこうして段階的に仮説を提示していくなどという計画的な授業を行った結果、以上の授業には結果的に3時限をかけることになった。以前の授業では2時限の見当だったから、1.5倍に増量してしてしまったのだが、途中の密度が薄くなったような印象もなく、手応えはたっぷり、といった感じだ。
 筆者の授業では半分以上が生徒の話し合いに時間がとられているのだが、そこを調整することももちろんできる。だが、目的は結論ではなく生徒の思考と検討のための討議そのものなのだから、それが充実している限りは時間をとることも有意義である。
 段階的な仮説の提示は言わばミスリードなのだが、仮説を提示しては「これでいいと思う?」というやりとりに、気心の知れた生徒たちが「またかぁ!」などと言って盛り上がるのは楽しくもあるのだった。

 さて、こうして授業実践の記録を残すことには何の意味があるか。
 最初にも書いたが、授業を構成する授業者も生徒もそれぞれの現場で、その現場に合った授業を作るしかない。だからこうした、誰かの授業の参考に供するようにと残す教材論は、教材の解釈だけを示せばいいのではないか、という考え方もあろう。
 だが、今回の推敲はもともと、教材解釈を述べた「授業実践」が実用的ではなかったことに動機づけられている。
 授業を構想する時は、ある認識を生徒に伝えることを目論んだとしても、そのままそれを説明するのではなく、その認識がどこからもたらされたものか、まず問題意識に遡るところから考え、それを「問い」として生徒に提示する。まず生徒の方が考えていないと、その認識の意味も面白さも充分には受け取れないことが多いのだ。
 だから重要なのは、生徒に考えさせるための誘導であり、「問い」である。
 それにそもそもがその「認識」を生徒に伝えること自身が授業の目的ではない。上記の通り、四十三章のエピソードの意味などを、生徒に理解させることを目的として授業をしているのではなく、テキストの読解や討議そのものが授業の目的なのだ。
 だからこそそれをどう仕掛けるかは、授業実践にとって教材の解釈よりも重要ですらある。

 さて、こうして構想された授業案をもって臨んだ本実践において、授業を実施すること、あるいは授業案を伝えることの難しさを痛感した出来事があった。それは一緒に授業案を検討した若い教員の授業を参観したときのことである。彼らの授業では、四十三章の夜にKが遺書を書いていたのだという「解釈」が、まるで当然のように語られていたのだ。それが最終的な結論ででもあるかのように。
 彼らとは事前の授業計画の中で、どうやって生徒の思考を誘導したらいいか、という展開予定として「私に声をかけるまでKは何をしていたか?」という問いを投げるという打ち合わせをしていた。こう問われれば「遺書を書いていた」というアイデアは発想される。だが問うて生徒がそう答えたからといって、答えた本人だってそのアイデアを本気で信じているわけではなかろう。まずはそのトンデモアイデアを、みんなで半信半疑で検討するところから始めて、検討するうちにホントかもしれないと思えてくる驚きを味わうべきところなのだ。
 だが「遺書を書いてた」と誰かが言ったら、もうそれが既定路線として扱われてしまう。そんな突飛な話はにわかには信じがたい、という素朴な読者の感じ方が無いものとして扱われてしまう。というか、本気で生徒が考えていない時には「信じがたい」という思いすら抱かず、生徒は受け入れてしまうのだ。
 というか、それはつまり本気で受け容れてさえいないということだ。読みが血肉化していないのだ。
 そもそもこの仮説4の解釈は、彼ら授業者が自ら思いついたわけでもない。筆者ですらない。こんなことに普通の読者が気づくはずないということをなぜ忘れてしまうのか。
 似たような驚きは、四十章から始まる上野公園の散歩のエピソードを扱う授業を参観した機会にも経験した。しかもここ3年連続で、3人、それぞれ別の授業者の授業でだ。
 ここでの「私」とKの会話が、実は全くお互いの言っていることを誤解したまま、まるですれ違ったまま交わされているという解釈(別稿参照)を筆者から聞いた3人の若い教員は、3人ともその解釈をそのまま生徒に教えていたのだった。
 最初の年にそうした授業を見て心底驚いたのだが、次の年もその次の年も、それぞれ別の教員が同じ事をするのを見て、それぞれに驚きつつ、問題の根深さをも思い知らされたのだった。
 ここには「ある認識を生徒に理解させることが授業の目的である」という授業イメージが国語科、特に現代文にも適用されてしまうという病弊が存在している。授業を評価する言葉として「わかりやすい授業」などという言い方があたりまえのように通用してしまう。そもそも「わかる」ことが目的ではないという前提は共有されていない。一方で「アクティブラーニング」の大合唱だというのに。
 ここは、テキストから細かい情報を拾い集めてそれを疑問として提示し、その解決策としての「二人の科白はどれも二つの意味で解釈可能であり、それぞれが一方の解釈で会話をしている」というアイデアは、何としてでも生徒に発想させねばならない。しかも問題は、そのアイデアの妥当性について検討することこそ授業の本義だということだ。それは前提でも結論でもなく、俎上に乗せられた仮説である。
 問題は、「何を教えるか」でも「どう教えるか」でもなく、「何をやるか」だ。今回の四十三章の夜のエピソードをめぐる考察も、目指していたのはそれである。
 だが授業実践の記録と称されるものが、教材の解釈を語って終わってしまっていては、結局それが「何を教えるか」なのだと受け取られてしまいかねない。今回の推敲は、だから「どう教えるか」について論じたわけですらない。
 「何をしたか」の記録なのである。

2019年1月20日日曜日

Kはその時、何をしていたか 10 Kは何をしていたか

問①  このエピソードの意味は何か。
問②  Kは何のために「私」に声をかけたのか。


 ここまでの、問①「エピソードの意味」、問②「Kの行動の意図」についての考察結果を通観してみる。

 ①の仮説1 Kがこの晩既に自殺しようとしていたことを示す。
 ②の仮説1 自殺の準備として「私」眠りの深さを確かめようとした。


 ①の仮説2 物語を展開させるはたらきをする。
 ②の仮説2 Kの言葉通り、特別な意味はない(d)。

 ①の仮説3 自殺する際に襖を開けたKの心理を推測させる手掛かりを与える。
 ②の仮説3 「私」に対して心のつながりを求めている(cd)。

 ①の仮説4 Kの遺書が上野公園の散歩の夜に書かれていたことを示す。


 先述の通り、①②ともに仮説1は採らない。①については仮説23をいずれも認めたうえで、仮説4こそが最も重要な「意味」だと考えている。②については仮説3のような表現が適当だろうか。
以上、仮説1から4までの授業展開は、必ずしもこの順に展開するわけではない。最初の検討の段階で既に生徒たちの間では1以外の説も同時に検討されている。実際に筆者が授業で最初に4を知った時にも、その生徒は授業の最初期に1と4を合わせた形で提示してきたのだった。生徒の発言に応じて授業は形を変える。こちらで用意している様々な検討事項も、適宜提示するしかない。
 だが少なくとも仮説3「襖の象徴性」については、こちらから参照すべき記述を提示しない限り発想されないはずだし、4については生徒からの自主的な発想がなかったら誘導するしかない。
 その際に、仮説1の否定も、仮説2~4も、それぞれ「正解」であるかのように教えるつもりはない。解釈の一つの可能性として、生徒とテキストを「読む」のである。

 実は「近頃は熟睡ができるのかとかえって向こうから私に問うのです。」についてどう考えるべきかについては今のところ確信がない。
 これが最も整合的に解釈できるのは、Kが自殺の機会を得るために「私」の睡眠の状況を確かめているのだという解釈(仮説1)だが、それは先に述べたとおり、採らない。これは、単に懊悩のあまり眠れない自分の状況に対して「私」はどうなのだろうという素朴な疑問を口にしているのだという、つまりこれも、Kにとってはそれほど裏のある言葉ではないのに、「私」が殊更にそこに意味を見出してしまっているという解釈を仮説23ではしていた。
 だが、前の晩に遺書を書いたのだという仮説4の解釈を採るならば、その晩に自殺を決行しようとしていたとは考えなくとも、またその決行がいつになるにせよ、その可能性を視野に入れて隣室の状況が気になってきたのだとは考えられるかもしれない。

 上野公園の散歩のエピソードにおいて、Kが自己処決の「覚悟」をしていたこと確認することは、欠かしてはならない授業過程である。さらに四十三章の夜のエピソードは、右の解釈を採るならば、Kが自殺した後に「私」が(そして読者が)読むことになる手紙が、実は死の十日以上前の晩に既に書かれたものであることを示唆することで、お嬢さんとの婚約という「私」の裏切りがKを死に追いやったという、ありうべき誤解から読者を救うことが期待されているという役割を負ったものであることを確認することは重要な授業過程である。
 だが一方で、奥さんから婚約の件について聞かされることは、Kが自殺を決行するための契機として必須であり、あくまでこの晩の自殺決行の可能性をこのエピソードに見てはならないというのが筆者の主張である。
 そしてこの解釈は、小説中に直接的には描かれていない時間について読者が想像することの妥当性を試す。
 果たして「私」が目を覚ますまでKは何をしていたのか。
 これは自殺の直前にKが「私」の部屋との間を隔てる襖を開けて、「私」の顔を見下ろしていたであろう時間や、奥さんから「私」とお嬢さんとの婚約の話を聞いてからの「二日あまり」の時間のKについて想像することの必要性と同程度の必要性をもっているであろうか。それについて右にようにあえて想像することは妥当だろうか。
 その妥当性に納得できたとき、読者は、小説の中で直接的には描かれていない時間の存在を想像することが許されるのである。
 Kはその時、確かに生きていた。

Kはその時、何をしていたか 9 サインの数々

問①  このエピソードの意味は何か。
問②  Kは何のために「私」に声をかけたのか。


 この深夜の訪問が自殺の決行のための準備だという解釈を否定して、それでもKがこの時、遺書を書いていたのだという「真相」を漱石が想定していたことを受け入れるとしたら、他にはどんなサインが文中から見つかるだろうか。
 先に仮説3に伴う疑問点として保留した、宵の口に「迷惑そう」にしていたKがなぜ夜中には「私」に話しかけたくなったのか、またそのときの声が落ち着いていたという変化がなぜ生じたのか、という点について仮説4から考えてみる。
 この「落ち着き」については「覚悟」の宣言によるものであるとの解釈を先に示した。これは同時に、「覚悟」を実行に移すべく心を決めているからこその「落ち着き」なのだというa「Kはこの晩に自殺しようとしていた」説を採る論者も共有する解釈である。
 だがそれならば宵のうちから、Kの態度には相応の「落ち着き」が見え始めていてもいい。その変化の兆候を読者に示さないまま、夜中には「落ち着いていた」という変化の結果をいきなり提示するのは唐突である。むしろこの変化は、その間に何かあったと考えるべきであることを示している。
 Kが宵のうち「私」を疎ましく感じていたのは、「私」が感じている「勝利」や「得意」とは対照的に、「敗北」や「失意」のうちに置かれているからではない。一人で考えたいことがあったからだ。むろん昼間の「私」との会話の内容についてである。はからずも自らが口にしてしまった「覚悟」についてである。それは自分の恋心に決着をつけるなどという軽薄なものではない。自らを処決する「覚悟」である。それを心に秘めたKは「私」の世間話に気楽につきあうことなどできない。
 そうしたKが夜中には「落ち着いていた」のは、「覚悟」の証としての遺書を書き終えたからだ。だがそれはただちにそこに書かれたことを実行に移そうという差し迫った行動予定ではない。自己確認の証である。
 それを書き終えた今、Kには、その手紙を託すべき隣室の友人のことが気にかかる。彼は安らかに眠っているのだろうか。ふと思い立って襖を開け、声をかける。といって何を話すあてもない。
 このように考えると、問②については仮説3のとおり「私に対して心のつながりを求めている(cd)」というのが最も妥当だろうか。
 また四十八章では遺書について「手紙の内容は簡単でした」「ごくあっさりした文句」と描写されている。これらの形容から想像される遺書本文の印象はきわめて淡泊なものだ。それはこの時のKの「落ち着い」た声と符合しているようにも思える。Kは激情に流されることなく「必要なことはみんなひと口ずつ書いてある」手紙を書き終えたのである。
 自殺する「覚悟」を決めたことによってKの声が「落ち着いていた」のだという納得に比べて、Kは遺書を書き終えたからこそその声が「落ち着いていた」のだと考えるのは、相対的に強い納得が得られるとは思う。
 こうした「納得」は、繰り返すが「なぜKの声は落ち着いていたのか?」という疑問に対する「納得」というより、正確に言えば「作者はなぜKの声が落ち着いていたと書くのか?」という疑問に対する「納得」である。
 また遺書の記述「自分は薄志弱行でとうてい行く先の望みがないから、自殺する」が、上野公園でKが口にした「自分の弱い人間であるのが実際恥ずかしい」「ぼくはばかだ」と符合していることは明らかだ。だからこそKの自殺の動機はこのとき既にKの裡に準備されているのだと考えられるのだが、こうした類似性のさりげない提示もまた、この晩のうちにこの遺書が書かれたことを示すサインの一つだと考えるとさらに納得がいく。
 また四十八章で遺書について「お嬢さんの名前だけはどこにも見えません」と書いてあるのは、むろん「私」が考えるように「Kがわざと回避した」ということではなく、「私」がそう解釈したに過ぎない。ここでも、お嬢さんの名前が遺書に書いていなかったということだけが事実で、「Kがわざと回避した」は「私」の推測であるという区別を生徒に理解させなければならない。これもまたKの苦悩がお嬢さんへの恋によるものではなく自らの弱さによるものであることの証なのだが、遺書が書かれたのが婚約成立前であるとすれば、遺書にお嬢さんの名前がないことがわざわざ示されているのは、Kの自殺が「私」の裏切り――お嬢さんへの失恋などと無関係の「覚悟」に基づいたものであることを読者にさりげなく注意喚起しているのではないか。
 考えてみると、こうした様々なサインが、遺書がこの晩に書かれていたことを読者に知らせようとしているように思えてくる。
 だがそれでも読者がそれと気付くための符牒としては不充分である。実際にどれほどの読者がこうした解釈の可能性に気づいているのだろうか(筆者もまた自ら気付かなかった一人である)。しかもこうした解釈は、まずもって四十三章のKの訪問を自殺の決行のための偵察であると解釈すること(ab説)に付随して発想されたことは間違いない。そしてそれについて、筆者は否定的なのである。
 そしてこのわかりにくさ、気付きにくさが、仮説4を突飛なものと感じさせてしまう。なぜそんな無理矢理な解釈をしなければならないのか。生徒にもこのわかりにくさの理由を問うてみよう。

 問   仮説4はなぜこんなに読者にわかりにくいのか。


 なぜ読者が気付きにくいかというと、「こころ」の物語が「私」の視点からのみ語られているからである。そのようになら生徒もすぐに答えられる。
 さらに、「なぜこんなにわかりにくく書く必要があるのか。」と問うてみよう。これに答えられなければ、やはりこの解釈は徒にこねくりまわした突飛で不自然なものとみなされてしまうだろう。
 答えは、語り手である「私」に真相を悟られないようにするため、である。
 「こころ」のドラマは、こうした真相に「私」が気付かないことによって成立している。「私」とKの心のすれ違いこそが「こころ」という作品の核心である。
 だが「こころ」という物語はあくまで「私」という語り手によって語られなければならない。読者は「私」の認識を通してしか、何の情報を受け取ることもできない。読者にわかりやすいように伝えるとしたら、当然「私」にもその事はわかってしまう。それではドラマが成立しない。
 つまり漱石は物語の真相を、語り手の「私」には気付かれないように、それでいて読者には伝えなければならないという難題に挑んでいるのである。この二律背反の課題を、漱石は奇跡的な離れ業で乗り切っている。その精妙なバランス感覚は驚嘆すべきである。
 むろん、大学生当時の「私」には気付かなかったが、遺書を書いている「私」はその真相に気付いたことにすることもできる。だが「こころ/下」の語りは、実はほとんど物語渦中にある大学生の「私」の視点からしか語られていない。そのことによって「私」の不明を読者も共有することができているのである。それなのに十年後の「私」が真相を説明してしまったら、作品の論理は理に落ちてしまって、この精妙な離れ業は台無しになるだろう。
 遺書が四十三章で書かれていることは、わかりにくい必要があるのである。

2019年1月15日火曜日

Kはその時、何をしていたか 8 「墨の余りで書き添えたらしく見える」

問①  このエピソードの意味は何か。
問②  Kは何のために「私」に声をかけたのか。


 仮説4「Kの遺書は自殺の決行よりも2週間近く前の、上野公園の散歩の夜に既に書かれていた」という解釈を検討するにあたって問題になるのは、四十八章で遺書を見た際に「私」が「最も痛切に感じた」と語る「最後に墨の余りで書き添えたらしく見える、もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろうという意味の文句」という表現である。生徒もこの記述を巡って意見を交わしている。その様子が見られたら全体で問題を確認する。

 問   この記述についてどう考えるべきか。


 四十三章の時点でKが「もっと早く死ぬべきだのに」と書いたのだとすると、それが何を意味しているのかと考察を巡らせる生徒もいる。だがそうした発想は因果が逆転している。まず遺書を四十三章の時点で書いたと仮定し、そのうえでその時点で「もっと早く」とはいつのことかなどと考える必要があるのではなく、そもそもこの「文句」だけが自殺した「土曜の晩」に書かれていると考えるからこそ、それ以外の部分が四十三章の時点で遺書が書かれていたという解釈が発想されたのである。Kが遺書を書いていたという解釈を人為的に誘導したから、このように不自然に不必要な脇道に逸れただけである。転倒した本末を元に戻して議論を続ける。
 実は授業で最初にこの解釈を聞いたときには受け入れ難かった筆者が、その時ただちに反証として挙げたのは、この記述をだった。この「文句」はどうみても自殺の直前に書かれたものに違いあるまい。そしてそれは「最後に墨の余りで書き添えた」ものなのである。したがってこの遺書は、やはり自殺の直前に書かれたとしか考えられない、と反論した。生徒たちもこの記述を、仮説4を否定する根拠として指摘する。
 だが、考えているうち、否定するための根拠として挙げたこの形容こそが、この部分とそこまでの部分の書かれた日時の断絶を示すサインなのだとも考えられることに気付いた。つまり反証と考えられたものが、そのまま根拠にもなりうるのである。
 発想の転換のためには、どう考える必要があるか。ここでの要所は「墨の余りで書き添えたらしく見える」とは、「私」に「らしく見える」に過ぎないのだと気づくことである。つまり「墨の余りで書かれた」というのは、小説内において何ら事実ではないのである。「こころ」に書かれていることは、実は常に「私」の目を通して判断されたものに過ぎず、客観的なものだとは限らないというのが「こころ」読解の基本ルールであると繰り返していた筆者自身がそれを忘れていたのだった。
 この認識を生徒に理解させることはきわめて重要である。
 ここからわかる「事実」は、その文句とその前までの遺書の文面との間に、何らかの差異が認められるということだけである。つまり、それが前の部分に続けてすぐに書かれたものであることは、この記述からは何ら保証されていないのである。だとすればそこだけは自殺を決行した土曜の晩に書き加えられたものであって、その前の部分はもっと以前に書かれたものであっても構わないのである。

 問   「墨の余りで書き添えたらしく見える」とは具体的にはどういうことか。


 「事実」の具体的な様相を想像してみよう。

  ① それ以前の文章に比べて墨が薄い。墨がかすれている。
  ② この部分だけ余白が不自然に狭いなど、レイアウト上アンバランスである。
  ③ 他の部分が「礼」や「依頼」といった、宛先である「私」へ向けたことが明白である文章であるのに対し、この部分だけが独り言のような調子である。
  ④ そこまでが堅い文語調であるのに、ここだけが幾分崩れた口語調になっている。

 もちろん①を思い浮かべることは必須である。「墨の余りで書き添えたらしく見える」から想像される具体的状態は①である。だが②~④のような特徴がなければ、「私」がそれを「書き添えた」ものだと判断する理由がない。②も視覚的イメージとして想像されてもいい。③はある程度の分析的思考が必要である。④については授業者による解説が必要である。この遺書は巻紙に毛筆で書かれており、時代背景とKの性格から考えて「候文」で書かれていると考えられる。そしておそらくこの部分だけが言文一致体だったのだ(「三四郎」の中に〈母に言文一致の手紙を書いた〉という記述があるのは、それが正式ではないことを表している)。これはそう指摘しなければ生徒にはわかるはずがないので、授業者が、できれば「候文」の書簡を実例として示して指摘してしまう。
 だがこうした①②「外見」や③「内容」や④「文体」による差異によってこの文句が特別な位置にあることが読者に意識されるわけではない。この文句はそれよりむしろ「私の最も痛切に感じたのは」という反応に沿って読者に解釈される。つまりそこにKの心情/真情、Kの悲痛な心の叫びを読み取る、といったような情緒的な読みである。だから、この部分について授業で考察するにしても「Kはなぜこの文句を書いたのか」というような問いになる。例によって「この時のKの気持ちを考えてみよう」である。
 もちろんそれは考えるべきことである(特にKの自殺の動機を考える上で、この「文句」を書いた心理を勘案するのは非常に重要であり、そしてそれはかなり難問でもある)。だが同時に、こうした意味ありげな符牒は、この部分とそれ以前の文面が別な機会に書かれたものであるという「真相」を読者に知らせようと作者が置いたサインなのだとも考えられるのである。
 これもまた冒頭で述べた、登場人物の心理に終止せずに、それが語られる物語上の「意味」を捉える発想である。

2019年1月14日月曜日

『ディストピア パンドラの少女』-こういうゾンビ映画を観たい

 『28日後』『ワールド・ウォーZ』あたりと同じ、そういう病気の感染者ということなので、死者が蘇るいわゆるゾンビではないが、ビジュアルも行動原理も「噛まれたらうつる」ルールもすっかりゾンビなので一括して「ゾンビ物」ということにしておく。かつ「走るゾンビ」でもある。
 そこに、感染者でもあり、人間の意識も保ったままの新種としての子供たちという設定は『アイ・アム・ア・ヒーロー』ではないか。感染者たちが群体を作って種をばらまくという設定まで。
 イギリスの新人監督の劇場デビュー作だというのだが、このただ者じゃなさは、さすが『SHERLOCK』の中の一編を録っているというだけある。演出も緊密で絵作りもうまい。
 ゾンビの侵入が知らされ、窓の外の遠くに見える人影がこちらに向かって走ってくると、そのまま窓ガラスにぶつかる、などという演出は実に気が利いている。あの人影はそうかなあ、と思っていると、みるみるそうなる。期待通りであってほしいと思いつつ、怖い。
 昼間は休止状態になっているゾンビの群れの間を、音を立てずに通り抜ける緊迫感なども大いに楽しい。
 全体として『28日後』ほどではないものの、感触としてはよく似た、楽しいゾンビ映画だった。

2019年1月13日日曜日

Kはその時、何をしていたか 7 第4の仮説

問①  このエピソードの意味は何か。
問②  Kは何のために「私」に声をかけたのか。


 筆者に、このエピソードの解釈についてのまったく新しい視点を示してくれたのはある年の授業における生徒の発言である(しかも、はからずも同じ年に別のクラスの生徒からそれぞれ同じ見解が提出されたのだった)。
 彼らは、Kはこの夜、「私」に声をかけるまで遺書を書いていたのだ、と言うのである。もちろんそれは四十八章で「私」が読むことになる遺書そのものである。今回の連載の最初の回に示した解釈である。
 筆者にとってこの解釈はまったく盲点であった。これは、そのように小説中に明示されてはいないから、確かにひとつの「解釈」である。管見によればこうした解釈は諸氏の論考で目にしたことがない。だが、この晩にでもKは自殺を実行に移す可能性があったと考える先のa「今晩自殺するつもりで、隣室の友人の睡眠の状態を確かめようとした」説を採る論者は、明らかにそのような言及をしていないというだけで、当然この晩のうちに遺書も書かれていると考えているのだろうか。そしてそれは次の週の土曜日の晩に発見されることになるその遺書そのもののことなのだろうか。それはわざわざ言明するまでもなく自明のことなのだろうか。それとも、この晩には遺書を書かずに自殺しようとしたのであり、遺書はやはり自殺を決行した土曜の晩に書かれたものだと考えているのだろうか。
 あるいはb説のように、いずれ実行する自殺のために様子をうかがっただけだと考えると、遺書はまだ書かれていなくともかまわないが、それが自殺の準備の一環である以上、この晩に遺書だけは書かれている可能性もやはりあるのである。
 一方、この晩にKが自殺しようとしていたとは考えない筆者には、当然、実際に決行された「土曜の晩」に遺書が書かれたと、特に考えるまでもなく自然に思われていた。だから最初にこの解釈を生徒が提示したときには、それが突飛なものに聞こえた。しかもそれはただaを補強するために考えられた強引な解釈に過ぎないように思われ、賛成はできない、と答えた。
 だが、その後考えているうちに、次第に別の可能性に思い至ってこの解釈について再検討することになった。

 さて、ここから先の考察は、授業という場で、生徒と共に進めていこう。
 筆者の授業では図らずも仮説1の検討の時点で既に生徒からこの解釈が提示されたのだが、そうでない場合、いわば人為的にこの新しい解釈の可能性に生徒を誘導しなければならない。そのためには、どのような問いを投げかけたらいいだろか。
 今回の実践では、仮説3への疑問を提示した後、考察を先に進めるというタイミングで次のように問うてみた。

 問   「私」に声をかけるまでKは何をしていたか。


 「何をしていたか」という問いに対して、生徒は何を考えるか。まずは本文を見る。「便所へ行った」というのがKの言明である。だがこれが本当かどうかは疑わしいし、本当だとしても、宵の口から声をかけるまでの間、ではない。声をかける直前であるに過ぎない。さらに想像を促すために次の問いを投げる。

 問   「私」に声をかけるまでKは起きていたか。起きていたとすると、そのように考えられる根拠は何か。


 読者は、Kが眠りから覚めて便所へ行き、そのついでに「私」に声をかけたのだとは考えない。Kはその時まで起きていたのだと感じられる。なぜか。
 「Kはいつでも遅くまで起きている男でした。」を根拠として挙げる生徒もいる。もちろんそれも傍証の一つだが、それよりも注目すべきは次のような描写だ。

 見ると、間の襖が二尺ばかり開いて、そこにKの黒い影が立っています。そうして彼の室(へや)には宵のとおりまだ灯火(あかり)がついているのです。

 ここでは、「Kの黒い影」ばかりが不気味な印象で読者の視線を捉えるが、ふと視線を逸らせてみればKの室内には「灯火がついている」。「灯火」は言わば「黒い影」の背景に過ぎないように見える。「Kの黒い影」は「黒い影法師のようなK」と繰り返されて読者の注目を誘導するが、一方「灯火」も「洋灯(ランプ)」と繰り返される。
 例えばこれが「間の襖が二尺ばかり開いて、そこに彼の部屋の灯りを背に、Kの黒い影が立っています。」などといった表現ならば焦点はあくまで「黒い影」に当たっている。だがわざわざ「そうして彼の室には宵のとおりまだ灯火がついている」と言及されることの意味を考えると、にわかにそれが、そこでKが「宵」から過ごした時間を暗示しているとも思えてくる。Kは暗闇で沈思黙考していたのではなく、ランプの下で何事かしていたのである。Kは何をしてそれまで起きていたのか?
 ここまで誘導すれば、生徒の中にも「遺書を書いていた」という答えが浮かぶ。可能性と言うだけなら平生の通り学問をしていても、ただ考え事をしていてもかまわない。だがこの場面で「Kは何をしていたか」という問いに対する答えとして、答えるに値すると感じられる答えは「遺書を書いていた」しかない。
 だがこの思いつきは、誘導に従って発せられたものであり、まだそれがどのような意味を持つかについて、答えた生徒自身も何らかの確信を得ているわけではない。

 問   Kがこのとき遺書を書いていたという解釈について検討せよ。


 この解釈を積極的に認めるべきか、否か。またそこから派生してどのようなことが考えられるか。
 そもそもこの「遺書」とは何のことか。
 無論、まさしくあの「手紙」のことである。まず生徒同士の検討の中で、ここでいう「遺書」が、物語の背後で人知れず反故にされ破り捨てられた下書きなどのことではなく、四十八章で読者の前に提示されるあの遺書のことだと確認される必要がある。
 つまりこのアイデアは、問①の「エピソードの意味」を次のように考えることを意味しているのである。

 ①の仮説4 Kの遺書が上野公園の散歩の夜に書かれていたことを示す。


 この解釈の妥当性について考える重要な論点は、物語に直截描かれていない「事実」をどこまで認めるか、という問題である。すなわちここでは、「私」が目を覚ますまで、つまりKが襖を開けて「私」に声をかけるまでの間、Kは何をしていたのか、という想像である。語り手の「私」から見ればKが襖を開けてこちらに声をかけるまでの時間は存在しない。これは「私」だけでなく読者にとってもそうなのである。その時間のことをどこまで考える必要があるか。
 一般に、物語にとってのあらゆる展開の可能性の中で、直接描かれていない場面・時間は、とりあえずまだ存在はしていない。そしてそれについて想像しなければならない必要が常にあるわけではない。登場人物は、観客の目の前に登場する直前にスイッチを入れられて舞台に登場するロボットのようなものに過ぎない、とも言える。
 だが物語によっては、書かれていない時間・場所で起きた出来事について想像することが読者に要請される場合もある。推理小説などは語られている場面の裏で何が起こっていたかという想像こそが物語享受の作法の核心である。そうしたジャンル的特性に限らず、書かれていない時間について読者に想像を促す力学的必然性をもった物語は、それだけ豊かなものになりうるはずだ(もっとも、推理小説では結局物語内で語られてしまうのだが)。
 このエピソードにおいて、この想像は要請されているのだろうか。Kの「その時間」は物語にとって存在したのだろうか。
 そうした想像の要請を受け入れるためには何が必要か。何をもってそれを小説世界にとっての「事実」と見做すか。
 作者がそれを想定していたと考えるためには、わざわざ言及する必要のないほど当然と思われる「常識」以外は、その解釈につながるサインを文中に書き込んで読者に提示していることを納得する必要がある。
 文中で否定されていない解釈、というだけなら、相当程度の突飛な解釈でも明らかに文中で否定されるわけではないし、整合的に成立するというだけでも解釈の幅はかなり広く確保される。
 だが小説は現実ではないのだから、読者が解釈すべき物語世界の限界については、作者が文中に何らかのサインを書き込んでいることによって保証されると考えるべきなのである。この「遺書は上野公園の散歩の晩に書かれたものだ」という、文中で明示されていない「真相」を読者に伝えるべく漱石が残したサインが見つからないことには、こうした解釈を採る必然性はない(いわゆる「二次創作」をするのでなければ)。
 Kが遺書を書いていたという、小説に書かれていない時間を読者に想像させるべく作者が書き込んだサインは見つかるのか。

2019年1月12日土曜日

Kはその時、何をしていたか 6 第3の仮説

問①  このエピソードの意味は何か。
問②  Kは何のために「私」に声をかけたのか。


 仮説2では説明できない、四十八章の自殺の発見の場面とこのエピソードのつながりについて考えよう。四十八章でこのエピソードを想起することを読者に要求する漱石の意図について考えるために、まずは次のように問う。

 問   四十八章の場面とこのエピソードの共通点は何か。


 四十八章との関連において最も重要な共通点はKが襖を開けたことである。四十三章のエピソードではKは声をかけて「私」を起こしたり、話しかけたりしている。そのためには襖を開けるのは当然のようにも思われるが、話しかけるだけなら襖を開ける必要はない。実際に三十八章では「私はまだ寝ないのかと襖越しに聞」き、その後で襖越しに「おい」というやりとりが繰り返される。
 また四十八章ではおそらくKは「私」に声をかけてなどいないだろう。したがって「話しかけた」ことよりも重要な点はKが「襖を開けた」ことである。
 このことの意味について考察を進める上で、まず次のようないくつかの記述を生徒に読ませる。

 私は書物を読むのも散歩に出るのも厭だったので、ただ漠然と火鉢の縁に肱を載せてじっと顎を支えたなり考えていました。隣の室にいるKも一向音を立てませんでした。双方ともいるのだかいないのだか分らないくらい静かでした。もっともこういう事は、二人の間柄として別に珍しくも何ともなかったのですから、私は別段それを気にも留めませんでした。/十時頃になって、Kは不意に仕切りの襖を開けて私と顔を見合せました。彼は敷居の上に立ったまま、私に何を考えていると聞きました。(三十五章)


 私はKが再び仕切りの襖を開けて向うから突進してきてくれれば好いと思いました。私にいわせれば、先刻はまるで不意撃に会ったも同じでした。私にはKに応ずる準備も何もなかったのです。私は午前に失ったものを、今度は取り戻そうという下心を持っていました。それで時々眼を上げて、を眺めました。しかしそのはいつまで経っても開きません。そうしてKは永久に静かなのです。 その内私の頭は段々この静かさに掻き乱されるようになって来ました。Kは今襖の向うで何を考えているだろうと思うと、それが気になって堪らないのです。不断もこんな風にお互いが仕切り一枚を間に置いて黙り合っている場合は始終あったのですが、私はKが静かであればあるほど、彼の存在を忘れるのが普通の状態だったのですから、その時の私はよほど調子が狂っていたものと見なければなりません。それでいて私はこっちから進んでを開ける事ができなかったのです。(三十七章)


 私は遅くなるまで暗いなかで考えていました。私は突然Kが今隣りの室で何をしているだろうと思い出しました。私は半ば無意識においと声を掛けました。すると向うでもおいと返事をしました。Kもまだ起きていたのです。私はまだ寝ないのかと襖ごしに聞きました。もう寝るという簡単な挨拶がありました。何をしているのだと私は重ねて問いました。今度はKの答えがありません。(略)私はまた半ば無意識な状態で、おいとKに声を掛けました。Kも以前と同じような調子で、おいと答えました。私は今朝彼から聞いた事について、もっと詳しい話をしたいが、彼の都合はどうだと、とうとうこっちから切り出しました。私は無論襖ごしにそんな談話を交換する気はなかったのですが、Kの返答だけは即坐に得られる事と考えたのです。ところがKは先刻から二度おいと呼ばれて、二度おいと答えたような素直な調子で、今度は応じません。(三十八章)

 これらの章が教科書に収録されていれば好都合だが、なければプリントして配るか、授業者が朗読してもいい。
 三十五章はKがお嬢さんへの恋心を告白する場面であり、その後は言うまでもなく「私」は疑心暗鬼の中でKの心を推し量ることに汲々とする。

 問   右の記述から、「襖」について何が考えられるか。


 甚だ曖昧な問いだが、このような問い方でも、話し合わせれば生徒の中では「襖」が「二人の心の壁(距離・隔たり…)」を表している、といった意見がたちまち共有される。さらに、こういうの何て言うの? とでも聞けば、「象徴」とつぶやく声が聞こえる(これはそこまでの授業のどこかで「象徴」について学習していれば、である。一年次の「羅生門」における下人の頬の「にきび」や「山月記」における「虎」「月」、あるいは言語論などの評論文において「象徴」という概念について考察したことがあれば、この「襖」がそのようなものであることに生徒は思い至る)。

 問   「象徴」とは何か。


 筆者の授業では、これは復習、確認である。象徴とは、ある具体物がある抽象概念を表していることである。この場合は「襖(具体物)」が「心の距離(抽象概念)」を表している「象徴」だと確認する。

 問   ここからこの場面についてどのように考えられるか。


 襖を象徴として見ると、襖を開けるという行為はすなわち、Kがこのとき「私」に心のつながりを求めていたことを示すということになる。つまり、この深夜の訪問はKから「私」への不器用なアプローチだということになる。
 この場合、②についてはcの「話をしたかった」が近いか。そうなると先の、何を話したかったのか、またなぜ話すのをやめたのか、という疑問が浮上してくる。だがそれも、いわばcとdの両方ででもあるように、明確に何かを話したかったわけではなく、ただ話しかけたかっただけなのだと考えてもいい。「覚悟」という言葉を口にして、昼間の逡巡に一定のけりをつけたKが、すぐその夜に再開したい話などあるのだろうか。むしろ明確な用件などなく、それが「私」の目からはKの行動が不気味なものとして映る意思疎通の齟齬が、基本的な「こころ」のテーマを語っている、と考えればいいのではないか。つまりKの「意図」などというものは、このエピソード自体が「意味」ありげであることから要請される、いわば「幻」なのではないか。
 そしてこのように考えることは四十八章でKが自殺する前になぜ襖を開けたままにしたのかを考える参考になる。

 ①の仮説3 「襖」という共通性から、自殺する際に襖を開けたKの心理を推測させる手掛かりを与える。
 ②の仮説3 「私」に対して心のつながりを求めている(cd)。


 これでこの問題に結論が出たことになるだろうか。問いかけてから一呼吸置いてまたしても、ならない、と宣言する。

 問   右の結論では充分でないと考えられる点はどこか。


 二点挙げる。
 「上野から帰った晩」に「私」は「Kが室へ引き上げたあとを追いかけて、彼の机の傍に座り込み」「取り留めもない世間話をわざと彼に仕向け」る。するとKは「迷惑そう」にしている。宵の口には「私」を疎んずるKが、なぜ夜中には「私」に話しかけたくなったのか。またなぜそのときの声は落ち着いていたのか。この変化はなぜ生じたのか。
 また、翌朝登校途上で「私」がKに対して、「何か話すつもりではなかったのかと念を押してみ」ると、Kは「そうではないと強い調子で言い切」る。話がしたかった(c)とすると、この否定は何か。あるいは特に話題が想定されていたわけではない(cd)とすれば「そうではない」と否定することに矛盾はないが、それにしても「強い調子で」という形容をする理由はやはり説明がつかない。

 この、後者の疑問点については次のように考えることができる。
 前日に上野公園でKが口にした「覚悟」という言葉は、「私」にとっては「お嬢さんを諦める覚悟」のことである。そうKに言わしめた「私」は「勝利」「得意」を感じている。だが一方でそこに「彼の調子は独言のようでした。また夢の中の言葉のようでした。」という違和感も感じている。「私」が「Kが室へ引き上げたあとを追い懸けて、彼の机の傍に坐り込み」「取り留めもない世間話をわざと彼に仕向け」るのは、勝利を確信した優越感を味わいたいというだけではなく、そこにまじる微かな違和感から、なおもKの意志を確かめずにはいられない不安が無意識に影を落としているからだと考えられる。そこにKの不可解な行動があるのだから、まだ「何か話すつもりではなかったのか」と疑うのはもっともなことである。「私」は不安にかられ、これが「覚悟」の意味について考え直すよう「私」に促す。
 だがKにとって、昼間口にした「覚悟」は「薄志弱行で到底行く先の望みはない」自分への決着のつけ方としての自己処決の「覚悟」である。Kにとって「覚悟」とは、その言葉にふさわしい重みをもっているのである。この言葉の重みが「私」の疑いに対するKの否定の強さに表れているのではないか。
 これを作者の視点から言えば、否定の強さによって、追い詰められたKの心理と、この言葉の重みがわかっていない「私」のすれ違いを読者に伝えようとしているということになる。
 また、次のように考えることもできる。
 「そうではない」は「私」の「あの事件について何か話すつもりではなかったのか」という問いかけに対する返答である。「私」はこの問いかけを具体的にどのような表現でKに投げかけたのだろうか。もしもそれが「お前は昨夜、まだお嬢さんのことを話すつもりだったんじゃないのか」というように問われたとすれば、Kは明確に「そうではない」と言うはずである。確かにKが前日に話したかったのは「そう(お嬢さんのこと)ではない」。「あの事件」とは「私」にとってはお嬢さんの話なのだと認識されている。だがKが話したかったのは自らの信仰上の迷い、己の弱さのことだ。この違いは生徒にはわかりにくいだろうが、明確に区別されるものであることを確認する必要がある。そしてこの食い違いがKの強い否定となって表れているのである。
 前者の疑問「Kの声の落ち着き」については第四の仮説とともに論ずる。

2019年1月11日金曜日

Kはその時、何をしていたか 5 第2の仮説

問①  このエピソードの意味は何か。
問②  Kは何のために「私」に声をかけたのか。


 ここであえてd説の可能性について考えようと提案する。Kの行為に特別な意味がないと考えて、なおこのエピソードが語られる必要を想定できるだろうか。
 まずは次のように問う。

 問   このエピソードの前後で何が変化したか。


 Kの口にした「覚悟」の意味についての「私」の解釈が変わったことは生徒もすぐに指摘する。

 問   この変化から、このエピソードの「意味」を説明せよ。


 この晩のKの意図をはかりかねた「私」は翌日Kに問い質す。その際のKの態度から、上野公園の散歩の際にKが口にした「覚悟」を、当初の「お嬢さんを諦める『覚悟』」とは反対の「お嬢さんに進んでいく『覚悟』」であると思い込んでしまった「私」は、焦りから奥さんに談判を切り出す。こうした展開の導因としてこのKの謎めいた行動があるのだから、このエピソードは、Kの心理が「私」にとって謎であることによって「私」の疑心暗鬼を誘い、「私」に悲劇的とも言える行動を起こさせる誘因となる、といった、物語を展開させる推進力となる「機能」があるのである。こうした「機能」を、このエピソードの「意味」だということも可能だ。
 こうした①「エピソードの意味」に整合的な②はd「Kの言葉通り、特別な意味はない。」である。Kには特別な意図はないのに、「私」が考えすぎてしまっているのだという解釈は、心のすれ違いを描いた「こころ」という作品の基本的な構図にふさわしい。Aの「Kの声が落ち着いていた」ことも、「特別な意味がない」ならば当然だし、Bについても「意味がない」ならば考える必要がない。

 ①の仮説2 物語を展開させるはたらきをする。
 ②の仮説2 Kの言葉通り、特別な意味はない。


 これでこの問題に結論が出たことになるだろうか。問いかけてから一呼吸置いて、ならない、と宣言する。

 問   右の結論では充分でないと考えられる点はどこか。


 これではこのエピソードの意味がこのエピソードの前後で完結してしまって、3の四十八章のKの自殺と関連させて解釈しなければならない、という視点がすっぽり抜け落ちてしまっている。何のために四十八章でこのエピソードを想起させたのかわからない。
 ただこれは仮説2を否定するものではない。少なくとも①については、このエピソードがそのような「意味」を持っていることは否定できない。ただ、充分ではない、のである。

2019年1月10日木曜日

『リセット』-あまりに期待外れ

 人間消失物のSSSで、監督は『マシニスト』のブラッド・アンダーソンだというので借りてみたのだが、これは失敗。先にネットで評判を確認しておけばよかった。
 部分的には、絵的にも演出的にも、充分観られるレベルだと思ったのだが、観ていても楽しくならない。
 影もしくは暗闇が迫ってくると人間が消失してしまうのだが、見せ方がワンパターンで工夫がない。主人公たちがなぜ助かっていて、それでも消えてしまうときにはどうして消えてしまうのかの法則がわからない。残った数名の行動も不自然すぎて感情移入できない。
 DVD付録のスタッフインタビューではしきりと「深い映画」的な自己評価なのだが、到底それほどとは思えず、この印象は最近では『モンスターズ 新種襲来』のメイキングの印象とあまりに似ている。宗教的な暗示などを読み取ると面白いのだとか、『モンスターズ』ならば戦争の愚かしさを描いているのだとか、まずホラーとか怪獣物とか、本筋の物語として面白いと思えなければ、それ以外のところで勝負してどうする? と思えてしまう。

2019年1月8日火曜日

Kはその時、何をしていたか 4 仮説1に対する疑義

問①  このエピソードの意味は何か。
問②  Kは何のために「私」に声をかけたのか。


 話し合いの中で、反対する者の意見を取り上げるのは無論のこと、敢えて仮説1(「自殺の準備」説)に対する反論を考えさせるのも意味がある。

 問   仮説1に根拠を挙げて反論せよ。


 まずは、この晩から実際にKの自殺が決行されるまでの十日あまりの空白をどう考えればいいのか、という点である。この間、Kの自殺の意志はどうなっていたのか。Kがこれ以降の数日間に、たびたび隣室の「私」の眠りの深さをうかがっていたという様子もない。名を呼んだこの晩に「私」が目を覚ましたというのに、遂に自殺を決行した土曜日の晩には結局隣室で、しかも襖を開けて事に及んだのでは、この「偵察」が無意味になってしまう。
 そもそも、この晩にでも自殺しようと考えている者が、わざわざ襖を開けて、隣室で眠っている者の名を呼ぶのは不自然である。襖を閉めたままでも確認はできる(三十八章では「私」とKは襖越しに会話を交わしている)。
 この反論に対しては、Kの自殺の決行が、「私」が目を覚ますかどうかに拠っていること自体に、Kの迷いを見る解釈が新たに提出される。つまり、目を覚まさなかったら決行していたが、むしろKは「私」が目を覚ますことで決行を延期することを(つまり「私」に止めてもらうことを)どこかで望んでいた、というのである。
 だがこの解釈は「覚悟」という言葉の強さと、先のA、Kの声が「普段よりもかえって落ち着いていた」という形容との間で不整合を生ずる。
 そこで解釈に微妙な修正を加えて「いずれ自殺するための準備として、まずは隣人の睡眠状態を確かめた」という解釈を提示する者が現れる。これならばこの夜の訪問が自殺と関係のあるエピソードでありうるし、訪問がこの晩のみのものだった理由もつく。Kは「私」が簡単に目を覚ますことを確認して、しばらくは決行を延期したのだ。翌朝の「近頃は熟睡ができるのか」とかえって向こうから問う意味ありげなやりとりとも符合する。
 ただしこの解釈を支持するならば、もしも「私」が目を覚まさなかったらKはこの晩のうちにでも自殺を決行していたのだ、という魅力的な想像を諦めることになる。
 いずれにせよ、Kが「私」の睡眠の深さを、自殺の完遂のために必要な条件だと考えていたとすると、実際にKが自殺した晩にKが襖を開けたままにしている理由がわからない。また、わざわざ熟睡の程度を確認してまで、それが障害になるかもしれないと考えるくらいなら、そもそも「私」の寝ている隣室で自殺などしなければいいのである。
 つまり、このエピソードを「自殺」に関連させて解釈するだけでなく、むしろ四十八章でKがなぜ襖を開けたまま自殺したのかという問題を、四十三章の解釈と関連させて考えなければならないのである。そのとき、四十三章で襖を開けて「私」の名を呼ぶKの心理を「隣室の友人の眠りの深さを確かめた」ものだと解釈することの妥当性が問われる。
 仮説1「自殺の準備」説に対する疑義は、この段階では以上のように詳論しなくてもかまわない。生徒の意見も、仮説1しか挙がらないわけではない。議論の展開の頃合いをみて、問②の解として例えば以下のように選択肢を提示する。

a 今晩自殺するつもりで、隣室の友人の睡眠の状態を確かめようとした。
b いずれ自殺をするつもりで、隣室の友人の睡眠の状態を確かめようとした。
c 何らかの話をしたかった(が話し出せずにやめた)。
d Kの言葉通り、特別な意味はない。

 選択肢を整理して、一度、どれを支持するか全員に挙手などで聞いてみても面白い。その上でそれぞれの説について、賛否の根拠を挙げて話し合う。
 cのような意見も生徒から挙がる。これも厳密には「私に何か言いたかった」と「私から何か聞きたかった」と分かれるのだが、abのように分けずに「話したかった」とまとめてしまってもいい(分けてもいい)。cについては、では何を話したかったのか、そしてなぜ話すのをやめたのか、といった当然の疑問に答える必要がある。
 dという選択肢も今後の授業展開のために挙げておく。そもそも皆がdに納得できないからこそ、こうした授業展開が可能なのだが、といってdの解釈が否定されているわけではない。他の選択肢について、明確に納得しがたい理由が挙がるのなら、やはりdを認め、その上でこのエピソードの「意味」を考えるという方向もある。
 だがやはり生徒の支持はabに集まるし、議論はabをめぐって行われるだろう。実際に「こころ」論者の多くもaかbを、あまり明確には区別せずに支持しているように思われる。
 だがabについての筆者の見解を言えば、冒頭に述べたとおり筆者はこれを支持していない。筆者も「覚悟」を「自己処決の覚悟」と解釈しているが、だからといってKがこの晩にそれを実行に移そうとしていたとは考えない。右に挙げたような疑問が解消されないという理由もあるが、その最大の理由は、この段階でKが自殺しようとしていたと考えるのは、物語がこの後、お嬢さんとの婚約の事実を知ってからKが自殺するという展開にいたるドラマツルギーと整合しないと考えるからである。Kがこの晩すでに自殺を実行に移そうとしていたのだと考えることは、その後の「私」の裏切りにいたる物語の展開の意味を無効にしてしまう。
 だからといって、それはKの自殺の動機を、友人の裏切りによる失恋だと想定しているということでは毛頭ない。Kの自殺の基本的な動機は、上野公園でKの口から語られる自らの「弱さ」への絶望だろうし、だからKがこの時点で「自殺の覚悟」を口にする必然性はある。ただ、Kがこの晩にそれを実行に移そうとしていたと考えるのは物語の因果律に則していない。これではKの自殺は単に「現実と理想の衝突」ということになってしまう。だがそうでないことは、教科書には収録されていない五十三章に「それ(「現実と理想の衝突」)でもまだ不充分でした」と明言されている。Kの自殺は「たった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に」決行されたものだと考えなければならない。つまり自殺が決行された土曜日に初めてその条件が整ったのである。したがって、この晩にKが自殺しようとしていた(a)と考えるのは物語の論理からいって無理である。
 それでは、これが「覚悟」=「自己処決の覚悟」という言葉がKの口から語られた晩のエピソードであるという展開上の必然をどう考えればいいのか。
 確かに、Kの声が「落ち着いていた」のは、Kが自身の懊悩の決着の行方について、〈覚悟〉を宣言することで(あるいは自覚することで)、今現在の迷いにとりあえず決着をつけたことを意味しているのだと考えられる。
 ならばそのまま、Kはこの晩にでも自殺をしようとしていたのだと考えるべきだろうか。そうではない。「覚悟」とは、自己矛盾にけりを付けるために自己処決という手段を胸に秘めているという自覚を語った言葉であって、ただちに実行するつもりだ、と言っているわけではない。ただちに実行に移す「決意」や条件が整い次第実行に移す「予定」ではない。Kはこの時点ではまだそれを実行するに至る契機を得ていないのである。
 「覚悟」はこの日のうちにKの中で確認されている。だがそれを決行するには、Kが奥さんから「私」とお嬢さんとの婚約の件を聞き、なおかつその後「二日あまり」沈黙のまま過ごすことが契機として必要なのである(この「二日あまり」の重要性については別稿にゆずる)。
 ではb説はどうか。Kが襖を開けて声をかけるのは、隣室の友人の眠りの深さを確かめるためであり、それはやがて実行に移すつもりの自殺の障害の有無を確認するためである、という解釈は、先に挙げた反論にもまして、何より理に落ちすぎていて、かえってこの晩のKの「心理」として腑に落ちない。それこそ「この時のKの気持ちを考えてみよう」とでも言いたくなる。
 ではcdの両説のいずれを採るか。いずれも、積極的に支持することが難しいのは、それらの解釈が魅力的でないという以上に、それではこのエピソードの意味が、結局はっきりしないからである。

2019年1月6日日曜日

Kはその時、何をしていたか 3 第1の仮説

問① このエピソードの意味は何か。

問② Kは何のために「私」に声をかけたのか。


 引き続きKの意図についてしばらく話し合いをさせてから聞いてみると、冒頭に述べたように「自殺の準備として隣室の友人の眠りの深さを確かめようとした」という意見が生徒の間では大勢を占める。これは謎めいた行動の「意味」としてふさわしい解釈であり、かつそのまま「エピソードの意味」としても納得できる。

①の仮説1 Kがこの晩既に自殺しようとしていたことを示す。
②の仮説1 自殺の準備として「私」の眠りの深さを確かめようとした。


 注意すべきことは、四十三章を読み進めている時点では、この解釈が生ずることはないということだ。この解釈が可能となるためには、生徒が既にKの自殺が決行される四十八章までを読んでいることが前提で、さらに先に授業展開の中で、その日の昼間、上野公園での会話の中でKが口にした「覚悟」が自己処決=自殺の「覚悟」であるという認識が教室内で共有されている必要がある。それを認めなければ、この解釈は発想されない。
 そうした前提があった上で、この解釈が支持される大きな理由は、次の二点と整合するからである。

A 「彼の声は普段よりもかえって落ち着いていたくらいでした」という形容
B 翌朝「私」に対してKが「近頃は熟睡できるのか」と問う


 この二点はKの意図が不明であることとあわせて、にわかには位置づけるべき文脈の見当がつかず、宙に浮いているいわば「ノイズ」となって、このエピソードの意味をにわかにはわからなくさせている。
 さらに一点、考慮すべき重要な点がある。四十八章のKが自殺をした晩の描写中にある次のような記述である。

C 見ると、いつも立て切ってあるKと私の室との仕切の襖が、この間の晩と同じくらい開いています。けれどもこの間のように、Kの黒い姿はそこには立っていません。


 ここでいう「この間の晩」が問題の四十三章のエピソードを指していることは明らかである。したがって、このエピソードの「意味」については、四十八章のKの自殺と関連させて解釈しなければならない。いわば、四十三章のエピソードは、四十八章で回収される伏線として置かれているということになる。
 こうして「私」の眠りの深さをはかって自殺を決行する機会をKがうかがっていることを示しているのだ、という解釈が生まれる。
 Bの「近頃は熟睡ができるのか」は「私」の眠りの深さを知りたいことをそのまま示しているし、Aについても、自殺の「覚悟」ができているゆえの「落ち着」きなのだと考えればいい。
 そしてそう考える読者は、次のような可能性に思い至って慄然とする。もしも「私」がKの呼びかけに対して目を覚まさなかったら、この晩のうちにでもKは死んでしまったかもしれないのである。この想像に伴う戦慄は確かに魅力的である。

 ここまでの議論は、むろん根拠を挙げての意見の応酬によって徐々に明らかになることがらである。ABC三点はいずれも、生徒が根拠として指摘する。
 問題はこの解釈で生ずる不都合である。仮説1は論者の中でも定説だし、実際に多くの生徒の支持を集める。だが反対する者がいないわけではない。筆者もまた冒頭に述べたようにこの解釈に首肯しない一人である。

Kはその時、何をしていたか 2 「エピソードの意味」と登場人物の心理

私はほどなく穏やかな眠りに落ちました。しかし突然私の名を呼ぶ声で眼を覚ましました。見ると、間の襖が二尺ばかり開いて、そこにKの黒い影が立っています。

 「こころ」第三部「下」の四十三章の深夜のエピソードにおけるKの行動を「自殺の準備として隣室の友人の眠りの深さを確かめようとしたもの」だとする解釈は、多くの論者に支持されていると言っていいと思う。生徒に考えさせると、やはり同様に考える者は多い。だが筆者はこの解釈に首肯しない。
 本稿はこのエピソードを扱う具体的な授業の展開についての案を示し、その中でこのエピソードの「意味」を論ずる。
 このエピソードは「こころ」を授業で扱う上で避けて通れない。このエピソードはどうみても「意味」ありげであり、それは何かしら、「こころ」という小説を読む上で看過することのできない重要な「意味」であるように感ずる。このKの謎めいた行動について、読者はある種の納得を必要とする。このエピソードは何のために挿入されているか。そこでまずストレートにこう問うてみる。

問① このエピソードの意味は何か。


 「エピソードの意味」という問いの趣旨は、それだけではむろん生徒には伝わらない。考えたいのは、この謎めいたエピソードをどう読み解いたらいいのか、である。そこでなぜこのエピソードが語られる必要があるのか、読者はこのエピソードからどんな情報を読み取るべきなのか、など、必要な言い換えをして問いの趣旨を理解させる。
 作品の解釈は原則的に、作品内のテキストのすべての情報に基づいて成立する。「完全な」解釈にとって、そこに整合的に組み込めない情報は存在しない。だから原理的にはすべての記述、表現、展開が腑に落ちるものでなければならない。「特別な意味がない」という「意味」ですら、とにかく確定されなければならない。それなのにこのエピソードは何のために挿入されているかがにわかにはわからない。だから読者はこのエピソードの「意味」について考察すべきだと感じる。
 だがこういう時往々にして授業者はKの「心理」を問うてしまいがちである。「この時のKの気持ちを考えてみよう」である。そこまで情緒的に流れないとしても、Kが何のために「私」に声をかけたのか、という「意図・思考」を問うことには充分な必然性があるように感じられる。このエピソードが「意味」ありげに感じられるのも、何よりもまずKの感情や思考、つまり「心理」がわからない、と感じるからである。
 ここでのKの心理はむろん「わかる」べきである。同時にそれは「このエピソードの意味は?」という問いのうちにおいて考えなければならない。これら二つの問いの層/相の違いを自覚したうえで、それらを関係づける必要がある。
 だからまずこれからの考察の目標が問①にあることを明示し、その趣旨を理解させた上で、それと整合的であるように以下の問について考えていく。

問② Kは何のために「私」に声をかけたのか。

授業者がこのように問うことに、生徒も授業者自身もなんら不審を抱かない。このくだりを一読した読者には、Kの意図が「わかる」とは思えていないからだ。だからそれは何らかの解釈を要求する、考察に値する問題であると感じられる。
 生徒に話し合わせ、そこで出された意見について発表させる。その検討がこの後の主たる授業展開である。だがその前に確認しておきたいことがある。

 問 K自身は何と説明しているか。

K自身は「ただもう寝たか、まだ起きているかと思って、便所へ行ったついでに聞いてみただけだ」と語っている。だが読者はその言葉を額面通りに受け取らずに、そこに何かしら隠された真情があるはずだと深読みしてしまう。
 「私」も同様にKの言葉を素直に受け取らないから、翌朝わざわざ「なぜそんなことをしたのかと尋ねる」。そうした「私」の疑問を、読者は不審に思わない。読者もまた語り手である「私」の認識に誘導されて、Kの言葉を真に受けないことが当然であるように感じてしまうからである。これはなぜか。

 問 Kの言葉をなぜ信じられないか。

夜中に、眠っている隣室の友人をわざわざ起こして「何でもない」ことはなかろう、というのが素朴な感覚ではある。生徒はとりあえずそう答える。
 だが、これがKの言葉を疑う決定的な根拠ではない。これでは「そういうことがありえないとは言えない」という反論に答えることはできない。なのに「何でもない」とは思えないのは、「ただ~だけ」と限定される理由が十分な意味づけの重みを持っているとは感じられないからである。「十分な意味づけ」とは、夜中に隣室の者をわざわざ起こすという特別な行動についての特別な理由、という「意味」でもあるが、それよりもやはりこの行動を含むシークエンスがわざわざ語られる小説としての必要性という意味での「意味」である。つまり、Kの心理・意図はこのエピソードの「意味」という文脈の中で理解する必要があり、「聞いてみただけ」ではその「意味」を支えきれないと感じるのである。
 また、小説読解の作法といった観点から分析をするならば、このKの言葉が正直な説明であると読者が信じられない理由の一つは、「黒い影」「黒い影法師」という印象的な表現が、Kの心情が基本的に「わからない」ものであることを象徴していると解釈できるからである。「彼の顔色や眼つきは、全く私にはわかりませんでした。」とあるように、読者とともに「私」にとってもKの心は「わからない」。この「わからない」が、Kの言葉を額面通りに受け取ることを留保させる。これもまた「こころ」のテーマである意思疎通の断絶を象徴的に示した映像である。

Kはその時、何をしていたか 1 執筆の経緯 

 ちょうど4年前に、その年の授業における驚くべき新発見として「遺書を書いたのはいつか」という文章をブログに書いた。そこでは、Kの自己処決の際に「私」が読むことになる「私」宛ての「手紙」は、それより12日前の晩に既に書かれていたものだ、という解釈を提示した。
 とはいっても、「発見」したのは筆者ではなく、その年に授業を受け持った二人の生徒である。彼らの解釈は最初、突飛で考え過ぎな「トンデモ」解釈に思えて、筆者には受け容れ難かった。
 ところが考え直しているうちに、否定するための反論として当初筆者が挙げた根拠が無効であることに気づいた。その後はむしろ考えるほどにそうした解釈の妥当性が納得されてきた。
 それでも4年前には、面白いがまだ確信するには至らず「保留」というところに留まっていた。
 その後このアイデアは、公にして他人の批正を求める価値があると思えるほどに確信を強めていった。そしてさらに授業においては、こうした解釈をただ紹介するだけではなく、上野公園の散歩の夜のエピソードを授業でどう扱うかという授業展開の中にこの解釈を位置づけて、もう一度まとめ直そうと思い立った。それで今年、このブログよりは人目に触れるであろう、教員を対象とするある機関誌でそれを「実践報告」として発表することにした。
 ところが、その機関誌の発刊と同時期にちょうど今年度担当の授業がそのあたりにさしかかっていて、同じ学年の授業を受け持っている若い先生方と授業計画を立てていたら、その文章を読んだその先生が「で、授業ではどうしたらいいんですか?」と言うので驚いた。自分ではすっかり実用的な授業案を書いたつもりでいたからだ。だが原稿提出以来しばらくぶりに読み返してみると、なるほどこれでは駄目だ。その文章を読んで教材の解釈はわかるとしても、若い先生方が授業をどう展開していいかがわかるようには書かれていないのだ。
 筆者自身が授業をするなら、基本的な解釈の方向性が見えていれば、自分が考える過程がそのまま授業展開になる。だから文章を書いている最中は、つい教材の解釈に筆が走ったことに無自覚だった。
 むろん、授業でどう展開するかは、各現場で考えるべきだとも言える。生徒も授業者もさまざまだ。それぞれの現場に合わせて適切な問の形もそこに割く時間もさまざまであるはずだ。他人の実践報告がそのまま実行できるわけではない。
 だから他人の参考に供するには教材解釈を提示するだけでいいのだ、という考え方もある。
 だが、どのような問いをどのような順序で発していくかというアイデア自体は、やはり若い先生方には提示する価値があるはずだし、生徒が実際にどのように反応するか、という例を示すことも参考に供するはずである。
 また、授業計画を他人と練る上で、自分なら行き当たりばったりでやるところも、見通しを持った展開として構成し直した。そして、そうした工夫をこらした授業はそれなりにやはり面白いのである。もちろん別な構成でも別な面白さはあったのだろう。行き当たりばったりでも、面白くはなる。授業は生き物だ。
 それでも、練り上げた計画的な展開と、その実際を記録したくなった。そこで、一連の授業の後で、一度発表した文章を、今度こそ「実践報告」の形で書き直した。授業の流れに沿って具体的な問いの形を示し、そこでの生徒の反応についてもなるべく具体的に記す。
 本当はこれを、若い先生方が読むかもしれぬその機関誌に載せたかったと思うが、まあ仕方ない。ここに載せて、また再利用の機会を待つ。

2019年1月4日金曜日

『アルティメット』-気楽な映画鑑賞

 前に第2作の方を観ていたので、気楽に観られるのはわかっている。しかもリュック・ベッソンの脚本だから、それなりに楽しいことも期待できる。
 パルクールによる逃走劇もカンフーアクションも楽しい。ギャングをやっつけ、権力者の陰謀を暴き、とお決まりのカタルシス。
 ま、正直、パルクールの動画をYoutubeで見るのも似たような楽しさなのだが。
 これが、今年最初の映画か!

2019年1月3日木曜日

TENDRE

 新年早々、こういう発見がある。再生していたビデオを止めて、ちょうどその時に放送されていた、新人アーチストを次々と紹介しているらしいテレビ番組で一瞬で耳を持って行かれた。
 最近 Nulbarich にも感心していたのだが、

まとめて聞くまでにはのめり込めなかったが、こちらはあるだけ聴きたいと思った。
 TENDRE 個人ユニットだそうだ。
 調べてみると LUCKY TAPES などと同じレーベルのミュージシャンだって。
「Rallye Label」すごいの揃えてるな。