2020年5月31日日曜日

『君の膵臓を食べたい(アニメ)』-「物語」の効用

 前に実写版をテレビ放送で観た時には、このアニメが劇場公開中だった。もう2年前になるのか。
 ほとんどは実写版を観た時の感想と同じことをこちらでもやはり感じた。
 ヒロインはあざとくも可愛く、どういうわけで主人公がこのような幸運に恵まれるのか、あまりに都合の良すぎる妄想である。
 二人で旅行に行くのも彼女の家に行くのも、あまりに安易に観客の願望を反映している。
 そして難病でヒロインが死ぬ設定というのも。

 にもかかわらず、やはりいやおうなく心を動かされてしまうのだ。「感動ポルノ」はこちらでも健在。
 アニメーションとしてはとても質が高い。実験的な表現があるわけではないが、美術も人物も綺麗で乱れない。人の振る舞いも眉を顰めたくなるような安っぽさはない。丁寧に、手堅く描かれている。高台から二人で見る打ち上げ花火は、それを題名に冠した某アニメよりもはるかに美しい。
 だからこそ、これだけ感情を揺さぶる要素が並べられれば、抗えない。

 その上で、前回も感じた、難病設定をしているのに通り魔に襲われて死ぬという展開の据わりの悪さをどう受け止めればいいのか、という問題は、今回あらためて考えてみたが、やはり病気で死ぬところを描く難しさを回避したのだと結論せざるを得ない。
 一時的に入院したり不安に襲われたり、といった闘病は描かれるが、次第に弱って、特にイベントを起こせるような健康状態ではなくなって、それから漸進的な衰弱が数ヶ月も続くような展開になるのに、この物語は堪えられないのだ。そこまでの勁さをもたない。

 そしてまた、主人公の頑なな孤独癖は鬱陶しい。もっと普通にしてほしい。あまり人付き合いがうまくない、くらいにしてほしい。碇シンジほどの鬱陶しさではないものの、リアリティの水準を落としてしまう。
 もっと、ある信念があるか、あるいはまるでそれが自然であるような特殊な人物を、リアリティをもって存在させることができるならばそれもいいのだが。
 主人公については実写版の北村匠海の魅力はなかった。

 それでもなお、今回観て、これを若者が観ることの意味を考えてしまった。
 誰かをとても大切に思うことや、だからこそ他人と関わることが大切だという真っ当なメッセージが、この切実感と共に体験されることは、「物語」の大事な効用なのかもしれない、と思えたのだった。
 あまりに抗いがたい感動とともに見てしまって。

2020年5月27日水曜日

『ジャケット』-カタルシスにつながらない

 タイムリープを扱った映画としてどこかのサイトで紹介されたものを何本かレンタルしてきたのは随分前だ。『プリディスティネーション』もその時に観たのだが、集中して観てなかったせいであまりにわからなくて、このブログにも書いていない。その煽りをくってそのまま放置していたのをようやく。
 うーん、これもまた語るのが難しい。
 タッチは悪くない。調べると結構な豪華キャストと言って良いし、制作陣もビッグネーム。エイドリアン・ブロディの笑顔は良いし、少女との出会いも、タイムリープによってその少女を救うことになる展開も良い。
 だが大いに満足、というわけにはいかなかった。
 観客に「わかる」ことが十分な情報量をもっておらず、「意味ありげ」に終わってカタルシスにつながらないのだ。サイトでの考察によればキリスト教的モチーフがちりばめられていて、それに沿って解釈すると…とか、結論として全てが妄想説を唱える人がいたりして、それを、基本的には1回しか観ないはずの映画に求めてどうする。
 そうすると、タイムリープの必然性とか、事情をちゃんと説明しないエイドリアン・ブロディの「いい人」ぶりももどかしかったりして、タイムリープを活かして状況を変える試みも、単なる手紙を書くくらいかいな! という不満が浮上してくる。
 タイムリープはやっぱりアイデアを盛り込んでハッピーエンドを目指すのと、それでも生ずる切なさをセットで欲しい。どちらも、結局「わからない」だけに中途半端に終わった感じ。
 もったいぶらずに語って欲しい。

2020年5月24日日曜日

『渇き』-語るのが難しい面白さ

 中島哲也の方のもいずれ、とは思っているが、今回のは私的韓国映画特集におけるパク・チャヌク監督作品。ポン・ジュノ作品でお馴染みのソン・ガンホが『スノー・ピアサー』に続いて二枚目に見える作品だった。これでも『殺人の追憶』の方が6年も前なのか。
 さて、どうなるのか、まるで先が読めないまま見続けて、それなりの満足を持って見終えた。悪ふざけする『コクソン』のようなことはなく、大げさな描写がちゃんとユーモラスに見える。
 しごく好意的に観終わったのだが、さて、どこが面白かったかを言うのは難しい。
 ともかく映画として上手い、と思った。だがそれがどういう点であるとか、そこから感ずる面白さがどういう性質のものであるとか、どんなふうに感情が動いたのか、とにかく言葉にしにくい。たぶん時間をかけて考える必要がある。
 今回のレンタルでの鑑賞については、返してしまったのでこれまで。

2020年5月22日金曜日

『ヴィクトリア』-全編140分間ワンカット

 全編140分間がワンカットだという。
 長回しといえば『トゥモロー・ワールド』が6分台、『ラ・ラ・ランド』の冒頭のハイウェイのシーンは4分台だそうだが、これはいずれも編集でつないであるので、撮影上はワンカットではない。
 邦画では『カメラを止めるな』の37分があるが、これはその後との対比が狙いでもあり、長いことに必然性がありつつ、そこまでで終わることにも必然性があった。
 それが、全編ワンカットで、しかも編集でつないでいるわけではない、本当の長回しである。しかも映画全体が長めの140分。
 もうその興味で観てみる。
 こういう映画だから、なるべく途中で切らずに見切ってしまう。
 さて、最初の3分の1は正直退屈でもある。ワンカットで描くからこその必然と思いつつももどかしい。いくらなんでもダラダラしすぎでは? とも思うのだが、半ば過ぎからは話のテンポも上がって退屈しない。

 こういうのはとにかくアイデア勝負だ。正直なところ、もうちょっと展開上、演出上に工夫がほしいとも思ったが、それは贅沢な期待でもあり、全体としては、途中にがっかりするような点があるわけでなし、とにかくよく作り終えたことに感心する。
 そして長回しの狙いである没入感や臨場感はもちろんある。
 そのうえで、リアルタイムのこの時間経過のうちに起こったことを思い返すときの異様な長さも面白い。
 最後のたっぷりの激情の後、フォーカスが絞られていないところから、主人公の顔にアップに向かってピントがあっていくところの演出などは、素直に映画的に優れているとも思う。

 ところで、カメラがやたらと揺れるところも、手作り感満載なところも、無軌道な若者の切迫感も、なんだか妙に『息もできない』と並んでいる偶然が不思議。

2020年5月21日木曜日

『息もできない』-全編に満ちる切迫感

 評価の高い作品であることは知っていたので、いずれとは思っていて、この際、韓国映画特集ということで。

 後から調べると、原題は作中で主人公が頻繁に口にする汚い言葉なのだというが、英語題の『Breathless』から翻訳した『息もできない』は、珍しく見事な邦題だ。むろん「息苦しい」ではなく、「息ができない」でもなく。
 全編に「息もできない」切迫感が満ちている。
 粗暴に振る舞うことしかできない主人公の言動は確かに愚かしく、見るからに苛立たしいのだが、だからこその切迫感である。
 もっとこうすればいいのに、とか、こうしろよ、とかいう期待を裏切って愚かな言動をとり続け、危ない危ないと思っていると結局愚かで悲劇的な最後を遂げる。
 観ていくうちに、最初は不快だったとしても、だんだんと、それなりに幸せになってもらいたいと思い始めるからこその不安だ。言動の変化も見えてきて、事態の好転が期待されるからこその悲劇だ。

 これも後から調べると、主人公の「愚かな男」ヤン・イクチュンが監督でもあり、脚本も書いているのだった(制作も編集もというから手作り感満載)。
 インタビューでは、やむにやまれぬ思いから脚本を書き、ほとんど自主映画的に作って、絶賛にも関わらず、今後映画を作る気持ちは当面ないのだと。
 この、映画の成立過程もなんだか劇中の空気と重なる。

 ヒロインのキム・コッピは、最初の登場シーンでは見事に可愛くないのだが、最後の方では別人のように可愛くなっていて、これも見事。

2020年5月16日土曜日

『哭声-コクソン』-リアリティの水準

 要らない邦題をつけずとも漢字の「哭声」を見れば「泣き声」という意味は伝わってくるからそれでいいのだが、映画を見始めると、題名らしきところにはハングル文字しかない。まさか「哭声」が邦題ではあるまいが、韓国の観客はどこでこの漢字を見るのだろう。
 ここにあえて「コクソン」という韓国語の発音を合わせて表記していることには意味があると途中で気づいた。舞台の「谷城」という地名が、字幕で「谷城(コクソン)」と表記されるのだ。舞台の地名と「哭声」をかけているのだった。

 さて、なんとなくの評判で借りてきたのだが、ホラーだかスリラーだかも判然としないまま観始めた。
 連続殺人事件とは聞いていたからサイコスリラーなのかと思ってはいた。韓国映画としては『殺人の追憶』『殺人の告白』を見ていたせいもある。
 だがどうも違う。オカルト要素があるようだ。
 見ているときは、その物語の約束事がどのあたりなのかを探りながら微調整していく。特にホラーはそうだ。こういうことはありえるのか、何に気をつければいいのか、何が危ないのか、どうやったら対処できるのか。
 どうも判然としない。
 こういう感じは、『The Bay』や『ひぐらしのなく頃に』もそうだった。ウイルスなのか寄生虫なのか呪いなのか。
 本作もどれも怪しいと思いつつ見ていて、いよいよオカルト要素は否定できないとなってきてからも、ホラーのジャンルとしても、エクソシスト物なのかゾンビ物なのか判然としない。
 で、結局最後まで観ても腑に落ちないのだった。
 これは意図的なもので、監督も明言しているそうだし、ネットでも謎解きがかまびすしい。
 ジャンル云々というだけでなく、結局この物語の中では何が真実なのか、映画は何を訴えているのか。明らかなキリスト教的アイコンをちりばめながら。

 ところがこれについてこれ以上真面目に考える気になれない。いくつかの考察サイトを見てなるほどと思ったりしても。
 というのは、観ていて結局、細部にがっかりしてしまうからだ。登場人物の振るまいやその描写が、ふざけているのだ。
 これを韓国映画的と言っていいかどうかは数を観ていない現状では断言できないが、こんな風に描くと面白いでしょ、とでも言わんばかりにふざける。登場人物に愚かな言動をとらせる。
 そんな風に心の動きのリアリティを無視して描かれる物語が、何か真面目に受け止めるべきものを描いているという信用がどうもできないのだ。そこにある恐怖も怒りも悲しみも、リアリティのない戯画化された言動と混ざって、どうにも嘘くさく感じられてしまう。
 観客と共有すべきリアリティの水準の設定が間違っているんじゃないか、という不信がぬぐえない。
 観ている間の、感情を動かされたり興味を引っ張られたりする感じは、確かに「面白い」と言っていい映画なのだと思いつつ。

2020年5月14日木曜日

『殺人の告白』『22年目の告白』-一長一短

 韓国版オリジナルと日本版リメイクを一晩で二本立てで。
 まずオリジナルの方から。
 オープニングのパルクールふうの追跡劇はすごかった。下からの三角締めをバスターで返すとか、襲いかかる相手をよりによって山嵐で投げ飛ばす派手な擬闘とか、闇に消える犯人もいい。さすがに、あちこちで連想を誘うデビッド・フィンチャー『セブン』の追跡劇ほどの完成度はないし、現在の場面にいきなり15年前の場面が乱入してくるのは説明不足で混乱する、とは思ったが、全体にアクションシーンとしてはレベルが高くて、最初からワクワクする。
 が、途中の遺族による拉致の件りは、どうしたっていらない。どうしてこのシリアスなミステリーにコメディ要素を入れたくなるんだ? しかも面白いわけでもなく単にばかばかしいばかりの。
 このシーンに代表されるあちこちの下らないノリがなければ、アイデア自体も、なによりパク・シフの怪しい魅力も、とても面白い映画だと思えるのに。
 それから、真犯人がわりとあっさり顔を出してしまい、しかも「誰だお前は?」というような軽いノリのキャラクターであったことも残念に感じた。ここはもっと「底知れない邪悪」とでも言わせるような重厚感がほしい、と思った。といってレクター博士がここに出てくる必然性もないし。
 …ところがこれが、しばらくするとこの憎たらしいキャラクターがここには嵌まるのだと感じられてきた。憎たらしいが故の狂気とも感じられ。レクター博士よりはジョーカー的悪役として。
 そしてこれでないと時効についてのドンデン返しが効かないのだった。時効だと安心しているところが憎たらしいところで、それが取り消されるから痛快なのだ。
 …だというのに、復讐を優先させるなら、時効の設定、要らないじゃん!

 一方のリメイク。
 入江悠作品は初。『太陽』をそのうちにと思っているのだが。
 さて、日本を舞台に移したことで成功したり失敗したり。
 基本的にシリアスなミステリーにしたのは好ましい。韓国版でも、それに徹して欲しかった。
 だがうまくいっていない部分も多いと感じた。
 まず、日本の現実の法改正をからめたから、事件から22年後という設定になってしまったが、これは時間が経ちすぎていて、藤原竜也がアイドル的な人気を得るという設定に無理を生じた。パク・シフの魅力にも及ばないと感じた。
 殺人犯がカリスマ的な人気を得てしまうという設定は、この映画にとって肝なはずなのに、そこにリアリティがないのはイタい。尤も、オリジナルでも、そこを上手く描いているとは言い難かったが。パク・シフの笑顔に頼るばかりで。
 真犯人の造型については、オリジナルとは全く別の狂気を設定していて、これはこれで良い。そして、時効の無効化というドンデン返しは、オリジナルのように、犯人が憎たらしいから活きるということはなくなったが、こっちでは復讐より法の裁きを優先させるという結末に根拠を与えるという意味で、ちゃんと活きていた。この論理的整合性は脚本がよく考えられていると感心した。
 一方、不満もある。
 中心的ドンデン返しは、どちらもちょっと早いと感じた。映画全体のここでそれを明かしてしまうのはもったいない、とどちらでも思った。もちろん、それがわかった後で描くべき展開が後にたっぷりあるからしょうがないということなんだろうが、オリジナルでは後がアクション展開になって、それほど要らないと思ったし、リメイクも重厚な人間ドラマとさらなるドンデン返しを見せるのだが、問題はこの重厚な人間ドラマの演出である。
 テレビ生放送の場面で第一のドンデン返しが明かされ、それは例によって藤原竜也の激情演技と長い説明によってたっぷり見せられるのだが、その間、当面の「真犯人」が放って置かれるのはどうみても不自然に間延びしている。
 放って置いて、愁嘆場が一段落して、さて犯人は、となってから実はこれが真犯人ではなく、となるのだが、順番はどうみても逆であるべきだ。真犯人ではないという落胆の後でこそゆっくりと愁嘆場をやればいいのだ。
 緊迫した場面で不自然にテンポをおとしたドラマを見せる演出は、いろんな映画で見せられるのだが、ほんとにやめてほしい。緊迫した場面は緊迫したテンポで描ききってしまうべきなのだ。
 これは、さらにひっくり返った本当のクライマックスの方でもそうだ。復讐のために犯人を殺してしまうかどうかという緊迫した場面で、そこに現われた伊藤英明の刑事が、制止のために銃を構えて「やめろ」などと叫んでいるのはどうみてもばかげている。本当に撃って制止することなどありえないし、その必要のある状況でもないし、藤原が撃たれることが怖くて行為を中止しているわけでもないのだから、まずは力ずくで抑えるはずなのだ。そうしないわけがない。
 「やめろ」などと言って止まっているのは、藤原竜也の激情演技を見せるためでしかない。そして、そんな理屈の通らない演出をするから、結局緊迫感が台無しになる。
 劇的な場面を劇的に演出したくなるのは人情だ。だが、スピード感と感情の盛り上がりのどちらを優先するか、と言う問題ではないはずだ。劇的に見せるのはこのタイミングではないだろ、と言いたい。

 そういえば韓国版、ドンデン返し後のパク・シフをもうちょっと活躍させて欲しかった。それがないからドンデン返しが早いんじゃないかと感ずるのだ。
 唯一、エレベーターの中での格闘があったが、ここはボクシング対柔道という構図をはっきりと出すべきだった。そういう伏線が張ってあるのだから。
 そしてむしろここで決着してしまえば、伏線の回収とともに感情的なカタルシスもあったのに。

2020年5月12日火曜日

『Wの悲劇』-「青春」バイアス

 薬師丸ひろ子と同学年の筆者には、その頃の角川映画の話題性はリアルタイムで実感している。続く原田知世と、対抗する東宝の斉藤由貴は、本当にあの世代にとっては「青春スター」なのだった。「アイドル」業界とも被ってはいるが、やはり女優が本業であるような「スター」として。
 とりわけ薬師丸ひろ子はアイドルのようなあざとい振る舞いもなく、顔もアイドル的な完成度でもなかったから、一方では「隣の」的な存在感と同時に古い言い方の「銀幕」業界の人でもあるという立ち位置だった。
 といって新作映画を劇場で観るような追い方をしていたわけではないし、そもそもどちらかといえば斉藤由貴の方が好きだったのだが。
 『Wの悲劇』はいつだかわからないほど昔に観てはいる。もうその時にどう思ったかは忘れているのだが、それほど高い評価をした覚えはない。
 一方で主題曲はそれからもあちこちで聴く機会はあって、こちらはやはり名曲に違いない。
 さて放送欄にあるのをみて調べてみると、映画の評価も高いのだった。本当にそう感じられるのか、というのと、若い頃の世良公則を見てみたくもなって録画しておいた。
 で、観始めるとたちまち面白くなる。これは当時には感じなかったはずの面白さだ。どうみても「青春」バイアスなのだ。
 
 そうは言ってもやはり映画としてよくできているとも言える。
 原作のミステリーを劇中劇として、それと相似形のお話を舞台役者達を登場人物として組み立てる構成は見事だ。扱っているのが「青春」なのに、脚本や監督の仕事は、堂々たる大人の仕事、といった感触ではある。
 三田佳子はもちろん、これがデビューだという高木美保のわずかな場面での演技もうまい。
 だがなんといっても薬師丸ひろ子の演技の見事さは、奇跡的なのだった。
 監督もお気に入りだという飲み屋での酔っ払いの可愛らしさもいいが、初主演舞台での三田佳子の「今夜は譲ってあげる」に続く一人だけのカーテンコールでの、感情が溢れてくる表情は、演ずる方もすごいが、これを見事に撮りきったという意味でも奇跡的なものを観た気がするのだった。

2020年5月10日日曜日

『トレイン・ミッション』-ちょっと残念

 ジャウム・コレット=セラの『フライト・ゲーム』よりは近作。『アンノウン』『フライト・ゲーム』に続いてリーアム・ニーソン主演だが、間にもう一本『ラン・オールナイト』があるんだな。題名からしてそれも似たような映画であることがアリアリ。
 さて本作。『エスター』からみればずいぶん金をかけられるようになったものだ。飛行機から電車になった分、『フライト・ゲーム』よりもキャストの数も膨大だし、最後には列車を脱線させるのだ。
 最初から同ポジを使いまくった凝った編集で、映像的にも見せる。そこら中が「怪しい」と思わせるような、微妙なカット挿入もうまい。
 サスペンスもアクションもたっぷりの娯楽作だったが、例えば『蜘蛛の巣を払う女』あたりの圧倒的な展開に比べると、やや小粒感も否めない。
 小粒感が悪いとは言わない。はっきりとB級映画だった『パニック・フライト』はあまりに緊密な構成で高い満足感を与えてくれたものだ。
 本作は『フライト・ゲーム』に比べても、誰が犯人(グループ)なのかについてのサスペンスが薄く、意外性のある犯人一味は、重要な列車内でのサスペンスに関係がないのが残念。最初から犯人一味のヴェラ・ファーミガはそのまま犯人でしかないし。
 脱線してからの籠城戦が展開としては起伏のあるバリエーションを作ろうということだとはわかるが、実は蛇足だと感じられてしまった。列車内でのサスペンスに限定しても良かったのに。
 楽しい映画だとは言えるが、隙の無い高いレベルで統一されているとは言えず、ちょっと残念。

崎山蒼志「むげん」、「思慮するゾンビ」、Chouchou-ここ10年のベスト3

 そういえば書いてなかったのかと今更ながら気づいて書いておく。
 崎山蒼志の動画は前に見て知っていたのだが、すげえ奴がいるなあとは思ったものの、「心地良い」と思うにはちょっと癖が強すぎて、漁ろうという気にはなれなかった。
 ちょっと間が空いて最近知ると、相変わらずすごいという以上に、音楽的にもどんどん「聴ける」割合が増えている。
 何曲かハシゴしているうちに、これに出会った。


 あまりに良い曲で、ここ10年のベスト3に入るなあ、などと思っていたのだが、それから何度繰り返して聴いてもそう思う。それだけの複雑な陰影がある。メロディ、サウンドの感触、二人のボーカル、読めば歌詞まで、全ての要素が最高である。
 崎山蒼志、諭吉佳作/menそれぞれの他の曲も良いのだが、この曲は飛び抜けている。

 と考えて、待てよ、ベスト3って何だ?
 1曲は思いつく。「思慮するゾンビ」。




 聴いているのは専ら「歌ってみた」なのだが、今良いのが見つからなかったので、ここではオリジナルの初音ミクバージョン。
 8年前から1年間くらい、ニコニコ動画でボーカロイドを聴き漁った時期があって、今聴いても相変わらず良い曲というのが数多くあるのだが、中でもこれは「むげん」同様、複雑な陰影があって、いくら聴いてもまるで色褪せない。

 あと1曲は難しい。上のボーカロイド曲の「良い曲」はいっぱいある(Dixie Flatlineとかtsとか鮭pとか)が、「思慮するゾンビ」が抜きん出ているため、他を選ぶとベスト3にならない。
 「ここ10年」でなければキリンジから選んでもいいのだが、それも1曲となると難しい。
 上の2曲のような圧倒的な陰影ではないのだが、Chouchouのこの2曲は、聴くたびに心がざわつく感じが褪せない。






 3曲にならなくなってしまったが。

p.s
 昨日書いて、今日、そういえば、と思い出した。これがあった。


アルバム1曲目の「桃」も素晴らしいが、2曲目の「春を夢見る」が上のベスト3レベルに飛び抜けている。
 メジャーデビューの「飛ぶものたち,這うものたち,歌うものたち」に入っている菊地成孔プロデュース版ではこの、インディーズ盤「SARA」に入っている奇跡のような魅力が薄れてしまっていた。
 実は「SARA」はライブでの手売りで買ったのだが、ライブで「春を夢見る」を聴いたときに既に震えるほどの感動を受けたのだった。

2020年5月9日土曜日

『母なる証明』-「変」であること

 ポン・ジュノ作品は『殺人の追憶』がもう20年近く前だというのが信じられないほど古びないというのに、これは妙に古めかしい。それでもCG全開の『グエムル』よりも後なのがまた妙な感じだ。
 冒頭のダンスが、もういつの映画なのか、という変さ加減だ。
 この感じで連想するのは大林宣彦だ。大林宣彦の場合は、まあ時代のせいなのか本人の好みなのかわからないが、『時をかける少女』のエンディングで原田知世がエンディングの歌に合わせて口パクをするのが、もう信じ難いほどダサい。こういう演出をどういうつもりでするのか、まるでわからない。
 本作の冒頭ダンスはそれを思い出させる。そして、そういうのが駄目なのだ。個人的に。
 一方でエンディングのダンスは良い。その狂気は、物語的な必然において十分に納得できる。だからこそこのエンディングはその凄さを堪能できる。
 冒頭ダンスがそれと同一に受け取れないのは、エンディングダンスは物語の中で、他の登場人物とともに行われているが、冒頭は観客に対して行われているのだ。いや、そうではないのかもしれないが、他の解釈はとりあえずできないから、つまりはランク(階層)の混乱をあえてやっているのであり、これがどうにも気持ちが悪いのだ。
 「変」というのはポン・ジュノ作品に常に冠せられる形容として、むしろ魅力を表しているのだが、この映画に関してはむしろ阻害要因だった。
 さまざまな韓国の社会常識やら人々の感情の有り様や振る舞いやが、それを日常的で必然性を持ったものとして受け止めるべきか、「変」なものとして受け止めるべきなのかわからず。

 お話はよくできている。ミスリードからのドンデン返しも見事で、伏線の張り方もうまい。『殺人の追憶』にしろ『パラサイト』にしろ、脚本の巧みな映画を作るのはとてもよい。しかも監督が脚本を書いているのは信用できる。
 毎度の画作りのうまさも、路地の闇の不気味さも、とても良い。
 それなのに上記の様な違和感にのれなくて、全体としては『殺人の追憶』や『グエムル』のように全面的には楽しめなかった。

p.s
 もう一度通しで早送りしているうちに、冒頭のダンスの意味がわかった。
 だが、観直さなければわかるわけがない。冒頭のダンスを覚えておいて、それが物語のどの時点の場面なのかを、物語がそこまで進んだときに思い出し、なおかつラストのダンスと結びつけて、ようやく冒頭のダンスの意味がわかる。
 上で書いたように、観客に向けてダンスをしているわけではなかった。いわば自己逃避的な、太ももの「忘却のツボ」ならぬ「忘却の舞い」なのだ。

 それから、思い返してみれば『殺人の追憶』から『グエムル』、『パラサイト』まで、一貫して韓国社会の格差が描かれているのだった。それは描こうという意図がなくても背景として表れてしまうんだろうか。
 本作でも、ゴルフをやる富裕層に対して、認知症の祖母を、体を売って面倒見る女子高生が、痛みを伴って描かれる。主人公親子の貧しさもまた。そしてその貧しさが悲劇を引き起こしているのだという痛みもまた。
 そうしてみると随分わかりやすい映画に見えてしまうんだが。

2020年5月6日水曜日

うちで踊ろう ボサノバ・バージョン



 毎年、夏のお祭でライブをやっているシトロンは、今年はもう祭の中止が決定して、バンドの活動もまた来年。
 GWも「Stay Home」週間になってしまったので、メンバー各自、家で演奏して、合わせてみた。
 夏に向けてゆったりとボサノバにアレンジした。
 バックトラックをつけるとともに、コード進行もいろいろいじった。基本はゆったりとしたボサノバのリズムに合わせてコードチェンジを半分にした。

A♭M7     G7+5    Cm9   F13  Fm7   Gm7  B♭m7/E♭

A♭M7     G7+5   Cm9   E♭9  A7-5
 たまに重なり 合うよな 僕ら

A♭M7     G7+5          Cm9      E♭9
 扉閉じれば  明日が生まれるなら 遊ぼう 一緒に

Fm7   Gm7   B♭m7/E♭

A♭M7     G7+5        Cm9        E♭9
 うちで踊ろう  ひとり踊ろう   変わらぬ鼓動  弾ませろよ 

A♭M7      Dm7-5 G7+5  Cm9      D♭9-5
 生きて踊ろう  僕らそれぞれの場所で    重なり合うよ


A♭M7     G7+5        B♭m9        E♭9
 うちで歌おう 悲しみの向こう   全ての歌で 手を繋ごう

Fm7      E♭/G      Am7-5   Fm7-5/B♭
 生きてまた会おう  僕らそれぞれの場所で  重なり合えそうだ

   A♭M7   Gm7  Fm7  D♭9-5   E♭69

2020年5月5日火曜日

『エスター』-恐怖の並べ方と見せ方

 前から評判をきいて、興味を持ってはいたのだが、最近観た『フライト・ゲーム』のジャウム・コレット=セラ監督の初期作だと知って、この際見ておこうと。
 孤児院から引き取ってきた少女が実はサイコで…という大筋はわかっているので、後はエピソードの並べ方と見せ方だ。
 サイコ物は枚挙にいとまないが、印象の似ているのは『Visit』あたりか。だが『Visit』は大きなドンデン返しが用意されていることと姉弟のキャラクターがユニークなことが大きな魅力になっているので、その分は本作よりも楽しむ要素は多い。
 とはいえ肝心のサスペンス要素は決して負けていない。恐怖の積み重ねも、最後に、解決したかと思ったらもう一回、みたいなお約束も、全体によくできていた。楽しい映画だった。
 まあ、とにかく裏はない。予想もしなかったことが起こるわけでは決してない。
 それでも恐怖を盛り上げるポイントの一つは、少女が決して邪悪で狡猾なだけではなく、本人が自分を抑えきれない不安定さをもっているという描写がされていることだ。自分の正体がばれそうになる危険が迫ったときに不安でトイレの中で壁を蹴るシーンなどは、観客をも同じように不安にさせるものだ。
 
 全体に完成度が高く好印象な中で、残念な点を挙げるなら、少女の正体がわかるのが、ちょっと早過ぎると感じた点と、父親があっさり殺されすぎるという2点か。まあそこが「並べ方と見せ方」だ。

2020年5月4日月曜日

『蜘蛛の巣を払う女』-最高評価

 『ミレニアム』シリーズのスウェーデン版を観たのはもう10年近く前になる。デビッド・フィンチャー版の『ドラゴン・タトゥーの女』でも、もう5年以上前だろうな。
 良い印象しかないこのシリーズだが、原作者も変わり、監督も上記のどれでもない。とはいえ『ドント・ブリーズ』の監督だそうだ。やはり期待してしまう。

 さて、結局どうだったかというと、大いに満喫したのだった。いやはや面白かった。
 序盤のバイクでの逃走劇で、海へ飛び出るシーンから、もう拍手喝采である。
 何を求めるかという問題ではあろうから、俳優によって異なるリスベットの人物像のどれが好きだとかいうこともあるのかもしれないが、今回のクレア・フォイももちろん素晴らしい。傷を負っていながら正義感を失わない人物の陰影も十分だが、それよりなにより、今回の映画全体がおそろしく展開がスピーディーで、そのほとんどがリスベットの行動によって展開していくのである。
 次から次へと危機が訪れ、そのあまりに絶望的な状況に対して、常に的確な判断によって対処していく。そのとんでもない超人振りは「ボーン」シリーズのジェイソン・ボーン並みだ。
 そう、全体としてカー・チェイスからコンピューター・ハック、銃撃戦から肉弾戦まで、映画全体が『ボーン』シリーズと遜色ないと思った。つまりこういうジャンルの映画としては最高級だといっていい。
 第一作のようなおどろおどろしいミステリー風の味わいはないものの、これはこれで十分ではないか。

 ところで、『Trance』『ジュリアン』と3作続けて、DVが重要な要素として物語に絡んできて、『ジュリアン』から2作続けて、危機を逃れるためにバスタブに横たわる場面があるのは奇妙な偶然だった。まあDVはそれだけ世界的に深刻な問題ということでもあろうが。

2020年5月3日日曜日

『ジュリアン』-えっ、これだけ!?

 TSUTAYAの棚を見回すと、なんとか国際映画祭で高く評価された、とかいう宣伝がやたらと目につく。それもビデオスルー作品だったりする。そういうのは吹き替えもなかったりする。
 これもそういうのだが、Rotten Tomatoesで95%の高評価とか(「Trance」でも60%台だというのに!)フランスでは40万人の大ヒットとかいうので借りてみる。
 両親の離婚後、主人公の少年ジュリアンの親権をめぐる裁判所の調停から物語が始まる。ジュリアンの申告書によると、彼も姉も父親が大嫌いで会いたくないというのだが、もちろん調停にあたって父親側の弁護士が語る人物像は大分違う。観客はどちらかまだわからないから、これから、多角的な視点から、自体の微妙さ、複雑さが描かれるのかと思う。
 が、わりあい早い段階で、ジュリアンの言うとおりであるらしいことがわかる。父親は確かに子供を愛してもいるし、別れた妻にさえ執着している。そしてなおかつ自分の怒りを抑えることができないらしい。
 人物像はまあそうであるにしても、これから複雑な展開を見せるのだろうと思っていると、要するに父親が母親と子供たちのアパートに猟銃を持っておしかけ、警察に取り押さえられる、というそれだけの展開を見せて終わる。呆気にとられるような、あまりにあっさりした物語展開なのだった。
 えっ!? これであの高評価?
 演出も演技ももちろん悪くない。終盤の緊張感は高い。ただ、とにかく物語があまりにあっさりと「それだけ」なのだ。
 DVやら、親権をめぐる裁判所の介入のあり方やら、社会問題を扱うシリアスさから、ネットの扱いも極めて真面目だが、あまりにも工夫のない物語展開に、とうてい高い評価をする気にはなれなかった。

2020年5月2日土曜日

『Trance』-ダニー・ボイルの実力

 未見のダニー・ボイル作品を。
 美術品のオークション会場に押し入った強奪犯が、逃げおおせて確認してみると、包みの中に盗品が無い。主人公はオークション主催者の社員だが実は強奪犯の協力者でもある。品物を避難させる際に芝居して強奪犯に渡すという計画なのだが、なぜか予定外に抵抗して強奪犯に殴られ、そのまま意識を失う。
 観客はこの時点では主人公が強奪犯に協力しているとは知らされていないから、単に役目通り意美術品を守ろうとしているのだと思ってみていたのだった。
 冒頭から、ことほどさように「実は」の連続で、ストーリーがどこへ向かうか、まるで予想できない。
 意識が戻って退院後に強盗団に拉致されて、拷問によって盗品の行方を訊かれる段になって「実は」強盗団の協力者なのだとわかる。だが記憶を失っている主人公は盗品の在処を自分でも思い出せない。そこで催眠療法士にかかって記憶を探る。
 ここから、催眠状態で主人公が観ている記憶と、物語内の現実が混ざってきて、観ていて物語享受が複雑になっていく。「実は」というその「実」と「虚」の区別が曖昧になる。これはどっちなのか、時間的にもいつのことなのか、保留にして先を見ているうちに混乱してくる。
 最後まで予想できないまま、抑圧されていた記憶が蘇るとともに、事件の真相が観客にも明かされる。題名の「Trance」は、一義的には劇中の催眠状態のことなのだろうが、登場人物の執着、つまり「夢中になる」の意味も兼ねているのだろうか。
 いやあ、すごかった。凝りに凝った脚本で、それを手堅い演出で見せるのもさすが。映像的にも見所満載。ダニー・ボイルの実力の高さをあらためて思い知らされた。