2020年5月9日土曜日

『母なる証明』-「変」であること

 ポン・ジュノ作品は『殺人の追憶』がもう20年近く前だというのが信じられないほど古びないというのに、これは妙に古めかしい。それでもCG全開の『グエムル』よりも後なのがまた妙な感じだ。
 冒頭のダンスが、もういつの映画なのか、という変さ加減だ。
 この感じで連想するのは大林宣彦だ。大林宣彦の場合は、まあ時代のせいなのか本人の好みなのかわからないが、『時をかける少女』のエンディングで原田知世がエンディングの歌に合わせて口パクをするのが、もう信じ難いほどダサい。こういう演出をどういうつもりでするのか、まるでわからない。
 本作の冒頭ダンスはそれを思い出させる。そして、そういうのが駄目なのだ。個人的に。
 一方でエンディングのダンスは良い。その狂気は、物語的な必然において十分に納得できる。だからこそこのエンディングはその凄さを堪能できる。
 冒頭ダンスがそれと同一に受け取れないのは、エンディングダンスは物語の中で、他の登場人物とともに行われているが、冒頭は観客に対して行われているのだ。いや、そうではないのかもしれないが、他の解釈はとりあえずできないから、つまりはランク(階層)の混乱をあえてやっているのであり、これがどうにも気持ちが悪いのだ。
 「変」というのはポン・ジュノ作品に常に冠せられる形容として、むしろ魅力を表しているのだが、この映画に関してはむしろ阻害要因だった。
 さまざまな韓国の社会常識やら人々の感情の有り様や振る舞いやが、それを日常的で必然性を持ったものとして受け止めるべきか、「変」なものとして受け止めるべきなのかわからず。

 お話はよくできている。ミスリードからのドンデン返しも見事で、伏線の張り方もうまい。『殺人の追憶』にしろ『パラサイト』にしろ、脚本の巧みな映画を作るのはとてもよい。しかも監督が脚本を書いているのは信用できる。
 毎度の画作りのうまさも、路地の闇の不気味さも、とても良い。
 それなのに上記の様な違和感にのれなくて、全体としては『殺人の追憶』や『グエムル』のように全面的には楽しめなかった。

p.s
 もう一度通しで早送りしているうちに、冒頭のダンスの意味がわかった。
 だが、観直さなければわかるわけがない。冒頭のダンスを覚えておいて、それが物語のどの時点の場面なのかを、物語がそこまで進んだときに思い出し、なおかつラストのダンスと結びつけて、ようやく冒頭のダンスの意味がわかる。
 上で書いたように、観客に向けてダンスをしているわけではなかった。いわば自己逃避的な、太ももの「忘却のツボ」ならぬ「忘却の舞い」なのだ。

 それから、思い返してみれば『殺人の追憶』から『グエムル』、『パラサイト』まで、一貫して韓国社会の格差が描かれているのだった。それは描こうという意図がなくても背景として表れてしまうんだろうか。
 本作でも、ゴルフをやる富裕層に対して、認知症の祖母を、体を売って面倒見る女子高生が、痛みを伴って描かれる。主人公親子の貧しさもまた。そしてその貧しさが悲劇を引き起こしているのだという痛みもまた。
 そうしてみると随分わかりやすい映画に見えてしまうんだが。

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