2020年5月16日土曜日

『哭声-コクソン』-リアリティの水準

 要らない邦題をつけずとも漢字の「哭声」を見れば「泣き声」という意味は伝わってくるからそれでいいのだが、映画を見始めると、題名らしきところにはハングル文字しかない。まさか「哭声」が邦題ではあるまいが、韓国の観客はどこでこの漢字を見るのだろう。
 ここにあえて「コクソン」という韓国語の発音を合わせて表記していることには意味があると途中で気づいた。舞台の「谷城」という地名が、字幕で「谷城(コクソン)」と表記されるのだ。舞台の地名と「哭声」をかけているのだった。

 さて、なんとなくの評判で借りてきたのだが、ホラーだかスリラーだかも判然としないまま観始めた。
 連続殺人事件とは聞いていたからサイコスリラーなのかと思ってはいた。韓国映画としては『殺人の追憶』『殺人の告白』を見ていたせいもある。
 だがどうも違う。オカルト要素があるようだ。
 見ているときは、その物語の約束事がどのあたりなのかを探りながら微調整していく。特にホラーはそうだ。こういうことはありえるのか、何に気をつければいいのか、何が危ないのか、どうやったら対処できるのか。
 どうも判然としない。
 こういう感じは、『The Bay』や『ひぐらしのなく頃に』もそうだった。ウイルスなのか寄生虫なのか呪いなのか。
 本作もどれも怪しいと思いつつ見ていて、いよいよオカルト要素は否定できないとなってきてからも、ホラーのジャンルとしても、エクソシスト物なのかゾンビ物なのか判然としない。
 で、結局最後まで観ても腑に落ちないのだった。
 これは意図的なもので、監督も明言しているそうだし、ネットでも謎解きがかまびすしい。
 ジャンル云々というだけでなく、結局この物語の中では何が真実なのか、映画は何を訴えているのか。明らかなキリスト教的アイコンをちりばめながら。

 ところがこれについてこれ以上真面目に考える気になれない。いくつかの考察サイトを見てなるほどと思ったりしても。
 というのは、観ていて結局、細部にがっかりしてしまうからだ。登場人物の振るまいやその描写が、ふざけているのだ。
 これを韓国映画的と言っていいかどうかは数を観ていない現状では断言できないが、こんな風に描くと面白いでしょ、とでも言わんばかりにふざける。登場人物に愚かな言動をとらせる。
 そんな風に心の動きのリアリティを無視して描かれる物語が、何か真面目に受け止めるべきものを描いているという信用がどうもできないのだ。そこにある恐怖も怒りも悲しみも、リアリティのない戯画化された言動と混ざって、どうにも嘘くさく感じられてしまう。
 観客と共有すべきリアリティの水準の設定が間違っているんじゃないか、という不信がぬぐえない。
 観ている間の、感情を動かされたり興味を引っ張られたりする感じは、確かに「面白い」と言っていい映画なのだと思いつつ。

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