2020年8月31日月曜日

この1年に観た映画-2019-2020

 夏区切りで1年間に観た映画を振り返っている。

 今期は間にコロナ禍のstayhome期間があったせいで、過去6年で最高本数の98本。

 アマゾンビデオで選べるようになると、この先本数が増えるかも。


 さてベスト10。順不同。


9/29『It follows』-サスペンスと映画的描写の確かさ

11/24『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』-どこもかしこも芳しい

1/2『殺人の追憶』-唸るほど面白い

2/17『パラサイト 半地下の家族』-凄いに決まっている

4/2『HAPPY HOUR』-5:17の至福

5/12『Wの悲劇』-「青春」バイアス

5/21『息もできない』-全編に満ちる切迫感

6/7『チェンジリング』-盛り沢山

8/2『ブリグズビー・ベア』-成長を描く多幸感

8/6『なぜ君は総理大臣になれないのか』-問いが成立するためには


 ポン・ジュノとクリント・イーストウッドはある程度まとめて観たのだが、その中でポン・ジュノは2本がベスト10級だった。それでも『スノー・ピアサー』あたりをそのレベルでは楽しめなかったとはいえ、基本レベルが高いのは間違いない。クリント・イーストウッドは『パーフェクト・ワールド』が感動的だったのだが、何だかすごいものを観たという印象は『チェンジリング』が圧倒的だった。

 韓国映画は、パク・チャヌク監督作もすごかったのだが、どうも受け止めきれていない感じで評価が難しく、パク・チャヌクの職人的安定感とは全く違った『息もできない』の素直な「特別感」を評価しよう。

 『It follows』と『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』はそれぞれ完成度の高さが印象的。もちろんまるで違う映画的「完成度」ではある。『マーガレット・サッチャー』は堂々たる大作ドラマ映画の完成度であり、『It follows』は低予算ホラーとしての完成度である。

 『Wの悲劇』に思いがけず感動してしまったのは我ながら意外だったが、これは客観的評価とは言い難い。だが映画を観るということは、タイミングやシチュエーションも含めた「体験」なのだ。その体験において、今年はこの作品を観たときの陰影のある気分を10本に挙げたい。

 体験ということでは、映画館で観る映画は特別なものになりやすく、昨年のベスト10には3本も映画館で観た映画が入っていた。今年でいえば『パラサイト』と『なぜ君は総理大臣になれないのか』だ。『なぜ君は』は鑑賞中も楽しく感動的で、観終わってからもあれこれと関心が現実に関連する。特別の鑑賞体験だった。

 『ブリグズビー・ベア』は、前年度ベスト10の『ルーム』と比較してしまうから小粒感があるのだが、素直な多幸感とともに、一筋縄ではいかない不思議な味わいもあるようで、この分析はしきれていない。


 迷って落とした次の10本。


12/7『JOKER』-予想を超えない

3/1『友だちのうちはどこ?』-構成も描写も見事な

5/2『Trance』-あらためてダニー・ボイルの実力の高さ

5/5『エスター』-恐怖の並べ方と見せ方

5/22『ヴィクトリア』-全編140分間ワンカット

6/6『パーフェクト・ワールド』-閉ざされた世界への絶望と憧憬

7/11『ミッドサマー』-奇妙な決着

8/4『お嬢さん』-映画の力

8/12『パトレイバー  the movie』-大いなる希望

8/29『最強のふたり』-最強の多幸感


 大作としての堂々たるレベルの高さを感じる作品が多いが、『エスター』はホラー映画としての愛おしさから選んだ。

 『ヴィクトリア』は超低予算映画だが、これは映画鑑賞が特別な体験であるような一夜の鑑賞として印象に残った。

 『パトレイバー』は何度も観ているが、10数年ぶりに観て、やはり邦画全体のベストを選んでも挙げるべき特別な作品だと思い知らされたので。


 全体としてここ1年で最も印象的だった映画鑑賞体験は『HAPPY HOUR』の5時間を超える視聴だった。何か、特別な体験だったという印象のある5時間余りだった。

 しかしまたこの感じがどこから生じているかが、どうにもわかりにくいのだ。


 以下、観た映画を列挙する。


9/11『ポノック短編劇場 ちいさな英雄-カニとタマゴと透明人間-』-山下明彦作品のみ

9/12『牯嶺街少年殺人事件』-「名作」がわからない

9/23『マッチポイント』-人間ドラマとして感情が動かない

9/28『ボーン・レガシー』-すごい創作物

9/29『It follows』-サスペンスと映画的描写の確かさ

10/3『花とアリス殺人事件』『花とアリス』-横溢する映画的魅力

10/5『ブレード・ランナー』『デンジャラス・デイズ』-映像と物語の落差

10/14『トーナメント(原題「Midnighters」)』-小品として満足

10/17『エスケープ・フロム・LA』-B級の味わい

10/31『バットマン vs スーパーマン』-「スーパーマン」映画の不満

11/6『ドリーム・キャッチャー』-意外と好きな人が多いらしい

11/13『Get out』-受け止める姿勢作りに失敗

11/15『金融腐食列島 呪縛』-クオリティは高いが満足度はいまいち。

11/18『パズル』-ありがちなビデオスルーのホラー

11/24『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』-どこもかしこも芳しい

12/7『JOKER』-予想を超えない

12/8『バトルロワイヤル』-やはり良さがわからない

12/11『人狼ゲーム インフェルノ』-期待には届かず

12/15『サクラダリセット 前後編』-まあこんなもん

12/17『死の谷間』-静かな週末物語

12/18『新感染』-健闘の韓国産ゾンビ映画

12/25『監禁探偵』-構造の破綻

1/2『WASABI』-際物

1/2『殺人の追憶』-唸るほど面白い

1/6『スノーピアサー』-全体に「噛み合わない」

1/19『幕が上がる』-悪くない青春映画

1/20『スマホを落としただけなのに』-成田凌の快演だけは

1/25『ラストサマー』-薄味

1/31『十二人の死にたい子供たち』-様々な可能性が開花しない

2/2『ラストサマー2』-ますます薄い

2/7『カウボーイ&エイリアン』-ツッコミどころしかない

2/8『翔んで埼玉』-相性の問題

2/9『37 Seconds テレビ版』-優れたドキュメンタリーにも似た

2/11『十三人の刺客』-名作の名に恥じない

2/17『パラサイト 半地下の家族』-凄いに決まっている

2/18『グッモーエビアン!』-これが大泉洋

2/23『地下室のメロディー』-完成度の高さは折り紙付き

2/24『情婦』-有名なネタバレ禁止映画

2/29『絞死刑』-構造的不可能性

3/1『友だちのうちはどこ?』-構成も描写も見事な

3/9『ビヨンド・サイレンス』-基本的に良質なドラマ

3/15『THE TUNNEL』『The Good Fight』-あまりに高品質なテレビドラマたち

3/15『月に囚われた男』-オールドファッションなSF映画

3/21『君に読む物語』-感動的でもあり気持ち悪くもあり

3/22『インデイペンデンス・デイ リサージェンス』-同工異曲の縮小再生産

3/27『フライト・ゲーム』-怒濤の展開

3/29『桜桃の味』-フレームがわからない

3/29『Bigger Than Life(黒い報酬)』巨匠のハリウッドエンタテイメント作品

4/2『HAPPY HOUR』-5:17の至福

4/4『アウトロー ジャック・リーチャー』-楽しみ方をはずした

『トラフィック』-手堅く立体的に描かれる

4/5『夜明け告げるルーのうた』-イマジネーションの奔流

4/10『思い出のマーニー』-良い映画であることを妨げる要素が多い

4/12『リメンバー・ミー』-脱帽

4/20『パーフェクト・プラン』-小品として観るならアリ

4/22『ダカタ』-抑制的でいて切ないSF

5/2『Trance』-あらためてダニー・ボイルの実力の高さ

5/3『ジュリアン』-えっ、これだけ!?

5/4『蜘蛛の巣を払う女』-最高評価

5/5『エスター』-恐怖の並べ方と見せ方

5/9『母なる証明』-「変」であること

5/10『トレイン・ミッション』-ちょっと残念

5/12『Wの悲劇』-青春バイアスによる名作

5/14『殺人の告白』『22年目の告白』-一長一短

5/16『哭声-コクソン』-リアリティの水準

5/21『息もできない』-全編に満ちる切迫感

5/22『ヴィクトリア』-全編140分間ワンカット

5/24『渇き』-語るのが難しい面白さ

5/27『ジャケット』-カタルシスにつながらない

5/31『君の膵臓を食べたい(アニメ)』-「物語」の効用

6/6『パーフェクト・ワールド』-閉ざされた世界への絶望と憧憬

6/6『エヴァンゲリオン新劇場版Q』-やっぱり

6/7『チェンジリング』-盛り沢山

6/9『グラン・トリノ』-映画的愉しさに満ちている

6/14『ジュピター』-スケールについていけない

6/14『Bound』-身の丈にあった良作

6/19『老人と海」-眠気に堪えて

6/21『ハートブレイク・リッジ』-達者なエンタテインメント

6/28『ファイアー・フォックス』-程度の適正がわからない

7/2『ドント・イット』-売り方を間違っている

7/4『めまい』-よくできたサスペンスだが

7/5『ハリーの災難』-アンバランス

7/11『ミッドサマー』-奇妙な決着

7/19『海底47m』-シンプル

7/23『翔んだカップル』-普通なスターというアンビバレンス

7/25『怪物はささやく』-高いレベルの画作り

7/26『ジュラシック・ワールド/炎の王国』-毎度

8/1『ブルー・マインド』-「真面目な」ホラー映画

8/2『ブリグズビー・ベア』-成長を描く多幸感

8/4『お嬢さん』-映画の力

8/6『なぜ君は総理大臣になれないのか』-問いが成立するためには

8/11『MEG ザ・モンスター』-アンバランスの失敗と成功

8/12『パトレイバー  the movie』-大いなる希望

8/16『トゥモローランド』-良い狼に餌を与える

8/18『ヘレディタリー 継承』-ホラー映画におけるカタルシス

8/21『FAKE』-これもまた一つの

8/26『来る』-残念

8/28『マーガレット・サッチャー』-再び

8/29『最強のふたり』-最強の多幸感

8/30『V/H/S』-工夫が足りない

2020年8月30日日曜日

『V/H/S』-工夫が足りない

 POV映画をあれこれ紹介するサイトで知って、観たいと思っていた。以前このシリーズの3作目だけレンタル屋で見つけて観て、さらに評判の良い1作目を、と思うとレンタル屋になく、今回は別のレンタル屋で見つけた。
 観てみると、一向に面白くならない。これがなぜ評価される? それなりに新鮮だったか?
 POVの短編のオムニバスで、全体を統一する「VHSテープ探し」が途中に挟まれる「ファウンド・フッテージ」もの。
 全体として3作目の方が一編一編が工夫を凝らしたお話を作っていた。だが本作はまとまりのない断片に終わるばかりで、どれも、これで終わり? という印象だった。そのわりに演出の工夫はそれほどなく、いたずらに「未編集」っぽいダラダラとした描写が続く。観客に、その時間をつきあわせるほどの話の構成が緊密にされていない。
 POVのお約束の画面の揺れも、面白いと言うにはあまりの揺れ具合で、もはや何が映っているかわからない時間が長く、それが臨場感だとかいう以上に苦痛なほどだった。
 低予算なのはしょうがないが、工夫がないのはなんら許される事情ではない。

2020年8月29日土曜日

『最強のふたり』-最強の多幸感

 先に『グリーンブック』を観ているので、『グリーンブック』っぽいと思ってしまうが、順序が逆だ。
 『グリーンブック』で描かれるような人種差別は、それほど重要な要素ではなかった。もちろん、フランスの移民問題や階級問題が背後にあるとしても。
 ともかくも、ハートウォーミングな映画として実に良かった。ラストはこんなに鮮やかなハッピーエンドでいいの!? と気が引けてしまうくらい。
 とりわけアース・ウインド・&・ファイヤーの2曲がかかる二つの場面の高揚感ときたら。誕生日のダンスシーンは、そこにいる多くの人々のさまざまな感情をざま要素を編集や演出や演技の粋をつくしてすくい上げ、それをEW&Fのグルーブにのせる、本当に見事なシーンだった。

 映画館で集中して観れば『グリーンブック』並みに思えただろうか。

2020年8月28日金曜日

『マーガレット・サッチャー』-再び

 家人が観るのにあわせて、通しで観直してしまった。ここ1年のうちに観た映画の一本。
 やはり、どこをとっても実にうまい。そこに描かれる感情の機微がいちいち的確で豊かだから物語の筋を追うだけでなく、場面場面を観ることの喜びがある。
 そして物語全体は、得ることの喜びと失うことの悲しみが対照的に、強い振幅で描かれるのだった。老境を描く物語なのだから失うことの悲しみはもちろんなのだが、これが、最後の最後でその悲しみを最大に描いたところでおだやかな現状肯定で終わるという、実に見事な着地を見せる。
 あらためて素晴らしい一編だった。

2020年8月26日水曜日

『来る』-残念

 夏のホラー映画特集ということで。原作は面白かったし、『告白』の中島哲也ということでハードルが上がっているが果たして。

 残念なことに『告白』ほどの満足はなかった。
 最初のうちは、中島哲也の映像ってのはなんでこんなに高精細に見えるんだろうなどと感心していた。
 人の心の闇にやってくる化け物というコンセプトは原作通りで、映画は、妻夫木聡・黒木華夫婦の心の闇を描くことについては成功しているが、その分、化け物の描き方の方がおろそかになっていると感じた。怖くない。
 怖くないのはかまわないのかもしれない。ホラー映画をまともに作ろうとはしてないようでもある。松たか子が容赦なく岡田准一を殴り倒す唐突さには笑った。
 原作から離れた化け物退治の大がかりな仕掛けは確かに盛り上がった。映画のキャッチフレーズが「エンターテイメント」であるのはよくわかる。ただ楽しいだけの高揚感というだけではなく、呼び寄せたメンバーがあっさり殺されてしまうあたりのびっくりも悪くない。
 とりわけ、新幹線で現場に向かう術者たちが、気配を感じて急遽、新横浜やら品川やらで分散して降りることにして、「誰か一人でも着けばいいだろ」というようなことを言う、不気味さと日常の隣接した描写にはしびれた。
 いろんな宗教が混交したお祓いの儀式も、面白いと言えば面白い。
 だが、チームプレイが功を奏しているような様子が描かれるわけでもなく、壊滅状態になっていく際の緊迫感のなさも、残念だった。大がかりに準備した割に、お祓いとしての効果も、映画的な感動も、どう描こうとしているのかわからないのだ。
 同時にそのあたりで描かれるCGのチャチさも興ざめ。
 ハードルが上がってなければ、面白い映画であるとは言えるのだが。

 ところで、ホラー映画は定期的に観たくなるのだが、レンタル屋の棚を観ながら、これから観たいと思う映画があまりに少ないことをあらためて思い知った。とりわけ邦画に期待がもてない。ゴア・ムービーやスラッシャー・ムービーは観たくないので、それで選択肢が狭まっているとしても、残念なことだ。

2020年8月22日土曜日

『FAKE』-これもまた一つの

 「全聾の天才音楽家」佐村河内守を追ったドキュメンタリー。
 『なぜ君は総理大臣になれないのか』の映画評を漁っている時に森達也の文章を見つけて、ついでにまだ観ていない本作がレンタル屋にあるかどうか探してみたら見つかったのだった。
 『A』以来数年ぶりの森作品。その間、作品を観ていないのに、森達也自身の言説や森達也に対する言説はあちこちで見かけもしている。観るための構えは、ある程度はある状態で観始める。
 それはつまり、真実の相対性やら主観性やらといったドキュメンタリー作家としての姿勢だ。
 そして本作の題名が「偽造・捏造」だというのだから、どういう映画になりそうなのかは見当がつく。そしてそれは大筋では外れていない。
 映画では驚くほど説明不足で、もともとの「ゴーストライター騒動」を知らないと観られない。これでは作品としての完結性を持てないと思うが、それを説明し出すときりがなく、同時にそれをやっていると逆に映画としての独立性が保てなくなるんだろうという判断なのだろうか。
 ともあれ、映画では親切には説明されていないが、一応問題のNHKスペシャルも佐村河内本人の会見も当時見たので、背景はわかるつもり。

 画面に頻繁に登場する猫が可愛いとか、奥さんとの愛が感動的、などというつもりは毛頭ない。夫婦に、互いの愛を口にするよう促す場面など、むしろ不快だった。
 やはり面白さは「事実とは何か」という問題をこの映画がどう描いているという点に感ずるべきだろうと思う。
 つまりは、マスコミによる美談からその後の全否定への、両極端の振幅の中で、中立的に事実を捉えようというしつつ、そこで伝えられる「真実」がどうなるかについての予断も結論もないというのが「森達也的」なんだろう。
 ということは題名の「FAKE」とは、かつて偽物と呼ばれた佐村河内本人を指しているとともに、それを伝えたマスコミの報道を指しているのだろうが、同時にこの映画そのものをも指していることになる。当然森はそのことに自覚的なはずだ。
 例えば「衝撃のラスト」と紹介される最後の、エンドクレジットさえ終わった後の問い。「何か嘘をついたり隠したりしていることはありませんか?」と聞いて、長い沈黙の後、佐村河内が答える前に映画は断ち切れてしまう。観客は何かあるのではないか、という疑いを抱く。抱かせるように編集している。
 だが映画の途中で佐村河内に「森さんは僕を信じていますか?」と聞かれて、森は「信じなければ撮れない」と答える。
 これは論理的に矛盾している。信じているなら、嘘をついていないか、という問いは発生しない。
 もちろん途中の「信じている」が嘘なのだ。
 「信じている」などという言葉は森の基本的な姿勢と矛盾している。森が佐村河内の言うことを全て真実として受け取るはずはない。取材中、常に「どっちなんだろう」と思いながら取材しているに決まっている。だが「信じている」と言わなければ取材は終了してしまうから、そこではそう答えざるを得ない。
 つまり作者が取材対象である佐村河内本人を騙しつつ、映画全体が観客を騙している。途中まで、世間の佐村河内全否定に対して、真実の佐村河内守を伝えるかのように誤解させるが、そんな映画を森達也が作るわけがない。
 とすれば、どこまでいっても「FAKE」でないものなどないという当然の事態をこの映画自体が示しているわけだ。

 一方で「信じている」のは、たぶん本当でもある。それは佐村河内の言うことを事実だと受け容れるという意味ではなく、対象に真摯に向き合うつもりがあるという意味だ。
 だが途中まで、淡々と佐村河内を写しているだけの取材の突っ込みの浅さには、いかんせんもどかしく思っていた。
 それでもテレビ番組の制作者が登場して、またマスコミという装置がいかに真実を無視して、目先の面白さをでっち上げるかを暴露してしまうくだりなど、もちろん面白い。
 だが「マスコミ」の軽薄さを暴いて、では森は何を描くか。
これが外国人記者による佐村河内取材の場面から一転する。記者の質問は的確で、そこを訊きたい、という観客の欲求を満たしてくれる。これをなぜ森本人が問わなかったかといえば、上記の通り、自分を守ることに精一杯になっている佐村河内を取材し続けるにはしかたのないことだったのだ。
 ともあれ佐村河内の言葉を受け容れる方向に引っ張られていた観客の姿勢が、このインタビューによって、もう一度、健全な疑惑の側に戻される。
 そして、試写の際には口外を禁じられたという「ラスト12分」に至る「物語」的流れが形成される。
 本当に佐村河内守は音楽が作れるのか?
 なるほど、作れるのだった。
 だがその音楽はひどく凡庸だと感じた。これは主観的な問題なので、それを感動的と感ずる人がいてもいい。
 なるほど、だから佐村河内守は「ペテン師」だと言うつもりはない。彼はプロデューサーなんだろうし、宣伝担当でもあるのだろう。それが一時の成功をもたらしたのは間違いなく、あとはマスコミやら大衆やらがのせられただけだ。皆がそういう「物語」を消費したかったんだし、それができて経済的にも感情的にもそれなりに満足したのだった。
 そしてこの映画もまたそうした、この素材に対する新しい切り口による消費の一つだ。
 その意味では大いに楽しませてもらった。

2020年8月18日火曜日

『ヘレディタリー 継承』-ホラー映画におけるカタルシス

 順番が前後したが『ミッドサマー』のアリ・アスター監督作だ。
 各方面の絶賛を聞いているから、期待はいやが上にも高い。
 『ミッドサマー』でも、その演出力には信用がおけるから、ある意味で安心して観られる。安心して観られるホラー映画。

 だが、どうだろ。ホラーとしては。
 多分、結局宗教的なところに落とすという、あのキリスト教文化圏的なホラーの枠組みになじめないのだろう。生きている人間ならばサイコスリラーか、オカルトならば個人的怨嗟による祟りなら受け容れられる。
 が悪魔が降臨することが恐怖の対象になることが文化的にピンとこない。

 ということで、最後のところで全面的に満足とはいかなかったが、もちろん途中は面白かった。それはなんといっても演出の巧みさによる。
 とはいえ、ホラーとしてよりも、家族の心理的軋轢を描いたスリラーとしてだ。もう、トニ・コレットのあまりに見事な演技に負うところが大きい。
 筋立てとしても、ちゃんと伏線を張って、それを回収しつつ物語を悲劇的に収斂させていく物語作りがうまいのは確か。
 そうはいいつつも、最後に向けての壊れっぷりは、それはそれで『ミッドサマー』もそうだったっけ、という思いで、半ば笑って観てもいた。
 だがホラー映画も、実は勧善懲悪のハッピーエンドであってほしいのだ。そうでないところが怖いのだ、という場合もあるのかもしれないが、そうでないことにはカタルシスがないではないか。
 全面解決でなくとも良い。どこかに救いがなくて、なおホラー映画を楽しいと思って見終われるのだろうか?

2020年8月16日日曜日

『トゥモローランド』-良い狼に餌を与える

 一緒に子供と観ていたりして、2度ほど途中まで観ては止まってしまっていた。その後自分で最後まで観きるきっかけがなかった。
 そうこうするうちにあちらは最後まで観てしまい、こちらはこちらで決着をつける。
 前半は3回目だが、そのままの勢いで後半に流してみても、あらためて見事なプロダクトだと思う。ディズニー映画の脚本作りの手堅いこと。先の読めない展開の中で、次々と謎の提示を繰り出しつつ、観る者をひきずりまわす。
 脚本だけではない。未来世界のビジュアルイメージも大したものだ。
 そして演技陣も。ジョージ・クルーニーやヒュー・ローリーが達者なのは別に驚きもしないが、ヒロインのブリット・ロバートソンとラフィー・キャシディが魅力的なのは、驚くほどだった。回転の良い台詞と感情の入れ替わり、くるくる変わる表情に反応の良い動きが溌剌とした精神の発露を感じさせる。脚本の台詞と演出と本人の演技が噛み合って、みごとな人物造型だった。
 ラフィー・キャシディの演ずるアンドロイドも見事に魅力的ではあったが、好みを言えばもっとアンドロイド然としていてほしくもあった。アンドロイドの妙味は、感情がないはずの人型にこちらが感情を投影してしまうところなのに、彼女はあまりに感情(と見えるように描かれている)に溢れていて。

 一方で、敵役の造型もとても良い。
 なぜ彼が主人公と敵対するか? 人類に絶望しているからだ。
 一方の主人公は「夢見る人」である。
 悲観論と楽観論はともに究極的な根拠のない、性格的な傾向に由来する。だからこの対立はどちらの正当性も証すことができない。
 だが、悲観的な未来を知ることでそれが自己実現することを「悪い狼に餌を与える」という比喩で語り、そのサイクルを断ち切ることが事態を好転させるという理屈だけは、かろうじて認めても良い。絶望するから望みが絶たれるのだ、とは同語反復だが、因果関係は時に疑ってみる必要があるのだ。
 したがって物語の結末は安易な陰謀論への攻撃でも安易な楽観論でもない、「良い狼に餌を与える」という真っ当なメッセージに力を与えることになっていたと思う。

2020年8月12日水曜日

『パトレイバー  the movie』-大いなる希望

 邦画№1は『パトレイバー2』だという話題になって、観ようかという話になったのだが、そもそも『パトレイバー』の基本設定やら人物やらを知らないというのでまず1から。いや、それよりOVAシリーズやテレビシリーズから見る必要があるのかもしれないが。
 この劇場版第一作は何度目かはわからない。何度も観ている。とはいえ20年ぶりくらいかもしれない。

 30年以上前の映画だ。
 だがやはり圧倒的だった。アニメーションも話の展開も。
 画の美しさや動きの見事さはもちろん、有名な廃屋をめぐるシークエンスに感じる胸騒ぎも相変わらずだったし、ストーリーの展開するスピード感もサスペンスも、何度見ても見事だ。
 そして人物の描き方も。
 これほど見事な作品が存在することは、やはり人生にとって大いなる希望だと思う。

2020年8月11日火曜日

『MEG ザ・モンスター』-アンバランスの失敗と成功

 歴代サメ映画の興行収入№1だという。期待される面白さの方向は決まっているから、見やすい。観始めるときの億劫さがない。
 で、観終わっての満足度もそれほど高くはない。だが期待とのズレは大きくないから許せる。

 これでもかと、敵の強大さを描くことは必ずしも物語を面白くさせない。
 これが『トレマーズ』ほど面白くないのは、バランスを欠いているからだろう。というより『トレマーズ』の面白さが、バランスの中で形成されているということか。つまり、工夫によって対抗できるような危機の描き方が巧みだったのだ。
 だから、モンスターを強大にすることは必ずしも面白さにつながらない。
 脅威に対して暢気すぎるではないかというあれこれの行動にも不審を覚えるし、最後が肉弾戦なのも、それが敢えてなのはわかりつつも納得できない。
 海が怖いと感じるということなら、小規模映画の『海底47m』の方がよほど怖かった。

 一方で、この映画の最大の成功は、海水浴客の足下をMEGが通り抜けていくのを上空からとらえたショットだった。ここだけは、そのあまりの非日常性を生み出すために、あまりに大きなサメという設定の成功しているシーンだった。
 それでも、あんな水深のところを、大勢の海水浴客が泳ぐなんてことはありえない、という突っ込みはしたくなってしまうが。

2020年8月6日木曜日

『なぜ君は総理大臣になれないのか』-問いが成立するためには

 まず先に映画を観るという企画があり、上映館も決まっており、そこで上映中の映画で観たいと思えるのはこれしかなかったという理由で選んだのだった。ネットで検索してみると森達也のレビューがあったりもして、観たいとも思えたし、これがこの後、テレビ放送されそうな予想はできないし、レンタル屋に並ぶかどうかも怪しい。見ておこうと思った。
 で、大いに成功だった。ものすごく面白かった。

 申し訳ないが小川淳也はこれで初めて知った。そういえば「統計王子」というのが話題だという話を聞いたような気もするが、気のせいかもしれない。
 香川県から出馬している衆議院議員の、32歳の初出馬から17年後の今までを追ったドキュメンタリー。出馬の時のインタビューで「総理大臣になりたいか」と問われて「やるからには」と答えているが、毎回の選挙で勝つのも容易ではないし、党内での出世もままならないまま17年経つ。
 真っ当な人だった。真っ当に、良かれと思ったことをやり続けている。だが、総理大臣になれそうな見込みはいっこうに現実化しない。
 様々な局面で様々に思い悩み、何事かを決断していく。報われることもあるが、報われないことも多い。状況は様々な要因の絡み合いで動いていく。様々な人々の思惑のぶつかりあいや、小川本人の義理人情や。そうした現実の手触りを巧みに描いている。よくできたドキュメンタリー作品だ。人間状況世界がきちんとそこにある。
 民主党(民進党)系であることから、「希望の党」合流騒ぎに巻き込まれる2017年の衆院選が映画全体のクライマックスになっていて、構成としてもドラマチックに見せる。慶應義塾大学経済学部教授の井手英策氏の応援演説は感動的で、劇中でも本人や家族が演説中に涙ぐむ様子が映されるが、見ているこちらも泣かされた。

 政治論としても実に興味深い様々な要素を見せてくれるのだが、やはり映画全体の面白さは小川の人柄に依拠している。単に魅力的だということではない。
 総理大臣をやるということが現実的である思えるほどに有能で、それにふさわしい人格も兼ね備えて、そこを目指してもいるのに決して現実化しそうもないのがなぜなのか。そうした問いが本当に成立するためには、小川という存在が不可欠なのだ。
 どこぞの泡沫候補やタレント議員ではこの問いは成立しない。
 あるいは政党内の力関係や財力で当選している議員でも。
 あるいは、地方議会で地域の人々のために良い仕事をします、という議員では。
 「なれない」ことが当然であると思えてしまうのでは。
 例えば石破茂が「なぜ総理大臣になれないのか」という問いは、それはそれで成立するし、それを本当に追ったドキュメンタリーは相当に面白くなるだろう。
 小川もまたこの問いが成立すると思える政治家であり、なおかつとりあえずはなれるはずもないとしか思えない。
 そしてそれは監督がネットで言っていたが確かに、小川を総理大臣にさせられない我々国民の問題である。

2020年8月4日火曜日

『お嬢さん』-映画の力

 パク・チャヌク監督作ということで、この間の韓国映画特集のレンタルDVDの新作紹介で何度も観ていて、ようやく。
 エロチック・ミステリーというのだが、どこがミステリー? と思っていると、第一部の終わりで呆気にとられるようなドンデン返しとなる。それだけではなく、第二部ではそれをもう一度ひっくり返してみせる。なるほどミステリーだ。
 実は、といって真相を知らせる際に、前と同じ場面を、違った角度から違った意味合いで見せる。
 そもそも原作が創元推理文庫で「このミステリーがすごい」の1位だというのだから、話の骨格はミステリーとして間違いないのだった。
 だがそれだけではない、映画としての魅力に満ちている。…のだが、これがまた『渇き』同様、語るのが難しい。
 とりあえず舞台となる豪邸やら庭やら、映画として定着された画の美しさ、というのはある。美しいというと平板だが、それは現実の風景ではなく、「映画」の中の空間として感じられる、ということだ。自覚なしに作られた映画では、風景はそうは見えないし、ましてテレビの中の空間とは完全に違う。
 とりわけ、屋敷の地下室の広大な、書庫と併設された和室は、そこで繰り広げられる朗読会の怪しさと共になんとも印象的な空間だ。

 だが、こんなことしか言えないところが、語るに難しいパク・チャヌク監督作の面白さだ。
 映画としての力、などというのはあまりに雑なのだが、それが満ちているのは確かなのだ。

 エロチック要素は要るのか? というのがどうも腑に落ちないのだが、それを抜くと動機が弱くなるのでしかたないのだろうか。別にそこが映画の魅力を増しているとは思えないのに。

2020年8月2日日曜日

『ブリグズビー・ベア』-成長を描く多幸感

 先に絶賛レビューを知っていて、その期待で観るとはたして裏切らないのだった。
 誘拐されて外界から隔絶された生活を25年送った青年が、警察の捜査の結果、元の生活に戻る。誘拐犯は元大学教授とその妻で、軟禁生活の間、自作の「教育番組」を見せていた。それが題名の「ブリグズビー・ベア」なのだが、「外界」に適応しようとする青年は、しかし「ブリグズビー・ベア」の続きを作ろうとする。
 設定の共通性からどうしても『ルーム』を連想してしまうが、あちらは堂々たる名作であり、こちらはあちらほどのドラマの強さはないものの、多幸感は大きい。とても良い映画だった。

 ネットでは創作の喜び、という方向で語られることが多いようだ。特に映画が好きな人は映画作りの喜びという枠組みで理解しているようだ。
 だが映画を作りたいという情熱が周囲を巻き込んで成功に至る、という話として捉えるのはちょっと違う気もする。好きなことをひたすらにやることは素晴らしい、といったメッセージとは。
 彼の作った「ブリグズビー・ベア」の断片は、「続き」というより「完結」を目指しているように見える。
 とすれば彼の映画作りは、幼児期に懐古的に戻りたがっているというより、それを終わらせ、そこから踏み出そうとしているものと受け止めるべきなのではないか。

 といってそれは「ブリグズビー・ベア」の否定というわけでもない。
 「ブリグズビー・ベア」の内容を直接観客が見ることはできないから、それをNHK教育あたりの幼児向け番組のようなものをイメージしておくと、それはおそらく基本的な人間愛や道徳を教えているのだろう。
 そこには非現実的な簡略化はあるかもしれないが、基本的な人間のあり方としてそれを否定する必要もないはずだ。
 とすればそれはあくまで揺籃の如きものとして受け入れつつ、そこから現実を、それにふさわしい精度で受け止めるようにしていけばいいはずだ。それこそが「成長」というものではないか。
 とすれば、この映画がもつ多幸感は、幼児期に戻ろうとする退行的なものではなく、真っ当な成長が持っている(だが楽天性に支えられた)前向きなものなのである。 

2020年8月1日土曜日

『ブルー・マインド』-「真面目な」ホラー映画

 レンタル屋の棚から、その場で面白そうな物を選ぶ。大抵は海外の映画祭で何か受賞しているというような宣伝がジャケットに書いてある。そういうのが真に受けるに値するほど面白いものばかりではないが、地味に良い映画であることもままある。真面目に作られた小品であるような。
 スイスの映画賞で作品賞だというのだが、これもそういった作品だった。
 主人公の少女が人魚に変化してしまう、というホラーなのだが、恐怖を描こうという気は制作者にはない。怖くない。映画の中では本当に人魚になってしまうのだが、同時にそれは全く象徴であることがあまりに明らかだ。
 描かれるのはティーン・エイジャーの荒んだ生活であり、そこに惹かれていく主人公の変化である。人魚になることはその変化を象徴的に描いているのだが、丁寧に、真面目に、美しく描いているとは思ったが、結局のところ、彼女がなぜそんな風にはみ出してしまわなければならないのかがわからなかった。
 これがこちらの読解力不足なのか、映画の描写不足なのか、どうもわからない。
 タッチは好意的に受け止められるのだが、手放しで面白かったとは言えない。真面目な映画ではあるが、ホラー映画を作ろうという気がないのになぜホラー映画の形式をとるのかはついにわからなかった。