2018年9月30日日曜日

『メアリと魔法の花』-っぽい情緒だけが描かれる

 録画してから観るまでに間が空いたのは、それだけ期待していないからだが、一方で観始めるハードルも低いんで、そのバランスで観てしまった。
 冒頭の、赤毛の魔女の脱出のシークエンスは、意外によくできているんで感心した。ジブリアニメのレベルと変わらないじゃん、と思いつつ、もちろんジブリ過ぎて、二番煎じのそしりはまぬがれない。いきなりの脱出から墜落まで、まるで『ラピュタ』じゃん、とか。
 それでも、確かに良くできてはいるのだ。例えば冒頭のシークエンス。火災が起こっているらしい大きな建物を映すショットからカメラが下がって、動きのある人物を捉えてそこをアップしていくと主人公が追手から逃げている。壁の外を移動していくと足元の石垣が崩れて、慌てて手近な石垣に掴まった手元に袋が提げられているのが見てとれると、そこにカメラの焦点が絞られて、追手の「花の種を持っているぞ」という説明の科白がかぶる。大胆でスピード感のあるチェイスから、一瞬の止め画の「魔女」のアップは、意志の強そうないい顔をしている。そこから空中の逃走劇の果てに地上への墜落と魔女の花による森の異常成長。ジブリアニメ的期待を煽るのに充分成功している。
 だがその後は、観ていてもどうにもわくわくしてこない。こないままに映画が終わる。短く感ずる。中身がなかったなあ、と思う。
 だがアニメーションのレベルは最後までずっと高い。絵も、動きも、美術も、ジブリアニメのレベルを落としてはいない。だから画面を見ている分にはよくできた映画に見える。
 だが物語のレベルは低い。ストーリーの起伏も、人間ドラマも、部分的な演出も。
 宮崎駿がすごいのは、あれだけ優れたアニメーターでありながら、脚本家としても、人間を描く演出家としてもすごいからだ。米林監督はおそらく優れたアニメーターなのだろうが、人間を描ける演出家ではなく、この映画は優れた脚本家を擁することもなかった。
 惜しいことだなあ、と心底思う。ジブリ映画に対する期待から結局ヒットするのだが、このレベルの映画がビッグ・バジェットで作られ、多くの子供がこれを親と映画館で(あるいはお茶の間で)観るのは悲しいことだ。子供の頃に、ワクワクして、それでいて人間に対する深い洞察の得られる映画を観るという経験をすることが出来ないというのは。

 具体的にケチをつけ始めるときりがない。人物の背景も描かれないし、人物同士の絆が形成される過程が描かれているわけでもないのに、情緒的な感情の交流は唐突に描かれる。犬が妙なデザインで登場したかと思うと別に物語に絡まない。物語に重要な「使い魔」の役割に収まる猫は可愛くない。どうしてそういうデザインにするのかわからない。おそらく意味あり「げ」にするためにわざわざ歪なデザインをしていて、それが生きていない。
 人間を描くのも、こうした「げ」が基本原理だ。かつて魔女の花の種を盗み出した魔女であった大叔母さんは、階段に落ちている魔女の花を見つけて、それがアップになった後でようやく「これは!」と驚くし、囚われの身となったメアリに飛び掛かって「この魔女め!」と叫び、メアリに「ピーター」と呼ばれてからようやくピーターは相手がメアリであることに気付く。いずれもそのことに気づくのが不自然に遅い。お芝居のリズムがまるっきり大根なのだ。もちろんこれは人間の振る舞いの自然さよりも、アニメ的な情緒を描くことに頭が使われている演出のせいである。
 ドラマツルギー的にも同じことがいえる。主人公が森に入っていくことから物語に巻き込まれるのだが、そこに誘う二匹の猫が揃って目の前に現れた途端、主人公は「あんたたち恋人だったの!」と言う。どういうわけでその二匹が雌雄で、どういうわけで恋人と判断されているのかはわからない。
 猫たちがどういう必然性で主人公を魔女の花の在処まで誘ったのかもわからない。魔女の花に対して猫たちは警戒心を剥き出しにする。それが何かの異常事態を表していることを示していることはわかるのだが、猫たちにとって魔女の花がどういう脅威なのか、どうしてそこに主人公を誘ったのかはわからないままだ。
 つまりどこかで見た物語の情緒は描かれるのだが、そこに必然性を与えるドラマツルギーとしての因果律は考えられていないのである。
 だから、異界への往還やら脱出劇やら救出劇やら勇敢な冒険やら、思い返してみると大活劇として充分なストーリーラインは存在するのに、どうにもそれが面白くはならない。
 マダムと博士の最初の実験の失敗の犠牲者のその後とか、森の入口でメアリと喧嘩をして別れた後のピーターが後悔して森に引き返す場面とか、それが描かれれば物語が深みを増すはずの要素が描かれない(もしかして放送時のカット?)。

 作品としての思想には、人間の手に余る科学技術批判があるらしい。監督自身がそう発言しているとのことだ。明らかに原発事故の隠喩と思われる実験の暴走が描かれるのだが、こうした思想の表現も結局「げ」でしかない。
 原発の問題は、例えば受益者が社会全体であることや、事故に至る背景に組織の論理に人々が流されてしまうことなのに、マダムと博士をいわば悪役・敵役として描いてしまうことで、問題をまるっきり原発の問題とは別次元にしてしまう。にもかかわらず「人間の手に余る科学技術批判」という情緒だけは描いているつもりなのだ。

 いかん。きりがないと言っていたのに、ついやってしまった。ないものねだりってのは虚しいことだとわかっているはずなのに。

ceroの「Orphans」の歌詞を読む 2 -境界を失った世界の閉塞感

承前

 まずは冒頭の2行。
終日 霧雨の薄明かりが包む 白夜の火曜
気が狂いそうなわたしは
 家出の計画を実行に移してみる
「ひねもす」という耳慣れない(もしくは高校の古典の時間に与謝蕪村の句に使われていたのを覚えている人もいるかもしれない)言葉で歌は始まる。漢字では「終日」と表記されていて、「一日中」という意味だから、これがすぐ後に出てくる「白夜」と響き合って、夜となく昼となく、どうにもはっきりしない、いつともしれない時間が続くのを感ずる。
 世界は境界を失っている。「霧雨」は晴れでなく、さりとてざあざあと降るでもない中途半端な天気だし、「薄明かり」は「白夜」と併せて、昼間でも夜でもない、といって明け方や夕方のように変化しつつあるわけでもない、いつとは知れない時間帯である。そして今日は、週の初めの月曜日や週終わりの金曜や土曜ではない、これもまた中途半端な「火曜」である。
 「白夜」とあるのをそのまま読めば、以下の登場人物が我々のよく知る「高校生」っぽさを湛えているにもかかわらず、これは我々の住む世界の出来事ではないのかもしれない。まさかノルウェーやグリーンランドを舞台にしているとは考えられないから、あるいは異世界を舞台にした物語だということかもしれない。
 またあるいは「白夜(のような)」という直喩が省略された隠喩なのだとすれば、やはりこれは現代の我々が住む日本の話で、今日は朝からずっと霧雨が降り続く、薄暗い一日だったということかもしれない。

 さて、世界把握の定まらないまま物語はすぐに主人公のおかれた状況の説明に展開する。天気のせいか、それともそれとは関係なくなのか、物語の主人公は「気が狂いそう」だという。すぐに続く「家出」という単語から、それがなんらかの鬱屈、生活上の不満のようなものによるのだろうと聴き手は推測する。
 「家出」という言葉は、その行為者が「家」に縛られた存在であることを逆に示している。単身者なら、本人が移動してしまえば後に「家」が残りはしない。家長ならば「失踪」も「出奔」もしようが、その者が家「長」である以上は、言葉の定義上「家出」はしないはずである。だから「家出」するのは「家」に従属する者である。主婦か、多くの場合、子供である。
 「気が狂いそうな」という複雑な内面を備えているところからイメージされるのは中学生以上の思春期の子供であり、すぐ後にクラスメイトがオートバイを持っていることから、これが我々の知っている日本だとすると高校生なのだろうと措定される。
 「気が狂いそう」である理由はその後も具体的には語られない。だから結局、最初の設定に見られる、境界を失ったままいつとも知れぬ時間が続く世界、あるいはそうした世界観に象徴されるような気分そのものが主人公の鬱屈の原因なのだと考えるしかなさそうだ。いつかは週末になって雨が本降りになり、家に引きこもったまま夜になって眠りにつくことも、そしてその後でははっきりと夜も明け、晴れもし、世界を見渡すこともあると信じられない、このまま曖昧な時間が永遠に続くように感じられてしまっているというある種の閉塞感が、主人公の抱える鬱屈なのだろうか。
 だが、そこから逃避するための「家出」は、あらかじめ「計画」されたものであって、衝動的なものではない。「うつす」というのは、「家出」が本人の中で何度もシミュレートされたものであることをうかがわせる。
 そして注目すべきは「うつしてみる」の「みる」である。何度も繰り返されたはずのシミュレーションを実行にうつすにあたっても、なお「みる」と言ってしまう。どこまでもシミュレーションの続きだといい続けるその、本気ではない、あくまでも試すだけなのだという保留に、自分の置かれた状況を、一歩引いて眺める客観性とともに、主人公の躊躇い、怖れもほの見える。

2018年9月29日土曜日

ceroの「Orphans」の歌詞を読む 1

 ceroの「Orphans」の歌詞が気になっている。
 歌詞の断片を聴き取るにつれ心が惹かれていくこの感じがなんなのか、しばらく考えてみると、それが驚くほど大量の言葉を生み出していくのを感ずる。それをできる限り正確に捉えて書き留めてみよう。

 基本的に音楽を聴くときには、サウンド(音の感触)、リズム、コード(和音)、メロディーを、どれが決定的だということもなく聴いている。そして基本的には16ビートの、テンションコードを多用したような、途中に転調があったりするような音楽が好きなのである。
 歌物の場合は声もサウンドの一部として重要な要素だし、それがメロディーを奏でているもいる。メロディーは、裏に入ってきたりすればリズムにもかかわってくるし、その音がコード上のどの音にあたるかによって、和音感が変わってくる。メロディーがテンション・ノートにあたっていて、スケールから外れていたりするのも楽しい。
 つまり「歌」は重要だが、それは音楽的な効果として重要なのであって、歌詞を聞くことはほとんどない。
  だが時折、歌詞が聞こえてくる歌がある。もちろん常に歌詞は聞こえているはずだが、それらはいつもは意味のつながりとして意識されていない。それが、意味のつながりとして聞き手の私にとって「意味」を帯びてくる「歌」が、時折あるのである。
 ceroの「Orphans」はそうした歌のひとつだった。
 もちろん最初は音楽として耳を惹きつけたのだった。ワウの効いたギターカッティングに続いて、口笛とエレピで奏でられるリフが始まるだけで、もうその音楽的魅力に囚われてしまう。


 だが、繰り返し聴くうち、その詞=言葉が次第に一つの物語を浮かび上がらせていくのだった。

終日 霧雨の薄明かりが包む 白夜の火曜
気が狂いそうなわたしは 家出の計画を実行に移してみる

冴えないクラスメイトが 逃避行のパートナー
彼は無口なうえに オートバイを持っていたから

サービスエリアで子どものようにはしゃぐ
クラスメイトが呑気で わたしも笑う
弟がいたなら こんな感じかも
愚かしいところが とても似ている

(別の世界では)  二人は姉弟だったのかもね
(別の世界がもし) 砂漠に閉ざされていても大丈夫

あぁ 神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて
あぁ わたしたちは ここに いるのだろう

終日 乗り回して町に戻ってきた 白夜の水曜
疲れ切った僕は そのまま制服に着がえて学校へと向かう

休んだあの子は 海みて泣いてた
クラスメイトの奔放さが ちょっと笑えた
姉がいたなら あんな感じかもしれない 別の世界で

あぁ 神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて
あぁ 僕たちは ここに いるのだろう

続く

2018年9月28日金曜日

『ブルー・ジャスミン』-彼女の愚かしさに同情できるか

 ウディ・アレンの映画を面白いと思ったことがなくて、積極的に観てこなったので、自分にとって最近のウディ・アレン映画がどれだったのかももうわからない。下手をすると10代かもしれない。とすると映画を見る目もなかったろうから、真っ当な評価をしているわけはない。
 さてそういうわけで何十年ぶりかのウディ・アレン映画だが、観始める、さすがに上手くて唸らされる。やはり見る目がなかったのだろう。
 でもまあ、この映画は特別に上手いのかもしれない。ケイト・ブランシェットの演技の上手さが味方して。
 この間、映画における時間の描き方についてちょっとふれたことがあるが、この映画では、映画的「現在」と「過去」がしょっちゅう切り替わるのだが、それが観客にとってちっともわかりにくくない。
 そしてその構成が、主人公の背景を知らせることで「現在」の主人公の痛々しさだったり愚かさだったりをいっそう重層的に見せている。
 そしてこの構成は、この物語のいわばどんでん返しともいうべき大ネタを最後にもってくるために必要な、つまり知的に仕掛けられた必然的な設定なのだった。上手い。

 それにしても、主人公の夫がアレックス・ボールドウィンというのは、最近『アリスのままで』で観たばかりで、そのキャラクターもほとんど同じ人に見えるのは、つまり素で演じているということなのか監督の造型なのか、しかも主人公が「ここはどこ?」とかいう(アリスは認知症で、ジャスミンはアル中で)のも同じで、その偶然に妙な感じがする。
 もちろん、シリアスな中にも主人公に対する同情と共感が湧いて、不思議に爽やかな穏やかな感情が残る『アリスのままで』に比べて、『ブルージャスミン』の主人公に同情することは難しい。
 だがああした虚栄心や他人を見下すことで保たれるプライドに共感はできないでもないし、あの、嫌悪感だけを感じても不思議ではない愚かな主人公に対しても、同情ができないでもない気になってくるのは、ケイト・ブランシェットのキャラクターが絶妙なバランスを保っているからだろう。気位の高い元セレブはどうにも嫌味であり、なおかつ愚かしさが痛々しいのだが、その、澄ましていれば気品あり気に見える彼女が落ちぶれるからこそ感じる「かわいそう」な感じは、いっそ突き抜けて同情してしまいかねないのだ。
 もちろんその手前で嫌悪感だけを感じている観客も多いに違いないとは思うが、この映画の評価は、それよりもむしろ筆者のように感じている人が意外に多いことの証ではあるまいか。
 だから、映画のラストで彼女がすっかり壊れて、行き所も失くしているという状況を絶望と感ずるか、しばらく時間が経てば彼女はまた妹のところへ戻って、相変わらずの愚かな人生をなんとかしぶとく送り続けるのかは、どちらにも限定できずに観客に任されていると思う。もちろん筆者は無意識に後者を選んでいるのだろう。

 ところで主人公の継子の子供時代でワンカットだけ映っていたのは、『ウェイワード・パインズ』のチャーリー・ターハンではないか!
 そういえば彼の好感の持てる感じは、最近観た『君の膵臓を食べたい』の北村匠海に似ているぞ。調べてみると一か月違い生まれの同い年。いや、どうでもいいが。
チャーリー・ターハン
北村匠海

2018年9月22日土曜日

『スターリングラード』-精緻に戦闘を描く情熱とは

 ストーリーの跳んでるところがあるぞと思って観終わってから調べてみると、この映画、2時間以上あって、テレビ放送では30分くらいのカットがあるのだった。ああ、また。
 たぶんドラマ的な感動が薄くなってしまったのだろうが、それでもこの映画の作りの高品質なところは充分にわかった。冒頭の戦闘シーンから、もう嫌になるくらい精緻に作られている。嫌になるというのは、先日の『アイ・アム・ア・ヒーロー』をいくら褒めようと思っても、洋画のこういう戦闘シーンは、とにかく桁違いに金と手間がかかっていて、技術とアイデアと構成力も、比較にならないほど質が高いのだった。
 もうどこまでがロケでどこまでセットで、どこまでCGなのかわからないが、スターリングラード市街戦が、かくもあらんやという具合に精緻に描かれる(精緻に事実が再現されているかどうかは知らないが、街がまるごと戦闘の舞台になっていることはわかる。というか、まるごと戦闘の舞台になっている街が、そこに再現されているとは感ずる)。
 そこでは、戦争というのがかくも人命を軽視するもだということが残酷に描かれていたり、権力がどれほど醜悪に保身を図るかが描かれたりする。冒頭近くの上陸作戦では、敵への無謀な突撃命令で、たちまち砲撃で死人の山が築かれていくというのに、退却することを許さぬ上官が、戻ってくる兵士に砲撃を加えて、結局全滅させてしまうという、本当に虚しく腹立たしい戦闘が、実に精緻に描かれる。
 だがこれが映画の本筋ではない。映画はその後、スナイパー同士の、心理戦、作戦、技術戦に重心が移る。
 ジャン・ジャック・アノー監督は、『薔薇の名前』でも、あの手間のかかった迷宮のような図書館を見ても、とにかく質の低いものを作らないというプライドの高いことはわかるが、それが、こういう戦争映画、とりわけ狙撃手同士の駆け引きなどを丁寧に描いた戦闘シーンを描きたい人なのかぁ、と少々意外でもあった。
 そしてこの戦いもまた、実に見事に描かれるのだった。人間ドラマこそ、やや類型的に見えるが、ドイツ軍少佐のエド・ハリスのたたずまいや、美しい外見にも似合わず純朴な人柄を演ずる主人公ジュード・ロウの人物造型は、映画としてやはり素晴らしい達成であると思う。
 そして狙撃手同士の駆け引きはゲーム的な面白さに満ちている。緊迫感も、空間の奥行の感覚も、人物の死の痛みも。
 最後の戦いで、友人の犠牲によって戦いに勝て(それも、三角関係をはさんだ人間ドラマが、まあ類型的ではあるが充分に納得できる論理をもって描かれ)、さて敵がいつ銃弾に倒れるかと思っていると、充分に狙いを定めた銃を構えて、主人公が敵の前に姿を現す。エド・ハリスが認知するより先に銃弾が発射されて、その額に弾痕が生ずるという描写もありうるはずだが、主人公があえて敵の前に姿を現すのは、観ているこちらの期待に適っている。やはり、直接の対峙の瞬間が欲しいのだ。
 だからといって、二人は言葉を交わすわけではない。ただ、エド・ハリスの納得の表情が描かれてから引き金が引かれる必要があるのだ。
 そして倒れた敵は、目を撃たれている。これもまた実に理に適っている。冒頭で子供の頃の主人公の狼狩りの場面が描かれ、そこで祖父が「目を狙うんだ」と言っているのである。そして、主人公が狙撃手として英雄に祭り上げられてから、冒頭の狼狩りの続きの場面が描かれ、そこでは主人公が精神的な弱さから失敗していたことが描かれる。つまり、主人公はようやく冒頭の、自らの弱さを克服したというわけである。
 死んだと思われた恋人が実は生きていて、戦闘が終わった主人公が病院を訪れて再会するという、あまりにベタなハッピーエンドに対する不満もネット上では散見されたが、まあそこだけを言わずとも、この映画は全体として、結構ありがちな論理で展開する物語なのだ。展開としてベタベタでも、病院内を広く見渡す構図の美しさは、やはりこの映画の質の高さを示していると言っていいと思う。

 それにしても、後半の戦いがすっかり個人の男同士の、しかも個人的な人間ドラマを中心にした戦いになって、それこそがこの映画の本筋だというのに、冒頭や途中にもちらちらと、状況としての「戦争」が、これでもかというほど精緻に、大掛かりに描かれるのはなぜなんだろう。狙撃手同士の戦いは、ほとんど西部劇のようなドラマである。それが実際の第二次世界大戦を舞台にしてもいいのだが、その力の入れ具合に、分裂した二つの方向が同居しているように感じられるのはどうしたものか。
 「戦争」をそうまでして再現せずにはいられないその情熱はいったいなんなのだろう。人類としての義務感なのだろうか。

2018年9月21日金曜日

J.Lamotta すずめ

 素晴らしい音楽を知ってしまったという単なる記録。車の中で聴いた二つのラジオ番組で紹介されて、記憶が結びついて、一つだったら流れ去ってしまったかもしれないこの人の音楽が記憶に残った。You-Tubeという便利なものがあって、早速触れることができる。


2018年9月16日日曜日

『10クローバーフィールド・レーン』-「精神的兄弟」ねえ…

 実は先にネット情報で『クローバーフィールド』とは関係がないといってもいいほど、「続編」としては扱いかねる代物だということは知っていた。だが、プロデューサーはJ・J・エイブラムスだし、「精神的兄弟」だかなんだか、とにかく、観ておこうという半ば義務感のようなものである。
 始まると、なるほど、POVではない。だが、いきなりの監禁はSSSではないか。それはそれでもうひとつの好物だ。それで面白いのならそれも良し。
 さて、よくできてはいる。監禁される主人公が愚かで弱くないのは必須条件として、監禁しているジョン・グッドマン演ずるアメリカン親父ハワードは、常識があるのかないのか、本当のことを言っているのか嘘なのか、微妙なバランスをよく描いている。怖い。引っ張られる。
 だが惜しい。3人の限定された閉鎖空間での生活が楽し気に描かれるのに、その一人エメットの死に様に情緒がないのも残念だが、そこから外へ出てのシークエンスに、もう一度ハワードをからめるのはお約束だろ。いつ登場するかと期待してのに、そのまま表れないのは残念。
 同時に、外が本当にエイリアンによって侵略されていて、やっぱり監禁親父の妄想かもという観客の読みがあっさり覆って、意外にもほんとうだったというオチはもちろんかまわないが、肝心の、今しも人類を滅ぼすかもというエイリアンの宇宙船が、蒸留酒の瓶で作った即席火炎瓶で落ちるって、それはいくらなんでも無茶だ。
 だから車が地上に落ちて、主人公が気を失って目が覚める展開で、これは最初の自動車事故から目覚めるところにつながるんだなと予想したら、意外にもそのまんま、宇宙船が落ちる場面に続くので愕然とした。エイリアンが本当に地球を侵略したとか、ましてその宇宙船が酒瓶の火炎瓶で墜落したとか、この馬鹿馬鹿しさは夢オチであることの前振りに違いないと思ったのだが。
 この意外性は予想を裏切られることの喜びよりも、単に稚拙な工夫のなさに感じられて、がっかりだったのだ。

2018年9月12日水曜日

『アイ・アム・ア・ヒーロー』-国産ゾンビ映画の健闘

 ネットで前日譚の方を観ていて、そちらは大したことはないと思っていたのだが、本編はどうも評価が高いようなので、いずれ観てみようとは思っていた。どうやらテレビでは放送できないほどのスプラッターらしいのでレンタルで。
 原作は文句なく名作である。ただし結末までは未読で、どうやら風呂敷をちゃんとたたんでないらしい不満があるようなので、この評価は途中までの、マンガとしての力のあるなしを言っているのだが、ともかくも本当に力のある作品であると断言するに迷うことはない。
 ゾンビという設定をしたうえで考えられることを誠実に考えている。いい加減に投げ出したりせずに緻密に考えている。
 主人公のマンガ家アシスタントは、いわばオタクのなれの果てのようなものだろうが、オタクにありがちな「つっこみ」を、作者が自分の作品に対してもしているような気配がある。不誠実であることを許さない矜持と、距離感。
 そのうえで、ちゃんと面白くなる要素がいっぱいつまっているのだ。ゾンビの溢れた世界での生き残りをかけた冒険譚。情けない主人公がヒーローになる成長譚。ぎりぎりのところで「可愛い」と言えなくもないヒロインたちとの恋愛譚。
 そうした要素は映画でもそれぞれ描くことに成功していた。日常が壊れていくときの、どこまで本気になればいいのか迷う感じなどは、原作はものすごく上手かったが、尺のとれない映画でも、かなり上手く描いていた。
 特に、浜松の街中を封鎖しての撮影だという、最初のパニック発生時の場面はすごかった。日本映画でこれをやるのは大したものだと感心。
 特に、パニックの発生して拡大していく「方向」が、観客にもわからないという描き方は新鮮だった。何か良からぬものが、あちらからこちらにやってくるというのではなく、どこからどこへ向かって拡大、進行しているのかわからない街中にいきなり放り出される視点から見た様相は、絵の止まっているマンガでは感じなかった緊迫感だ。
 目の前の惨劇からとりあえず離れようとして走り出すが、それが災害から逃げる方向として適切なのかわからないほど、四方八方から異常事態が押し寄せる。このシーンを撮影した監督の手腕には脱帽。

 一方、完結した映画としては残念な部分もある。マンガと違った大資本のコマーシャリズムが、ヒロイン二人を美人にせざるをえないせいで、彼女らが主人公に寄せる好意が単なるご都合主義に感じられてしまうこととか。そうした好意は物語の終わり、主人公が「ヒーロー」になってからでいいではないか、とも思う。
 また、有村架純の比呂美が「半ゾンビ」になる展開は、続編が作られなければ全く無意味で、といってこの時点で描かなければ続編を作ることが不可能になるし、どこまで原作と独立した物語にするかという興業的見極めが難しいところではあろうが、やはり完結した映画作品としては不完全に過ぎる要素ではあった。

 もうひとつ、ヒーローがヒーローたる存在であるための唯一の行動が、ひたすら銃を撃つことにある(もちろん最後の最後で銃弾が尽きて棍棒として銃が振るわれるのだが、それに特別な意味があるとは思えず、基本的には射撃がヒーローであることの証である)という展開をすんなり受け入れることに抵抗がある。原作ではいろんな展開の中で射撃もするということであり、その行動の全体がヒーローたりうるのだが、映画では、限られた尺の物語の中で、ひたすら射撃が彼をヒーローたらしめているのだ。
 むろん、射撃がいわば「オタク」的スキルであり、それが肉体的に秀でているわけではない彼をヒーローにするために必要な現実的設定であることはわかる。また、射撃が射精の比喩になっているという象徴的設定もわかる。
 だが、全弾撃ち終えて、やや仰瞰で捉えれる背中の丸みが、映像的には見事にかっこ良く撮れていて、それだけでも映画として大成功なのだということはわかるが、それでも、銃による大「虐殺」を偉大な仕事として受け入れるには、日本人である筆者には抵抗があるのだった。

2018年9月11日火曜日

『ディストラクション・ベイビーズ』-「狂気」を描くことの不可能性

 『宮本から君へ』のドラマ化で名前を覚えた真利子哲也の劇場作品として評価の高い本作だが、結論を言えば期待外れだった。『宮本から君へ』の高評価がハードルを上げてしまった。
 単に暴力的な描写に不快感を催したとか、感情移入できる登場人物がいないとか、それもそうだが、問題は「期待外れ」だ。
 溢れる暴力衝動によって喧嘩に明け暮れる男の「狂気」を柳楽優弥が演じている、ということらしいとは事前に知っている。実際見てみると、菅田将暉が絡んでくる車による移動が物語に一応の「進行」を感じさせるものの、結局は最後までひたすら暴力衝動によって動機不明の喧嘩を繰り返す男の話である。とすれば、そういう設定の中で考えられるエピソードのバリエーションとその描写によって観る者に呼び起こす感情の強さが映画の価値になるはずだ。
 そういう意味では、これはゾンビ映画やソリッド・シチュエーション・スリラーや、最近見た『アリスのままで』と同じだ。アルツハイマー病が進行していく時にどんなことが起こるのか、という設定があるだけで、あとはそこにどんなエピソードを描くのかが問われる映画と、とにかく喧嘩に明け暮れる男の狂気を描くという設定があるだけの映画は、基本的な作劇法が同じなのだ。
 そして、描きたい「狂気」を「ちゃんと」描こうとすると、このテーマはゴア・ムービーになってしまうはずだ。個人的な趣味としては、そんなものを見たいとは思わないが、それはそれでまっとうなテーマの追求ではある。そうでなければ真っ当な格闘映画にでもなるしかない。ひたすら強さを追求する男の話。
 つまりこの設定で「狂気」を描くのは難しい、というか本質的には不可能なのではないか。
 それが露わになってしまうのは、リアルさをどう観客に感じさせるかという課題に、この映画が本気で応えていないと感じられる場面だ。これが致命的だった。
 たとえば主人公の回復ぶりがどうみても不自然なのはどうしたものか。ここに、主人公の体が少しずつ壊れていくような描写があれば「狂気」も感じられるのだが、したたかに痛めつけられた後には、ケロッとして復讐する展開になる繰り返し。そのしつこさが「狂気」と言いたいのだろうが、つまり暴力が危険であると感じないのだ。
 例えば歯が折れたり、拳の骨が見えてしまうという描写がある割には、そうしたダメージが蓄積していく様子はない。つまり人体へのダメージも「記号」としてしか描かれていないのだ。
 あるいは屈んだ相手を蹴るときに、サッカーボールキックで顔面を狙うのではなく、胴体を狙って体ごと押し倒すように蹴るというのは、つまりは真剣勝負ではなくプロレスなのであって、それでリアルに感じられないところにどう「狂気」を感ずればいいのだ。
 小松茉奈が菅田将暉を殺す場面も、車のドアに挟んで何度もそれを閉めることで致命傷を負わせるなどと、無理にもほどがある。頭部のみを挟んで、かなり強い衝撃を与えるなどという描写が具体的にないと、激情に駆られていますという演技だけでそうした「狂気」は滲み出るものではない。
 こうしたリアルな肉体的感触をないがしろにしてこの映画は何を描こうとしているのか。
 この映画で描かれる行為としての「喧嘩」のほとんどは、「喧嘩」と呼ばれながらも、闘争としての「喧嘩」ではない。単なる暴力である。たとえば無抵抗の相手を執拗に殴ってしまえば、それは危険と隣り合わせの充実感ではなくなる。
 一度は強い相手として描かれたヤクザの「兄貴」に、リベンジマッチでカウンター・パンチを決めて両拳を突き上げる場面のカタルシスは一時のものであって、あれがこの映画が描こうとしている暴力衝動ではないらしい。ではそれが目指している方向には何があるのか。単なるゴア・ムービーになる以外に。
 たとえばこうした「狂気」がどこから生じているのかといった、人物の「背景」を描くことで物語に厚みを与える、という方向もあるのだろうが、それをとろうという気配はない。別にそうでなければそれでいい。それならばひたすらリアルにその「狂気」を描けばいい。単なるゴア・ムービーに向かってしまうような破壊衝動ではない暴力に惹きつけられるとすれば、そこに何かの喜びを感ずるという描き方になるのだろうし、実際に喧嘩を楽しんでいる描写があちこちにあるにも関わらず、そうした暴力の悦楽が「狂気」と感じられるほどに鬼気迫るものではない。
 たとえばリュック・ベッソンの『グラン・ブルー』はそうした「狂気」を描くことのバランスがわかっていた。のめり込むことが破滅につながることがわかっていて、そこに惹きつけられていく主人公の「狂気」と愉悦が描かれていた。『グラン・ブルー』を観た時に思い出した小山ゆうの『スプリンター』や、古くは『あしたのジョー』でもその「狂気」にひりひりした危険を感じながら、読者はその破滅につきあってしまう。
 ネットでは柳楽優弥の演技を評価する声が高いが、それには賛成も反対もできない。表情や佇まいに「狂気」が漂う、式の評価はまあわからなくもないが、それに感情が動いたりもしなかった。このあたりは浅野忠信の演技がちっともうまく見えないのに、世の中的には評価が高いことに違和感を覚える感じに近い。そこに感銘を受ける人もいるのはわかるが、筆者にとってそこが感動ポイントではないということだ。これは個人的な好みの問題で、しょうがない。ただ、この映画の作劇上のスタンスに納得できないのだ。

 作劇上の不満と言えば、小松茉奈のホステスによって描きたいものが何なのか、まるでわからなかったのも気持ちが悪い。
 菅田将暉がどうしようもなく不快な人物として描かれるのはわかる。「狂気」によって感染した者が、それについていけずに破滅するというのは、つまりは主人公の「狂気」を描くことになるんだろうが、ではホステスが不快な人物として描かれることによって、何が描かれているということになるのか、どうにもわからない。単に観客に不快を感じさせたい、つまりそれが何かドラマチックであるかのような作者の勘違いなんじゃないかという疑いを、どうにも否定できない。
 作者がリスペクトを表明し、どうみても参考にしてもいる新井英樹の『ワールド・イズ・マイン』の三人組に照らし合わせば、このホステスはマリアに対応することになるのだが、かのマリアが体現している人物の強烈な存在感とリアリティと、時にリアリティを無視して描かれる聖性が体現しているおそるべき魅力に比べて、この不快なホステス登場させることで何が描きたいのか、その必然性が結局まるでわからない。
 そして『ワールド・イズ・マイン』における暴力は、まっすぐに大殺戮に向かっていくのであって、こうなる以外に「暴力の狂気」をどう描くというのか。なおかつ『ワールド・イズ・マイン』の暴力は、その狂気性を描いているのではなく、むしろ聖性をこそ描いているのだと思われるが。

 池松壮亮が出てるのは『宮本から君へ』へ続く真利子人脈なのだなと納得したが、それより、あろうことか北村匠海があんな役で出ているのかと、驚いた。そしてそれが『ゆとりですがなにか』と同じ年で、次の年に『君の膵臓を食べたい』が撮られているのかと思うと、最近観たばかりのその落差にクラクラする。

2018年9月4日火曜日

『アリスのままで』-分裂する「自分」

 若年性アルツハイマーを患った女性の物語で、主演のジュリアン・ムーアがアカデミー主演女優賞をこれで獲ったとだけ知っていて、観てみると、何か意外なことが起こることのない映画だった。その通り、不穏な前兆から、淡々と悪化する事態が描かれていく。
 もちろんものすごく怖い映画だ。他人事に感じられないところが。
 同時にとても面白い映画だった。途中で飽きたりせずに、先が気になって、見続けたいとはっきり思う、という。そして最後までその緊張感が続く、という。
 テーマ・設定が明らかだから、つまりどんなエピソードを置き、それをいかにうまく描くかだ。最初に、講演の最中にある言葉が思い出せず「単語の集まり」という表現でしのいで、帰りの車の中で「語彙」(英語で何というかわからないが)という単語を思い出す、というエピソードを置く。ここから身につまされる不穏な展開が予想される。次には勤務先の大学のキャンパスを走っているシーンがあって、これは、と思うと案の定、迷う。
 そうして徐々に日常の様々な場面に認知障害の症状が表れる。次はどんなエピソードで、どんな感情を描くんだろうと思うと、興味が引っ張られて、ダレない。もちろん次々と繰り出されるエピソードが、それだけ感情を揺さぶる質に達しているからだが。恐怖だったり切なさだったり束の間の喜びだったり。その数の豊富さに満足する。
 とりわけ大きくて感動的なエピソードといえば患者会での講演会なのかもしれないが、それよりも感情を揺さぶられたのは、診断を受けた初期に、いずれ判断力を失った自分あてに自殺の指南をする動画を撮影しておく、というエピソードだ。
 映画の前半でそのシーンが描かれている時点で、なるほど、病気の進行に備えてそんな準備をするというエピソードの置き方も、上の「数の豊富さ」ではあるが、その決着が後半に描かれる伏線としての機能も巧みであった。そしてそこで発生する感情の大きさも。
 そもそも自分あての質問に自分が応えられなくなったら、という条件でその動画を見るよう設定してあったのに、観たのは偶然で、しかも動画の指示通りに睡眠薬を探すことができないほど症状が進んでいるから、何度も動画を観なおした挙句に、やっと睡眠薬を手にして、洗面所でそれを飲もうとしたところに家政婦さんが来て、そのまま何をしようとしていたかを忘れてしまう。
 このエピソードに揺さぶられる感情がどのようなものかは、にわかにはわからない。だが、まず、自分あてのメッセージを見るというシチュエーションに何か胸騒ぎがした。一人の人物が、画面を挟んで向かい合っていることで、その差異がことさらに際立っている。その変化の中で失ったものがあらわになる。
 そして、自らの死を命ずる自分に応えるのが、命じている自分でいながら、もはや同一人物とは言い難いという点。にもかかわらず、動画を見た彼女は、かつての自分の言うことに素直に従おうとする。それが何を意味しているのかは理解できないまま、自分の尊厳死を実行しようとする。その姿は健気で儚く、言ってみれば「無垢」である。観客はその実行に向けて、失敗を繰り返す彼女を応援してしまう。だから最終的にそれが実行されないことに喪失感を覚える。
 だがかつての自分が守ろうとした尊厳とは、本当に自らの尊厳だと言えるのだろうか。それはその時点での自分の尊厳であって、病状の進んだ時点での、自死を決行しようとしている「現在」の自分の尊厳でもあると、本当に言えるのか。
 家政婦の訪問によってその機会が失われた時、とても「残念な」気持ちがしたのは、周到な準備が徒労に終わることと、そうして守りたかったものが守れなかった悔いだが、同時にそうしてもうしばらく生き続ける主人公をいとおしいと思う気持ちも生じているのだ。
 そうして分裂していく自分(のイメージ)を、どう受け入れていくか、同時に家族としてどう受けれていくか、丁寧に追った映画だった。

2018年9月3日月曜日

『君の膵臓を食べたい』-いやおうなく

 アニメ版の公開にあわせて、去年の実写版を放送。原作を読んでいないんだが、映画であれマンガであれ小説であれ、機会があるときに触れておくか、というくらいの動機で。
 さて、どうだったかというと、半ば予想通りの軽さは、アマゾンレビューにあるような低評価の言うところに大いに納得するしかない。確かに浅薄で類型的だ。そのことを言い募れば、こちらも類型的なディスりになってしまう。いかにもの「携帯小説」という、すでにその呼称が差別的だという評がぴったりなのだった。ラノベよりもあきらかに下で、アマゾンでは「感動ポルノ」という絶妙な形容が頻出しているところをみると、それもよく知られた表現なのだろうか。良い得て妙だ。
 確かにお話はご都合主義に過ぎるし、実写映画の主演たちは美少女美少年すぎる。
 にもかかわらず、これが多くの人々の感情をいやおうなく揺さぶってしまうのもよくわかる。「ポルノ」としてよくできているということだ。
 恋人ではない相手との泊まりの旅行というのは、現実に不可能な行為ではないのにほとんどの人々にとって絶望的に起こらないイベントとして、強く感情に訴える。もちろん修学旅行や卒業旅行やその他、グループ旅行の中で、部分的にそれに近い経験はしうるのだろうが、それを増幅させたものとして万人の心に訴えるのだ。
 恋人でない、という条件がミソで、恋人ならばありふれた出来事になってしまうから、これほどの強い訴求力はない。
 このシークエンスを観ながら思い出したのはジブリアニメ『海がきこえる』だ。ほぼ2年前に、十数年ぶりに観直して高評価を新たにしたこの映画でも、恋人ではない高校生の男女が旅行するという展開があり、この描写がまた素晴らしかった。

 さて、そんなに批評的にならずに楽しめばいいということなら楽しかったのだが、いかんせん、難病物として話が進んでいながら唐突に通り魔に遭うってのはどういうわけだ? あの展開は無論予想外だから、それを「衝撃」などと受け止めるのなら、それもまた作品享受の価値としてはそれなりの訴求力を生んだのだろうが、まあすれっからしで理屈っぽい筆者などには到底納得できない。単なる露出、意味もない艶場(ポルノでいうところの)ではないかと思ってしまった。

 そこへいくと柳本光晴の「女の子の死ぬ話」は、若い友人の死をどう受け止めるかを、友人としての視点で描くだけでなく、読者がそれをどう受け止めるかを読者に迫ってくるという意味で、真っ当な「文学」だった。

 映画としては、原作にない12年後の展開を入れたことが評価されているらしいが、これも「ありがち」に過ぎて感心しなかった。もちろんこの物語全体がひたすら「ありがち」な要素の寄せ集めなのだから、単純にそこから生じる効果だけが問題なのだ。
 もちろん、後日談を描くということは、本編を一気に回想の枠組みに閉じ込めて、いやおうなくノスタルジアを発生させる。その意図はわかる。
 だがそこで描かれる「現在」は、あの物語を経由した12年後の主人公の在り方としてバランスが悪すぎると感じた。ああいう自分を受け入れて、それなりの歳のとり方を見せればいいのに、若い時と同じように自分を受け入れられずに机の中に辞表を忍ばせるという描き方をなぜするのか。小栗旬が達者だとしても、脚本と演出の人物造型に納得できない。
 一方の北川景子は物語にとって単に存在価値がない(これももちろん役者のせいではない)。手紙で泣かせる必要があっての登場であることはわかるが、その手紙に心を打たれず。

 本編の方のヒロイン、浜辺美波は「いやおうなく」可愛くてどうしようもない。だが同時に一本調子であざとく感じた。現実感がない。現実感がないほどの可愛さだ。役者が、ということではなく、人物造型が、だ。
 それに比べて北村匠海の主人公は、暗さと不器用さの混じった人物造型が見事で、この人物がこのように描かれていなかったら、この映画の価値はほとんどなくなるだろうと感じた。これが「ゆとりですがなにか」のあの人物と同一人物なのか!? 北村匠海がうまいのか? 演出がここだけは良かったのか? もうちょっと他の作品で見てみないと判断できない。

p.s 既にずいぶん前に彼を絶賛していたのだった!

この1年に観た映画-2017-2018

 ブログ開設後4年となるここ1年に観た映画。

『V/H/S ファイナル・インパクト』-期待しなければいい
『岸辺の旅』-納得できない
『運命じゃない人』-知的な構築物
『IT』-楽しいホラー映画
『オデッセイ』-不足のない娯楽作
『カメラを止めるな!』-生涯ベスト級
『父と暮らせば』-原爆という悲劇の特殊さは描けているか
『フライト・オブ・フェニックス』-嬉しい拾い物
『ソイレント・グリーン』-暗い未来の映画って大好き
『THE BAY』-アカデミー監督による手堅いホラー
『海街Dialy』 『海よりもまだ深く』-盤石の是枝作品
『ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険』-クトゥルフ神話よりジブリパクリ
『ザ・ファイター』-アメリカ人にとっての愛着
『羅生門』-映画としてすごいとドラマとしてすごいは別
『パズラー』-パッケージ詐欺
『水曜日のエミリア』 -うまいと面白いは別
『サイコハウス(The Sitter)』 -特筆すべき点のない
『パシフィック・リム』-ひたすら想定内
『ヒューゴの不思議な発明』-その映画愛に共感できるか
『The Visit』-子供の成長を描くジュブナイル・ホラー
『ファイナル・デッドコースター』-いかに午後ローとはいえ
『ニュースの天才』-そら恐ろしい虚言癖
『ソロモンの偽証』 -人間を描かない監督の作品
『パニック・トレイン』 ー過剰な期待をしなければ
『ニンゲン合格』-これで「合格」と言われても
『フラットライナーズ』-サスペンスとしてもドラマとしても中途半端
『サバイバー』-ミラ・ヨボビッチの面目躍如
『二十四時間の情事』-とりあえず感想保留
『ラスト・ベガス』-お伽噺+アメリカンコメディ
『言の葉の庭』-風景の勁さとドラマの弱さ
『グランド・イリュージョン』-嬉しい娯楽作映
『ルー・ガルー 忌避すべき狼』-何もない
『人狼ゲーム ビーストサイド』-演技の緊張感
『エイプリル・フールズ』-こんな杜撰な設計図で
『スティーブ・ジョブズ』-高度な技の応酬としての口論
『サプライズ』-スモールスケールな『ダイ・ハード』
『スクープ 悪意の不在』-社会派ドラマとしてよりもコンゲームとして
『トレマーズ5 ブラッドライン』ー午後のロードショーにふさわしい
『Oh Lucy!』-苦々なOLの冒険譚
『炎のランナー』-テレビ放送で映画なぞ
『ビロウ』-「潜水艦映画にハズレなし」とはいうものの
『ペイチェック 消された記憶』-アクション映画なのかSF映画なのか
『サンシャイン2057』-ボイルでもこういうのもある
『ピエロがお前を嘲笑う』-もったいない鑑賞
『実験室KR13』-映画力と物語力のアンバランス
『THE WAVE』-不満と期待と
『Unknown』-DVDの再生不良で
『花とアリス殺人事件』-面白さに満足
『チェンジング・レーン』-満足度の極めて高い傑作
『野火』 -ゆっくりと血肉化していけば
『人狼ゲーム -クレイジー・フォックス』-根本的なジレンマ
『少年たちは花火を横から見たかった』-思い出のように
『デッドコースター』-気楽に観られる
『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』-制作者たちの罪は重い

 ここまで55本。間に引っ越しなどというイベントがはさまっているからまあよく観たか。
 下ほど観た時期の古いもので、最初の一本が、劇場で観た、新たにアニメ化された『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』だったというのも、感慨深い。これはこれで怒りのあまり忘れ難い一本なのだ。そのまますぐに原作の岩井俊二版を観て、さらにメイキングまで観直してしまったのだった。
 そしてそれを含む、今年の10本。

『運命じゃない人』-知的な構築物
『IT』-楽しいホラー映画
『オデッセイ』-不足のない娯楽作
『カメラを止めるな!』-生涯ベスト級
『The Visit』-子供の成長を描くジュブナイル・ホラー
『グランド・イリュージョン』-嬉しい娯楽作
『スティーブ・ジョブズ』-高度な技の応酬としての口論
『花とアリス殺人事件』-面白さに満足
『チェンジング・レーン』-満足度の極めて高い傑作
『少年たちは花火を横から見たかった』-思い出のように

 『オデッセイ』『グランド・イリュージョン』『チェンジング・レーン』あたりが入っているのは不本意という気もする。そんなハリウッド娯楽作を入れていていいのか、という。何か個人的なこだわりがあるわけではなく、楽しさの程度の大きさから、映画を観るという体験の上位10本に入れざるを得なかった。
 感情の高まりということでは『スティーブ・ジョブズ』と『The Visit』が強く、満足度としては『運命じゃない人』が高い。
 だが、体験としての強さにおいてここ1年の最高の映画は『カメラを止めるな』だった。

 『宮本から君へ』と『anone』と、忘れ難いドラマもあった。
 『宮本から君へ』は、原作に忠実でいてしかもテレビドラマとして十分に面白いドラマ化を実現している演出力と、池松壮亮の演技の密度に脱帽。四半世紀以上前の、しかも(当時の)現代劇が、そのままドラマになってしまって、しかも科白もキャラクター造型も原作そのままなのに、充分観られる。
 『anone』は坂元裕二の脚本がいいのはもちろんだが、広瀬すずが健気な主人公を演じきったのが見事だった。田中裕子や瑛太がうまいのは今更驚くことでもなく。そして阿部サダオと小林聡美のカップルが、可笑しさと切なさを大盛にして、このドラマを忘れ難いものにしたと思う。

 来年5周年になったら、それを総じてのベストを選び直してみようか。
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