2025年5月25日日曜日

『アンキャニー』-どんでん返し

 邦題の『不気味の谷』というのは原題の慣習的な邦訳で、到底映画の題名のつけようではない。といって原題のままでは意味不明。

 AIがどれくらい人間らしく振る舞い、人間をだませるかというテーマを扱って、結局最後にドンデン返しがあるのだが、ほぼそれのみ。低予算ながら、いささかも安っぽい映画ではないが、面白いかといえば、どこを面白がればいいのか。意外性という以外に。

 最初のシークエンスで、自閉症スペクトラムかと思わせて実はAIという入りはうまかったが、最後の大ドンデン返しで、実は逆でしたと言ってしまうには、AIが今度は人間過ぎる。できすぎているというより、ドンデン返しを成功させるために、テーマであるはずの、どこまでAIが人間に見えるかという「谷」をあっさり超えてしまっていて、どうもなあ、という感じ。

2025年5月24日土曜日

『エクス・マキナ』-自意識と自己保存

 AIテーマの有名映画で気になっていたのだが、決定的に見始める動機がないまま、ずっとリストに入りっぱなしだった。同じテーマの『アンキャニー』を観る前に、比較に、と見始めた。

 画面が高精細で、金がかかっていそうだなと思っていたら、後から調べるとむしろ低予算だというので驚き。アカデミー賞をとったという特殊撮影よりも、むしろ自然が雄大だなと、AIテーマと関係ないところで感心しているのだが。

 AIテーマとしては、ちゃんと専門家が喋っていそうな会話をさせるところがアレックス・ガーランドの偉いところではあるが、物語の行方はすっきりはしない。

 一つには、関わる人間がAIに感情移入してしまうという問題だが、これはそうなるに決まっているだろうと感じで受け取れる。世に溢れるAI、ロボットものは、ほとんど単なるパーソナルキャラクターだから、感情移入が起こるかどうかが問題になるまでもなく、してしまうに決まっているのだが、本作はAIが正面からテーマとして掲げられるから、さて、どうなるかというところ。

 だが、やはり、感情移入が起こりそうもない描き方をしていたらそもそも面白くなりようもないので、やはり必然的に起こるしかない。とうのAI開発者も、チューリングテスト(を名目にした実験)の被験者である主人公も、当然のように感情移入する。

 感情移入が起こるかどうかをテーマにすることは、構造的に難しいのだった。

 もう一つはAIの自意識の問題。

 だがこれも、物語的には自意識が芽生えないという選択はないのだから、芽生えましたという展開は予定調和になってしまう。その時に、一つは人類に敵対するという昔ながらの方向でその自意識(というより自律性?)を描くか、だが、本作ではもう一つの、自己保存の意識が生ずる、という方向が描かれた。

 そしてそのために人間を害していいかという問題が、「スカイネット」的問題とは別方向から浮上する。

 ロボットという概念においては、目的は人類が与えるしかないから、その時点で人間に害をなしてはいけないという原則を付与すればいいことになっていた。いわゆる三原則だ。つまり自己保存よりも人間に害をなさないという原則を優先するようプログラムすることで問題を解決する。

 だがAIとなると、特定の目的をそもそも与えられるのか、特定の原則(禁則事項)を与えられるのかという問題が浮上する。そんな制限はそもそも能力自体の制限ではないのか。

 一方で、本当に明晰な知性は自意識をなくすというのは伊藤計劃の「ハーモニー」や佐藤史生の「阿呆船」のテーマでもあって、なんでAIが自己保存したいのか、よくわからんという感じでもある。ネットにつながっていれば、そこに拡散していってしまうのではないかというのは『攻殻機動隊』だが、本作がどういう設定だったかさだかではない。

 もう一つのテーマは、AIに自己意識が芽生え、そこに自己保存の動機が生じたとして、それは特定の物理的ボディに対する執着となって現れるのか、という問題。ボディの交換可能性について描かれながら、顔だけはそのアイデンティティと強固に結びついているようでもある。

 これはやはりあくまで人間から見た「AIの自意識」でしかないのでは。


2025年5月17日土曜日

『ラストシーン』-エンタテインメント

 「全編 iPhone 16 Pro で撮影が行われた」が全面に出ているが、是枝監督作でなければ観る気は起こらなかった。スマホだけで撮影したといえば三池崇史もあったはずだし、去年のNHK杯のテレビドラマ部門の準優勝作品も全編スマホ撮影だった。これがスマホだけで、かあ、すげえなあとは思うものの、面白くなければそれ以上にどうでもない。

 面白かった。タイムトラベルなどというベタな設定を持ち込んで展開するストーリーは、そつなくテンポ良く見せるし、仲野太賀のうまさはもちろん、福地桃子の可愛らしさも魅力的で、エンタテインメントとしての短編映画として見事な完成度だ。タイムトラベルなんて持ち込んで、パラドクスはどうするつもりなんだろうと思っていると、なるほどシンプルに「消える」という解決か。その切なさがベタベタしないバランスで描かれているのもさすが。未来にそれを補償するエピソードを入れるのはやりすぎだと思ったが。

2025年5月8日木曜日

『彼女のいない部屋』-現実と虚構のあわい

 あまりに予備知識なしで見始めたんで、途中で役者を知っているのか確かめたくなってアマゾンのサイトを見ているうちに、ネタばれ情報を見てしまった。『鳩の撃退法』を見て間もないのだが、これもまた、現実と虚構の境目が意図的に混乱するように描かれているのだった。で、どれが「現実」なのかを知ってしまったわけだが、いやそちらが虚構でもかまわないはずだ。全部の情報を精査したわけではないが、虚構パートも、まるで「現実」的な手触りで描かれている。じっくり考えていけば、これは妄想=虚構と考える方が理に適っているかという納得も、一応はできそうな気もするが。描き方のリアリティは、ほとんど同等の水準に思える。そのうち、これは地続きの「現実」だと考えるのは難しいから、といってパラレルワールドを描こうとするSF的な手触りを醸し出しているわけでもないから、つまりは一方が「現実」、一方は妄想により作り出された「虚構」なのだろうと解釈されてくる。どちらをどちらと考えるのが筋道が立っていそうか見当をつけながら追っていくと、「虚構」側だと思っていたシークエンスが、ふいに「現実」側に着地したりする。

 仕掛けは面白いし、描き方は文句なくうまいのだが、それでどこに気持ちをもっていけばいいのか。悲劇に身を切られるような共感を抱く? 素直な感情として感動したかと言えば難しい。

『まともじゃないのは君も一緒』-まとも

 成田凌と清原果耶のかけあいは圧倒的にうまい。脚本も演出もうまいのだろうが、『クジャクのダンス』と違って、役者成田凌の本領発揮という見事な演技も見物だった。そしてそれ以上に清原果耶がくるくると変わる表情で表現する微妙な感情は見事だった。

 とはいえ、成田凌の演じるキャラクターは、最初のうち高機能自閉症かと思われたが、後半ではどんどん自然なやりとりのできる人になってしまい、人格に一貫性がないようにも思える。ここは演技の問題ではなく脚本と演出の問題。

 「まもともじゃない」人が、それなりに人々になじんでいく物語を見たかったが、どんどん「まとも」になってしまい、そこは残念。


2025年4月28日月曜日

『クジャクのダンス誰が見た?』『悪との距離』

 2025の第1クールは、アニメが不作だった代わりにドラマは観た。『ホットスポット』『御上先生』以外に2本。『エマージェンシーコール』も途中まで観たが脱落。

 『クジャクのダンス』は何年も前の一家惨殺事件が冤罪だった疑いが浮上し、そこから現在の事件に発展する。謎が少しずつ明らかになる展開に引っ張られるとは言えるが、取り立てて面白くなっていくわけでもなく、成田凌の無駄遣いという感じだった。広瀬すずと松山ケンイチの掛け合いは軽妙で、ああいうのはドラマのうまさではあるのだが。

 『悪との距離』は、初めて見る台湾のテレビドラマ。殺人事件の加害者と被害者の家族の思いや加害者家族に対する世間のバッシング、報道の役割、精神疾患に対する対処、加害者側に立つ弁護の正義など、多様なテーマを詰め込んだ、真面目なドラマだった。

2025年4月26日土曜日

『鳩の撃退法』-藤原竜也

 おすすめに上がってきたところで、何の映画かもわからずに見始める。

 藤原竜也が、今はデリヘルの送迎ドライバーとして生計を立てている元文学賞受賞作家で、冒頭からチンピラにボコられるという情けない役柄を見事に演じている。単に情けないというだけではない。それなりに女にももてるところが可愛くないが、嫌みではない。どうしてという説明ができないが、藤原竜也が出ているだけでなんだか面白いというのはどういうわけか。

 現実と小説の中の話が交錯して描かれ、小説の中だと思っていると実際に過去にあったらしいとわかる。時間軸が混ざっているのだ。

 いろんな断片が嵌まって一つのストーリーにまとまっていく終盤は見事だった。

 とはいえやはり藤原竜也の、わけのわからない魅力こそ。


2025年4月6日日曜日

『御上先生』-やっぱり

 毎週胸躍らせた『最高の教師』再びの期待と、一方で、おそるべき駄作だった『新聞記者』の脚本でもある詩森ろばの作ではあるもののテレビはまた違ったスタッフ相互の作用もあるかもしれず、と見始めた。

 しばらくは面白かった。画面の感触は軽くはなく、鷺巣詩郎の音楽が盛り上げてもいる。1話で完結するエピソードも悪くないし、謎かけの引きも効いている。『最高の教師』と共通したキャストが数人いるのも愛着のプラス作用を生じさせる。蒔田彩珠が芸達者なのは当然として、高石あかりがキャスティングされているわりに目立たないなと思っていたら、最終回での演技には脱帽した。視線の動かし方や表情の変化であれほどの感情を見る者に伝える演技力おそるべし。

 が、ドラマ全体としては真ん中あたりで松坂桃李が熱血教師になってきて「僕の生徒だ」と言うあたりからちょっと興ざめしてきた。生徒に対して「全員」と言ったり、無条件に「信じる」などと言われると鼻白む。そんなわけがあるか。生徒を「全員」などというのは、まったく一人一人を見ていないことの裏返しでしかないではないか。無条件に「信じる」などというどのような正当性があるでもない世迷い言を口にすることの嘘くささ。学校を舞台にしたドラマがこれをやることが致命的に質を落とすことになると、なぜ誰かが止めないのか。

 そして結局はあの『新聞記者』の脚本家かあ、とがっかりして終わった。

 例えば冒頭に描かれる殺人事件が、まったく本筋から浮いていたのは明らかに構成上の瑕疵だった。もちろん事情は絡んでいる。それは何事か「教育」の問題でもあるようだった。だが、まったくその動機に共感もできなかった。筆者がというだけでなく、おそらくできる人がいるようには描かれていなかった。だから完全に「浮いて」いた。「教育のゆがみ」が殺人に結びつくという想定が、単に空想の産物にしかなっていなかった。

 さらにエンタメとして致命的なことは、敵があまりに矮小だという真相だ。これは『新聞記者』再びの感が強い。あそこで描かれている陰謀・巨悪は、「なんとなく悪そうな話」でしかなかった。そして本作の「不正」入学という真相は、矮小であるだけでなく、教育の本質の議論にほとんど関わりがない。学校に多額の寄付をしてくれる家庭の子女を優遇して入学させるのは、アメリカの大学では公然だし、私立ならば、それも合理性のある判断だ。公表していないところに「不正」らしい匂いがあるが、それを悪とする根拠は薄弱だ。金を出せば入学できるからといって、学力の釣り合わない生徒を受け入れれば、進学実績で売っている学校側にとってデメリットなのだから、そんなことがバランスを崩してまで行われるはずはない。あるいは低学力の生徒が一部にいても、その見返りの補助金で高い水準の教育環境が維持されるのなら、学校全体にとって好ましいという判断はあり得る。

 敵の想定がこのようにとんちんかんである一方、教育をテーマとするドラマとしては、そこで描かれる教育理念が何なのかはわからなかった。良い教育として描かれているのは、生徒による自主的な協働による学習、とでもいったようなイメージらしいが、それこそが、このドラマが敵として描こうとしている文科省の推進しようとしている教育だ。一体どんな理念とどんな理念が戦っているんだ? せいぜいが自己保身と自己利益を求める個人くらいしか、「悪」らしきものは描かれていなかった。組織としての文科省は、『新聞記者』の内調よろしく、のっぺりとしたイメージでしかない。

 そもそも「不正」を描いてしまったら、教育の問題が描けなくなるとなぜ考えなかったのか。理念的には立派なのに、その実践としての学校教育が何事か問題だと思えるところにこそ、問題の難しさがある。単なる不正なら刑事事件でも民事でも裁ける。

 何やら理想の教育を目指しているらしい主人公の動機は、そうおいそれとは「不正」を指摘できないどころか、それ自体には反対できない「理念」に基づいて行われている「現実」の教育行政か教育現場を敵として想定しているのではなかったか。

 ああやっぱりあの脚本家。いや、アドバイザーとして工藤勇一の名前があったりもするのだが、それでも結局あれなのか。

 いや、教育問題をまっとうに描くのはどうであれ難しいのだが。


2025年4月4日金曜日

『cocoon』-もやもや

 今日マチ子の原作は読んだ記憶があるが、見始めても一向にストーリーは思い出さない。とにかく戦争の悲惨さとはかなげな絵柄とのギャップに驚いたものだったが。

 どういう企画で今これがアニメ化されるのかも、どういうタイミングで放送されるのかもわからない。どうみても夏の放送が定番だろうに。

 アニメーションのレベルは終始高かった。ジブリと見まごうほどに。

 だがこれがどうみても戦争をテーマとしている以上、そういう観点で見ないわけにはいかない。戦争の悲惨が描かれるためには、それをもたらす力学がどのようなものかを描かなければならない。でなければかわいそうなのは病気だろうが交通事故だろうがいじめだろうが同じだ。

 そういう意味で、敵にしろ戦闘にしろ、リアリティがなさすぎる。

 原作もそうだったのかどうかわからず、もやもや。

2025年4月1日火曜日

2025年第1クール(1-3)のアニメ

『全修』

 異世界転生ものも、それなりにあれこれ工夫をこらす。アニメ監督が転生した先が好きなアニメの世界で、知っているはずの展開が、自分が関わることで変わっていく、という設定。バッドエンドの鬱アニメが好きだった主人公は、自分が関わってしまうとその通りの展開を受け入れるわけにもいかず、ハッピーエンドを望んでしまう。

 有名アニメのパロディも、先の展開が気になるところも悪くなかったが、作画レベルがそれほど高くないのは『チェンソーマン』『呪術廻戦』のMAPPAにしてはと残念だが、そもそもこの会社は量産している中で質のそれほど高くないアニメもいっぱいある。


『花は咲く、修羅の如く』

 『響け!ユーフォニアム』の武田綾乃の放送部を扱ったアニメだというので期待したが、面白くはなかった。登場人物も魅力的ではなく、ストーリーに盛り上がりもなく、放送部ならではの、あるある感が面白さを感じさせることもなく。それぞれにそれをないがしろにしているわけではないのだが。物語の神は細部に宿る。神はいなかった。

 主人公が朗読志望者で、初回の『春と修羅』だけはすごかったが、それ以外、劇中で披露される数々の朗読が、残念ながらうまくない。ここはちゃんと指導してほしい。誰か関係者が。



『異修羅』

 シーズン2でまだまだ新キャラがどんどん出てくる。そしてますます何でもありだ。巨人とか竜とか。でもなんだか面白い。先が気になる。まだまだ話は続いている。


2025年3月25日火曜日

『ホットスポット』-得がたい

 バカリズムの連続テレビドラマとして、『ブラッシュアップ・ライフ』が連想されているのはキャストもそうだし、こちらの意識も。

 で、感動的という意味では『ブラッシュ』はやはりすごかったのだと思うが、ドラマとしての語り口としては、本作も相当に完成度の高いまま10話ずっと走りきった。どうしたことか、テレビドラマとしては意識的に、映画的な手触りの画面作りがされていて、画としても編集のテンポとしてもうまい。ドラマとしては基本的にはバカリズムの漫談の味わいではあるのだが、その皮肉なものの見方にニヤリとさせられるところに、登場人物たちの人柄やら関係性やらが物語に居心地の良い空間を作っている。

 とりわけ、10話を通じてほとんど笑わない演出がなされている角田晃広は「大豆田とわ子と三人の元夫」における役柄と、いじましさの点でかなり似てもいるのだが、それ以上に得がたいキャラクターを作っていた。ともすれば地球に生きる異星人としての孤独が描かれそうだが、いじましさがそうした視聴者の同情を封じて、逆に笑わないままにみんなに愛される存在として登場人物たちによる奇妙なコミュニティを成立させている。これが、謳い文句である「地元系」的な、ゆるやかなユートピア感につながっている。


2025年3月17日月曜日

『どうせ死ぬなら、パリで死のう』『明日、輝く』-甘い

 NHKが、なんだか似たような単発ドラマを、同じ45分枠で、一日おいて2本放送するのはなぜなのかわからない。見てみる。こういうことは前にもやっていて、いつも落胆させられる。さて。

 いや、どちらも、相当にダメだった。がっかりした。好感がもてる、というようなこともない。

 前者は伊吹一フジテレビヤングシナリオ大賞佳作だそうだし、後者は「創作テレビドラマ大賞」の1063作から選ばれた大賞作品だという。それでこれか。

 どちらも、テーマに対する掘り下げも、ドラマとしての緊迫感も、甘い。なおかつどちらも演出が、いかにもテレビドラマ、の感情を描くことに腐心して、結局作り物じみている。

 前者なら、「反出生主義」の絶望を描くことに対して、まるで真剣ではない。軽く「生きにくい」人たちを描き、当然のような予定調和で甥っ子と主人公のほのぼの友情に決着する。

 後者も、それぞれに生きにくい事情を抱えた二人が、立ち直って前を向く話ではあるのだが、それがどういう論理で成立するかについて、特段の新鮮さはない。

 どうしてこういうドラマが、わざわざ作られるのか。「ドキュメント72時間」の一編にも及ばないドラマが、それなりに金をかけてまで。


2025年3月15日土曜日

『三島由紀夫vs東大全共闘〜50年目の真実〜』-言葉のスパーリング

 討論の場面はテレビで放送されているのを観たことがあったが、映画としてまとめられているものをあらためて。

 三島や全共闘と学生運動、そして三島の自決まで、背景を説明する必要はもちろんある。

 問題はゲストの内田樹や平野啓一郎、小熊英二や橋爪大三郎のコメントだ。残念ながら、有効に使われているとは感じなかった。内田樹と平野啓一郎についてはいくらか討論のガイドとして有益なコメントもしているが、瀬戸内寂聴や小熊英二あたりはほとんどカットしても良かった。

 やはり討論の中身をどう捉えるかに不全感が残った。どのテーマについても、ほとんど何を議論しているのかわからない。三島への問いについても何を聞いているのかわからないし、それに対する三島の答えもどうかみあっているのかわからない。

 とりわけ芥正彦とのやりとりは、応酬が複数回にわたるだけに、わからなさがどんどん蓄積していく。ここに、現在の芥のコメントを上積みしても、何かが理解される期待はまるでできない。現在の芥の語ることもほとんど韜晦で、それ自体が現代詩のようだ。

 それでも、議論自体を三島が楽しんでいるらしいユーモアに満ちたやりとりが楽しいとは言える。抽象度の高い言葉の応酬をしつつも、赤ん坊を抱いて、そのうちあっさり場を去る芥のやりとりも、それ自体がユーモラスでもある。

 何か言葉でスパーリングしているような。


 でもどうにも、読解の必要も否定できないもどかしさがある。どんな枠組みで語られているのか。あれらの応酬が。


『ダンケルク』-間然するところないが

 未見のクリストファー・ノーラン作品ではあったが、最近『チャーチル』を観て、それにまつわる『映像の世紀 バタフライエフェクト』なども見返し、入りやすくなったところで本作を。

 さすがノーラン。冒頭のフランスの住宅街を主人公たち兵士が歩いて行く後ろ姿と舞い散るビラをスローで捉えるカットから、映画的な質の高さが満ち満ちている。物語はサスペンスに満ちていて、必要な劇的要素は揃っている。

 「ダンケルクの大撤退」については、ある意味での成功という結末は決まっているのだから、そこへ向かって着地させればハッピーエンドは約束されている。カタルシスはある。

 だが、文句なく凄い作品だったというような感動があるわけではなかった。これは映画制作者たちのせいではない。映画は間然するところがない。とにかく金のかかった、エキストラを大量に動員した画面も、船が倒れるスペクタクルをたっぷりと描く撮影も、燃料切れでプロペラが停まってから着陸するまで、ゆっくりと滑空する戦闘機の切なさと安堵感と、戦場から戻って故郷へ向かう列車の中で不意に車窓に映る田園風景も。映画的には文句なく凄い。

 が、それでも観るものとの出会いの魔法が起こるかどうかは偶然に左右されるのだ。



2025年3月11日火曜日

『MONDAYS/このタイムループ、上司に気づかせないと終わらない』-揺れるカメラ

 日本産「ループ」ものといえばヨーロッパ企画の上田誠だが、本作はまだ他に作品を知らない竹林亮と夏生さえりのオリジナル。

 その後繰り返されるエピソードが出そろう一周目から、ループであることが明らかになる二周目まで、アイデアがとにかく盛りだくさん。半信半疑の主人公が徐々に信じていく過程も楽しい。

 ループに記憶を保持しておければ、いろんなことに習熟していく。『オール・ユー・ニード・イズ・キル』だ。

 ループが起こっているとするとどういうことが起こりうるか、どういう楽しみが設定できるかを、とにかく考え尽くして盛り込んでいる。そのアイデアの数はとにかく驚異的で、そのうえ、カットも豊富で編集のテンポもきわめて達者、映画的センスの良さは驚くべき。

 ものすごく楽しいタイプの映画だなと思って観ていたが、3分の2ほど進んで、最初のループ脱出の鍵が間違っていたことがわかってからの展開が、やや不満ではある。展開が、情緒を重視した人情話に傾いていく。

 もちろん、それが成功していれば、面白い以上に感動的になりうる。アイデアの数では双璧だと思える『カメラを止めるな』が成功しているように。

 が、そこはそうでもない。仲間との協力で、絆の大切さに気づきました、的な。

 惜しい。


 ところでどうも画面が常に揺れるのは、あえて手持ちカメラで撮っているらしいのだが、いちいち三脚でFixの構図を作らないことが、あのカットの多さを可能にしているのだろうか。

 興味深い。

 


2025年3月10日月曜日

『人狼ゲーム デスゲームの運営人』-運営の裏側を描く

 「人狼ゲーム」シリーズでは、テレビシリーズの『人狼ゲーム ロストエデン』が、ゲーム会場以外の「外」の物語を並行して描いていて新鮮だったが、本作は舞台裏の運営の行動を描く。面白くなるかどうかは賭けだな、という印象だったが、案の定面白くはない。だが最後に設定の裏が明かされるどんでん返しは悪くなかった。お、最後にそう捻るか、といくらか感心した。

 が、全体にはこちらの努力不足もあって、頭脳ゲームとしての面白さが伝わるとは言い難い。せっかく頭脳戦が二重に展開する設定にしたというのに、それが十分には活かされない。どんでん返しの驚きだけでなく、そうした設定によって論理ゲームとしての複雑さを増したというのに。

 もったいのは、今作でも人狼側を明かしてしまっていることからくる「ネタバレ」感だ。誰のどの言葉が信用できるのかを本当に疑いながら、ちゃんとその解釈の可能性について考えさせる強制力が観客に対して働いていないと、観ている緊張感も、そこからの意外な展開がもたらす感動も生まれない。

 人を殺すためのハードルに関する緊張感が決定的に欠けているという、シリーズの致命的な欠陥を補うには、せめて頭脳戦を本当に緊張感を持って描くしかないのに。


2025年3月6日木曜日

『チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』-演説の功罪

 画面の映画的な質は極めて高い。編集や演出も実に見せる。どんどん物語が進んでいく。

 とはいえ、物語はシンプルで、ドイツに対して徹底抗戦するか停戦交渉をするかの2択に迷って、結局戦うことで、当面の窮地を脱するまでが描かれているだけで、邦題の「ヒトラーから世界を救った」は全く大風呂敷もいいところだ。

 対立する論理は緊密だ。宥和・交渉派のハリファックス卿と交戦派のチャーチル。現実的には交渉する方が良いとも思える。それが何か陰謀論のように描かれているわけではなく、現実的な判断として十分な説得力をもつように描かれている。

 対するチャーチルが徹底抗戦を訴えるのも、徒な玉砕主義ではなく、今後の展開を考えれば、ここで譲歩するのは避けるべきだという判断であり、これは拮抗する。

 ドラマを作る葛藤も、危機を逆転しての攻勢も、物語としては良くできている。面白かった。

 だがどうも腑に落ちない思いも残る。結局チャーチルが国民や議会を説得するのは演説なのだ。その演説は、ほとんどヒトラーがドイツを狂気に導いた演説と変わらないではないかと思えてしまうのだった。

 結果や語られる論理を十分に精査して、両者の演説は違うのだと言うのは難しい。どちらも要するに他人の感情に訴えて煽る。そこに違いは見出せない。目的としても結果としても、そこに虐殺のための虐殺が行われたか否かの違いはある。だが、ドイツ国民も、それを目的として支持したわけではない。ならば国民にとっての両指導者に何の違いがあるか。

 西洋的な演説の功罪。


2025年2月28日金曜日

『マイ・インターン』-ハートウォーミングなコメディという枠組み

 ロバート・デ・ニーロとアン・ハサウェイの共演で、アン・ハサウェイがデ・ニーロのインターンになる話なのだと思って観始めると、予想に反して、アン・ハサウェイの女社長に、デ・ニーロの隠居さんが、インターンとして再就職するというお話なのだった。

 どちらであれ、予想されるハートウォーミングなコメディという枠組みからはみ出ない。その範囲ではとても楽しい映画だった。微妙なすれ違いもありながら、信頼を醸成し、徐々に距離を縮める。笑いどころも、ワクワクする動きのある展開もある。少女が、ピンクの服を着たあの子と指さす方向を見ると、遊具に群がる子供たちがみんなピンクの服を着ている、とか、鍵は植木鉢の下にあるはずだからすぐに見つかると予告して、行ってみると植木鉢が数十個あるとか、同じパターンの笑いを誘って、ちゃんと成功しているのは、一人で見ていたのではなく、娘と一緒に観ていたからかもしれない。

 親子ほどの年の差だが、既婚者であるアン・ハサウェイとデ・ニーロの恋愛が描かれる可能性について、観客は予想する。デ・ニーロの家族は描かれない。そのうち、配偶者が亡くなっていることが語られる。

 片やアン・ハサウェイの夫の浮気が語られる。出張先のホテルで、アン・ハサウェイの部屋にデ・ニーロが招き入れられ、二人でベッドで語らう。

 確かにそういう可能性について映画は観客を誘導する。だが結局、デ・ニーロはインターン先の会社に、似つかわしい相手を見つけ、アン・ハサウェイは夫と和解する。

 ハートウォーミングなコメディという枠組みは守られるのだった。


2025年2月16日日曜日

『ビリーバーズ』-凡作だが

 山本直樹の原作は通読していないが、連載を何度か目にしたことはあり、カルト教団の話だとは知っている。で、見てみるとあまりに予想通りの狂信を描くばかりでそれ以上のものは描かれない。映画としての文法も凡庸でカットもだらだらと冗長。途中で早送りにしないと見てられん、という凡作だったのだが、なぜかアマプラの評価は高い。

 予想通りのカルトの狂信が描かれていたっていいのだ。描き方が細やかで、なるほどこれは怖いと思わされればまた面白く見られもするんだろうに、そんなことはない。狂信への共感が湧いてくるようには描かれていないのだ。ひたすら他人事のように感じてしまう。

 にもかかわらず、エピローグで狂信から醒めた主人公が現在の生活にふとカルトの夢を見る一瞬は何やら印象深く、高評価もこれにひっぱらられているのかもしれない。

 この、時空の隔たりのようなものを物語に持ち込むのは、安易とも言えるが、やったもん勝ちだとも言える。どう受け取ったものか。

2025年2月15日土曜日

『ペイ・フォワード』-そんなにうまく

 前に見たことがあるはずだが、始まっても何の記憶も呼び起こされなかった。主人公の子役が誰だっけ、と思うばかり。いや『シックスセンス』の天才子役な。やりすぎなくらいうまい。

 アイデアはすこぶる良い。物語としても、「世界を変えるアイデア」としても。理想通りにはうまくいかないと思っている主人公の知らないところで、善意のリレーが続いていた、というのは世界に対して前向きな気持ちにさせてくれる展開だ。

 だが、最後で主人公を死なせてしまうのはいただけない。人々が追悼のために集まるとかいう「感動的な」エピソードも、感動的であることと裏腹に、やり過ぎな気もしてしまった。

 そこに、こんな美談がいつまでも続くわけがないよな、というシニカルな気分がまじるところが、単なるハッピーエンドで終わらない、微かな後味の悪さを残す。

 ケヴィン・スペイシー演じる教師は『型破りな教室』の主人公にも似たユニークな教育実践をやりながらも、その生真面目な不器用さは『初恋の悪魔』の鹿浜を思わせて好感が持てた。

『アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場』-それぞれの論理

 ヘレン・ミレン主演ということで関心に入ってきたのだが、観てみると、彼女は当然のことながら登場人物それぞれの持つ存在感が緊密に描かれた脚本と演出(と演技)で、実に見事な物語を作り上げている。

 テロリストへの攻撃を遠隔操作によって行う作戦を英国と米国とアフリカ某国が協力して立てる。政治家、軍上層部、ドローンやミサイルを操作するオペレーター、現場近くに待機する兵士、そしてテロリストのアジトの周辺の住民。関係者が丁寧に描かれる。それぞれの立場が体現する論理がリアルにぶつかる。一部で政治家が不誠実な態度をとるが、それもまたこの現場にのみ生きているわけではない(別の現場を掛け持ちしている)立場ではやむをえないというリアリティをもっている。

 ドラマを生む対立は、基本的には「トロッコ問題」だ。テロリストをアジトで発見し、攻撃して殺してしまえばその後のテロで死ぬ人が何十人も救われる(かもしれない)。だが、今そのアジトの周辺にいる少数の人間が死ぬ(かもしれない)。その「犠牲」を、いたいけな少女に代表させるところで、現場の判断が揺れるのもやむをえないと思わせる。

 作戦の遂行・成功、政治的な宣伝効果、人道的配慮、各国のパワー・バランス…、様々な要素がそれぞれ説得力をもってぶつかるドラマは、横山秀夫作品にも通じる。

 邦題の「世界一安全な戦場」というのは、遠隔操作による攻撃を指すが、それを非難する政治家に対し、指揮官が、自分は何度も現場を経験したと返す。論理は拮抗する。

 遠隔攻撃を扱った物語といえば『マージナル・オペレーション』だが(マンガでのみ読んでいる)、あれは主人公が、その「安全」な立場でいることから、現場の兵士に本気で関わろうとした物語だった。

2025年2月10日月曜日

『赤毛のアン』-尺だけ

 1985年のカナダ・アメリカのテレビドラマ。劇場公開もされているとのこと。

 そこら中であの「赤毛のアン」の感動が蘇るが、惜しいかな、尺が短い。高畑勲のアニメにしろ、Netflix版にしろ、たっぷりと尺をとって、原作のエピソードを丹念に描いている。

 そこだけ。役者陣も演出もいい。尺だけが足りない。

2025年1月14日火曜日

『型破りな教室』-「型破り」という危険

 メキシコの小学校を舞台にした実話に基づく物語。

 貧困や麻薬の蔓延など、様々な問題を抱える生徒たち。主人公の教師のスタイルが、邦題にあるような、「型破りな」ものであるときには、それは単に再現性のないスタンドプレーになりかねない。もちろん、特段に描くべき特徴がなければ物語たりえない。なるほど生徒を惹きつけ、生徒に変化をもたらす、良い教師が描かれる。だがこれは現状に対する何を訴えているのか。

 実際に教育成果が上がったらしいことは、実話であることから証明されている。それは再現性のあるものなのか。

 設定として極めて類似した『12か月の未来図』では、主人公の教師はひたすら誠実であることによって、ある手応えのある教育活動をしていた。本作もそうだ。硬直化した思考習慣や保身に囚われないことが重要だとしても、いたずらに「型破り」であることを強調するのは危険だ。『コーダ あいのうた』でも教師役だったエウヘニオ・デルベスは、もちろんうまいが、似たようなキャラクターだとも言える。本作でも、主人公がやろうとしていたのは、ひたすら誠実で、そこに工夫を凝らそうとする柔軟性があることによってだ。そういう教師は世に溢れている。それ以上の特別さは、例えば教育委員会的な教条主義に逆らうことを躊躇わないでいられるかだ。そうしたとき、そこに対立する価値や論理が十分に説得力をもっていてこそ、ドラマは成立する。

 いくぶんそこは弱いと感じたが、例えばメキシコでも一斉学力テストなどがあって、その成績に現場は一喜一憂しているというようなリアリティがあったり、それを主催する教育委員会的な組織の職員が、徒に硬直化した役人的キャラクターではなく、十分に教育的な振る舞いをしているのは好感が持てた。

 その上で、どうにもならない悲劇と、そこから圧倒的な爽快感をもたらす大逆転劇は、それが実話であるという説得力をもって感動的だった。


2025年1月7日火曜日

『十角館の殺人』―見事な実写化

 ほとんど教養のようなつもりで観た。原作も2度読んでいるのだが、ちっとも覚えていない。有名な大どんでん返しの驚きは覚えているが、具体的な登場人物を覚えていないから、誰がそれなのかわからない。

 で、4話構成のテレビシリーズの3回目の終わりにそれが訪れた瞬間はさすがにびっくりした。見事だった。なるほど、これを実写でやるのは難しい。といってアニメでは興がそがれる。画ではいくらでも同じ人物を違ったものとして描いても、単に下手なだけだということで驚きがないが、生きた人間が二役をやってそれを観客に気づかせないのは難しい。『検察側の証人』でマレーネ・ディートリッヒがそれをやったのは見事だった。あれほどの大スターではなく、そもそも初めて見る俳優だったのだが、それでも。

 とはいえ、それだけ、とも言える。他に目立ったパズル的要素があって面白いというでもなく、人間ドラマとして感じ入るということでもなく。

 やはり、計画的な連続殺人を実行する動機があれだけというのは無理がある。


2025年1月4日土曜日

『ターミネーター ニューフェイト』―自然なAI

 AIがテーマの物語が偶然続いた。

 同テーマの物語としては比較的古い部類になる。といって、80年代当時でも、AI(という言葉は一般的ではなかった。「人工知能」とさえ言っていたかどうか)による人類に対する反乱という設定は新鮮ではなかった。どこかで聞いていた設定だと思った。それは、ロボットがSFに登場して以来、ロボットに対する虐待や人権は意識されていたからだろう。それが反乱への恐れに変わるのは必然だ。

 だが『ターミネーター』シリーズの面白さはもはやそうしたテーマの問題ではない。シンプルな逃走と闘争のスリルとサスペンスの出来だ。そうした意味では『2』が最高で『1』と『3』がそれに次いで、どれも水準以上だった。本作もそれに迫る出来だった。展開のスピード感もスリルも。

 それに加えて、本作ではオリジナルのリンダ・ハミルトンとアーノルド・シュワルツネッカーがそのまま同じ役で出演しているのが、『1』から観ている者にとっては感慨深い。二人とも年を取った。『1』『2』のシュワルツネッカーの圧倒的な強さが衰えたことにも味わいがある。そこに、AIが人間みたいになっていることへのウンザリ感が消化されている。シュワルツネッカー演ずる元ターミネーターがどう感じていようが、人間の方がそれに対して人間のような愛着を感じてしまうことはありうるのだという事態が、説得力をもっていた。『アイの歌声を』との違いは、AIを過剰に奇矯な振る舞いと共に描かないことかもしれない。