2025年10月4日土曜日

『Last Letter』-弱い

 9年前の公開の時にも映画館に行こうかどうしようかと迷いはしたのだが行かずじまいで、結局アマプラの見放題終了間近におされて。

 岩井俊二は、あるときはわかりにくいがあるときはわかりやすい。どういう発想で作られているのかわからないカットや台詞があったりもするのに、喋るとわかりやすいことばかり言う。そのまま作品もそうだったりする。

 そして本作はきわめてわかりやすい映画だった。そして、薄かった。密度が低かった。これがアンサーになっているのは明白な劇場映画第一作『Love  Letter』は、比べてみれば濃い。色んな要素が詰め込まれている。エピソードの数も、そこで企図されている映画的面白さの要素も。

 それに比べてこれはなんと平板なのか。代筆による文通という設定は『Love  Letter』ゆずりだが、あちらがその設定からさまざまな展開を描いていたのに比べ、本作はいくらもそうした展開をしない。主人公が姉に代わって書いている手紙と、娘達が母親に代わって書いている手紙の2系統が進行するという工夫をするなら、それらがどう干渉してどんな事件を巻き起こすかと期待される。していると、何も起こらない。それぞれに、実は我々が書いていましたと明かされる平板な展開があるだけ。


 大人になることの喪失感が描かれるのは岩井自身の年齢を感じさせて、それは大いに描いてほしかった。生徒会長で絶世の美少女の広瀬すずが、悪い男につかまって零落した挙げ句に自死する設定も、森七菜にとっての「ヒーロー」たる神木隆之介が、書けない小説家で貧しいアパートに一人暮らしという設定も、胸の痛む話ではあるが、それは描かれれば映画の強さではある。「悪い男」に豊川悦司、「書けない小説家」に福山雅治という配役も皮肉が効いている。ここに、いかにもな悪い男や冴えない中年を置いては興ざめだ。

 だがこれを映画の強さと感じさせるには、広瀬すずと神木隆之介の高校生時代がもっと輝いていなければならない。まるっきり不足していたと思う。あれでは零落の喪失感は弱い。

 そうなると、最後に描かれる希望も弱い。

 ただ広瀬すずの涙だけは強かった。

2025年9月22日月曜日

『僕達はまだその星の校則を知らない』

 『御上先生』にがっかりしたがこれはどうか。

 最初のうち、登場人物がカメラ目線で状況を説明したりするメタな演出などにハシリ、これはどうなの、と思ったが、全校集会で壇上に上がった生徒会長(男子)がスカートをはいていて、翌日から休み続けるという謎の展開で見せるのはなかなかうまい。結局良い話におさまって良かったと思ったのだが、この1話、終盤で見直したら大感動してしまった。表現されているのは「友情」の一つのありようなのだが、これを安っぽかったり暑苦しかったりせずに切実で抑制が効いていて、深慮に支えられていると感じさせる脚本の力と役者陣の仕事に敬意を表したい。

 その後も、とりわけ若手俳優陣の熱演に支えられて感動的なエピソードが描かれるのは『最高の教師』以来だ。

 とても愛おしいドラマだった。

2025年9月21日日曜日

『何者』-いたい

 どこでやら高評価だったので。

 原作は途中まで読んだ覚えがあるが、映画を観ながらも、まったく記憶がよみがえらなかった。一方で就職活動をする大学生の話、という枠組みからは、全く意外性のない展開ではある。

 展開はともかく、語り口は実にうまい。就職活動に奔る周囲の大学生を見下しながら、自分は何か価値のあることをやろうとしていると思っている登場人物の語ることなど、実にそれらしい。これは明らかに言葉の力のあることがわかる芸で、おそらく原作の小説からもってきたものだろう。どういう言葉遣いに、バランスの悪い過剰な自意識が表れるか、それをいかにもな例で示してみせる。

 就職活動に対する取り組み方に、それぞれの価値観が表れる。実際はどういうふうに合否が決まるのかはもうちょっと不明なはずだが、物語では必然性のある形で合否が決まっていく。それがそれぞれの心のどんな波紋を広げていくか、静かなサスペンスに満ちた描写で描かれ、それがいくつかの局面で噴出する。いたい。いわゆるイタい人物ではない誰もが、同様にいたい。それはとてもリアルだ。

2025年9月20日土曜日

『地震のあとで』-モヤモヤ

 村上春樹原作のドラマ。録画してから4話全部を観るまでに半年くらいかかった。

 評価は難しい。画面も音楽も、なんだか高級そうではある。演出の井上剛は『クライマーズハイ』『いだてん』だし、脚本の大江崇允は『ドライブ・マイ・カー』の共同脚本だ。演出が弛緩したところがあるわけではないし、出演陣は岡田将生に堤真一に佐藤浩市と超一流。

 しかしなんともモヤモヤした挙げ句に原作を読んでみた。

 原作もおんなじだった。まったく同じモヤモヤが村上春樹の小説にもある。そういう意味ではとてもよくできた映像化であり、舞台を30年後の現在に移しているからどうだということもなく、多くの人の手を借りて世に出ることの意味があるのやら。

 何がモヤモヤと言って、ひたすらに意味ありげ、なのだ。そして意味は確定されない。結局。村上春樹はずっとそうだ。何かを指し示していそうな象徴やらガジェットやら言葉やら展開やら形容やらが、簡単には意味を明らかにしそうもなく、だからといって意味などないのだと棄てておけない実に微妙なバランスでちりばめられている。全編にわたって。

 それを何事かと解釈することが村上春樹の楽しみでもある。ゲーム的に、ということではなく、解釈できないこととできることの間で引き裂かれるコンプレックスに翻弄されることが。

 だがなんというか、現状は、めんどくさい。ゲームにもコンプレックス・ゲームにも。


 さて、とりわけモヤモヤするのは『かえるくん、東京を救う』だな。のんのテレビドラマ出演は喜ばしいが、この設定には大いに疑問がある。まるで『ミミズの戸締まり』ではないか。ということは、同じようにここでも、この設定には納得できない。東京で大地震が起こっていないことは、かえるくんと片桐の死闘のおかげだということになっている。ということは、阪神・淡路や東北では、誰かが仕事をサボったのだ。あるいはミミズが地震を起こすのは人々の悪意の蓄積のせいであるように言われるが、それなら、震災の犠牲者はそれらの悪意の犠牲者なのか。なぜその人々が?

 この話は片桐の選民意識的優越感をくすぐるという意味で、きわめてラノベの心性に似ている。

 いいのか。ノーベル賞候補になろうって人の小説が。

 だが一方で、この作品に引きつけられる人が多いという話も聞く。なぜだ。


『メイキング・オブ・モータウン』-アメリカ現代音楽史

 モータウンレコードについての基礎知識をこの際だから仕入れようと、…などというさもしい期待をはるかに超えて面白い映画だった。

 創始者のベリー・ゴーディが、盟友スモーキー・ロビンソンと、豊富な逸話を面白く語っていくのだが、それだけでなくドキュメンタリー映画としての構成が実に見事だった。歴史を語りつつ、そこに起こる出来事が生き生きと語られていくだけでなく、モータウンレコードの果たした役割がアメリカ現代史として語られる。もちろん現代音楽史でもあるが、人種問題としてのアメリカ現代史だ。

 そして、モータウンの成功がそのシステムにあると語られるところが面白い。ベリー・ゴーディはフォードの自動車工場に勤めていた経験を活かして、音楽制作に、確固たるシステムを構築しようと意図する。利益を追求する効率重視の制作体制。

 だがもちろん、そこに個人の才能が不可欠であることも、同時にいたいほど感じられる。スモーキー・ロビンソンはもちろん、マービン・ゲイにスティービー・ワンダー、マイケル・ジャクソンといった天才が、しかもとびきりのパフォーマンスで画面に登場する。

 日本の音楽制作では、しばしば音楽のわからない会社員の硬直した体制と、良い音楽のためにたたかうアーティストという構図が語られるが、本作では才能を持った集団が、良い物を作るという目的のためにしのぎを削りつつも集団として力を発揮していく姿が語られ、なおかつそこから飛び出ようとする巨大な才能のありようも語られる。制作が単なる個人の芸術的発露にとどまらない。そうした「場」の力が印象づけられる。

 ドキュメンタリーとしては、ベリー・ゴーディとダイアナ・ロスの恋愛が、危機からのロマンスとして劇的に語られるところも実にうまい。 

 モータウンの曲をライブでやりたくなった。


2025年9月19日金曜日

『真・鮫島事件』-怖さよりカタルシス

 口にしただけで呪われる噂が伝染するというアイデアは『リング』のパクリだが、思えば『リング』はビデオテープを再生するという手間がかかるところが時代だった。そこにネットの普及を前提にしてしまえば、もうパンデミックは避けられない。そのわりには少人数に災厄がふりかかるだけで終わる。

 演出は良い。怖い。ホラーだと思って観ると、にわかに画面の隅々が想像力によって怖さの源泉になる。緊張がとぎれない。ジャンプスケアを使ってくるかどうかわからないので(たぶん使うんだろうとは思って観る)。

 展開はまるで『Zoom』で、これもパクリレベルでほぼ既視感がある。 

 ただ呪いを解くためのアクションを起こす(兄弟に頼んで、部屋の中の展開の外に出る)という展開がオリジナルだが、そこに突然絡む「七つの大罪」は意味不明だし、そこら中で飛び出してくる悪霊は「伽椰子」だし、その末にせっかくはたらいてくれた兄の努力が無駄になるのは誰得なんだ。その絶望感がホラー? いや、怖さよりカタルシスだろ。

 突然、呪いの場所は柏だという設定が語られてびっくりした。


2025年9月18日木曜日

『川を越えた先』-地味なホラー

 イタリア産ホラーだが、こういうのがスタンダードかどうかは全く不明。展開もなく、情報量も少ない、実に地味な映画だった。

 森のあちこちにカメラを仕掛けて動物の生態を調べている動物学者が、狐に仕掛けたカメラの映像に導かれて「川の向こう」の廃村に赴き、そのまま川の氾濫で戻れなくって廃村で寝泊まりするうちに怪異に遭う。川を越えると異界、という設定はとても民俗学的。

 相手は幽霊なのかと思っていると、何か物理的な力も使ってくる。どうも法則がわからない。どういう描き方をしたいのかが読めない。こういうホラーは困る。

2025年9月13日土曜日

『日本の大人』-設定の持つ可能性

 大学の劇研の公演にお誘いを受けて。

 娘の大学時代もそうだったが、大学というのはサークル棟に小さな演劇スタジオが備え付けであり、それは完璧な遮光を実現できるから、こういう公演を開くにはまことに便利なのだった。もちろんステージの裏手を移動できる通路はむろん、今回は奈落まであった。

 その奈落をそのまま舞台の真ん中に見せているから、危ないなあと思っていたのだが、ちゃんと演出に使われていた。場面ごとの小道具を次々と投げ込むのは珍しい演出だと思っていたら、クライマックスでそれがタイムカプセルに模せられ、登場人物がそこから表れるという、まことに正しい奈落の使い方をしていた。

 さて、劇作家の柴幸男という人は初めて知ったのだが、これ一作ではどうかな。

 主人公は小学6年生男子。そのクラスに32歳の「小学26年生」が転校してくる。大人になるってどういうことか、永遠に終わらない子供時代なんてあるのか、というのがテーマなのだが、となると予想されるメッセージは、子供はいつか大人になるという常識にゆさぶりをかけることと、それでも終わるしかない子供時代に対する喪失感を受け入れる痛みを描くことだと思われる。その予想があたっているのかどうかさだかではないが、その予見で観てしまったことが十分に満足しきれなかったという感触につながっているのかもしれない。

 演劇的には面白いところはある。小学生を演じている演者たちが突然大人っぽく喋りだし「仕事に行く」などと言い出す。32歳の「現在」が描かれる。この場面転換が唐突なのが面白い。これが成立する演劇空間の自由度が面白いのだ。

 小学6年生の主人公が突然32歳になって、かつてのエイリアン、32歳の小学生、熊野君と同じ立場になる。大人は働くものだと正論を語っていた主人公が、32歳の今、無職でいる。

 そう、設定は主題に対して極めて明確に見える。

 とすれば、熊野君を迎える小学6年生の主人公は、不本意に大人になることを強いられた子供であるはずだ。そういう設定は確かにある。父親が家を出て、看護師の母親は夜勤があったりして、幼い妹の食事の支度をしなければならない。そうして子供時代を失いつつある主人公が、ずっと子供でいて何が悪いと開き直る熊野君との出会いで、その固定観念を揺るがされる、という展開になるはずだ。

 確かに最初は嫌っていたはずの熊野君を家に招いて一緒に遊んだりする。だが残念ながらそれが唐突に見える。その必然性が見えるほどには、主人公の「大人を強いられること」の苦しさが描かれているようには見えないし、熊野君の自由が魅力的にも見えない。これは脚本的な弱さに見えるのだが、演出や演技がそれを補うほどに自覚的でもないように見える。大学生が子供を演じる面白さの方に重点が置かれてしまっているように見える。もちろん「大人になることを強いられた子供」を大学生が演ずるという課題が相当に難しいことは確かだが。

 「大人になることを強いられた子供」が、32歳現在、無職で、小学生から観るとかつての熊野さんのように見えているという描写はとても意図的な構図を作っているのだが、例えばその言動に相似性をもたせ、子供がそれをやる(言う)ことと大人がやることのギャップを見せるとかいう工夫は、もっとされてもいいのに、などと、この設定の持っている可能性(がゆえの不足)がどうも見えてしまって、手放しで面白かった、満足したと絶賛するわけにもいかないのだった。

2025年9月1日月曜日

この1年に観た映画 2024-2025

  ブログを開設して10年だった昨年は、それまでで最も観た映画が少ない1年だったのだが、そこから1年の今シーズンの47本は、それに次ぐ少なさ。50本を下回っているのはここ2年だけだ。忙しさの昨年度の忙しさはもうないのだが、さりとて努力をしないと映画を観る時間はとれない。観たい映画は(アマプラのリストは)溜まっていくのに。

 とりあえず10本。


10/5『対峙』-赦す

10/6『Fall』-脚本作りのお手本

10/12『プラットフォーム』-社会の隠喩としての穴

12/3『素晴らしき哉、人生』-多幸感に満ちた

1/14『型破りな教室』-「型破り」という危険

2/15『アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場』-それぞれの論理

2/28『マイ・インターン』-ハートウォーミングなコメディという枠組み

3/11『MONDAYS/このタイムループ、上司に気づかせないと終わらない』-揺れるカメラ

6/24『新・感染半島 ファイナル・ステージ』-おそるべし

8/20『スクリーム4.5.6』-堂々たる


 突出した1本を選ぶことはできない。ようやく観た坂元裕二の『初恋の悪魔』に比肩しうる強い映画体験はなかった。

 邦画は1本。

 どれもビッグバジェットの派手な映画ではない。比較的狭い範囲で緊密な描写が成功している映画だ。もちろん脚本がよくできているからこそこれが成立する。おそらくみんなでよってたかってアイデアを出している。一人の脚本家が独りよがりで書いてはいない。

 いや、本当にすごい物語は、小説にしろマンガにしろ、一人が真摯に考えたものに多いのかもしれないが、映画は一人で書かれた浅はかな物語に多くの人の手と予算が費やされる無残がイタいので、やはりチームでなんとかしてほしいものだと思ってしまう。


 以下、「50本を下回る」この1年の映画。


9/15 『サイダーのように言葉が湧き上がる』-アニメ的演出

9/16 『桐島、部活やめるってよ』-映画人の自己愛

9/19 『エコーズ』-標準点

9/22 『プリズン13』-弛緩した

9/24『TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ』-クドカンに求めるもの

10/05『対峙』-赦す

『エスター ファースト・キル』-前作再評価

10/6 『Fall』-脚本作りのお手本

10/8 『鬼太郎の誕生 ゲゲゲの謎』-アクション

10/12 『プラットフォーム』-社会の隠喩としての穴

11/2 『ノマドランド』-不安と自由と孤独と連帯

12/3 『素晴らしき哉、人生』-多幸感に満ちた

12/14『呪術廻戦0』-サプリメント

12/27 『ザ・デッド2 インディア』

12/28『君のためのタイムリープ』-愛おしい

『善き人のためのソナタ』-娯楽映画として

12/30『アイの歌声を聴かせて』-AIを描く困難

1/4『ターミネーター ニューフェイト』―自然なAI

1/14『型破りな教室』-「型破り」という危険

2/10『赤毛のアン』-尺だけ

2/15『ペイ・フォワード』-そんなにうまく

2/15『アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場』-それぞれの論理

2/16『ビリーバーズ』-凡作だが

2/28『マイ・インターン』-ハートウォーミングなコメディという枠組み

3/6『チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』-演説の功罪

3/10『人狼ゲーム デスゲームの運営人』-運営の裏側を描く

3/11『MONDAYS/このタイムループ、上司に気づかせないと終わらない』-

3/15『ダンケルク』-間然するところないが

3/15『三島由紀夫vs東大全共闘〜50年目の真実〜』-言葉のスパーリング

4/04『cocoon』-もやもや

4/26『鳩の撃退法』-藤原竜也

5/3『まともじゃないのは君も一緒』-まとも

5/5『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』-わかりにくい

5/8『彼女のいない部屋』-現実と虚構のあわい

5/17『ラストシーン』-エンタテインメント短編

5/22『MEG ザ・モンスターズ2』

5/24『エクス・マキナ』-自意識と自己保存

5/25『アンキャニー』-どんでん返し

6/22『アポカリプスZ』-終末感

6/24『新・感染半島 ファイナル・ステージ』-おそるべし

6/29『プロメテウス』-のれない

7/14『青春ブタ野郎はおでかけシスターズの夢を見ない』『青春ブタ野郎はランド

7/27『Silent Fall Out』-日常と地続きの「問題」

8/12『スクリーム(2022)』-満足の新作

8/14『コラテラル』-驚くべき

8/19『恐怖のメロディ』-今となっては

8/20『スクリーム4.6』-堂々たる


2025年8月31日日曜日

『僕らの力で世界があと何回救えたか』

 文化祭クラス演劇は、今年度2クラス。1年生クラスは本番で観るタイミングがとれないんで、通し練習の時にトリプルキャストのうち2回を観た。これはまあ今後に期待ということで、当日の方で何とか3年生のを。約90分の長丁場だが、この公演しかない、という回を。

 高羽彩という作家の『僕らの力で世界があと何回救えたか』は、題名からもう期待できる。タイムループかパラレルワールド設定に違いない。短い惹句からすると、そこに青春の喪失、的な要素もあるらしい。ますます期待に満ちている。

 さて実際にどうだったかというと、期待以上だった。文句なく素晴らしかった。脚本は、物語の起伏に満ちていて、サスペンスも、人物の葛藤も十分に描き込まれてエモーショナルでもある。世のほとんどの物語には、それはないだろうというような無理な展開や描写があるものだが、それもない。無理のない言葉で、豊かな物語が紡がれていく。

 そして、それを惜しみなく実現している役者陣が素晴らしい。頑張ってはいるが、惜しい、などと思う役者がいない。それどころか、演劇部でもない各生徒が、台詞回しのクリアさも自然さも感情表現も、驚くべき完成度で実現している。いや安易な形容ではなく、本当にこれは驚くべきことだ。そして驚くべきことにこれがダブルキャストだというのだ。

 舞台美術はシンプルそのもの。黒い布をかけた背景に、教室の机と椅子が数脚置かれているだけ。凝った大道具もなければ転換さえない。観客の想像力で物語を補完させる。文化祭で舞台美術に手がかかるのはリスクが大きい。それだけの人手が確保できるのかも、完成度が低いとマイナスになってしまうような要請も。それなしにできる物語は文化祭向きでもあった。

 そう、脚本選びは、文化祭で演劇を実行する上で決定的に重要な過程で、ここを安易にやり過ごしてしまうととても残念なことになってしまうのだが、この最初の条件を最高の形で乗り切った上で、その物語の可能性を十分に実現したクラスの力はいくら賞賛してもしたりない。

 これまで経験した数多くの文化祭クラス演劇というだけでなく、演劇部やアマチュア演劇、プロの舞台まで含めても出色の、最高級のエンタテインメントだった。


2025年8月19日火曜日

『スクリーム4.6』-堂々たる

 『スクリーム』第5作の面白さが忘れられず最新作が観たくなって、『6』を途中まで観て、どうにも『4』が見直したくなって、途中で『4』をまるまる見通し、その後で『6』の後半を見通す。一晩で2本。

 特に挟むような考察はない。ただ大満足だった。再鑑賞の『4』もやはり面白かったし、最新作の『6』も遜色ない。「パターン」を超えるような新展開があると毎回言っているが、まあ今回の、レギュラー陣がみんな生き残るはうれしいイレギュラーでもありつつ、まあそれほど驚くような展開ではなく、それよりもみんな刺されても元気すぎるだろ、というのがちょっとやり過ぎ感があるが、基本はハッピーエンドを歓迎したい。

 堂々たるエンタテインメント・シリーズ。

『恐怖のメロディ』-今となっては

 クリント・イーストウッド監督作はいずれコンプリートしようと、ようやく第一作を。

 主人公に対するストーカーの話だとは知っていたが、そのままそのとおりだった。そしてそれ以上に面白いわけでもなかった。残念ながら。たぶん、ストーカーが今ほど一般的でなかった頃にはそれなりに衝撃作ではあったのかもしれない。が、今となってはもはや、想像や期待までにも達しない。『13日の金曜日』『ハロウィン』的なホラーを「期待」してしまうせいかもしれない。最後は呆気ない、と言う感じ。『エスター』が比較に思い浮かんでいるせいか。

 確かにストーカー、イブリンのキャラクター造型はうまいといえばうまい。妄想と現実の境目が曖昧になって、バランスの良い現実的な判断ができなくなっていく過程とか。

 だが、完全に現実的な判断力を失わずに、それでも執着してしまうぎりぎりの線、イブリン主観ではなく、観客の共感が得られるバランスでストーキングが描かれればもっと面白くなるのではないかと残念。

 伏線を張ってそれを回収するシーンの衝撃など、うまいと思える展開はあるのだが、はやり時代の問題だと思われる。


2025年8月14日木曜日

『コラテラル』-驚くべき

 見放題終了につられて8年ぶりに見直してみた。いやはや驚くべき面白さだった。やはり。

 その素晴らしさは前回記事に詳しい。

2025年8月12日火曜日

『スクリーム(2022)』-満足の新作

 『スクリーム』シリーズ第4作の前作は2011年で、1から3までを見直した上で観たのは、ブログ開始前、10年以上前だった。娘と一緒に観たのは覚えているが、記憶力の良い彼女ほどにはこちらは詳細を覚えていない。ストーリーはもちろん、誰が犯人だったかも。ただ、おそろしく面白いシリーズであることは間違いなく、ウェス・クレイブンの評価は『エルム街の悪夢』よりもこちらの方で支えられている。

 さて、ウェス・クレイブン亡き後、シリーズとしては完全にそのままの設定で時間も経過して、シリーズのレギュラーも、生き残りはちゃんと出演するというサービス。

 シリーズの特徴である、映画内に、ホラー映画に対する批評を織り込むユーモアは健在で、そのための役割がちゃんと前シリーズオタク少年の姪という設定も楽しい。

 基本的には命を狙われる危機から逃れる、命をかけた鬼ごっこのサスペンスでできている物語なのだが、もう一つ、誰が犯人なのかという興味が物語を引っ張る。これも、このシリーズの特徴で、犯人を複数にしておくことで、あるエピソードではこの人を犯人候補から外すしかない、という推論が、結局全員を候補から外すことになってしまうという展開を実現している。うまい。

 好奇心も恐怖も、最後のカタルシスも文句のないレベルでできている。数々のフランチャイズムービーシリーズでも、外れのない良作。

2025年8月9日土曜日

『だから僕はあの人の真似をする』-皮肉

 知人の劇団の舞台は皆勤賞なのだが、毎年そのことを書き留めておくのを怠って、第2回以来の第7回公演。

 木下順二の『巨匠』という演目なのだが、これは以前から教科書の加藤周一の文章に言及があるので知っていた。行く直前に調べて、ああ、あれかと思い至った。

 ナチス支配下のポーランド。「知識人」を処刑しようとするゲシュタポの前で、旅回りの老俳優が、自分が「俳優」であるかどうかを証明しようとする。「俳優」ならば知識人として処刑されるが、当面の仕事である役所の簿記係ならば逃れられる。だが老人は自らが俳優であることを証明するために『マクベス』の一場面を演じて、処刑される。

 加藤周一の紹介に拠れば、老人が演じたのは、同じ場所にいた俳優志望の若者に、戦時下にあって失われない芸術を見せるためだという。だが実際のその場面にはとりわけそういった描写はなく、老人はもっぱら自らのアイデンティティの証明のために命をかけたように描かれている。老人は、有名俳優からの紹介状を肌身離さず持っていて、ことあるごとにそれを人に見せていたのだが、ここでも自分が俳優であることの証明としてそれをドイツ将校に見せると、あっさり破り捨てられてしまう。その途端、老人は自分が俳優であることを証明するために『マクベス』を演ずることを将校に申し入れる。アイデンティティの証明のために命をかける、という主題は明確であるように見える。

 だが、よく観てみると、老人は処刑のために外へ連れ出される際に、室内を振り返って若者を見る。その時に若者にも照明が当てられ、そこで何かの交感が生じていることが示される。長い間。なるほど、加藤周一の言っている、若者に見せるために、ポーランドの芸術の継承のために老人は演じたのだ、という解釈はそこから出てくるのか。

 芸術をはじめとする文化を破壊する者に抗して芸術の価値を宣言する声を聞き取ることができるのは、はからずも芸術を理解することのできる目を持っていたドイツ将校、つまり破壊者自身だったという皮肉。


2025年8月8日金曜日

短編舞台3本

 地区の高校演劇部の合同講習会に行くことになった。門外漢なので、最後の舞台の感想のみ。

 3日間連続で、初日に配られる台本を、3日目の最後に上演する。3チームに分かれ、それぞれにシナリオが配られる。役者は各チーム20名ほど。音響と照明はそれぞれに各チーム5,6名か。それぞれに1,2名の先生が演出・指導にあたる。

 演目はそれぞれ30分程度。

 Aチームは、舞台上にコの字に並べられた椅子に全員が座って、その中の何人かが入れ替わりで前に出て、自分の経験した、他人とのすれ違いのエピソードを語る。母親との、ゲーム仲間との、恋人との。エピソードに関わる場面を演ずるために、舞台上のそれ以外の演者が随時前に出て場面を成立させるために協力する。ある時は関係する登場人物として、ある時は「群衆の声」として。ある時は「風」として(登場人物の服を引っ張ってはためかせることで「風」を表現する)。

 最後のエピソードは鎌倉遠足の班行動で迷子になる話。友達が先導するコースが山道に向かってしまい、すっかり登山になる。これは何か象徴的なことを意味しているのかと思うと、素直に遠足での迷子というエピソードなのだった。だが、大変な思いをして山の上まで出ると、眼下に鎌倉の街がひろがって、空に虹が架かるという結末が突然の救いとして憂鬱なこの物語を締めくくる。「空にかかった虹を私は忘れないだろう」というモノローグによって、そこまでの不愉快な感情のもつれが回収される見事な物語。

 終わってから聞いてみると、講習会に先立って生徒から「最近あった不愉快な出来事」を集めておいて、それを再構成したのだそうだ。特別な仕掛けが物語にとって必ずしも必要ではないという、ある種のお手本かもしれない。とにかく見る者の感情を逆撫でしておいて最後に順撫でして納める。 


 Bチームは鬼ヶ島に人間の大使館ができて、人間の高校生が鬼の高校に一人で転校してくる物語(講習会参加の演者を、1クラスの生徒として全員使うことができる演目だ)。前半は仲間はずれに負けずに関わろうとしながら、少しずつ信頼を勝ち取って鬼の高校生たちと合唱を実現する。そこで大団円かと思いきや、後半では人間の移住者が増えて、増えたからこそ融和しようとしない人間グループと鬼グループが対立するという展開。

 差別や争いといった普遍的なテーマが、現実のあれこれを連想させるように展開するのは見事だった。皮肉なのは、差別や争いを乗り越える象徴として世界中で演奏されるジョン・レノンの「イマジン」の「想像してごらん、国境なんてない」が、最後に「国境があった時には平和だったのに」と逆転されて語られることだ。理想としての共産主義に対して、共有地の悲劇を乗り越えるための分断の可能性が示唆される。ちょうど参院選で躍進した参政党が、外国人排斥ともとれる主張を「差別ではなく区別です」と説明していることなどを思い出す。

 高校演劇で有名な青森中央高校の作を短縮したものだそうだが、構造のわかりやすさはうまいが、時々、「言葉」に含蓄がなくて薄く感じられるのが残念だった。


 Cチームは横光利一の「蠅」の翻案。演者チームを二つに分けて、同じ物語を繰り返すのだが、2回目の方はパロディになって、観客の笑いを誘うことが狙いとなっている。

 これは残念ながら「蠅」の舞台劇化が適切かという問題と、単なるギャグになっていく後半が「楽しい」と感じられるかという好みの問題で、あまりのれなかった。


 それにしてもともかくも演劇を作り上げる現場は、観客として、というより、作っている生徒たちの充実感が伝わってくるから、良い体験だよなあと思える。


2025年7月27日日曜日

『Silent Fall Out』-日常と地続きの「問題」

 とある縁で伊東英朗監督によるドキュメンタリー映画を観る機会があって。

 アメリカの原爆実験によって、アメリカ国民が被害を受けたという話はいわゆるアトミック・ソルジャーでも聞くが、地上で実験をやればそりゃ一般市民にも被害が及ばないはずはないよなあ、というのが素直な感想ではある。

 まずもって日本への原爆投下も、戦略上の選択と言うよりは人体実験だったのだという説はいかにもありそうな話だが(そしてそれは公式には認められない「陰謀論」でもある)、それを自国の兵士に対しても行ってしまうところが、為政者の思考傾向の恐ろしいところだ。それなら白人から見た黄色人種に人体実験をすることを忌避したりはしないだろうことは無理なく信じられる。

 だがこれが一般市民に対してもそうなのかというと、ちょっとためらわれる。となると、為政者・科学者からしても、まさかそんなことになるとは、という結果だったのか、想定内だったのか。これは限りなくグラデーション的な怪しさではある。想定はされていたが、因果関係を認めなければとか想定外だったとか言い逃れができるという見通しでの実験優先だったのか。

 本当に知りたいのはそのあたりの「感触」なのだが、これをドキュメンタリーとして描くのは難しいことはよくわかる。

 それよりもこの問題を追及する市民運動家が、ケネディからの電話を受けるために二階に上がっている間に、ミートローフが冷めてしまったと語る、今や老齢の息子の話が妙に印象的ではある。

 この会の主催の一人である指田和さんの絵本を、ほぼそのまま動画にした、同監督による『ヒロシマ きえた家族』というショートムービーも、原爆「問題」を大上段に語るわけではなく、原爆で被害を受けて「消えた」一家族を残された写真で追うだけなのだが、そうした描き方でこそ「問題」が捉えられるということもある。これは徹底的に日常を描くことで戦争を描いた『この世界の片隅に』の手法でもある。

 原爆開発による世界情勢の変化という大問題を、兵士や市民の生活や健康といった日常から捉える目を再認識させてくれた2本。

2025年7月14日月曜日

『青春ブタ野郎はおでかけシスターズの夢を見ない』『青春ブタ野郎はランドセルガールの夢を見ない』-高校生編決着

 テレビの方で新シリーズが始まるというので、そこまでの劇場版を。ついでに前テレビシリーズの関連エピソードや劇場第一作『ゆめみる少女の夢を見ない』も観直して。

 テレビシリーズから劇場版3作が完全につながっていて、それが次のテレビシリーズにつながっている。

 さて『ゆめみる少女の』が面白かったようには、その後の2作は、話に起伏がない。『おでかけシスターズ』は設定に決着をつける意味で必要なお話ではあったが、残念ながらそれほど物語的な企みはなかった。ひきこもりのヒロインが高校進学するにあたっての葛藤や、通信制高校の是非など、見所はありそうでもあったが。このエピソードについては、やはり前テレビシリーズの、二重人格が消えてしまう喪失感の圧倒的な強さに比べて弱い。

 『ランドセルガール』は、いわば高校生編の終わりとして、そもそもの思春期症候群の発症にかかわる主人公の葛藤に決着をつける展開が描かれる。これはなんとも感動的だった。大団円の直前に、そもそものシリーズの発端だった「他人に認識されない」症候群をもってきて、その解決が大いなる救いになるという構成も見事。

 これで新テレビシリーズの大学生編はだらだらと展開しないか、不安もありつつ期待。

2025年7月1日火曜日

2025年第2クール(4-6)のアニメ

 片っ端から1話を録り、最初からテーマソングしか確認しないのが大半だが、今クールは3話くらいでやめたのが、『アポカリプスホテル』『ある魔女が死ぬまで』『宇宙人ムームー』『GAMERA -Rebirth-』『九龍ジェネリックロマンス』『ゴリラの神から加護された令嬢は王立騎士団で可愛がられる』『ざつ旅-That's Journey-』『男女の友情は成立する?(いや、しないっ!!)』『謎解きはディナーのあとで』『日々は過ぎれど飯うまし』と、けっこう多かった。だんだん作画レベルが落ちてきたり、脚本やら演出やらの人間描写が安っぽかったりでやめるのだが。

 『アン・シャーリー』は『赤毛のアン』の新作だというのに、残念きわまる。高畑勲をレストアなりリマスタリングするなりして再放送する方がはるかに有益。


『増田こうすけ劇場 ギャグマンガ日和GO』

 なんか20年ぶり? 子供も覚えている、おそろしくよくできたギャグマンガのアニメ。アニメとしてよくできている必要はまったくなく、ただやたらと早口で喋り、間を詰めて編集するだけ。元のギャグがあまりに面白いので、それだけで面白い。が、20年の年月を全く感じさせない。何の質の向上もない。にもかかわらず面白い。


『片田舎のおっさん、剣聖になる』

 平田広明の声が人柄の安定感を保証しているので、見ていて心地よい。このパターンは『俺はすべてをパリィする』だな。


『小市民シリーズ』

 シーズン1と変わらず高品質なアニメだが、びっくりするほどつまらなかった前シーズンに比べて、面白かった。1クールでエピソードが2つという引きが。謎で引っ張り、サスペンスでドキドキさせる。

 OPのヨルシカ「火星人」はヨルシカ中でもかなり好きな曲。


『忍者と殺し屋のふたりぐらし』

 大量に作られる深夜アニメで、花澤香菜は相変わらずいくつもの主役級キャラを演じているが、本作ではちょっとクールなキャラクターを演じていて、こういうのもちゃんと作ってくるところがさすが。シャフトといえばなるほどという、時々妙に高品質な作画も悪くなかったが、あまりに無軌道な作品が、どのあたりに決着するのかと最後まで見守った。だんだんわかりやすい人情ものになったのだが、それはそれで悪い印象ではない。


『ロックは淑女の嗜みでして』

 演奏シーンのアニメと、実際に演奏されている音が高品質で、音楽的にも見応え・聴き応えがあったし、基本的には痛快な展開の連続に毎度快哉を叫びつつ見続けた。


『LAZARUS』

 大御所、渡辺信一郎だが、最近作の『残響のテロル』『キャロル&チューズデイ』はどちらも面白いとは思えず、期待の中に不安も。

 映像も音楽も素晴らしく、とりわけOPの転調を繰り返すインストゥルメンタル曲は、ストリングスのアレンジの壮大さも見事で始まった途端に劇的なドラマ性を感じさせる。

 アニメーションも最初から最後まで見事で、とりわけアクション監督を務めるチャド・スタエルスキは本人も格闘技経験のあるというだけあって、「ちゃんとした」格闘を描いている。背景美術も安っぽくない。

 だが、物語に引き込まれたかというと残念ながらそれほどでもなかった。どこかで観たようなSFの寄せ集め的で、それが強いドラマを生み出しているかと言えばそうでもない。例えば、人類の存亡の危機に政府機関によって集められた特別チームがあのメンバーだというのは、ちょっと無理がある。行動しているうちに仲間意識が芽生えてくるというのは悪くないが、それ以上に、人類の危機という切迫感はどうも感じられず。ということで大きなカタルシスもなく。

 本当にアニメーションの素晴らしさには毎回感嘆していただけに、残念。


『戦隊大失格』

 前シーズンからの決着ということで。

 総じてアニメーションの質は高いままだったが、見直したいほど面白かったといえばそうでもない。怪人の作る学校空間に閉じ込められてループするエピソードは楽しかったが。それは本筋よりも「ループもの」としての楽しさ。

2025年6月29日日曜日

『プロメテウス』-のれない

 『エイリアン』シリーズに決着をつけようと、これと『コヴェナント』は見るつもりではいる。が、見放題終了のタイミングに後押しされてようやく。

 元祖リドリー・スコット監督作で、映像美は文句ない大作だったが、ストーリーのあちこちに納得できず、なんなんだ、これはというのが視聴後感。

 人類を作った宇宙人がいるらしいことがわかって、そこに会いに行きたいと思う動機がまずわからない。宇宙船団のオーナーの老人は死を逃れる術を教わろうとしているかのように描かれているが、それがどうして果たされると期待しているのかまるでわからない。会いに行って会えてしまう展開もご都合主義にもほどがあると思うが、よしんば会えたとして、どうしてヘルメットを取って歩み寄って良いと思えるのか。

 老人ばかりか、科学者であるところの乗組員たちも、有害なものが大気にないとセンサーが言っていても、すぐにヘルメットをとるのが自然な行動のわけがない。センサーに検出されない未知の有害物質がある可能性を考えないはずはないではないか。

 宇宙人は、目覚めた途端に人間を襲う。

 エイリアンはもちろん人間を襲う。だがその前に寄生された人間が人間を襲う。「危険」を増やせばサスペンスが増えるというものではない。エイリアンの存在意義がわからない。

 アンドロイドは実験のためだかなんだか、人間にエイリアンの卵を飲ませ、それが案の定の展開になるのだが、そのわりに最後にはその被害者のパートナーであるところのヒロインを助ける。


 みんな、行動原理がわからなくて、話にのれない。

2025年6月24日火曜日

『新・感染半島 ファイナル・ステージ』-おそるべし

 『新感染 ファイナル・エクスプレス』にあやかって、というわけではなく、正当な続編なのだそうだ。監督も同じ。

 あちらもずいぶんと面白い映画だったが、こちらもまた、見事によくできた終末映画であり、アクション映画だった。ほんとは家族映画でもあるんだろうが、そこはまあベタではある。

 どこまでがCGかわからないが、とにかく街の廃墟感はよく出ていた。『アイ・アム・レジェンド』並とは言わないまでも、終末感はたっぷり出ていた。

 そしてアクションの見事なこと。とりわけカーアクションだが、こういうのを日本でやるのは本当に難しいんだろうと思われる。もちろん派手に壊せば良いというものではない。スリルを感じさせるのはスピード感とか急転回だが、そればかりで楽しいというわけにはいかない。ゾンビの群れに対して、車で走り抜けるための工夫を懲らしつつ、追っ手に対してどう対処するかにも知恵を絞る。駅のホームに上る階段にゾンビがぎっしり詰まっている画は、確か『新感染』でも衝撃的に描かれていたが、こちらでもそれを一度ジャンプスケア的に見せておいて、後で追っ手を振り切る手段として、このゾンビの塊を敢えて路上に溢れさせるといった展開は、脚本的にも実にうまいし、撮影も編集も見事にそのスピード感を見せつつ大いなるカタルシスを実現していた。

 エンタテインメントとして高い水準にあるこういう韓国映画、おそるべし。

2025年6月22日日曜日

『アポカリプスZ』-終末感

 スペイン産のゾンビ映画。邦題だと思ったら、原題がそのままなのだった。感染者が走るという『28日後』パターン。

 安っぽくはない。雨の高速で、トラックを追い越す描写を入れておいて、その後で主人公の車が路上に急停車したあと、車内のやりとりに観客の注意を集中させておいて、案の定そのトラックが追突する。うまい。

 移動途中の老婆宅への居候と、去り際の苦さなども悪くない。

 病院に逃げ込んだときに、ヘリポートまでの数十メートルを、ゾンビの群れをどう抜けるかという問題に対し、ケージを連結させた移動式バリケードを作って、そこに立てこもりながら移動するなど、アイデアも楽しい。

 が、全体に、申し分なく面白いということもない。

 終末感はやはり、人気のなくなった街の描写によって描かれるのだろう。

2025年5月25日日曜日

『アンキャニー』-どんでん返し

 邦題の『不気味の谷』というのは原題の慣習的な邦訳で、到底映画の題名のつけようではない。といって原題のままでは意味不明。

 AIがどれくらい人間らしく振る舞い、人間をだませるかというテーマを扱って、結局最後にドンデン返しがあるのだが、ほぼそれのみ。低予算ながら、いささかも安っぽい映画ではないが、面白いかといえば、どこを面白がればいいのか。意外性という以外に。

 最初のシークエンスで、自閉症スペクトラムかと思わせて実はAIという入りはうまかったが、最後の大ドンデン返しで、実は逆でしたと言ってしまうには、AIが今度は人間過ぎる。できすぎているというより、ドンデン返しを成功させるために、テーマであるはずの、どこまでAIが人間に見えるかという「谷」をあっさり超えてしまっていて、どうもなあ、という感じ。

2025年5月24日土曜日

『エクス・マキナ』-自意識と自己保存

 AIテーマの有名映画で気になっていたのだが、決定的に見始める動機がないまま、ずっとリストに入りっぱなしだった。同じテーマの『アンキャニー』を観る前に、比較に、と見始めた。

 画面が高精細で、金がかかっていそうだなと思っていたら、後から調べるとむしろ低予算だというので驚き。アカデミー賞をとったという特殊撮影よりも、むしろ自然が雄大だなと、AIテーマと関係ないところで感心しているのだが。

 AIテーマとしては、ちゃんと専門家が喋っていそうな会話をさせるところがアレックス・ガーランドの偉いところではあるが、物語の行方はすっきりはしない。

 一つには、関わる人間がAIに感情移入してしまうという問題だが、これはそうなるに決まっているだろうと感じで受け取れる。世に溢れるAI、ロボットものは、ほとんど単なるパーソナルキャラクターだから、感情移入が起こるかどうかが問題になるまでもなく、してしまうに決まっているのだが、本作はAIが正面からテーマとして掲げられるから、さて、どうなるかというところ。

 だが、やはり、感情移入が起こりそうもない描き方をしていたらそもそも面白くなりようもないので、やはり必然的に起こるしかない。とうのAI開発者も、チューリングテスト(を名目にした実験)の被験者である主人公も、当然のように感情移入する。

 感情移入が起こるかどうかをテーマにすることは、構造的に難しいのだった。

 もう一つはAIの自意識の問題。

 だがこれも、物語的には自意識が芽生えないという選択はないのだから、芽生えましたという展開は予定調和になってしまう。その時に、一つは人類に敵対するという昔ながらの方向でその自意識(というより自律性?)を描くか、だが、本作ではもう一つの、自己保存の意識が生ずる、という方向が描かれた。

 そしてそのために人間を害していいかという問題が、「スカイネット」的問題とは別方向から浮上する。

 ロボットという概念においては、目的は人類が与えるしかないから、その時点で人間に害をなしてはいけないという原則を付与すればいいことになっていた。いわゆる三原則だ。つまり自己保存よりも人間に害をなさないという原則を優先するようプログラムすることで問題を解決する。

 だがAIとなると、特定の目的をそもそも与えられるのか、特定の原則(禁則事項)を与えられるのかという問題が浮上する。そんな制限はそもそも能力自体の制限ではないのか。

 一方で、本当に明晰な知性は自意識をなくすというのは伊藤計劃の「ハーモニー」や佐藤史生の「阿呆船」のテーマでもあって、なんでAIが自己保存したいのか、よくわからんという感じでもある。ネットにつながっていれば、そこに拡散していってしまうのではないかというのは『攻殻機動隊』だが、本作がどういう設定だったかさだかではない。

 もう一つのテーマは、AIに自己意識が芽生え、そこに自己保存の動機が生じたとして、それは特定の物理的ボディに対する執着となって現れるのか、という問題。ボディの交換可能性について描かれながら、顔だけはそのアイデンティティと強固に結びついているようでもある。

 これはやはりあくまで人間から見た「AIの自意識」でしかないのでは。


2025年5月17日土曜日

『ラストシーン』-エンタテインメント

 「全編 iPhone 16 Pro で撮影が行われた」が全面に出ているが、是枝監督作でなければ観る気は起こらなかった。スマホだけで撮影したといえば三池崇史もあったはずだし、去年のNHK杯のテレビドラマ部門の準優勝作品も全編スマホ撮影だった。これがスマホだけで、かあ、すげえなあとは思うものの、面白くなければそれ以上にどうでもない。

 面白かった。タイムトラベルなどというベタな設定を持ち込んで展開するストーリーは、そつなくテンポ良く見せるし、仲野太賀のうまさはもちろん、福地桃子の可愛らしさも魅力的で、エンタテインメントとしての短編映画として見事な完成度だ。タイムトラベルなんて持ち込んで、パラドクスはどうするつもりなんだろうと思っていると、なるほどシンプルに「消える」という解決か。その切なさがベタベタしないバランスで描かれているのもさすが。未来にそれを補償するエピソードを入れるのはやりすぎだと思ったが。

2025年5月8日木曜日

『彼女のいない部屋』-現実と虚構のあわい

 あまりに予備知識なしで見始めたんで、途中で役者を知っているのか確かめたくなってアマゾンのサイトを見ているうちに、ネタばれ情報を見てしまった。『鳩の撃退法』を見て間もないのだが、これもまた、現実と虚構の境目が意図的に混乱するように描かれているのだった。で、どれが「現実」なのかを知ってしまったわけだが、いやそちらが虚構でもかまわないはずだ。全部の情報を精査したわけではないが、虚構パートも、まるで「現実」的な手触りで描かれている。じっくり考えていけば、これは妄想=虚構と考える方が理に適っているかという納得も、一応はできそうな気もするが。描き方のリアリティは、ほとんど同等の水準に思える。そのうち、これは地続きの「現実」だと考えるのは難しいから、といってパラレルワールドを描こうとするSF的な手触りを醸し出しているわけでもないから、つまりは一方が「現実」、一方は妄想により作り出された「虚構」なのだろうと解釈されてくる。どちらをどちらと考えるのが筋道が立っていそうか見当をつけながら追っていくと、「虚構」側だと思っていたシークエンスが、ふいに「現実」側に着地したりする。

 仕掛けは面白いし、描き方は文句なくうまいのだが、それでどこに気持ちをもっていけばいいのか。悲劇に身を切られるような共感を抱く? 素直な感情として感動したかと言えば難しい。

『まともじゃないのは君も一緒』-まとも

 成田凌と清原果耶のかけあいは圧倒的にうまい。脚本も演出もうまいのだろうが、『クジャクのダンス』と違って、役者成田凌の本領発揮という見事な演技も見物だった。そしてそれ以上に清原果耶がくるくると変わる表情で表現する微妙な感情は見事だった。

 とはいえ、成田凌の演じるキャラクターは、最初のうち高機能自閉症かと思われたが、後半ではどんどん自然なやりとりのできる人になってしまい、人格に一貫性がないようにも思える。ここは演技の問題ではなく脚本と演出の問題。

 「まもともじゃない」人が、それなりに人々になじんでいく物語を見たかったが、どんどん「まとも」になってしまい、そこは残念。


2025年5月5日月曜日

『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』-わかりにくい

 スターリンの「5カ年計画」で起きたウクライナのホロドモールを題材にしているというので興味がわいて。

 映画は実に堂々たる大作だった。画面には格調高い映画の風格が満ちている。

 1932年の世界恐慌下のソ連の経済状況に疑問を抱いたジャーナリスト志望の主人公が、取材の過程で現ウクライナのホロドモールの実態を目撃する。ソ連の政治的腐敗を描くというよりは、外国の報道がそれを暴けないでいる現場感が的確に描写されている。それぞれの個人はそれぞれの現場で最適化して自分のやれることをやるために日々を生きて、大きな状況には関われない。主人公の取材は最後に新聞に掲載されるが、それがどのような影響をもたらしたとも描かれずに映画は終わる。

 命がけのホロドモール体験の過程では、ほとんど人が死に絶えた村で、幼い姉弟が何か食べている肉が、先に死んだ兄弟のものだとわかるくだりなど、ある意味でわかりやすい劇的な展開もあるものの、全体には、何を「面白さ」として意図しているのかがわかりにくい映画ではあった。

2025年4月28日月曜日

『クジャクのダンス誰が見た?』『悪との距離』

 2025の第1クールは、アニメが不作だった代わりにドラマは観た。『ホットスポット』『御上先生』以外に2本。『エマージェンシーコール』も途中まで観たが脱落。

 『クジャクのダンス』は何年も前の一家惨殺事件が冤罪だった疑いが浮上し、そこから現在の事件に発展する。謎が少しずつ明らかになる展開に引っ張られるとは言えるが、取り立てて面白くなっていくわけでもなく、成田凌の無駄遣いという感じだった。広瀬すずと松山ケンイチの掛け合いは軽妙で、ああいうのはドラマのうまさではあるのだが。

 『悪との距離』は、初めて見る台湾のテレビドラマ。殺人事件の加害者と被害者の家族の思いや加害者家族に対する世間のバッシング、報道の役割、精神疾患に対する対処、加害者側に立つ弁護の正義など、多様なテーマを詰め込んだ、真面目なドラマだった。

2025年4月26日土曜日

『鳩の撃退法』-藤原竜也

 おすすめに上がってきたところで、何の映画かもわからずに見始める。

 藤原竜也が、今はデリヘルの送迎ドライバーとして生計を立てている元文学賞受賞作家で、冒頭からチンピラにボコられるという情けない役柄を見事に演じている。単に情けないというだけではない。それなりに女にももてるところが可愛くないが、嫌みではない。どうしてという説明ができないが、藤原竜也が出ているだけでなんだか面白いというのはどういうわけか。

 現実と小説の中の話が交錯して描かれ、小説の中だと思っていると実際に過去にあったらしいとわかる。時間軸が混ざっているのだ。

 いろんな断片が嵌まって一つのストーリーにまとまっていく終盤は見事だった。

 とはいえやはり藤原竜也の、わけのわからない魅力こそ。


2025年4月6日日曜日

『御上先生』-やっぱり

 毎週胸躍らせた『最高の教師』再びの期待と、一方で、おそるべき駄作だった『新聞記者』の脚本でもある詩森ろばの作ではあるもののテレビはまた違ったスタッフ相互の作用もあるかもしれず、と見始めた。

 しばらくは面白かった。画面の感触は軽くはなく、鷺巣詩郎の音楽が盛り上げてもいる。1話で完結するエピソードも悪くないし、謎かけの引きも効いている。『最高の教師』と共通したキャストが数人いるのも愛着のプラス作用を生じさせる。蒔田彩珠が芸達者なのは当然として、高石あかりがキャスティングされているわりに目立たないなと思っていたら、最終回での演技には脱帽した。視線の動かし方や表情の変化であれほどの感情を見る者に伝える演技力おそるべし。

 が、ドラマ全体としては真ん中あたりで松坂桃李が熱血教師になってきて「僕の生徒だ」と言うあたりからちょっと興ざめしてきた。「僕の」って何だ。生徒に対して「全員」と言ったり、無条件に「信じる」などと言われるとがっかりする。そんなわけがあるか。生徒を「全員」などというのは一人一人を見ていないことの裏返しでしかないではないか。無条件に「信じる」などというどのような正当性があるでもない世迷い言を口にすることの嘘くささ。学校を舞台にしたドラマがこれをやることが致命的に質を落とすことになると、なぜ誰かが止めないのか。

 そして結局はあの『新聞記者』の脚本家かあ、とがっかりして終わった。

 例えば冒頭に描かれる殺人事件が、まったく本筋から浮いていたのは明らかに構成上の瑕疵だった。もちろん事情は絡んでいる。それは何事か「教育」の問題でもあるようだった。だが、まったくその動機に共感もできなかった。筆者がというだけでなく、おそらくできる人がいるようには描かれていなかったと思われる。だから完全に「浮いて」いた。「教育のゆがみ」が殺人に結びつくという想定が、単に空想の産物にしかなっていなかった。

 さらにエンタメとして致命的なことは、敵があまりに矮小だという真相だ。これは『新聞記者』再びの感が強い。あそこで描かれている陰謀・巨悪は、「なんとなく悪そうな話」でしかなかった。そして本作の「不正」入学という真相は、矮小であるだけでなく、教育の本質の議論にほとんど関わりがない。学校に多額の寄付をしてくれる家庭の子女を優遇して入学させるのは、アメリカの大学では公然だし、私立ならば、それも合理性のある判断だ。公表していないところに「不正」らしい匂いがあるが、それを悪とする根拠は薄弱だ。金を出せば入学できるからといって、学力の釣り合わない生徒を受け入れれば、進学実績で売っている学校側にとってデメリットなのだから、そんなことがバランスを崩してまで行われるはずはない。あるいは低学力の生徒が一部にいても、その見返りの補助金で高い水準の教育環境が維持されるのなら、学校全体にとって好ましいという判断はあり得る。

 敵の想定がこのようにとんちんかんである一方、教育をテーマとするドラマとしては、そこで描かれる教育理念が何なのかはわからなかった。良い教育として描かれているのは、生徒による自主的な協働による学習、とでもいったようなイメージらしいが、それこそが、このドラマが敵として描こうとしている文科省の推進しようとしている教育だ。一体どんな理念とどんな理念が戦っているんだ? せいぜいが自己保身と自己利益を求める個人くらいしか、「悪」らしきものは描かれていなかった。組織としての文科省は、『新聞記者』の内調よろしく、のっぺりとしたイメージでしかない。

 そもそも「不正」を描いてしまったら、教育の問題が描けなくなるとなぜ考えなかったのか。教育がテーマなのだとしたら、理念的には立派なのに、その実践としての学校教育が何事か問題だと思えるところにこそ、問題の難しさがある。単なる不正なら刑事事件でも民事でも裁ける。

 何やら理想の教育を目指しているらしい主人公の動機は、そうおいそれとは「不正」を指摘できないどころか、それ自体には反対できない「理念」に基づいて行われている「現実」の教育行政か教育現場を敵として想定しているのではなかったか。

 ああやっぱりあの脚本家。いや、アドバイザーとして工藤勇一の名前があったりもするのだが、それでも結局あれなのか。

 いや、教育問題をまっとうに描くのはどうであれ難しいのだが。


2025年4月4日金曜日

『cocoon』-もやもや

 今日マチ子の原作は読んだ記憶があるが、見始めても一向にストーリーは思い出さない。とにかく戦争の悲惨さとはかなげな絵柄とのギャップに驚いたものだったが。

 どういう企画で今これがアニメ化されるのかも、どういうタイミングで放送されるのかもわからない。どうみても夏の放送が定番だろうに。

 アニメーションのレベルは終始高かった。ジブリと見まごうほどに。というか、なぜこんなにあからさまにジブリなのか、その意図が疑問ではある。

 だがこれがどうみても戦争をテーマとしている以上、そういう観点で見ないわけにはいかない。戦争の悲惨が描かれるためには、それをもたらす力学がどのようなものかを描かなければならないはずだ。でなければかわいそうなのは病気だろうが交通事故だろうがいじめだろうが同じだ。

 そういう意味で、本作が描く戦争は、敵にしろ戦闘にしろ、リアリティがなさすぎる。

 原作もそうだったのかどうかわからず、もやもや。

2025年4月1日火曜日

2025年第1クール(1-3)のアニメ

『全修』

 異世界転生ものも、それなりにあれこれ工夫をこらす。アニメ監督が転生した先が好きなアニメの世界で、知っているはずの展開が、自分が関わることで変わっていく、という設定。バッドエンドの鬱アニメが好きだった主人公は、自分が関わってしまうとその通りの展開を受け入れるわけにもいかず、ハッピーエンドを望んでしまう。

 有名アニメのパロディも、先の展開が気になるところも悪くなかったが、作画レベルがそれほど高くないのは『チェンソーマン』『呪術廻戦』のMAPPAにしてはと残念だが、そもそもこの会社は量産している中で質のそれほど高くないアニメもいっぱいある。


『花は咲く、修羅の如く』

 『響け!ユーフォニアム』の武田綾乃の放送部を扱ったアニメだというので期待したが、面白くはなかった。登場人物も魅力的ではなく、ストーリーに盛り上がりもなく、放送部ならではの、あるある感が面白さを感じさせることもなく。それぞれにそれをないがしろにしているわけではないのだが。物語の神は細部に宿る。神はいなかった。

 主人公が朗読志望者で、初回の『春と修羅』だけはすごかったが、それ以外、劇中で披露される数々の朗読が、残念ながらうまくない。ここはちゃんと指導してほしい。誰か関係者が。



『異修羅』

 シーズン2でまだまだ新キャラがどんどん出てくる。そしてますます何でもありだ。巨人とか竜とか。でもなんだか面白い。先が気になる。まだまだ話は続いている。


2025年3月25日火曜日

『ホットスポット』-得がたい

 バカリズムの連続テレビドラマとして、『ブラッシュアップ・ライフ』が連想されているのはキャストもそうだし、こちらの意識も。

 で、感動的という意味では『ブラッシュ』はやはりすごかったのだと思うが、ドラマとしての語り口としては、本作も相当に完成度の高いまま10話ずっと走りきった。どうしたことか、テレビドラマとしては意識的に、映画的な手触りの画面作りがされていて、画としても編集のテンポとしてもうまい。ドラマとしては基本的にはバカリズムの漫談の味わいではあるのだが、その皮肉なものの見方にニヤリとさせられるところに、登場人物たちの人柄やら関係性やらが物語に居心地の良い空間を作っている。

 とりわけ、10話を通じてほとんど笑わない演出がなされている角田晃広は「大豆田とわ子と三人の元夫」における役柄と、いじましさの点でかなり似てもいるのだが、それ以上に得がたいキャラクターを作っていた。ともすれば地球に生きる異星人としての孤独が描かれそうだが、いじましさがそうした視聴者の同情を封じて、逆に笑わないままにみんなに愛される存在として登場人物たちによる奇妙なコミュニティを成立させている。これが、謳い文句である「地元系」的な、ゆるやかなユートピア感につながっている。


2025年3月17日月曜日

『どうせ死ぬなら、パリで死のう』『明日、輝く』-甘い

 NHKが、なんだか似たような単発ドラマを、同じ45分枠で、一日おいて2本放送するのはなぜなのかわからない。見てみる。こういうことは前にもやっていて、いつも落胆させられる。さて。

 いや、どちらも、相当にダメだった。がっかりした。好感がもてる、というようなこともない。

 前者は伊吹一フジテレビヤングシナリオ大賞佳作だそうだし、後者は「創作テレビドラマ大賞」の1063作から選ばれた大賞作品だという。それでこれか。

 どちらも、テーマに対する掘り下げも、ドラマとしての緊迫感も、甘い。なおかつどちらも演出が、いかにもテレビドラマ、の感情を描くことに腐心して、結局作り物じみている。

 前者なら、「反出生主義」の絶望を描くことに対して、まるで真剣ではない。軽く「生きにくい」人たちを描き、当然のような予定調和で甥っ子と主人公のほのぼの友情に決着する。

 後者も、それぞれに生きにくい事情を抱えた二人が、立ち直って前を向く話ではあるのだが、それがどういう論理で成立するかについて、特段の新鮮さはない。

 どうしてこういうドラマが、わざわざ作られるのか。「ドキュメント72時間」の一編にも及ばないドラマが、それなりに金をかけてまで。


2025年3月15日土曜日

『三島由紀夫vs東大全共闘〜50年目の真実〜』-言葉のスパーリング

 討論の場面はテレビで放送されているのを観たことがあったが、映画としてまとめられているものをあらためて。

 三島や全共闘と学生運動、そして三島の自決まで、背景を説明する必要はもちろんある。

 問題はゲストの内田樹や平野啓一郎、小熊英二や橋爪大三郎のコメントだ。残念ながら、有効に使われているとは感じなかった。内田樹と平野啓一郎についてはいくらか討論のガイドとして有益なコメントもしているが、瀬戸内寂聴や小熊英二あたりはほとんどカットしても良かった。

 やはり討論の中身をどう捉えるかに不全感が残った。どのテーマについても、ほとんど何を議論しているのかわからない。三島への問いについても何を聞いているのかわからないし、それに対する三島の答えもどうかみあっているのかわからない。

 とりわけ芥正彦とのやりとりは、応酬が複数回にわたるだけに、わからなさがどんどん蓄積していく。ここに、現在の芥のコメントを上積みしても、何かが理解される期待はまるでできない。現在の芥の語ることもほとんど韜晦で、それ自体が現代詩のようだ。

 それでも、議論自体を三島が楽しんでいるらしいユーモアに満ちたやりとりが楽しいとは言える。抽象度の高い言葉の応酬をしつつも、赤ん坊を抱いて、そのうちあっさり場を去る芥のやりとりも、それ自体がユーモラスでもある。

 何か言葉でスパーリングしているような。


 でもどうにも、読解の必要も否定できないもどかしさがある。どんな枠組みで語られているのか。あれらの応酬が。


『ダンケルク』-間然するところないが

 未見のクリストファー・ノーラン作品ではあったが、最近『チャーチル』を観て、それにまつわる『映像の世紀 バタフライエフェクト』なども見返し、入りやすくなったところで本作を。

 さすがノーラン。冒頭のフランスの住宅街を主人公たち兵士が歩いて行く後ろ姿と舞い散るビラをスローで捉えるカットから、映画的な質の高さが満ち満ちている。物語はサスペンスに満ちていて、必要な劇的要素は揃っている。

 「ダンケルクの大撤退」については、ある意味での成功という結末は決まっているのだから、そこへ向かって着地させればハッピーエンドは約束されている。カタルシスはある。

 だが、文句なく凄い作品だったというような感動があるわけではなかった。これは映画制作者たちのせいではない。映画は間然するところがない。とにかく金のかかった、エキストラを大量に動員した画面も、船が倒れるスペクタクルをたっぷりと描く撮影も、燃料切れでプロペラが停まってから着陸するまで、ゆっくりと滑空する戦闘機の切なさと安堵感と、戦場から戻って故郷へ向かう列車の中で不意に車窓に映る田園風景も。映画的には文句なく凄い。

 が、それでも観るものとの出会いの魔法が起こるかどうかは偶然に左右されるのだ。



2025年3月11日火曜日

『MONDAYS/このタイムループ、上司に気づかせないと終わらない』-揺れるカメラ

 日本産「ループ」ものといえばヨーロッパ企画の上田誠だが、本作はまだ他に作品を知らない竹林亮と夏生さえりのオリジナル。

 その後繰り返されるエピソードが出そろう一周目から、ループであることが明らかになる二周目まで、アイデアがとにかく盛りだくさん。半信半疑の主人公が徐々に信じていく過程も楽しい。

 ループに記憶を保持しておければ、いろんなことに習熟していく。『オール・ユー・ニード・イズ・キル』だ。

 ループが起こっているとするとどういうことが起こりうるか、どういう楽しみが設定できるかを、とにかく考え尽くして盛り込んでいる。そのアイデアの数はとにかく驚異的で、そのうえ、カットも豊富で編集のテンポもきわめて達者、映画的センスの良さは驚くべき。

 ものすごく楽しいタイプの映画だなと思って観ていたが、3分の2ほど進んで、最初のループ脱出の鍵が間違っていたことがわかってからの展開が、やや不満ではある。展開が、情緒を重視した人情話に傾いていく。

 もちろん、それが成功していれば、面白い以上に感動的になりうる。アイデアの数では双璧だと思える『カメラを止めるな』が成功しているように。

 が、そこはそうでもない。仲間との協力で、絆の大切さに気づきました、的な。

 惜しい。


 ところでどうも画面が常に揺れるのは、あえて手持ちカメラで撮っているらしいのだが、いちいち三脚でFixの構図を作らないことが、あのカットの多さを可能にしているのだろうか。

 興味深い。

 


2025年3月10日月曜日

『人狼ゲーム デスゲームの運営人』-運営の裏側を描く

 「人狼ゲーム」シリーズでは、テレビシリーズの『人狼ゲーム ロストエデン』が、ゲーム会場以外の「外」の物語を並行して描いていて新鮮だったが、本作は舞台裏の運営の行動を描く。面白くなるかどうかは賭けだな、という印象だったが、案の定面白くはない。だが最後に設定の裏が明かされるどんでん返しは悪くなかった。お、最後にそう捻るか、といくらか感心した。

 が、全体にはこちらの努力不足もあって、頭脳ゲームとしての面白さが伝わるとは言い難い。せっかく頭脳戦が二重に展開する設定にしたというのに、それが十分には活かされない。どんでん返しの驚きだけでなく、そうした設定によって論理ゲームとしての複雑さを増したというのに。

 もったいのは、今作でも人狼側を明かしてしまっていることからくる「ネタバレ」感だ。誰のどの言葉が信用できるのかを本当に疑いながら、ちゃんとその解釈の可能性について考えさせる強制力が観客に対して働いていないと、観ている緊張感も、そこからの意外な展開がもたらす感動も生まれない。

 人を殺すためのハードルに関する緊張感が決定的に欠けているという、シリーズの致命的な欠陥を補うには、せめて頭脳戦を本当に緊張感を持って描くしかないのに。


2025年3月6日木曜日

『チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』-演説の功罪

 画面の映画的な質は極めて高い。編集や演出も実に見せる。どんどん物語が進んでいく。

 とはいえ、物語はシンプルで、ドイツに対して徹底抗戦するか停戦交渉をするかの2択に迷って、結局戦うことで、当面の窮地を脱するまでが描かれているだけで、邦題の「ヒトラーから世界を救った」は全く大風呂敷もいいところだ。

 対立する論理は緊密だ。宥和・交渉派のハリファックス卿と交戦派のチャーチル。現実的には交渉する方が良いとも思える。それが何か陰謀論のように描かれているわけではなく、現実的な判断として十分な説得力をもつように描かれている。

 対するチャーチルが徹底抗戦を訴えるのも、徒な玉砕主義ではなく、今後の展開を考えれば、ここで譲歩するのは避けるべきだという判断であり、これは拮抗する。

 ドラマを作る葛藤も、危機を逆転しての攻勢も、物語としては良くできている。面白かった。

 だがどうも腑に落ちない思いも残る。結局チャーチルが国民や議会を説得するのは演説なのだ。その演説は、ほとんどヒトラーがドイツを狂気に導いた演説と変わらないではないかと思えてしまうのだった。

 結果や語られる論理を十分に精査して、両者の演説は違うのだと言うのは難しい。どちらも要するに他人の感情に訴えて煽る。そこに違いは見出せない。目的としても結果としても、そこに虐殺のための虐殺が行われたか否かの違いはある。だが、ドイツ国民も、それを目的として支持したわけではない。ならば国民にとっての両指導者に何の違いがあるか。

 西洋的な演説の功罪。


2025年2月28日金曜日

『マイ・インターン』-ハートウォーミングなコメディという枠組み

 ロバート・デ・ニーロとアン・ハサウェイの共演で、アン・ハサウェイがデ・ニーロのインターンになる話なのだと思って観始めると、予想に反して、アン・ハサウェイの女社長に、デ・ニーロの隠居さんが、インターンとして再就職するというお話なのだった。

 どちらであれ、予想されるハートウォーミングなコメディという枠組みからはみ出ない。その範囲ではとても楽しい映画だった。微妙なすれ違いもありながら、信頼を醸成し、徐々に距離を縮める。笑いどころも、ワクワクする動きのある展開もある。少女が、ピンクの服を着たあの子と指さす方向を見ると、遊具に群がる子供たちがみんなピンクの服を着ている、とか、鍵は植木鉢の下にあるはずだからすぐに見つかると予告して、行ってみると植木鉢が数十個あるとか、同じパターンの笑いを誘って、ちゃんと成功しているのは、一人で見ていたのではなく、娘と一緒に観ていたからかもしれない。

 親子ほどの年の差だが、既婚者であるアン・ハサウェイとデ・ニーロの恋愛が描かれる可能性について、観客は予想する。デ・ニーロの家族は描かれない。そのうち、配偶者が亡くなっていることが語られる。

 片やアン・ハサウェイの夫の浮気が語られる。出張先のホテルで、アン・ハサウェイの部屋にデ・ニーロが招き入れられ、二人でベッドで語らう。

 確かにそういう可能性について映画は観客を誘導する。だが結局、デ・ニーロはインターン先の会社に、似つかわしい相手を見つけ、アン・ハサウェイは夫と和解する。

 ハートウォーミングなコメディという枠組みは守られるのだった。


2025年2月16日日曜日

『ビリーバーズ』-凡作だが

 山本直樹の原作は通読していないが、連載を何度か目にしたことはあり、カルト教団の話だとは知っている。で、見てみるとあまりに予想通りの狂信を描くばかりでそれ以上のものは描かれない。映画としての文法も凡庸でカットもだらだらと冗長。途中で早送りにしないと見てられん、という凡作だったのだが、なぜかアマプラの評価は高い。

 予想通りのカルトの狂信が描かれていたっていいのだ。描き方が細やかで、なるほどこれは怖いと思わされればまた面白く見られもするんだろうに、そんなことはない。狂信への共感が湧いてくるようには描かれていないのだ。ひたすら他人事のように感じてしまう。

 にもかかわらず、エピローグで狂信から醒めた主人公が現在の生活にふとカルトの夢を見る一瞬は何やら印象深く、高評価もこれにひっぱらられているのかもしれない。

 この、時空の隔たりのようなものを物語に持ち込むのは、安易とも言えるが、やったもん勝ちだとも言える。どう受け取ったものか。

2025年2月15日土曜日

『ペイ・フォワード』-そんなにうまく

 前に見たことがあるはずだが、始まっても何の記憶も呼び起こされなかった。主人公の子役が誰だっけ、と思うばかり。いや『シックスセンス』の天才子役な。やりすぎなくらいうまい。

 アイデアはすこぶる良い。物語としても、「世界を変えるアイデア」としても。理想通りにはうまくいかないと思っている主人公の知らないところで、善意のリレーが続いていた、というのは世界に対して前向きな気持ちにさせてくれる展開だ。

 だが、最後で主人公を死なせてしまうのはいただけない。人々が追悼のために集まるとかいう「感動的な」エピソードも、感動的であることと裏腹に、やり過ぎな気もしてしまった。

 そこに、こんな美談がいつまでも続くわけがないよな、というシニカルな気分がまじるところが、単なるハッピーエンドで終わらない、微かな後味の悪さを残す。

 ケヴィン・スペイシー演じる教師は『型破りな教室』の主人公にも似たユニークな教育実践をやりながらも、その生真面目な不器用さは『初恋の悪魔』の鹿浜を思わせて好感が持てた。

『アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場』-それぞれの論理

 ヘレン・ミレン主演ということで関心に入ってきたのだが、観てみると、彼女は当然のことながら登場人物それぞれの持つ存在感が緊密に描かれた脚本と演出(と演技)で、実に見事な物語を作り上げている。

 テロリストへの攻撃を遠隔操作によって行う作戦を英国と米国とアフリカ某国が協力して立てる。政治家、軍上層部、ドローンやミサイルを操作するオペレーター、現場近くに待機する兵士、そしてテロリストのアジトの周辺の住民。関係者が丁寧に描かれる。それぞれの立場が体現する論理がリアルにぶつかる。一部で政治家が不誠実な態度をとるが、それもまたこの現場にのみ生きているわけではない(別の現場を掛け持ちしている)立場ではやむをえないというリアリティをもっている。

 ドラマを生む対立は、基本的には「トロッコ問題」だ。テロリストをアジトで発見し、攻撃して殺してしまえばその後のテロで死ぬ人が何十人も救われる(かもしれない)。だが、今そのアジトの周辺にいる少数の人間が死ぬ(かもしれない)。その「犠牲」を、いたいけな少女に代表させるところで、現場の判断が揺れるのもやむをえないと思わせる。

 作戦の遂行・成功、政治的な宣伝効果、人道的配慮、各国のパワー・バランス…、様々な要素がそれぞれ説得力をもってぶつかるドラマは、横山秀夫作品にも通じる。

 邦題の「世界一安全な戦場」というのは、遠隔操作による攻撃を指すが、それを非難する政治家に対し、指揮官が、自分は何度も現場を経験したと返す。論理は拮抗する。

 遠隔攻撃を扱った物語といえば『マージナル・オペレーション』だが(マンガでのみ読んでいる)、あれは主人公が、その「安全」な立場でいることから、現場の兵士に本気で関わろうとした物語だった。

2025年2月10日月曜日

『赤毛のアン』-尺だけ

 1985年のカナダ・アメリカのテレビドラマ。劇場公開もされているとのこと。

 そこら中であの「赤毛のアン」の感動が蘇るが、惜しいかな、尺が短い。高畑勲のアニメにしろ、Netflix版にしろ、たっぷりと尺をとって、原作のエピソードを丹念に描いている。

 そこだけ。役者陣も演出もいい。尺だけが足りない。

2025年1月14日火曜日

『型破りな教室』-「型破り」という危険

 メキシコの小学校を舞台にした実話に基づく物語。

 貧困や麻薬の蔓延など、様々な問題を抱える生徒たち。主人公の教師のスタイルが、邦題にあるような、「型破りな」ものであるときには、それは単に再現性のないスタンドプレーになりかねない。もちろん、特段に描くべき特徴がなければ物語たりえない。なるほど生徒を惹きつけ、生徒に変化をもたらす、良い教師が描かれる。だがこれは現状に対する何を訴えているのか。

 実際に教育成果が上がったらしいことは、実話であることから証明されている。それは再現性のあるものなのか。

 設定として極めて類似した『12か月の未来図』では、主人公の教師はひたすら誠実であることによって、ある手応えのある教育活動をしていた。本作もそうだ。硬直化した思考習慣や保身に囚われないことが重要だとしても、いたずらに「型破り」であることを強調するのは危険だ。『コーダ あいのうた』でも教師役だったエウヘニオ・デルベスは、もちろんうまいが、似たようなキャラクターだとも言える。本作でも、主人公がやろうとしていたのは、ひたすら誠実で、そこに工夫を凝らそうとする柔軟性があることによってだ。そういう教師は世に溢れている。それ以上の特別さは、例えば教育委員会的な教条主義に逆らうことを躊躇わないでいられるかだ。そうしたとき、そこに対立する価値や論理が十分に説得力をもっていてこそ、ドラマは成立する。

 いくぶんそこは弱いと感じたが、例えばメキシコでも一斉学力テストなどがあって、その成績に現場は一喜一憂しているというようなリアリティがあったり、それを主催する教育委員会的な組織の職員が、徒に硬直化した役人的キャラクターではなく、十分に教育的な振る舞いをしているのは好感が持てた。

 その上で、どうにもならない悲劇と、そこから圧倒的な爽快感をもたらす大逆転劇は、それが実話であるという説得力をもって感動的だった。


2025年1月7日火曜日

『十角館の殺人』―見事な実写化

 ほとんど教養のようなつもりで観た。原作も2度読んでいるのだが、ちっとも覚えていない。有名な大どんでん返しの驚きは覚えているが、具体的な登場人物を覚えていないから、誰がそれなのかわからない。

 で、4話構成のテレビシリーズの3回目の終わりにそれが訪れた瞬間はさすがにびっくりした。見事だった。なるほど、これを実写でやるのは難しい。といってアニメでは興がそがれる。画ではいくらでも同じ人物を違ったものとして描いても、単に下手なだけだということで驚きがないが、生きた人間が二役をやってそれを観客に気づかせないのは難しい。『検察側の証人』でマレーネ・ディートリッヒがそれをやったのは見事だった。あれほどの大スターではなく、そもそも初めて見る俳優だったのだが、それでも。

 とはいえ、それだけ、とも言える。他に目立ったパズル的要素があって面白いというでもなく、人間ドラマとして感じ入るということでもなく。

 やはり、計画的な連続殺人を実行する動機があれだけというのは無理がある。


2025年1月4日土曜日

『ターミネーター ニューフェイト』―自然なAI

 AIがテーマの物語が偶然続いた。

 同テーマの物語としては比較的古い部類になる。といって、80年代当時でも、AI(という言葉は一般的ではなかった。「人工知能」とさえ言っていたかどうか)による人類に対する反乱という設定は新鮮ではなかった。どこかで聞いていた設定だと思った。それは、ロボットがSFに登場して以来、ロボットに対する虐待や人権は意識されていたからだろう。それが反乱への恐れに変わるのは必然だ。

 だが『ターミネーター』シリーズの面白さはもはやそうしたテーマの問題ではない。シンプルな逃走と闘争のスリルとサスペンスの出来だ。そうした意味では『2』が最高で『1』と『3』がそれに次いで、どれも水準以上だった。本作もそれに迫る出来だった。展開のスピード感もスリルも。

 それに加えて、本作ではオリジナルのリンダ・ハミルトンとアーノルド・シュワルツネッカーがそのまま同じ役で出演しているのが、『1』から観ている者にとっては感慨深い。二人とも年を取った。『1』『2』のシュワルツネッカーの圧倒的な強さが衰えたことにも味わいがある。そこに、AIが人間みたいになっていることへのウンザリ感が消化されている。シュワルツネッカー演ずる元ターミネーターがどう感じていようが、人間の方がそれに対して人間のような愛着を感じてしまうことはありうるのだという事態が、説得力をもっていた。『アイの歌声を』との違いは、AIを過剰に奇矯な振る舞いと共に描かないことかもしれない。