2017年12月31日日曜日

『スティーブ・ジョブズ』-高度な技の応酬としての口論

 以前この題名の映画を観た時には、こちらの映画と別であるとは知らずにいて、観終わってから調べているうちに話題の映画が別なのだとわかったのだった。
 さてこちらがダニー・ボイル監督作品だけあって、当然話題性もある。期待もある。そして実際に観終わっての満足感も充分なのだった。

 だが前のジョシュア・マイケル・スターン版を観ていたことが幸いしたのも確かだ。ダニー・ボイル版は、スティーブ・ジョブズやアップルに不案内な者が見るにはいささか辛い。飛び交う会話に登場する用語や人名がもつ文脈を理解していることは、その会話を理解するために必須だし、エピソード間の歴史的事実を知らずに登場人物たちの感情の軋轢を捉えることも難しい。
 もう一つ、幸いしたといえばレンタルのDVDを、吹き替えで観ていたのだが、同時に字幕も表示していたのだが、これがなければニュアンスのわからない科白がどれほどあったろうかと思うと、その偶然を喜びたい。
 吹き替えと字幕の翻訳者が別なのだ、おそらく。
 二種類に翻訳されることでそのニュアンスがようやくわかる、という科白が多いというのは、それだけ含みのある表現をしているということなのだろう。
 にもかかわらず、この映画の科白の量たるや、『ソーシャル・ネットワーク』並みだなあと思っていると、脚本のアーロン・ソーキンは『ソーシャル・ネットワーク』も書いているのか! まったく恐るべきスピードで科白がやり取りされるのだ。
 この映画は基本的に口論で成り立っているといっていい。スティーブ・ジョブズによる、三つの有名な製品発表会の開始前を描き、さて発表会が始まるというところで肝心の発表会そのものは描かれずに顛末だけが紹介されて、また次の発表会開始前に時間が跳ぶ、という展開が2回繰り返される。その発表会開始前の殺気立って慌ただしい緊迫した時間の中で、これでもかというほど密度の高い口論が繰り返されるのだ。
 一つ目のマッキントッシュ発表会前のパートを観終わったところで再生を一時停止して、久しぶりに一緒に映画を観た息子と、これはすごいと言い合った。基本的には脚本がよくできているのが前提ではあるが、役者の演技も、演出も編集も、そのテンションを支えきらなければこの緊迫感は出ない。
 そして、その口論のすごさとは、その論理の拮抗と、プライドやらコンプレックスやらのからみあった感情の拮抗が、強い説得力をもって観客に伝わるということだ。これが単なる感情のぶつかり合いだとか水掛け論だとか、ジョブズがエキセントリックで嫌な奴だとしか感じられない人は(という評をネットで見るのだが)、「議論」というものができない人なのだろう。惜しいことだ。
 「議論」によって、物事や価値観の多面性、戦略の有効性についての可能性の分岐、人間の感情の重層性が見えてくる過程は、ぞくぞくするほど楽しかった。高度な技の応酬が見応えのあるスポーツ観戦のように。
 そして、時を経た三回の議論において、スティーブ・ジョブズの「成長」が描かれているのも、素朴に快い。堂々たるハッピーエンドに、終わって感じる満足感も高い。

2017年12月30日土曜日

『サプライズ』-スモールスケールな『ダイ・ハード』

 家に押し入ってきた暴漢と戦う家族、という、このブログを始めてからでさえ何本か観ているシチュエーションのスリラー。だが観終わって思い出したのは『ダイ・ハード』だった。テロリスト集団に対して、偶然人質に紛れ込んでいたタフガイが意外な活躍をしてテロ集団を殲滅するという筋立ては、考えてみればこの映画に重なる。ただ、スケールはもちろん小さい。だがそこは期待していない。低予算で作られた「思いがけず面白い」映画を期待しているのだ。ついでに言えばタフ「ガイ」ではないし、「家族」でもない主人公の強さが、子供の頃に、終末妄想にとりつかれた父にサバイバルの訓練を受けたという過去からきているのだという、「サプライズ」な設定は微笑ましかった。
 「正体不明の敵」だの「衝撃の結末」だのという宣伝文句に乗せられて観たが、仮面の男たちが、時々仮面を脱ぎ、しかも知らない顔だから、「誰?」というサスペンスは早々になくなるのだった。じゃあ動機は何なのかってえと結局わかりやすい遺産狙いなのだが、そこにいたる人間関係の葛藤が描かれているわけでもないので(まあ描いてしまうと首謀者が早くにわかってしまうのでそうするわけにもいかず)、なんだか唐突で説得力に欠ける。
 となると後は追いかけっこのスリルだ。家の中を舞台にした殺し合いとなると『スクリーム』シリーズだが、そのくらいにはよくできていた(ただし『スクリーム』シリーズは家の外にも展開していくから、映画としてのふくらみはずっとある)。
 が、どうにも腑に落ちない行動が多い脚本は杜撰でがっかりしてしまう。屋内に殺人犯がいることは確実なのに、まずそれに対する備えをしないでただ嘆いていたり、無防備に過ぎたりするのはどう不合理で、それが不合理であると意識されている様子も描かれていないのは、単に物語の質を落としてしまう。
 主人公の反撃のはまり方が爽快なのを楽しむ映画としては楽しめた。

2017年12月29日金曜日

『スクープ 悪意の不在』-社会派ドラマとしてよりもコンゲームとして

 この間は『チェンジング・レーン』で、役者として実に味わい深い演技を見たばかりのシドニー・ポラックの監督作品。
 どうもネットでは「マスコミによる報道被害をテーマにした」という紹介のされ方をしているが、いたずらにマスコミを悪者にすることなく、それなりに報道の倫理感を保障しているいるところがシドニー・ポラック作品だ。それをしないと安っぽくなるばかりだろうから。
 それよりも後半、マスコミと検察、警察を相手取って、被疑者とされた主人公が仕掛ける戦いが、コン・ゲーム・ストーリーとしておそろしく面白かった。そしてその決着をつけるべく開かれる予備審問(なのか、もっとうちうちの取引なのか)が白眉だった。ここは法廷物の面白さでもある。
 残念ながら字幕だけではニュアンスのわからないセリフも多く、すべての論理の組み合い方が把握できていないのだが、とにかくこういうのは、どこかの勢力を愚かにしたり悪者にしたりしてはだめなのだ。それぞれがそれぞれの職業の倫理と方法論を戦わせているからこその緊張感だ。
 残念なのは、吹き替えで見られなかったことだな。そのすごさを推測するばかりで、本当には充分に論理の綱引きが堪能できなかった。

2017年12月28日木曜日

「夢十夜」の授業 3 ~第一夜も解釈する

承前

 さて、上記のような授業過程で明らかにしたいのは、小説を読むという体験がいかなるものであるかである。上記の作業を通してそのひとつの側面は浮かび上がってきたはずである。
 だが「第一夜」を読むことからは、もう一つ興味深い体験になりうる可能性が引き出せると筆者は考えている。それはやはりある種の「解釈」である。だがそれは「第六夜」で考察したような、主題を抽象したり、象徴を読み取ったりする「解釈」ではない。「第一夜」には、ある種の夢の構造が表出していると筆者は考えている。この点について生徒にも考察させたい。
 まず生徒に次のような問いを投げかけてみる。

    ①女との約束を守って待っていた「自分」は、なぜ「百年がまだ来ない」と考えたのか。
    ②物語の終わりで、なぜ「百年はもう来ていた」ことに気づいたのか。

 ①については、自分は途中で数えることを放棄しているから、カウントが「百年」に達していないということではないことを確認する。そのうえで、この二つの問いの間を整合的な論理で捉えて、端的に答えよ、と指示する。
 物語の因果関係が追える読者ならば、「百年経ったらきっと会いに来ると言った女が現れないから、百年はまだ来ていないと考えたのだ」と説明できる。つまり①の答えは「女がまだ会いに来ないから」である。これを裏返せば、「百年経ったことに気づいた」というのはつまり、百合を女の再来と認めたということに他ならない。したがって②の問いの答えは「女が百合になって会いに来たから」ということになる。①と②は裏表の関係として整合しあう。
 このように理解するときこの物語は、女が百合に姿を変えて会いに来ることで、死に際の約束が成就するハッピーエンドの物語だと考えられる。物語冒頭の欠落(喪失)が試練の末に埋め合わされることで結末するというのは、物語の基本的なドラマツルギーである。もちろん女がそのままの「女」でないことに、ハッピーエンドとしての十全な満足はない。だがその不全感も、喪失感として小説の味わいを増しているのであって、前半の約束が結末への推進力としてはたらく要請は、確かに満たされて終わる。
 さて、これを確認した上で、本文には本当に「女が百合になって会いに来た」と書いてあるのか、と問い直す。
 本文を見直してみると、そのようには書かれていない。ではなぜ「自分」は百合が女の生まれ変わりであることに気づいたのだろうか。もちろんそうした疑問は、擬人化された百合の描写によって読者にはあっさりと看過されてしまう。百合が女の生まれ変わりであることは自明であるように感じられる。明らかに作者はそのような印象を読者に与えようとしている。
 だが、やはり本文には明確にそのような思考の因果関係が書かれているわけではないのである。
 そこで②について、本文に基づいて、別の答え方ができないか、とあらためて問う。
 自分は首を前へ出して、冷たい露の滴る、白い花弁に接吻した。自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。
 「百年はもう来ていたんだな。」とこのとき初めて気がついた。
我々はこの一節に、思わず接吻してしまったその百合が女の生まれ変わりであることに気づく→女との約束が成就したことに気づく=百年が来ていたことに気づく、という論理展開をみとめる。もちろん「骨にこたえるほど匂」うのは女の官能性を表しているだろうし、「自分」が思わず接吻してしまうのも、それが女の生まれ変わりであればこそだ。
 だが、あらためて読んでみると、それは読者にそう了解されるのであって、「自分」がそのことに気づいたとは直截的には書いてはいない。とはいえ、そう考えることは、明確に書いてはいなくとも自然なことのように思われる。だからむしろ「本当にそう書いてあるのか」などと問われても、なぜわざわざそんな明白な論理に疑問を投げかけるのか、と生徒は思うかもしれない。
 そこでさらに次のように問う。

    ③「このとき初めて気がついた。」の「このとき」とはいつか。

 「自分」に約束の成就の気づきをもたらす「このとき」とは何を指しているか。問題は「とき」と指定されるある時点ではない。「この」が指している範囲である。右の論理に従えば、「このとき」とは、百合に接吻してから顔を離すまでの一連の動作が終わった「とき」のことだと理解できる。そこでこの行為と「気がついた」に因果関係があると、読者はみなす。この行為が気づきをもたらしたのである。
 だがそれが本当の論理的脈絡なのだろうか。
 素直に本文を見直してみると、「気がつ」く直前に「自分」は「暁の星がたった一つ瞬いてい」るのを見ている。「この」が指しているのはこの部分だと考えることはできないだろうか。
 すなわち、この一節から導かれる論理は、「自分」が百年経っていたことに気づいたのは、「暁の星」が瞬いているのを見たことに拠る、という因果関係なのではないか。
 そうした発想が誰かから提出されたら、これを先ほどのような二択の問いとしてあらためて生徒に投げかけてもよい。②「物語の終わりで、なぜ「百年はもう来ていた」ことに気づいたのか。」の答えとして次のどちらを支持するか。

a 女が百合になって会いに来たから
b 暁の星を見たから

 だが徒に生徒に混乱を与えてもしかたない。むしろaとbがどのような関係になっているかを考えるよう指示する。
 「暁の星」とは何を意味するか。もちろん、意味を見出せない要素は、この小説の中にいくらでもある。「真珠貝」然り、「星の破片」然り。あるいはそれらは、小説の構造を支える明確な「意味」をもった構成要素なのかもしれない。だが今のところ筆者の目には、それらはその「意味」について考えても仕方のないような単なる「ロマンチックな」ガジェットに過ぎないように映っている。「暁の星」も同様のギミックに過ぎないのだろうか。
 この部分について考察させるために「暁」の意味を生徒に確認しておく。「暁」とは何か、と聞いて「夜明けのこと」というような回答を引き出すだけでいい。そのうえでこの描写の意味することをあらためて問う。
 筆者の提示したい「解釈」とは次のようなものだ。
 「暁の星がたった一つ瞬いていた」という描写が意味するものは「夜明け」である。それを「暁の」星だと認識するということは、この瞬間に夜明けが近づいていることに気づいたということである。これはつまり、夢から覚める自覚が生じた、意識が覚醒しかけている、ということを意味しているのである。
 「自分」に百年の経過の気づきをもたらしたのは、百合の花の正体ではなく、この覚醒の自覚である。
 考えてみると、それまでいくつも通り過ぎていく「赤い日」は、それが昼間であることを意味しているような印象をまったく感じさせない。ただ書き割りのような空を背景として通り過ぎていくだけだ。昼に対応する夜も描かれていない。「自分」が眠ったり起きたりする記述もない。したがって、日が昇ったり沈んだりするからには、その度ごとに「暁」はあったはずなのだろうが、結局のところ時間がいくら経過していても、そこに本当の夜明けは来ていない。
 「自分」は本当は、女を埋めた時のまま、夜の底にひとり座り続けているのではないか。
 そして「自分」が「暁の星」を見た瞬間にようやく夜明けがおとずれる。これも、精確に言えば、目覚めの気配によって、それを「暁の星」だとする「解釈」がなされたと言うべきである。そして夜明けのおとずれが意味しているのは、夢の終わりである。その時、そこまでの女をめぐるあれこれ、そして「百年」が一夜の夢として完結するのである。
 とすると、先ほどの論理は転倒している。百合が女の生まれ変わりだと気づいたから「百年はもう来ていたんだな」と気づいたのではなく、むしろ百年が来ていたことに気づくことによって、百合が女の生まれ変わりであったという解釈が生まれた、というのが真実なのではないか。そしてそれが、物語を振り返ってみた時には忘却されているだけなのではないか。つまり「百合が女の生まれ変わりであることに気づいた」という認識は、いわば遡って捏造されたものなのではないか。
 この「気づき」に見られる奇妙な納得のありようは、紛れもない「夢」の感触として我々にも覚えがある。目が覚めて夢を思い出すとき、現実が夢に影響していたことを自覚できることがある。我々の語る夢は、覚醒時から遡って解釈されるのである。それは小説の論理が、読者によって解釈され、見出されたものであるのに似ている。先の「捏造」は「自分」がしたのではなく、実は読者がテキストを解釈する過程でしたのだと言える。

 「百年」とは「永遠」のことだ、などというしばしば目にする「解釈」に対してここで筆者が提示するのは、「百年」とは夜明け、つまり夢の終わりまでの期間を意味しているのだ、という「解釈」である。夢の終わりによって約束が成就するならば、確かに女との再会は同時に直ちに訣別をも意味することになる。とすればやはりこれも女との恋愛の不可能性を意味しているという言い方もできないわけではないのだが、そうした言葉遊びは、それほど魅力的なものだとは筆者には思えない。
 生徒にはもちろんこうした「解釈」を、この小説の一つの読みとして体験させたいだけで、それを「正解」として「教える」つもりはない。生徒自身の読みこそが問われるべきなのだ。右のような読みは、小説の読みの可能性の一つとして提示するだけだ。
 だが、国語科の授業として、このような読みの体験をさせることには意味があるだろうという感触はある。小説の読解の自由度、可能性を感じさせることにも意味がある。だがそれだけでなく、小説の読解がどのようにして成立するかをあらためてテキストに則って検討すること自体がここでの授業の本義である。それを成立させる教材として「夢十夜」は豊かな可能性をもった小説だといえる。

 この授業の最新版はこちら→  

2017年12月27日水曜日

「夢十夜」の授業 2 ~第一夜は解釈しない

承前

 「第六夜」について上記のように「解釈」することは、これが「夢」そのものではなく「小説」という物語として語られる以上、可能なアプローチとして認めてもいいように思われる。
 同様に「第一夜」にもさまざまな謎が、いかにも「解釈」を求めているような顔で並んでいる。だが、「第一夜」が、「第六夜」のように、全体としては、どのような意味であれ腑に落ちる「解釈」の可能な物語だと思ってはいない。なぜ女が唐突に「死にます」などと言うのか、「百年経ったら会いに来る」とはどのような意味か、「星の破片」「真珠貝」にはどのような意味があるのか、などといった、いかにも「謎めいた」設定に明確な意味を見いだすことに手応えのある見通しはない。むしろ何も言ってもこじつけになりそうだという予想はある。「百年とは永遠を意味しているから、『百年経ったら会いに来る』とは再び会うことの不可能性を意味しているのだ」とか、「星の破片やはるかの上から落ちてくる露など、天との交感が暗示されている」などというしばしば目にする「解釈」は、何かしら腑に落ちるような感覚を与えてくれはしない。だから授業では結局のところこの物語を、「解釈」を目的として「使う」つもりではない。
 筆者にとって「第一夜」を教材として授業で扱う目的は、小説における描写の意義について考えさせることである。

 まず生徒に「第一夜」を、一〇〇字程度に要約させる。
 冒頭に、読者はすべての小説を「解釈」しているわけではないと述べた。また「第一夜」は、「第六夜」のようには解釈しないとも述べた。だが要約とは既にその過程にテキストの解釈を前提とする行為だ。テキストに書かれた何が取り除いてはいけない骨なのかという判断自体が既にある種の「解釈」に拠るからである。
 だがそれは「第六夜」で行ったような、抽象化を伴う解釈ではない。物語の各要素の論理的な因果関係を判断する「解釈」である。骨として選ばれた要素が、物語中の具体/抽象レベルのままでいいのである。
 授業者による要約を紹介して授業をその先に進める。

      百年経ったらきっとまた逢いに来ますと言い残して死んでしまった女を墓の前で長い間待っていたが、そのうち女の約束を疑うようになった。すると墓の下から茎が伸びて目の前に百合の花が開いた。百年が来ていたことに気づいた。(105字)

 右の要約において抽出した骨組みと、完成された作品の間にあるものが何なのかを考えさせる。この時点で、作品とは骨以外に何でできているかを問う。様々な答えを許容しつつ、生徒に挙げさせたい語句は「描写」と「形容」である。後の具体例を使って誘導してもいい。
 それから、生徒に次のような指示をする。

    取り除いて前後をつめてしまってもストーリーの把握の上で支障のない「形容」および「映像的描写」に傍線を引け。

 冒頭の一段落で具体的に見てみる。
   腕組みをして枕元に坐っていると、仰向きに寝た女が、静かな声でもう死にますと言う。女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔をその中に横たえている。真っ白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇の色はむろん赤い。とうてい死にそうには見えない。しかし女は静かな声で、もう死にますとはっきり言った。自分も確かにこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上から覗き込むようにしてきいてみた。死にますとも、と言いながら、女はぱっちりと眼を開けた。大きな潤いのある眼で、長い睫に包まれた中は、ただ一面に真っ黒であった。その真っ黒な眸の奥に、自分の姿が鮮やかに浮かんでいる。
斜体部分は、取り除いて前後をつめてしまっても、ストーリーの把握の上で支障がないばかりか、日本語としても不自然ではない「形容」である。傍線部もまた、除いてもストーリーの把握には支障のない「描写」である。上のように「描写」の中にもさらに「形容」が施されている。
 試みに、取り除いて、つめてみよう。
  枕元に坐っていると、仰向きに寝た女が、もう死にますと言う。死にそうには見えない。しかし女は、もう死にますと言った。自分もこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、ときいてみた。死にますとも、と言いながら、女は眼を開けた。眸の奥に、自分の姿が浮かんでいる。
右に示したとおり、「取り除いてもかまわない」かどうかというのは、実は判断の揺れる問題で、この部分がそれに該当する「正解」であるかどうかを厳密に判定はできない。また「形容」(波線部)と「映像的描写」(傍線部)も厳密な区別ではない。だが、考えることで、この小説の文体の特徴を実感することができる。時間をおいて生徒同士で確認させるか発表させるなどして、その適否を検討していく。
 この作業を通して浮かび上がるこの小説の文体の特徴とは何か。それはいわば、過剰な「叙景」である。「第一夜」には異様とも言える密度で、形容詞や形容動詞や副詞によって、映像が修飾されている。またそもそも、読者に映像を喚起させる描写が、これもまた、しつこいほどに念入りに配置されているのである。
 実際にそのようにして「つめ」てみた文章を朗読する。自分が傍線を引いた部分との違いを各自に意識させる。そこも「つめ」られるのか、などと思いつつ、生徒はこの小説における描写の密度を実感するはずだ。文字数にして半分ほどに原文をつめてみても、ストーリーを追う上ではほとんど支障がないどころか、物語的には原文とほとんどかわらないような印象があるのである。逆に言えば「第一夜」には、ストーリーを語る上で必須とは言えない描写や形容が、過剰とも言える密度で書き込まれているのである。

 さて結局のところ、要約された作品の骨組みと、元の作品との間には何があるか。
 漠然と、完成作品の方が「詳しい」「細かい」とは生徒にも言える。だが具体的に、肉として、皮膚として、衣服として塗り重ねられたものは何なのか。
 まずはプロットの展開がある。だがそれでも完成作品の半分ほどの量なのである。そのうえにあるのが、先ほど傍線を引いた「形容」「描写」なのである。これらは小説にとってどのような機能を果たしているか。視覚的想像を喚起する、感情移入させる、臨場感が増す…。どのような表現であれ、生徒に考えさせたい。

 こうした授業過程を経た後で、たとえば茂木健一郎の「見る」という文章を読む。茂木は「見る」という行為について次のように述べる。
   「見る」という体験は、その時々の意識の流れの中に消えてしまう「視覚的アウェアネス」と、概念化され、記憶に残るその時々に見ているものの「要約」という二つの要素からなる複合体なのである。(略)
   視野の中に見える「モナ・リザ」の部分部分が集積してある印象を与えることで人間の脳は深い感銘を受ける。印象を結ぶ脳の編集、要約作業の過程で、ある抽象的な「要約」が生まれるからこそ、「モナ・リザ」は特別な意味を持つ。
  しかし、その「要約」だけでは、「モナ・リザ」の前に立つという体験を再現することはできない。その絵の前に立つとき、さまざまな要約が脳の中では現れ、深化し、変貌し、記憶される。その一方で、絵を構成する色や形などの細部は、決してそのすべてをとどめておくことができない「意識の流れ」の中で、時々刻々失われていく体験として、私たちの魂を通り過ぎる。
    何かをつかみつつも、指の間から砂がこぼれ落ちるように圧倒的に失われつつあるもの。その豊穣な喪失こそが、絵を見るという体験の本質である。 
たとえばこの一節に述べられていることを上記の授業過程と比較するよう指示する。何が言えるか(実際に生徒に読ませるのはもっと長い文章である)。
 ここにある「モナ・リザ」が「夢十夜」に、つまり「絵を見る」が「小説を読む」に対応しているのである。
 「要約」なくして「絵を見る」ことはできないが、「絵を見る」という体験は同時に「絵を構成する色や形などの細部」が「時々刻々失われていく体験として、私たちの魂を通り過ぎる」ことでもある。「夢十夜」を読んで、それが何を語っている小説なのかを認識するために、我々は「解釈」(「第六夜」で試みたように)したり「要約」(「第一夜」で試みたように)したりする。それが小説を読むということでもある。
 だが一方で、その時「指の間から砂がこぼれ落ちるように圧倒的に失われ」てしまうものこそが小説の「豊穣」でもあるのである。漱石の紡ぐ物語は、その「豊穣」によってこそ小説たりえている。

 続く 「夢十夜」の授業3 ~第一夜も解釈する

2017年12月26日火曜日

「夢十夜」の授業 1 ~第六夜は解釈する

 ここ数年で1学年を担当することが3回あって、その1回目の時に、夏目漱石の「夢十夜」の「第一夜」について、今までと全く違う解釈を思いついた。その年の授業については以前まとめたことがある。(さらに最近書き直したもの『夢十夜』の最近の授業
 この、いわゆる「コペルニクス的転回」的な認識の変容は我ながらいささか衝撃的で、「夢十夜」の授業についてのアプローチを大きく変えることになった。それ以前から想定していた「夢十夜」の教材としての価値についても再考し、あらためてひとまとまりの授業の構想を立てて、その後2回の1学年担当で実施してみた。
 3回目の実施となる今年度の様子を、ここに記録しておく。

 「夢十夜」の教科書採録に際しては、以前は「第三夜」が収録されていることもあったが、近年は「第一夜」と「第六夜」のみの収録が一般的である。この場合、最初の通読は「第一夜」「第六夜」の順でいいが、読解は「第六夜」から行う。これは、「第六夜」の方が、生徒にとって馴染んだ「国語科授業」的扱いができるからだ。あえて「解釈」をするのである。

 授業で小説を扱うということは、その小説の「解釈」を「教える」ことではない。そもそも小説を読むときに、いちいち「解釈」をしているという実感は、我々にはない。大衆小説の多くは「解釈」を必要とするような感触がなく、読めばただちに「わかる」と感ずるし、あるいは村上春樹のように、わからなくても、楽しかったり怖かったりと、何らかの感銘を与えてくれる小説もある。だから授業でも、小説によってはただ読むだけでいい。それ以上に、読めばわかる小説内情報をいたずらに整理して確認する必要などない(といってもちろん、作者の伝記的事項や作品制作の背景などの小説外情報を伝達することも、授業で小説を扱うことの本義ではない。本論における「夢十夜」の読解にも、漱石個人の伝記的事実は無関係である)。
 だが、読んだだけでは何かわりきれない感触が残る小説には、何らかの「解釈」が欲求される。それは読者としての人情というだけでなく、国語科学習の好機だ。そのとき、生徒自身が「解釈」しようとするのなら、それは意味あることだ。「解釈」は小説読解にとって必須の行為ではなく、国語科学習にとっての好機なのである。それは決して教師によって提示されるべきものではなく、生徒自身が取り組むべき課題である。
 「夢十夜」は「夢」という体裁をとった小説だから、物語の筋立てにせよ、情景の描写にせよ、いちいち明瞭な、見慣れた、自明の「意味」をもたない記述に満ちている。「夢」だという建前を信ずるならば、それらを既存の「意味」に落とし込むような「解釈」はいたずらに見当外れな穿ちすぎということになりかねない。
 だが、これが少なくとも「小説」という器に注がれて我々の前にある以上は、それに対して作者と読者である我々の間にコミュニケーションの成立する可能性はあるはずだ。夢そのものでさえ、語られる以上は精神分析という「解釈」の対象となりうるのである。まして授業という場では、その「意味」をめぐる考察は国語学習の好機となるべく期待をしても良いかもしれない。そして「第六夜」はそうした考察の対象となりそうな感触がある。なおかつ、そうした「解釈」をすることは、後に続く「第一夜」の読解の特殊さを意識させるための伏線にもなる。

 最初にまず「第六夜」を「解釈」するのだ、と宣言する。

    ①「第六夜」の主題は何か。「第六夜」はつまり何を言っているのか。

 本当は、こんなことはあらためて言う必要もない。だが、常にこの問いの答えにつながるかどうかを視野に入れつつ以下の考察を行うべきであることを確認しておく必要性は、実際にはある。以下の問いが一問一答式の答え合わせになってしまわぬよう、生徒自身が考える方向を忘れぬためである。
 「解釈」とは、小説内情報の論理について、さまざまなレベルでの結合を意図する思考だが、その中でも、全体を統覚する論理がいわゆる「主題」である。「主題」とはつまり、この小説は何を言っているのかを、小説内の出来事のレベルよりも抽象的なレベルで語ることである。まずはそのように大きな見通しを提示しておいて次の問いを提示する。

    ②「運慶が今日まで生きている理由」とは何か。

 末尾の一文で、「自分」はこの「理由」が「ほぼわかった」という。だがそれが何かを語ることなく小説は終わる。語り手が「わかった」というものを読者がわからないままに済ますわけにはいかない。といってすべての読者にそれが自明なわけでもない。いかんともしがたく「解釈」の欲求を誘う記述である。
 この問いは、たとえば「なぜ鎌倉時代の人間である運慶が今日(明治時代)まで生きているのか」という問いではない。我々がその不思議の意味を問われているわけではない。その不条理をとりあえず引き受けたところに「夢」の感触があるからだ。だからあくまでこれは語り手の「自分」が思い至った「生きている理由」が何かを問うているのである。
 この「理由」は、この小説が何を言っている小説なのか、という全体の理解の中に位置づけられるべきである。物語の締めくくりに置かれたこの「自分」の悟りが小説全体の「意味」を支えていると思われるからだ。
 そうした問題を意識した上であらためて小説の展開や細部から必要な情報を読み取っていく。そのために、さらに補助的な問いを提示していく。

    ③「明治の木にはとうてい仁王は埋まっていない」とはどういうことか。

 ②を明らかにするためには、まず③を解決する必要がある。③の認識によって、「それで」②が「わかった」と「自分」は言っているからである。
 「仁王は埋まっていない」とは、「仁王が掘り出せない=仁王像を彫れない」の隠喩である。だが隠喩で表される認識が「彫れない」という認識と同じだというわけではない。なぜ「自分には彫れない」ではなく「仁王は埋まっていない」なのか。なぜそれが「とうてい」なのか。
  「どういうことか」という問いは、包括的であることに意義がある一方で、目標が定まらないから思考や論議が散漫になるきらいがある。生徒の様子を見て、問いを変形する。
 たとえば上述の問いを次のように変形する。

    ③仁王が彫れないのは、「自分のせい」か、「木のせい」か。

 複数の選択肢を提示して生徒に選択させる、という発問は、思考を活性化させるために有効である。人間の思考は、物事の対比において、差異線をなぞるようにしか成立しないからだ。もちろん結論がどちらかを決定しようとしているわけではない。どちらが適切だろうか、と考えることで、文中から根拠となるべき情報を読み取ろうとするのである。それが思考を活性化させる。そのインセンティブを導引するには、問いという形式は有効だし、とりわけ選択肢のある問いは、生徒の思考を読解に向かわせる。
 本文は「明治の木にはとうてい仁王は埋まっていない」といっているのだから、「木のせい」というのが素直な答えだが、どうもすんなりと納得はしがたい。「明治の木には…埋まっていない」というのはなんとなく無責任に過ぎるような気もして、ではどういう意味で「自分のせい」だと言えるかと考えると、ことはそれほど簡単ではなさそうである。実際に印象のみを二択で聞いてみると、生徒の意見は分かれる。
 この問いをさらに微分すると、「明治の木にはとうてい仁王は埋まっていない」とは「運慶には彫れるが自分には彫れない」ということなのか「鎌倉時代の木には仁王が埋まっているが明治の木には埋まっていない」ということなのか、と言い換えることができる。これはつまり「運慶にも、明治の木から仁王を掘り出すことはできないのか?」という問いを背後に隠し持っているということになる。
 ②についても例えば次のように選択的な問いに変形することができる。

    ②x「運慶が今日まで生きている理由」とは「運慶にとって自分が今日まで生きている理由」なのか、「我々(語り手)にとって運慶が生きている理由」なのか。
    ②y「運慶が今日まで生きている理由」とは「今日まで生きていられた理由」なのか、「生きていなければならない理由」なのか。

 これらは単に日本語の解釈の可能性を押し広げて創作した問いだ。xとyの組み合わせで4つの解釈ができる。「運慶が考える、自身が生きていられる理由」「運慶が考える、自身が生きていなければならない理由」「運慶が生きていられると『自分』が考える理由」「運慶は生きていなければならない、と『自分』が考える理由」である。ニュアンスを細分化することで、ここで明らかにしなければならないことを互いに共有する。
 といって、どれかを排他的に正解とすることを目指すのではない。やはり、どちらであるかを考えることが、思考を推し進めていくことに資すれば良い。

 さて③における「明治の木」は、なぜ「明治の」でなければならないのか。仁王を堀り出せないのは、それが「明治の」木であったからだ。だが、例えば「鎌倉時代の木」からならば「自分」にも仁王が掘り出せるのだろうか。そもそも護国寺の山門で今しも運慶が刻んでいるのは、いったいいつの木なのだろうか。「鎌倉の木」か。それが「明治の木」だったなら、運慶にも仁王を彫ることは適わないのだろうか。
 そう考えてみると、「明治の木」とはそもそも、明治人であるところの「自分」が彫っている木のことなのかもしれない。たとえ運慶でも「明治の木」からは仁王が掘り出せないのだ、ということではなく、運慶が掘ればそれはすなわち「鎌倉の木」ということになるのかもしれない。
 つまりそれは「自分」という個人の問題ではなく、明治の人間としての「自分」の問題である。とすれば③は「自分のせい」だと言っても「木のせい」だと言っても同じことになる。問題は「明治」という時代なのである。
 そこでさらなる誘導として、次のような直裁的な問いを投げかける。

    ④明治とはどういう時代か。

 たとえば「こころ」で言及される「明治」という時代について考察することは、高校生一年生には手に余る問題だ。それは人類史にとっての「近代」の問題である。
 だがここでの「明治」は日本史にとっての江戸の終焉に続く特殊な時代のことである。つまり生徒には、まず「黒船」「開国」「維新」「文明開化」などが想起されれば良い(もちろんそれも、ひいては世界史の「近代」の問題に敷衍できるだろうが)。

 時間に余裕があれば補助的に次のような問いを投げかけてもいい。

    ⑤見物人はどのような存在として描かれているか。

 作品細部の描写には、作品をどのようなものとして成立させたいかという作者の意図が表れている。これもまた「解釈」するための重要な要素として取り上げるに値する。

 もうひとつ聞いておきたいことがある。「運慶」とはそもそも何者か。

    ⑥この小説における「運慶」とはどういった存在か、何を象徴するか?

 鎌倉時代の実在の人物が明治という時代に現れるという設定は、夢らしい荒唐無稽さであるというより、むしろ小説としての意図がありそうである。それを明確に語ることこそこの小説の主題を語ることにほかならない。
 だが「どういった」という問いはどこをめざして考察すればいいのかがはっきりしない。考えあぐねているようならば、たとえば「何の象徴か」と聞く。名詞(名詞句)を挙げさせるのである。
 「運慶は見物人の評判には委細頓着なく」「眼中に我々なし」といった描写から、見物人は運慶を見ているが、逆に運慶からはこちらが見えていないのではないか、と言った生徒がいたが、こうした発想は面白いものの、どこにたどりつくのか、今のところ筆者にはわからない。それより注目させたいのは次の一節である。
 運慶の仕事ぶりについて見物の若い男が「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あのとおりの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。」と語る。運慶が象徴しているものとは、運慶自身というより、このように表現される行為そのものである。
 こういった表現は、ある種の「芸術」創造についての語り口として見覚えがある。そこでの芸術作品は「天啓」として降りてくるのであり、芸術家は神の声を聴く預言者である。作品は彼自身が作ったものではなく、彼の手を通じて神が地上にもたらしたのである。
 とすれば運慶は「芸術家」であり、また「芸術」あるいは「芸術創造」の象徴、ということになる。
 だがこうした言い方は、筆者には芸術創造についての神話、神秘思想とでもいったもののように思える。それよりも、運慶が迷いなく仁王を掘り出せるのは、何万回と重ねてきた技術の研鑽の結果ではないか。それが見る者に神秘的な技と見えるほどに高められた熟練の技術の賜物なのではないか。
 こうした疑問を、次のような選択肢のある問いに言い換えてみる。

    ⑥ここに登場する「運慶」は、「芸術家」か「職人」か?

 迷いなく仁王を彫れるのは運慶が芸術家だからなのか、熟練した職人だからなのか。これは裏返していえば、「自分」に仁王が彫れないのは、「自分」が芸術家ではないということなのか、職人ではないということなのか、ということだ。運慶と「自分」の違いとは何なのか。
 運慶と「自分」の違いを考えさせる上で補助的に付け加えるとよいのは、「芸術家」「職人」それぞれが備えていて「自分」に具わっていないものは何か、という問いである。例えばどちらも二字熟語で答えよ、と指示する。
 ただちに想起されるのは「芸術家=才能/職人=技術」といったところだ。
 むろん「自分」は芸術家でも職人でもない。天才を有しているわけでもないし、熟練の技術を持っているわけでもない。だが、なぜか「自分」は、いったんは自分にも仁王が彫れるはずだと思い、彫れない理由を「明治の木には仁王は埋まっていない」からだと考える。したがって物語上は、ここから遡って運慶が仁王を掘り出せる必然性を考えるしかない。つまり、明治に失われたのは、芸術家の天才なのか職人の技術なのか。
 だが、「芸術家」とは才能を持った者、「職人」は技術を身につけた者と捉えることには、それほど発展的な思考は期待できない、と筆者は考えている。「自分」にそれらが欠けているのは自明なことである上に、「明治の木には」という限定が意味をなさないからである。
 「才能/技術」以外に想起されるものはないか。「文化」の声が生徒から挙がる。確かに「明治」という時代と結びつけて考察するなら、「才能/技術」よりは「文化」の方が発展性がありそうだ。だが「芸術的才能」「職人的技術」それぞれがそれぞれの形で「文化」を形成している。どちらかについてさらに別の方向から捉えることはできないか。

 いくつかの問いは、相互の意見の出し合いの中で考える糸口になればよい。そして頃合いを見計らってある種の見通しを提示する。
 上記の通り、②を最後に語るとして、③については選択的な正解などなく、問題は「明治」という時代なのだと筆者は考えている。④は「文明開化」が想起されればいいし、⑤は「自分」同様「明治人」として造形されていると考えられる。
 ⑥について筆者は、運慶を「職人」として読む方が整合的だと考えている。「職人」たる運慶が備えているものは何か。全体の解釈の整合性の中で、それに思い至る生徒は必ずいる。「伝統」である。
 筆者の提示する見通しはこうだ。この運慶は時代を超越するような形で出現する天才芸術家ではなく、熟練した職人として描かれている。運慶の仕事ぶりが芸術家としての創作だとしたら、③の問いの「明治の木には」という限定に何の意味があるのかがわからない。そうではなく、それを伝統的な職人技の発現としてのルーチン・ワークだと考えることによって「明治の」という条件が理解できる。
 職人の技術とは、単に繰り返した修練によって彼個人が体得した技術、というだけではない。それはその技を磨き上げてきた数知れない先人の営みの分厚い積み上げの上に成り立つものだ。運慶が体現しているのは、そうした職人集団の伝統なのである。
 もちろん、芸術家と職人を区別すること自体が近代的な発想ではある。近代以前には芸術作品と工芸品に区別はなかったかもしれない。時代を画したかに見える天才の残した「芸術」作品にも、実は職人集団の技術の蓄積がある。だからそれを、ある種の神秘思想のように、「天啓」として語るのをやめるならば運慶が芸術家か職人かという問いには意味がなくなる。それは同じことだ。問題は運慶が伝統を引き継ぐ者である、という点である。
 こうした読みは、「第六夜」全体の主題の設定、①の問いとどう対応するか。
 「第六夜」の主題は「西洋文明の流入によって、それ以前の文化や伝統が失われつつある『明治』という時代」とでもいったようなものだと筆者は考えている。⑤についても、車夫と中心とする見物人の造形を、「芸術を理解しない無教養な人々」として理解するような議論を目にすることがあるが、それよりむしろ「古い文化を失いつつある明治の人々」として読むべきだと思う。
 とすると、②の問いはどう考えたらいいのだろう。「開化」という名の文化的な断絶を経験する時代状況において「運慶が今日まで生きている理由」とは何か。「自分」は「なぜ生きていられるか」「なぜ生きていなければならないか」どちらの理由に納得したのか。
 これもまたどちらと言ってもかまわないのだが、上記の読解に従って言えばどちらかといえば、「生きていられる」という言い方に馴染むのは運慶を芸術家として見る読解であり、「生きていなければならない」という言い方は運慶を職人として見る読解に整合的であるように思える。運慶が天才芸術家であればこそ、時代を超越して明治の「今日まで生きていられる」のであり、伝統を継承する職人だからこそ「今日まで生きていなければならない」のである。
 そしてそれは運慶がそう考えているのではなく、やはり我々が運慶に託した期待である。我々が運慶に生きていてほしいと思っているのである。
 そのとき運慶は、時代を越えて継承されるべき伝統文化の象徴である。

 こんなふうに「第六夜」の主題を捉えた時、次の一節も意味あるものとして物語の文脈に位置づけられる。

    裏へ出てみると、先だっての暴風(あらし)で倒れた樫を、薪にするつもりで、木挽きに挽かせた手ごろなやつが、たくさん積んであった。

 こうして積まれたものが「明治の木」というわけだが、この「先だっての暴風」とは何のことだ? とは是非聞いてみたい。
 もはや明らかである。「暴風」とは1853年の黒船来航に続く幕末の動乱とそれに続く文明開化のことに他ならない。西洋文明の流入は、「あらし」のように日本文化を薙ぎ倒したのである。
 仁王の埋まっていない「明治の木」を物語に登場させる際にさりげなく冠せられたこのような形容を、漱石が意識せずに書き付けているはずはない。全体を貫く論理が見えてきた時にのみ、その意味がわかるように、漱石はさりげない形容として、仁王の埋まっていない「明治の木」の来歴を語るのである。

 さて、繰り返すがこうした「解釈」を「学習内容」として「教える」ことが授業の意義だと考えているわけではない。これは「第六夜」の「正解」なのではなく、あくまでこの小説についての、私の納得のありようなのだ、と生徒には言っておく。

 続く 「夢十夜」の授業2 ~「第一夜」は解釈しない
    「夢十夜」の授業3 ~「第一夜」も解釈する

2017年12月25日月曜日

『トレマーズ5 ブラッドライン』ー午後のロードショーにふさわしい

 「午後のロードショー」という放送枠にふさわしいB級映画だが、観る。もちろん傑作だった第1作に操を立てているのだ。
 といって2作目も3作目も、1にもましてB級の極みに突き進んで、そこまで設定をトンデモな方向に展開してどうする、と思ったものの、それなりの面白さはあった。
 それは何にもまして脚本の出来であり、演出の手堅さあってのことだ。
 だが(期待していたわけでもないが、やはり)5作目では残念なできだった。CGの進歩で、クリーチャーの質感こそ悪くないが、実際のところ別にそんなところを見たいのではない。とにかくサスペンスとアイデアと愛すべきキャラクターたちなのだ。第1作が傑作たり得ていたのはそれだったではないか。
 何を「面白さ」として想定するかというアイデアが足りないのは、金のかかる映画という創作物にとっていかにも不幸なことだと思われるが、もう一つ、この映画で気になったのは、空間の見せ方の不親切だ。どういう空間にだれがどこにいて、怪物がどこから襲っているのかという把握がしづらい。観客が体で恐怖を感じ取れない。
 これがサスペンスを減じているのは演出の問題だ。

2017年12月22日金曜日

アクティブラーニング「ブーム」の弊害

 忘れないうちに書き留めておく。
 若い先生方の授業をちょくちょくのぞきに行って、どうも気になっていることがある。複数の要素にわたっているのだが、根は一緒、という気もする。たぶん昨今のアクティブラーニング「ブーム」の弊害、というあたりで。

 アクティブラーニングの弊害というと、しばしば語られるのは知識の重要さがないがしろにされる、という弊害だが、国語についてはそもそも生徒に知識を伝授することが少ないので、アクティブラーニングばかりでなく講義も必要だ、という話ではない。あくまでアクティブラーニングはいいことに決まっているという前提で、そのうえで注意すべき落とし穴の話である。

 まずは、アクティブラーニングといえば、というくらいに定番の、「グループワーク」と称する班を作っての話し合いと、その間の机間巡視だ。
 基本的に国語科が言語の学習である以上、話し合いは必須の要素でもあり、有用な手法でもある。我が授業でも半分くらいは話し合いの時間だ(残りのほとんどは発表とその応答で、説明や講義などはわずかだ)。
 だがそれには、話し合うに値する問いが提示されていなければならない。話し合うに値する問いとは、考えるに値する問いということでもあるが、同時に他人の考えを聞くことに価値のある問いということでもある。そして他人に説明するために言葉にすることに学習意義がある。
 それには問いの難易度の設定と、想定される回答のバリエーションが保障されていなければならない。易しすぎては話し合いはすぐに終わってしまうし、難しすぎるとあきらめてしまう。いきなり答えることはできないが、時間をかけて掘り下げていくうちに何事かが発見されるという見込みがなければならない。あるいは、意見の相違を生むか、そもそも個人の「感じ」を各自が語るような問いでなければならない。
 こうした問いを、ある程度コンスタントに授業に供給していくことは、若い先生方には難しい(といってベテランの授業でそれがなされているのを見たことがあるわけでもない)。
 またこうしたグループワークに入る前には、一人一人の生徒がある程度考えてからでないと有効に話し合いが始まらない。だから、問いを投げてから話し合いに入るまでに時間をおいて、自分なりに問題を咀嚼し、自分の考えをそれぞれの生徒が持つ(持とうという自覚を持たせる)必要もある。
 「グループワーク」の称揚が、班活動を促すから、先生方はすぐに生徒たちに、机を班隊形に並べさせる。そこに、話し合いには不適切な問いが投げかけられたり、あるいは生徒各自が考える態勢を調えていないと、話し合いはすぐに無秩序なお喋りと化す。さらにそれが全体での検討の場面にまで流れ込んで、しばしば授業が阻害される。

 班活動にともなって称揚されるのが授業者による机間巡視だ。
 だがこれも、見ていると必ずしも有効に授業を活性化してはいない場面に出くわす。
 教室全体の話し合いはとうに集中力を欠いているのに、一部の班の話し合いに教員が対応していて徒に時間が浪費されていくことがしばしば起こっているのだ。
 教員が参加することで話し合いが有用なものとなるのなら、全体でやればいいし、やらなければならない。
 筆者の授業では、話し合いの際に机を動かすよう指示することは少ない。椅子の向きだけで話し合いの隊形を作らせる。補足説明や全体での発表の際には、椅子の向きだけで態勢をもどす。
 また机間巡視はそれほどせずに、大抵は動かずに全体を見渡しながら、聞こえてくる声を拾っている。話し合いが有効に行われているかどうかを、全体的に把握して授業を進行していく方がいいのである。
 様子を見て補足の説明が必要な場合も多いし、ときどき定期的に燃料を追加することもある。長いスパンの問いであるときこそ、集中力の持続と、議論レベルの班ごとのばらつきを揃えるために、問いは何段階かにわける必要があるのだ。話し合いを続けさせるには、それなりのコントロールが必要なのである。そのためには机間巡視をしてしまうと全体のコントロールを失うことにもなりかねない。

 次に気になるのは、授業の際に教師の配るプリントである。
これも、板書とともになされる講義を生徒がノートに写す、といういわゆる「ボード&ノート」授業スタイルに対抗して、教員手作りのプリントは、生徒が能動的になるかのようなイメージがある。
 だが実際には板書の劣化版というようことになっているプリントも多い。生徒が書き込むべき空欄が指定された、ほぼ板書予定の内容がプリントされて生徒に配布されているのである。
 思うに、プリントを作るのは、それによって教員が何か仕事をしている気になるというのと、授業の流れを迷わずに済むという安心が得られるところが若い先生方をひきつけるのだ。
 一方、生徒の側からみると何が起きているかというと、全体の流れが一望できるのはいいが、実際には生徒は空欄に何かを書き込むことが自己目的化しているように見える。全体の流れを把握するよりも、空欄にしか注目しない、というのが現状なのだ。
 しかもそこに書き込まれることは予め決まっていて、いわばその「答え」が授業という場に提出されさえすれば良いというふうに生徒は捉えているように見える。そしてこうしたプリントを作る先生は、その「答え」を板書するものなのだ。生徒は板書されたものを空欄に書き写す。
 これはいったい何の儀式か?

 ここまでくると次は板書の電子化である。板書予定の内容をパワーポイントなどで作成して、プロジェクタでスクリーンに投影する。
 プロジェクタによる映像や文字情報の提示は、有用な場合もあるとは思うが、基本的には作成の手間と学習効果が見合っていないというのが実態であると思う。
 またこれも、事前に内容が決まっているという点で、プリント同様の弊害がある。
 最初から、授業が何かの知識を「説明する」「伝達する」というイメージで成立しているときには、板書の電子化もプリントも、たぶんプリントに代わる今後のタブレット利用も有用なのかもしれない。
 だが国語の授業はそのときそこで何事かが生み出される場なのだ。もちろん授業者にはある程度の見通しはあるが、それでもその場で生み出される授業全体の成果を記録できる状態になっているかどうかは重要である。板書は、そのときに語られながら書かれる瞬間を生徒が見ていることに意味があるのだし、ノートは板書を写すものではなく、むしろ板書に先立って書かれるべきである。

 班隊形も机間巡視もプリントも電子機器の活用も、もちろんそれ自体に善し悪しがあるのではない。ただ無条件に良いもののようなイメージが先行して手段が自己目的化することのないよう心がけるべきだというだけのことである。
 そしてアクティブラーニングも、学習にとっての有効な方法に過ぎない。それを実行することが無条件に良いわけではない。
 自己目的化の陥穽は常にそこにある。

2017年12月20日水曜日

「サクラダリセット」ふたたび

 アニメ放送の終了時に一度ふれたことがあったが、その後、原作の小説を読みすすめて終盤にさしかかったところで、図書委員から「おすすめ図書」を挙げろという依頼が入ったのを機に、最後までいっきに読み終えた。最終7巻は一日で。巻の後半に入って、これはこのままいこうと決めた。布団の中で深夜までかかって読み終えるという読書は幸福だ。すごい物語だった。
 というわけで以下、前回の記事を使い回しつつ「おすすめ図書」。

 2009年に刊行の始まったこのシリーズを知ったのは、遅ればせながら今年のアニメ化によってだった。初回から、「時間を巻き戻せる」という設定のせいでなんだか筋を追うのが大変だぞというのと、台詞回しが妙に面白いなというのが印象的だった。ただ、その後2クールの放送を追ってみて、花澤香菜と悠木碧の演技の素晴らしさが特筆に値するという以外はアニメーションとしては凡庸な量産深夜アニメレベルを脱しなかった。それでも最後まで見続ける気になったのは、物語のあまりの力量に圧倒されたからだ。
 これは原作の面白さに決まっている、と図書室に購入を希望して揃えてもらった。そういうわけで全巻の貸し出し第一号は私だ。読んでみると、複雑なストーリーラインも、ウィットに富んだ台詞も、やはりこの物語の素晴らしさは原作に拠るのだった。
 ある種のタイムリープを設定としてもちこむと、物語の論理はすぐに複雑になる。設定上、パラドクスこそ回避されているが、可変的な未来を知る者同士が、どの時点で何を知っていて、何を意図しているかを個々の状況に応じて把握しなければならない。その上で十分に頭の良い複数の登場人物が、互いに相手の思惑を上回ろうと策略をめぐらす。それは相手も十分読んでいるだろうから、その上を行こうとすれば…と、まるで将棋や囲碁の対戦のような複雑な論理の絡み合いになる。ある条件下でこの難問を解決するにはどんな方法をどんな手順で実行すれば可能なのか…。どこまでも複雑な構築物としての物語に目の眩む思いがした。
  そして、この物語では何より「言葉」が大切にされている。超能力者たちが跋扈する世界での戦いであるにもかかわらず、この物語の主人公とラスボスの最終決戦は、凡百のSFのような物理法則を超えた物理的破壊合戦ではなく、なんと「議論」と「説得」なのである。相手との合意がなければ戦いは終わらない。そうでなければ「幸せ」になれないと主人公は考える。
 クールだったりユーモラスだったり哲学的だったりする言い回しは村上春樹を思わせもするのだが、にもかかわらず、ハルキ・ワールドの不健全さとはまるで違って、この小説では、どこまでもまっすぐでまっとうでまえむきな言葉が、陳腐で恥ずかしいと思うより、すがすがしくも感動的でさえあるのだった。

2017年12月12日火曜日

『Oh Lucy!』-苦々なOLの冒険譚

 海外の映画祭でも高い評価を得たという平栁敦子監督映画だが、どういうわけで再編集してNHKでテレビ放送するのかわからない。宣伝として? 映画制作のドキュメンタリーにはできなかったのか?
 この形での鑑賞でまっとうな評価ができるのかどうか心許ないが、感想のみ。
 
 主人公のOLが、姪の頼みで通い始めた英会話教室で出会った米国人講師に恋して、米国まで彼を追いかける。
 冴えないオールドミスのOLのほろ苦い冒険、という体の物語なのだろうと見当をつけて観ていると、はたしてそのとおりなのだった。
 「体」としてはそのとおりであるにもかかわらず、残念ながら「ほろ苦い」とはいかなった。苦々だ。
 といって、観客の予断を裏切ることに何か価値のある要素があるかというと、どうもそうにも思われない。
 彼女の人生において数少ない「冒険」が、成功はしないものの、しかし何事かポジティブな影響を与えるという展開を期待していると、最後の役所広司の登場で多少救われもするものの、差し引きはマイナスなまま物語が終わる。どういうわけで主人公をそのようにして虐めたいのかわからない。それが狙っているものは何なのか。
 とりわけ冒頭の電車飛び込み自殺と、姪の唐突な投身自殺未遂は、そのエピソードが作る磁場の強さと、それ以外の物語の強さが釣り合っていないから、単に唐突で浮いている。そのことに仮にどんな狙いがあったとしても(本当にあったのか?)、成功しているとは思えない。
 観客になにがしかの勇気を与えるとかいう目的ではなく、単に批評的なのか?
 だが何に対するどのような批評になっているというのか?
 すべての物語がハッピーエンドでなければならないとは言わないが、それならば何を描きたいのかといえば結局わからず、もやもやと終わるのだった。

2017年12月3日日曜日

『炎のランナー』-テレビ放送で映画なぞ

 オリンピックに向けての「戦意高揚」といったところだろうが、世評に高いこの映画を観たことがなかったので、TV放送されたのを機に。
 だが結果として、またしても、カットのために無残なことになったのだと後になって分かった。見ている最中は、このあたりの事情については説明がないのか、とか、感動的であるために必要と思える前振りがなさ過ぎるなあ、とその不自然さに首をひねっていたのだが、後で調べてみると30分以上のカットがあるようなのだ。
 それでもシーン毎の力は疑う余地がない。
 有名な海岸の集団走のスローモーションは何やら力強かったりそれぞれの人柄が見えてきたりするし、それ以外の練習風景やら競技風景やらが実に映画的だ。リアルな作り物といったような矛盾した形容をしたくなるような、手の込んだ創作物なのだ。画面の隅々まで演出の手が行き届いているのが感じられる。
 そうなると惜しむらくはカットのあるテレビ放送なぞで見たことだな。

2017年11月19日日曜日

「羅生門」は「エゴイズム」を問題にしているか

 あるクイズ番組で「東大生・京大生が選ぶすごい本」というアンケートをやっていて、1位は案の定「こころ」なのだが、「山月記」や「羅生門」が上位に入ってしまうあたり、東大生・京大生もろくに読書をしていないことが見て取れる。これらは「読書」ではなく、単に高校の授業で読んだだけだろ。
 で、「羅生門」は4位なのだが、その紹介に「人間のエゴイズムをテーマとした」などと表現されているのを見て、またもやモヤモヤと居心地の悪い気分がしたのだった。

 どういうわけで「羅生門」から「エゴイズム」という言葉が発想されるのか?
 とんとわからぬ。
 あの小説の中で下人が「盗人になる」ことに迷っているのは、ある種の犯罪行為に及ぶかどうかの選択には違いない。そもそも犯罪は他人の権利を侵害するから悪いということになっているのであって、その意味ではどだい利己的なものに決まっている。それはあまりに自明のことだから、わざわざ「エゴイズム」をテーマとして浮上させはしない。犯罪行為がエゴイスティックなことはわかりきっているのだから。
 つまり、エゴイズムを問題としてとりたてるには、強い「悪」を対象とするのは不適当なのだ。したがってエゴイズムをテーマとするならば、取り上げるのは、犯罪などの違法性によって裁かれたりはしない、いわば感情的な痛みを他人に与えるような行為が利己的な動機によっておこされる場合であり、その意味では「こころ」が表面的には、そのような物語であると思われるのはよくわかる。
 だが「羅生門」を読んでいて、それが「エゴイズム」という言葉を引き出す必然性があると思える人は、どういう思考をたどっているのか、本人に聞いてみたい。どうもそういう人に出会える機会がないので。にもかかわらずそうした現象そのものに出会う頻度は多くて。
 そうした慣習が、単に吉田精一、三好行雄による「羅生門」理解を引用しているにすぎないということはわかるが、どうしてそれをそのまま口にできるのかがわからないのだ。

 「羅生門」の中に「エゴイズム」と呼ぶべき要素はあるかといえば、ある。だがそういうことなら「エゴイズム」に該当する要素のない小説など凡そ存在するとは思えず、「羅生門」が「エゴイズム」を主題としているかといえば、まるでそのようには見えない。
 もちろん「羅生門」は下人の引剥という行為をどのように論理づけるかが主題であり、それを老婆の語る自己弁護の長広舌に負っている限り、「エゴイズム」という言葉が想起されるのはやむをえまい。だがこの小説を読んでそのように読める人は、いったい、本当に小説を読んでいるのだろうか。
 芥川は「羅生門」において、「エゴイズム」などという自明の観念について、何らの解剖もしていない。それどころか逆にこの物語は道徳と呼ばれるものの観念性を暴いているのである。

2017年11月12日日曜日

『ビロウ』-「潜水艦映画にハズレなし」とはいうものの

 「潜水艦映画にハズレなし」というフレーズを聞いたような気がするが、気のせいかと思って確かめてみるとネットでも頻出している。誰が言い出したものやら、人口に膾炙しているらしい。
 本作も、全然聞いたこともない作ながら、妙にうまい。
 潜水艦が水面下に没するとき、艦の両側から甲板に乗り上げてきた水が中央でぶつかって噴水のように吹き上がる描写とか、故障個所を直すために船外に出た乗組員たちをマンタの群れがとりかこむ幻想的な光景とか、大したものだと思う。
 潜水艦映画特有の、乗組員の移動に伴って、後ろをついていくカメラに映る艦内の機械類の操作や、乗組員のやりとりを軽やかに見せつつも、潜水艦内の圧迫感もしっかり描くという、お約束の描写も高いレベルだった。
 よくできてる! と感嘆しつつも、どうもジャンルがわからんと思っているうちにだんだんオカルトがかった描写が増えて、それも心理描写の一種かと判断しかねているうちに、結局ホラーじみた展開になった。『サンシャイン2057』も、SFに徹すればいいのになぜかホラーっぽい展開になって残念だったが、こちらも、サスペンスとミステリーくらいに抑えて、あとは人間ドラマで見せればいいのに、ちょっと残念。

 ここんとこ、『サンシャイン』『ペイチェック』とも、どうも展開が飛躍しているような気がするのは、放送枠のせいでカットがあるからかもしれない。こういう枠の放送で映画を観てはいけないということだろうが、といってテレビ放送ででもなければ、こんな映画を観ようとは思わなかっただろうし、難しいところではある。

2017年11月4日土曜日

「決戦は金曜日」と「Let's Groove」を同時に聴く

 テレビで星野源が、小学生の頃、ドリカムの「決戦は金曜日」が好きで、後にそれがEW&Fに似ていたからだと気づいたというような話をしていた(細部不正確)。
 そういえば「Let's Groove」に似ている。そこで同時に聴いてみよう、ということで作ってみた。
 マッシュ・アップではなく、単純に両曲のテンポとキーを合わせてステレオの左右に振ってあるだけ。



 一度、両曲ともそれぞれの動画を音声に合わせて、同一画面に収めた動画を作ってYou-Tubeにアップしたのだが、すぐに著作権に引っかかって、ブロックされてしまった。どこがそうなのかと考え、おそらく「Let's Groove」のビデオだろうと、そちらは静止画にして再アップ。残念だがしかたがない。
 今のところブロックされていない。

p.s. やっぱりブロックされた。自分で観ることはできるのだが、外からは見られないようだ。
p.p.s. そういうわけで動画版に戻した。
p.p.p.s. You-Tubeが駄目なのかも、と直接Bloggerにアップ。これもブロックされるのかなあ、そのうち。
こちらはブロックされない。なかなか好評。
aikoの「花火」と「アンドロメダ」を同時に聴く

2017年11月3日金曜日

婦人倶楽部、1983-嬉しい発見

最近の発見。You-Tubeのレコメンド機能、おそるべし。
「婦人倶楽部」って、ふざけているのかと思いきや、これだ。

高度な音楽性をさらりと聴かせるポップさ。尋常じゃない技だ。
もうひとつ。
「1983」って、バンド名? と思いつつ聞いてみると、キリンジというかLampというか。ボーカルがほんとに堀込奉行に似ている。曲も。


2017年11月1日水曜日

『ペイチェック 消された記憶』-アクション映画なのかSF映画なのか

 最近、ベン・アフレックづいてる。
 「ペイチェック」では何の映画化わからなかったが、CMを見ると近未来SFのようだ。
 電気的な刺激で記憶を消す技術が開発された未来、高額な報酬と引き換えに3年の記憶を消すことを条件に、あるコンピューター製品の開発にかかわる仕事を引き受けた主人公が、空白の3年間をめぐる事件に立ち向かう。高額な報酬はなぜか銀行口座にはなく、わけのわからないガラクタ類を、記憶のない時間の自分が預けて寄越す。命を狙う敵から逃れつつ3年の間に何があったのかが徐々に明らかになる、というわかりやすいサスペンス。
 「ガラクタ」が、さまざまな逃走や闘争の際に次々と使用されていく仕掛けは楽しい。が、いささかできすぎで、うまい! と感嘆させられるほどに練り込まれているわけではない。派手なアクションも、派手すぎて白けてくる。この感じは、と思ったらジョン・ウーなのか。なるほど『MI:2』だ。
 ベン・アフレックも『アルゴ』や『チェンジング・レーン』のような魅力的な人物を演じるでもなく、アーロン・エッカードも『幸せのレシピ』の好漢ぶりを連想できないほどのどうということのない悪役で、どうにも人物の魅力もなく。

2017年10月30日月曜日

『サンシャイン2057』-ボイルでもこういうのもある

 ダニー・ボイルだから、そう外しはすまいと思うが『ビーチ』のような微妙なのもあるしなあ、と危惧もあったが、結局のところ危惧どおりだった。
 衰えた太陽に地球上の核爆弾を集めて打ち込み、賦活化しようという計画のために宇宙を旅する宇宙船の中で…。なんだか聞いたような話だ。
 そしてそれ以上ではない。ひととおりのサスペンスもドラマもあるのはわかるが、どうにも何かを言う気にならない。どこかに心を揺さぶられるとかいうことは起こらなかった。
 そして最後の方は、カットが短すぎ、動きすぎで、もやは何が写っているのかわからない場面が続いて、参ってしまった。起こっていることの「だいたい」はわかるのだが、そんなものが「だいたい」わかってどうなるというのか。

2017年10月6日金曜日

『ピエロがお前を嘲笑う』-もったいない鑑賞

 TSUTAYAで物色中に、棚でフィーチャーされているのを見て衝動的に。
 これも『実験室KR13』に続いて、えらく良くできた映画だと感心。いちいちかっこよく見えるようライティングされた、手間のかかっていそうなカットが、贅沢なくらいのスピードで切り替えられていく。カメラも編集もずいぶん達者な映画だなあと思いつつ、肝心のお話は、あんまり頭を使わずに観ていて、後からいくつかの映画ブログを見て、あれこれ考えどころはあったんだな、とぼんやり。
 「どんでん返し」という宣伝文句をあんまり気に留めていなかったから、そういうふうに身構えていなくて、「返」されたときにも「騙されたあ!」などという感慨はなく、その物語の起伏に感心したのだった。
 いや、こういうのはもったいないな。もっと驚いたり悔しがったりして楽しむべきだな。
 『THE WAVE』に続いて、ドイツ映画だというがまるで米映画に見える。『WHO AM I』という原題も。ドイツでも英題で公開されたんだろうか?

2017年10月3日火曜日

『実験室KR13』-映画力と物語力のアンバランス

 『THE WAVE』同様の心理実験ものであるとともに『Unknown』同様のソリッド・シチュエーション・スリラーものでもある。どうしたって期待しちゃうじゃないか。
 ついでに「事実に基づく」ともいう。治験として集められた4人の男女が、殺風景な実験室に閉じ込められて、主催者から出題される問題を命がけで解く。これがCIAによる、実際に行われたかもしれない心理実験だったという設定だ。
 だが『es』や『THE WAVE』のように「実話」とストレートには言わない。見終わってみれば、まあそうだろうな、という感じだ。こんなことが実際に行われましたとはCIAは言うまい。それくらいに馬鹿げてはいる。
 だが観始めてすぐには、この緊迫感はなんだ、と感心する。役者の演技も編集も見事で、これは質の高い映画だ、と確信する。被験者の一人がいきなり撃ち殺される冒頭も、これには何かどんでん返しがあるんだろう、と思う。名優クレア・デュヴァルだ。こんなところで死んでおしまい、ということはなかろう。
 だが、おどろくべきことにそのままなのだ。そして明かされる真相も、呆れるようなトンデモ話なのだった。
 惜しい。実に惜しい。結末近くまでは大いに面白いと感じていたのに。ティモシー・ハットンの渋い男っぷりも、クロエ・セヴィニーの影のある美しさも、よく撮れているなあ、と感心していたのに。
 世界の裏側でどんな非道な謀略が行われていようとも、天下のCIAがこんな効果も怪しい実験に金と時間と人材を割いて自らの身を危険にさらすまい。どうしてこのネタで映画撮れると思ったんだろうか。
 で、監督のジョナサン・リーベスマンって? と思ったら『世界侵略: ロサンゼルス決戦』なのか!! あの、ものすごくよくできた場面場面の映画力に対して、まるで釣り合いのとれない貧弱な物語力は、この『実験室KR13』とおんなじだ。

2017年9月29日金曜日

『THE WAVE』-不満と期待と

 山津波を描いた同名のディザスター・ムービーがあるようだが、そちらではない。確かにこんな一般名詞をそっけなくころがしておいたのでは、同名の映画ができてしまっても無理はない。この間の『Unknown』しかり。
 とはいえこちらはドイツ映画で、原題もドイツ語。
 有名な「看守と囚人」実験(スタンフォード監獄実験)をモデルにした映画は『es』『エクスペリメント』と観ているが、ネットで調べてみると関連してこの『THE WAVE』のこともしばしば話題にのぼっている。米カリフォルニア州サクラメント・カバリー高校教師の歴史教師、ロン・ジョーンズが1969年に行った「ザ・サード・ウェーブ」実験と呼ばれる試みを基にした映画だ。
 元の実話は、組織的な「実験」というより、ある教師個人によるある種の教育「実践」だ。人はナチスのようなファシズムにどのように順応していくのか、という問題意識によって、集団主義的な統制による授業を試してみたところ、一週間のうちに高校生たちはすっかり「党」への忠誠心に支配され、それ以外の社会との間に様々な問題を起こしたという。
 映画はこの「実践」の開始初日から、終了までの一週間の物語である。
 ドイツ映画とはいえ、例のヨーロッパっぽさがなくてアメリカ映画のようだ。ファシズムをテーマにした物語ということで、そのことに特別な意味を見いだしたくもなるのだが、トルコ人が登場人物として配されるくらいで(それはそれで物語の重要な要素の一つではあったのだが)、アメリカでもドイツでも意識せずに見てしまえる。つまり「なんだかわからないヨーロッパ映画」としてではなく、エンターテイメントか、社会派の映画として観ても良さそうだという感触だったのだった。そういえば『es』もドイツ映画で、やはりアメリカの作品と同じように見られる感触だった。『ハンナ・アーレント』もそうか。
 ということで怯まずに評価する。
 さて、さまざまなことを考えさせられた。だが、映画として満足かと言えば、大いに不満足である。ネットでは絶賛の声も多いが、いいのか、あんなもんで?
 最初は馬鹿にしていたファシズムに、生徒はすぐにのめりこんでしまう、というのが「実験」による知見のはずだが、映画を観ていてもどうにもそんな実感は得られなかった。一人、いじめられっ子として登場する一人の男子高校生がのめり込んでいく様子はそれなりに「わかる」と感じられたが、それ以外の大多数の生徒は、部分的には面白がったりするものの、到底「のめり込む」ような必然性を感じなかった。
 最初のうちは、どこまで本気? というような感じでその実習に参加していく。教師を敬称付きで呼ぶことにせよ、直立不動で発言することにせよ、まあしょうがない、という感じで実行し始める。だがそれが生徒を惹きつけていく必然性が描かれているようには見えない。「しょうがない」のまま1日目を終えているように見えるのに、二日目にはノリノリになっている。どうも共感できない。
 たぶん「恐怖」が描かれていないのだ。例えば、指示に対して気楽に応じていた生徒に対して、一応、学校という場における権威と、授業における約束が強制力を働かせて、気楽に構えていた生徒に、反抗することに対する思いがけない恐怖を感じさせられたら、その後でその支配に服することとそこから生まれる陶酔が描けそうなのだが、主人公の教師は、とりあえずそのように振る舞うものの、どうも本気らしく見えない。
 たぶんそれは最初の設定で、彼が「独裁制」を選んだのが不本意だったからだ。物語の最初に、主人公は「無政府主義」の実習を希望しているが、それは年長の教師が先に授業計画を提出してしまい、心ならずも「独裁制」に回されることになる。その後、どこかで本気になったようにも見えない。とりあえず誠実に授業に取り組もうとは思っているらしいが、演技であれ何であれ「本気」を決意した描写がない。
 実話の方では、教師自らの発案で実行している。本気で「独裁」したいと思わなくとも、その実験を成功させたいとは、本気で思うはずだ。映画ではその動機の強さがわからない。だから「そういうことになってるだろ?」といった曖昧な要請で生徒に指示しているように見えて、そこに「恐怖」が感じられない。
 同時に、集団に所属すること、支配者に隷属することの陶酔も、なんだか唐突に生じているように見える。全員足踏みに興奮したくらいで、それはまあ退屈な授業より「面白い」ひとときではあったろうが、陶酔を生み出しているようには見えない。

 「恐怖」が描けないのは、主人公の本気さの問題もあるが、日本の高校と、映画の中の高校の違いでもある。支配に「恐怖」が感じられるということは、支配に対する不満がありながら、不服従に伴う不利益が大きいということだ。支配をやすやすと受け入れるならば、あるいは不服従に不利益がないのなら「恐怖」は生じない。反抗的な不良男子生徒が気楽に、いつものように反抗すると、主人公がクラスから彼らを追い出す。あるいは理念的に、そういうやり方に賛成できない真面目な女子生徒がクラスから出ていく。
 だが日本だったら、そこにはもっとはるかに大きな抵抗があるはずだ。社会的な進路の選択についても固定的だし同町圧力も強い。だから、教師の不愉快な命令に反抗することには多大な心理的エネルギーを必要とするはずで、だからそこには思い切った行動をとることに対する「恐怖」が生ずる。いわば保身の為に生じたそうした恐怖の代償として、それ以降の隷属に積極的に身を任せてしまうということは大いにありそうなのだが、そうした前提が、この映画にはない。
 だから、前述の、カースト下位の男子生徒についてはわかるものの、全体としては「こういうことってありそうだよなあ」というような観客の恐怖にはつながらないのだ。
 ところで彼についてはなぜわかるのか。それはいわゆる「スクールカースト」という制度・体制が、ファシズムという、支配者の下でのある意味での平等によって消滅したことによって、新たな自己承認が可能になったからだ。だからそうした体制が崩壊して、またもとのカースト制度に戻ることが彼には耐えられない。
 だから彼のエピソードについては実に巧みに、劇的に描かれていたと思う。演じていた役者の演技も素晴らしかったし、カタストロフの会場の描写も見事だった。

 さて、不満はまだある。
 映画にリアリティを感じなかったのは、こうした「実習」がどんなふうに運営されているのかがどうもよくわからなかったことにもよる。高校における、こうした「実習」というのがどうも想像しにくい。日本でも「総合的な学習の時間」とか、コース制のある学校での「実習」にはそれに類する試みを実施する余地はあるのかもしれないが、映画のように継続的な授業の枠で、しかも専門性のない教師がそれを担当するという設定に無理があると感じた。
 元になった実話では、実施したのは歴史教師だ。だが映画では「短大出の体育教師」という設定だった。これは教師集団における彼の劣等感がこの実習に彼をのめりこませたのだと、行為の必然性の根拠になっている。そこは一応「考えて」あるのだ。
 だが「短大出の体育教師」にこうした実習をすることに無理がある。さて、「独裁制」を実習で学びましょう、といって、何をするというのだ。歴史教師がさまざまな歴史的エピソードをロールプレイングしようということなら、企画は立ちうる。だがそんな専門性がないはずの「短大出の体育教師」に何ができるのか。だから、具体的に、生徒がのめりこんでいく過程がわからなかった。
 同時に、むしろ「体育教師」になら「独裁制」の実習も可能なはずだ。それを実行している運動部顧問が、日本にもしばしばいる。映画の中で描かれる水球チームの指導でこそ、それを日常的に行っていても良さそうなもんだ。そこでは実行できないから2流コーチだったのが、「実習」を通して、そちらもうまくいくようになった、というような展開には、残念ながら映画の一週間の中ではならなかった。

 さて、ネットで見る「実話」は、もっと面白くなりそうな想像をかきたててくれる。
 ネットの記述によると、こうした「実習」を始めたところ、生徒の成績が向上したという。これはどういうことだろう。1週間のうちに向上が表れるような「成績」とは何のことだ? しかもそれは「実習」を実施していないクラスとの比較でなければならないはずだ。どういう形でそうした成績が評価されるのだろう。
 ともあれ、これは描かれなくてはならない。ドイツの快進撃がなければナチス・ドイツは国民に支持されなかったはずだ。
 だが映画ではそれはどのように描かれていたのか。
 こうした全体主義的統制は、ある面では成功をもたらすはずだ。「良い先生」「カリスマコーチ」はヒトラーと同一線上にいるのかもしれない。

 基本的には良くできた、面白い映画だと言っていいのだろう。だが、関心があるからこそあれこれ考えさせられもし、不満も言いたくなってしまうのだ。

2017年9月28日木曜日

『Unknown』-DVDの再生不良で

 オススメのソリッド・シチュエーション・スリラー映画とかなんとかいうサイトで紹介されている映画をTSUTAYAで探して。
 『Unknown』という題名の映画は二本あり、そういえばリーアム・ニーソンの方は観たことがあるのだった。あれっ? ここ3年のうちではないのか? そんなに昔ではない気がするのだが。

 さて、大作のあちらと違って、こちらはSSSだから金はかかっていない。
 …はずなのだが、始まって早々に閉鎖空間以外の展開が並行して描かれ、思いの外、金がかかっているじゃないかと思い直される(ま、といってやはり大作ではない)。
 この、SSSなのにそれ以外の展開が挿入されるパターンは『Saw』だし『パーフェクト・ホスト-悪夢の晩餐会-』だし(同じプロデューサーなのだっけ)。
 これは基本的に物語を立体的にする、良い構成だ。
 加えて今作は、閉じ込められた5人が皆、薬品の影響で記憶を失っており、徐々によみがえる記憶がフラッシュ・バックすることで、さらに立体感を増す。

 なかなかよくできていると思いながら見ていると、最後の15分くらいでDVDの再生が不良となり、よくわからないうちに終わってしまった。
 なんてことだ!

 観ていて、物語を面白くする上で、こうした方がいいだろうな、というアイデアが二つ、ただちに思いつく。
 記憶が戻るにつれて、ただ真相が明らかになっていく、というだけはつまらない。観客に対して、こういう物語なのだろうという「真相」をミスリードしておいて、それをひっくり返す、いわゆるどんでん返しはぜひ必要。『メメント』とか『マニシスト』がそうだったっけ。
 今作でも、どんでん返しは仕掛けられていたらしいが、どうなんだろ。どの程度の仕掛けだったものやら、
 もう一つは、記憶を失っている状態でとりあえず助け合って脱出しようとしているうちに生まれた、いわば「ストックホルム症候群」のような仲間意識が、記憶が戻ってからの現実と齟齬を起こしつつ、現実の方を凌駕する、というような展開があるといいなあ。
 観客にとっては映画が始まってからが世界の始まりだから、彼らは「仲間」なのだ。「仲間」になったのだ。それが「真相」をひっくり返す、というような構造には快感がありそうだ。
 今作がそうなっていたのかどうかも、やっぱり未確認なのだった。
 残念。

2017年9月22日金曜日

『花とアリス殺人事件』-面白さに満足

 この間の『打ち上げ花火~』の流れで、未見だった『花とアリス殺人事件』を見た。
 確かロトスコープを使ってるんだっけと思いながら、なんだかアニメの「ピーピング・ライフ」を思い出しながら見ていた。
 あちらは人物をCGで動かしているんだろうが、なんだろう、セリフの生っぽさが先にある感じが似ているのか。ロトスコープも、生身の人間が演じている「間」が、なんともいえずおかしみを生んでる。「ピーピングライフ」も、たぶんセリフの収録が先で、後から人物を動かしてるんだろうという気がする。
 笑いの感じも似ていると言えば似ている。
 ということはつまり、映画的な特別さはそれほどなかったのだった。岩井俊二が作る「世界」とでもいうような、特別な時空間があるというような感じは。
 それでがっかりしたかといえばそんなことはない。充分に面白かった。蒼井優のアリスは、中学生にしてはいささか声が老けているが、とぼけていたり、そのわりに激しいリアクションがあったり、面倒くさがったり活動的だったり、観ていて実に面白いキャラクターだった。
 どうして登場シーンがアンバランスなのかとは思ったが、鈴木杏の花の方も、後半に出てきて結局すっかりアリスに並んでしまう存在感が『花とアリス』だなあ、と満足。

 あの強烈な「むつむつみ」は何だか知っているような気がすると思ったら鈴木蘭々か! そういえば「Love Letter」に似たようなキャラクターで出てたっけ。

 ロトスコープの効果だかなんだか、アリスが街中を走っているシーンが、ただその映像だけで劇的なのはなんなんだろうな。

2017年9月20日水曜日

『チェンジング・レーン』-満足度の極めて高い傑作

 ベン・アフレックとサミュエル・L・ジャクソンだから、悪い映画ではなかろうと、それ以外の予備知識なしで録っておいたのだが、いやこれは拾い物だった。
 髭のないベン・アフレックはこんな間延びした顔だったんだな、などと呑気に観始めたのだが、ソツのない描きぶりにあれよと見続けてしまう。

 ベンの弁護士とサミュエルの元アル中の保険外交員が、ハイウェイでの車線変更(チェンジング・レーン)がきっかけで接触事故を起こす。ベンは裁判に必要な書類を事故現場に置き忘れ、車の動かなくなったサミュエルは子供の親権をめぐる裁判に遅れて親権を失う。そこから要求と互いの行為への怒りが、脅迫や嫌がらせの応酬にエスカレートしつつ、それぞれの人生に対する見直しへとスライドしていく。
 次々と展開するお話をコントロールする脚本の出来には脱帽。これだけのスピード感で、これだけ起伏のあるエピソードを次々と詰め込んで、そこにどんな感情を付加していくかを充分に計算している。事態の収拾をはかろうとあがいたり、相手への怒りのあまり報復してそれを台無しにしたり、それでも反省して自分の人生を良いものにするために努力したり、それぞれの行動に充分の動因が働いている。
 そしてそのストーリーを描くための演技も演出も編集も文句のつけようのないうまさだ。親権を得るために戦うはずだった裁判に備えて、車の中で考えていた口上を言う間もなく裁判が終了し、それでも虚しく、芝居がかった口上を言いかけるが、無情にも裁判官に遮られてしまうシーンの滑稽さと哀しさ。裁判官がまったく自然な仕事ぶりをする常識人で、悪役なぞに描かれないバランス感覚。失意のサミュエルが、ベンの必要とするファイルを、裁判所入口のゴミ箱に投げ入れるシーンに観客が感じる焦燥の強さ。
 裁判事務所の共同経営者としての成功を守るか、倫理的な満足を選ぶかという選択は、それこそ「羅生門」のような観念的で、まるで現実感のない問題設定と違って、その成り行きに感情移入してドキドキした。依頼人の財団からの詐取の首謀者、事務所の上司である義父を演ずるシドニー・ポラックがまた良い。許される行為ではないはずなのに、自分の行為に対する信念の揺らぎはない。自分が救っている人間の方が多いという確信が自分の行為を支えているという哲学を語る場面は迫力があった。
 そして最初の車線変更が、最後には人生の車線変更へとつながる物語全体の構成は、本当に見事だった。最後のハッピーエンドを甘くなく描くことのできるバランス感覚は驚嘆すべきものだ。

 これがまたなんともはや呆れたことにネットでの評価は賛否半ばするのだった。口を極めて酷評する人も多い。
 登場人物たちが不愉快?
 もちろんわが身可愛さの保身も感情的な嫌がらせも醜い。
 一方で可能な限り紳士的に、常識的に振る舞おうとする努力も描かれていて、選択の難しさは充分描かれている。
 話の展開が退屈?
 あれほどの起伏と速度で展開するストーリーが退屈?
 いやはや、人の感じ方はこんなに理解しあえないものなのか。
 そうすると先日の『打ち上げ花火~』も、あれに感動したり面白がったりする人もいてもおかしくないわけだ。

2017年9月19日火曜日

『野火』 -ゆっくりと血肉化していけば

 このタイミングでこの映画を観るつもりになったのは、先日「羅生門」論の中で大岡昇平の『野火』に触れたものの、実は未読のはったりであることに後ろめたさもあり、といって小説を読むより先に以前から気になっていた塚本晋也版『野火』を観ることにした、という情けない事情による。
 さて、ブログを検索してみると、塚本晋也はここ3年見ていなかったのだな。『HAZE』や『悪夢探偵』を観たのはそんな以前とは思えないので、たぶん3年よりちょっと前。
 本作は、そんな塚本晋也監督作品で、大岡昇平の原作も、話の枠組みは知っている、という限りにおいて、想像を超える映画とは思えなかった。
 「想像」というのは「戦場におけるリアル」「戦争における加害者性」「戦争における狂気」といった評価の枠組みであり、それらは無論高いレベルで描かれている。だが、それ以上のものを見せてくれるのでは、という期待をしてしまっていたのが、そうでもなかった。
 ジャングルなどの自然の美しさが、ちゃんとそれと感じられるくらいの映像で描かれ、それと戦争の対比はいい。役者たちの醸し出す味も充分味わい深い。監督自ら演ずる主人公が所謂「鬼気迫る」演技をするのも、リリー・フランキーが、どうして本職じゃないのにこんなにうまいのかと思うようなとぼけた狡猾さ、憎たらしさを出しているのも評価できる。中村達也はもともと良い顔をした人だったが、これもミュージシャンの余技とは思えない存在感だった。
 だがそこで評価すべき映画ではないはずだ。この映画はやはり「戦場におけるリアル」「戦争における加害者性」「戦争における狂気」…をこそ真っ当に感じさせるべきであり、それは確かに成功している。ネットの反応では、そもそもそれを見たがる人による評であるせいか、総じて高い評価を得ている。
 それでも、それ以上、ではなかった。
 たとえば、以前の作戦の失敗か、兵士の死体がごろごろと転がったままのフィールドを越えて向こうに行かねばならない作戦を実行に移すべく夜になるまで待った主人公たちが、闇に紛れてようやく動き出すと、いきなり目映いライトが点いて一斉射撃を受ける。その緩急は映画的には上手いなあと思う。
 だが、それに続く過剰な阿鼻叫喚の地獄絵図は想像のうちだ。塚本晋也ならそれくらいやるだろうと思う。
 つまり地獄絵図の過剰さでは「リアル」とか「狂気」は描けないのだ。その描写はよく思いついたなあ、とか、おお、よくできてるじゃん、とか、むしろ不謹慎な感想を抱いてしまう。だからネットにあるような「トラウマになりそうな…」といった感想はなかった。
 エピローグの、日本家屋の静謐と戦場の落差はすごかったが、そこでのトラウマは、やはり見たことのあるような場面に感じた。同時に、それもまた過剰だと感じた。あれが毎晩のことなら日常への復帰はできていないというべきだ。
 だからそれは、それができている人のリアルではない。

 映画から受ける感銘より、むしろ公式HPのメイキングの方が面白かった。困難の克服というありふれたドラマツルギーが、ちゃんと読む者を面白がらせてくれる。
 同時にこの映画を応援したいという感情も高まる。
 恐らく、「戦争」について考える時、折に触れ思い出して、ゆっくりと血肉化していけばいいのだろう。それが擬似的であれ、徐々に体験として定着しくように。

2017年9月17日日曜日

『人狼ゲーム -クレイジー・フォックス』-根本的なジレンマ

 『人狼ゲーム』シリーズは、どうも2作目の『ビースト・サイド』の評判が高いらしいのだが、行きつけのTSUTAYAになく、3作目の『クレイジー・フォックス』を借りてきた。
 『ファイナル・ディスティネーション』シリーズと同じく、観始めることに対するハードルが低いから、借りてきた数枚のうち、どうも先に観てしまう。

 さて1作目の『人狼ゲーム』はなかなか悪くなかった。それに比べるとこの3作目はまるで食い足りない出来だった。サスペンスにしろ頭脳戦にしろ、人間ドラマにしろ、全体に薄味。無名新人俳優たちの演技は総じて悪くなかったから、そのあたりの演出はいいのだが、やはり脚本の工夫が足りない。
 最もサスペンスを盛り上げるはずの、「誰が3人目の人狼なのか」という謎も、当の「人狼」がシルエットで登場して、別の人物に「お前かよ」と言わせておいて、さてそこから引っ張るのかと思ったら、すぐあとのシーンで正体を明かしてしまう。
 「人狼ゲーム」自体の経験は相変わらずないので、どのあたりが実際のゲームの勘所なのかはわからない。しかもそれを現実世界に移植した場合におこる変数の高次元化を、どこまで論理的に整合させているかは、正直頭が追いつけない。
 だが『サクラダリセット』がやっているようには緻密な論理構成をしていなさそうなのはわかる。
 例えば、各自がカードを見るときに「他人に見せても知らせてもいけない」というルールがあったって、現実に同じ部屋で一斉に見たら、横から見えてしまったり、思わず口に出したりしてしまうとかいう事態が当然起こるはずだ。それが起きないことになっている。それを防ぐ手だてが主催者側から図られているという説明もない。
 あるいは夜、人狼が村人を殺しに行く時には大騒ぎをしているのだから、当然みんなに正体が知れてしまうはずなのだが、それもないことになっている。人狼が村人を殺すったって、ゲームとして「殺した」ことになっているというのと違って実際に人狼女子が村人男子を殺すことができるものか。それを可能にする設定をしないのはやはり物語の手抜きだ。

 ゲームとしての「人狼ゲーム」は、参加者が進んで参加しているから、メンバーはルールを把握したうえで、ルールを守ろうという動機付けが強く、しかも架空の設定で展開してるのだからルールも守りやすい。
 ところが映画ではルールも知らないメンバーが、進んで参加しているわけでもない、現実の空間で展開するゲームだから、ルールの破綻は容易いはずだ。それなのに、それは起こらないことになっている。つまりゲームのルールを現実に適用するためのハードルが考慮されていないのだ。
 これがこの映画(原作も含めて)の根本的なジレンマだ。ゲームが現実に起こったとすると、そこに参加した人間にとってそれがどれほど過酷なものになるか、というのがドラマの動因になるはずなのに、それを現実的に引き起こすために解決しなければならない問題を無いことにしているから、結局、肝心のゲームを、いかにも作り物の「ゲーム」としてしか展開させられていないのである。
 そうしたジレンマを本気で解消しようというほどの意志は、この制作者たちにはないのだった。1作目について書いた時の期待は、結局かなえられず、それでも「期待」を抱けた1作目に比べて、失望に終わった本作にはがっかりせざるをえないのだった。

『少年たちは花火を横から見たかった』-思い出のように

 この間『打ち上げ花火 下から見るか? 横から見るか?』を観に行った晩、怒りのあまり、一緒に観に行った娘と、家で原作の岩井俊二版『打ち上げ花火~」を観たのだった。ずいぶん久しぶりだったが、あらためて良い映画だと思えた。会話のテンポは、子役たちの演技のせいでもあるが、編集のせいでもある。あらためてアニメ版の編集の下手さが実感されたのだった。

 その後で、十数年前に一度見たきりの『少年たちは花火を横から見たかった』を見直したくなって、レンタルしてきた。
 撮影から6年余り経って、20歳直前の山崎裕太と奥菜恵が、ロケ地を訪れて当時の撮影を振り返るドキュメンタリー。プロデューサーや岩井俊二自身のインタビューもあわせて、『打ち上げ花火~』がどんなふうに作られたのかがわかるのは興味深い。
 とりわけ、先日はからずも「奇跡のような」と形容した、あのプールのシーンが、本当に奇跡のように出来上がったのだと知らされるくだりは感動的だった。
 そして、出演者たちも言うとおり、「あの夏」が、何か実際に体験した思い出のように感じられる、というのが『打ち上げ花火~』という映画の感触なのだと、あらためて胸におちたのだった。
 そうしたあの映画の魅力をあれほどまでに否定してしまったアニメ版の罪は、繰り返して言うが、重い。

2017年9月14日木曜日

『デッドコースター』-気楽に観られる

 『Final Destination』は、古くは『猿の惑星』『トレマーズ』、もうちょっと後では『Saw』『Scream』『Cube』などのようにシリーズで好きな映画の一つ。
 とにかく気楽に観られる。録画したものの、ちょっと気合いがいる、というような映画がHDにどんどんたまってしまうようになりがちなところ、こういうのは録ってすぐに消費できる。
 さて、どれがどれやらもちろんわからなくなっているし、観れば見覚えはあるのだが、先がどうなるかを思い出せるわけでもなく、2度にわたるどんでん返しは、やっぱりよくできているなあと感心したのだった。

『サクラダリセット』-まっすぐでまっとうでまえむきな

 映画版ではない。原作小説も未読。
 思いがけず2クールにわたって深夜放送されたアニメ版『サクラダリセット』が終わった。1話目を見た時に、なんだか会話の面白い話だ、というのと、ぼーっと見てると話がわからなくなるな、というのと、でもアニメ的には随分質の低い作品だ、という感想で、事前知識はなかったから、その後どうするか決めかねていた。
 4話目くらいで、これはすごいかもと思い始めたのは、科白だ。
 思いもかけない、まっすぐでまっとうでまえむきで、かつ知的な科白が、陳腐で恥ずかしいと思うより感動的でさえあり、これはいいかもと思って見続けるつもりになったのだが、諸事情あって何話か録り損ねて、ただでさえわかりにくい話が、いっそう追っかけにくくなった。
 それでも後半の2クール目の方は、数話まとめて観るようにして、話を追えるように心がけた。そうして最後まで観た時には、ここ数年でも出色の物語体験だと言える評価となった。

 アニメーションとしては最後まで、あまりに凡庸な、まるで褒めるところのない量産深夜アニメレベルを脱しなかった。まあそれでも、やたらと可愛い女の子が出てきたり、竜や騎士や剣が出てくる異世界ファンタジーだったりしないだけ、うんざりはしなかった。ただひたすらに面白みのない真面目なアニメだった。
 だが花澤香菜と悠木碧の演技の見事さを思えば、これがアニメ化されたことに充分な価値があると思わざるをえない。たぶんこの先、原作小説を読んでも、この二人の声でしか読めない。そしてそれが十分に情感を盛り上げるだろうと思われる。

 そしてなんといっても、たぶん原作のすばらしさだ(もちろんそれを損なわなかった高山カツヒコの構成も賞賛したい)。未読だから「たぶん」なのだが、つまりは物語の見事さだ。
 複雑にからみあった論理の構築は、三原順を思わせる。三原順とは我ながら、いささか唐突な連想だとは思うが、筆者にとって、複雑な構築物としての物語についての評価の基準は三原順なのだ。
 ただでさえメインの時間が巻き戻るから、今見ている物語世界がいつで、「その時点では誰が何を知っているか」についての認識が、登場人物と観客の間でずれていて、物語を追う意識が混乱する。
 その上で十分に頭の良い3人の登場人物の思惑が、互いに相手を上回ろうと策略をめぐらす。それは相手も十分読んでいるだろうから、その上を行こうとすれば…と、まるで将棋や囲碁の対戦のような複雑な論理の絡み合いになる。しかも三つ巴で。
 寝る前のひとときに、眠りそうな頭で見るものではない。たちまち論理についていけなくなる。だがそれだけのレベルの論理であることはわかるところに驚嘆しつつ嬉しくなる。
 そして、最初のひっかかりであるところの、主人公をはじめとする登場人物たちの、まっすぐでまっとうでまえむきなこころざしが、最後まで物語を、すがすがしくも切なく感じさせた。
 実に驚嘆すべき物語だった。

2017年8月27日日曜日

『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』-制作者たちの罪は重い

 あるとき突然、テレビから「Forever Friend」が流れてきて、何事かと思ったら『打ち上げ花火 下から見るか? 横から見るか?』がアニメ化されるという。しかもシャフトで、新保が総監督となれば『物語』シリーズだ。「まどマギ」にはまるでノれなかったが、ある程度の品質は期待していいだろうと、映画館に観に行くことにした。

 で、見始めこそ、そのアニメーションの品質にワクワクしたが、見続けていると、あれっ、という感じになった。観ていて、映画の先行きにちっともワクワクしてこない。話はわかっていて、先の展開が知りたいということではないから、その先に起こるであろう感情の揺れを追体験することに対する期待があってもよさそうなのに、そうならない。今、特に感情が揺れていないからだ。
 どうも会話のテンポがタルい。キャラクターに魅力がない。
 不満は後半にいくにつれ、どんどん増大していった。そして最後まで、その不満を解消するに足るプラス要素がないまま映画は終わった。
 いったいこの人たちは何を考えているのだろう。脚本家も監督もプロデューサーも。
 がっかりというより、はっきりと怒りさえ覚えたのは、もちろん原作を知っているからだ。
 少なくとも期待していたアニメーションの魅力も、テレビの情報番組の紹介で観た、花火のCGの平板さに不安を感じていたとおり、後へ行くほどがっかりだった。
 「まどマギ」の異空間も、その場面が現れる度、違和感で冷めたものだが、この映画でも、例えば題名の「打ち上げ花火」がとてつもなくチャチい。いきなり映画の中の空間と別な層でCGの花火が画面いっぱいに重なる。しかもそれが特に綺麗だと感じられるような作りになっているわけでもなく、ただ機械的で平板なCGが作品のリアリズムを台無しにするのだ。
 あるいは人間を描くことについても、リアリズムはまるで保障されない。なずなの母の再婚相手が、ホームで典道を殴り倒す。体の小さな中学生がホームに倒れているのに、それに一顧だにせずに立ち去る大人がいるものか。こんなふうに、いるはずもない記号的「ひどい大人」を描かないと典道の試練が描けないと考えてしまう制作者たちが、まともなドラマを描けるわけがない。

 原作のある作品をどう別メディア作品として再話するか。原作に愛着のある人に不満を感じさせない再話をすることは、もちろん難しい。それはほとんど成功しない。その作品の魅力が、そのメディアの特性によっているならば、そもそも再話が成功するはずはない。
 それにしても、だ。それが、創作というものに対する志に何ら関係のない商売であるならば、動機はわかる。どういう見通しであれ、話題になってしまえば商品価値は見込める。メディアミックスは宣伝と販売、回収がセットになった効率的な戦略だ。
 だが、何かしらそれが作品として意味あるものになるはずだと考えるならば、そのメディアによってのみ生まれる魅力を、その原作に付け加えることを意図しないで、なぜ再話などするのか。
 せめて魅力が加わらなくても、改悪をすることはなかろう、といつも思う。どうして「そこ」を変えるのか。それは元の作品の魅力のなにがしかを支えている要素ではないのか。あるいはあらたな魅力を付け加えるべく、企図されているのか。
 残念ながらこのアニメ化にあたって、原作から変更された要素に、成功しているものはほとんど見あたらなかった。
 わずかに、坂の多い銚子の街並みの古めかしい佇まいと、そこに不自然に存在する近未来的校舎の違和感が、世界観として面白かったが、それ以上にそれが何か作品全体の魅力につながっているという感じはしなかった。
 それ以外には失敗している改変ばかりなのだが、とりわけ許せない点を三つ。

 主人公たちを中学生にすることの意味をどう考えるか。
 原作の小学生ではできない恋愛要素を盛り込める、それはそうだろう。だがそのことで失われてしまうものをどう考えるのか。
 原作は、もちろん友達連中もそうだが、なんといっても山崎裕太と奥菜恵の、あの歳の魅力失くしては成立しない。
 いつもふてくされたように生意気に喋る山崎裕太の典道は、先に大人っぽく振る舞うことを覚えた女の子に振り回されても、結局はカラッとしていられる。
 そもそも女の子との絡みにドキドキしてはいるものの、はっきりとそれが恋愛であるような描き方はされていない。二人が最初のうち、好きあっていたのかどうかも怪しい。最後だって、どうみても「恋人」のように描かれてはいない。
 だがそれがいいのだ。そのイノセンスと、微かに垣間見える大人の世界とのバランスが切ないのだ。
 それが中学生として描かれると、すっかり台無しなのだった。主人公はとたんにウジウジと思い悩む少年に見えてきて、鬱陶しいことこのうえない。この感じは「碇シンジ」だ。またしても。ウンザリ。
 そのわりに菅田将暉の声は低くて、あの声であまりに子供っぽい中学生を演じられると、違和感ばかりが甚だしくて、気持ち悪かった。下手だというわけではなく、単なるミスキャスト。といって、声の合うキャストで中学生らしく見えても、キャラクター造形が鬱陶しいのにかわりはないが。
 一方の広瀬すずは悪くないが、中学生のなずなは、やたらと謎めいた前半に比べて、後半の子供っぽさが違和感ありすぎる。小学生には許せるものが、中学生には許せない。
 奥菜恵のなずなは、最初から本心が読めないのを「謎めいている」といえばそうだが、それも所詮小学生の背伸びに見えるし、だから母親に引き戻されるところで泣いたって構わない。そして後半は、あの、典道をおいてけぼりにして「かけおち」なんかなかったことにしてしまう呆気にとられる展開にしても、過剰にウェットになりそうな予感を軽やかに裏切って典道を翻弄する。恐ろしく魅力的なキャラクターになっていた。 

 観ながら、あ、これは駄目だ、と思ったのは(そういうのは何か所もあるのだが)列車の中でなずなが「瑠璃色の地球」を歌うシーン。
 広瀬すずは思いのほか良い声で、悪くない、と一瞬思ったのも束の間、伴奏が入り始める。あれよという間にディズニーランドもどきの(これもまたチャチな)CGのファンタジー空間が現れる。主人公が空中を飛ぶ車に乗る。オーケストラをバックに「瑠璃色の地球」が歌い上げられる。
 この映画は、こんなふうにして、印象的になりそうなシーンを台無しにしてしまう。夜の列車の中でアカペラの歌を聴くというシチュエーションにこそ価値があるのに、それをわけのわからないミュージカルにしてしまう。
 『La La Land』も、冒頭のハイウェイの場面が素晴らしいのは、それが現実のハイウェイ(らしく見える)空間で繰り広げられていたからで、天文台のシーンは妙なファンタジー空間に入ってしまってがっかりした。
 それでも、実写映画でそれをすることの意味はある。生身の人間が、現実に存在するどこかのロケ地かスタジオで撮影しているのだ。そこからファンタジー空間へ移行することには、相応の意志を認めることができる。
 大根仁でいえば『モテキ』だ。あれも実写映画であればこそだ。街中がそのままミュージカルの舞台に接続してしまう眩暈のような感覚に価値があったのだ。
 だがアニメーションは、そもそも現実の空間を撮影してはいない。リアリティを感じさせる方に労力が向かうべきところに、それを全く放棄したかのようなファンタジー空間に移行したからといってどんな異化効果があるというのか。
 そうではないはずだ。夜の列車内の、二人しか乗っていない車両で、これから東京へ「かけおち」しようとしている少女が歌い、引きまわされる少年が、わけのわからないままそれを聞くことになる時間の魅力こそ描くべきではないのか。歌の最中は、様々な現実的(車内の、車窓外の、あるいはそれぞれの登場人物たちの)カットバックがコラージュされるべきではないのか。
 アニメだからこそ安易にできるファンタジー描写が、ドラマを根こそぎにしてしまう逆効果をどうして自覚しないのか。

 もう一つ。上の不満とも通ずるのだが、全体として、SFともいえないファンタジー要素を入れることの意味をどう考えるか。
 原作では、ストーリーが分岐するパラレル・ワールド設定的な枠組みがあるものの、それぞれのストーリー内にファンタジー要素はない。非現実的なことは起こらないという枠組みで描かれている。
 一方、映画版ではパラレル・ワールドではなく、タイム・リープによる時間の巻き戻しだ。ただし、記憶は保持されていて、主人公たちは意識的に選択のやり直しをする。
 タイム・リープ要素を取り入れるのはいい。だがそこに灯台のレンズを思わせるあの不思議な玉を導入すると、上記の花火の描写の薄っぺらさにも通ずるCG合成の違和感が甚だしくて、まず萎える。
 だが問題は、繰り返されるうちに世界が非現実的な異世界になっていくことに、何か良くなるような要素があるのか、という点だ。
 タイム・リープ設定が非現実的であることは構わない。だがそこで繰り返される物語が、『オール・ユー・ニード・イズ・キル』や『シュタインズ・ゲート』のように、物語の可能性の展開として示されるのならいいのだが、この作品では、奥行きが増すような(たとえばそこで二人の絆が強まっていくような)感触ではなく、ただひたすらに拡散して、薄くなっていくような印象しかないのだ。
 タイム・リープは典道にとって、諦めないことの意思表示のはずだ。うまくいかなかったある場面を、創意工夫と意志の力で乗り越えていく試練の連続があのタイム・リープ設定の可能性ではないのか。
 それが、繰り返されるうちにわけのわからないファンタジー世界に迷い込んでいったのでは、どんな創意工夫のしようがあるのか。ただ翻弄されていくばかりだ。「成長」の要素を敢えて描かないことも、制作者の意図だというつもりなのか。
 そしてこれも灯台のレンズのイメージを応用したものか、最後の世界の空の描写はいったい何だ? 何かすごいものを見せられたというような映像的な美しさがあるわけでも、世界観があるわけでもなく、ただそんな風に描かれることの意味がわからない、という当惑だけがある。にもかかわらず、それは、わざわざそうしているのだ。原作を改変して。
 そして原作の、あの奇跡のような夜のプールの場面を、わざわざ海に置き換えて、まるでそこに何の魅力も見いだせないような場面として描きながら、極めつけは例の「今度はどんな世界で会えるかな」だ。
 原作の「今度会えるの、二学期だね」は、二学期には転校して会えないことを知っているなずなが、そのことをまだ知らない典道に言う科白だ。この切なさが、夏休みという、終わることを約束された、限界を持った掛けがえのない時空間の愛おしさとともに胸に迫るのがこの科白なのだ。それを作品から消し去ってしまうことの意味を、脚本家も監督も、いったいどう考えているのか。
 制作者たちの罪は重い。

2017年8月25日金曜日

この1年の映画 -3年目

 ブログ開設3年目は、転勤で忙しくなったというような理由もないではないが、なによりブログの記事を書くことが負担になって、次の映画を観られないというような悪循環が続いた。どれもこれも、観てから記事を書いてアップするまでに2週間くらい経っているものばかり。観た日とアップの日付もズレまくっている。

 さて、この1年で観たのは次の50本。
 初年度は75本2年目は60本だから、さらにペースダウン。

『ゼロ・グラビティ』 -サスペンスを阻害するもの
『オブリビオン』 -どこかで見たSF映画
『ある子供』 -何が欠けているのか
『セッション』 -とにかく上手い
『エバー・アフター』 -「シンデレラ」のアナザー・ストーリー
『セルラー』 -巻き込まれ型サスペンスの佳品
『大脱出』 -考えるのが億劫な
『ヒット・パレード』 -多幸感に満ちた世界
『レクイエム』 -ヴァン・ダム映画として充分、でも残念
『日本のいちばん長い日』 -重厚な画面に歴史の断片が現前する
『ER~救急救命室』 -映画作りの層の厚さ
『首吊り気球』 -奇想の現前は遥か
『ツイスター』 -悪くはない娯楽作品ではあるが
『グラスハウス』 -質の低いサスペンス
『アパートの鍵貸します』 -すごいのに楽しめない
『オール・ユー・ニード・イズ・キル』 -文句のない娯楽作
『人造人間13号』 -軽く、軽く、ゾンビ物を
『バイオハザードⅣ アフターライフ』
『バイオハザードⅤ リトリビューション』 -不全感の残る大作化
『アメリカン・ビューティー』 -病んだアメリカへの寛容
『君の名は』 -IMAXの力か
『ドント・ブリーズ』 -満腹のホラー映画
『シカゴ』 -ミュージカル仕様
『この世界の片隅に』 -能年玲奈のすごさ 価値あるアニメ化
『スティーブ・ジョブズ』 ー狂気と演説
『ハーモニー』 ーアニメが不自然を描く困難
『ジャッカルの日』 -淡泊で緊迫のクライム・サスペンス
『LIFE!』 -つぐづく幸せな気分になれる映画
『アクロイド殺し』 -映画における叙述トリック
『モンスターズ/地球外生命体』 -愛しい怪獣映画の佳作
『クローバー・フィールド』 -完成度の高い怪獣映画
『グエムル』 -奇妙なバランスの傑作怪獣映画
『天国の日々』 -寡黙なドラマ、雄弁な風景
『龍の歯医者』 -初舞城王太郎は
『La La Land』 -圧倒的な演出力
『告白』 -精緻に組み上げられたミステリー映画
『パーティクル・フィーバー』 -楽しくもドラマチックな科学ドキュメンタリー
『パーフェックト・ストレンジャー』 -面白さの想定が空振りしている
『天国と地獄』 -犯罪捜査の過程はマル
『アフター・アース』 -作られる必然性がわからない
『ある日どこかで』 -ロマンチックなタイムトラベルものだが
『コラテラル』 -展開のスピード感と余韻
『あの頃ペニー・レインと』 -隅から隅まで良い
『心が叫びたがってるんだ』 -あんな逃避に納得できるのか?
『ジュラシック・ワールド』 -テレビで見たんじゃなぁ…
『ザ・ドア 交差する世界』 -拾い物のドイツ映画
『クライムダウン』 -山岳風景の美しいサスペンス映画
『羊たちの沈黙』-「アメリカ的」なもの
『アルゴ』 -過不足ない娯楽作
『めぐりあう時間たち』-いずれ観直して

 『ER』『アクロイド殺し』『龍の歯医者』はそれぞれテレビ用に作られたもので、劇場公開作品ではないが、それも含めてようやく50本か。
 そういえば独立した記事として書いてないが『博士の愛した数式』を見直して、あらためてそのひどさに呆れたりもしたんだっけ。

 例によってベスト10を選ぼう。

『セッション』 -とにかく上手い
『オール・ユー・ニード・イズ・キル』 -文句のない娯楽作
『アメリカン・ビューティー』 -病んだアメリカへの寛容
『ドント・ブリーズ』 -満腹のホラー映画
『この世界の片隅に』 -能年玲奈のすごさ 価値あるアニメ化
『LIFE!』 -つぐづく幸せな気分になれる映画
『La La Land』 -圧倒的な演出力
『告白』 -精緻に組み上げられたミステリー映画
『コラテラル』 -展開のスピード感と余韻
『あの頃ペニー・レインと』 -隅から隅まで良い

 このうち3本は映画館で観たもの。1年目の最初の『マレフィセント』以来、2年目までは映画館に行っていなかったのだが、2年半ぶりの『君の名は』からこっち、この先はぼちぼち映画館での鑑賞も復活かもしれない。
 さて、上記は観た順で、評価順ではない。どれか突出しているかと見直しても、ベスト1は選べない。
 『オール・ユー・ニード・イズ・キル』『ドント・ブリーズ』のサスペンスも、『LIFE!』『La La Land』『あの頃ペニー・レインと』の多幸感と切なさも、『セッション』『アメリカン・ビューティー』『告白』『コラテラル』の上手さも大いに満足だが、もろもろの思い入れも含めると、この1年間では『この世界の片隅に』の年、と考えるのが良いのかもしれない。
 以下はベスト20で、上記と迷った作品。

『ゼロ・グラビティ』 -サスペンスを阻害するもの
『ヒット・パレード』 -多幸感に満ちた世界
『日本のいちばん長い日』 -重厚な画面に歴史の断片が現前する
『君の名は』 -IMAXの力か
『ジャッカルの日』 -淡泊で緊迫のクライム・サスペンス
『モンスターズ/地球外生命体』 -愛しい怪獣映画の佳作
『天国の日々』 -寡黙なドラマ、雄弁な風景
『天国と地獄』 -犯罪捜査の過程は丸
『アルゴ』 -過不足ない娯楽作
『めぐりあう時間たち』-いずれ観直して

 名作の評価の高いものが多くて、それぞれさすがではある。あとはこちらとの相性。
 それぞれ、多幸感では『ヒット・パレード』より『LIFE!』『La La Land』『あの頃ペニー・レインと』だとか、上手さでは『ジャッカルの日』『天国と地獄』よりも『セッション』や『コラテラル』だったのだ。

2017年8月17日木曜日

『めぐりあう時間たち』-いずれ観直して

 『時間(原題「The Hours)』では題名として素っ気なさ過ぎるのはわかる。だからといってそれだけでは意味不明な邦題でもある。
 時代の異なった三つの物語が並行して描かれながら時折それらの関連が示される。関連があるから「めぐりあう」なのか。だが、そもそも「時間」がテーマになっているというのが、どうも腑に落ちない。
 だがとりわけ、三つの物語が提示される映画の冒頭の朝の場面で、三つのそれぞれの場面を連続するようにカットインする編集はうまかった。一つの物語の主人公が顔を洗って、顔を上げると鏡に映るのは別の物語の主人公。ある物語でテーブルに置かれた花瓶が、同じ画角で別の花瓶に重なったと思うと別の物語に入れ替わっている。
 さてこうした編集も、そもそもおそらく原作がそうなのだろうが、複数の物語を関連させて描くという手法に何の意味があるのか。それを採用しさえすればもう物語の成功は約束されているのか。そうであるようにも思う。「タイムマシン物(タイムトラベル・タイムリープ・パラレルワールド…)」が、それだけである一定の魅力を約束されるように。
 だがでは、どれか一つの物語ではいけないのか。それぞれの物語の、ドラマとしての強度は充分であるようにも感じられる。そしてそれぞれの物語が互いを照らし合うことで別な意味を帯びてくるような仕掛けがしてあるようにも思われない。例えば、1951年編のあの人物が2001年編のあの人物なのかとわかる瞬間の驚きはあるが、それで物語がどんなふうに読み直されるのか。考えなければ、にわかにはその効果がわかるようにはなっていない。
 ならばこの「手法」はたんに「ためにする」手法でしかないのではないか。
 それでもこうした手法が採用されていることによる魅力はいかんともしがたく、ある。一言で言えば物語が重層的に感じられる、ということだ。
 創作物が「よくできている」というのは、それだけである種の満足を見る者に与えてくれる。複雑さと拡がりの感触。
 だがそれだけなのか。『クラウド・アトラス』では、その複数の物語の重層が、何か複雑な干渉を見せそうな感触があって、途中に強い期待感を感じさせて、結局最後までその期待が満たされずに終わった。
 もちろんSFではない『めぐりあう』はそんなふうに物語同士が干渉しなくてもいい。途中で、そうか、それぞれのヒロインの苦悩に共通性があるということなのだなと気づくくらいで、この構成についてのある程度の納得はある。
 だが、どれか一つの物語で完結するという可能性は、その物語の価値を下げるのだろうか。そうかもしれない。どれか一つでも十分な強度をもつそれら3編の物語は、しかし『めぐりあう』ほどの特別さをもたないかもしれない。
 それがなぜなのかは、いずれ観直して再考しよう。とりあえず感情を揺さぶられたことは間違いない。

2017年8月13日日曜日

『アルゴ』 -過不足ない娯楽作

 『羊たち』に続いてアカデミー賞受賞作。
 だがこちらはそういう評価に違和感はない。まあこんなに臆面もない「映画」讃歌に最高の賞を進呈してしまうところに、映画界の身内びいきを見るようで恥ずかしい気もするのだが。
 それでも面白いことにはまったく異論はない。隅々までよくできていた。サスペンスは充分だし、成功のカタルシスは申し分ないし、台詞は粋だし、ペーソスも感じられる。主人公のベン・アフレックのかっこよさには惚れ惚れするし、登場人物たちがそれぞれの役割において輝く瞬間をきちんと描けているところもいい(アカデミー助演男優賞ノミネートのアラン・アーキン演ずる老映画プロデューサーの、気骨と矜恃と辣腕と少々の落魄はやはり味わい深かったが、個人的には台詞も「活躍」もほとんどない義勇の人、カナダ大使ケン・テイラー役のヴィクター・ガーバーの顔が実に良かった)。全体として、アイデアの密度が濃いという感触が、鑑賞後の満足感を与えてくれる。
 大いに満足して、でも何か大きな感動がないことにもいささかの不満足を感ずる。
 たぶんこれは個人的な問題だ。こちらの準備状況であり、相性の問題なのだ。

2017年8月12日土曜日

『羊たちの沈黙』-「アメリカ的」なもの

「アカデミー賞特集」みたいな放送で録画。
 3回目くらいになるか。
 以前の印象では、とにかく面白い映画であることは間違いないが、どうしてアカデミー賞を受賞するような評価のされ方をしているのかが腑に落ちないでいた。確かにレクター博士のキャラクターは強烈ではある。それでも、それがアカデミー賞などというはれやかな賞の評価にふさわしいという感じがわからなかった。
 今回、久しぶりに観て、やはりレクター博士の脱獄についてのシークエンスと、主人公クラリスが犯人バッファロー・ビルの家に入るシークエンスのサスペンスはさすがだった。どちらも観客の想像を誘導しておいてどんでん返ししてみせるという手法が冴えていた。
 とりわけ後者で、FBIが犯人の家に踏み込む過程と、クラリスが捜査のために関係者の家を訪れる過程と、犯人が家にいる過程を並行して描いておいて、どれとどれがどう接続するかという読者の想像がひっくり返る瞬間はお見事である。
 だがこのアイデアが空前絶後だというわけではなかろう。例を挙げられるわけではないが、他には見たことがないという印象でもない(乙一が小説では時折やっているが、それはむしろこの映画の影響かもしれない)。
 というより、こうした映画的うまさがアカデミー賞の評価の対象となるというのがどうもピンとこない。
 ではどういうのがアカデミー賞の評価になるのかといえばそれはそれで確からしい定見があるわけでもない。だがいつも作品賞を獲る作品には、何かしら「アメリカ的なもの」がそこに感じられるようにも思う。それはアメリカ的な幸せだったりアメリカ的な誇りだったりアメリカ的なトラウマだったり。さてでは『羊たちの沈黙』ではどこがそうなんだろう。
 やはりレクター博士とクラリス捜査官なんだろうか。主演男優/女優賞を独占したアンソニー・ホプキンスとジョディ・フォスターには納得だが、そうした演技の賜物というだけでなく、そもそも精神分析医が怪物であるという設定と、正義感の底に強迫観念があるという設定が。
 どちらにもキリスト教を背景にした文化的な刻印であるような感じもして、それに感応しない日本の観客には、この作品はやはり、よくできた面白いサスペンス映画でしかないのかもしれない。

2017年8月11日金曜日

『クライムダウン』 -山岳風景の美しいサスペンス映画

 題名は「下山」くらいの意味なんだろうが、これがまたしても邦題。原題は「A Lonely Place to Die」というのだが、そのままでいいじゃん。サスペンス映画であることはその方がわかるのに。
 さてまたしても「拾い物」狙いなのだが、これは良かった。
 登山パーティーが、山中に生き埋めにされている少女を発見して保護すると、謎の暗殺者に襲われて一人ずつ殺されていく。
 冒頭から前半部全体に、山岳や渓谷の風景が恐ろしく良く撮れてる。ふんだんな空撮はドローン撮影で安価になったからか、低予算映画にスケール感を与えつつ、山岳の高低差を感じさせて、既にサスペンスフル。森の中も、木々の与える遠近感がいちいち絵画のようだ。
 もちろんそれだけではなく、本筋のサスペンスの方も申し分ない。とりわけ撮影が。
 崖の途中で、上から下りてくる仲間を待っていると、ロープを何者かに切られて落下する仲間が、主人公の近くを落ちていくのを同一フレームに入れる場面とか、襲撃者から逃げる副主人公が山の斜面を転げ落ちるのを複数カットをつないだ編集で見せる場面とか、映画として実に芸のある撮り方をしていると思う。
 イギリス映画というのは、ハリウッド映画とヨーロッパ映画の中間的な味わいが「ちゃんと」ある。不思議なものだ。

 もちろんネット上の評判のように難もある。どういう設定かわからないから、ホラーなのかスリラーなのかと思ってみていると、思いのほか襲撃者が姿を現すのが早いように思えてちょっとがっかりする。一応それでも、いったんは「これが襲撃者たち?」と思わせておいたのが単なる密猟者で、それらをあっさり殺すのが本編にかかわる襲撃者たち、というような捻り方をするのだが。
 あるいは山で話を完結させればいいのに、半ば過ぎで麓の村に下りてしまって後は街中の追いかけっこになる。そこからは新味がなくなるのはいかんともしがたく、山で話を終えなかった脚本の構成が惜しまれる。山ならば主人公に、そうしたアドバンテージを与えて、それゆえの逆転劇を描けたのに。
 とまれ、先の展開を読ませないストーリーテリングは十分にサスペンスフルだった。ええっ! ここで仲間を殺しちゃうの? といった唐突さも、もったいないとはいえ、下手にべたべたしないところにスピード感もあって。

 主人公のメリッサ・ジョージという女優は、よく動くし演ずるし、良い女優だなあと思っていると、あれっ、思い入れ深い『トライアングル』の主演女優なのだった。ここでも思いがけない佳品に出ているか。

2017年8月10日木曜日

『ザ・ドア 交差する世界』 -拾い物のドイツ映画

 ドイツ映画だというので、例によってヨーロッパ映画の画面、空気感だ。画面の暗さも、適度なざらつきも、良い。こういうのを時々見たくなる。
 「午後のロードショー」枠で見るにふさわしい、大作、名作というわけではない、だが安っぽいというわけではない、まとまりのある、映画的小宇宙を体現した映画。「拾い物」というのは、こういう風に「午後のロードショー」とか深夜枠で偶然見るからいいのだ。期待値が低くて。
 5年前に戻れる洞窟のようなトンネルのような(「ドア」じゃないじゃん、という突っ込みは当然ある)暗い通路を通って、子供を事故で失くしていない5年前の世界に行った男の話。SFといえばSFにありがちなタイム・リープ物だが科学的な説明はまるでない。タイムパラドックスについて言及する気もなさそうだから、パラレル・ワールド設定なのだろう。
 だが、そういうものがあったとするとどんなことが起こるかについては、それなりに考えて、物語に組み込んでおり、よくできた脚本だと言える。終盤の、トンネルを通過した未来人たちが実は結構いるという展開がもたらすカタストロフも、苦いギリギリの悲劇を避けえたエンディングも、「拾い物」としての評価を十分に与えて良い。

2017年8月6日日曜日

『ジュラシック・ワールド』 -テレビで見たんじゃなぁ…

 もしかして、ものすごくよくできたエンターテイメントを見せてくれるんじゃないかと思って、テレビ放送で。
 だがやはりテレビではそれほど期待度の高くない予想の範囲内だった。映画館で、3Dでも4Dでもやってくれれば大いに昂揚するのかもしれないが。
 まあそつのない展開で、悪くないエンターテイメントではあった。が、映画的画の面白さが優先してリアリティという面では白けてしまうような展開があちこちにあって、どうもノリ切れなかった。
 たとえばクライマックスで、さあいよいよアイツの登場だぁ! というところで檻の前に主人公が立つのはダメだろ。それが映画的なサスペンスだというのはわかるが、そうなってしまった、ではなく、敢えてそうするとなるとどうにもリアリティが希薄になってしまって。

2017年8月4日金曜日

『心が叫びたがってるんだ』 -あんな逃避に納得できるのか?

 長井龍雪は「とらドラ!」「あの花」「あの夏」と見てきて、クオリティは知っているが、岡田麻里の脚本とのコンビも含めて、熱狂的に観たいという気になるわけでもなく、でも追っかけようかとは思っているという程度には評価している。
 だがこれはさすがに劇場映画で、アニメーションはどこもかしこもクオリティが高かった。原画のレベルも、動きも。
 そしてあちこちにちゃんと感動ポイントはあって、おおっ、なるほど泣かせる、とは思ったものの、全体としてはそれほど感心しなかった。
 考えてみるとこれも期待値が高いためにハードルが上がってしまったパターンで、しかもどうやら無意識に『聲の形』と混同していたのだった。あちらは声に出して意思を伝えられないことの深刻さが、機能的な条件として厳然としてある。『心が』の「喋れない」も、それと同種の身を切られるような痛みとして描かれるのかと思っていた。
 だが映画が進んでもそのようには感じない。
 そもそも幼児期の、声が出せなくなる最初のシーンが、幻想の玉子王子との会話、という形で描かれているところで、もう大いなる違和感を感じてしまって、あ、これはダメだ、と思ってしまった。
 狙いはわかる。喋れなくなる呪縛が玉子王子の宣言という形をとるのは、アニメーション的な表現としてはアリだと思ったのだろう。だが軽すぎる。思いが口に出せないことの苦しみが、肉体的な痛みとして感じられてこないのだ。
 その思いが、ある時に呪縛を断ち切って溢れ出すのが、題名が示す物語の方向なのだろうと、見る前から予想はつく。だがその呪縛を、こんなキャラクターの形で表現したのは結局のところ失敗だったと思う。主人公が言いたいと感じた時に、玉子が禁止をするといった形で描かれて、それが口に出せずに身悶えするような肉体的な表現として描かれないところが、結局のところ単なる逃避なのではないかと感じられてしまう。
 腹痛が「肉体的」?
 だがこれも「逃避」の代償に過ぎず、結局言い訳のように感じられてしまった。

 そうした不満が決定的に表れるのは、主人公が演劇発表の当日に逃避してしまうという展開で、ここに至っては本当に脱力するような失望だった。
 そんな身勝手がどうして観客の共感を得られると思っているんだ、岡田麿里は。どうしてそのまま作品にしていいと思えているんだ、長井龍雪は。
 言葉が他人(ひと)を傷つける、という、喋れなくなるそもそもの原因となる状況が描かれているわけではなく、単に失恋をしただけで逃げ出しているのだ。「他人を」ではなく自分が傷ついているだけだ。しかも表現することによって、ではない。「口に出さなくても言葉が体から溢れている」というようなとってつけたような説明があるのだが、じゃあやはり声に出しているわけじゃないじゃん、と思ってしまってまったく説得力はない。だから結局、逃避以外には感じられない。
 しかも納得できないのは、それがクラスメイトに許されてしまうという展開だ。こういうときに、過剰に理不尽に主人公たちを非難するクラスメートというのも定番のガッカリ演出だが、逆に、こんなふうに許すクラスメートだってどうして納得できるのだ。どうしてそんな展開に観客が納得できるのだ。
 そして肝心のテーマ「心が叫びたがっている」ことを、あんな廃墟のラブホテルでの「告白」でしか表現できないのか?
 ここは、「言葉が人を傷つける」という状況をちゃんと描いたうえで、発表から逃げ出さずに、だが思いを口に出さずにいることの表れとして、本番の舞台上で声が出なくなるという展開にすれば、題名の予想させるドラマとして成立するだろうに。
 予想を裏切ることが何か良い効果を生むように意図されているわけではあるまい。予想をなぞって、しかも演出の力でその予想を超えるだけの物語を見せてほしかった。

2017年8月2日水曜日

Special Favorite Music,Sugar's Campaign

 以前LUCKY TAPESやSuchmosを発見したように、Youtubeはこちらの好みそうな楽曲を目の前に差し出してくれる。「発見」どころではない。「据え膳」だ。
 そうしてSpecial Favorite Musicなんてバンドも、いつの間にか活動していたことを知る。


LUCKY TAPESかAwesome City Clubかというシティポップ。
 70年代の「はっぴいえんど系」、その正統後継としての90年代の「渋谷系」に続いて、20年周期でこういうシティポップのバンドがまとまって出てくるというのは、単なるこちらの「発見」の印象なのか、統計的に有意な傾向なのか。

 Sugar's Campaignも、この曲は大いにハマった。

2017年7月30日日曜日

『あの頃ペニー・レインと』 -隅から隅まで良い

 原題の『Almost Famous』って何だろうと思って調べると、「ブレイク寸前」というような意訳が見つかる。なるほど、もうすぐ有名になる、ということか。
 1973年のアメリカを舞台に、「ローリングストーン」誌に掲載される予定の記事を書くために、ブレイク近いロックバンドのツアーに同行する高校生記者の物語。
 なんともはや、隅から隅まで良い映画だった。
 まずアカデミー脚本賞だというシナリオがすばらしく、台詞の応酬がいちいちうまい。主人公とヒロインの「ペニー・レイン」が最初に会うシーンで、歳を聞かれた主人公が3歳サバを読んで「18」と答えると、明らかに年上なのに彼女は「私も」と答える。「実は17」とやや正直に修正すると「偶然、私もそうなの」と当然のように言い放つ。さらに「16」、「実は15」と告白するのにあわせて、彼女の年齢もどんどん下がる。自分が年若いことにコンプレックスを抱く主人公に、年齢などどうでもいいことだと、軽口にのせて態度で示してみせる。
 主人公の母親は大学教授で、時代柄、ロックにコミットする息子を心配している。副主人公のバンドのギタリストが、母親と話す主人公の電話に割り込んで話すうち、母親の怖さに震え上がって、電話の後で「お前の母さん、怖いな」と言うと、主人公が「悪気はない」と返す。映画の終盤で母親とギタリストが実際に会う場面で、互いの正体がわかって「あのときの電話の…」となるシーンも、実にほほえましかった。
 母親の無理解に反発して家を飛びだした姉が、弟と一緒に数年ぶりに家に戻り、母親とぎこちなく和解するシーンも、しみじみと感動的だった。母親の歓迎の抱擁に「謝ってないわよ」と謝罪を要求しながら、姉もなし崩しに母親を許してしまう。笑えるうえに泣ける。
 とにかくいろんな感情が細やかに描かれる。新しい時代の文化への憧れ、音楽を通じた仲間への友情、社会的成功への野心、家族愛、そして年上の女性への憧れ。
 ペニー・レインを演ずるケイト・ハドソンは、これでアカデミー助演女優賞のノミネートだそうだが、なるほど、恐ろしく魅力的だった。微妙な表情の変化で感情を表現しつつ、結局実に良い笑顔で主人公の憧憬のシンボルを引き受けている。ほれぼれする口角の上げ方だった。
 実にしみじみと幸せな気分になれる映画だった。

2017年7月4日火曜日

『コラテラル』 -展開のスピード感と余韻

 4月からこっち、一本の映画を通して観る時間がとれない。
 生活が忙しいというのももちろんある。単純に帰りが遅くなった。
 同時に今期はとりあえず見通すと決めたドラマとアニメがやや多めなクールだった。前から見ている格闘技番組や情報番組以外に、今クールは「ボク、運命の人です。」「100万円の女たち」のドラマ2本と、アニメを5本くらい。その録画番組を「消化」するだけで毎日の隙間の時間が埋まってしまっていた。

 その中で、録画してみた映画の「消化」優先順位を決めようと、ちょっとだけ様子見と、『コラテラル』の冒頭だけ観てみた。
 …のつもりだったが、あれよあれよと途中まで観てしまって、見始めがそもそも遅い時刻だったのに、覚悟を決めて最後まで観た。
 それくらい面白い映画だったのだ。最初の、主人公のタクシー運転手と乗客の会話から妙に真面目に面白いぞと思っていると、それが案外長い。その女性客が検事で、再登場する重要人物だというのがだんだんわかる。
 次に乗せるのがトム・クルーズだから、いよいよかと思っていると、停車中の車の屋根にビルから死体が降ってくる展開で主人公同様度肝を抜かれて、あとはあれよと物語に飲み込まれる。
 度肝を抜く展開はこれだけではなくて、次々と、という感じで襲ってくるのだった。車のハンドルに拘束されて、道行く人に助けを求めると近づいてきたチンピラがいきなり銃を突きつけて強盗になるとか、その強盗に追いついたトム・クルーズが、どうやって鞄を取り返すのかと思っていると、いともあっさりと撃ち殺してしまうとか。その「いきなり」さ加減が実に上手い。
 とりわけ、ジャズ・バーのオーナーであるトランペッターを撃ち殺す場面の唐突さはすごかった。殺し屋はどうやらジャズファンらしい。トランペッターのプレイに敬意を抱いて、席に招いてジャズ談義を繰り広げていたとと思っていたら、途中でそのトランペッターがターゲットなのだという展開に驚かされる。殺し屋とターゲットがテーブルをはさんで味わい深い会話を重ねて、緊張感はあれど、殺すのは避けるかと思っているといきなり額を撃ち抜く。撃たれた者が、後ろへではなく前へ倒れてくる顎を、銃を持っていない左手で受け止めて、テーブルへ静かに下ろす。この一連の動作が、呆気にとられている一瞬で描かれる。
 かような演出の妙に、脚本がまたうまいこと。次から次へと緊迫感のある展開になる構成もすばらしいが、途中の会話の味わい深さも格別なのだ。
 殺し屋のトム・クルーズのシンプルな行動原理を支える自己認識が、主人公の運転手の市民感覚とぶつかって、どう動かされているのだろうと推し量って観ているのだが、どうにもわからない。だが、まるで影響しないだろうと思われては興味が失われるから、何か響くものがあるんじゃないかと期待はしてしまう。といって彼は殺し屋の使命を全うすることをやめはしない。
 タクシー内部のドラマから、ロサンジェルスのビル街まで大きく移動する物語展開、主人公二人にターゲット、依頼主の麻薬密売組織や市警、FBIをからめた人間ドラマの展開、実に完成度の高い映画だった。

p.s
 この映画を見て間もなく、ライムスターの宇多丸のラジオ番組でトム・クルーズ映画の人気投票をやる企画があって、さて『コラテラル』はどのあたりかと思ってランキングを遡る発表を聴きながらも、よもやベスト10に入ることはないだろうと思っていた。トム・クルーズといえばそうそうたる有名作が目白押しだ。今回初めて知ったこの映画が、順位の上の方で登場するという期待はしていなかった。だが結果は、なんとまさかの第一位。発表直後に宇多丸が「読めねー」と叫んだのは、やはりこの順位の意外さを物語っていたのだろうが、個人的にも、意図せざる映画視聴とラジオ番組のタイミングの偶然の近接に何やら不思議な気がしたのだった。

2017年7月2日日曜日

蝙蝠

 夜中に目が覚めた時に、ふと、掛け布団の上の黒い塊に目を停めて、その正体の思い至らなさに手を伸ばすと、蝙蝠の子供(たぶん)なのだった。以前、部屋に入ってきて飛び回ったことがここ20年のうちに一度あったが、蝙蝠が部屋の中に入ってくるのは二度目だ。どこから入ったものか。
 それだけ。

2017年5月21日日曜日

『ある日どこかで』 -ロマンチックなタイムトラベルものだが

 根強い人気があると聞いていたタイムトラベルもの。
 なるほど良い場面はある。1910年頃の光溢れる昼下がりの海辺はクラシカルな美しさで1980年の映画とも思えない。あるいは人物が画面の右側に不自然に寄っているなあと思っていると、画面の左側の空間に入っている人影が物語にからんでくるあたりは、一応映画の文法、効果を心得てる感じではある。音楽もたっぷりロマンチックで美しい。あるいは、少々の伏線回収もされていて、ああ、とも。
 だが全体としては感心するのは難しい。
 まず、自己催眠によってタイムリープするという設定は、斬新と言うには無理がありすぎてついていけなかった。あっさり成功するわけではなく、いちおうの苦労はしているが、それも頑張って自己暗示をしているわりには、成功するとあっさりと1910年に存在してしまう。そもそもやるのなら、最初のところで、もうちょっと行きつ戻りつの試行錯誤があれば、過去に行くことの不安定さが表現されて、そのサスペンスが、ポケットに入っていたコインによって現在に引き戻されてしまうという展開につながるはずなのに。
 そして、エンディングのアンハッピーエンドも許し難い。これは好みの問題ではある。あの筋立てならば、喪失感を伴った現実への復帰でなければならないはずだ。
 何より、「運命の出会い」に入り込めない。いきなり二人とものめり込みすぎだろ。肖像写真を見ただけの女優に惹かれて、現在を捨てて過去にタイムリープしてしまうには(確かにいささか、現在に倦んでいる様子は描かれるにせよ)、唐突すぎてノれない。相手の女優も、最初こそためらっているが、あれよとその気になって、どうにも「運命の人」という以上の理由付けはないのだった。
 折しもテレビドラマの「ボク、運命の人です。」を見ているところなのだが、これは、神様に「運命の相手だ」と言われて出会う男女が、運命の計らいやら本人たちの努力やらで少しずつ距離を縮めていく話だ。距離の縮め方にはこれくらいのなじませ方が必要なのだ。
 あるいは映画という長さならば『ローマの休日』はさすがにゆるぎなき名作だった。あれは「運命の人」というのとは違うが、1日という長さで惹かれ合っていく男女が充分に感情移入可能な必然性で描かれていた。もちろんそれはあの「休日」という特殊性にもよるのだが、それにしてもあの「喪失感を伴った現実への復帰」は見事だった。
 本作がなぜそれを目指さずに、いたずらな悲劇でありながら、幻想の中でハッピーエンドにするなどと二重に許し難い結末にするのか、全く理解できない。

2017年5月14日日曜日

『アフター・アース』 -作られる必然性がわからない

 M・ナイト・シャマランは『シックス・センス』以外は駄作だという意見が大方のところだが、個人的には『ハプニング』は、結末の不全感はどうにもならないが過程のサスペンスは大いに結構だった。さて、大作SF映画はどうか。
 いやはや、どうにもならない。
 宇宙船の事故で、かつての「地球」に不時着したウィル・スミス演ずる「将軍」の息子が、救援を呼ぶために、落下した宇宙船の残骸までの100キロを4日間で走破する話。怪我で動けないウィル・スミスは、息子の旅を無線通信で見守る。
 偉大な父からの独立がテーマであることは明らかだ。しかも対地球人の生物兵器に対抗するためには「恐怖」を克服する必要があるという設定がされていて、結末は息子がこれに成功して怪物を倒すのだが、この恐怖の克服がすなわち父からの独立にもなっているのである。
 一応、テーマ的なねらいはわかる。だがどうにもならない。
 危険な道行きは、そもそも困難でなければ面白くないのだが、一方で成功すればご都合主義に見えてしまう。そして見事にご都合主義で、まるで緊迫感が感じられない。こういう、異世界とか異星物とかは、どうにもその塩梅が難しい。成功するはずがないほどの危険があってもいいはずだ。それがなぜに、あのように「丁度いい」危険なのか。最初から地球でいいではないか。日本列島横断くらいでいいではないか。

 また、主人公の息子は父へのコンプレックス全開で、とても愚かしく見苦しい。こういうキャラクターは「エヴァンゲリオン」でもうんざりなのだ。「ガンダム」のアムロは愚かではなかったから不愉快ではなかったのだが。
 主人公の成長も、結局何が要因だったのかわからずに成されてしまって、やっぱり予定調和。
 そして何より、CGで異世界を作って出来の悪い映画はほんとうにやめた方がいい。そんな必要のない小規模な映画を作ろうよ、シャマラン。

2017年5月7日日曜日

『天国と地獄』 -犯罪捜査の過程は丸

 新幹線での身代金受け渡し場面が名高い、黒澤明作品。
 丘の上の豪邸に住む製靴会社重役の息子が誘拐され、身代金の請求の電話が犯人からかかってくる。設定を知っているという以上に、見覚えがある。観たことがあるのだろうかと考えるが、結末が思い浮かばない。
 調べてみると数年前にテレビドラマになったものを観ているのだった。鶴橋康夫演出だというのに、特に印象もない。
 さてその後、運転手の息子が間違って誘拐されたのだとわかるが、かまわず身代金が請求され、見殺しにするわけにもいかない重役は支払いに応ずる。
 重役を演ずるのは黒澤映画おなじみの三船敏郎。そういうわけですっかり立派な人という扱いになっているが、あそこは運転手が銀行から借りるというのが筋なのだから、一時的に雇い主である製菓会社重役がお金を出すにせよ、重役の手元にお金が戻らないということにはならないはずなのだが。そこに人間ドラマを設定するのは無理があると感じた。
 有名な新幹線での身代金受け渡し場面は映画の前半部で、これも特筆するほど面白いと感ずる展開でもなかった。
 題名の『天国と地獄』というのは丘の上の重役邸と犯人の住む下町の対比の比喩なのだが、そこに何かドロドロした人間ドラマが描かれているかというとそんなこともない。ラストの犯人の山崎努の演技はやはりそれなりに見応えはあったが、いかんせん、映画全体がそのドラマを支えるような細部を持っていない。 
 だが、誘拐と身代金奪取は成功してしまって、さてそこから後半部は警察の捜査の過程に重点が移って、じわじわと面白くなる。そういえば原作はエド・マクベインの「87分署シリーズ」の一編で、つまり警察の捜査チームの群像劇だ。捜査の過程も犯人の追跡も麻薬街の造形も見応えがあった。
 それでもイギリス、グラナダテレビの『第一容疑者』シリーズや横山秀夫原作の警察物に比べると大分食い足りないのだが、これも時代のせいか?

2017年4月9日日曜日

『パーフェックト・ストレンジャー』 -面白さの想定が空振りしている

 ハル・ベリーとブルース・ウィリス主演のクライム・サスペンス。ひどいことにはなるまいと思って見続けていると、どうも面白くない。確かに「ひどく」はないのだが。
 ハル・ベリー演ずる女性記者が、友人の殺人事件を追って、ブルース・ウィリス演ずるIT企業の社長に迫るのだが、いよいよ社長の逮捕から裁判と流れる展開のあっさりさにとまどっていると、そのあとにどんでん返しの真実が明らかになる。
 なるほど「どんでん返し」ね。
 これが「面白いはず」と想定されていることはわかる。だがこの面白さの想定は空振りしていると思わざるをえない。そこまでの真実究明の過程にひねりもサスペンスもなく、ひっくり返されても特に感慨がないのだ。単に、そういうことをしたい映画だったの!? とびっくりしただけだった。
 ジョヴァンニ・リビシ演ずる主人公の同僚は、主人公に対する愛情が報われない、変質的で切ないキャラクターといい、演技といい絶品だったが。

2017年4月8日土曜日

『ヨコハマ買い出し紀行』

 連載開始が1994年というからもう四半世紀近くなるのだ。連載終了後にしてももう10年以上前になる。

お祭りのようだった世の中が
ゆっくりとおちついてきた
あのころのこと
のちに夕凪の時代と呼ばれる
てろてろの時間
つかの間のひとときをご案内しましょう
夜が来る前に
まだあったかいコンクリートにすわって

 地球温暖化によって海面があがり、海岸線は徐々に日本列島を浸食して、現在の横浜は水没していたりする(連載開始時、やがてはそうなると信じられていたのだ)。未来の神奈川県を舞台にした、ロボットの「アルファ」が営むカフェに集う人々の物語。
 物語は実に「てろてろ」としている。ほとんど連載の一回ごとにエピソードは分かれているから、面白いと思って最初の方を買っていたが、先を読み進めることを急がされずに、そのうち単行本も古本屋の100円コーナーで見つければいいやと思って「てろてろ」と放置していた。
 十数年をかけて最近最終刊が見つかって全巻揃いとなったところで、頭から通読してみた。
 デビュー作だから、最初の方とは絵柄がずいぶん違っていたなあ、とか、かろうじて覚えているエピソードがあったりもする。どれもちょっと良い感じだが、強力に物語を推し進める力はない。
 だが、12年間の連載を、さらに連載から10年以上の時が経って読むというこのシチュエーションがなかなか良かったりする。
 「あのころ」と語られるのは、未来の物語のさらに先までアルファが生きていて、その時点から語っていることを示している。そこでは登場人物の「人間」たちはもう誰もいないに違いない。今回通読してみると、物語中でも、おそらく20年以上の時間が経っているのだ。その間、子どもは大人になり、海岸の浸食は続く。
 だがその年月を振り返って一望し、さらに続く人類の黄昏を愛おしむような視線が、こんなふうにこの物語を読むのにふさわしいような気もする。なんだが切ないのと暖かいのとがまざったまま最後まで、ようやく読み終えたのだった。

2017年3月24日金曜日

『パーティクル・フィーバー』 -楽しくもドラマチックな科学ドキュメンタリー

 ヒッグス粒子発見にいたる、欧州原子核研究機構(CERN)の、加速器による陽子衝突実験を追ったドキュメンタリー映画。科学の最先端の、素粒子物理学の世界をちょっとだけ覗いてみたいというしたごころと、よくできたドキュメンタリーならば面白いに違いないという期待で。
 面白かった。
 実験へ向けての期待の高まりや実験失敗の落胆、成功の瞬間の湧き立つような昂揚感。
「パーティクル」とは素粒子のことだそうな。素粒子物理学に関わる学者たちの熱狂(「フィーバー」)が、丁寧に描かれている。
 理論物理学者の、抽象的に宇宙全体を捉えようとする認識の遙かさも、実験物理学者の、具体物の中からデータを拾い上げて抽象へつなげようとする力強さも、実に緻密にカメラが追っている。そして科学者たちの、それぞれチャーミングな素顔も伝わってくる。
 取材に手間をかけているのか、編集が巧みなのか、ある出来事の最中に、映画が追っている関係者が、それぞれどんなふうに振る舞っているかを、同時にカメラが捉えているように見えるのだが、それがドラマチックで、見ていても引き込まれる。
 時折、画面がふいにCG合成になって、物理的な概念を動きで見せてくれるのも楽しかった。

 そして、一般のニュースでも真面目に追っていなかった、この実験の意義も、ちょっとだけ感じ取れた。宇宙の構造を説明する根本の理論、その大きな、対立する二つの仮説を証明するデータがとれるかどうか、数十年に及ぶ研究が実を結ぶかどうかという瀬戸際で、結局、対立する仮説のどちらに与することもなく、といってどちらを否定することもないデータが得られた、という結末もなんともドラマチック。

2017年3月11日土曜日

『告白』 -精緻に組み上げられたミステリー映画

 『La La Land』はアカデミー作品賞本命と言われて、結局最優秀賞を逃したが、こちらは日本アカデミー賞最優秀作品賞。
 さてこれが、映画館で観る『La La Land』ほどに面白かったのだった。小さなテレビ画面で観ても面白い映画。テレビ画面の中にも「世界」を作れる映画。物語を楽しむ映画。映画館に観に行きたいとは思わないが、いずれ必ずビデオレンタルして観たいと思わせる映画。
 でも結局そう思っているうちにテレビ放送で観てしまった。

 生徒に娘を殺された中学教師が犯人に復讐する、という話の設定は知っていた。だが序盤で犯人が特定されてしまい、そこを謎として引っ張っていく物語ではないのかと意外に思っていると、なるほど、『告白』とは、主人公一人が事件について語るだけでなく、登場人物それぞれがそれぞれの視点から事件を語る物語なのだった。
 いわゆる「藪の中」物。
 物語の中のさまざまな要素が、視点を変えると別な意味を露わにする。事件自体も緩やかに展開していく。
 アカデミー賞では『悪人』に俳優賞を独占されてしまったが、脚本賞と監督賞を獲った挙げ句の作品賞は当然だと思われる(というか『悪人』の面白さがわからなかった)。ミステリーという、作品の要素の絡み合いの妙こそが魅力の物語の枠組みを、これほどの精妙さで仕立て上げる脚本と演出と編集が何よりすごいのであって、人間ドラマに見所があるわけではない。そもそもが「イヤミス」の称号をつけられるほど、登場する人物も不愉快だし事件の顛末も後味が悪い。とりわけ橋本愛演ずる美月の顛末は、それでいいのか、という程の後味の悪さだった。
 だからいたずらに文学的に味わおうというのではなく、作り物の見事さに感心するべきなんだろう。松たか子の悲しみがいくら見事な演技とともに胸に迫ったとしても。
 
 ところで、岡田将生が『告白』『悪人』で助演男優賞をダブル受賞しているが、どちらも見事な汚れ役であっぱれだった。もちろんどちらも演出の確かさの問題でもある。

 後からわかって驚いたこと。
 原作は、もともと最初の、女教師の「告白」で完結した短編だったのだそうだ。なるほど。映画は、それを序章とした長編の扱いだから、あれ、ここでわかっちゃうの? と意外に思ったのだった。
 それよりも衝撃的だったのは、エンドロールを見ていたら、そこに能年玲奈の名前を見つけたことだ。あの、不自然に暗い教室では、誰が誰やらわからないので、まったく気づかなかった。
 さて冒頭から早送りで見てみる。最初の牛乳を飲む数人の生徒のアップの一人がどうやらそうだと思われる。カットはほんの一瞬、台詞はなし。後の方でいくら探しても見つからない。
 しかも、なんたることか、これがそうだろうと一旦は思った女の子が実は違っていた。それくらい確信はなかったのだが、ネットで当時の写真を見ると、別のカットの女の子がそうなのだ。言われてみれば確かにそうだ。だが予備知識なしで見ても絶対気づかない。じゃあ、最初にそうかと思ったのは結局誰だ?
 まったくどうでもいい話ではある。映画の出来にまるで関わりがない。だが不思議なことに、HDに録画されているこの番組のサムネイルが、能年玲奈なのである。映画の中のほんの一瞬のその画面。
 録画番組のサムネイルは、録画の最初の場面ではないのか?

2017年3月10日金曜日

『La La Land』 -圧倒的な演出力

 『セッション』のデイミアン・チャゼル監督作品ということで、新作のニュースの時から気に留めていたのだが、その後、アカデミー賞レースで大注目となった。先日の映画館通いの際にも、予告編で観るたび、これはいずれ、と思っていたのだが、タイミングが合って娘と出かけられることになった。

 さて、冒頭のハイウェイ・ダンスからもうすっかりやられた。なんという圧倒的な演出力なのだ。縦横無尽に空間を移動するカメラの前で繰り広げられる歌とダンスのあまりのクオリティ。
 どれほどの手間がかかっているのだろう。ワン・カットに見えるだけで実際にはあちこちに巧妙な切れ目があって、いくつものカットをつないでいるのかもしれないが、それにしたところで各カットをどう撮るか、構想するだけでも膨大な手間がかかっているように思える。さらにそれをつないで、長い長いワン・カットに見せるよう、全体を構成するのだ。
 そしてできあがっているこのシーンは、偉大な創作物を見せられる目も眩むような感動と多幸感に満ちている。

 もう一カ所、夕暮れのロサンジェルスの街を見下ろす丘の上で繰り広げられるダンス・シーンも、観ながら昂揚感にとらわれたのだが、それがどこからもたらされるのか、分析はできない。ポスターやCFなどに使われる二人のポーズのシンメトリィなども実に見事だが、だからなんなんだ。それがどうしてこういう昂揚感につながるのかわからない。
 ただ、先日の『シカゴ』も、やはり見事な創作物だと思いつつ楽しめなかったのに比べて、『La La Land』がそれに成功しているのは何故なんだろうとは思う。物語のドラマ性は、さすがに『シカゴ』よりも『La La Land』の方が確かだが、それよりもこの興奮は映画館で観るというシチュエーションに拠っているのだろうか。

2017年3月9日木曜日

『龍の歯医者』 -初舞城王太郎は

 NHKの番組の合間に、ずいぶんとかまびすしく宣伝をするのだが、まあ鶴巻和哉だし、スタジオカラーだし、とりあえずちょっと。
 と思って最初の海戦のアニメーションがあまりに良くできているので興奮して、一人で観るのもなんだし、娘を誘って、録画した前後編を通しで観た。
 アニメーションは、1時間半の最後までクオリティを落とすことなく、テレビアニメのレベルじゃないだろ、これ、という出来だった。
 が、面白かったとか感動したとかいうことがあるかというと、そんなこともない。
 それはやっぱり脚本の問題なのだ。舞城王太郎は未読で、例の「文圧」を味わっていないうちに評価するのは保留にすべきだが、とりあえずこのお話に関してはだめだった。
 そもそも龍の歯を通して死者が生まれ変わるという設定の必然性がわからない。合理的であらねばといっているわけではなく、その面白さがわからないのだ。
 龍という存在のいる世界はいい。龍はあまりに偉大で神秘的で、何やら「世界」のメタファーのようでもある。その歯に湧く虫歯菌を退治するのが「龍の歯医者」と呼ばれる職人集団の設定もやはり何やらのメタファーじみている。彼らは皆、一度死んで龍の歯から生まれ変わったという。何やらメタファーだか象徴だかに満ちているような気もするが、何のことかわからない。さりとてわからないなりに惹かれるものがあるというわけでもない。村上春樹がそうであるようには。
 さらにそれが龍の歯医者になるためには、もう一度生まれ変わる儀式のようなものを経るのだが、その二重の生まれ変わりにも何の意味があるのやらまたしてもわからない。そのわからなさは、何か深いものがあるのだろうという感触を感じさせないで、単に腑に落ちない気持ち悪さだけがあるのだ。
 全体に宮崎駿の『もののけ姫』と細田守の『ぼくらのウォーゲーム』感が満載だったが、この食い合わせも悪かった。クライマックスの虫歯菌のカタストロフィはまるで『もののけ』のダイダラボッチだったが、ダイダラボッチが善悪ではなく単なる自然のメタファーであるようには描かれない。なんだか反戦思想のメタファーのようでもあり、それなのに反戦思想が大量虐殺を行ってしまう矛盾も気持ち悪い。大惨劇が起こったというのに、それをまるで考慮しない中途半端な和解とハッピーエンドもどきが描かれるのも気持ち悪い。
 贅沢なアニメ技術の無駄遣い、と以前書いたのは何についてだったか。

2017年3月5日日曜日

『天国の日々』 -寡黙なドラマ、雄弁な風景

 テレンス・マリック作品はこれまで未見。ただでさえ寡作なうえに、テレビ放送には不向きな、非エンターテイメント系の作品を作る人、というイメージ。だがその作品の評価が高いことは聞いていたので、機会があれば、と観てみた。

 さて初マリックはどうだったかというと、これがどうにも困った。
 とにかく説明がない。20世紀初頭のアメリカ。兄妹に兄の恋人を加えた若い3人がテキサスの農場で麦刈りの季節労働者として働く…というのだが、時代背景は冒頭の工場や農場の様子、最後近くに出てくる兵士から見当をつけるしかないし、農場がテキサスであることはわからない。ネットで調べて、テキサスかぁとぼんやり思うだけである。この三人の背景もわからない。戦争孤児ということなのかもしれない。アメリカ人が観れば、その辺りは明瞭だということなのだろうか。
 サム・シェパード演ずる、若い農場主も、どうして家族がいないのか、説明されたりはしない。
 大まかなストーリーや、それを動かす登場人物の心の動きなどが観客にわかるだけの描写は入れているのだが、その語り口は、実に淡泊で寡黙、見慣れたエンターテイメント系の物語とのあまりの違いにとまどう。
 同時に、自然の風景や動物などのショット、人物を写した短いショットなどが随時挿入されるのだが、それが必ずしも物語上の「意味」を指し示しているわけではないのだ。主人公の横顔でさえ、あるときはなるほどここは恋人と農場主の関係に対する嫉妬の感情を表しているのだろうなどとわかる時もあるが、まるでわからない時も多い。感情というだけでなく、物語上の「意味」、それがそこに挿入される必然性がわからないのだ。
 それでも、映画としてはそれでいいのだという確信で作っているのだろうという感触はある。というか、意図的にそうしていることもわかる。ストーリーを形作る人間ドラマは、手堅い愛憎劇ではあるがそれほど深遠なものでもない。
 それよりなにより風景だ。とにかく美しい光景だ。この映画が語られる時に誰もが触れる、アルメンドロスの撮影だ。
 これがもう全編、ミレーだったりアンドリュー・ワイエスだったりと、呆れるほどの美しさなのだ。
 農場で過ごす1年あまりは、恋人が農場主に見初められてからの優雅な日々の前、過酷な労働の日々でさえ、その美しさから「天国の日々」に思える。貧しさの中でこそ輝く美しい瞬間に満ちている。

 最後の悲劇の展開は「天国の日々」を完結させるために必要なんだろう。後味は良くないがそれは「天国の日々」の輝きの代償だ。
 結末の、妹の寄宿舎からの脱走も、相変わらずの説明不足で、今後がどうなることやらわからない。だがそもそも、どうして物語上このエピローグが必要なのかがわからない。ここはわかるべきところなのだろうか。
 何やら妙に印象的ではあるが。

 印象的と言えば、印象的このうえないテーマ曲はどこかで聞いたことがある。音楽がエンニオ・モリコーネというから、この映画のテーマとして聞いたことがあるのかと思ったら、サン=サーンスの「動物の謝肉祭」の中の「水族館」なのだった。

2017年3月1日水曜日

『グエムル』 -奇妙なバランスの傑作怪獣映画

 というわけで『グエムル』で、怪獣映画ツアーはひとまず。

 10年前の映画だが、観たのはいつだろう。息子が途中で怖くて観られなくなったという記憶があるので、相当前かと思ったが、公開直後ということはなく、ビデオレンタルだったから、その息子は中学生くらいにはなっていることになる。そんなに怖い映画か?
 だがとりあえずTSUTAYAではホラー映画の棚にある。『クローバー・フィールド』はアクション映画の棚なのに。『モンスターズ』はSFの棚だ。

 最初にこの映画を観たときに何よりびっくりして、かつ好きな場面は、怪物に連れ去られた中学生の娘を捜す家族が、捜索に疲れて川縁の売店兼住居に戻って、4人でカップラーメンを食べるシーンだ。
 疲れ切って、口も聞かずにラーメンをすする父親の後ろから、誰かの腕が見えたと思ったら、行方不明の娘が唐突に、だがおもむろに姿を現して、テーブルの食べ物を漁る。父親から始まって、祖父、叔父・叔母が次々と彼女に何かを食べさせる。
 トーンが変わったとかいうこともないから、実はここにいました、という展開なのか、幽霊だとかいった表現なのかもわからない。皆、視線も合わさず言葉も発せずに黙々と食事を続けることに違和感を抱いたまま見守っていると、場面が変わって、彼女は怪物の巣らしき下水溝のようなところで目を覚ます。
 やっぱり。

 観直すと、相変わらずとても変な映画なのだった。
 10年前としてはなかなかによくできたCGの怪物が襲ってくるパニック描写は緊迫感も充分だし、怪物の巣らしき下水溝からの娘の脱出作戦は、起伏に富んだ脚本の巧みさとサスペンスフルな演出が見事だし、家族愛が妙に切なく描かれているかと思えば、その家族の駄目さ加減は、ほとんどコメディのようだ。基本的には駄目な家族が、娘を救おうとするヒロイックな活躍を見せるクライマックスに拍手を送るべきなのだろうが、最も感動的なのは、娘の叔母を演ずるペ・ドゥナが怪物の巣のある場所を目指して橋の下を疾走するいくつかのカットをつないだシークエンスだ。
 音楽もなかなかなのだが、この場面のカットはどれも恐ろしく美しい。巨大な橋桁の鉄骨や、広い川幅を豊かに流れる水の量、闇を照らす照明、薄明るくなっていく川縁の空気が、威容ともいえる迫力でありつつもどこか懐かしい気もする印象的な光景の中を、人目を避けて、夜、朝まだき橋桁の下、川縁の草むらを疾走するペ・ドゥナの息苦しいほどの必死さが切ない。

2017年2月28日火曜日

『クローバー・フィールド』 -完成度の高い怪獣映画

 『Monsters』の流れで、一緒に観た娘に低予算怪獣映画の秀作を見せようと、まずは『Cloverfield』。次は『グエムル』の予定。
 
 POVは、低予算で映画を作る工夫として好感のもてる手法だ。モキュメンタリーも工夫の方向がはっきりして、単なる観客というより、作り手の側に想像が及ぶような鑑賞の仕方が楽しかったりもする。
 『クローバー・フィールド』は、低予算のPOV映画というわりには、堂々たるCGが怪獣映画としてスケールの大きなパニックを描いていて、初見の時から、おそろしく見応えがあるなあ、と感心したものだった。邦画の合成があれほどちゃちに見えるのは、アメリカの「低予算」にさえ遠く及ばないほどの予算規模だということなのか、技術的な問題なのか。
 観直してみると、やはり、最初のパーティーの場面を過剰に長々と描くことで、POVという手法の安っぽさとも相まって、怪獣登場のパニックの派手さとの落差が強烈に増幅されるという効果が巧みだと感心した。最初から低予算映画ですよと開き直るから、その完成度に対してのハードルが下がる。そして完成度はすこぶる高いのだ。
 物語としても、最初の怪獣襲来から、ブルックリン橋への避難、地下鉄のトンネル内での小クリーチャー来襲、感染症の危機、倒壊しそうなビルでの恋人救出劇…とイベントが連続して、その起伏に翻弄された印象から、密度の高い物語を体験したという満足感が得られる。
 完成度の高い、楽しい映画だ。

2017年2月24日金曜日

『モンスターズ/地球外生命体』 -愛しい怪獣映画の佳作

 ギャレス・エドワーズのハリウッド・メジャーの第一作『ゴジラ』はあまり感心しなかったが、その前の低予算デビュー作のこちらはどうも評判がいいので見てみた。怪獣映画なのにロード・ムービーというコンセプトにも惹かれるものを感じたし。
 宇宙から、生命体のサンプルを持ち帰った探査船がメキシコ上空で大破し、地上で生き延びた生命体が増殖するメキシコが「危険地帯」として隔離されている世界。新聞社の社長令嬢をメキシコから連れ帰ることになったカメラマンと令嬢の道行きを辿るというから、本当にロード・ムービーだった。
 「怪獣」などというモノがいるのだとして、それがただちに人類存亡の危機をもたらすほどのものだとしたら、それは大規模予算のパニック映画になってしまうはずだし、それほどのモノではでないとしたら、そんなものはさっさと捕獲するか駆除してしまうはずだから、何年もの間、ある意味では「怪獣」と共生している世界というのは一体どういう事情なのだろうと思って観てみると、なるほど、こういう感じなのかと腑に落ちた。
 要するに、ジャングルに交じって生きている、その大きさから、度はずれて厄介な野生動物ではあるが、それでも生態系にそれなりの位置を占めつつあるという存在になっているのだ。個体数もよくわからず、生態も把握しきれず、かろうじて人的被害を抑えようとはするが、時折被害は出てしまう、という…。
 壁のポスターには、むしろ怪獣よりもそれを攻撃する軍の空爆こそが人々の批判の的になっている世論のあることが示されている。
 つまりはこの「怪獣」はゲリラのようなものなのだ。ベトナム戦争でもイラク戦争でも、アメリカ軍がいくら強大でも、だからといって容易に決着はついたりしないのだ。
 なるほど、そういうあり方も可能なのか。

 もう一つ、現代社会を反映した要素として、メキシコを封鎖するためにアメリカ国境との間には巨大な壁が建設されている、という設定がある。映画が作られた2010年にもそれはすでに不法移民の問題を示唆していたのだろうが、現在、ああいうこと言ってるのがアメリカ大統領になった今では、その設定の符合がアメリカ人にはどう見えているのだろう。
 その巨大な壁をメキシコ側から二人が見る風景を始め、とにかく風景の印象的な道行きだった。
 壁を見るために登ったのは、マヤ文明か何かの遺跡だった。あるいは映画のあちこちに見られる廃墟も、それが怪獣の存在を示すという物語上の意味合いだけでなく、もう風景として美しい。
 映画としては、特に前半、短くて印象的なカットを連続させる編集のリズムがやけにうまくて、「情念」だか何だかを醸し出すべくたっぷりと長回しされる邦画のリズムに比べて、見ているだけでもう快感だなあと思っていた。
 人間ドラマとしては、同行の二人が惹かれ合っていく様子が、どうも吊り橋効果だとは思いつつも感情移入してしまい、それでもままならない関係がなかなかに切なかった。
 そして怪獣映画としては、特に派手なパニック映画、ディザスター映画を求めているわけではないので、いくつかの場面に見られるサスペンスで充分満足できた。 
 というわけで、思いがけず満足度の高い秀作に出会えたのだった。

2017年2月17日金曜日

『アクロイド殺し』 -映画における叙述トリック

 テレビドラマの「名探偵ポワロ」シリーズの「アクロイド殺し」を。
 実は原作未読なのだ。あの、ミステリー史上屈指の名作と言われる小説を。
 さらに実は、個人的なミステリー事始めはクリスティーなのだった。小学生の時に図書室で借りて読んだ『海辺の殺人』が、まっとうな推理小説の楽しさを最初に教えてくれた小説だった。

 ところがこの『海辺の殺人』=『なぜエヴァンスに頼まなかったのか』を長じて文庫本で読んでも、北村薫推薦の『象は忘れない』を読んだ時も、どうにも乗れない、というか、ちっとも頭に入ってこないのが参ったものだった。
 子供の時は単にストーリーを追えていたからかなあ。訳文もシンプルだったのだろうか。
 翻訳文がどうにもだめなのだ。スティーブン・キングなども、今まで読み進められたためしがない。どれも挫折してしまう。

 にもかかわらず有名どころを知っておきたいというさもしい根性で「ポワロ」シリーズをいくつか見てみたが、どれもちっとも面白いと思えないのも困ったものだった。淡々と事件の要素が並べられて、といってそれを組み合わせて真相を探るようなパズラーとして見る気にもなれず。殺人が劇的だったりは決してしないし。

 結局「アクロイド殺し」も、淡々と見終わってしまって、さて何があれほどこの作品を有名にしてるんだっけなと思い出してみると、果たして最初の方で「そうだっけ?」と頭をよぎった、あの「手記」という設定にからんだトリックのせいだったのだ。
 ええっ!? だめじゃん。
 そもそも映画には「一人称」が使えない上に(それでもナレーションを一人称にするくらいのことはできるだろうに)、「手記」が犯人の手によるものであることが最初から明かされている(そここそがこの作品を特殊なものにしているというのに!)
 どういうわけなのだろう。制作陣はこの作品が唯一無二(では厳密には、ないらしいが)であるところのトリックを台無しにして、ありふれた「ポワロ」物の一つとして作っているのだ。なんのため?

2017年2月15日水曜日

「博士の愛した数式」の授業 3 ルートの怒りの意味、映画版

 承前

 病院から帰った後、ルートが母親に見せる奇妙な苛立ち、怒り、涙は一体何を意味するか。
 この章段はいかなる事態として読むべきだろうか。

 前段の終わり「博士と私の靴音は重なり合い、ルートの運動靴はプラプラ揺れていた。」は確かに指導書の言うように「私と博士の心が親和を取り戻したことを示す表現となっている」のだが、それはつまり「私」と博士が擬似的な夫婦のように描かれているということであり、この時、ルートの立ち位置は、すっかり「子供」のそれである。「運動靴はプラプラ揺れていた」とは、博士におぶわれて自分の足で歩かない子供の立場に甘んじているということだ。母子家庭にあって必ずしも安楽な、子供という立場ではいられないルートにとって、それは心地よいものであるはずだ。
 この心地よさは、なぜ「不機嫌」に反転するか。

 ルートは、自らの怒りの訳を「ママが博士を信用しなかった…ことが許せないんだ。」と語る。だがルート自身は博士を信用しているのだろうか。そもそも博士は実際に信用に足る人物なのだろうか。
 とてもそうだとは言えない。ルートの負傷にあたって、博士は「動揺」し「混乱」し、まるで役に立たない。「私」の判断で病院に連れて行く段になってようやく大人の男としての力を発揮するが、総じて「任せる」には不安な人物に違いあるまい。
 むろんそのことをルートもまた痛いほど感じているはずだ。病院に運ばれることになる怪我の際も「ルートは一人で事を収めようとし」ている。父親としての博士におぶわれて感ずる安らぎが本当には安定した確固たるものではないことことに気づかざるを得ないほどに、ルートは怜悧である。ルートの苛立ちは、母親の博士への疑念自体に向けられているのではなく、むしろ母親が懸念した博士への不安が現実となってしまったことによって生じているのである。とすれば、それを現実にさせたのは自らの過失である。したがって、本当に責めるべきなのは自らであることに、ルートは気づいている。
 指導書の解説でもこの「不機嫌→怒り」が母親に対するものだけではないことが指摘されている。
 自分自身の行為によって博士を極度の混乱に陥らせたことで、ルートは自分自身に深く傷ついている。…博士に対するその罪の意識が、怒りの矛先を、博士を不安視し、自分をいらだたせた母親へと向けさせているのではないかと考えられる。
この「怒り」が、単に母親を「許せない」と思っているだけではなく、自分にも向けられているのだと読み取ることは重要である。ルートに自傷的な振る舞いをさせるのはいわば自責の念である。「不機嫌」の、「怒り」の正体が自らの責任の追及から発している以上、それは単純に母親を責めることにならない。
 だからルートは黙って涙を流す。愛すべき博士の名誉を守れなかった自らの無力に泣くのは、その責任を引き受けようとする矜恃の裏返しである。「罪の意識」を感ずるのは「罪」を自らの責任として引き受けようとする気概に拠る。
 この「罪の意識」が強い感情として表出するのは、前段における博士への親愛の情の故である。つまりルートは博士の名誉を守りたいのである。だからようやく怒りの理由を口にする時「ルートは私を見据え、泣いているとは思えない落ち着いた口調で言」う。言葉こそ母親を責めているが、そうした母親の懸念を否定することで、自らの責任を引き受けようとするルートは一人の「男」である。
 だが前段の「運動靴はプラプラ揺れていた」が、先に述べたように、ルートが子供という立場に身を任せる心地よさを表しているように、本当はルートは子供でいたいとも思っている。そしてルートが子供でいるためには、博士が擬似的な父親として信用に足る人物でなければならず、そのためには、ルートが自律できなければならない。
 つまりルートは、言ってみれば、子供でいるために大人にならなければならないという、奇妙な背理のうちに置かれている。それこそここでルートが置かれた混乱である。

 ここに表現されているのは、有り体に言えばルートの「成長」という事態にほかならない。ここに描かれているのは、母親に苛立ち、母親を非難する息子と、それに突き放される母親の断絶ではない。自分への非難の中に息子の成長を見て取る母親の歓喜である。
 博士の名誉を守ろうと母親を非難し、同時に名誉を守ることができなかった自らの非力を嘆くルートは、「こども」という安楽に甘んずることを望むがゆえに、それを守る力を求めてそこから一歩を踏み出そうとする「男」である。
 そう考えるからこそ、このシークエンスはまぎれもなくハッピーエンドなのである。

p.s

 上記の授業は、昨年度に行ったものを、今年度再び、整理した形で実施したものだ。
 今年は思いついて映画版の「博士の愛した数式」の該当場面が参考にならないかと気になって、見直してみた。
 文章の読み比べは、以前から授業のメソッドとして重要視しているのだが、評論の読み比べに限らず、「羅生門」における「今昔物語」などの原典との読み比べ、マンガ化されたものがあればそれとの比較、あるいは映像作品との比較など、複数のテクストを比較するのは、常に有用な読解学習の機会となる。
 だがそれは、一方が他方の理解を助けることが期待されるからではない。そもそも国語科学習とは、教材の「理解」を最終目的としてはいないからである。国語科学習における教材文の「理解」とは、あくまで「理解」を仮の目標としておくことで、学習の導因、インセンティブとなることが期待されるという、当面の「仮の目標」である。
 学習自体は、読解行為、考察そのものにあるのであり、読み比べはそのための糸口である。
 そして、思考とは常に比較である。情報が「差異」でしかない以上、情報の発生は比較によってしか起こらない。思考は差異線をなぞるようにして展開する。

 だが、小泉堯史監督による映画版は、期待したような考察を可能にしてはくれなかった。
 原作の、母親が外出しているうちにルートがナイフで指を切ってひどく出血し、病院に行くという顛末が、映画では草野球の練習の最中に他の選手とぶつかって転倒して頭を打って病院に運ばれるという設定になっている。展開が違っているから、映画を見ていると最初のうちは、このシークエンスが問題のエピソードだとは気づかない。だが病院の待合室でルートの治療を待っている場面辺りで、もしやそうなのかと思っていると、結局そうなのである。
 わけがわからない。どういうわけでこういう改変をするのか。映画の尺の問題で削るのなら、エピソードごと切ってしまえばいい。後の展開に必須のエピソードでは、まるでない。
 ルートの怪我の原因について、博士が自分に責任があると思い、なおかつその事態を博士が自分で収拾できずに混乱に陥ることは、このエピソードの必須要件である。だが映画ではそれがまるで描かれない。その混乱の中でこそ、三角数は語られる必要があるのだ。そこにある秩序が小説の言葉で「崇高」と語られるのは、博士の混乱との対比があるからだ。
 だが映画では、あろうことか博士は落ち着き払って、心配げに待つ母親に、数学の話をもちだして、したり顔で教訓を垂れる。
 どういうわけでこういう改変を思いつくのか、まるでわからない。
 なんという、人間の心理に対する無神経、無理解。
 問題のルートの怒りも、博士に野球のコーチを任せることを懸念する母親に対する怒りとして描かれるだけだ。ルートの怒りは、夕食の帰り、博士におぶわれている場面で既に露わにされる(アパートに帰り着いてからではなく!)。そして母親はその怒りの意味をただちに理解して、ルートに謝るのである。ルートの自責の念も、成長も、まるで描かれることはない。
 演出以前に脚本も自ら書き下ろしている小泉監督が、小説に描かれた、授業で分析したような心理の機微をまるで理解していないことは明らかである。
 もちろん、この場面だけでは、「授業」という特殊な場がこのような読みを可能にしているだけだ、とも言える。だが、物語の結末部にある決定的な喪失についても映画がまるで描いていないのは、もはや、この映画が何を語ろうともしていないことの証左である。この映画は、まったく、ただなんとなく、このお話を絵解きしたに過ぎない。そこに美しい桜並木でも映しておけば「良い映画」風のものを作ったつもりになっているのだ。

p.s2
 おそらく明治書院の、平成30年度版の「現代文B」では、恩田陸の「オデュッセイア」も、小川洋子の「博士の愛した数式」も収録から漏れてしまうだろう。これらはいわば「流行作家」枠であり、改訂の際に入れ替わる可能性が高い。
 たぶん編集部では先日の恩田陸の直木賞受賞のニュースを、歯噛みして見たに違いない。「オデュッセイア」を収録からはずしたのを悔いて。
 だが「オデュッセイア」も「博士の愛した数式」も、小説として魅力があるというだけでなく、それを素材として「読む」という行為を実践する「教材」として、きわめて価値の高い小説であった。出版社の指導書からはそうした価値の自覚が伝わってはこず、編集部にとっては、やはり単なる「流行作家」枠なのかもしれない。

p.s3
 いやはや驚いた。30年版「現代文B」でも、「オデュッセイア」「博士の愛した数式」、ともに収載継続だった!
 教材としての可能性を高く評価する者として、編集部の英断を言祝ぎたい。

2017年2月14日火曜日

「博士の愛した数式」の授業 2 野球中継と涙の意味

 承前

 さて、さらなる考察を誘導するため、生徒に、考える材料を提供する。
 注目させたいのは、この後2ページにわたって描写されるルートと「私」のやりとりに、随時挿入されるラジオの野球中継である。
 実はここまでの問答の途中で、この野球中継の挿入がうるさい、という印象を述べた生徒がいた。こうした感想が授業という場に提出されるのは有益なことである。こうした違和感こそ、考察を展開する糸口になるからである。
 この野球中継はルートと「私」の会話の無意味な背景ではない。どうみても意図的な挿入である。といって「不機嫌の原因がタイガースでないのは明らかだった。」「ルートの耳には何も届いていなかった。」とあるから、この野球中継が直接、ルートや「私」の心情に影響しているというわけではない。むしろこれが意味するものは、読者に向けて物語の方向性を指示することである。
 もちろん、じっくり読まないと生徒にはそれがどのような方向であるかを把握することが難しい。まず野球の試合がどのような状況であるかを把握するのが難しい。「亀山」「桑田」がどちらのチームの選手であるか、ルートがそれらのチームに対してどのような立場であるか確認する。
 「私」は不機嫌なルートの態度に「タイガース、負けてるの?」と問う。ここからは、ルートがタイガースに肩入れしていることを確認する。
 続いて試合の状況である。この場面の序盤で、ゲームは九回表、巨人とタイガースは同点である。ルートは不機嫌の理由を聞かれて、答えることなく怪我をした手を机に打ち付ける自傷的なふるまいをする。中盤でタイガースの「亀山」がバッターとなる。「亀山」が「桑田の球威に押され……二打席連続三振を喫しています…」という状況を伝えるアナウンスが挿入されたあと、ルートは「声も漏らさず、体も震わせず」「涙だけをこぼしていた」。タイガースは「負けてる」わけではないが、劣勢である。
 そして、ルートの怒りの訳がルート自身の口から語られた後、それに対する「私」の反応についての説明・描写を一切差し挟まずに、次のようにこの章は終わる。
 亀山が二球目を右中間にはじき返した。和田が一塁から生還し、サヨナラのホームを踏んだ。アナウンサーは絶叫し、歓声はうねりとなって私たち二人を包んだ。
この描写は何を意味しているか。どのような印象を受けるか、と生徒に聞いてみる。
 ここに示されている、タイガース選手の劣勢からのサヨナラ勝ちという展開は、明らかに事態の好転である。つまりこの場面は全体としてハッピーエンドへ向かって決着しているのである。必ずこのことを確認しておく必要がある。つまり、ルートの怒りが母親に向かって爆発することは、肯定されるべきことなのである。

 もうひとつの手掛かりはルートの流す涙について述べた次の一節である。
 けれど今回は、かつて目にしたどの涙とも違っていた。いくら手を差し出しても、私が拭うことのできない場所で、涙は流されていた。
この一節については教科書の「研究」でも「どのようなことか」と問うている。だがこの問いに対する「母親という立場では触れ得ない心の世界を息子が持ったことをはじめて知らされたということ」という指導書の解説ははほとんど同語反復にしかなっておらず、この涙の機制を説明してはいない。
 問題は「私が拭うことのできない場所」という一種の比喩表現が意味しているものをどう捉えるかである。
 生徒には「かつて目にした」「涙」と目の前の「涙」の違いは何か、と聞く。今までの涙は「私が拭うことのでき」る「涙」であり、この時の「涙」は「拭うことのできない場所」で流される「涙」である。では「私が拭うことのできない場所」とはどこか。どこで流される涙ならば「拭うこと」ができるのか、と聞く。それらと今回の涙の違いは何か。
 指導書は、今回の「涙」が「男の涙」と形容されていることに注目している。この点は重要である。だがそれが「息子に突き放されて手の届かない母親の思いを伝えている」と解説されてしまうと、先に確認した、このシークエンスをハッピーエンドとして読むという方向と齟齬が生ずる。
 この涙は、母親との断絶を意味しているのではなく、「男の」が示すとおり、素直にルートの成長を意味していると読むべきである。そのうえで、このシークエンス全体の意味に位置づける必要があるのである。

 問題を整理しよう。考えさせたいのは、このシークエンス全体の意味である。ルートの「怒り」は何を意味しているか、である。だがこうした問い方は、生徒にとってわかりやすい形ではない。したがって、実体に応じて、前段の親和的な雰囲気が「不機嫌」に変化した理由は何か、という問い方になるのは構わない。ルートはなぜ「不機嫌」になり、なぜ苛立ち、なぜ泣くのか。
 つまり最初の問いである。ただしその際、先の諸点を考慮に入れることを必須条件とする。

  1. なぜ「とたん」なのか(態度の急な変化のわけ)。
  2. なぜすぐに理由を言わなかったのか。
  3. ルートの涙が「拭うことのできない場所」で流される「男の涙」であるということ。
  4. このシークエンスがハッピーエンドであること。

 ルートの語る「ママが博士を信用しなかったから」は、充分にルートの怒りを説明していない。なぜ前段から態度が急変したかも、すぐに怒りの理由を母親に言わないかも、充分には説明できない。ルートは「怒り」を押し隠して、表面上、和やかな空気を作っていたのではなく、むしろ前段の三人の間に生まれた親和的な雰囲気こそ、ルートの「怒り」を生んだのではないか。
 といって、博士に対する親愛の情が、博士を信用しなかった母親への怒りに変化したのだ、と言っただけでは、涙の訳がわからない。ルートの涙にただ「突き放され」たと感じたと言っただけでは、ハッピーエンドであるという読み方ができない。
 では一体、このシークエンスはどのような事態を表現しているのか。

 続く。

2017年2月13日月曜日

「博士の愛した数式」の授業 1 登場人物の心理を読む授業

 明治書院「高等学校 現代文B」には、「本屋大賞」第1回と第2回の受賞者の作品が収録されている。しかも小川洋子の「博士の愛した数式」は、その第1回受賞作品そのものの一部抄録である。一方の第2回受賞者の恩田陸の作品は、本屋大賞受賞作品「夜のピクニック」ではなく、独立した短編「オデュッセイア」である。
 「博士の愛した数式」と「オデュッセイア」を読むには、それぞれかなり違った作法が必要になる。もちろんどちらもただ読むことで楽しめる良質なエンターテイメントとして享受することにいささかの不都合もない。だが授業という場でそれを取り扱うには、読むことにおいて必要とされるそれぞれに適切な作法を意識化しておくことが望ましい。
 たとえば「オデュッセイア」では、ファンタジーとしてその世界観を捉えながら、最終的にはその象徴性についての考察へと展開することが可能である。
 一方「博士の愛した数式」では、伝統的な国語科の授業での小説の取り扱い方である「登場人物の心理を考える」という作法が適切である。その小説世界の人間関係、状況に読み手自身を重ねながら、その喜怒哀楽を感じ取るのがふさわしい小説だからである。
 「博士の愛した数式」という小説にとって、記憶が80分間しか保てないことと、数学をこの上なく愛しているという、「博士」に施された二つの特殊な設定が肝であるのは確かだ。だがそれを「数学的真理は崇高なものだ(と博士は考えている)」などとまとめてみせても、それで小説を読んだことにはならない。授業で小説を読む意味もない。正面切ってその問題について授業で考察するというより、小説自体を読みつつ、「博士」の喪失感や悲哀、あるいは「数式」の崇高さを感じ取っていくしかない。だからこそこの小説では伝統的な「登場人物の心理を考える」という展開に持ち込むしかないのである。
 以上の教材観に基づく筆者の授業の様子について以下に描写する。

 登場人物の心理を詳細に追っていくという展開の授業で扱う意義のある最も適切な場面は、教科書収録部分の終盤、病院から帰った「ルート」が奇妙な「怒り」を露わにする場面である。
 ルートの怪我と病院への搬送、待合室の三角数から三人での外食まで、言わば物語のクライマックスとも言えるイベントの後、一行の空白を挟んで、物語は意外な展開をみせる。
博士と別れ、アパートまで帰り着いたとたん、なぜかルートは不機嫌になった。
ここから始まるシークエンスは時間をかけて考察するに値する、実に小説的な読解力を要求される場面である。
 まずは一読しただけの段階で、章段冒頭のこの部分について「なぜか」を聞く。2ページ後の、次の一節がその端的な解答になっているという因果関係は把握しておく必要があるからである。
  「ママが博士を信用しなかったからだよ。博士に僕の世話は任せられないんじゃないかって、少しでも疑ったことが許せないんだ。」
この応答は容易である。右の二カ所には確かな因果関係がある。続けて、これが具体的にどの場面のことを指しているかを確認する。教科書にして7ページほど遡ると、「私」が買い物に出る前、ルートに「大丈夫かしら」と問いかける場面がある。このやりとりを探し当て、ルートの「怒り」の伏線となる記述が見出せるか、教室みんなで確認する。
 ここには、母親の問いかけに対し「ぶっきらぼうに」答え、「私など相手にせず」に博士の書斎に駆けていくルートが描かれている。
 ここに「不機嫌」の萌芽を読み取ることは確かにできる。この伏線とその回収は明らかに意図的なものである。作者はルートの「怒り」を描く上でこの場面を想起するように読者に求めているのである。
 だがこれだけで「なぜか」が説明され尽くしていると考えることは、まっとうな小説読者としてはできない。その勘は、そんなに単純な感じではないな、という違和感である。
 この違和感を言葉にしてみるなら、こんな感じだ。これがルートの怒りの理由であるとすると、それはこのやりとりの後で、怪我して病院に運ばれて、帰りに外食してアパートへ戻る、という展開がこの怒りに関係ないことになってしまう。博士への「私」の懸念はこれらの展開の前に既にルートに表明されているからだ。仮にルートが怪我などせずに、「私」が買い物から戻ったとしても、ルートの怒りはやはり爆発しただろうか。そうした想像は困難である。
 したがって、「私」の博士への懸念は、ルートにとって母親への不満として心に留まってはいるが、それを激情に変えたのはその後の展開であると考えられる。何がルートの心を波立たせているのか。

 右の確認に続いてさらに問う。
 なぜ「とたん」なのか? この急な態度の変化はどうして起きたのか?
 同じ問いが教科書の脚問にも設定されている。指導書は次のように解説する。
 博士と別れ、母子ふたりになったことで、それまで抑えられていたいらだちが抑えられなくなったと考えられる。
生徒もまた同様の理由を口にする。こう答える生徒には「抑えられなくなった」のなら、すぐに言えばいいのに、なぜこの後2ページも黙っていたり泣いたりするのか、と反問する。
 さらにいえば、前段落の「外食」のシークエンスでは、「ルートは大喜びだった」「満足していた」「ヒーローにでもなったつもりでいるらしかった。」「大威張りで」「素直におんぶをしてもらった」「夜の風は心地よく、おなかはいっぱいで、ルートの左手は大丈夫だった。もうそれだけで、十分満足だった。」と肯定的な表現が並ぶ。ここから、「それまで抑えられていたいらだち」を読み取ることはできない。それを読者に伝える描写はない。
 したがって、このルートの怒りは単に上機嫌の演技の下に抑えていた不機嫌が露わになったとかいうことではない。むしろ、前段落の肯定的な表現、三人の間にもたらされた親和的な空気こそが、ルートの不機嫌をもたらしていると考えるべきであり、その機制を明らかにすることが、この場面の読解として豊かな収穫をもたらしそうだという予感がある。

  この項、続く。

2017年2月12日日曜日

『LIFE!』 -つぐづく幸せな気分になれる映画

 ブログ開設の直前に観た映画だ。素晴らしく面白かったのだが、今、テレビで観ても同じように感じるものか。

 いやあ素晴らしかった。楽しかった。感動した。
 冒頭の母親や妹のトラブルを処理してからのお見合いSNSの描写から、もう既にうまい。思い切って「ウィンク」ボタンをクリックするまでの躊躇いと、思い切ってクリックするドキドキ、なのにシステムにはじかれてしまう肩透かし、ともう絶妙な描写にニヤニヤしてしまう。
 この、「思い切って」がその後エスカレートしていく。平凡で地味な仕事をしている冴えない中年男という設定の主人公が、見つからない写真のネガを探してグリーンランドに行き、あまつさえ酔っぱらい男の操縦するヘリコプターに離陸寸前で飛び乗り、北の海に飛び込んで鮫と戦う。一度ニューヨークへ帰ってから、もう一度アフガニスタンからヒマラヤへ。軍閥の族長が銃剣で貫いて食べる母親のオレンジケーキや、ヒマラヤのシェルパたちとの草サッカーなど、端々に「うまい」と感嘆することしきり。
 アイスランドの火山の裾野の草原をスケートボードで滑走する爽快感と開放感は快感と多幸感に満ちていたし、そこで火山が噴火してしまうスリルは映画的高揚感いっぱいだった。
 それでも、もっとも感動的なのは、長い冒険の果てに訪れる「青い鳥」的日常讃歌である。結局、日常的な「地味な」仕事の価値を最大限、他人から認められ、感謝される、という結末に、しみじみと幸せな気分に浸されて見終われる映画なのだった。娘も「こういう映画が観たかったんだよ!」とこの感じ方に太鼓判を押してくれた。

2017年2月10日金曜日

『ジャッカルの日』 -淡泊で緊迫のクライム・サスペンス

 ポリティカルサスペンスとして名高い作品をようやく。フランスのドゴール大統領暗殺を企む謎の殺し屋「ジャッカル」の暗殺計画とフランス警察の捜査をドキュメンタリー・タッチで追う。
 …というようなありがちな紹介のとおり、最近の演出過多な映画やらテレビドラマやらを見慣れた目には、最初のうち、あまりに淡泊な描写に拍子抜けする。
 これは最後の暗殺決行とそれを阻止する警察の銃撃戦の場面まで一貫している。昨今の映画なら、緊迫した音楽で盛り上げ、細かいカットでアップにしたりロングにしたり、ここぞというところはスローモーションにして…と、これでもかと劇的に見せるであろうクライマックスも、あれよと終わってしまう。むしろワイヤーアクションだかなんだか、ジャッカルが壁まで吹っ飛ぶアクションにびっくりするくらい、全体は淡泊なのだ。
 それでも、最初のうちの拍子抜けに負けずに観ているとどんどん面白くなる。
 特注のライフルが完成して、市場で西瓜を買うのはもしやと思っていると、はたして試射の標的にするのだった。ご丁寧に顔らしきものをペイントして木に吊す。何発か撃っては当たり所を確認して、スコープの微調整をする。おおよそ真ん中に当たるところまで調整が終わって、さて、何やら違う弾をこめる。これはもしやと思っていると、西瓜が爆発したように木っ端微塵に四散して、これは注文の際に話題にしていた炸裂弾なのだと知れる。本番ではドゴールの頭がこうなるのな、と想像させて、これこれ、こういうところが楽しいのだ。
 ルベル警視を演じたマイケル・ロンズデールという俳優の、人の良いおじさん的風貌と手際の良い捜査のギャップも楽しい。有能な捜査官の仕事ぶりに感心しつつ、それをかいくぐって計画を着々と進めるジャッカルからも目を離せない。

 ところでジャッカルが途中で協力者を得る手段が「色仕掛け」というのはどうなのよ。「ゴルゴ13」は商売女だったっけ? 池上遼一の「傷負い人」や、藤木直人主演のNHKドラマ「喪服のランデブー」など、どういうわけでこう都合良く協力者が現れるんだよと思われる設定の源流はこのジャッカルあたりなのだろうか。

2017年2月7日火曜日

『ハーモニー』 ーアニメが不自然を描く困難

 伊藤計劃アニメ化プロジェクト第2弾。第3弾の『虐殺器官』の公開にあわせてのテレビ放送だ(『屍者の帝国』の放送はどうなったのだろう)。
 CFを見る限り『虐殺器官』はかなりアニメーションの質が高そうだが、『ハーモニー』や『屍者の帝国』はそれほど期待できなかったのだが、監督はなかむらたかしとマイケル・アリアスでSTUDIO 4℃の制作なのだった。それなりのものを作っているはずだと期待する。
 確かに画面設計などには見るべき画も多い。いくつかの場面では手のかかった仕事をしていると思えた。特にPG12の原因となったであろう例の場面などは(それともあれはミァハの設定が原因か?)。

 だが結局、面白い映画ではなかった。
 そもそもが、原作は面白い小説だったか?
 確かに伊藤計劃の作品は凄い。その設定の斬新さも、その設計の緻密さも、細部に横溢している。『ハーモニー』でいえば「生命主義」という設定と、人間の「意識」とは何か? という問題設定だ。
 そして、集団自殺事件の、場面としての戦慄も、自殺か他殺かを選択させる焦燥感にも、展開としての面白みはあった。
 だが『ハーモニー』では、肝となる、「生命主義」下での少女たちの閉塞感にどうにも共感できなかった。これは致命的だった。
 まして映画では、小説の一人称による心理説明がない分、ミャハの破滅願望も、それに惹かれていくトァンの心理もまるで物語において希薄な印象にしかならない。原作を読んでいてさえそうなのだ。映画だけ見る人は、結局、何の話かよくわからない、という印象に終わってしまうのではなかろうか。
 「意識のない部族の人々」なども、当人たちを登場させないことには、その設定がどういうことなのかを観客に伝えるのは難しい。台詞の中で次々と説明だけされてしまい、人類がそうなるということがどんなことなのか、誰が想像できるんだろ。これは原作でもそうだ。概念としての新鮮さはあったのだが、そうした人々との直接の遭遇がないのは、いかにも残念だった。
 したがって、結末でも、なんらのカタルシスも戦慄もなく、まるで平坦な気分で見終えてしまった。
 
 アニメとしても、AR(拡張現実)の表現など、『ターミネーター』の昔、30年以上前からまるで変わっていない。電脳空間での会議なんて『攻殻機動隊SAC』『すべてがFになる』をはじめ、枚挙に暇無いにもかかわらず、それを今更、粗いデジタル表現にして、電脳空間であることを示すなんて、なんという時代錯誤なセンスだろう。電脳空間が完全にリアルで、かついきなり現実と切り替わるというような演出をしないかぎり、そこでの斬新さを表現することはできないではないか。

 SFの実写映画化を日本で実現することはほとんど絶望的に難しいのだが、この作品に関しては、アニメでしか、あの未来社会を描くことが難しいだろうと思いつつ、アニメならではの弱さも出たと思う。
 「生府」の支配する「生命主義」に統一された社会というのがどのように不気味な世界なのか。誰もが健康で穏やかで、美男美女で…。
 だがそれをアニメで描いても、単に下手なアニメにしか見えない。アニメはもともと不自然に美男美女ばかりの世界で、誰もが穏やかな不自然さは、単に演出の下手さにしか見ないだろう。
 もともと「自然」を描くのが難しいアニメで「不自然」を描くことの難しさよ。

 じゃあどうすればよかったのか。作品を批判的に語る度に頭をよぎる。ま、責任など無いのだから言いっ放しにしてしまえばいいのだが。
 ともかくも、あの百合要素は要らない。

2017年2月3日金曜日

『スティーブ・ジョブズ』 ー狂気と演説

 といってもダニー・ボイル監督版の方ではなく、2013年のジョシュア・マイケル・スターン版だ。
 アップルに思い入れはない。パソコンはずっとWindowsだし、iPodもiPadもiPhoneも使ったことがない。映画を観ていると、Macの発売が大学生の頃だったのかぁ、などと他人事のように思う。パソコンの購入などそれよりも10年以上も後のことだ。
 だから、単に歴史物としても興味はあったが、そこに実感の伴った感慨はない。だが、もちろん、そこに生きる人の悦びや痛みを味わうことはできるようにはよくできた映画だった。
 たとえば作り話だとも言われる、ガレージで発足した会社「アップル」に最初の大口出資者、マイク・マークラが現れて出資を決める場面。短いショットで次々とその場にいる者の表情を映し、その後の成功への期待を感じさせる昂揚感が場面に充ち満ちている。
 新しいことを始めるワクワクする気分。努力が形になる充実感。事態がうまくいかないもどかしさ、苛立ち、怒り。そしてもちろん挫折の痛み。目的のために冷酷に切り捨てたものの喪失感。
 ジョブズ自身は成功の裡に終わるのだから、物語はハッピーエンドなのだが、その陰で、アップル共同創業者の、大学時代の友人ダニエルがアップルを去るエピソード、スティーブ・ウォズニアックの離脱、そしてマイク・マークラの穏やかな解雇(?)は切ない。
 そのすべての強度がスティーブ・ジョブズなのだろうと感じさせる映画だった。それが事実の忠実な反映であるかどうかはともかく。

 二つほど。
 創業者であるジョブズがアップルを追い出される奇妙な顛末については、なるほどこうもあろうかと、そのバランスがうまく描かれていた。
 スティーブ・ジョブズの革新に対する確信の強さは、それこそがあの成功を生み出す核心なのだろうと思わざるを得ない。ある種の極端さが変革には必要だし、困難なイメージの実現のためにはそれを強くイメージして、諦めずに実行することが必要だ。
 映画は、ジョブズの持っているその狂気ともいえる意志が、あのアップルの成功をもたらしたのだろうと感じさせることには成功している。
 だがそうした狂気が常に実現や成功に終わるとは限らない。結局は製品開発は実現しないかもしれないし、ビジネス的に成功しないかもしれない。
 だがこれを途中で諦めていたら「結局」も何もないのだ。
 といって、ことはビジネスである。しかも大企業となればそこには企業の論理がはたらく。損失を出す部門は縮小されるし、企業活動の障害となるものは排除される。
 したがって、ジョブズが経営から排除されるのは、やむを得ない決定でもある。
 だが、ジョブズを主人公とする物語では、追い出す側が悪役に描かれるのは必然だ。『セッション』の鬼教官、J・K・シモンズ演ずる取締役員アーサーは嫌味な現実主義者だ。そうした企業の経営方針からは、アップルの今日の成功はなかったということになる。
 しかしそれはあくまで結果論であり、アーサーは別の企業を成功に導いているかもしれないし(現実的にそうだし)、ジョブズのような経営者が成功しなかった例は無数にあるだろう。ジョブズが冷酷に切り捨てたプロジェクトや社員に、小規模なジョブズ的可能性があった可能性だって大いにある。
 アーサーとジョブズは、対立する二つの価値を体現していると同時に、個々の事例において表裏いずれにも変わりうる、やってることは同じ「リーダー」でもある。
 だからアップルの例は結果論なのだ。成功したという現実から遡って、ジョブズのやり方が良かったかのように感じられるだけなのだ。だがその成り行きは常に拮抗した可能性同士のゆらぎに過ぎない。
 ただし、ジョブズが風呂に入るのが嫌いで同僚から苦情が出ていたとか、髭を剃らずにジーパンにセーターで仕事をするとか、エキセントリックで協調性がないとか、そういう、穏当なビジネスマンとして珍しいスタイルがビジネス上の成功をもたらしたわけではない。その奇矯が成功と拮抗しているわけではない。
 拮抗しているのは、強く実現を望む意志の狂気と、バランスを優先する理性的な常識感覚である。そしてそれはどちらが正しいというわけではない。
 ただ、歴史を変えるほどの変革には、やはり狂気じみた意志が必要なのだということは心に留めておいても良い。

 もう一つ。
 西洋はつくづく演説の文化だと思わされた。ジョブズのプレゼンテーションは有名だし、スタンフォード大学卒業式のスピーチはもちろん面白い。それにしても、何事につけ、まず演説によるアジテーションがあるのだ。映画のさまざまな場面が、その演説を劇的に見せることに費やされている。
 ジョブズだけでない。結果的にジョブズをアップルから追放するジョン・スカリーがアップルCEOに就任するときにも、やはり長い演説が描かれる。
 さまざまな価値ある事柄は、価値があることを、強い、巧みな言葉で言い募ることで価値あるものとなっているのだ。
 アップル製品そのものの価値が、例えばユーザーの描写によって描かれたりはしない。製品の価値を訴える演説にうっとりする人々の表情によって描かれる。
 アジテーションに続いて、チームが一様に意志を感じさせる表情とともにゆるやかな横列隊形を作って画面手前に歩いてくるスローモーションが度々描かれるのだが(『アルマゲドン』の宇宙飛行士チームのように)、その演説に観客が乗せられていなければ、それはほとんどお笑いのようにさえ感じられるはずだ。
 成功に先立って、こうした演説が何が何でも必須であるように見えるというのは、どこまで事実かわからないが、とてもアメリカ的だなあ、と感心したのだった。

2017年1月28日土曜日

『この世界の片隅に』 -能年玲奈のすごさ 価値あるアニメ化

 ネット、ラジオ、はてはテレビなど各種メディアの絶賛を喜ぶ応援団的心情は、むろん原作のファンだからである。物語は知っているから、ネタバレを恐れず、映画評のたぐいを漁って、その絶賛をわがことのように喜んだ。
 そしてとうとう映画館で鑑賞である。2年半も映画館に来ていなかったというのに、2週間で3本目である。機会が作れるタイミングだったということもあるが、やはり音響と没入感の点で「そのうちテレビで」とは違う体験として観ておこうと思ったのと、クラウド・ファウンディングに乗り遅れた後悔をメセナ気分で果たしたいということでもある。応援の気持ちを行動で示そうと。

 さて、映画については多くを語らない。賞賛の言葉は既に世の中に満ち溢れている。
 そして原作についても、語るのはしんどい。そのすごさはいくらでも強調してあまりあるが、それを批評するのは、あまりにハードルが高い。いわく、日常を細やかに描くことで戦時下の庶民にとっての戦争を描く。確かにそうである。だがそれ以上のことを付け加えるのは難しい。
 もっとも印象的だった指摘は、斎藤環のこの映画の題名の英訳が「In this world~」ではなく「In this corner~」だという話だ。「この」は「世界」ではなく「片隅」にかかっているのかもしれないのである。この物語の目指す方向を捉えるために心に留めておく意味のある指摘である。

 さて感想のみ。
 岡田斗司夫が、この映画で泣きたくても泣いてはいけないと言っていたが、冒頭で、海苔を届けるお使いに船に乗り込む子供時代の「すず」が画面に出てきたとたん、いきなり目頭が熱くなってしまった。こういう反応はむろん原作を読んでいるからだが、これは原作の「すず」が魅力的なキャラクターでもあり、アニメーションとして優れた造型でもあり、そして能年玲奈のすごさでもある。
 いやはや、能年玲奈はすごかった。うまいんだかなんだかわからないから、あれはああいう存在なんだと思うしかないが、ともかく、「あまちゃん」の天野アキがそうだったように、「すず」もまた、観ているうちに、そういう存在がそこにいるとしか思えなくなってしまうのだった。その無垢と向日性。だからこそ、時折見せる怒りや悲しみが一層胸に迫る。

 帰って原作を読み返そうと書棚を探すが上巻が見つからない。とりあえず中・下巻のみ読み返して、なるほど、これはアニメ化する価値のあった仕事だと腑に落ちた。
 それは無論、能年玲奈の存在も大きいのだが、監督もまた大きな仕事をした。
 原作を越える映像化作品(そもそもマンガは既に「映像」でもある)はほぼ無いといって間違いないが、この映画については、「越える」とは言わないが、それでも映画化するにあたってふくらんだ物語の機微がことごとく味わうに足るものに感じる、価値あるアニメ化だった。
 ことあるごとに聞こえてくる「徹底的な調査」は、既にこうの史代が原作で行っていることではあるが、それに負けずに片淵監督が行った「徹底的な調査」もまた、間違いなく作品に厚みと立体感を与えている。そこから生まれる背景美術の豊かさといい、音響からカメラワークから編集、当然アニメーション自体と、諸要素のレベルがことごとく高い。映画が単に原作の絵解きに終わっているわけではなく、あらたにそれ自体として高いレベルに結実している。
 とりわけ監督の仕事として大きいと感じた場面を特に二つ挙げる。
 一つは爆弾の炸裂で大怪我を負って間もない空襲の場面。警報が鳴り響く中、防空壕に避難するにも緩慢で、どこか投げやりにさえ見える「すず」の背後で、屋根を突き破って焼夷弾が部屋の中に跳び込む。束の間の静止の後に、怪我をした体で布団を焼夷弾に被せて消火する「すず」は、その行為全体から怒りをにじませているように感じられるのだが、原作を読んでみると、そこでは単に慌てて消火しているだけのように見える。
 もう一つは、それより少し後、空襲から避難する場面に登場する鷺である。映画ではまるで隠り世から目前の庭先に舞い降りたように見えた鷺だが、原作ではまるで平板で白茶けて見える。鷺が戦争に関わりなく、そこから飛び立つ存在として象徴的に描かれているのは原作も同様なのだろうが、その表現は映画においてずっと深く観る者の心に沁みこんでくるように感じた。
 どちらも原作とは違った何事かを描いているわけではないのだが、こうして丁寧に展開されることでその重要さがより受け手に届くように描かれていた。

 諸要素と言えばコトリンゴの音楽ももちろん良かった。
 「悲しくてやりきれない」も原曲に対する愛着はまるでなかったのだが、コトリンゴの手にかかれば、かくも、というほど魅力に溢れている。ましてエンディングの「たんぽぽ」の素晴らしさ!

 それにしても、「あまちゃん」では、故郷を離れている時に故郷を襲った3.11の悲劇を知ることなる岩手出身の少女を演じ、『この世界の片隅に』では嫁ぎ先にいる時に8.6の惨劇を知ることになる広島出身の少女を演ずることになる能年玲奈という女優は、なんと不思議なめぐりあわせの主なのだろう。