2015年12月24日木曜日

『パニック・フライト』(監督:ウェス・クレイブン)

 テレビ番組表によると、いかにもなB級サスペンス映画的な紹介だったのだが、監督がウェス・クレイブンときいて観てみる。
 するとこれがまたすばらしく面白い。放送時間にして正味1時間ちょっとで、ここまで次から次へと展開するサスペンス映画を作る手腕は、さすがの職人芸だ。
 主人公が、親族を人質にとられて要人暗殺の片棒を担がされるという設定は、奇しくも最近『ニック・オブ・タイム』で見たばかりだが、あれよりもはるかに面白かった。こんなにも似た設定なのに。
 ネットでは毀誉褒貶あって、犯人が愚かすぎるというのだが、そういう人が「~すればいいのに」という可能性は、ちゃんと封じられているように思えるのだが。それができない理由はちゃんと説明されていて、だから主人公はちゃんと苦労せざるを得ず、だからちゃんとサスペンスが生まれている、と思うのだが。『ニック・オブ・タイム』も、苦境から逃げるのが難しいのは確かだが、といって主人公を使った暗殺などがそもそも大いに失敗しそうで、はなから計画に無理がある、という感じだが、こちらはそうした無理もないと感じた。
 なぜ原題と違う英語の邦題をつけるのかと思ったら、そうか、『フライト・プラン』の二番煎じを狙ったのな(なおかつジョディ・フォスターつながりで『パニック・ルーム』の二匹目の泥鰌も狙っているのか)。よし、それを見逃しても、劇場未公開なのはどういうわけだ。まあ劇場に見に行ったりは決してしないだろうけど。それでも、『フライト・プラン』のようながっかり感を感じさせないだけ、テレビで観るには満足度の高い映画だった。
 『フライト・プラン』といい『ニック・オブ・タイム』といい『パニック・フライト』といい、ネットでは犯人の計画の杜撰さを揶揄する声がかまびすしいが、この中では本作が最も納得感が強く、とすればあとはそのサスペンスの盛り上げ方と解決の爽快感が勝負だ。つまるところ『スクリーム』くらいには面白い。というか、密度からすると、『スクリーム』シリーズ中でも屈指の(いや、全作含めても「屈指」だが)面白さだと言っていい。

2015年12月11日金曜日

『狩人の夜』(監督:チャールズ・ロートン)

 1955年の映画だから、もちろんカラー映画が当然の時代に、あえてモノクロ映画である。そのせいもあって、「こんな古い映画なんだから」と、最初から評価の基準が低くなっている気もするが、ジュディ・ガーランドの『オズの魔法使い』や大作『風とともに去りぬ』が1939年だから、ハリウッド映画はもう充分、今の評価基準でうけとめていいのだろう。
 いや、妙な魅力のある映画だった。「カルト映画として人気」という評価なのか。なるほど。美しい映像が頻出してドキッとする。川底に沈む車の座席に座った女の死体がやたら綺麗に見える夢のようなシーンはネットでも誰もが触れているし、子供たちの川下りのシーンに絡む生き物やら、昼だか夜だか分からない作り物の空だとか、悪夢のような、童話のような、妙な世界だった。
 二枚目のロバート・ミッチャムが狂気のシリアル・キラーを演ずるのだが、この牧師がやたらと登場する女性を惹きつけてしまい、そのことを本人も承知の上で利用しつつ、実は(当然と言えば当然だが)女性を憎んでいる、という設定が、魅力の一つではある。だが、どうもよくわからない。信仰心が本物のような嘘くさいような、金に執着するのもどうして必要な設定なのかわからない。そしてリリアン・ギッシュの老女の、一筋縄ではいかないキャラクターも、もちろん魅力的ではありつつ、どのあたりで捉えたらいいのか、落とし所がわからない。
 すごい映画であることは間違いないのだが、どうも捉え所が安定しない。

2015年12月6日日曜日

陽月メグミ 2

 先日YouTubeで見つけて驚いた「陽月メグミ」さんのライブが東京であるというので(大阪在住の人だそうだ)行ってきた。この週末の、めずらしく余裕のある日程が幸いだった。
 京王線明大前駅近くの「One」。入ってみると狭い狭い。客は満員で10人ちょっとというところ。ステージまで2mといった距離のカウンターに座って、演奏を堪能できた。
 「最初にボサノバを何曲か」と言って、一曲目が「イパネマの娘」で、オッとなった。スタンダード中のスタンダードが最初にきても不思議はないというより、素人向けにわかりやすくという配慮だろうけれど、オッというのは、先週の日曜日に、こちらもライブでやった曲だったからだ。あちらはビッグバンド用にアレンジされたものを、なんとかシンプルにシンプルに、ボサノバ本来のサウンドに戻そうと音を削って削って、ようやく納得できるものにしたのだが、こちらはガットギター弾き語りという、由緒正しいボサノバだった。ボサノバをビッグバンドでやるなんて、ボサノバへの冒瀆だと思う。
 メグミさんのライブは、多くはボサノバテイストのアレンジだったが、2ステージの1曲目とラストのジャミロクアイといい、ライブではそれなりにダイナミクスのある演奏もまたエモーショナルで良いのだった。You-tubeよりもずっと良かったのは、臨場感というだけでなく、多分、ライブという場で力を発揮する人だからだと思う。
 2ndステージのラストのJamiroquai「Virtual Insanity」


 昨夕、家を出てくるときに歩道橋の上から、夕空をバックにした富士山のシルエットがくっきり見えて印象的だったのだが、今朝の帰りに、駅のホームの延長上に、これまたくっきりと冬の富士山が見えていてびっくり。千葉県の印旛郡から見た富士山はこの距離にして見えるかという大きさが驚きだが、東京の世田谷から見ると、単に大きくて驚く。
 こういうとき、スマホだとそれぞれの写真を撮っておいてここに載せて比べられるのだが、ガラケーゆえそんなことをする発想が浮かばない。

2015年12月4日金曜日

『アジャストメント』(原題:The Adjustment Bureau)

 『リプリー』に続いてマット・デイモン主演映画を。
 歴史を陰から操ってきた組織「The Adjustment Bureau(調整局)」によって決められてしまう運命に抗って、自分の力で愛する女性との運命を実現させる下院議員をマット・デイモンが演ずるSF映画。
 よくできてる。監督のジョージ・ノルフィって、ただもんじゃねえ、と思ったら『ボーン・アルティメイタム』の脚本家だというのだが、だからといってこの監督としての熟練度はなんなんだ。
 途中まで、先の展開に対する興味をかきたてる吸引力がものすごいんだが、最後まで観ると、SF設定に対する期待は、実はそれほど満足させられない。SFというか、「謎の組織」は、結局「神の率いる天使たち」でしかなく、何やら最近観た『運命のボタン』やら『コンスタンティン』やらを思い出してしまった。SFといいながら、結局愛の力が勝つって結末については『エターナル・サンシャイン』を思い出したり。観ながら『運命のボタン』を思い出したのは、途中に出てくる、「神の世界」に属するらしい図書館が、『運命のボタン』に出てきた場所と同じではないかと思ったからでもある。調べれば有名な図書館なのかもしれない。ネットでも二つを連想で結びつけた人が多いことが確認できる。エンターテイメントとしての「わかりやすさ」「すっきり」度はこちらの方がはるかに高いが。
 愛の力が「運命」を乗り越える、というコンセプトにしても、そもそも主人公がヒロインに惹かれてしまうという、基本的な物語の原動力が前世の因縁だかの「運命」らしく、結局それって運命に操られているってことじゃないか? 相反する「運命」同士の拮抗に過ぎない?
 展開も映像も実に良くできた映画なのに、結局、物語に打たれることなく終わってしまうのは残念だった。

2015年12月1日火曜日

『リプリー』

 観始めてしばらくして、これは『太陽がいっぱい』じゃないかと思っていたら、はたしてそうなのだった。
 とはいえ、『太陽がいっぱい』を観たのはもう何十年前のことか、主人公が友人を殺し、ラストシーンでその犯罪が明るみに出て破滅するという展開だけしか覚えてはいないのだが。
 ところでこちらは文句の付けられない、すべてがうまい映画だった。ストーリー展開が巧みなのは原作がそうなのだろうが、演出から演技から編集からロケハンから、見事なものだった。
 だが後味は悪い。『太陽いっぱい』の因果応報的結末はそれなりの完結感があるのだが、それに比べて『リプリー』のこの、いきなりな終わりはなんだ?
 もちろん放送枠のカットの問題もあるんだろうが、終わってから調べてみると、そもそもこの物語はピカレスク・ロマン(悪漢小説)で、この後もリプリーが犯罪者として生きていくというのが原作の流れなのだそうな。ウィキペディアの紹介を見る限り、『リプリー』の暗さからは違和感のある続編だなあ。
 というわけで主人公が破滅する方がまだ後味はいいといえる。

 マット・デイモンのうまいのは今更言うまでもないが、アカデミー賞にノミネートされたジュード・ロウはもちろん、ケイト・ブランシェットやグウィネス・パルトローなど、脇も豪華。
 

2015年11月27日金曜日

『ニック・オブ・タイム』(監督:ジョン・バダム)

 幼い娘を謎の二人組に人質にとられて、知事の暗殺を命じられる会計士という役どころの、まだ若いジョニー・デップはまあどうでもいい。
 それよりクリストファー・ウォーケンだ。暗殺を計画する側の悪役なんだが、贔屓目に見ているせいか、どこかで真相が明らかになると、実は良い人だったりするんじゃないかという期待をしていたが、結局そんなどんでん返しはなくて、やっぱり単なる殺し屋だった。しかも杜撰な計画を実行にうつしているところが、冷酷な殺し屋の魅力もなくて残念。
 やたらと時計が映されるなあと思っていたら、だいたい映画のリアルタイムでドラマが進行しているって設定なのか。どうもそういうスリルがなかったのは、計画の最中にバーで飲んでいたり、かくたる宛もなく靴磨きを頼ったり、緊迫感に欠ける展開が目立ったからだ。
 ジョニー・デップ映画のこの印象は、そういえば『ツーリスト』以来だ。

2015年11月24日火曜日

『ラスト・キング・オブ・スコットランド』

 フォレスト・ウィテカーといえば『バンテージ・ポイント』の良い人ぶりが印象的なんだが、アカデミー主演男優賞を獲ってるとは聞いていた。それがこの映画に違いないと見当付けて観た。観始めて、これは間違いないと思って、後で調べてみると豈図らんや、そうであった。
 ウガンダの独裁者、イディ・アミンに関わることになったイギリス人医師から見たアミンの独裁ぶりを描く。
 なんといってもウィテカー演ずるアミン大統領が怖い怖い。
 もちろん、怖いだけなら主人公はウガンダに残ったりしなかった。アミンは魅力的でもあるのだ。豪放磊落な言動が背後に猜疑心に苛まれる臆病な人格と同居していて、容易に独裁者的な非人間的な振る舞いに転換しそうな気配を常に漂わせている怖さが、見ていてスリリングなこと。

 映画自体は危機をくぐりぬけて脱出という結末のカタルシスを感じさせながら、アミン独裁が終わるわけではないという後味の悪さも残す。哲学的なテーマに感じ入るというわけでも、精緻に組み上げられたストーリーを堪能するといった映画でもなく、手放しで満足はせず、良くも悪くもウィテカーの演技の圧倒的な映画。

2015年11月10日火曜日

『見知らぬ医師(原題「WACOLDA」)』(監督ルシア・プエンソ 2013年)

 古い映画なのかと思って観ていると、一昨年の映画か。物語が1960年のパタゴニアなのだが、画面の古びた空気がほんとに60年代の映画なのかと思わせる。
 その空気感の美しいこと。キタノ・ブルーじゃないが、前編、青みのかかった画面に、背景には峰峰に雪を残した山脈がいつもあって、パタゴニアらしい風が吹いている。
 物語はナチスドイツの将校、ヨーゼフ・メンゲレの逃亡時代を描いた実話に基づく。
 だが哀しいかな、どう受け取ればいいのか、結局分からなかった。感触から言えば、そんなにいい加減に作られているようには思えないのだが、どういう物語として構成されているつもりなのかがわからないままだった。きっとこちらの読解力不足だ。
 謎めいた場面があったりするわけではない。象徴的表現に満ちているわけでもない。もちろん、原題にもなっている人形が、メンゲレの人体に向ける視線の隠喩になっていることはわかるのだが、それがわかって、さて、メンゲレが実は冷酷な非人間的な人物として描かれていたのかどうか、よくわからない。少女に対する治療が、実は実験だったのかどうかもわからない。どっちかとして描かれているんだろうけど。
 解釈するための枠組みがどうも用意できないのだ。困ったものだ。もしかしたらものすごく面白い映画だったりしたのだろうか。安っぽい感じはまったくなかったのだが。

2015年11月1日日曜日

宮沢賢治「永訣の朝」を授業する 10 「Ora」とは誰か、「雪」のイメージ

 結局10回の連載になったが、今回でひとまず終わりである。折を見て書き下ろそうとは思っているし、ブログ自体もちょこちょこと読み返して、修正していくだろうが。

 さて、「永訣の朝」という詩を教えるというのなら触れなければならない問題はまだある。「まがつたてつぱうだまのやうに」は考察のネタとしては、ちょっとだけ面白かったが結論は出ない。28~30行目の「……ふたきれのみかげせきざいに/みぞれはさびしくたまつてゐる/わたくしはそのうへにあぶなくたち」にいたっては未だに何のことかわからない(もちろんそれなりの解釈も想像もするが、それが妥当なものだという納得はない)。
 あるいはどうみても意味ありげに繰り返される「二」という数字の意味についても、なんのアイデアもない。なぜ陶椀を「ふたつ」持つのかも、賢治が妹と自分の思い出である陶椀二つを切り離して考えられないからだ、などという解釈を聞いても、だからどうした、と思うばかりである(このへんが、自分はこの詩の良い読者ではないなあと思うところだ)。だから、なぜ賢治は陶椀を「ふたつ」持って出たのか? などと授業で聞く気にはなれない。

  それよりも問いたいのは次のことがらである。
 39行目「(Ora Orade Shitori egumo)」は誰の言葉か? 「Ora」とは誰を指しているか?
 もちろん結論はわかっている。だからこんなことを授業で問う国語教師は多くはあるまい。だがそれは賢治の自註と、連作の「松の針」などから「わかる」のであって、この詩を読んだだけでそれが確定できるわけではない。教科書の註には「私は私で独り行きます」という意味だと書いてあるだけで「私」が誰を指しているかは書いていない。
 こちらがそれを「教える」ことなく、生徒に問うてみる。必ずどのクラスでも兄と妹で見解は分かれる。見解が分かれるということは考察の余地があるということだ。
 だから問題は、そのように考える根拠と、そうだとすると、詩の中でこの一節がどのような意味を持っていると考えるか、である。
 丸括弧で括られている他のふたつ「あめゆじゆ…」「うまれて…」が明らかに妹の言葉だから「(Ora…)」もそうなのだと言うことは容易い。だが丸括弧に括られている言葉とそうでない詩行とは、そもそも方言と標準語という違いがあるのであり、つまり口に出された言葉を書き取った(らしく見える)ものに括弧が付されているのだとすれば、その語り手が統一されている保証はない。むしろ、ひらがなとローマ字、三文字下げになっていない、といった差異によって、「(Ora…)」だけが他の二カ所と区別されるはずだとも言える。したがってこの台詞は兄の言葉だと考えるべきだ、と主張することもできる。つまり形態上はどちらであると言いうる根拠はない(三文字下げについては、校訂上のミスだったという説もあるが)。
 内容的にみると、残していく兄を案じて、妹が別れを告げた言葉だとも、妹との別れを受け入れようとする兄の決意の言葉だとも受け取れる。どちらの言葉であるかを、二つの可能性それぞれについて生徒自身が先入観抜きに検討することこそ学習なのであって、教師が結論を提示することに意味があるのではない。どちらの言葉であっても、それを納得しようと読むことが、この一行を挟む「けふおまへはわかれてしまふ」という兄の思いに自らを重ねることになるのである。
 そして前後の行に目を向けるとき、36行目の「わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ」の「いつしよ」が「ひとり」になってしまうこと、44行目で再び繰り返される、「けなげないもうとよ」という呼びかけにこめられた悲痛な思いは、それがどちらの言葉であっても、いっそう読者にそれと感じられるはずだ。

  この部分を取り上げる問いとしては、なぜこれがローマ字で書かれているのか、という問いが一般的である。だが、この問いはそれほど魅力的な問いではない。それがこの詩全体を読むことにつながっていかないと思うからだ。
 たとえば、「独りで行きます」というトシの言葉に衝撃を受け、それを受け入れたくないという思いがこの言葉を異国の言葉のように書かせているのだ、などという定説は、否定はしないが魅力的でもない。それは「降る/沈む」のところでもふれたが、なぜ作者がそう書いたのか、に発想が偏りすぎていて、どうにも信用ならないからだ。賢治自身は、原稿ではこれ以外の二カ所もすべてローマ字で書いてから一度全てひらがなに直し、最終的にこの言葉だけをローマ字に戻したのだという。こうした成立過程は、賢治の中で、このローマ字がどのような効果を読者にもたらすかについての計算が働いていることを感じさせる。それは悲痛の余りそう書かざるを得なかった詩人、などという「作者神話」とはどうみてもズレてしまう。やはり、なぜ作者はこう書いたのか、ではなくまず、これは読者にどのような印象を与えるか、と問うべきなのだ。そしてその検討過程で、それが作者の意図によるものかどうかを推測すべきなのだ。
 そして、これがローマ字であることの効果について、筆者は特別な見解を持っていない。わざと意味をとりにくくしているのだろうと思うのは、読者として意味が分かりにくいからだ。というか、註がなければわかるはずもない。だがそれならば「あめゆじゆ…」も「うまれて…」も同じだ。ともかくも、すぐにはわからない、というクッションが必要なのであって、わかったときに、それが妹の言葉であろうが兄の言葉であろうが、「独りで行く」ことの痛みを感じさせることになるという効果をねらってローマ字なのだろうとは思う。
 こんなことも、とりあえず問うてみて生徒の発想に触れてみれば案外面白いと感ずるかも知れないが、こちらの見解としてとりわけ語りたいとも思わず、今回は扱わなかった。

 さて「永訣の朝」の授業もこれで終わりである。授業は実際には「『から』の謎」で終わった。「Ora」についての考察は、途中で扱ったクラスがひとつあったきりだ。
 だが詩の読解としては少々付け加えるべきことがある。最初の「なぜ頼んだのか?」の段階で考察した「なぜ兄を『いつしやうあかるくする』ことになるのか?」についてである。
 妹がみぞれをとってきてくれと頼むにあたっての想定としてはあれでいいと思う。だが、むろんこれは兄の想像であって、妹の意図がそのとおりだったとは限らない。また、妹が仮にそうした頼み事を兄が叶えることが兄を「一生明るくする」ことになるのだと考えたとしても、実際に兄がいくらかでも「明るくなる」ことができたとしたら、それは妹の意図通りになっているからでもあり、さらにそうした妹の意図をくみ取ったからでもあるが、またそれだけでもないとも思う。つまり「妹の最後の頼みを叶えることができた」というだけでないく、そこには、妹の要請に応じて病室に持ち帰るのが「雪のひとわん」であるということ自体が作用しているように感ずるのだ。
 「こんなさつぱりした雪のひとわん」「銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの/そらからおちた雪のさいごのひとわん」「雪と水とのまつしろな二相系をたもち/すきとほるつめたい雫にみちた/このつややかな松のえだから/わたくしのやさしいいもうとの/さいごのたべもの」「この雪は…あんまりどこもまつしろなのだ」「このうつくしい雪」「天上のアイスクリーム」「聖い資糧」といった形容によってイメージされる「みぞれ/雪」は、まぎれもない聖性を帯びたものとして、妹の死を浄める存在であるように感じられる。
 だがこれは、妹がそれを意図して兄に「たのんだ」のだということではない。妹が意図していたとすれば、兄に何か役割を与えようというところまでである。それすら兄の妄想じみた穿ちすぎの推測だと言ってもいい。だが兄はそれを信じているし、同時に、聖性を持った「みぞれ/雪」を頼んだことも、それが兄を救うための妹の気遣いであったとすら信じているのかもしれない。
 ともあれ、どこまでが妹の意図であるかを詮索するまでもなく、この「みぞれ/雪」が兄にとってはまぎれもなく聖性を帯びたものであることは読み取らなければならない。それについては、今回の一連の授業過程の中には折り込めなかった。今後の課題である。

『セクター5 第5地区』(原題:VAMPYRE:NATION)

 邦題が「第9地区」のパクリであることは、別に隠そうとはしていないだろうが、まるわかりである。「第9地区」のエイリアンがヴァンパイアになった、吸血鬼特区のお話。
 もちろんこの邦題からわかるとおりB級である。だが低予算映画がつまらないとは限らない。アイデアと志次第だ。だがどちらもあまりなかった。まじめにこの映画のつまらなさを論ずるサイト、ブログは偉いと思う。そんな情熱はわかない。いっそ怒りを覚える、という動機で書きたくなるわけでもない。金がかかっていることは間違いないのに、残念なことだ。
 ついでに、ゾンビとともに、ヴァンパイアというのも、素材としては面白いかも知れない、とも思った。どちらも人間が「なる」ものとしての両義性があるからだ(原ヴァンパイアみたいなものもいるらしかったが)。さらにウィルス感染で単なる巨大吸血蝙蝠と化した、元ヴァンパイアを交えての三つどもえという設定は、描き方次第で面白くなるだろうな。
 残念なことだ。

宮沢賢治「永訣の朝」を授業する 9 「から」の謎 2

 ちょっと間があいた。承前。

 「わたくしもまつすぐにすすんでいく」ことは、なぜ妹が「安心する」ことの理由になるのか?
 問題は「まつすぐにすすんでいく」ことの内容をどの程度まで具体的に想像できるかにかかっている。「今まで通りの道を逸れずに」とか「目的に向かって一直線に」とかいう説明はまるで具体的ではない。「道」「目的」とは何を意味しているかがあらためて問題になるだけだ。単に「人として正しい道を進んでいく」といったイメージでも、文脈上、齟齬を来すわけではないが、そうした読みはまあ、それまで、である(「こころ」における「正直な道を歩こうとして」を思い出してしまった。あれも、わかったつもりで読むこともできるが、具体的には何を指しているかを確定しようと思うとたちまち迷路に入ってしまう、考察の可能性を豊かにもった「授業ネタ」である)。
 「も」の意味、つまり「わたくし」が妹と並列されることの意味を充分に説明できるだけの具体性をもって、と言うと、「妹の後を追って、私も真っ直ぐに天国に進んでいく」という解答にいたるのは、思考としては論理的だ。そうした解釈をつい発想して黙って苦笑している者もいるし、わざと口にして積極的に笑いを取りに行く者もいる。
 一方で「妹の死を乗り越えて生きていく」では「も」の意味が無視されてしまう。「わたくしまつすぐにすすんでいく」のではない。あくまでも「わたくし」なのである。つまり単に「死ぬ」でも「生きる」でもないのである。
 文脈上は前の行の「わたくしのけなげないもうとよ」を受けているという指摘をする生徒がいる。適切な指摘だ。「まつすぐにすすんでいく」とは確かに「けなげ」であることを指している。ではさらに「けなげ」とはどういうことを指しているか、と聞く。
 このあたりで、単に説明の言葉を探すよりも、詩全体に視野を広げて考えるよう指示する。もっと端的に指示するなら、この部分と他の部分に共通する要素を探せ、と言ってしまう。時間をとって考えさせたいが、生徒の根気と授業時間に制限がありそうなら、「まつすぐにすすんでいく」の前の部分と、49行目からの「(うまれでくるたて/こんどはこたにわりやのごとばかりで/くるしまなあよにうまれてくる)」を読み比べよ、と指示する。何か気付くことはないか?
 さらに時間をおいて考えさせたいが、これでもやはり問いが漠然とし過ぎて、生徒には考えようがないかもしれない。考え倦ねている様子が見られたら、端的に、両者に共通する要素はないか、と聞いてもいい。そしてもう一カ所、結びつけて考えて欲しい箇所がある、と付け加える。そしてさらに、以前の授業の考察が伏線になっている、とも言う。
 ここまで誘導すると、気付く生徒が現れる。
 両者はともに「他人のために生きる」という点において重ね合わせることができるのである。
 このフレーズを提示したとたんに、何割かの生徒の中では、ある論理が焦点を結ぶはずだ。「腑に落ちる」という感覚である。
 だがもちろん、その論理を言葉にして説明することが、同様に容易なわけではない。
 「また人に生まれてくるときは、こんなに自分のことばかりで苦しまないように生まれてきます」は誰の言葉か? 言うまでもなく、今しも死にゆく妹の言葉でしかあり得ない。妹は何を言っているのか? 「苦しまないように」という否定形ではなく、「また人に生まれてくるときは」どのようにしたいと言っていることになるのか?
 例によって問いを微分していく。
 「自分のことばかり」であることを悔やんでいるということは、本当は「自分のことばかり」ではなく、すなわち「他人のために」生きたかったということだ、と考えることに無理はないはずだ。何に苦しんでいたの? と聞く。もちろん「病気で」という答えは返ってくる。他に考えられる可能性は? と聞けば、例えば「貧乏で生活が苦しかった」などという答えも出てくる(宮澤家は裕福だったから現実とは合致していないかもしれないが)。あるいは病気以外の、自分に関する何らかの悩みだって可能性としては想像していい。ともあれ、そうした阻害要因によって、「自分のことばかり」であったことを悔いているとすれば、可能ならば「他人のために生きる」ことこそ、彼女の本望であったはずなのだ。それが叶えられないで死にゆく者の言葉として「(うまれでくるたて/こんどはこたにわりやのごとばかりで/くるしまなあよにうまれてくる)」が読めることを確認する。
 一方で「まつすぐにすすんでいくから」の前の部分はどうか?
 ここは先の「なぜ頼んだのか?」の考察が伏線になっている。兄にみぞれをとってきてくれと頼む妹の要請が、自らの欲求に因るものではなく、「わたくしをいつしやうあかるくするために」なされたのだと語り手は考える。死の間際にありながら、それでも他人のことを考える妹の「けなげ」さに対して語り手は「ありがたう」と言っている。それを受けて「わたくしも」なのである。とすれば、「まつすぐにすすむ」とは、妹がそうしていたように、あるいはそうしたかったように「他人のために生きる」ことにほかならない。ここは、そうして妹の遺志を継ぐことの宣言を理由として、妹が安心して天に召されることを願っているからこその「から」なのである。

 さて、こうした考察によって初めて明らかになる一節があるはずだ。こうした賢治の願いを引き受けた表現があるはずだ、と問えば誰かしら気づく生徒がいる。
 55行目の「おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに」の中の「みんなとに」である。
 この「みぞれ」「雪」は、いわば妹の死に水、末期の水である。それが「天上のアイスクリーム」などという甘やかなイメージに変換されたからといって、「みんなとに」もたらされる理由はない(改稿された後の「兜率の天の食(じき)」には衆生を救うイメージが付加されているが)。それなのに「みんなとに」がここに挿入される必然性は、ここがいわば、妹の死後、妹の遺志を継いで兄が「みんなのために生きる」ことを妹への手向けの言葉として宣言しているからである。

 「永訣の朝」という詩が、妹の意志を継ぐことを宣言することで妹を看取る兄の祈りを主想とする詩であることを、「から」で表される「理由」が「理由」になっている論理を明らかにすることで読み取ってきた。
 こうした、この詩の主想の捉え方自体は特別に目新しいものではない。だがそれは必ずしもこの詩を「読む」ことによってもたらされる認識であるとは限らない。我々教師は、実は宮澤賢治が農民のために一生を捧げた教師であるといった伝記的事実を事前に知っており、それをガイドラインにして詩を読んでいる。だがそうした賢治の祈りは、いわば詩の「外部」から持ち込まずとも実は目の前の詩の言葉を丹念に読むことによって読み取れるのである。
 我々は授業において宮澤賢治という人物について教えようとしているわけではないし、「永訣の朝」という詩について教えているのですらない。国語の授業をしているのである。生徒自身が目の前のテキストを「読む」のである。

 以下次号 「『Ora』とは誰か、『雪』のイメージ」

2015年10月31日土曜日

『アルカトラズからの脱出』(監督:ドン・シーゲル)

 この間、題名を挙げたもののいまいち記憶がないなと思っていたのだが、観てみると、そもそも観た覚えがなかった。いや、記憶に残らなかっただけかもしれない。
 アルカトラズ刑務所からの脱獄映画だとは、題名から知れる。知っていて観ている。そのつもりで期待し、かつ名作と評判が高い映画なのだが、ひたすら地味だった。別に派手であってほしいというわけではない。でも、何を楽しめばいいのか。
 いや、考えれば「良い映画」的要素はいっぱいあったような気もする。キャラクターはそれぞれ立っているし、囚人同士の友情やら、憎たらしい所長の鼻を明かす爽快感もある。脱獄の計画の段階のサスペンスはもちろん丁寧に描かれている。
 にもかかわらず、結局、これで終わり!? 的なガッカリ感で終わった。言葉に挙げて数えられるほどには、それぞれの要素が面白さにつながっているように思えなかったのだ。脱獄にかける執念や、その能力の高さということなら『破獄』や、同じアルカトラズを舞台にした『ザ・ロック』の方がよほど見応えがあったし、刑務所での悲喜こもごもをドラマとして描くなら『ショーシャンクの空に』にはるかに及ばない。
 脱獄にともなうサスペンスがあった、といいつつ、どうにも計画がうまくいきすぎて呆気ないという感じがしてしまうところと、クリント・イーストウッドが、どうしても脱獄したいという動機を強く持っている人物に感じられない、というところに問題があるような。
 どうしても出たい、だが困難だ、という葛藤の原動力となる双方の力が、いずれも弱く感じたのだった。
 ドン・シーゲルとクリント・イーストウッドといえば『ダーティー・ハリー』だが、あれに比べてもよほど地味だ。

2015年10月27日火曜日

秋刀魚

 台湾の漁船が公海上で乱獲するから日本の近海で秋刀魚が不漁だと何度かニュースで見ていたので今年は機会がないかと思っていたら、まずまずの安い秋刀魚が出回っているので、今年も秋刀魚の煮物を作る。小ぶりのが5匹で200円くらいになったら。
 かつてレシピを見たことも、調味料の量をはかったこともないが、失敗したことがない。ぶつ切りにして圧力鍋に放り込み、醤油と味醂と砂糖と生姜で味付けして煮るだけ。骨まで柔らかくなってそのまま食べられる。
 うまい。

2015年10月23日金曜日

宮沢賢治「永訣の朝」を授業する 8 「から」の謎 1

 前回までの語り手のいる場所についての考察は、詩の中を流れる時間についての把握や、賢治の世界認識のありかたにまでいたる、案外に広い射程に至る考察であった。もともとは「コペルニクス的転回」のスペクタクルを筆者が楽しんでいただけだったのだが。
 さて残るは、この詩の主想に至る考察を導く問いである。

前回触れた27行目「雪のさいごのひとわんを…」は、「段落分け」の回にも触れたとおり、25行目の「おまへはわたくしにたのんだのだ」に返っていく。こういうのを何と言う? と聞く。「倒置法」は中学以来馴染んだ詩の技法である。
 では22行目の「わたくしもまつすぐにすすんでいくから」はどこにかかる?
  23行目は「(あめゆじゆとてちてけんじや)」のリフレインでつながらないし、24・25行目「はげしいはげしい熱やあへぎのあひだから/おまへはわたくしにたのんだのだ」でも意味不明だ。「倒置法」のやりとりを枕にしておいたのは、前を遡って探すことにも誘導するためだ。しばらく考えさせておく。だが見つからない。
 つまりこの「から」はどこにも続かない。かかっていない。では何だ?
 何だと言われて、生徒は答えに窮する。考えさせるのは一瞬でいい。何のことはない、つまり文末が省略されているのである。何が省略されている? 何を補う? 何に続く?
 これはとりわけ難しい問いではない。「安心して逝きなさい」「心配しないで天国に行ってくれ」…。
 さて、ここからが問題である。
 「から」は理由を表す接続助詞だ。「わたくしもまつすぐにすすんでいく」ことは、なぜ妹が「安心する」ことの理由になるのか?

 しばらく考えさせてから、考えるための糸口を提供する。「も」は並列を表す副助詞だが何と何を並列しているか?
 言うまでもなく、妹と兄(わたくし)である。これを条件に入れて「まつすぐにすすんでいく」ことが何を意味しているかを、より具体的に説明せよ、と問う。

 読者は、ここがとりわけ「分からない」とは思っていないはずだ(少なくとも授業前の筆者はそうだった)。したがってここまでのやりとりは、既にわかっていることを微分しながら確認しているだけである。省略も理由も並列も、特に考えるでもなく「分かる」。
 だがなぜそれが「理由」になるのかを説明しようとすると、俄にその確信が曖昧になる。

この項続く 「『から』の謎 2」

2015年10月21日水曜日

宮沢賢治「永訣の朝」を授業する 7 ~語り手はどこにいるか その3

 さて、語り手が詩の最初から「おもて」にいるとすると、6行目の「みぞれはびちよびちよふつてくる」と15行目の「みぞれはびちよびちよ沈んでくる」の違いはどうなるか?
 生徒たちから出てきた「降る」は「軽い・速い」、「沈む」は「重い・遅い」は、否定する必要もないが、それほど重要でもないと思う。確かにこの「みぞれ」の水分含有量は多いが、それは「沈む」の方が、というわけではない。「降る」は、みぞれの下降を表す動詞として、いわばニュートラルな、無色透明な動詞だ。だから「びちよびちよ」と降るみぞれは、最初から水を多く含んでいるのである。
 そして「沈む」という動詞に語り手の気分が反映しているであろうという見解にも首肯しない。最初から語り手が庭先にいるという想定で読み下してみると、6行目と15行目の時間的経過は、問題にするほどには感じられない。気分が「沈んで」いるとすれば、それは詩の語り出しの時点からそうだったのだ。だからこそ「へんに」なのだし「いつさう陰惨な雲」なのだ。そして「沈んでくる」みぞれは「さっぱりした雪」だし、それを採っていくことが「わたくしをいつしやうあかるくする」のである。とりわけ6行目から15行目に向かって気分が「沈む」ような変化があるようには感じない。
  ではなぜ「沈んでくる」なのか?
 賢治がなぜ「沈む」という動詞を選んだのか、と考えることは留保しよう、と先ほど述べた。そう、まずは読み手が「沈む」をどう読むか、である。そしてそれが本当に筆者の表現したいことなのかを推測すべきなのだ。
 筑摩書房の「自分の足元にみぞれが沈みたまっていく様子を描いている。」などという読みは、そうした読者としての印象を無視しているとしか思えない。それは「沈む」という動詞が持っている「視線を下に向ける」という性質をどうにか説明しようとした挙げ句、「みぞれは…沈んでくる」という実際の詩の言葉を無視してしまった惨状だ(それともまさか、本当にそう読んだのか? 一読者として)。

 「沈んでくる」は確かに雲を見上げてみぞれの落ちてくる光景を捉えた表現だ。「~から~てくる」という文型で表されている以上、視線は「から」の方向に向けられているとしか受け取れない。もちろんそれは6行目も同じで、だからこそ見上げる視線だと考えられるのは、「ふつてくる」の時点で既にそうなのだ。「ふつてくる」が横から見た視線だ、などという指導書の説明はそうした自然な解釈を無視して、語り手が室内にいるという想定から無理矢理説明を組み立てていることによるものに過ぎない。
 一方でその文型に「沈む」という動詞をはめこむとどういうことになるか?
 語り手はみぞれの落ちてくる雲を見上げながら、同時に自分が「底」にいるのだと感じている、ということだ。「沈む」が見下ろす視線をイメージさせるとすれば、語り手は空を見上げながら、同時に見上げる自分を、「底」にいる自分を、広い空間から見下ろしているのである。
 こんなことがありうるか? 何の問題もない、と一読者としての筆者は感ずる。言葉によって構成された虚構が、複数の視線の複合体として捉えられている状態など、珍しいものではない。先に挙げた「彼が部屋の中に入った」なども、イメージしようとすれば、いくつかの方向の視線の交錯した映像として浮かぶ。スタイリッシュな映像を作りたい映画監督ならば、いくつかの方向からのカメラで撮影した短いカットをつないで、その動作や表情や周囲の部屋の造作などから、多くの情報を観客に見せることができるはずだ。小説の、あるいは詩の一節を読む読者にも、同様の映像イメージを脳内に出現させることが可能なのである。「沈む」という動詞と「~から~くる」という不整合な文型が、そうした、二重の映像を同時に生み出しているのである。

 こうした解釈は、詩の中のどの言葉と響き合っているか?
 生徒に問うてみる。必ず答える生徒はいる(どこのクラスでもそうした答えが出てきた)。
 14行目の「銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの」である。とりわけ「気圏」は、自分のいる地上が「底」であるという認識と響き合って、大気圏全体を(さらにその先に拡がる宇宙を)、広い空間として捉えさせる。
 そして逆に、そうした賢治の認識から生み出されたのが「沈んでくる」という表現なのではないか。この地上を「空気の底」「大気の底」と捉える認識は、科学的な認識と宗教的な認識が合致する地点にある。そのように世界を捉える人としての賢治という詩人を表したのがこの「沈んでくる」という表現なのではないかと考えるのだ。

  さて、語り手のいる場所についての以上のような見解は、詩の中を流れる時間の捉え方についても変更を迫る。
 冒頭から12行目「とびだした」までが時間順に沿っているというのが従来の捉え方だ。だが、冒頭から「おもて」にいるとすれば、そこが詩の中の「現在」であり、詩の展開に沿って時間が進行しているのではなく、むしろ時間は遡っていく。語り手の思いは遡って「おもて」に飛びだす場面が回想され、一旦14・15行目で現在に戻るものの、再びさらに遡って、飛びだすにいたるきっかけとしての妹の言葉の発せられた時点へと戻る。
 先に
27行目「雪のさいごのひとわんを…
28行目…ふたきれのみかげせきざいに」
の「…」は何を意味しているのかという疑問を提示しておいた。それは、遡った時間を再び現在に戻す、いわば「我に返る」瞬間の落差を表しているのだといえる。したがって、ここを境として詩全体を二つに分けるという捉え方は妥当なものだと思われる。
 そして後半では36行目に「わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ」という遠い過去のイメージが重なってくるものの、基本的には時間は遡ることなく、むしろ掉尾では未来へ思いを馳せることになる。

2015年10月20日火曜日

宮沢賢治「永訣の朝」を授業する 6 ~語り手はどこにいるか その2

 承前

 6行目「みぞれはびちよびちよふつてくる」の語り手は室内にいる。とすればこれは窓から外を眺めた光景であるはずだ。
 15行目「みぞれはびちよびちよ沈んでくる」は屋外にいる。とすればこれは見上げる視線で捉えた光景であるはずだ。
 これは実感に合っているだろうか?

 「ふってくる」の方は、家の中から外を見やっての情景として印象づけられるが、「沈んでくる」の方は、みぞれが地面=底にいる自分に向かって降ってきて、自分がそのみぞれを仰ぎ見ている情景という印象が強い。(大修館「指導資料」)
 「ふつてくる」は室内から見える雪の様子を捉えているが、「沈んでくる」は外に出た「わたくし」に向かって降ってくる雪の動きの印象を捉えた表現となっている。(明治書院「指導書」)
 「ふつてくる」の方は、室内から戸外に降るみぞれに対して眼差しを向けた表現であり、「沈んでくる」は、実際に戸外においてみぞれを感じながら、自分の足元にみぞれが沈みたまっていく様子を描いている。「みぞれはびちよびちよふつてくる」と「みぞれはびちよびちよ沈んでくる」から、さらに「みぞれはさびしくたまつてゐる」と言い換えられている。詩の世界における場面展開と時間の経過がこれらの書き分けによって見事に表現されている。(筑摩書房「学習指導の研究」)
  いずれの解説でも「ふつてくる」は室内から外を眺める視線であり、「沈んでくる」は外にいて見上げる視線である。
 だが生徒からは、
「降る」は視線が上を向いているような気がするのに対し、「沈む」は下を向いているような気がする。
という意見が出ていた。語り手の視線の方向と、動詞が元々持っている意味とは食い違っている。
 どういうことだろうか。

 この不整合を解消するアイデアはないか、と問いかけても良い。が、これはかなりな難問だし、そもそもこれを不整合だと見なさないと強弁されては、考察を促すこともできない。窓の中からだって、空を見上げて「ふつてくる」ということは可能だし、筑摩書房のように「自分の足元にみぞれが沈みたまっていく様子を描いている」と言うこともできる(よくもまあこんな無理矢理な「トンデモ」解釈を思いついたものだと思うが)。
 だが、ここまでの「了解」に納得していない生徒がいる可能性もないわけではない。これは考察に値する問題である。時間をとって考えさせたかった。
 実際に今回の授業では時間もとれなかったが、誘導するのなら「語り手の場所」と「視線の向き」を一致させる解釈はできないか? と素直に聞いてみたい。もっとはっきりと誘導してしまうのなら、本当に語り手は室内からみぞれが「ふつてくる」のを見ているの? と聞いてもいい。
 教師がこんなふうに言えば、生徒はそうでない可能性を考えざるをえない。考えてほしい。そのとき何が起こるか?
 筆者が誘導しようとしているのは次のような「読み」である。
 語り手は、詩の最初から屋外にいるのである。
  生徒に想像させる。語り手はみぞれの降る庭にいる。「けふのうちに/とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ」という語りかけは、枕元にいる語り手が目の前の妹に呼びかけているのではなく、屋外から室内への呼びかけなのである。「みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ」という語り手は、既に「おもて」にいて、その場の様子を、妹のいる室内から見た時と違って「へんにあかるい」と表現しているのである。
 驚くべき認識の変更が訪れないだろうか。これはちょっとした「コペルニクス的転回」である。
  したがって「うすあかくいつそう陰惨な雲から/みぞれはびちよびちよふつてくる」もまた、屋外にいて、空を見上げているのである。視線の向きは「降る」の印象と整合する。
 では、そもそも最初の語り手を室内にいるものと考えた根拠であるところの「わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに/このくらいみぞれのなかに飛びだした」はどうなるのか?
 回想なのである。屋外に佇む語り手が、自分が外にいる事情を回想しているのである。「わたくしは」さっき「飛びだし」て、今ここにいるのである。

 さて、最初のところで語り手は屋内にいるのだという読みは、御大吉田精一をはじめとして、上に見た指導書にあるように世の大勢を占めている。
 白状すると、実は筆者もまた、疑うことなく語り手が室内にいるものと考えていた。妹の枕元にいる語り手が窓から、みぞれの降る外を見ているのだと思っていた。だがこれは、上の二つの解釈の可能性を考えた上で選んだものではない。単にそうした解釈しかしていなかったというだけなのだ。
  はじめから外にいる、という読みを筆者に提示してくれたのは、当時高校2年生の息子である。
 彼が受けた授業でも、当然のように室内にいる語り手を前提とした解説がなされ、それを前提として「ふつてくる」と「沈んでくる」の違いが説明され、「(あめゆじゆとてちてけんじや)」リフレインの4回のうち、最初の2回と後の2回の違いは何か、と問われたのだそうだ(前二つは室内で妹に語られたものであり、あと二つは回想である)。そうした解説に違和感を感じた息子は、彼自身にとって自然な読みとして、語り手が詩の最初から外にいるものとして読んだのである。
 授業の意義はここにある。それぞれ読者は自分の読みを相対化することができない。自分の中に生成された「読み」は、あらためて自覚的に考え直さない限りは絶対的なものである。それ以外の「読み」の可能性は視野に入らないからである。だからこそ、自分以外のものが周りにいて、それぞれの「読み」を提出しあうことに意味があるのである。

 最初は何の疑いもなく、語り手は室内にいるものとして読んでいた。だが一度、最初から外にいるという読みについて本気で想像してみると、筆者にはもう、そうとしか思えない。
 本当に、両方の読みの可能性を知った上で、やはり室内なのだと主張する論者はいるのだろうか。
 授業では、教師の主張する結論を教えることが目的ではないから、できれば生徒自身にその妥当性を比較させたい。だが、これも今回は充分な時間がとれず、生徒からの意見はかろうじて一つだけ聞けたにとどまった。
 室内にいるのなら「ふつてくる」ではなく「ふつている」ではないか、というのである。
 もちろんこれは「室内ではあり得ない」と確信するだけの絶対性のある根拠ではない。だが少なくとも一つは説得力のある根拠が挙がったのは収穫だった。
 筆者にとって説得力があると思える根拠は、12行目の「このくらいみぞれのなかに飛びだした」である。「この」は、既に外にいる語り手が発している言葉だと感じる。現に行為しつつあることの表現ならば単に「くらいみぞれのなかに飛びだした」が自然である。
  そう思ってみると冒頭の「みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ」も、現に妹の枕元にいるのだとしたら「いもうとよ」と呼びかける意図がよくわからない。妹は熱にうなされて朦朧として外を見ることができないとでも考えればいいのだろうか。あるいは単に眠っているか。
 それより、妹の枕元から離れて「おもて」へ「飛びだした」語り手が、「おもて」に出てみると、そこは中から見ていたのとは違って「へんにあかるいのだ」と、その不安定な、落ち着かない思いを語りかけているということではないか。

 実はネット上で世の好事家や教師の意見を漁ってみた。基本的には最初は室内にいるものとして読む見解ばかりしか見つからない。筆者もその一人だったわけだ。
 だが一人だけ、語り手は最初から外にいるという読みを提示しているのを見つけた。中央大学附属高校の長谷川達哉教諭である。
 驚愕した。彼とは浅からぬ因縁がある。こんなところで彼の名に出くわそうとは。
 彼の挙げる根拠は9行目の「これらふたつのかけた陶椀に」だ。語り手は今初めて陶椀を手にしたわけではなく、それは既に手の中にある。とすればこの言葉を発するより前に既に語り手は外にいるのである。卓見である。

 すると「(あめゆじゆとてちてけんじや)」のリフレインはどういうことになるか。
 最初語り手が室内にいるとすると「(あめゆじゆとてちてけんじや)」は、横たわるトシの姿に重なって詩の中に流れることになる。あるいは、最初のそれは直接話法としての台詞だとでも考えるのか。そうした妹の台詞に突き動かされるように「わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに/このくらいみぞれのなかに飛びだ」したのであろうか。
 だが、最初から外にいるのだとすると、リフレインは4回とも同じトーンで繰り返されているということになる。外にいる自分の使命を常に証すものとして、さっきの室内で聞いた妹の言葉が繰り返されるのだ。

 この項、続く

2015年10月19日月曜日

陽月メグミ という人

 連日の「永訣の朝」論はちょっと息切れして、お休み。

 先日、Esperanza SpaldingをYou-tubeで漁っていてこういう人にたどりついた。すごい。恐ろしいアマチュアがいる。関西の人みたいだが、関東に来る機会もあるらしいから、ちょっと情報を追いかけて、可能なら出かけてみようか。


2015年10月18日日曜日

宮沢賢治「永訣の朝」を授業する 5 ~語り手はどこにいるか その1

 実は「永訣の朝」を授業で扱おうと思ったのは、次の点について考えてみたかったからだ。
この詩において、語り手はどこにいるか?
文学の分析方法としては一般的な「語り手」という概念は、もちろん生徒には馴染みがない。だからこの問い方では何のことか生徒はわからない。すぐに付け加える。「この詩の情景を語っている視点はどこにあるか?」。さらに「この詩を読んで思い浮かぶ情景は、どこにあるカメラから撮影されているか?」。
  例文で示す。
a.彼は部屋の中に入ってきた。
b.彼は部屋の中に入っていった。
  カメラはどこにあるか?
  aは室内でbは室外(廊下?)である。aではドアから入ってくる彼の顔が見える。bではドアの内部に消える彼の背中が見える。
 これは生徒にもわかりやすい例だ。すぐに適切な答えが返ってくる。
 それに比べて「天皇は日本の象徴だ。」「愛は地球を救う。」などの文は、「天皇」や「地球」の映像が思い浮かびはするものの、カメラの位置が想像できるような空間は想定できない。文の内容が抽象的になれば語り手の位置・場所を確定することはできない。する必要もない。
 だが実は「彼は部屋の中に入った。」でさえ、事態は充分に具体的だが、カメラの位置は任意なものとなる。読み手は恣意的に映像を思い浮かべる。その像に妥当性があるとすれば、文脈の中での整合性が保証されるかどうかだ。

 答えを提出させるより先にもう一つの問いを投げかけておく。
 次の二つの表現はどう違うか?
6行目「みぞれはびちよびちよふつてくる」
15行目「みぞれはびちよびちよ沈んでくる」
5・6行目と14・15行目はほとんど同じだからこそ、この「ふつてくる」と「沈んでくる」の違いは何を意味しているのかを考える余地がある。
 ただ、こういうときに、作者はなぜ変えたのか、と問うことには留保がいる。結局のところそんなことはわからないではないか、という気も実のところ教師にもしているのであり、それを生徒に本気で考えさせるというのは、ある種の欺瞞がつきまとうからである。本気で教師がそれを問うているのなら、それはそれでついて行けない、という感触を生徒に与えてしまうかもしれない。
 だが、少なくとも読者の我々は、自分自身がどのような違いを感じるかについては本気で考えることができる。自分の心に問いかければいいからだ。そしてその違いは、作者の意図したものではないかと常に推測しつつ、自問自答は続くはずだ。
 だから「なぜ作者は『沈む』にしたのか?」ではなく「『沈む』だとどのような印象になるか?」と聞かなければならない。
 しばらく時間をとって考えさせ、話し合いに持ち込み、ある程度の考察が進み、狙い通りの話題が展開している様子が聞こえてきたら「この二つの問いを関係づけて考えているグループはあるか?」と問う。時折こんなふうに話し合いに拍車をかける。

  生徒の答えやすいのは「ふってくる」と「沈んでくる」の違いの方だ。発言を整理して教室全体に提示する。
 「ふってくる」の方が、下降の様子が相対的に「軽い・速い」、「沈んでくる」の方が「重い・遅い」。それは「降る/沈む」、「みぞれ」のイメージに直結する。
 全体が納得したら、こうした違いがどうして生じているのか、と問い直す。聞いてみると、理由の説明は二つの方向から考えられるようだ。「降る/沈む」という動詞そのものの違い。そして文脈の違い。
 まず、「降る」と「沈む」という二つの動詞はどう違うか?
 誰も「降る」と「沈む」の違いがわからないはずはない。だがその違いを明晰に語ることが容易なわけではない。だから、考えることに意義はある。考えているうちに語る糸口を見つける生徒が必ず現れる。
 動詞自体の違いを明らかにするための糸口は二つ。
 一つ目。 「降る」は空気中を下降する様子であり、「沈む」は主に液体中を下降する様子を表している動詞だと説明する生徒が現れる。「降る」が「軽い・速い」、「沈む」が「重い・遅い」とイメージされるのはそういうわけである。したがって同じ「みぞれ」でも「沈む」の方が水分含有量が多いような印象がある。
 もう一つ。「降る」は視線が上を向いているような気がするのに対し、「沈む」は下を向いているような気がする、という印象を語る者がいる。「降る」は「~から降る」、「沈む」は「~へ沈む」の形で使われることが多い、という発見を語る者もいる。もちろん「降る」のは「空から」であり、「沈む」のは「底へ」である。
 実際に詩の中では、「陰惨な雲から/みぞれはびちよびちよふつてくる」と「暗い雲から/みぞれはびちよびちよ沈んでくる」と、形の上で違いはない。だが、動詞自体が持っている文脈的習慣とでもいうべきイメージは、この詩の言葉からイメージを作る際にも影響しないはずはない。
 この、「降る」は見上げるイメージ、「沈む」は見下ろすイメージ、という印象は適切か?

 もう一つ、両者の表現の違いを文脈から考えた生徒の見解は、妹の病状の変化、あるいは妹の病状を思う兄の心情の変化として「沈む」の方が重くなっている、というものだ。「沈む」は「液体中を下降する」というだけでなく「気分が沈む」という慣用表現で日頃から馴染んでいる。したがって、妹の病状を思いやるにつれ、兄の気分は「沈んで」いく。こちらも、詩に描かれた情景は基本的に感情の表現だ、と何度か言っている。

 ここまで検討しておいて、授業者の見解はまだ明らかにしない。だが実は、「沈む」の方が水分含有量が多いというのは必ずしも適切な印象ではないと思っているし、感情の「重さ」の変化を表しているとも思っていない。
 だが、だからといって、ここまでの検討が無駄だとは思っていない。「永訣の朝」を読むことよりも、国語の授業であることが本来の目的だからだ。
 そして一方、視線の向きについてはいくらか修正がいるが、重要で適切な見解だと思っている。これはこの後の展開と関係させて検討するつもりである。

  もう一つの問い「語り手の場所」はどうだろう?
 生徒の発言は一本道にとはいかないが、紆余曲折を経て、大体のところ、詩の最初の4分の1ほどは病室内、12行目の「このくらいみぞれのなかに飛びだした」以降が屋外、というような解釈に落ち着く。屋外であることの根拠を挙げさせると、33行目の「このつややかな松のえだから」や41行目の「あのとざされた病室」が挙がる。そのまま室内に戻った様子はないことを確認する。
  この見解は、先ほどの「ふつてくる」と「沈んでくる」の視線の向きの印象と食い違ってはいないか?
 6行目「みぞれはびちよびちよふつてくる」では、右の想定に拠れば語り手は室内にいる。一方15行目「みぞれはびちよびちよ沈んでくる」は屋外にいる。とすれば、室内にいる語り手が窓から外を眺める際には、視線は相対的に横向きであり、屋外にいる語り手に映る「暗い雲から/みぞれはびちよびちよ沈んでくる」という情景は、見上げる視線で捉えられているはずではないか。
  どういうことだろうか。

 以下次号 「語り手はどこにいるか2」

2015年10月17日土曜日

『96時間/リベンジ』(原題: Taken 2)

 前作『96時間』も面白かったから、前向きな気持ちで見ることができた(後ろ向きな気持ちで観るのは、もう駄目だろうという予想を確認するために観るようなときだ)。
 良かった。期待を裏切らない出来だ。
 元CIAの特殊工作員、リーアム・ニーソン演ずるブライアンの強さはもうほとんどスティーブン・セガール並で、安心感があるのはいいのだが、ありすぎるとサスペンスがなくなる。だが基本的に、ストーリーの展開にサスペンスがあるから、「負けない」だろうとは思うが「間に合う」かどうかが、やはり観ていてドキドキする。楽しい。ドキドキさせながら、着実に敵を倒し、目的に向かっていく爽快感がある。途中、全くダレることのない緊密に構成されたストーリー展開は見事だった。
 この間の『ザ・バンク』で効果的だったイスタンブールの街並みは、ここでも味わい深い迷宮感を出していた。
 まあ、結末は予定調和で、何か凄いものを観たとか、感動的だったとかいうことはないのだが、確実に面白い映画を観た、という感じではある。
 リュック・ベッソンは、やっぱりはずさない。

宮沢賢治「永訣の朝」を授業する 4 ~段落分け・比喩

 承前

 例えば、散文の読解授業でよく用いられる「段落分け」は、基本的に常に有益な発問だ。
 だが勘違いしてはならないのは、既に分けられた「段落」を提示することが、生徒にその文章の構造を捉えさせることに資するものだなどというわけでは、決してないということだ。ただ、段落を分けようとする思考のみが、文章の読解を推進するのである。したがって、「段落分け」は、ただ生徒自身がそれをしようとすることにだけ意味があるのであり、そうした過程を経て、分けられた段落の妥当性を検討することにだけ意味があるのである。「正解」はない。妥当性の程度があるだけである。その妥当性を検討することにだけ、意味があるのである。
 ここでも、詩の全体を捉えさせるために、この詩をいくつかの部分に分けよ、と問うことには意味がある。いくつでもいい。指導書などでも、見解はさまざまである。
 ただ、文を途中で分断するような分け方はさすがに妥当性が低いと言ってもいい。例えば25行目の「おまへはわたくしにたのんだのだ」で段落を終えることはできない。だがそこで切ろうとする生徒はいる。そうした説が授業という場に提出されればしめたものだ。皆でその妥当性について検討できる。
 27行目の「雪のさいごのひとわんを…」は、25行目に返ってかかっているように思われる。「たのんだのだ」が目的語を備えていないからである(19行目がそれを兼ねていると考えられないことはないから、一応保留にしてもいいが)。念のため27行目の後ろを確認しても、「ひとわんを」を受ける語は結局見つからない。やはり「ひとわんを」は返って「たのんだのだ」にかかっていくのである。こういう表現方法を何という? と勿論問う。倒置法は「旅上」でも「弟に 速達で」でも触れているから、答える者は必ずいる。答えられる問いはなるべくしておくに如くはない。答える習慣、考えようとする姿勢が習慣づくからである。
 段落分けしようとする生徒の頭は、こうした文脈の確認とともに、内容の確認ももちろんしているはずである。場面展開はあるか。時間的な経過はあるか。
 一つ、確認したいことがある。27行目「雪のさいごのひとわんを…」と28行目「…ふたきれのみかげせきざいに」の間の「…」の意味である。なぜここだけに「…」が付されているのか。
 この特徴によって、この詩を大きく二つに分けるときの分かれ目をここだと見なすことは多くの論者に共通している。だがなぜここにだけ「…」がつくのか。これは伏線として生徒に投げかけておくにとどめ、考察を続ける。

 こんなふうに、基本的には生徒自身に読ませるように誘導して、細部を解説したりまとめたりはしない。読んでわかるべきことは生徒自身がわかるべきだ。こちらにもわからないことはある。二十八行目からの「ふたきれのみかげせきざいに/みぞれはさびしくたまつてゐる/わたくしはそのうへにあぶなくたち」などは、どういう状況・情景なのかも、どうしてこの一節が必要なのかもわからない。
 そうした中で十一行目の「わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに」という比喩も、やはり「わからない」。勿論、ある種の解釈をしながら読んではいる。だが確信はない。だから「全然わからない」と言い放ってしまって、生徒の解釈を聞く。教室の雰囲気次第ではあれこれ解釈のバリエーションが提出されて面白い。だが意図的に解釈のための思考を促すのなら問いにも工夫のしようがある。問いを2択などの選択肢にするのは、生徒の思考の焦点を明らかにしやすいから、問いが漠然として考えることが難しい時には有効な方法だ。例えば次のように。
・「まがつた」は「てつぽうだま」「とびだした」のいずれにかかっているか。曲がっているのは鉄砲玉か軌道か。
・この比喩によって表される語り手の行動は「速い」のか「遅い」のか。
  筆者は高校生の時に授業でこの詩を読んで「てつぽうだま」が曲がっている様子を思い浮かべていたが、教師の「室内から外までの屈曲した経路を急いでとびだす様子」という解説を聞いて驚愕した記憶がある。それでも速いには違いないと思っていたら、生徒からは「速く行きたいと気持ちは焦るのに進めない」といった解釈も出てくる。「狙い通りに行き着かない」といった解釈も出る。それぞれ否定はできない。面白い。

 だが上のような問いは、この詩の解釈に決定的な変更を迫るようなものではない。
 次はいくらか手応えのある問いを投げかけてみる。

 以下次号 「語り手はどこにいるか 1」

2015年10月16日金曜日

宮沢賢治「永訣の朝」を授業する 3 ~なぜ頼んだのか?

 承前

 ちょっとした頭の体操としての導入に続いて、いよいよ詩に分け入る最初の問いは
なぜ妹は兄に、みぞれをとってきてくれと頼んだのか?
である。
 しばらく間を置く。それから付け加える。答えは大きく分けて二つ。階層が異なる答えだ。一つは詩の中に書かれてあることから推測する。もう一つは詩の中に直接書いてある。
 こうした条件に合う「二つ」の理由を揃えるとなると、どちらの答えが浮かんだ者であれ、しばらくは考えざるを得ない。こうなるともう生徒同士の話し合いに持ち込める。話し合いによって、複数の答えが誰かしらから提出されることを期待する。それが先の条件に合うかどうかを複数の目で検討する。

 さて、一つ目の答えは
A「高熱にあえぐ喉を潤したいから」
である。生徒は「食べるため」と答えるかもしれない。「おまへがたべるあめゆきをとらうとして(十行目)」からの抽出である。その場合はさらに「どうして食べたいの?」と聞き返す。この病室で、兄が妹の頼みでみぞれをとってくるという行為が、人々にどのように了解されているかを確認したいのである。たとえ妹と兄の二人しか病室にいなかったとしても事情は同じである。そうした了解を読者も共有しなければならない。理由は知らず、みぞれを食べたいと言う妹のためにみぞれをとりに走るわけではない。なぜ妹がみぞれをとってきてくれと頼んでいるかは、それを食べるためであると病室の皆に了解されているし、なぜみぞれを食べたいのかも、妹がはっきりと口にしたかどうかはわからないが、やはり皆に了解されているだろう。兄がそれを不審がっている様子がないからである。とすれば後は「はげしいはげしい熱やあへぎのあひだから」から推測される理由をもって一つ目の理由を完結させればいい。
 二つ目の、「詩の中に直接書いてある」理由は、そのまま詩の一節を指摘させる。十八~二十行目の「わたくしをいつしやうあかるくするために/こんなさつぱりした雪のひとわんを/おまへはわたくしにたのんだのだ」とある。つまり
B「兄を一生明るくするため」
である。
 多くの指導案で、同じ問いを見かけるが、いずれも想定している答えは右のどちらか一方である。どちらも正しい。にもかかわらず問われた生徒も、発問する教師でさえ、通常はどちらかの答えを念頭に置いて質疑に臨むのである。他方はいわば盲点になっている。だから「二つ」と指定する意味がある。「わかっている」と思っている状態に揺さぶりをかけるのである。さらに、授業の意義は周囲に他人のいる状態で、同じ問題に臨んでいることである。この利点を活かさぬ手はない。

 だがこれで終わりではない。問題は後者である。続けて問う。
 「みぞれをとってくること」がなぜ「兄を一生明るくする」ことになるのか?
この因果関係は、読者には「わかっている」。だがそれを説明することは容易ではない。こうしたポイントは問いの成立する糸口になる。考える方向を指示する。必ずしもわからないわけではないはずだ、同時に説明は難しいはずだ、にわかに答えられないからといって、「わからない」わけではない、お互いに説明しあってごらん。
  「わからない」生徒には無論考えさせる意味はあるし、「わかっている」と感じて過ごしている生徒にも、再度、その納得のありように自覚を促す。
 正解としての短い答えを求めているわけではない。その納得の内容を語り、相手に同意を得ることができるかを各自に要求しているのである。
 さて、みぞれの採取を頼んだのは妹である。それは何事か妹自身の欲求によるはずである、というのがとりあえず病室にいる者たちの了解であるはずである。それがAだ。なのになぜその依頼を叶えることが「兄を一生明るくする」のか。というより、なぜその要請を「兄を一生明るくするため」だと考えることに賢治だけでなく読者もが納得するのか。
 さて、どう説明したらいいだろう。
 生徒の説明が充分であると感じるまで、多くのやりとりが必要になるかも知れない。もちろん誰かがあっさりと的確な説明をしてしまうかもしれない。思うように進まないようなら、逆に「暗くなる」としたらそれはどうしてか、あるいは、兄自身はどうしたいのか、などと誘導のヒントを与える。ともあれ、誰かがたどりつくものだ。
 つまりこうだ。妹のささやかな最後の頼みを叶えることが、手をこまねいて妹の最期を看取る以外に何も出来ない兄の無力感、罪悪感を、いくらかなりと救うのである。その小さな救いが、それ以降の兄の一生を明るくする、と妹は考えているのである。
 こうした説明は、充分に問いの「なぜ」に答えていると感じられる。だが、こうした答えを引き出した後で付け加えたいのは次のことである。
ここには、
1.みぞれを食べたいというトシの欲求(A)
2.トシの1の欲求を叶えたいという賢治の希望
3.2の希望を実現させることで兄の無力感を軽くしたいというトシの配慮
4.妹の要請が3の配慮に拠るものなのだと考える賢治の推理(妄想?)
が入れ子状に重なり合っている。
 生徒にはこんなふうに言うわけではない。この一節から読み取れることは、トシのために何かしてやりたいと賢治が思っている、…とトシが考えている、…と賢治が考えている、ということだ。そのことを我々は直ちに自覚するわけではないが、なおかつそれを理解しているのである。自分が理解しているものを自覚すること、さらにそれを他人に説明することの難しさはいかばかりか。
 この問いはそうした国語学習でありながら、さらに後に続く読解の伏線になっている。

 以下次号 「段落わけ・比喩」

2015年10月15日木曜日

宮沢賢治「永訣の朝」を授業する 2 ~全体を捉える問い

 承前(「導入」)

 さてでは、「永訣の朝」に対するどのような「問い」が生徒にどのような活動を促し、どのような「読み」にいざなうことができるのだろう。
  教材を前にして発問をどう発想するか。定番の発問も何種類かはある。それが有益かどうかは教材に拠るから、いつも使えるわけではない。また、その教材に特有の発問もある。その教材の「わからなさ」を問いとして投げかける場合もあるし、生徒がわかったつもりになっている事柄にあらためて疑問を投げかけることもある。
 例えば一読して、「『永訣』とは何か?」と問う。誰もが知らないという前提で考えよ、と問う。これは別の機会にあらかじめ知っているのでなければ、高校生がまず知っているはずのない知識だから、今読んだばかりの詩の内容から推測して答えるしかない。もちろん生徒はすぐに「わからない」と答えたがるから、あらかじめそれを禁じておくことを日頃から習慣化しておかなければならない。正解を「知っている」事を要求しているのではなく、推測したことを答えればいいのだ、と繰り返し言う。
 「永遠」の「けつ」って何だろう、と生徒は考える。「決意」「決心」「決定」? もちろんそうした推測を、ある意味で無責任に語ればいい。それが詩の内容とどう関わるかを考えることが、詩の内容を捉えようという思考に結びつけばいいのだ。「永遠の決意」などと答える生徒には、何を決意したの? と聞き返す。それに答えようとすれば、自分で詩の内容を考えざるをえない。
 もちろんすぐに「永遠の別れ」のことだと答える生徒もいるだろう。それは別の機会にそのことを知っていたからかもしれないが、ともかくもどうしてそうだと考えたのだ、と聞き返す。妹の死をうたった詩だから、と答えれば賞賛する。すぐに、「訣」という字で作れる熟語を知らないか、と問う。誰かが「訣別」という語を挙げられればさらに賞賛する。「訣」が「わかれ」と訓読みできることを紹介する。
 これだけのことでさえ、導入としては上出来だ。「永訣」とは「永遠の別れ」という意味だ、などと最初から解説してしまっては、こうした活動の機会を逃してしまう。
 こうした活動が意味あることだと考えるのは、つまり「永訣の朝」を教えるつもりはないからだ。生徒に「永訣の朝」を教えたり、理解させたり、覚えさせたりすることに何の意味があるのだろう。国語の授業では、「永訣の朝」をきっかけとして、ともかくもなにがしかの言語活動を始めるのである。

 さて、引き続き「導入」をもうちょっと。次の問いは二つまとめて。
「この詩で起こっている最も大きな出来事は何か?」
「この詩の中で語り手がしている最も大きな行為は何か?」
「出来事」を問われてすぐに「妹の死」と思い浮かぶとして、それでいいのか、という自問自答が、詩全体を捉えようという思考を促す。そして「行為」はもう少しばかり高度な問いだ。語り手は詩の中で大小様々なことを「して」いる。そのうち「最も大きな行為」とは何か。ページをめくって全体を見回し、それが全体に渡る「最も大きな行為」であるかどうかを検討しなければならない。「空を見上げる」「飛び出す」「茶碗に掬う」など、小さな「行為」が挙がるのもよし、すんなり「妹のためにみぞれを採ってくること」と答える者が現れるにせよ、ある程度、教室全体が考えている時間をとっておきたい。詩の最後まで確認して、なるほど「妹のためにみぞれを採ってくる」ならば全体を包括する表現だ、と生徒自身が納得することが必要なのである。
 さて、「永訣の朝」とは、「妹との永遠の別れ」=「妹の死」に際して、「妹のためにみぞれを採ってくる」という詩である。これでこの詩を読むための構えができた。
 次の問いは「なぜ妹は兄に、みぞれをとってきてくれと頼んだのか」である。

 以下次号(「なぜ頼んだのか?」)

宮沢賢治「永訣の朝」を授業する 1 ~導入

 2学期に入って、しばらく何をやろうか迷っているうちに、とりあえず夏休み明けのリハビリに俺が朗読をしたいと、小川洋子の「博士の愛した数式」を読み、ついでに面白い論点が見つかったのでしばらく考察に時間を費やし、その後はまだ評論に入る気合いが不足していたので、珍しく詩でも読んで、と思って教科書に収録されている三編の詩を読んだりした。萩原朔太郎の「旅上」はさらりと、辻征夫の「弟に速達で」は、意外や意外の楽しさで、それから心に期した「永訣の朝」に進んだのだった。
 それから、あれよと中間考査が迫ってきた。「永訣の朝」は5時間くらいかけて、あれこれ考えてきたのだが、これが結構な手応えだったので、ちょっとまとめておこうという気になった。
 本当は「博士の愛した数式」も「弟に速達で」も、これを授業でやるならこういう順序でこういう発問で…と若いもんに講釈したいところではある。だがまあ、こちらも一回きりの授業で、まだまだ教材の持っている可能性を充分に引き出したかどうか心許ないし(とはいえ5クラスもやっていると、そうとう練り込まれてもくるのだが)、何より、教材としての汎用性がそれほどないというのが正直なところなので、今回は略。何より汎用性が高い「永訣の朝」についてのみのまとめである。

 やや外向きに、「ちゃんと」まとめようかという気もないでもないのだが、当ブログではとりあえずラフに、ライブ感を残してまとめる。
 ある程度まとまった量書けたらアップ、というような感じで、何回かに分ける。先の見通しはない。

 「永訣の朝」を授業で扱いたいと思う国語教師は「永訣の朝」という詩が好きなのだろうか。この素晴らしい詩を是非高校生に読ませたいと思って授業に臨むのだろうか。高校生が同様に感動してくれるかどうかは無論保証の限りではないが、そもそも授業とは本来そうありたいものである。できるかぎり自らの感動を語り、それに生徒が共感してくれることを期待するばかりである。
 だが現場の実態は必ずしもそうではない。「永訣の朝」を授業で扱うのは、採択した教科書に収録されているからである。もちろん教科書に収録されているからといって、すべての教材を授業で取り上げるわけではないから、やる気がなければ「永訣の朝」で授業などする必要はない。
 そう思ってこれまで授業で「永訣の朝」を取り上げたことはない。そもそも詩を授業でとりあげたことがほとんどないのだ。これまで使っていた教科書に「永訣の朝」が収録されていたかどうかも、正直わからない(だが、自分が高校生の時に使っていた教科書には収録されていた! それが授業で扱われたことも覚えている!)。
  だが「永訣の朝」を今回、授業で取り上げてみて、これが教材としてきわめてすぐれたテキストであることに驚いた。授業で扱うに十分な手応えを得られたのである。
 これは「永訣の朝」がすぐれた詩である、とか、好きだ、とかいうことではない。詩人としての宮沢賢治が天才であるという評価にはなんら異論はない。その言葉遣いにはいつも驚嘆させられる。だがその詩作品の中で、とりわけ「永訣の朝」が優れたものであると感じたことはない。「雨ニモマケズ」も同様である。だから上記のように、自らの「感動」を語るというような形での授業を構想したいわけではない。そんなことをするなら、そもそもこの詩を授業で扱うことのできる教員が限定されてしまう。
 といって、その内容が生徒にとって感動的であることを期待しているわけでもない。もちろん生徒が勝手に感動することは自由である。そうなってほしい。だがそれはいわば僥倖である。残念ながら高校生の私は感動した覚えがないし、現在も感動したりはしない。だから私の授業での「永訣の朝」の扱いは、言ってみれば不謹慎である。賢治の哀しみに共感しようとか、賢治の祈りの崇高さにこうべを垂れようなどとは、ちっともしていない。だが、「雨ニモマケズ」を道徳教材のように扱ったり、「永訣の朝」に感動してみせることが敬虔な態度であると言えるかどうかも、たぶん怪しい。
 真摯にテキストに向き合うことだけが、筆者にとっての「敬虔」である。

 さて、国語科教材としての「永訣の朝」である。とりあえず、少々長いが掲げておく。
 永訣の朝

けふのうちに
とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
   (あめゆじゆとてちてけんじや)
うすあかくいつそう陰惨な雲から
みぞれはびちよびちよふつてくる
   (あめゆじゆとてちてけんじや)
青い蓴菜のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
   (あめゆじゆとてちてけんじや)
蒼鉛いろの暗い雲から
みぞれはびちよびちよ沈んでくる
ああとし子
死ぬといふいまごろになつて
わたくしをいつしやうあかるくするために
こんなさつぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまつすぐにすすんでいくから
   (あめゆじゆとてちてけんじや)
はげしいはげしい熱やあへぎのあひだから
おまへはわたくしにたのんだのだ
 銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
……ふたきれのみかげせきざいに
みぞれはさびしくたまつてゐる
わたくしはそのうへにあぶなくたち
雪と水とのまつしろな二相系をたもち
すきとほるつめたい雫にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものをもらつていかう
わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ
みなれたちやわんのこの藍のもやうにも
もうけふおまへはわかれてしまふ
(Ora Orade Shitori egumo)
ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
あああのとざされた病室の
くらいびやうぶやかやのなかに
やさしくあをじろく燃えてゐる
わたくしのけなげないもうとよ
この雪はどこをえらばうにも
あんまりどこもまつしろなのだ
あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ
   (うまれでくるたて
   こんどはこたにわりやのごとばかりで
   くるしまなあよにうまれてくる)
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになつて
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ

 もちろん授業の中心に、その教材の「読み」があるのも確かだ。だが優れた「読み」が優れた授業を保証するわけではない。先行研究や鑑賞によって、この詩はある意味では「読み」尽くされている。だから、これから展開しようと思っている論も、作品を読み込むとか鑑賞するとかいうことではなく、このテキストを使って授業する、その方法と見通しについて、そして実際の教室の様子の描写だ(といいつつ、実はある「読み」も提示しようという野心もあるのだが)。
 そもそも教材を読むのは生徒である。授業において生徒をある種の「読み」にいざなうのは基本的には「問い」である。あるいは、どのような「読み」であれ、その教材を国語科の授業として有益な活動に資するものとすることができるかどうかは、どのような活動を指示するかにかかっている。その活動を促すものとしての「問い」こそが授業の質を決める。
 だから「この詩の形式は?」などという問いも、その内容を理解させる気も覚えさせる気もないが、生徒に投げかける価値はある。直前の朔太郎「旅上」で、文語・口語に言及したからである。ほとんどの生徒は「文語=文章言葉」「口語=話し言葉」だと思っている。間違っているわけではないが、慣用的には「文語=古語」「口語=現代語」の意味で使われているのが「文語/口語」という語だと確認する。もちろんそれも誰かがそこに辿り着くまで、ヒントを出したり誘導したりして考えさせる。古典の時間に「口語訳」って言ってるだろ、と確認する。それで「旅上」が「文語詩」なのは、どこでわかる? と聞く。もちろん「口語だとどうなる?」かを併せて聞く。
 そんなやりとりを経て、じゃあ「永訣の朝」は「文語/口語」どっち? と聞くのである。多くの者は「文語」と答える。ほんと? と意味ありげに問い返す。「永訣の朝」は「口語自由詩」なのである。なのに「文語」と感じられるのはなぜだ? と聞く。誰かが「けふ」などの語彙が文語だと言う。だが口語詩だ、と断言する。じゃあ「けふ」は何だ? と聞く。つまりは「歴史的仮名遣い」と「文語」を混同しているのだが、そう言ってわかる生徒は「なるほど」という顔をしている(もちろん大半の生徒はそう言っただけでは理解しないで、何のことやらという顔をしている)。これも古典のテストの回答の仕方で「現代仮名遣いで答えよ」などと指定されているはずなのだが、こういうところに結びつけるには、ちょっと考える手間が必要なのだ。
 こんなやりとりは「永訣の朝」を読むこととはほとんど関係ない。そしてこうしたやりとりが可能なのは、教科書の同じ単元に「旅上」が収録されていて、なおかつ「永訣の朝」が歴史的仮名遣いで教科書に収録されているという条件に拠っている(教科書によっては現代仮名遣いなのだ)。
 だが、授業とはそういうものなのだ。その時のメンバーとその時の教科書の収録教材、それまでの授業の経過…諸々の条件の中からチャンスを見つけて、なにはともあれ言語活動を展開するのである。

 以下次号。

2015年10月13日火曜日

「ハイキュー!」2期、Esperanza Spalding

去年の秋に熱弁した「ハイキュー!」の続編が放送開始。実はこの間に生徒に原作漫画を借りて、先まで展開を知っている。だからもうアニメーションによってその物語を味わうことができるかどうかだけが、先を見続けるかどうかの動機だ。1話を見る限り、やはりアニメーションは素晴らしい。ほとんど観るものがなかった前期に比べて、今期は『終物語』はじめ、いくつか期待。

 「ハイキュー!」同志の娘はまた、エスペランサ・スポルディング(Esperanza Spalding)の良さがわかる同志でもある。

2015年10月11日日曜日

『オブセッション ~歪んだ愛の果て』

 ネットで見た面白そうな映画の題名と混同して、観てしまった。作りがちゃちだとか、辻褄が合わなくてイライラするとかいうことはないのだが、面白かったとも言えない。思い込みの激しいストーカーにつきまとわれる恐怖、というただそれだけの映画。それとて『危険な情事』のグレン・クローズのように、ホラー映画として見られるくらいの熱演、演出でもあれば面白くもなろうに、お話としては去年観た『ルームメイト』と同じように、展開はまるで予想の範囲内で、演出に感嘆すべき点もない。
 主演はあのビヨンセだよなあ、と思っていると、公開時は全米1位のヒット映画なのだそうだ。まあビヨンセに興味はないので、映画は凡作という以上の感想はない。
 とすると、勘違いした方の映画は、はて、なんといったか。

2015年10月10日土曜日

『運命のボタン』(監督:リチャード・ケリー)

 ここ2~3年のうちに観たことは明瞭に覚えている。コメディかと思って観始めると意外とシリアスな話だったという記憶はある。ボタンをめぐる選択を迫られる話だった。大金が手に入るが、どこかで誰かが死ぬというボタンを押すかどうか?
 例によって、観たはずなのに先が読めないのは良い映画であったはずはないのに、そのことを確かめるためだけに観た。どのシーンも、まるで見覚えがない。だがその映画を一緒に観たことは娘も覚えている。この印象の薄さは何事だ。キャメロン・ディアスが主演で、明白にB級な映画だというわけではないというのに。
 じきに見覚えのあるシーンも出てきた。だがそれも単発で、とにかく先が読めない。次々と謎が提示され、風呂敷はひろがっていくばかり。どうなる? と思うと、まるで納得のないまま終わる。よく考えれば合理的な説明はつくのか? 多分つかない。キリスト教的な寓意があるとはネット上の解釈に見られるが、まあそれを認めるとしても、映画として細部が納得いくほどの整合性をもっているとは到底認められない。
 これもまた、完成に至るまでどうして最後まで誰も止めなかったのか不思議な映画だ。

2015年10月3日土曜日

『ノロイ』(監督:白石晃士)

 『オカルト』に続いてもう一本、白石晃士。『オカルト』の前作らしいが、なるほど、「モキュメンタリー」という形式についての試行錯誤の最中、という感じで、『オカルト』でその成果が発揮されるとして、まだまだ『ブレアウィッチ・プロジェクト』の真似をしてみました、という域を出ない。
 「実話」だという話を半信半疑で見たりするともっと面白いんだろうが、もうすっかりフェイク・ドキュメンタリーを見るつもりでいるから、そうしたジャンルとして、またホラーとしての出来だけが評価の対象となる。
 とすればまあ凡作。好きな人は高評価をしているが、アマゾンでは星一つ評価が最も多い。駄作、と口を極めてののしるほどではないと思う。面白さはともかく、頭が悪くて腹立たしい映画も多い中で、やろうとしている方向は見えていた。
 『オカルト』よりは怖かったが、だからといってそれで楽しかったというわけでもない。ホラーの恐怖は基本的には解消して欲しい。それが素直なカタルシスというものだ。

2015年9月30日水曜日

『オカルト』(監督:白石晃士)

 白石晃士の映画は初めて。「フェイク・ドキュメンタリー」とか「モキュメンタリー」とか言われるスタイルでホラー映画を撮っている人として有名なのだということを知って観てみようと。
 この間の『誰も知らない』は、「ドキュメンタリー・タッチ」ではあったが、ジャンルとしての「モキュメンタリー」ではなかった。「モキュメンタリー」というのは、一応の建前は、「これはドキュメンタリーです」ということになっているフィクション作品のことだ。是枝裕和監督は劇場映画以外にもテレビ番組のドキュメンタリー作品もあって、だからこそ『誰も知らない』は、「~風」ではあっても、モキュメンタリーではない。はっきりとフィクションなのだ。にもかかわらず「実話に基づいている」という情報も付随するから、その実話の重みを引き受けて、なおかつそこにフィクションとしての想像力が生きている、とは言い難いという不満もあった。元になった事実をいたずらにセンセーショナルに変えてしまうセンチメンタリズムを求めているわけではなく、むしろ実話の重要な要素の重みが曖昧にぼかされてしまう反対方向のセンチメンタリズムが残念だった。
 といってもちろん、あれをモキュメンタリーにすればよかったと言いたいわけではない。その必然性がそもそもない。実話をヒントにしたフィクションということでまったく構わない。
 一方、白石晃士の『オカルト』は、「事実に基づいている」わけではない。純然たるフィクションで、そもそもエンターテイメントたるべきホラー映画である。だが手触りとしては「ザ・ノンフィクション」などのドキュメンタリー番組に近い。白石晃士自身がディレクターとして登場して、そのドキュメンタリー番組(映画なのかテレビ番組かはわからないが)を作っているのだ。
 海外のモキュメンタリーならば、「POV(主観視点)物」と重なった形でいくつかの作品を観ている。先日触れたばかりの『クローバーフィールド』、『REC』は良くできたイタリア映画だったし、『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』は大御所ジョージ・A・ロメロだ。もちろんブームの先陣を切った『ブレアウィッチ・プロジェクト』『パラノーマル・アクティビティ』『フォース・カインド』などなど。
 だがそれらの作品に比べても、『オカルト』は格段に変な作品だった。どこへ向かっていくのか予想できない。どのくらいやるつもりなのか予想できない。「ドキュメンタリー風」を装うなら、あまり現実離れしたことはできないはずではある。その「あまり」の程度が事前に予測できない。うまいなあ、まるで本当にドキュメンタリーみたいだなあと思わせる、細部まで計算された脚本と演出、役者の演技が見事だ。だが、そこに「オカルト」な要素が入ってくる。といって、どの種類の「オカルト」なのかが事前にはわからないから、どこまでやるんだろ、と呆気にとられながら観てしまう。
 これが「ホラー」だと、心理的な描写と恐ろしげな映像の挿入で、予想の範囲内の展開になるのだろうが、実はホラー映画だと思って見ていると、まるで怖くない。グロテスクな映像もないし、怖い顔も出てこない。だからこそ、どこまでやるのかの予想が立たないのだ。
 そして実際にどこまでやってしまうのかというと、あれよあれよと『ムー』なのであった。幽霊やUFO、異次元に神のお告げ、古代遺跡に神代文字…。
 枠組みの揺らぐ感覚と予想を裏切り続けるという目眩で面白く観たのだが、最後の異次元は、あれは要するに「地獄」ってことなんだろうなあ。ネットではあれを擁護するような意見もあったが、私にはあれは蛇足に思えた。そこまでのモキュメンタリー様式をぶちこわしてしまうのは(もちろん意図的なのだろうが)、勿体ないと思われた。80年代の大林宣彦の悪ふざけは不快だったが、その感じを連想してしまった。最後まで「ザ・ノンフィクション」で終わって欲しかった。

2015年9月27日日曜日

『GODZILLA ゴジラ』2014年版

 なんというタイミングか、フランク・ダラボンが脚本に参加しているという(ただしノークレジット)『GODZILLA ゴジラ』2014年ハリウッド版が放送された。途中まで観て寝落ちし、翌日続きを録画で観た。
 映像的には、どうにも日本映画には真似の出来ないスケール感を出していて見事だったが、ほんとにこれ、フランク・ダラボンが脚本に参加してるの?
 もしかしたらテレビ放送用のカットの問題かもしれないが、どうにも描写不足で話が展開していく。画としてのスケール感はあるが、ちゃんと物理演算しているかどうか怪しい動きがあるように感ずる描写もしばしば。
 何より、どこを楽しめばいいのかわからない、という物語展開。眠くて感情移入できなかった可能性もあるが、かろうじて頭で追っていた限りでは隅から隅までお約束な展開で終わったとしか思えなかった。ゴジラがなぜ別の怪獣を攻撃して、まるで人類を守っているかのうように見えるのか、渡辺謙が「調和をとりもどそうと」的なことを言っていたが、それだけ? どうしてゴジラがそれをするかの理由は語られないまま。テレビ放送用のカットのせいか?
 というわけで、特別怪獣映画にマニアックな情熱のない者には楽しめなかった。平成ガメラシリーズや『クローバーフィールド』の方がずっと面白かった。というか『クローバーフィールド』は名作と言っていいと思うが。

2015年9月25日金曜日

『ショーシャンクの空に』(監督:フランク・ダラボン)

 初めてではない。
 例の『ウォーキング・デッド』の最初のシリーズの監督・脚本がフランク・ダラボンだということと、最近観ていた『アンダー・ザ・ドーム』の原作がスティーブン・キングだということで、同じ原作者、監督といえば『ミスト』『グリーン・マイル』『ショーシャンクの空に』だろ、という話題になった。悪名高いバッドエンド映画の『ミスト』は子供たちも観ていて、悪評は定着しているが、『ショーシャンクの空に』はそんなことはないと言って、この際だから観てみようと言うことになった。
 久しぶりだが、やはり隅々まで面白い。印象的なエピソードが次々と連続して、2時間20分がまるで長く感じない。基本は抑圧とそこからの解放によるカタルシスだが、最大の抑圧は当然、無実の罪で収監されているという状態で、脱獄が文字通りの解放というわけだ。だがそれだけではなく、刑務所内でのさまざまな抑圧に対して、主人公が創意と工夫と勇気と意志の力で乗り越える各エピソードに、それぞれカタルシスがある。原作が良いのか、監督自ら脚色したシナリオがいいのか、実に上手い。演出ももちろんだが。
 今回とりわけ印象的だったのは主人公の「不撓不屈」だ。モーガン・フリーマン演ずる先輩囚人が「希望は毒だ」と語るのは、現状認識として、またその限りでの処世術として有効だ。男色の囚人や看守への服従を受け入れるか、囚人としての生活を希望のないものとしてただ過ごすか。何より、無罪放免の希望を捨てられるか。
 そういえば、脱獄物はどれもこの「不屈」がどれほど強く観る者の心を揺さぶれるかが勝負だとも言える。スティーブ・マックイーンのタフぶりと明るい「不屈」が印象的な『大脱走』『パピヨン』、絶望感がとりわけ強いだけに、刑務所を脱出するラストの主人公のステップが感動的な『ミッドナイト・エクスプレス』、『アルカトラズからの脱出』のクリント・イーストウッドの寡黙な「不屈」に比べ、同じアルカトラズ収容所からの脱出を描いた『ザ・ロック』が、映画としては面白かったが、感動的とは言えなかったのは、やはり絶望との闘いが描かれないからか。日本では、吉村昭の原作も素晴らしいがNHKドラマの『破獄』も緒形拳演じる主人公の「不屈」ぶりが感動的だった。
 そして『ショーシャンクの空に』のアンディを演ずるティム・ロビンスの素晴らしい演技。「不屈」の代償として独房に入れられることになろうとも、希望を捨てないことに浮かべる満足の笑み。アカデミー賞ではモーガン・フリーマンが主演男優賞にノミネートされているが、どういうわけだ。主演男優賞はティムで、モーガン・フリーマンが助演男優賞を受賞すべきだった。
 だが、考えてみると、絶望に陥りそうな状況に希望を見出す「不撓不屈」は、程度はどうあれ我々の日常にも問われているものだ。我々は常に、にわかには「絶望」とは見えないものの、多くの希望を諦める虚無主義と闘って生きているはずだ。刑務所はそれを拡大して見せてくれているだけだ。
 だからこそ、主人公の貫いた不撓不屈が、あれほどまでに心を打つのだろう。

 アカデミー作品賞のノミネートと宣伝されているものの、受賞ではないというからには受賞作が気になる。調べてみると『フォレスト・ガンプ』なのだった。なるほど。主演男優賞はトム・ハンクスなわけだ。
 もちろんあれも良い映画だったが、どちらと言えば『ショーシャンクの空に』だろうなあ。だが、刑務所を脱獄してメキシコへ逃亡する主人公を描く映画よりも、現代アメリカ史を舞台にアメリカン・ドリームを描く『フォレスト・ガンプ』がアカデミー賞にふさわしいのはやむをえない。

2015年9月22日火曜日

更新停滞

 更新が停滞している。3週間更新がないのは、ブログを始めてからの1年間にはなかったことかもしれない。
 当ブログ最大の約束事である「映画を観たことは必ず書き留める」が発動しなかったせいでもある。3週間、映画を観ていない。毎晩、なにかしら片付けなければならない用件があって、2時間をとることができない3週間だったのだ。書くことがなかった、のではなく、書こうと思えば書くべきことはあれこれあったのだが、時間がとれなかったのだ。
 昨年は演劇部の公演のことなど書き留めた文化祭が三日前に終わった。去年にもまして実にいろいろあったのだが、そのうちのどの部分を取り上げるかの判断がつかない。重要なことはプライベートに触れざるを得ないし、重要度の優劣もつけにくい。文化祭が終わって、解放感に浸って、さてたまった映画を観ようと思ったが、寝てしまった。寝不足が続いていたのだ。その後は、待ち構えていた娘と『ウォーキング・デッド』の続きを観て過ごした。相変わらずすごいが、前に書いたとおりでもある。
 というわけで今週末には何かしら観よう。映画鑑賞記録の再開を期して、久々の更新。

2015年8月28日金曜日

『英国王のスピーチ』(監督:トム・フーパー)

 娘が夏休みの宿題で、なんらかの意味で「歴史物」といえる映画を観て、その背景となる歴史とともに感想を述べるというレポートの題材として、『英国王のスピーチ』を選んだ。以前一度観ていて、内容を知った上で選んだのだ。夏休み終盤のこの時期についに観るというので、ついでに一緒に観る。

 物語は、第二次世界大戦の開戦時に英国王だったジョージ6世が、吃音を克服して、ナチスドイツへの宣戦布告のラジオ放送によるスピーチをするまでを描く。
 アカデミー作品賞受賞作だ。面白いことはわかっている。前に観た時も面白かった。感動的でもある。そこらじゅうが面白い。
 中心となるのは言語療法士とジョージ6世の吃音克服の訓練なのだが、無論これは単なる機能障害に対する訓練ではなく、吃音の原因として映画の中で描かれている精神的な緊張の緩和をどう実現するか、という問題である。そのために、早口言葉や体操などの肉体的な訓練もする。それが精神の緊張の緩和に資するならば。
 だが主人公の英国王とともにもう一人の主人公といってもいい言語療法士のライオネル・ローグが、それまで解雇された何人もの、正式な資格を持った言語療法士と違ったのは、吃音の克服の鍵が機能的な訓練にあるのではないことを理解していたことだ。英国王を特別視せずに、王宮ではなく自身の自宅である治療院での治療を了承させ、後の英国王を愛称で呼び、友人として振る舞う。吃音の原因は王子としての生育歴、あるいは王族としてふるまわなければならない現在の状況にあることを見抜いていたのである。
 とすれば、吃音の克服は、機能訓練による快復とか上達などではなく、すなわち端的に、コンプレックスの克服にほかならない。生来の左利きやX脚を矯正され、厳しい父親に抑圧された過去を持つ自分を告白し、王族としての重圧に押しつぶされそうな現在の自分を受け入れ、自然に生きることが、どもらずにしゃべれることに結果するのである。
 ここが、この物語を、数多あるスポーツ映画の感動に、少しばかりの上乗せをしている。というか、むしろ共通点は多いといっていい。「ロッキー」「がんばれベアーズ」「ザ・ベスト・キッド」「シコふんじゃった」「ウォーター・ボーイズ」…、弱者が頑張って練習して勝ちました、というパターンのスポーツ根性映画は枚挙にいとまない。面白い映画は面白い。『英国王のスピーチ』も、実はそうした、頑張ったものが報われ、祝福される幸福を描いた映画だ。
 そしてその描き方が充分にうまければ、物語は感動的になる。もちろん充分にうまい。だが、これがアカデミー賞で作品賞に輝くには、さらなるプラスアルファが必要だともいえる。
 前述の『ロッキー』もまたアカデミー作品賞受賞作だ。おそらくそこには、「頑張ったスポーツ映画」としての感動に加えて、「貧しい労働者であるイタリア系移民の成功」という、アメリカン・ドリーム物語の体現が要因となっている。
 そして『英国王のスピーチ』の場合は、クライマックスのスピーチが、ナチス・ドイツに対する宣戦布告の国民放送であるという点で、その成功に、単なるスポーツ映画における大会決勝戦の勝利とは違った意味合いを見ているのだろう。
 今回見直して印象深かったシーンの一つに、ヒトラーの演説のニュース映像を見ながら、主人公が「演説が上手い」と評する場面がある。主人公はその前に国王の戴冠式を成功裡に過ごしており、だからこそ国民を熱狂させるヒトラーの演説を、羨望でもなく嫌悪でもなく、単に感心してみせることができている。そしてそれはヒトラーのような狂信的な熱狂に人々を巻き込むのとは違った形で、主人公の語りかけが人々のうちに静かにしみ入っていくようなクライマックスのスピーチの成功を際だたせる。
 そしてもうひとつ、今回見直して印象深かったのは、前に観た時には、クライマックスのスピーチを、大会決勝戦における9回裏2アウトで迎えた主人公の打席のように、成功を祈る関係者の視点からのみ見てしまったのに対し、同時にそれ以上に多くの人にとって、それがファシズムに対する自由主義の戦いの宣言だったのだという重みである。
 スピーチの成功は、主人公が幼少期からのコンプレックスや英国王という重圧から自由になって、一人の個人としての彼自身になれたことを意味しながら、同時にそれは自由主義を代表する言葉として、ある理念の象徴になるという二重性を担っていることをも意味している。
 こうした物語の構造が、この映画を数多のスポーツ根性映画を超えるプラスアルファを持った作品にしている。

2015年8月27日木曜日

『誰も知らない』(監督:是枝裕和)

 うまくタイミングが訪れたという感じで、ようやく。
 『そして父になる』が現実の子供取り違え事件をもとにしているように、これは実際に起きたネグレクト事件に基づいて作られている。親に置き去りにされた4人の子供が、マンションの一室で4人で生きていく姿を、2時間20分で描く。12歳の長男を演じた柳楽優弥がカンヌ映画祭で史上最年少の主演男優賞を受賞したことは大きな話題になったから、もう15年近く気になってはいたのだ。
 観ながら、『歩いても 歩いても』で驚嘆したような圧倒的なうまさはない、と思った。だがいかんせん、忘れがたい映画であることは否定しようもない。岩井俊二の『リリィ・シュシュのすべて』などと同じような印象である。きっと大嫌いな人もいるが、心を捉えられてしまう人もいる、といった、痛みを伴わずには観られない映画。

 是枝監督作品ということで最初から期待があるから、ハードルは高い。そこからすれば不満はある。編集が無駄に間延びしているように思えるし、何より救いがない。
 安易な救いを描くことは、それだけ作品を軽いものにしてしまう。ではその悲惨が永久に続くというのか? 悲劇的な結末であれ、いずれ事態の変化が訪れることは確実なのだから、そうした展開への予感だけでも描かずに、強い悲劇の後に、緩慢な、永続的な悲劇に戻ったかのような展開に戻ったところで作品世界を終わらせるというこの映画の結末にどういう納得が得られるのかは、やはりわからない。
 元になった事件は、この映画に描かれるよりずっと強い、陰惨な悲劇の後に、とりあえずは悲劇の終了があったのである(むろんそれはまた別の緩慢な悲劇のはじまりであったのかもしれないが)。
 曖昧な書き方はやめよう。実際の事件では、映画における主人公にあたる長男と、その友人の中学生の虐待によって幼児が死亡したそうである(ネット情報を安易に信ずることはできない、のかもしれない。この「現実」は「事実」ではないかもしれない)。これは、こうした事態そのものの帰結としての強い必然性がある展開である。
 だが、映画では二女の死因は椅子からの転落である。むろんそこから死亡という最悪の展開を回避できなかったのは、やはり事態の招く必然ではある。子供たちだけで手をこまねいている事態が、二女を救えなかったのだとは言える。
 だが直接の死因が、子供たちだけの生活が招いたものではないことと、二女の遺体を羽田空港近くの草原に埋めるという展開の感傷性が、悲劇の質を曖昧にしている。現実には幼児の死は虐待死であり、遺体は発見を恐れて隠蔽されたのである。それはこうした子供置き去りという事態そのものの招いた悲劇である。救いはない。
 それなのに映画では、最後の場面で戻っていく、変わらない悲劇的事態が、二女の「埋葬」の儀式とともにまるで甘美なDistopiaのようにさえ感じられてしまう。
 それでいいのか?
 そしてもちろん、子供たちが然るべき機関に保護されたからこそ、こうした事実が明るみに出たのであり、子供たちだけで生き続ける日々は、現実には終わりを告げたのである。

 そもそも、ここに「いじめ」に遭っているらしい女子高生をからめることは物語的な必然を感じるものの、だとすればそれですら事態がこのように変わらないことに、なおのこと苛立ってしまう。『王様ゲーム』『生贄のジレンマ』などで感じた苛立ちである。バカすぎるだろう、いくらなんでも、というウンザリ感である。
 だがもちろん、こうしたことは高い割合で起こりうること、展開として自然なことでなくてもいいのだとはいえる。普通では考えられないほど愚かな人々の振る舞いを、わざわざ描く物語があってもいい。『シンプル・プラン』なども、そうした、うんざりするような愚かな展開が、アメリカという大国の荒廃を感じさせて巧みだった。
 だとしたら、この女子高生を登場させることの意味はなんなのだろう。救われない者同士の共感が「救い」のように感じられる、先の見えない共同体のありようがともすれと甘美に見えるとすれば、その感傷性はやはり不健全なのではないだろうか。

 映画的なうまさは、あえてドキュメンタリーのように見せる手法を採ることによって抑制しているのかもしれない。もちろん、ちびたクレヨンが絶望的な閉塞感を感じさせる、とか、やはり是枝監督の映画作家としての手腕は垣間見えるのだが。
 それにしてもあの間延びした編集はなんなのだろう。
 だがあの長さにつきあうことが、この子供たちの置かれた状況の閉塞感を観客がいくらかなりと共有するために必要なのだともいえる。
 だからこそこれは間違いなく忘れがたい作品なのだが。

2015年8月26日水曜日

『ザ・バンク 墜ちた巨像(原題:The International)』

 ずいぶん前から録画されたままHDにあった。2度ほど、最初の方を見てはやめたのだが、これはなかなかの映画だぞという感触があって、だからこそ、時間のないときには観られないと思い、留保していた。
 さてようやく観たのだが、いやはやすごい映画だった。
 冒頭と題名から、銀行の不正を調査する捜査員たちのクライム・サスペンスだと思っていたのだが、そのうち話が大きくなってポリティカル・サスペンスといった趣になってきたかと思いきや、途中にはド派手な銃撃戦の描かれるアクション映画にもなる。
 犯罪捜査のレベルでも、主人公の、クライブ・オーエン演ずるインターポールの捜査員と、ナオミ・ワッツ演ずるアメリカの検事が、ドイツ、イタリア、アメリカの刑事らによる協力を得て捜査を進めていく過程がテンポ良く描かれ、それだけでも第一級のクライム・サスペンスだと言える。
 凄いレベルの脚本だなあと思っていると、事件の決着は、単に銀行の不正の立証と犯罪者の逮捕というレベルではすまされないことが明らかになってくる。相手は複数の国の政府、軍、多国籍企業、犯罪組織といった「国際的」なレベルであることがわかってくるのである。捜査妨害はもちろん、暗殺どころか公然と銃撃戦まで起こして都合の悪い証人や関係者を消そうとするし、一国の司法では裁けない対象なのである(題名が『The International』なのはそういうことだ)。
 主人公たちは二つの選択を迫られる。一つは、この先に、自らの安全どころか家族の安全が保証されない、というよりはっきりと危険であるのがわかっていて捜査を続けるか。
 もう一つは、これが通常の司法の枠内では裁けない以上、どう決着させるか。上からの命令に従って諦めるか、法に則らない形で、自らの信ずる正義を遂行するか。
 二つ目の選択については、破滅型のインターポール捜査員がそのまま突き進むのだが、一つ目の選択については、同じその捜査員が、協力者である家族持ちのアメリカの検事を、捜査から手を引くように説得するのである。この選択の現実性を考えたとき、検事は捜査から手を引く。
 だがこれが苦い現実追認に終わらぬよう、映画のラストでは彼女が新たに国際犯罪捜査の責任者になったというニュースが挿入されたりもする。

 捜査員や銀行関係者、政治家たちが過不足なく描かれるのに対し、重要な役どころである暗殺者のキャラクター造型が、狙いはわかるもののもうちょっと、という残念なところで終わっているのは、期待水準が高すぎる。なまじ暗殺者の「心の闇」を描こうとしているのがわかるからこそ、「ちょっと浅いんじゃないか」という印象にもなってしまう。
 だがいくらかでもそれが描かれるからこそ、敵対する主人公と暗殺者が、巨大な敵を相手に図らずも共闘してしまう成り行きには喝采を送りたくなる。結局、脚本といい演出といい、おそろしくうまい。

 お話作りだけでなく、とにかく映画としての演出が、もう隅から隅までおそろしくうまい。冒頭で、雨の街角で捜査員が毒殺されるシークエンスを観ただけで、これは並の監督じゃないぞと思わされる。構図といいカットの切り替えのテンポ感といい。
 舞台として、おそろしく映画的に面白い建築物が次々と出てくる。問題の銀行やインターポールの本部の近代的な壮麗さ。トルコのイスタンブールのブルーモスクや周辺の街並みの迷宮感。
 中でもニューヨークのグッゲンハイム美術館はその造型だけでも面白いのに、その中で繰り広げられる銃撃戦は、これでもかというアイデアに満ちあふれて、本当に圧倒される(そのさなかに、さっきの主人公と暗殺者の共闘の場面で喝采!)。
 そして、銃撃戦でも見られる視点の上下のバリエーションの豊かな、立体感のある空間の描き方も、たぶんこの監督の持ち味なんだろう。街角での暗殺者の追跡劇のシークエンスでも、走るクライブ・オーエンを追っていくカメラが徐々に上昇していくと思ったら、問題の車が止まっているであろう大通りに出たところで、通りをやや俯瞰する高さから、信号待ちで停まっている車両の群れを写して止まる。その動きが、その後に続く、車両の群れから問題の暗殺者の乗る車を特定するまでのサスペンスの予感と同期して、はっとするほど印象的だ。

 クライブ・オーエンは、去年「トゥモロー・ワールド」で顔を覚えたのだが、その前に「ボーン・アイデンティティー」の暗殺者で見ているのか。相棒の検事はずいぶん美人の女優だが、誰だっけと思っていると「リング」のナオミ・ワッツだった。
 監督のトム・ティクヴァは、これが初めて。覚えておこう。

 1年間に観た映画を振り返る記事の後、最初に良い映画を観た(まあ、狙って観たのだが)。

2015年8月23日日曜日

今年のライブ 2015

 前記事で、ブログで1年間触れてきた映画について振り返ったあとの記事は、今年のライブのことだ。そもそも当ブログの二つ目の記事が去年の恒例ライブのことだった。
 今年はメンバーの復帰や加入などで音楽的な幅が出てきたことと、PAが比較的安定して耳に優しかったことで、それなりに聴ける音楽が披露できたかと思う。少なくとも演奏している側は楽しかった。

 というわけで今年のセットリスト。去年より5分短い45分で8曲。

1.強く儚い者たち(Cocco)
2.にじいろ(絢香)
3.小さな恋のうた(モンゴル800)
4.Sunshine Girl(moumoon)
5.おわりのはじまり(くらげP)
6.たしかなこと(小田和正)
7.中央フリーウェイ(荒井由実)
8.星のかけらを探しにいこう(福耳)

 こちら、クロスフェードのダイジェスト。


2015年8月22日土曜日

1年間で観た映画、テレビドラマ

 1年前に『マレフィセント』の感想を書く場が欲しくて突発的に始めたブログが、何とかここまで続いた。これはひとえに「観た映画については書き残す」と決めたからだ。
 日々の生活の中でどんな重要なことがあろうが、あれこれ言いたいことがあろうが、ブログに書くわけではない。それをするといきなりプライベートに触れてしまって、ネット世界との距離が測れなくなる。
 それでも時折は書き残したいと思うこともあって書きはするのだが、それはとりわけ重要だからという基準で選ばれた話題だというわけではない。書く手間とプライバシーに抵触しないこととを勘案しながら、かつ書くだけの時間的余裕がその後、数日のうちに訪れたというタイミングの問題でもある。
 そんなふうに基準が曖昧だと、とてもこんなふうにあても実りもない行為は続かない。SNSは相手のいることだから、その応答の中で続くこともあるだろうが、まあある種のSNSとはいえ、ほぼ個人日記に近いこんなブログを続けることは難しかったはずだ。
 というわけで映画だ。このルールがかろうじてこのブログを、放置、消滅というありがちな成り行きから救っている。といってもちろん、世の多くのサイトのように、ちゃんと世の人々に読ませようという気のない、映画の内容をほとんど紹介しない記述は、あくまで自分の備忘録にしかなっていないのだが。

 というわけで1年経ったら振り返ってみようと思っていた、1年間に観た映画。単に自分のために以下に挙げてみる。75本。

『マレフィセント』
『のぼうの城』
『グッドウィル・ハンティング』
『華氏451』
『誰も守ってくれない』
『ウォンテッド』
『幸せのレシピ』
『Xファイル ザ・ムービー』
『新しい靴を買わなくちゃ』
『台湾アイデンティティー』
『すーちゃん まいちゃん さわ子さん』
『魔法にかけられて』
『フィッシャー・キング』
『88ミニッツ』
『Jersey Boys』
『エクスペンタブルズ』
『麒麟の翼』
『ヒッチャーⅡ』
『孤独な嘘』
『婚前特急』
『ハルフウェイ』
『大鹿村騒動記』
『武士の家計簿』
『劇場版 タイムスクープハンター』
『アウトレイジ ビヨンド』
『エターナル・サンシャイン』
『清須会議』
『ダークナイト ライジング』
『沈黙の戦艦』
『トゥモロー・ワールド』
『鈴木先生』
『猿の惑星 創世記』
『劇場版 銀魂 完結篇』
『名探偵コナン 史上最悪の2日間』
『コンタクト』
『ウェス・クレイヴン's カースド』
『PARTY7』
『TRICK 劇場版 ラストステージ』
『ツーリスト』
『網走番外地』
『トライアングル 殺人ループ地獄』
『そして父になる』
『Mr.&Mrs. スミス』
『昼下がりの情事』
『川の底からこんにちは』
『Tightrope』
『見えないほどの遠くの空を』
『風立ちぬ』
『エヴァンゲリオン 劇場版Q』
『サブウェイ123 激突』
『ネスト』
『ももへの手紙』
『寄生獣』
『ボクたちの交換日記』
『パーフェクト・ホスト-悪夢の晩餐会-』
『人狼ゲーム』
『塔の上のラプンチェル』
『世界侵略: ロサンゼルス決戦』
『ファミリー・ツリー』
『かぐや姫の物語』
『はじまりのみち』
『おとなのけんか』
『アパリション-悪霊-』
『生贄のジレンマ』
『THE NEXT GENERATION -パトレイバー』
『ルームメイト』
『ダレン・シャン』
『FIN』
『ラスト・ワールド(原題『The Philosophers』)』
『シンプル・プラン』
『エイリアンズVS.プレデター2』
『閉ざされた森(原題「Basic」)』
『LAST7』
『ミッション・インポッシブル』
『コンスタンティン』

 75本というと5日に1本くらいか。もちろん、まとめて3本くらい観る週末があったり、3週間くらい観られない時もある。
 さて、こうして並べてみるとランキングしたくなるのが人情だ。だが、こういうのは観たタイミングによって評価が公平でないことは承知している。そのうえであえて順位をつけずに10本を選ぶなら、以下の作品たち。

『幸せのレシピ』
『Jersey Boys』
『エターナル・サンシャイン』
『沈黙の戦艦』
『トゥモロー・ワールド』
『パーフェクト・ホスト-悪夢の晩餐会-』
『おとなのけんか』
『FIN』
『ラスト・ワールド(原題『The Philosophers』)』
『閉ざされた森(原題「Basic」)』

 心温まるドラマ『幸せのレシピ』『Jersey Boys』、SFとして出色だった『エターナル・サンシャイン』『トゥモロー・ワールド』『ラスト・ワールド』、シチュエーション・スリラーというよりコメディーとしてよくできていて楽しかった『パーフェクト・ホスト』『おとなのけんか』、堂々たるエンターテイメント『沈黙の戦艦』『閉ざされた森』など、玉石混淆の中で確実に光る玉もあった1年だった。
 そして『トライアングル』『そして父になる』『見えないほどの遠くの空を』の3本はいくらか考察を加えたりして、その意味でもとりわけ印象深い。

 今年は『ウェディング・マッチ』による坂元祐二の再発見から『問題のあるレストラン』に熱狂し、そこから『最高の離婚』『Mother』などの連続ドラマを見直したり、古沢良太の『デート』、宮藤官九郎の『ごめんね青春』、木皿泉の『昨夜のカレー、明日のパン』などもあって、テレビドラマも面白いものの多い一年だった。『64』の完成度にも驚いた。

『コンスタンティン』(監督:フランシス・ローレンス)

 キアヌ・リーブス主演のエクソシスト物…などというより、神と悪魔の対立の図式の中で両義的な存在、いわゆるトリックスターたる「コンスタンティン」というダーク・ヒーローの活躍するアクションムービー。
 テレビ欄には「ホラー・サスペンス」って書いてあったんだけどな。
 キアヌが『マトリックス』シリーズの後に、シリーズ化を目論んだ作品だとか、『ハリー・ポッター』シリーズのスタッフだとか、ハードルの上がる惹句を先に聞いてしまうから、こんなもんかと思ってしまう。アメリカ映画の辛いところ。
 ビルのフロアにうようよと集まった半悪魔連中に聖水を浴びせるのに、ビルの貯水槽に聖水を混ぜて、スプリンクラーを作動させるとか、白スーツのサタンやパンタロンのガブリエルのキャラクターとか、面白いアイデアはあるんだが、いかんせん、脚本が浅い。
 フランシス・ローレンスは『アイ・アム・レジェンド』の監督なのか。愛しのディストピア映画として、もちろんゾンビ映画としても忘れることのできない一本ではある。もちろんあの結末にはまったくがっかりだったのだが、前半の、人気のなくなった廃墟のニューヨークの街並は実に良かった。「ダーク・シーカー」の設定も、単なるゾンビや、より設定の近い「28日後」のウィルス感染者に比べて、面白くなりそうな設定ではあるのだが、それをぶちこわす結末に失望した。
 ところが、調べてみると、この映画はもともと別の展開で終わるよう作られていて、そちらならば充分納得できる結末であるように思われる。それで観ていれば評価も今より高い一作になっていたかもしれない。惜しいことだ。モニターテストに参加した見る目のない観客のせいで。尤もその後は『ハンガー・ゲーム』なども録っているそうだから、ヒットには恵まれた大監督ではあるのだが。

2015年8月20日木曜日

『ミッション・インポッシブル』

 ああまた! 観始めてから、これは観たことがあるぞという記憶が甦るパターン。そして決定的に先が読めるほど覚えてもいない、という。そしてなおかつ、大物俳優演じる彼が黒幕だったというオチだけは覚えている、という。
 『ミッション・インポッシブル』は、シリーズの1から4まで観ているのだが、これが一番面白くなかったように感じた。ブライアン・デ・パルマにして!
 たぶん、悪い映画ではないんだろう。最初の作戦の失敗までは、画面作りにしても、さすがデ・パルマという奥行きを感じさせたんだが、最後の、高速列車の壁面にすがりついて、トンネルの中に入ったヘリコプターと闘うアクションなどは荒唐無稽に過ぎて白けてしまった。20年近く前だと、これもそこそこ見られる「ド派手なアクション」ってことになるのかいな。

2015年8月15日土曜日

『ウォーキング・デッド』

 娘が常に続きを観たがっているが、こういうことは年寄りは気が長くなっていて「そのうち」がすぐに何年にもなる。だが若者はそういうわけにもいかないので、折を見てとうとうシーズン4を観始める。
 驚嘆する。脚本も演出も入れ替わっているだろうに、どうしてレベルが落ちないのだろう。毎回面白い。第4期だというのに。
 このドラマの面白さは「選択の難しさ」の前で立ち止まる人々をぎりぎりまで真摯に描くことによって成り立っている。ゾンビの徘徊する世界という設定がそうしたドラマ作りを可能にしている。生き延びるために優先しなければならないことは何か? それが、我々の日常などよりはるかにシビアに、それだけ増幅された形で「難問」として目の前につきつけられる。安易な正解はない。だから選択した後で煩悶する。はたしてそれが正しかったのか悩む。
 その選択の結果の残酷さに震え、幸運に震える。
 毎回そうした状況設定をきっちり作り上げてくるスタッフに脱帽。

2015年8月14日金曜日

『LAST7』

 『FIN』『ラスト・ワールド』の流れでDistopia物、あるいは終末物を観たくなった。ゾンビ物は基本、それなのだがここはゾンビをはずして、それ以外の終末物をと、一度観たことがある『LAST7』を見直す。
 ロンドンの街から人々が消失して、主人公ら7人だけが人影のない街をさまよう、という大好物の設定(そういえば前エントリで熱く語った『遠すぎた飛行機雲』も、設定こそ戦時下だが、作品世界の空気はほとんどこうしたDistopia物のそれだ。むろんあの作品のテーマがそれだけでないことは論じたとおりだ)。
 だが、これまたネットではとびっきりの悪評なのだ。
 わかった、認める。確かに大した工夫もない。結末のカタルシスもない。オチの説明は『FIN』ほどの突き放し方はしていないものの、納得できるとはいいかねる。その点は、脚本の段階で物語が練り込まれて、結末に深い納得が得られる『ラスト・ワールド』などとは比べものにならない。
 それでも、それほどの不満はなかった。まず人気のない街中を少人数で歩くというシチュエーションを、とりわけ才気溢れるとはいえないまでも決してチャチには見えない映像で見せていたし、個々の場面の登場人物の言動や展開に、作り手の頭の悪さにいらいらさせられるような不自然さも感じなかった。確かに無駄にフラッシュバックの回数が多いとか、無駄にグロいとかいう不満はある。物語の広がりもない。
 だがまあ、これは人類消失もののSFではないのだ。そう誤解させるパッケージは罪だがそうでないことを知った上でこういう世界を楽しむには悪い出来ではない。確かに『FIN』のように、違和感の強い世界観を意図して構築しているのが感じられるような魅力もないのだが。

NHK杯全国高校放送コンテスト

 現在は関係していないのだが、気にはなっていて、毎年夏になるとテレビ放送をチェックしている。NHK杯高校放送コンテストの全国大会。娘と、ちょうど帰省していた息子も一緒に観る。彼らも、ここ数年来観ているので、それなりに通時的な評価もできる。
 そのうえで、今年は、とりわけテレビドラマ部門で、不愉快な放送視聴となった。理由は単純に、こんなひどい作品が全国の頂点なのかと、納得のできない不全感が残ったことだ。本当に、このレベルが全国から集まった作品の上位3作品なのか?
 本当にそうなら、今年の高校生たちがたまたまそうだったのだ、ということなのかもしれない。昨年の青森工業高校の作品は悪くなかった。好感がもてた(それでも下記の理由で、納得はしきれないのだが)。
 だが例えば、放送されて観ることのできる上位3作品の中の順位にも不信感はある。この三つでこういう順位かぁ…と腑に落ちない思いが残る。ドキュメンタリーは、ほとんど横並びだよなあ、と思いつつ、とりわけ掘り下げが浅いと感じていたものが優勝だったりするし、ドラマはそもそもが全国の上位3作品がこれか、というがっかり感があるうえ、その中でも許しがたいほどひどいと感じられたものが準優勝だったりする。
 もちろん、受容の感覚(つまり「好み」)は哀しいほどに人それぞれだ。流行の歌や芸能人に嫌悪感を抱いたり、自分の大好きな物に世人のほとんどが無反応だったりするのは子供の頃からの習いだ。
 そして、多少なりとも客観的・理性的であるはずの「評価」も、これまた驚くほど人それぞれでばらつくものだと思い知らされる経験も枚挙にいとまない。それはこのブログに映画の感想を書く度に、ネット上での評価とのズレを思い知らされて、承知していることではある。
 だが、ある映画が面白いと感じられるかどうかは、その日の体調や前日の過ごし方や、鑑賞前の期待値などによって大きく上下するものだろうが、コンテストで順位をつけるという行為が、こんなに「人それぞれ」でいいのだろうか。それとも単に、審査員と我が家の評価が食い違っているというだけのことなのか?

 コンテストの結果に納得できる、つまりあの作品(あるいはパフォーマンス)はすごいと素直に納得できれば、負けた悔しさも来年へのモチベーションも健全でありうる。それはコンテストを通じてその分野の発展を図ろうとする目的のために必要不可欠の条件のはずだ。
 だがそれよりも何よりも、コンテストの結果に納得がいかないことは、コンテストの参加者にとって悲劇である。外から見ていくら不全感だの不愉快だのいったところで、参加者当人の思いの激しさには無論及ばない。
 そのことが想像できるからこその「不愉快」なのである。

 こういう思いを、今回よりもずっと強く抱いたのは実際に、関わった作品をもって参加した平成22年のNHK杯放送コンテストの全国大会のときのことだ。その時には、煩悶のあまり、まったく縁のない(同じ年の全国大会に参加していた学校という点ではある種の縁もあるとは言えるが)学校の放送部宛に手紙を書き送ってしまった(学校の公式アドレス宛にメールで送ったのだった)。
 ただ、上記のような不愉快を解消したかっただけだと言っても間違いではないのだが、同時に、それはその「当人」たちの感じているであろうそれをいくらかでも晴らしたいと勝手に思ってもいたのでもあった。「不愉快」自体がそこから生じてもいるからだ(本当に独りよがりの「勝手な」思い込みだが)。
 それはこんな手紙だった。


 突然お便りします。某県の高校で放送に関わっております。先日のNHK杯放送コンテストの決勝のNHKホールで貴校のテレビドラマの主演の女の子を見かけ、思いあまって声をかけてしまった者です。
 NHK杯そのものは、高揚したお祭気分で過ごしたうえ、幸いにも本校は作品がひとつ決勝に進出し、3日間、楽しかったと言ってもいいのですが、直後に感じていた後味の悪さが、今に至るも、ずっと心にひっかかったまま、今も折に触れて思い起こされます。テレビドラマ部門の審査結果についてです。
 昨年のNHK杯も3日間、準々決勝からテレビドラマを追っていたのですが、準々決勝会場で青森東高校「転校ものがたり」と、松山南高校「ねえさん」を見た時の驚きは忘れられません。
それ以前のテレビドラマ部門出品は本校の過去の入賞作も含めて、所詮高校生が頑張って作ったもの、の域を出ませんでした。もちろん、作品をひとつ形にすることの労力はわかったうえで、物語にせよ映像にせよ、「これはやられた」と思わされるようなものにはお目にかかったことがなかったのです。一昨年の小野高校「この指とまれ」なぞも、そうした意味で、労作だとは思うものの、とても一般の鑑賞に堪えるような「作品」ではありません。
 それが「ねえさん」の、見るものの心をつかむ力と、「転校ものがたり」のあらゆる要素における完成度は、完全に「作品」としてその出自を問わずに享受できるレベルでした。この二作品に、準決勝会場で見た沖縄開邦高校「保健室の住人」を加えた三作品は、完全に他作品と段違いの力をもっており、昨年のNHK杯決勝は、テレビドラマ部門については、その意味できわめて納得できる、いわば「当然」という印象で発表を聞いていました。その中でも完成度の点で図抜けている「転校ものがたり」が優勝であろうとは予想していたのですが、審査結果を聞いたときは、むしろ自分の判断と審査員の判断が一致したことに安堵したものでした。
 今年度もまた準々決勝からテレビドラマ会場に居座って、玉石混淆の作品群につきあったのですが、私のいたA会場で青森工業高校「Tais-man」を見た時の驚きは、昨年の「ねえさん」「転校ものがたり」に匹敵していました。このレベルの作品が去年に続いて出てきたのか、と。
 夜、宿でB会場の上映作品を録画してきた生徒達と、いくつか印象的だったという作品を見た際、北海道の小樽潮陵高校「椅子」と貴校の「遠過ぎた飛行機雲」に、やはりうならされました。とりわけ「飛行機雲」の、戦時下の高校生という設定もさることながら、前半で二人が飛行機雲の正体を知らないという設定が明かされるやりとりの時点で、これは尋常じゃないぞ、と居ずまいを正され、その後、最後まで、その世界観、テーマ性、出演者の演技から演出、編集まで、あらゆる要素が尋常なレベルではない作品の力に圧倒され続けました。
 準決勝会場では、当然のように進出した「椅子」「遠過ぎた飛行機雲」「Talis-man」をあらためて見直しながら、これは昨年驚かされた「転校ものがたり」らのレベルに肩を並べていると思っていました。あえて言うなら「遠過ぎた飛行機雲」「Talis-man」の二作品が「転校ものがたり」と同等のレベル、「椅子」と「美術室のアイツ」がそれに次ぐレベル、以上4作品とそれ以外の作品との間にも大きな開きがある、というのが二日間見終わっての感想でした。
 決勝会場では、昨年の結果に対する信頼から安心して、上記4作品のうち3作品が決勝に進出しているものと、当然のように思い込んでいました。それが、あの結果です。信じがたい、という驚きとともに思い出されたのは、準決勝の審査員の選評です。
 貴校の作品が優良賞にとどまったのは、おそらくその完成度の高さゆえです。選評において審査員のNHKディレクターの中村氏は「映画っぽい作品が多かったという先生方の感想」があったという趣旨のことを最初に述べていました。それが第一声だったのは、おそらくこうした意見が審査結果を左右したことの表れです。中村ディレクターが個人的にそれについてどう考えているかは、あのコメントの中ではわかりませんでしたが、審査員団全体として、テレビドラマの審査においてわざわざ「映画っぽい」という感想を述べるのは、作品の、「作品」としての完成度(完結性というか)をとりわけ意識した上で、それを肯定的にか否定的にか判断していることの証左です。
 そのうえで、今年度の準決勝審査員は、「映画っぽい」作品より、高校生が作る「テレビドラマ」を上位に置きたいと考えたのです。商業ベースにのせても評価できる完成度の高い作品より、あくまで「高校生らしい」、未熟な作品の中から入賞作を出したかったのです。
 これは、私にはきわめて不健全な判断であると思われます。もちろん、完成度の高い「映画っぽい」作品より、「高校生らしいテレビドラマ」を選ぶという立場も、理屈としてはありうるのでしょう。放送活動は報道活動であり「作品」づくりの場ではないのだ、とか、完成された作品より未完成な作品の方が可能性を残している、とか、そもそも高校の放送活動は教育の一環なのだ、とか。
 あるいは単に「遠過ぎた飛行機雲」「Talis-man」よりも「美術室のアイツ」「空色レター」「恋文」の方が好きだ、とシンプルに思う審査員が多かったのだとすれば(ちょっと信じがたいのですが)、それはそれで仕方がないとも言えます。人の「好み」はいかんともしがたい。しかし、何らかの「評価」をするという意識があって、「遠過ぎた飛行機雲」「Talis-man」よりも「美術室のアイツ」「空色レター」「恋文」を高く評価したのなら、その批評眼の欠如は驚くべきものです。
 一方でおそらく私には、高校の放送活動というものへの思い入れが欠如しているのです。私は単に私を感動させてくれるものを見たい(聞きたい)。破天荒な未完成が面白いならそれもまた良し、です。プロの作るテレビ番組にはない「高校生らしさ」が面白いなら、結果オーライです。それが面白いなら。
 でも単に未熟さや稚拙さでしかない「高校生らしさ」や、映画に嫉妬しているだけの「テレビドラマらしさ」をことさらに持ち上げて、完成度の高い作品を排除しようとする心理が、高校放送に携わる審査員に働いたように思われてならないのが、この審査結果に感じる後味の悪さです。
  私が「不健全な」といったのは、生徒達が真摯に自分達の作品を作り上げようとするとき、それが自分達にはまったくあずかり知らぬ「高校生らしさ」という要素の有無によって評価されてしまうという事態です。作品は、単に自分にとって面白ければいい。最終的な評価者は自分だけだ(もちろんスタッフは複数いるので、それぞれにとっての「自分」ですが)、と信じて、より良いものを誠実に、真摯に作っていくしかない。その果てに、多くの人が認める「良い」作品が生まれるのではないでしょうか。そのことに誠実であり、なおかつ特別な才能のある者がスタッフにいた幸運なチームが、結局「良い」作品を作り上げるのではないでしょうか。そうした幸福な作品を、素直に讃えるコンテストでなかったことが(今年のテレビドラマ部門については)、残念でなりません。
  決勝進出の三作品については、「美術室」は前述のとおり、それなりに納得のできる質の高さをもっていて、なおかつ「高校生らしさ」を備えていました。決勝に進出した時点で、これが優勝であるのは納得されるところです。しかし同テーマの作品としては2008年の優秀賞、青森県立田名部高等学校の「壁」の方が力があると思います。
 「空色レター」は、ソツなく作ってくるなあと、悔しく思いました(「悔しく」というのは、それなりに手が届く、という感触を含んでいます。「遠過ぎた飛行機雲」「Talis-man」にはそのような対抗意識の生まれる余地がありません)。
 「恋文」は「なんでこれが?」というのが感想です。むろん好感の持てる作品であるのは間違いないのですが、準決勝進出作品の中でこれが抜きん出ているとはとても思えません。よって決勝進出三作品にもかなりの開きがあるものと思われ、結果の順位は納得のいくものでした。
 貴校の「遠過ぎた飛行機雲」は、本当に素晴らしかった。先に述べたように世界観、テーマ性、出演者の演技から演出、編集まで、あらゆる要素が、です。どんな才能の持ち主がいるのだ、と驚嘆したのですが、それもそれを支えるスタッフあっての作品です。ごくろうさま。そしておめでとう。このように「幸福な作品」を生み出せたことに対して。
 主人公二人以外の誰の姿もないあの作品の世界が、思い起こす度になんだか郷愁のような懐かしささえ感じさせます。高校生が素直に夢を語ることの困難と、困難故の安穏を、戦時下という設定で描いたあのテーマは、実はそっくりこの現実の抱える困難の裏焼きではないか、と考えるのは穿ちすぎですか?
 二週間以上も過ぎてまだもやもやと晴れないもどかしさをつらつらと書き綴ってしまいました。審査員に向かって言いたいことではありますが、こういうのは当人たちに向かって言っても仕方がないのが世の常です。せめて素晴らしい作品を作った皆様に、こういう感想を抱いた参加者が、きっといっぱい(とりあえず私の周りにも)いるのだということをお伝えしたくて筆を執りました。
 またお互い、良い作品を持ち寄って、来年もお会いしましょう。
佐賀県立有田工業高校 放送部様

 このメールを出してしばらくして学校に連絡が入った。所用で上京するこの放送部の顧問の先生が、上京のついでに面会したいというのだった。
 思ってもみないことだった。

 2時間ほど、あれこれと高校放送業界のことやら、「遠すぎた飛行機雲」その他の作品のことなどお喋りして、ついでに有田工業高校放送部の作品集DVDをいただいたのだが、今回、久しぶりに、DVDに収録されている「遠すぎた飛行機雲」を見直してみた。
 もう何度観たかしれない。やはり素晴らしい。本当に奇跡的に素晴らしい。そしてそれは単なる偶然のような「奇跡」ではなく、まぎれもなく部としての力の集積でもあり、真摯で誠実な努力と、あまりに真っ当な技術力の賜物なのだった。
 これが上記のような評価をされるNHK杯とは、いったいどこに向かっているのか。

2015年8月9日日曜日

『閉ざされた森(原題「Basic」)』監督:ジョン・マクティアナン

 ジョン・トラボルタとサミュエル・L・ジャクソンというのだから安い映画ではなかろうと観始めた。軍の訓練を舞台にしてはいるが、戦争物ではなく、サスペンスというか、結論を言えばミステリーだった。
 いやあ、面白かった。ネットで評価の低い人の言うように、確かにアメリカ人の顔と名前が覚えられなくて話がわかりにくい。が、幸いにも録画して、しかも途中で何度も確認して先へ進めたので、二転三転する真相が明らかにされていく展開の前の段階で、ある程度の人物関係を把握できた。だから、この映画の肝であるどんでん返しは充分に楽しめた。どうもミステリーらしいという情報を先に得ていたのは、この際、ラッキーだった。事件が把握できないまま結論だけ知ってしまったら残念な印象に終わってしまったかもしれない。
 『戦火の勇気』も、戦場を舞台にした、いわゆる「藪の中」もの(関係者の証言が食い違っているから真相が確定されない、という)だった。もちろんあれも面白かったが、『閉ざされた森』はそれ以上だった。結末前のカーニバルを背景としたシークエンスの迷宮感と、大どんでん返しの最終結末が明らかになる時の快感が見事だった。しかもありがたいハッピーエンド!
 もしかしたら、よく考えれば『ツーリスト』同様の矛盾がどこかにあるのかもしれないが、それも次回観る時に探してみようという気になるくらいには大満足だった。誰の作品だ? と思ったらジョン・マクティアナンじゃないか! 『ダイ・ハード』はオールタイム・ベスト10作品だ。『プレデター』の1作目もそうなのか。おまけに脚本のジェームズ・ヴァンダービルトって人は『ゾディアック』(デビッド・フィンチャー監督)の制作と脚本も手がけている。こちらが知らなかっただけで、最初から期待してもいい作り手の作品なのだった。

2015年8月7日金曜日

『エイリアンズVS.プレデター2』

 『エイリアン』シリーズも『プレデター』シリーズも全部観ていて、『エイリアンvsプレデター』も面白かったから、観ない理由はないんだが、観始めるとなんだか見覚えがある。この感じが怪しい。既視感のある場面もありつつ、まるで記憶のない場面が大半という、このパターンは時々あるな。つまり観てはいるが、どうでもいい映画だったというケースだ。
 錚々たる監督の並ぶ『エイリアン』『プレデター』本家シリーズはどれもエンターテイメントとしてよくできた映画ばかりである。『エイリアンvsプレデター』も、『バイオハザード』シリーズのポール・W・S・アンダーソンらしい隙のない物語運びだった。
 何も南極にプレデターの遺跡があるとか、『プレデターズ』のようにどこぞの惑星を舞台にするとかいう大がかりな物語設定にしなければ面白くないというわけではない。地球の、我々のいる街に舞台を置くのはむしろ予算をかけないで良い映画を作ろうという志さえあれば悪くない選択だ。
 そうであればこそ、とにかくも脚本と演出の勝負ではないか。この日常に化け物を放り込んで起こりうる小さなドラマを積み重ねてサスペンスを盛り上げるか、そうでなければやはり物量作戦のロケと特殊撮影だ。どちらも中途半端な本作は、やはりたぶん観たことがありながらもその程度の印象しかない凡作だった。

2015年7月28日火曜日

『シンプル・プラン』(監督:サム・ライミ)

 原作は当時話題だったし監督はサム・ライミだし、見とこうと思って機会がなかった。
 事態が悪化の一途を辿る展開は決して気持ちの良いものではない。むしろ嫌な気持ちがするといっていい。だからこそ、かろうじて、最悪の結末の一歩手前で決着した結末に、いくぶんホッとしたりもして。
 もちろんだからといってハッピーエンドなどではありえない苦い結末の、主人公のアップが、それはそれで映画としては味わい深いともいえる。

 それよりアメリカ映画を観ていると、その生活感覚のずれ方がなんだか不思議だ。あのデカい家に住むのが当たり前で、日本人からすると普通の生活をしているように見えるのに、それでは不満だと感じている。犯罪に踏み込んででも、偶然に手にしたその金を自分のものにしたいという欲求が、日本人にはピンと来ない。
 あれは、「アメリカン・ドリーム」が基準になって「成功」がイメージされているからこその裏返しの悲劇なんだろうと思う。

 それにしても「死霊のはらわた」とも「スパイダーマン」とも全く違うサム・ライミの、真っ当な映画監督としての才能に納得させられる佳作ではある。

2015年7月12日日曜日

『ラスト・ワールド(原題『The Philosophers』)』

 またしても「TSUTAYAだけ!」。終末物に「バーチャル討論会」とかいう謎の煽り文句に惹かれて。
 始まってみるとなぜか舞台がジャカルタだし、終末物だというのに原題は「哲学者」だし、どういうこと? 登場人物たちはアメリカ人らしいけど?
 なんとインドネシア映画なのだ(見終わってから調べてみると)。となればもう前回の『FIN』同様、アメリカ映画を観るのと違って、CGの粗さにも許容水準がすっかり下がっている(逆にアメリカ映画は映像がどれほどよくできていようが、もうそれがどうした、という気がしてそれ自体をプラスに評価する気になれなくなっている)。

 で、結論を言えば大傑作だった。もうオールタイムで何十作かを選べばそこに加えてもいいと思えるほど満足したのだった。
 物語は、高校の哲学の授業で、核戦争で人類が滅びようとする時、核シェルターで生き延びさせる10人を選ぶとしたらどうする? という思考実験をする、という話。思考実験の中身が劇中劇としてCG合成のSF劇として描かれる。教室の場面がいきなりそこに接続する時の目眩のような感覚も面白いが、都合3回試行される思考実験の劇中劇の意味合いが現実の授業の人間関係と重なり合っていく構成が見事。これは映像とか演出とか演技とかではなく、とにかく脚本のできが素晴らしいのだ。
 この、映画内現実と劇中劇がミルフィーユになっている構成といえば、昨日観たばかりの鴻上尚史の「ハッシャ・バイ」が偶然にもそれで、娘が演出しているので観に行ったところ大感動して帰ってきたばかりだというに、妙な符合だ。
 そしてどちらも、ちゃんとテーマが「わかる」と感じられたところも満足感を得られた大きな要因だ。
 「ハッシャ・バイ」では、簡潔に言うと母親への愛憎、ということになるだろう。自立するために母親の支配から逃れなければならないことと、母親への愛情の間に生ずる葛藤をどう乗り越えるかが物語に方向性を与えている。
 「ラスト・ワールド」では、合理的判断よりも情緒的な判断の方が正しい可能性について、あるいは実学よりも芸術の方が生きる上で必要な場合がある、といったようなところか。これは佐野洋子の『嘘ばっか』の中の大好きな一編「ありときりぎりす」ではないか。きりぎりすの奏でる音楽が最初、雑音としか感じられなかったアリが、ある時、その音楽によって世界が輝くように感じられる場面が感動的なのだが、『ラスト・ワールド』でも終末において音楽の果たす役割が感動的に描かれたある場面では、あやうく泣かされそうになった。
 そして前回の『FIN』との決定的な違いは、ちゃんと物語が落ちているところだ。しかも実に見事な着地だ。伏線は回収されるし、テーマが強調されつつハッピーエンドに終わる。なおかつアンハッピー・エンドの結末までも「思考実験」的リフレインの手法で描かれもし、だからこそこれはハッピーエンドなのだと腑に落ちる。素晴らしい。

 ところでまたしてもネット上の評価は芳しくない。
 「逃した魚は大きいぞ」の批判は実に尤もだと思いつつ、大いなる満足が上回っている。
 「365日で365本 映画を観るブログ」は丁寧な感想を綴って大いに好感がもてる。
 とまれ監督・脚本のジョン・ハドルズはここに記録しておこう。
 

2015年7月10日金曜日

『FIN(邦題「ザ・エンド」』監督:ホルヘ・トレグロッサ)

 TSUTAYAの棚で見つけて、終末物やサバイバル物が好物の嗜癖が反応してしまった。それに『28週後…』のプロデューサーと『永遠のこどもたち』の脚本家という宣伝文句に期待をかけて。
 といいつつ、実はたぶんそれほど期待はしていなかったのだ。「ザ・エンド」だし(なぜ「ジ・エンド」ではないのかは結局わからない)、スペイン映画だし、「TSUTAYAだけ!」というDVDリリース自体がまず怪しいし。
 この、期待値の低さは精神衛生上大変好ましい結果を生む。実に満足したのだった。良かった。良い映画を観た。
 アメリカ映画を観るつもりだと許せないようなCGの粗さも全然許せるし、たぶんドローンによる空撮だって、空撮が入ること自体が予想外だったから、「おおっ! 空撮か!」とか、期待以上のような気がしてしまう。だからといって空撮が効果的であるような場面でもないのだが、そんなことは好印象に覆われてもうどうでもよくなっている。
 スペイン映画といえば最近では「REC」だが、なるほど、あの粗い手触りだ。
 集まった主人公たち数人を残して、どうやら全ての人間が消失してしまったらしい、とか、主人公たちも一人ずつ消えていく、とか、ノスタルジックなディストピアのテイストが満載の展開は、演技やカメラワークを含めた演出が確かならもう楽しくてしょうがない。人物描写も簡潔でいながらリアルな手触りを感じさせるし、スペインの山岳地帯や街並みがえらく綺麗なのも、どうしてこのSFサスペンス映画に!? という違和感を感じさせて良い。唐突な動物たちの、これでもか、という登場も異常で良い。異常なことが、単なる安っぽさや頭悪さと感じられないように作られている時には、それは異化効果となって表れるのだ。
 もちろん、あの、何も伏線を回収しない結末にはがっかりした。ここまで期待させておいてこれか、とは思った。が、それがネット上に溢れる、この映画への呪詛のようには、逆転しなかった。がっかりはしたが、それはそこまでの好感を減退させるものではなかった。もうそこまで楽しんだから、トータルに言って「良かった」でいいじゃん、という感じ。
 そうかあ、みんなそんなにこの映画に怒ったのか。もう散々な言われようなのだ、ネット上では。星一つ半って、何?
 そのなかではこのサイトの詳しいレビューが素晴らしい。

2015年7月8日水曜日

『震度0』 ドラマ版

 横山秀夫原作もので『半落ち』以外に何か、と探したらTSUTAYAにあった。映画かと思いきやWOWOWのドラマだった。
 さて結論を言うと、前述の『64』『クライマーズ・ハイ』に比べるとかなりおちる。テレビドラマ的な安っぽさはない。安い映画、くらいの画面の深みはある。が、そもそもNHKドラマの『64』『クライマーズ・ハイ』が異常なのだ。あのクオリティが。
 同時に、どうやらこれは原作の問題でもあるらしい。未読だが、アマゾンのカスタマー・レビューによれば、私がドラマを観たのと同様の不満を原作小説に対して抱いた読者も少なくないらしい。そしてそれは『64』『クライマーズ・ハイ』では満たされていた魅力である。すなわち、魅力的な主人公の存在である。
 例によって組織の中で翻弄される人々がリアルに描かれてはいる。だが『64』でも『クライマーズ・ハイ』でも、だからこそその中でぎりぎりの選択を迫られる主人公の矜恃が光るのだ。それなのに『震度0』では、主人公が自らの出世コースを守ることを第一義とするキャリアでしかない。そう見えて上川隆也だから、どこやらで格好つけるのかと思っていると、結局そのまま権力闘争(しかも地方の県警内部での)で終わってしまうのだった。警察の正義は? 仕事への誠実さは?
 真相にリアリティを感じなかったのも不満の種だが、これはドラマの演出のせいか不明。
 これも横山秀夫原作ものに対する期待値の大きさ故のやむをえない渋い評価だ。

2015年7月5日日曜日

『ダレン・シャン』(監督:ポール・ワイツ)

 こういう映画のことを書くのはしんどい。それだけは自分に課しているとはいえ、こうどうでもいいと。このあいだの『王様ゲーム』『生贄のジレンマ』みたいなのは、それはそれで言いたいことがあって、それなりに書きたいとも思うのに。

 原作未読。話題のダーク・ファンタジーに触れとくか、といったくらいの動機で。
 『ハリー・ポッター』も、読めばたぶん面白いのだろうが、映画でしか触れていない。『アズガバンの囚人』はなんといってもアルフォンソ・キュアロンだから面白かったが、それ以外はそれほど愛着はない。
 同様に、「ダレン・シャン」も、原作を読めば面白いのかもしれない(もちろんつまらないかもしれない)。が、まあ映画はこんなもんだろうな。聞けば原作ファンの間でも映画の評判は芳しくないという。続編が作れないほどだというから、この手のシリーズ物としてはひどい部類なのだろう。アマゾンのカスタマー・レビューも、あろうことか星の数が下へいくほど多い。
 いやまあ、それでも映画はそこそこ面白かったよ。原作への思い入れのないぶん、期待値も低い。肉弾戦がなぜかカンフー・アクションになっちゃうアンバランスさは、狙い所のわからん映画だとは思うが。主人公が後半になるにつれて格好良く見えてくるところなぞはちゃんと描けている。でもまあ、満足感のようなものを感ずるのは難しいなあ。やっぱり。
 それにしても重要キャストの一人、ジョン・C・ライリーは最近『おとなのけんか』で見たばかりだというのに、調べてみるまで同一人物だと気づかなかった。うーん、あまりに役柄が離れてて。

2015年7月4日土曜日

the HIATUS

 先々週末にthe band apartとTHE BAWDIESを借りたのを返したのと入れ違いに借りたのはthe HIATUS。
 いい。とりわけ「Shimmer」には驚いたが、こういうのはELLEGARDENファンからするとどうなんだろ。ELLEGARDENは、細美の声とメロディがなければ決して聴かないタイプのリズムのバンドだったが。




2015年6月30日火曜日

『ルームメイト』(原題「Single White Female」)

 今邑彩の「ルームメイト」をひとから借りて予備知識無しに読んで感心していたら、その少し後でそれがベストセラーになっているという記事を新聞で見た。妙なシンクロだと思っているとあれよと映画化と、あろうことか武富健治が漫画化する。映画も好意的な評価を見たりして、いずれは観たいと思うし、武富健治の漫画は連載では追わなかったがこれもいずれは単行本で読もう。
 というわけで『ルームメイト』だが、こちらは20年以上前のアメリカ映画。ルームメイトが実はサイコで…って話だろうとは思っていると、はたしてまったくそのとおりなのであった。そしてまったくそれ以上ではないのだった。悪いところはない。そつなくできている。サイコなルームメイトがじわじわと異常性を表して、とうとう監禁された主人公が反撃に転ずる、というあまりの予想通りの展開は、もうその恐怖の細かい仕掛けと演出だけが頼りのはずだ。これがあまりに凡庸。まったく予想を超えない。せめてどんでん返しがあるかと思っているといきなり放送が終わる(こういうテレビ放送はエンドロールを流さないので)。
 残念。週末に観るべきだった。

2015年6月27日土曜日

『THE NEXT GENERATION -パトレイバー』

 気乗りはしなかったが、初期OVAやTV版、マンガと旧劇場版3作はもちろん全て観ており、とりわけ『機動警察パトレイバー 2 the Movie』を邦画No1と評価しているからには、何か、落とし前をつけねば、といった感じで観る。
 劇場公開の短編をいくつかと、次の『首都決戦』のプロローグ的なエピソードをテレビの映画枠に収めた放送。

 気乗りしないのは、これまで押井守の実写に総じて感心しなかったからだ。一部で評価の高い『アヴァロン』も面白くなかったし、劇場で観た『紅い眼鏡』ももちろん退屈だった(だが一晩中押井作品を観るという特異な企画で、明け方近くに観ていたラスト近くで妙に感動してしまったから、特別な印象はある)。
 劇場版の押井監督の1,2は上記のように邦画の中でも特別の位置にある。だが、脚本の伊藤和典が書き下ろした1の小説版は、そっくりそのままの小説化であるにもかかわらず、まるで面白くなかったのが、実に興味深かった。映画はもちろん総合評価であり、「脚本も凄い」と思っているにもかかわらず、映画の凄みは、その小説にはまるで感じなかった。2の小説版は押井の手になるもので、こちらは映画とはかなり違った角度から書かれており、これは面白かった(押井の小説は『獣たちの夜 BLOOD THE LAST VAMPIRE』も面白かった)。
 これは、映画に対する評価が、結局のところ総合評価でしかありえないことを示している。『バトルロワイヤル』の評価が高いことは原作の力ではなく深作欣二の力なのだろうし、先日の『生贄のジレンマ』も、仮に脚本が練り込まれたとしても、必ずしも良い映画になったとは限らないということだ。

 で、『THE NEXT GENERATION -パトレイバー』だが、期待しなかった分、強い不満も感じなかった。むしろ意外と面白い、とさえ思った。
 それでも、押井守のアニメに比べて、その力のないことは否定しがたい。
 実写映画は、恐らく「現場」が存在することで、とにかく無駄な映像が山のように積み上がってしまうのだろう。最初から描くことでしか存在を許されないアニメと違って、その映像は、作品の緊張感をぐずぐずにしてしまう。アニメの押井作品のような特別な世界を現出させることはない。
 『機動警察パトレイバー 2 the Movie』がどれほどリアリティを目指しても、それは「実写のよう」になることではないし、『アヴァロン』があえてアン・リアルな映像を作っても、やはり撮影現場の空気感が作品からは感じられて、のめりこめない。
 それでも実写映画を作るのは、やはり制作が楽しいからなのか? 単にオファーがそれなのか? 誰が押井の実写を求めているのか?

2015年6月26日金曜日

『生贄のジレンマ』(監督:金子修介)

 『人狼ゲーム』『王様ゲーム』に続いて、「ソリッド・シチュエーション・スリラー」「バトルロワイヤル」「生き残りゲーム」枠で。
 そういえば深作欣二『バトルロワイヤル』も、かなり以前ではあるが観てる。タランティーノはじめ、外国でも評価が高い映画版は、やはり原作の10分の1も面白いとは感じられなかったが、それでも今思えば、映画的な面白さには満ちていたと思う。こういうのが好きじゃないと映画ファンとはいえないんだろう、とは思う。だが原作の面白さも感動もほんのわずかしか感じられなかったのは、やはり私が「小説」的な面白さに感応しやすいということなんだろう。

 ところで『生贄のジレンマ』である。どこかで原作の書評を見て、面白そうだとは思っていた。映画の監督も金子修介だし、上・中・下という長丁場もむしろ「我慢してつきあったが故の感動(というねじくれた楽しみ)」を感じられるんじゃなかろうかという期待もあって、3巻まとめてレンタルしてきた。
 最初の設定紹介からしばらくは面白くなりそうな期待があった。そう、「生き残りゲーム」ものは「タイムリープ」もの同様、物語を作りたい素人がアイデアを盛り込むには恰好の器なのだ。この設定・ルールで生き残りをそれぞれが考えるとしたら…と考えるだけで、無限にドラマが生まれてきそうだ。
 だが物語が進行するにつれ、これはだめだという感じが強くなってくる。みんな頭が悪すぎる。「生き残るためにしそうなこと」をしている気配があるのは、主要登場人物の周辺だけで、そのいくつかのチャレンジが潰えると、それ以上のアイデアが出てこない。時間が経つにつれて絶望が支配して、誰も何もしなくなる、という展開はあってもいい。だがその前に、時間が経つほどにみんながそれぞれアイデアを思いついて次々と試す、という展開がまず描かれるべきではないか。
 登場人物がみんな頭が悪すぎるというのは、つまり作り手の頭が悪すぎるということだ。あまりにも最初から思いつきそうないくつかの行動以外に、描かれていない場所で描かれていない関係者がそれぞれに生きて、時間を過ごしている、という感触がない。
 これはそこに生ずるであろうドラマの描き方についても同様である。ゲームとしての可能性がまるで考察されていないように、それに巻き込まれた人間達が過ごす時間の中で生きる「ドラマ」が、まるでありがちな学芸会レベルである。しかもやはり主要登場人物の周辺に生ずるそれしか描かれない。どんな端役の人物にだって、誠実に焦点をあてれば息をのむドラマが起こっているはずなのに。こんな極限状態ならば。
 結局、脚本と演出の問題なのだ。脚本は「このルールを生きる」ことの可能性をぎりぎりまで考察し、アイデアを出し尽くすべきだし、演出は「このルールを生きる」ことをぎりぎりまでリアルに想像すべきである。そうすればこんなひどいことになるわけがない。役者陣の演技には大いに失望させられたが、これはつまり演出の問題である。これほどの極限状況におかれた者達がどれほどの振幅で感情を動かすか、その狂気も、(期待することの難しい希望かもしれない)崇高さも、監督がリアルに想像できていないから、若い役者達にそれを要求できないのだ。
 金子修介は学生時代に講演を聴いたことがあり、そのときに制作中だった『1999年の夏休み』はその後観て、印象深い映画の一本だ。『毎日が夏休み』も大好きだし、『平成ガメラ』シリーズも面白かった。その彼にしてこの無惨な作品はどういうわけだろう。
 凡作ができてしまうのはやむをえない。なんであれ「面白さ」を生み出すのは容易ではなかろう。だが、大人が何百人も集まって、こんな惨状を止められないのは、日本の映画制作の問題なのだろうと漠然と思わざるをえない。上記のような高い志をもっていなくてさえ、こんなにつっこみどころ満載な展開、描写はいくらなんでも放置してはいけないんじゃないかという当たり前の良識をもった人間が、なぜ責任ある立場にいないのか。穴の中に落ちた者達が屋上で目覚める必然性はあるのか、とか、死んだ人間の中で、なぜ彼女だけが都合良く生き返るのか、とか、死んでいないのになぜその前に死んだとしか思えない描写を入れるのか、とか、中学生でも不審に思うはずの馬鹿な演出をなぜこれでもかと並べてしまうのか。

 小説やマンガには、最近、生徒に借りて読んで驚嘆した「鳥籠ノ番(つがい)」(陽東太郎)などのように、ルールから派生しうるドラマを、ゲーム的にもドラマ的にも満足できるレベルで展開した作品がいくつもある。「カイジ」「ライアー・ゲーム」「DEATH NOTE」などの堂々たる作品群は、人気、知名度ともに人口に膾炙しているといっていい。だがこれらの名作も、おそらく映画にしてしまえばその面白さは保てないだろうと思うから、映画は観ない。
 上記のような小説やマンガは、少人数(一人)で考え抜く、という作業を経ているのだろうと思う。これが、映画は時間や費用の制限が、「考える」ことよりも優先されてしまうという制作上の事情によって、上のような惨状を生じさせるのだろう。
 だがせめて、脚本を複数人のチームによって練るといった、たぶんゲーム業界やハリウッド映画・ディズニー映画ではひろく行われているであろう方法を、なぜ日本映画は採用しないのか。一人で書かれる脚本があってもいい。だが、この手のシチュエーションものは多面的な考察が命である。せめて「みんなで考える」ことでもしてレベルを保証して、小説のような低コストのジャンルならば「仕方ない」とも思える「無惨」さをなんとか回避してほしいと、他人事ながら思ってしまう。

 それにしても三部作で4時間あまりである。これも自分の責任とはいえ。

2015年6月15日月曜日

the band apartとTHE BAWDIES

 久しぶりにTUTAYAへ行ってみて探してみると、ウワノソラとかルルルズとかChouchouとか、やっぱりない。インディーズはどこまで置くんだろ。ceroがあったが、あれはメジャーなのか。
 で、the band apartとTHE BAWDIESを数枚。


2015年6月13日土曜日

『アパリション-悪霊-』

 時折、無性にホラー映画を観たくなる。どういう欠如に対する欲求なのかわからないので、どういう法則性があるのかはわからない。岸田秀あたりに言わせると、ホラー映画を観たがるのは、自我をわざと不安定にさせないと退屈だからだ、ということなのだが、安定しすぎて退屈な時に観たくなっているのかどうかは、点検したことがないので、とりあえず不明。
 で、そういう時用にと、深夜に放送されていた「戦慄のホラー」とかいう惹句の『アパリション-悪霊-』を録画しておいたのだが、気になって観てしまった。「そういう」時だとも言えないタイミングで。
 だめだった。『王様ゲーム』ほど、作り手の正気を疑うような出来ではないのだが、『パラノーマル・アクティビティ』とどこが違うのかまったくわからない。『パラ』の方が、ビデオ撮影による悪霊の存在確認という新味があって良かったくらいだ。
 悪霊の存在について、いやに大げさな大風呂敷を広げるのも印象が悪い。理屈も強引だし、黒沢清の『回路』っぽい、こちら側の世界が変わってしまったかのようなラストも、言葉でそういうほど、画としては感じられない。
 ジャンクな食べ物をとりあえず食べたい時用にやはりとっておくべきだったか。

2015年6月7日日曜日

『王様ゲーム』(監督:鶴田法男)

 この間の『人狼ゲーム』つながりで、観てみたくなった。好物のSSSではあるが、この出来は到底容認できない。
 アイドルの一人や二人は拒否するものではないが、グループが総出演ということから予想されるレベルというものがある。
 だが、それさえ下回る劣悪な作品だった。こういうのが小説や漫画ならまだわかる。ましてケータイ小説なら不思議はない。コストがかからなければ、どれほど劣悪な作品だって、世に送り出される可能性があることに不思議はない。だが、映画となれば、関わっている人間の数も費やされる金もケータイ小説に比べると桁違いに莫大なもののはずだ。それが、どうしてこのように劣悪なままで完成まで至ってしまうのかは本当に不思議だ。
 誰が観たって、それこそ中学生が観たって、突っ込みどころ満載の、そこら中が破綻しまくった設定・展開・演出のオンパレード。なぜ誰かがどうにかしようと言い出さないのか。言い出していくらかは食い止めてそれでもこの噴出なのだろうか。脚本家は投げ出してしまったのだろうか。プライドも評価も。何が彼をそれほどに自暴自棄にしてしまったのだろう。
 一方で、いくら破綻があったって、面白ければいいのだ、というポリシーも、それはそれで認める。だがどこだ? どこに面白さがあるのだ?
 たぶん、もともと出演者を知っている必要はあるのだろう。キャラクターの掘り下げがまるでないことが、ドラマを全く感じさせない原因なのだが(だからサスペンスも喜びも悲しみもない)、画面に映った姿が、おなじみのアイドルであると感じられる観客ならば、その重ね合わせと、そのギャップとで、キャラクターを把握できるのだろう。つまり一見さんお断りなのだ。
 それにしても、アイドル映画でありながら、とりわけ主演の二人にこれほど魅力がないのもまた不思議だった。どうしてこんなに不自然に濃いメイクをして撮ってしまうんだろう。そういうキャラクターがどこかのファンには求められているとしても、それはどうみても高校生の役ではないはずだ。
 脚本がひどいことは言うまでもないが、映画の責任は監督が負うものだ。どういうわけで黒沢清や清水崇が鶴田法男を評価しているのかわからないが、とりあえず今までも感心できる鶴田作品を観ていないものの、といってそれほどひどい映画だとも思わなかった。だが、こんなにひどいものは初めてだ。これを消せない汚点だとは思っていないのだろうか。本人は。
 もちろん現場には一人ではどうにもならない空気だの流れだの情勢だのがあるかもしれない。どうしたって「面白く」はならないかもしれないし、時としてしょうがないかと諦めも妥協もする場面もあるだろう。だが、これは誰もが看過してしてしまっていいレベルの破綻か?

2015年6月5日金曜日

『おとなのけんか』(監督:ロマン・ポランスキー)

 ロマン・ポランスキーだというので観始めると、面白い、面白い。止まらずに一気に観てしまった(ま、それが普通だ)。
 観始めてすぐに娘が「たぶん原作が舞台劇だ」と言うのだが、調べてみるとはたしてそうなのであった。映画化するだけの価値のある戯曲を、ジョディ・フォスターとケイト・ウィンスレットというアカデミー女優を揃えて、ロマン・ポランスキーが映画化するというのだから、面白くないわけがない。
 圧倒的な奇想を見せつけられるといった体の物語ではないが、ひたすら室内で繰り広げられる会話劇は、そこここに感情の波立つ微妙な瞬間が連続して、実に見事だ。一部には、ここは笑うとこなのかなあ、居心地の悪い思いをするところなのかなあ、などと迷うところもあったが。テーブルの上に置かれて「高かった」などと話題に上がるチューリップは、あんまりきれいじゃないよなあ、と思っていると、やはり滑稽だと感じるべき代物であるらしいことが展開の中でわかったりする。
 ネットでは「オチがない」とかいう批判もあるが、最後のエンドロールのバックで、「おとなのけんか」を余所に、そもそもの原因となった「けんか」の主の子供たちはもうすっかり仲良くなっているらしい姿が映されているじゃないか。

2015年6月2日火曜日

映画を批評するサイト

 とりあえず映画を観たことだけは欠かさず書き留めるというのがこのブログのルールだが、「観た」だけではあまりに愛想がないので感想じみたものも書き加えることになる。そうなるとそもそも監督だの出演者だのについても調べなくてはならなくなる。結構な時間がかかる。
 肝心の映画の評価についても、やはり他人の意見が気になってみてしまう。世の中にはなんと熱心な(あるいは暇な)人がいっぱいいるのだろうと驚嘆してしまうのだが、映画レビューのサイトは、どれもまずあらすじの紹介をするところから始めるのである。その点はまったく不親切きわまるこのブログでは、そもそもレビューをする気がないのである。
 レビューのための心遣いと共に、やはり見巧者が多いのにも感心させられる。信じがたいほどの熱心さで、観た映画を批評する。このサイトが珍しく気合いを入れた『見えないほどの遠くの空を』『そして父になる』のような記事を、ずらりと並べたサイトも珍しくない。
 今日は、まったく別のリンクからたどって、ずいぶん凄い記事を並べたサイトだなあと感心していたら、それがつい前回の記事でリンクを貼っておいた『はじまりのみち』をとりあげた「k-onoderaの映画批評」というサイトであったことに、途中で気づいた。なんたる偶然。
 『借りぐらしのアリエッティ』 脅威!不毛の煉獄アニメーション
などは、そのあまりの毒舌ぶりを痛快に思いつつ、その批判には実に納得させられ爽快でさえあった。
 ところがこの筆者が『かぐや姫の物語』についてはえらく高評価なのだった。
『かぐや姫の物語』生命を吹き込む魔法
これと、前回リンクした「新玖足手帖が、まったく逆の評価をしているにもかかわらず、そのどちらもに納得させられるところが面白い。アマゾンのカスタマー・レビューなどでも、高評価と低評価のどちらにも説得的なレビューが見出せることがある。面白い。

2015年5月31日日曜日

『はじまりのみち』(監督:原恵一)

 録画されているこれを、例によって何の映画だかわからずに最後まで早送りしてみて、なんだかつまらなさそうだぞとは思ったが最後のエンドロールに、原恵一が監督だとある。消すのはやめて観てみる。
 だがつまらないのだった。観るのが不快なほどではない。というか手堅くも好印象、といった感じではある。だが、面白かったとはいえない。
 だが世評は好意的だという。宇多丸が褒めてる。
 それはもちろん『モーレツ!オトナ帝国の逆襲』『アッパレ!戦国大合戦』が名作であることは言を俟たない。
 だが『河童のクゥと夏休み』は、期待が大きかっただけにいささか肩すかしの感があったのは否めないし、『カラフル』は、もうはっきりとつまらなかった。アニメーションの技術も演出も手堅く高レベルでまとめてくるのに、面白くはない(とはいえ『カラフル』は下記のような理由で「つまらない」というよりも、納得できない演出に違和感を覚えたのだった。それは「しんちゃん」映画では看過してもよく、それ以外の部分で感動させるから瑕疵とはならないのだが、リアリティを追求するタイプのこういった映画では致命的になる、といった違和感だった)。
 『はじまりのみち』も、浜田岳のキャラクターは良かったとか、主人公が母の顔の泥を拭うシーンは感動的だったとか、そこを褒めるなら異論はない、といった感じではある。だが全体として面白いとは言いかねる。どこを面白さとして提示するつもりなのかがわからん。脚本の段階で、どこかが面白くなりそうだという自信があったのだろうか。
 おそらく、リヤカーで病人を運ぶという「試練」と、木下恵介の映画監督としての再生を重ね合わすという狙いにその期待が担わされているのだろう。だが、どちらもまったく予想の範囲を下回る盛り上がり具合で、だからどうだということもなかったのだった。例えばキリストがゴルゴダの丘まで自らの掛かる十字架を運ぶ、ただそれだけの映画である『パッション』の、そこに込められた熱量などまったく感じられない。そもそも比較が無茶か?
 そうでなくとも、はっきりと意図してこれでもかと引用される木下作品が、どれもこれも本編よりも魅力的なのも困ったものだった。
 というわけで
三角締めでつかまえて
には共感しがたく、
『はじまりのみち』は敗北の映画である
に納得したのだった。

2015年5月27日水曜日

『かぐや姫の物語』高畑勲

 時間ができて、ようやく。
 だが『風立ちぬ』同様、書けない。観ながら、悪くない、場面によっては感動的でもある、さすがにアニメ技術は高い、などと思いながら、やはり端的に「面白い」とは思えなかった。そこら中のシーンに、見覚えのある「物語」の感触ばかりを感じてしまうばかりで。
 手間をかけずにああだこうだと言うよりも、世の中には異常な情熱でそうしたことを考察している人がいるから、素直にリンクをはる。
「新玖足手帖」
かぐや姫の物語 感想その二 高畑勲監督は原作の良さを自己中心的に曲げたダメ映画
このブログ主が繰り返し言う「雑」という表現は実に腑に落ちる。あれほど丁寧なアニメーションをつくりながら、物語はかくも「雑」なのだ。
 同時に、あの丁寧で恐ろしく手間のかかっているであろうアニメーションも、例えば最近観ている「響け ユーフォニアム」の京都アニメーションの仕事を観ていると感じる感嘆と、さほど変わりはしないのだ。制作費8年、50億円とかいう劇場映画と、深夜テレビの週刊アニメの仕事が、同程度の感銘を与えるくらいだってのは、いったいどういうわけだ。
 それくらい京アニが良い仕事をしているともいえるが、一方で高畑勲の自然描写や人物描写が、それほどまでに古いということでもある。凝って凝って、金も時間もかけて、それは確かに良いものができているのだが、何か圧倒的なものを見せられたという感嘆もない。山野や草木や動物などの自然描写も、人間の描写も、実に予定調和的なそれに終わっているのだ。
 
 だが、もう一度観ることがあれば、違った感想になるかも知れないという予感もある。もしかしたら、何か違った感情移入の仕方を、主人公のかぐや姫に対してしてしまうかもしれない(だが間違った予感かも知れない)。
 ただとりあえず初見の感想としてふたつほど。
 オリジナル・キャラの幼なじみ「捨丸」と、ラスト近くで再会する場面、捨丸は大人になって妻子もいる身なのだが、これは惜しい展開だと思われた。あっさりと妻子を捨ててしまうかのうような捨丸には、むろん、オイオイとつっこみたくなるが、それよりも、設定自体が惜しい。都で成人したかぐや姫が久しぶりに幼なじみ「捨丸兄ちゃん」に再会すると、彼はまだ青年で、自分の方がもう彼の年齢を超えてしまっていた…という展開を期待してしまったのだが。かぐやの成長が早いという設定からは、そうした展開が可能だったはずで、それはすなわち、都に出て、田舎での「人間らしい(生き物らしい)」生活から隔てられてしまった哀しみ、というこの物語の描きたいらしいテーマに合うような気がするのだが。
 そういえばこの物語は「鄙/都」という対立が「人間界/天上界」という対立の入れ子になっているのだと思われるのだが、このあたりがうまく処理されていたのかどうかがどうももやもやとすっきりしないのだった。

 もう一つ。ラストカットの、天上の人々が去っていく満月に、赤ん坊のかぐやが重なる構図の、あまりのダサさは何事だ? 巨匠のコンテには誰も正直な感想を口にできなかったのか?

2015年5月20日水曜日

『ファミリー・ツリー』(原題:The Descendants)

 例によって、勝手に録画する設定を解除する方法がわからないままに録画されていた映画。放送の冒頭でジョージ・クルーニーが主演ということを知った以外になんの予備知識も無しに観始めたが、結局一気に観てしまった。が、このパターンは、主演のジョージ・クルーニーも合わせて『マイレージ、マイライフ』(原題:「Up in the Air」)だぞ、と思っていると、はたして映画もその通りなのであった。『デストロ246』の女子高生の言うところの「『家族の絆』みたいなのにオチつくのばっかじゃん!」。
 そしてまた、それがアメリカでは恐ろしく高評価だったというのも、観終わってから調べてみてびっくり。アカデミー賞の作品賞ノミネート!? 脚色賞受賞!?
 いや、良い映画だとは思った。観始めてすぐに先を観たいと思わせ、そのまま最後までひっぱって、なおかつ感動させてくれた。うまく作ってある。
 だが件の女子高生の言うとおりである。結局そういうことね、という以上のものはないのである。言ってしまえば、あまりうまくいっていない家族が、そのメンバーの死を契機に絆をとりもどす、という映画。そこに先祖伝来の土地を売るかどうかという問題をからめて、「家族」を「一族」に拡大する。やっぱり売らないことにする、とか、扱いのわからなかった娘達ともうまくいくようになるとかいった主人公をめぐる事態の好転もあまりに予定調和だが、まあ不調和を求めているわけでもないから、それはそれで不満があるわけではない。
 ただ、凄い物を観た、という感じにはならないだけ。良い物をみた、という感じではある。

2015年5月19日火曜日

『世界侵略: ロサンゼルス決戦』(監督:ジョナサン・リーベスマン)

 なんというか、「日曜洋画劇場」チックな映画である。いや、放送は「土曜プレミアム」だったが。
 録画しておいて、見始めたら、どうも観た覚えがあることに気づいた。一度観たといってもそれくらいの印象だということだ。もちろんよくできている。膨大なカットの一つ一つが大層な手間と金がかかっているであろうことは想像に難くない。編集も、人間ドラマもそれなりではある。
 が、結局面白くない。どうして地球を侵略してきた宇宙人が、地球人と通常兵器で良い勝負しちゃうんだ。しかも後半になると、味方は決して球にあたらない。最初の方で、いくら撃っても死ななかった宇宙人が、後半はバタバタと倒れる。物量で迫力を出そうとはしているが、結局緊迫感はない。
 意図的だというのだが、宇宙人の侵略を描きながらつまりは戦争映画なのだ。だとすると、あんな脳天気な戦争映画を作って良いと思っている脳天気さがもう許し難い。こういうアメリカ人の精神構造は、ちょっと理解し難い。もちろん「わかってやってる」ってことなんだろうが、やってるうちに、もうちょっと「深み」を描きたいとかいう色気を出したくなったりしないんだろうか。
 主演のアーロン・エッカートは、どこで観た俳優なのかと思っていると、『幸せのレシピ』のシェフか! タフな二等軍曹と陽気なイタリアン・シェフ。確かに顔は同じなのだが、まるで連想できなかった。

2015年5月18日月曜日

Chouchou、ルルルルズ

 昨日は籠もって仕事のような読書のような。で、その間にまとめてChouchouを聴いていた。
 もともと4年以上前の企画だというニコニコ動画の「NNIオリジナルアルバム『&』」(彩さんの「Life」はじめ、好きな曲がいくつもある好企画)の中の1曲、「eclipse」のレベルの高さに驚いてはいたのだが、よく調べずにいてそのまま3年以上が経ち、思い立って調べると、フルアルバムがCDで発売されたばかりなのだった。試聴してみるとどれも良い曲で、以前から懸案だったルルルルズと共に注文すると、もう今日には届いているアマゾンの手際の良さ。
 どちらもネットである程度おとした楽曲を聴けるのだが、いわばメセナ精神で。

 昨日、繰り返し聴いたせいで、とりわけこの2曲が朝からループしているのだった。

ついでにルルルルズも。

2015年5月16日土曜日

『64 ロクヨン』(横山秀夫)

 NHKの「土曜ドラマ」、『64』がすごい。ちょっと驚くほどの出来に思うところあって調べてみると、はたして『クライマーズ・ハイ』の脚本、演出コンビなのだった。やっぱり。大森寿美男脚本に井上剛演出。ついでに音楽は「あまちゃん」でブレークした大友良英ってところも共通。って、あれ、10年前なの!? もう!
 『クライマーズ・ハイ』は原作が先で、後からドラマを観て、その出来にびっくりした。さらに映画も観たのだが、テレビドラマ版は原田真人の映画版に比べてもまったく遜色ないのだった。さすがに原作の情報量は詰め込めないから、やはりそのドラマの重層性は小説には及ばないが、エッセンスは充分に伝わるだけの緻密な演出がされていた。演出が優れていると俳優の演技もそれに見合う水準に引き上げられる。いつも素晴らしい佐藤浩市も岸部一徳も、とりわけ素晴らしかった。

 で、『64』だ。ここでもピエール瀧が、あの電気グルーブのお笑い担当の顔とは全く別人の「鬼瓦」を見事に演じている。劇中で「鬼瓦」と呼ばれるに彼以上にふさわしい配役を見つけることはもはや不可能にさえ思える(映画版では佐藤浩市がやるというのだが、「鬼瓦」にはどうか)。
 むろん役者の演技だけではない。画面の隅々まで演出が行き渡っていて、そこにいる複数の役者が同時並列的に重要な情報を演じている。カットのテンポといい、カメラの切り替えといい、編集も見事で、画面から伝わってくる緊張感がすごい。

 で、いきおいに乗って原作を図書室で借りて、三日で読了した。休日を費やしての強行軍。「第三の時効」も「クライマーズ・ハイ」も、かつて読んだ小説の最高水準だったが、むろん「64」もその期待を全く裏切らない。組織における存在の有り様を問う重厚な人間ドラマとしてはむろん「クライマーズ・ハイ」「半落ち」にひけをとらないし、伏線を張っておいてそれを回収するミステリーとして成立しているところは「第三の時効」並み、つまりこれまで読んだ横山作品としても、単にかつて読んだ小説としても最高の作品の一つだった。
 あらためてドラマの『64』の続きを観てみると、さすがに原作で緻密に構築されているドラマは、全5時間のドラマでさえ省略されている。だが小説を読みながら、登場人物はすっかりドラマのキャストでイメージされていたのだった。

 ところで大友良英の音楽は「あまちゃん」のテーマからは想像できないほど美しいのだが、演出の井上剛は「あまちゃん」の演出でもあるのだった。この重厚な演出もまた「あまちゃん」からは想像できない。そしてピエール瀧もまた「あまちゃん」レギュラーだ。「あまちゃん」でも寡黙な男を演じていたが、あれは電気グルーブのピエールが演じても無理のない、裏にコミカルな味わいを秘めた役柄でもあった。が『64』の三上の重厚なこと。
 ついでに「あまちゃん」でヒロインの父を演じた尾美としのりと、彼の若い頃を演じた森岡龍が、『64』でも重要な役を演じている。森岡龍は『見えないほどの遠くの空を』で覚えたと思ったら、あちこちに出ているのだった。
 こんなところで「あまちゃん」関係者がつながってるとは(でんでんもちょっと出てたな)。