2018年12月31日月曜日

平成最後の紅白歌合戦

 正直を言えば「RIZIN」が気になっているのだが、まあ録画しているから後でもいいと、珍しく家族が「紅白歌合戦」にチャンネルを合わせているのに任せて、チラチラ見ながらパソコンをいじっている。
 ものすごくいろいろと天こ盛りにしているのは平成最後だという特別感なのだろうか(まあいつも見ているわけではないから「特別」かどうかよくわからないが)。全体に今年のヒット曲というより懐メロになっているのは最近の尋常の番組構成なんだろうが、今年の松田聖子やユーミンが複数曲をメドレーにするのも、まあそういうことか? サザンが最後に出て、1曲目が終わってパーカッションが始まった途端に「勝手にシンドバッド」だとわかってしまったのも、この流れならではだ。

 それよりなにより、個人的にはユーミンの「やさしさに包まれたなら」のバックに鈴木茂が出てて、あの間奏をオリジナルそのままに生演奏したのには感動した。

2018年12月30日日曜日

『チョコレート・ドーナツ』-感動作であることは間違いないが

 やたらと「感動作」という触れ込みが目立つ。LGBTと障害児をモチーフとしているのだ。気楽に観られるかどうか怪しいが、見過ごせないとも思って。
 ゲイのカップルが障害児を養子として育てようとしてぶつかる困難を描く。「実話に基づく」という枕詞があったが、後から調べると、モチーフくらいだそうだ。
 問題は、それなのに物語が1979年のものとして語られることだ。ネットで見ると、感動の声と共に疑問の声もあるのだった。やはり。
 確かに、ものすごく感動的だった。涙なくして観られない。裁判シーンの弁論も主人公たちと子供の生活も、実に心に響いた。
 それでも、ゲイカップルに対する偏見から生ずる、障害児を引き取ることを阻止しようとする弁護士や判事の情熱のありようがわからない。少なくとも裁判シーンは、隠微な形で表れる偏見を描いているわけではない。ある論理によって主張がなされ、その理を認めるから裁判所が決定をする。だが、その情熱のありようがどうも飲み込めない。
 そこに、物語の舞台は1970年代なのだ、というエキュスキューズが登場する。だがなぜそれを今観るのだ? 歴史を記録しようという動機か? 感動させることが目的の映画らしいのに。
 現在、公的にLGBTに対する差別発言をすることが許されているとは思えないから、現在を舞台としてこの物語を描くならば、公的なコンプライアンスがどうなったとしても、なお残る偏見がどのようにこの問題として立ち現れるかが描かれるはずだ。
 だが舞台が1970年代だから、公的な偏見が許されてしまう。なんせそういう時代だったのだから。だから単に相手側の弁護士や判事はひどいやつだ、というふうにしか見えない。
 本当は、人間はある認識に立って世界を見るしかなく、その認識によって世界がどれほど違って見えるかが描かれなければならないはずなのに。

2018年12月28日金曜日

今クールのアニメ

 今クールは見続けているアニメが6本もあって、「消化」するのがなかなか大変だったので、全部終わったこのタイミングで記録しておく。軽い感想のみ。

 『SSSS.GRIDMAN』は、先日書いたように特撮ヒーローに愛のない筆者にして見続ける気にさせるくらいに、アニメとして見事な作品だった。まず高校生たちの描き方が驚くほどセンスが良いのだった。あのカットと台詞の、絶妙な間のとりかた。そして怪獣の出没する奇妙な街の描き方もいい。
 とりわけ9話の「夢・想」の回は、特定の人物の想念が世界を作っているという作品全体の世界観が一話に凝縮されており、演出といい作画といい、うならせる一編だった。
 最終話まで観て、手放しで絶賛というにはわずかにもうちょっとだった。新条アカネの歪みや狂気がどうにも観念的・類型的で。ここがもっとつきつめて描かれていれば、最後の救いもさらに感動的だったのだが。
 でも最後のカットで実写に変わるあたりはやはり気がきいてる。

 『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』は最初の3話の盛り上がりに興奮して、これは最後まで観ようと決めた。ライトノベルらしい外連味と甘酸っぱさが楽しい。調べてみると原作小説がアニメ2話から3話で描かれるようで、最初の3話が原作の最初の一冊なのだ。正直、結局これを超えるエピソードはこの後にはなかった。

 『ツルネ』は、今期の京アニということで一応。スポンサーNHKということで手を抜くまいとも思い。
 だがどうにも期待外れ。アニメーションのレベルはむろん高いのだが、話がちっとも面白くならない。

 『色づく世界の明日から』は題名の通り、初回の「色」の鮮やかさが圧巻で見始めたんだが、物語的にはありふれた高校青春展開の予想をまるで超えない上に、主人公のウジウジがどうも鬱陶しくて面白くならない。あいかわらず美術の色使いは目を瞠るものがあるんだが。

 『やがて君になる』は、美術のレベルが極めて高いのもすごいが、何より演出が驚くほどうまい。しばしば、ちょっとうなるほどうまい。微妙な心理描写とか画面のレイアウトとかカットの切り替えとか。とりわけ感心したある場面を原作の漫画で読んでみたのだが、アニメの方がはるかに劇的だった。台詞の間とかその場面に被る列車の通過とか。
 ただ、話の百合展開にはついていけない。

 『INGRESS THE ANIMATION』は、そのCGアニメの手法が『亜人』を思い出させたのと、調べてみると原作となるゲームの発想が面白そうなので期待して最後まで観たが、結局それほど面白くならないまま終わった。現実とリンクさせるゲームは壮大なスケールを感じさせるのかもしれないが、アニメで描かれても厨二な感じしかしなくて。

 結局最後まで面白かったと思えたのは『SSSS.GRIDMAN』『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』の2本なのだが、この2本、年を越えてすぐに再放送だって。やはりそういう評価なのな。世間的にも。

2018年12月27日木曜日

『モンスターズ 新種襲来』-誠実だが図式的

 宇宙から飛来した宇宙生物が地球環境に適応して「害獣」と化した世界を舞台とした「怪獣映画」の2作目。前作の南米から今作は中東へ舞台を移して、怪獣たちも適応による進化だか何だか、形態が変化している。
 前作が面白かったからもちろん期待は大きい。だが、始まってみるとギャレス・エドワーズが製作だとわかってアレッとなる。監督は別の人だ。トム・グリーンという新人監督は、後でディスク特典のスタッフ・インタビューを見ると、もちろん仲間褒めもあるが、とにかく誠実に作ったようだし、真面目な映画であることもよくわかる。
 シリアスな映画だ。怪獣映画とはいえ『トレマーズ』のような気軽なノリで見ていい映画ではない。
 というか、ネット評でも多く見られるように、これはもはや怪獣映画ではない。前作が怪獣のいる世界におけるロードムービーだったように、今作は戦争映画だ。そしてそれが、残念ながら前作のようには評価できない。
 第1作はロードムービーなんだから、怪獣と戦わなくてもいい。主人公は怪獣退治をしようとしているわけではない。だが2作目は登場人物たちが皆兵士で、武器を持っていて、それでも怪獣と戦うことがテーマでないのなら、何のために『モンスターズ』の続編である必要があるのか。
 もちろん何であれ面白ければ良いのだ。戦争映画として面白ければ良い。
 だが、結局この映画は「本当に恐ろしく愚かしいのは人間だ」と言っているだけだ。監督は、解釈は観客に任せるなどと聞いたようなことを言っているが、それほど深遠なことを言っているとは思えない。そしてそのテーマなりメッセージなりは、わかる。殊更にそう描こうとしているのが。
 だから怪獣映画にならない。怪獣退治の映画にならない。怪獣を挟んで、アメリカ対アラブの戦争が描かれる。
 怪獣という新たな自然環境に対して、それを「共生」とまでいかずとも、なし崩し的に受け入れようとするアラブと、人類に対する脅威として排除せずにはいないアメリカという図式も、それこそ図式的に過ぎる。といってそこから生ずるアメリカ対アラブという対立にリアリティを感じなかったのは、アラブ側の、怪獣を受け入れようとしている心情が語られないから、アメリカとの対立の双方の論理が飲み込めないからだ。
 むしろ現実の対立を前提に、ここではそれを怪獣をめぐる対立として跡づけようとして成功していないのだ。

 全体としてもどかしさから不満が先に立ったが、先述の通り誠実で真面目に作られていて、ドラマもシリアスだ。デトロイトという街の閉塞感が兵士の供給につながっているという現実の描き方も、戦場の狂気も、やはり図式的とはいえ誠実に描いている。技術的にも上手い。
 とりわけ巨大な怪獣が群れているラスト近くのカットは、戦争に対する絶望を象徴していると見做すだけでは惜しいほどの絶望感を感じさせた。

2018年12月22日土曜日

『ラスト3デイズ 彼女のために』-うまいが腑に落ちない

 ポール・ハギスがハリウッドリメイクを決めたというのを見て、事前情報なしにレンタル棚から選んだ。冤罪で収監されている妻を脱獄させるべく苦闘する夫を描いたフランス産サスペンス映画。
 悪くない。絶望的な状況からそういう突飛な選択をする夫の心情も描けているし、作戦実行における緊迫感もある。母子の微妙な心理はうまく描いていた。
 工夫を凝らした展開もちょっといい。病院からの脱出の際、追ってくる警察を振り切って逃げつつ、前方からはパトカーが迫る。轢き殺すわけにもいかないから停まったのは狭い通路で、左右の壁に挟まれてドアを開けて外に出るスペースがない。そこで主人公たちは車を乗り越えてパトカーの背後に逃げる。バックして追うと、狭い通路を出たところで救急車両と衝突する。
 最後にどうなるのかと思っていたら、結局逃げおおせて、これからの逃亡生活が困難であることが暗示されて終わり。ええっ? 成功するの? 予想外。
 冤罪がどうにかして晴れるという展開なんだろうと思っていた。それらしい意味ありげな伏線らしき描写があって、その回収がない。なぜだ?
 うまい映画だと思うが、腑に落ちない。

2018年12月18日火曜日

『CODA』-可もなく不可もなく淡々

 2012年から5年間の坂本龍一を追ったドキュメンタリー。そこに関わった映画や過去のライブの映像が挿入される。
 ニューヨークの自宅やその周囲のたたずまいや、時折やはり音楽的に良いなあと思う場面もあるのだが、彼の語る思想にそれほど感心するでもなく、あっさりと見終わってしまった。
 これに心を動かされるとすれば、坂本龍一への個人的な思い入れだろうか。それなしに面白い映画なのだろうか。

2018年12月16日日曜日

『シン・ゴジラ』-シミュレーション・ドラマとしての怪獣映画

 『君の名は』と『この世界の片隅に』を劇場で観た年に『シン・ゴジラ』は観なかった。アニメと特撮というジャンルに対する応援の気持ちの差だった。「ウルトラマン」と「仮面ライダー」、それぞれをシリーズとして追った特撮世代ではあるのだが、たぶん、先に特撮を卒業して、物心ついた頃から観ていたという意味では同じつきあいのアニメは結局卒業せずに追ってきて、その中で多くの作品に触れてきたジャンルとしての思い入れの差が、この選択に表れた。
 といって、劇場版エヴァンゲリオンに対する落胆もあって、庵野秀明だからといってレンタル店に並んだらすぐ、というような思い入れもなくてテレビ放送を待っていたのだが、1回目を見逃してこれが2回目。
 期待していたのは、怪獣が出現するという事態に対する日本の反応のリアルさだった。世間的にもそれが評判だったような印象でもあるし。
 観てみると、官邸の描写はむしろ戯画的だな、と思った。大臣たちが、いかにもそれぞれの担当省の利害の立場から発言する。しかし実際の会議の中ではそんなことはないはずだ。緊急事態に対して、もっと個人の性向が表れるだろう。
 役者陣の演技も総じて大根だ。そういう演出なんだろうが、まあ世界設定でもある。とりわけ主人公の二人、長谷川博巳はもともと大根演技が持ち味だし、石原さとみは人物設定に無理がありすぎて大根にならざるをえない。
 ということでリアルな人間ドラマよりも、シミュレーション・ドラマとしての展開の面白さというべきなんだろうな、これは。一方で怪獣の出現が人々の日常にどう影響するかをリアルに描く怪獣映画などというものを観てみたいと思ったり。
 怪獣映画としては、ヤシオリ作戦における電車の使い方とか、ビルを倒壊させてゴジラを固定するとかいう「創意工夫」と、それが実現するときの喝采を送りたくなるような高揚感が素晴らしかった。
 それから、第4形態のおなじみのゴジラになって、おなじみの熱線で街をなぎはらうシーンで、これまでの怪獣映画で感じたことのない「えらいことになったな」という戦慄を感じたのは、それだけ実在の街にゴジラがいるというリアルな感触が描かれていたからだろう。
 これを実現しているだけでもやはり成功作というべきなのだ。

2018年12月12日水曜日

『アンフェア The End』-まあシリーズ物なので

 確か『THE MOVIE』は面白いと思って観た覚えがあるのだが、いかんせん、テレビシリーズを見ていないから、思い入れの浅さが感動の薄さにつながる。それだけ、単独の映画としては弱いということでもあるのだが。
 主人公のキャラクターも作り物過ぎるし、この話で主人公となる永山絢斗に対するヒロインの信頼も根拠があるように見えず、ヒリヒリするようなドラマ的感銘が生じなかった。誰が裏切るのかわからないというのがこのお話のサスペンスなのではないのか?
 それにしても『沙粧妙子 最後の事件』の浅野温子に始まって『QUIZ』の財前直見からこの『アンフェア』シリーズの篠原涼子まで、キャラクターが似すぎているのはなぜだ。たぶんアメリカのミステリーに元ネタがあるんだろうが。
 ちなみにこの中では『QUIZ』だけ全部見てる。『ケイゾク』『Trick』『Spec』あたりと比べても最も面白いと思う。まあヘレン・ミレンの『第一容疑者』のような超弩級の物語に比べるのは無理だが。

2018年12月2日日曜日

劇団6番シード公演「劇作家と小説家とシナリオライター」

 娘の招待で劇団6番シードの25周年記念公演「劇作家と小説家とシナリオライター」というお芝居を観てきた。
 題名にある三人の作家が共同で一つの物語を作り、メディアミックスで展開するという企画のために会議室に集められる。アイデアを出し合い、世界観、登場人物、物語のシノプシスを組み立てていく。
 始まってすぐに、台詞が掛け合いになる、よく練習された芝居に安心する。金を取る舞台だけのことはある。
 物語を作る物語、つまり自己言及的な物語だ。三人の作家の中には劇団を持つ劇作家もいる。映画を撮る映画はそれなりに面白くなることが多い。最近でいえば『カメラを止めるな』がそうだった。素材や舞台や登場人物に対する知識もあり、愛情もある。面白くなるのも当然だ。
 舞台は、物語を作るために三人が話し合う場面と、それぞれの作家の物語、そして作られつつある物語が重層的に展開する。物語作りの話し合いのシーンと物語内物語は、同時に舞台上で展開する。そして物語内物語の登場人物を演ずる役者が、そのままそれぞれの作家の個別の物語において、別な、物語内での「実在の」人物を演ずる。物語の層が複雑にからみあう。
 そして、物語の最終場面で、物語内に登場するある人物が、「三人の作家が物語を作るという物語」を作るという展開になる。物語がウロボロス的円環を成すのだ。
 全編の複雑な物語の構成に感心しきりだったが、とりわけこのラストには脱帽だった。

2018年11月24日土曜日

『ボヘミアン・ラプソディ』-劇場でこそ観る価値あり

 今話題の、クイーンのフレディ・マーキュリーの伝記映画。機会があって映画館に観に行くことになった。
 正解だった。映画館で観なければ感動も5割減だ。たぶん。
 感動的だという評判がある一方で、アメリカでの評論家による評価は低いらしい。ドラマ部分が弱いのだ。
 それも、共感できる人にとっては感動的なのかもしれないが、そこにはちょっと腰が引けてしまった。主人公の苦しみに共感できずに、ちょっとメンドウクサイと思ってしまったのだった。ブライアン・メイのキャラクターはものすごく好みだったが、それだけでは。
 一方で、何が良かったって、そりゃあ音楽だ。フレディ加入前のバンドの演奏シーンからもう、何だかいい音楽だぞ、と思ってしまった。
 これは音響の良さ、というか単純に音量の豊かさが観客に与える感動でもある。とりわけクイーンのファンというわけではない。だが、知っていた曲も、今までの印象よりも遙かに心揺さぶる音楽として体験されたのだった。
 そしてとりわけ例のライブ・エイドのステージは、そこまでのドラマへの思いが被さって、本当に感動的だった。
 ドラマとしても音楽としても、たぶん『Jersey Boys』の方がわずかに上だと思うんだが、劇場で観るというシチュエーションのせいで、音楽映画としては良い観賞体験ができた。

2018年11月18日日曜日

『マリオ~AIのゆくえ~』-真面目にこの問題を考えていない

 ある機会に『散歩する侵略者』の舞台を見損ね、黒沢清の映画版もまだ見ていないのだが、それで前川知大を意識するようにはなった。
 その前川知大脚本ということでNHKのドラマ『マリオ~AIのゆくえ~』を、先日の『カラスになったおれは地上の世界をみおろした。』に続いて観てみた。
 それにしても『カラス~』の題名の最後の句読点にせよ、『AIのゆくえ』にせよ、その言語感覚はどうなの? 正直、とてもひどいと思うのだが。もっとも『AIのゆくえ』の副題はまあNHKのセンスのなさなのかもしれないが。前川知大本人だとしたら残念。
 さて『マリオ』は『カラス~』ほどひどくはなかったが、それでもがっかりだった。映像的には、いい意味でテレビドラマっぽくはなく、その「世界」を作ろうとしていたが、いかんせん脚本が安っぽくて。
 イジメだとか親子のディスコミニュケーションとか、描かれている問題が類型的なのも残念だが、とりわけ不満なのは、人間でない知性体が世界をどう認識するかという問題に対して、充分な考察をしていない点だ。
 この問題についてはその昔、「パラサイト・イブ」に大いなる衝撃を受けた。充分な科学的教育を受けていると思われる作者が、信じられないほど何も考えていないように見える物語を書いていることに。あれほど人間と違う生命形態をしている知性体が、まるで俗っぽい人間のような感情の表出をしていて、そんな物語を書くことには、何か深遠な意図があるのかと勘ぐらずにはいられないほどの(そしてその意図はわからないから、単に呆れてしまうしかない)衝撃だった(それでもこの小説が評価されてしまったことに、さらに衝撃を受けもしたのだった)。
 このジャンルでは『ソラリスの陽の下に』が極北だろうが、あそこまでいってしまうと、人間との比較が困難になるので、やはり『アイ・ロボット』とか『寄生獣』とかいったあたりが興味深いのだが、そういった意味で最も心を動かされたのは『ターミネーター』のテレビシリーズ『ターミネーター サラ・コナー・クロニクルズ』だった。『2』のシュワルツェネッガーのターミネーターは人間的過ぎるし、敵ターミネーターは単なるロボットだが、『ターミネーター サラ・コナー・クロニクルズ』の少女ターミネーター、キャメロンや敵ターミネーターのキャサリン・ウィーバーやAIの「ターク」などは、何を考えているのかわからないAIがキャラクター化されていて、毎回ドキドキしながら観たものだった(それだけに未完打ち切りは残念でならない)。
 「何を考えているかわからない」というのは「何も考えていないだろう」と思わせてしまっては駄目なのだ。考えているに違いない、だがそれがどのようなものなのかわからない、と思わせなければ。
 さらに期待するならば、AIが人間の肉体を持ったなら、どのように世界を認識し、どのように思考するか、という問題について、真面目に考えて物語を作ってほしかった。あれで考えているつもりとは言わせない。真面目に専門家の現状認識を取材して、そこに真面目に考察を加え、誠実に物語に仕立てるのなら、あんなに安っぽくなるはずがない。
 こういうのは単なる無い物ねだりのいちゃもんであるはずはない。それを宣伝文句にしている以上。

2018年11月11日日曜日

『LOOPER』-満足

この手のハリウッド的SF映画としてはお手本のように面白いエンターテイメント映画だった。
 ルーパーという設定の独創性だけでも大したものだし、未来なのに「ラッパ銃」をはじめとするアナクロなガジェットと、宙に浮くオートバイなどの未来的ガジェットがアンバランスに同居する未来社会の描き方も、無理をせずに成功している。細かい演出も手際がいい。
 脚本も、タイムリープを扱って充分に面白い。伏線を張って回収して…。
 これ以上の映画評は宇多丸さんの分析が素晴らしく、もう付け加えることもない。


『カラスになったおれは地上の世界をみおろした。』-愚にもつかない

 キリンジの「エイリアンズ」が主題曲だというので観てみたが、脚本といい演出といい、愚にもつかぬ代物だった。結構なキャリアのあるベテランが脚本兼演出だったのだが。物語も安直、演出としてもまるで「人間」を描いていない。1時間半を勿体ないことをした。製作費を思いやると、そちらの方が勿体ないのだが。
 しかも「エイリアンズ」は最初にちょっと流れるだけでエンディングテーマも別だし、効果的でもないし。
 ただ、鴉の視点だというドローン撮影の映像はそれだけで惹きこまれる。なんだか安直だ。演出力も問われず、ただ日常にない映像だから、それだけで映像体験として感情を揺さぶる。ずるい。
 それと酒井美紀が出演していたのだが、声があまりに「おばさん」でびっくりした。あの「白線流し」の女子高生が。『Love Letter』の中学生が。

2018年11月3日土曜日

『Jellyfish』-苦苦な青春映画

 東京に出ている娘に、東京国際映画祭の上映作品を観ないかと誘われた。そういえばこの間テレビで東京国際映画祭の紹介番組をやっていたのだが、縁がないものと見逃した。見ておけば良かったとは思ったものの、見たとてこれを紹介したかどうはわからない。これは上映映画の大半を占めるコンペティション部門ではなく「ユース」部門という、若者向けの映画の一編なのだった。
 若者向け? いやはや、ほろ苦いというよりも苦苦いというべき青春映画だった。
 父親がいないのに、母親はまるで生活能力がなく、小学生の妹弟の面倒を見ながら家計を支えている15歳の主人公がコメディアンを目指す物語、という紹介だったが、予想したような、苦労の中で成功を夢見てがんばる、というような明るい希望の感じられる物語ではなかった。
 むしろ救いのない状況の中で、かろうじて逃避的にコメディのネタをノートに書くのだが、状況はどんどん悪化していくばかりで先が見えない。とりあえずラスト、すべてを放棄して逃げだそうとしてやめた主人公を、コメディを奨めた芸術科目(らしき)教師が追いかけてきて寄り添うという場面で終わるのが救いではある。精神的に寄りかかれる大人が辛うじてでも見つけられたのは、そこまでの物語の状況からすれば随分と救いだし、彼の仲立ちによってこの先に公的な機関の介入が、それなりに状況を改善させるはずだという見通しも立つ。
 
 それにしても、同じ年ごろの登場人物を描いて『君の膵臓を食べたい』などと頭の中で比較してみると、まるで違う世界の物語だなあと、その落差に眩暈がする。
 『膵臓』の、主人公の孤独もヒロインの死も、甘い。「厳しい」の対義語としての「甘い」ではなく、「苦い」の対義語としての「甘い」である。それを味わうことが快感であり、かつ不健康にもなりかねない、嗜好品のもつ性質としての「甘い」である。不幸が甘いのである。
 それに比べてこの映画の苦いこと。この「良薬」は一体何に効くというのか。多分「人間」を見るという経験になるという意味で。
 物語の背景に社会が感じられるかどうかという点でも、恐ろしく対照的な2作である。『Jellyfish』には、明らかにその町の置かれた社会的状況が物語に透けて見える。寂れた地方都市やそこに存在する社会的格差が。
 それに比べて『膵臓』はどこに存在する場所で起こった物語だというのだ(そういう意味であれは「ファンタジー」である。)。それを目的とした物語でない以上、そんなことを求めても仕方がないのだろうが、それにしてもなんと子供じみたお伽噺であることか。甘い。
 それだけに、『Jellyfish』の「苦い」状況の中で生きる主人公の必死さが、観終わって思い出しても胸に迫ってくる。

 東京国際映画祭という催しは今までまるでノーチェックだったが、来年からは事前に計画して、もうちょっとまとめていくつかの作品を観ようかという気になった。
 映画館で映画を観ることの経験の特殊さはやはり尊重していい。

2018年10月25日木曜日

『ダーク・シティ』-迷宮のような夜の街の手触り

 異星人侵略物のSFなのだが、それで要請される超能力バトルやサスペンスなどには大した感銘はない。それよりもこの映画の価値は、ひたすら、題名通り暗い街並のもつ湿った空気感を描いたことによる。その空気感の中で、生き物のように伸びたり絡み合ったりするビルが林立する街並を描き出したことによる。
 サスペンスに価値がないとはいえ、ビルが変形しながら迫ってきて、隣のビルに衝突する際に挟まれてしまう恐怖は確かにサスペンスフルではあったが、それは逃走劇のサスペンスというより、不条理な悪夢を観ているような感覚だった。
 同じ時間が繰り返されることや作られた街が島のように宇宙に浮かんでいるビジュアルなどは、確かに『ビューティフル・ドリーマー』にそっくりだが、あの映画のようなディストピアと表裏一体のパラダイス=ユートピア感はなく、ただ永遠に朝が来ない街の閉塞感が描かれる。
 それがあればこそ、最後にそこから出て明るい海辺が開けるシーンの開放感は強烈だ。たぶんそのシーンだけを切り取って観ても、まるで観光CMのような凡庸な映画の一場面に過ぎないのだろうが。
 そしてそこで、暗い街で夫婦であった二人が、女性の方だけが記憶を失った状態で出会う。ハッピーエンドには違いないものの、その失われた記憶の分だけ感ずる喪失感が切ないエンディングだった。
 決して手放しで面白いとは言いかねるが、奇妙な手触りが印象的な映画ではある。

『湯を沸かすほどの熱い愛』-うまい映画だが誇大広告

 宮沢りえ演ずる母親が病気で死ぬ話だということはわかっている。きっと「感動ポルノ」なんだろうとは思うが、評価もされていることだし、具体的にはどう描くんだろうという興味があった。
 さて、予想を大きく違えているわけではない。そして予想通りには感動的だった。
 とりわけ、杉咲花ずる娘が、初めて生みの母親と対面する場面では、今、あの伏線が回収されたんだとわかってハッとさせられたところに、だからこそ宮沢りえ演ずる母親の愛情が感じられて感動的でもあり、加えて対面する二人の演技があまりに見事で、ここを撮りあげただけで、この映画が作られた価値はあると感じた。
 演技については、杉咲とともに数々の女優賞を獲った宮沢りえの演技も見事だったが、妹の子役の演技も見事で、これは演出のうまさだろうな。

 総じて感動的でもあり、伏線を張ってちゃんと回収する、うまくもある映画だったのだが、いくらか気になった点を二つ。

 ネットでは絶賛と激しい拒絶反応の両極端がかまびすしいのだが、批判の集まっているポイントの一つである、序盤のイジメに対する物語上の扱い方には確かに違和感があった。序盤だったから、これはダメな映画なのかも、とさえ思った。
 イジメに対して「逃げちゃダメ」というのは、一般的には間違った対処だ。娘が解決のためにとった行動も適切だと思えない。およそ非現実的で映画的な奇矯を気取った、あざとい物語作りだと思う。
 とりわけ学校が、あんなあからさまなイジメに対して無作為であるはずがない。こういう描き方をされると、リアリティの水準が落ちてがっかりする。
 だが結局問題なのは母親の対処の仕方だ。あの、どうみても間違った対処は、それが間違っていることがわかってあえてあのように描いているのならば、それも選択の一つかもしれないと、最後まで観てから思えてきた。
 暴力団に対抗するのに警察の力を借りるのとは違うのだ。たかが学校の中でのできごとは、本人の力で解決すべきものだと考えるのは一つの方針かもしれない。もちろん一般にそれが難しいことはわかっている。それでも、大人が介入して解決できないほど難しいケースばかりではない。だから中学生くらいならば、現実的な解決の方法を考えるべきなのだ。解決しないでいるのは知恵と勇気が足りないだけ、というケースは多いはずだ。
 もちろん「知恵と勇気」をすべての中学生に要求するのがそもそも難しいのだが、だからといってそれを要求するという姿勢が一概にダメだということにはならない。
 問題は、そこに立ち向かう本人に対する援助はするが、問題の解決に親が直接関与しない、という方針であることを、本人に感じさせておくことだ。
 でもまあ、解決策の方法についての相談はしてもいい気はするが。実際に勇気を出すのはどうしたって本人にしかできないとしても。

 あと、ピラミッドはばかばかしくて感動的とは思えなかったし、ラストの「オチ」は気が利いているとは思いこそすれ、それも感動的ではなかった(といってネットで見られるような拒否反応が起こったりもしなかった)。それよりも、最後に題名が画面に現れた瞬間の「そういうオチかあ!」という軽いカタルシスの方が勝った。
 だが、である。肝心の「湯を沸かすほどの熱い愛」って、映画の中でどう描かれていたっけ? わりと普通の母親の愛情だとしか思えなかったが。
 題名詐欺だ。誇大広告だ。

2018年10月16日火曜日

ceroの「Orphans」の歌詞を読む 6 -相対化の果てに

終日 乗り回して町に戻ってきた 白夜の水曜
疲れ切った僕は そのまま制服に着がえて学校へと向かう
「逃避行」は完全なこの世界からの脱出ではなく、翌日の「水曜」には二人は「町に戻って」くる。既に主人公の救いを感じている聴き手は、その軟着陸に安堵する。
 だがこの詞=詩が聴き手に与える最大の衝撃は、2番に入って「僕」が登場することによる。
 何事かと思う間もなく「あの子」と名指される者が「姉がいたなら」と語られるにおよんで、聴き手は1番における「パートナー」「クラスメイト」が、2番では語り手になってしまったことを知る。
 この語り手の交代は、この歌の世界に何をもたらすのだろう。
 ドラマを動かし始めたのは主人公の鬱屈だったはずだ。彼はそうした主人公の鬱屈からずれたところにいることによって、彼女の鬱屈を相対化し、その閉塞感に風穴を開けたはずだった。そうした相対化の果てに、ついには主人公を第三者としてしまうのである。
 そうした、主人公を外から眺める眼差しが、主人公の内向する眼差しを解放する。
 そして無論その眼差しは、安易な同情や慰めなどでありはしない。彼女がどんな思いで「逃避行」を実行したかに我関せずと、自分は「制服に着替えて学校へと向かう」。その日常的な振る舞いが、この物語に健全さを担保する。
休んだあの子は 海みて泣いてた
クラスメイトの奔放さが ちょっと笑えた
姉がいたなら あんな感じかもしれない 別の世界で

あぁ 神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて
あぁ 僕たちは ここに いるのだろう
だからといって冷淡だというのではなく、彼は昨夜の彼女の様子を思い出してもいる。
 「海みて泣いてた」という彼女の姿を「奔放」と表現するセンスもまた見事なものだ。そんな、ドラマみたいなことをホントにやっちゃうのかあ、すげえなあ、とらわれてないよなあ、自由だなあというあっけらかんとした賞賛である。
 そしてそんな「奔放さ」を「ちょっと笑えた」と突き放してもいる。「笑える」という評言は、ともすれば「嘲笑」のニュアンスとして侮蔑的に使われることも多い表現だが、一方で文字通りの「笑うことができる」、つまりユーモラスであるという意味で使うこともできないわけではない。
 ここで彼が主人公の「海みて泣いてた」姿を「笑えた」と表現するのは、そのどちらのニュアンスも含んでいて、そこに「ちょっと」とつけくわえることで、そのどちらのニュアンスをもやわらげている。つまり、主人公の鬱屈や閉塞感に対して切迫感や悲壮感を感じて、救おうとしたり逃げ腰になったりするのではなく、それを相対化することによってその重さを軽減するのである。
 そしてその距離感のまま、「姉がいたなら」という近しさで彼女を感じてもいる。それが「別の世界」であろうとも、この精神的姉弟がこの世界にいることは神の御業である。

 主人公の閉塞感によって語り始められた物語は、クラスメイトのバランス感覚によってその鬱屈が相対化され、この世界に在ることの肯定に軟着陸する。そうしたハッピーエンドの物語が、別世界への想像によって生ずる現実への喪失感とともに、ある切なさを伴って語られる。
 見事な物語世界の創造である。 

2018年10月10日水曜日

ceroの「Orphans」の歌詞を読む 5 -「ここにいる」ことの肯定

(別の世界では) 二人は姉弟だったのかもね
(別の世界がもし) 砂漠に閉ざされていても大丈夫

「別の世界では」という仮定は言うまでもなく、冒頭から瀰漫している現状への閉塞感の裏返しとして想像されたものである。そこでは「二人」が「姉弟だったのかも」と想像される。救いとしての「弟」が実現する世界への想像が、ここでも主人公を救う。同時にそれは手の届かない世界への憧れであり、現実に対して抱く喪失感でもある。
 さて、主人公とクラスメイトが姉弟であったかもしれない「別の世界」は「砂漠に閉ざされている」かもしれないという。「霧雨」と対極的なイメージとしての「砂漠」が「別の世界」の脅威として設定されているが、ここでもそれは「霧雨」同様、世界を「閉ざ」すものである。
 だがそこには「弟」たる彼がいる。それならば、そんな世界でも「大丈夫」なのだ。
 なんという「弟」への信頼。

あぁ 神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて
あぁ わたしたちは ここに いるのだろう
 そして一転して続く詩句ではわたしたちが「ここにいる」ことが確認される。現状への閉塞感から「別の世界」が希求されたはずなのに、いや、だからこそ「ここにいる」ことが確認されねばならない。別の世界への想像は、あくまで「ここ」への着地のために必要な手がかりであったはずである。
 そして「ここにいる」ことは「神様の気まぐれなその御手に掬いあげられ」た結果である。「神様の気まぐれなその御手」が「運命」の謂いであることは明らかだが、それがここでは逃げ出したい桎梏であるのか、言祝ぐべき僥倖であるのか。
 もちろんここまでの論理は、この詩句が表すものが、自分たちが今この世界にいることの肯定であることを示している。運命という神様は「気まぐれ」であろうとも、気まぐれであるからこそ、自分たちがこの世界にいることが何らかの悪意によるものではないことを信じられる。
 そしてその在り方は「掬いあげられ」たものである。「掬う」が「救う」の連想に通ずるのはもちろん、「掬う」というその無造作な手つきが、そうしてこの世界に在る自分の存在への諦念と、それゆえの平穏を用意しているのである。
 無論こうした「諦念」は、希望の挫折として強要されたものではなく、「逃避行」の実行と、それに同行する「弟」の存在によって、主人公の腑に落ちるように訪れたものだ。

2018年10月4日木曜日

ceroの「Orphans」の歌詞を読む 4 -「弟」という救い

承前
  サービスエリアで 子どものようにはしゃぐ
  クラスメイトが呑気で わたしも笑う
  弟がいたなら こんな感じかも
  愚かしいところが とても似ている

 逃避行のオートバイは高速道路に入り、二人はサービスエリアに立ち寄る。彼にとってこのツーリングはむろん深刻なものではなく、そして高校生が高速道路に乗ることが日常的であるわけでもないだろうから、彼が「はしゃぐ」のも無理はない。
 そうした彼を「子どものように」とか「吞気」とか言う「上から目線」な言いぐさは、それに続く「弟がいたならこんな感じかも」という感想に着地するのだが、こうした彼の無邪気さが主人公にとって救いになって「わたしも笑う」。自分の抱えている鬱屈から彼が救い出してくれるわけではなく、共感を寄せるでもなく、むしろ他人の鬱屈に頓着しない彼が、主人公の閉塞感を相対化することで結果的に主人公を救っているのである。
 そうした、「王子様」でも「ヒーロー」でもなく、ただ傍にいながらマイペースに振る舞い続ける同行者が「弟」になぞらえられるという、この隠喩としての「弟」のイメージは新鮮だ。
 2番で「姉」と表現されることから、主人公は女の子である。主人公と彼の関係が姉と弟になぞらえられることはどんな意味をもっているか。
 パートナーが同性の兄弟であった場合、「姉」にしろ「妹」にしろ、主人公にとって直截に上下関係になりかねないから、こうした絶妙な距離感が生じない。
 「親」は私を救っても支えてもくれるかもしれないが、同時に抑圧するかもしれない。そもそもの「気が狂いそうな」状況こそ、「親」という存在がもたらしているものではなかったか?
 そして「兄」では主人公を救ってくれそうではあるが、同時にそこに生ずる依存心が主人公のバランスを崩してしまうかもしれないのだ。
 だからこそ「弟」である。彼を「上から目線」で見ながら、その吞気さにつられて笑ってしまうというバランスが、彼女をその閉塞感・鬱屈から救うのである。
 なおかつ、本当の肉親である弟がいつでもこんなふうにさりげなく私の救いになるわけではないから、クラスメイトとして設定され、なおかつそれが「弟」というイメージで語られる、というこの屈折した表現の驚くべき絶妙さは、本当に見事だ。
 だから「愚かしい」もまた愛情の裏返しである。弟を愚かしいと表現することで彼女は救われる。
 それにしても「弟がいたならこんな感じかも」と言っておいてそれが「可愛い」や「頼りになる」ではなく「愚かしい」と表現されることにもニヤリとさせられつつ、それに続く「愚かしいところがとても似ている」に驚かされる。「弟がいたなら」といっている以上、弟はいないはずなのに、「とても似ている」では弟の存在が前提されてしまっているからだ。すっかり、弟は実在することになっていて、その確定的な属性は「愚かしい」ことなのだという。「弟」というのはすべからく「愚かしい」ものであるべきなのだ。
 こうした論理の飛躍と、その断定された前提が、しかし聞く者にあたかもデジャブのように腑に落ちる措辞には本当に驚嘆させられる。

2018年10月1日月曜日

ceroの「Orphans」の歌詞を読む 3 -冴えないパートナーの肖像

承前

冴えないクラスメイトが 逃避行のパートナー
彼は無口なうえに オートバイを持っていたから
さて、続く詩句の中で「逃避行」と表現されるのが、最初の「家出」の言い換えであることは直ちにわかる。同時に、最初の考察によって想定された「閉塞感」からの脱出が主人公の欲しているものだという納得も訪れる。だがこの日常からの「逃避」を、主人公は独りでは行わない。
 かねて「計画」していた「家出」には「パートナー」がいるのである。家出が計画されたものである以上、「彼」の存在もまた、予め計画に組み込まれたものだ。
 彼をパートナーとして選ぶ条件として大きな要素は「オートバイを持っていた」ことである。家から離れるにあたって、徒歩や自転車、公共交通機関は想定されていない。大学生では「家出」にならないだろうから、この主人公たちが高校生(ぎりぎり早熟な中学生)だろうと想定されるというのは前回の考察によるが、とすれば我々の常識からすると「オートバイ」のもつ適度な反社会性は、日常性からの脱出たる家出の手段としてふさわしい。
 だがその持ち主たる「クラスメイト」には、反社会的なパーソナリティーの持ち主というには似つかわしくない「冴えない」という形容が冠せられる。冴えない男子生徒をパートナーとして選ぶところに、またもや主人公の躊躇いや怖れがほの見える。本当に反社会的な相手との、全面的な社会からの離脱を望んでいるわけではないのだ。
 さて、彼のパーソナリティーは「冴えない」だけではない。もう一つ、彼が「逃避行のパートナー」として選ばれた理由は、彼が「無口」だからである。
 この「無口」であることと「オートバイを持っていた」ことという、パートナーにふさわしい二つの条件を語るときに「~うえに」という大仰な接続によって並列されていることが、巧まざるユーモアを生んでいる。
 「~うえに」とは、並列された両者を、同時に強調する。一つだけでも大変なことなのに、というニュアンスを感じさせる。
 つまり読者は、彼って「無口」なのよ、逃避行のパートナーにうってつけでしょ! と宣言され、それを共通前提とされてしまうのである。「オートバイを持っていた」ことは確かに逃避行に好都合である。だが「無口」なのはどんな善き事なのか。それを我々はいつ了解したというのか。
 むろん「無口」なことは美徳である。主人公は、この家出の動機やら経緯やらについて、彼がしつこく聞いてきたりはしないだろうと期待しているのである。自分の思い、自らの抱える鬱屈を誰かに伝えたいわけではない。話してしまえばそれが他人にとっては、もしかしたらつまらぬものでしかないかもしれないということに、主人公は自覚的である。それでも主人公は話してしまうかもしれない。だが、それに尤もらしい気の利いた返答などしてほしくはないのだという、前もって示された密やかな拒絶に、主人公の躊躇いや怖れがほの見える。それがパートナーに「無口」であるという条件を要求する。
 そうした躊躇いや恐れは、くりかえすが、自分の姿を客観視するバランス感覚でもある。この距離感が心地よい。

2018年9月30日日曜日

『メアリと魔法の花』-っぽい情緒だけが描かれる

 録画してから観るまでに間が空いたのは、それだけ期待していないからだが、一方で観始めるハードルも低いんで、そのバランスで観てしまった。
 冒頭の、赤毛の魔女の脱出のシークエンスは、意外によくできているんで感心した。ジブリアニメのレベルと変わらないじゃん、と思いつつ、もちろんジブリ過ぎて、二番煎じのそしりはまぬがれない。いきなりの脱出から墜落まで、まるで『ラピュタ』じゃん、とか。
 それでも、確かに良くできてはいるのだ。例えば冒頭のシークエンス。火災が起こっているらしい大きな建物を映すショットからカメラが下がって、動きのある人物を捉えてそこをアップしていくと主人公が追手から逃げている。壁の外を移動していくと足元の石垣が崩れて、慌てて手近な石垣に掴まった手元に袋が提げられているのが見てとれると、そこにカメラの焦点が絞られて、追手の「花の種を持っているぞ」という説明の科白がかぶる。大胆でスピード感のあるチェイスから、一瞬の止め画の「魔女」のアップは、意志の強そうないい顔をしている。そこから空中の逃走劇の果てに地上への墜落と魔女の花による森の異常成長。ジブリアニメ的期待を煽るのに充分成功している。
 だがその後は、観ていてもどうにもわくわくしてこない。こないままに映画が終わる。短く感ずる。中身がなかったなあ、と思う。
 だがアニメーションのレベルは最後までずっと高い。絵も、動きも、美術も、ジブリアニメのレベルを落としてはいない。だから画面を見ている分にはよくできた映画に見える。
 だが物語のレベルは低い。ストーリーの起伏も、人間ドラマも、部分的な演出も。
 宮崎駿がすごいのは、あれだけ優れたアニメーターでありながら、脚本家としても、人間を描く演出家としてもすごいからだ。米林監督はおそらく優れたアニメーターなのだろうが、人間を描ける演出家ではなく、この映画は優れた脚本家を擁することもなかった。
 惜しいことだなあ、と心底思う。ジブリ映画に対する期待から結局ヒットするのだが、このレベルの映画がビッグ・バジェットで作られ、多くの子供がこれを親と映画館で(あるいはお茶の間で)観るのは悲しいことだ。子供の頃に、ワクワクして、それでいて人間に対する深い洞察の得られる映画を観るという経験をすることが出来ないというのは。

 具体的にケチをつけ始めるときりがない。人物の背景も描かれないし、人物同士の絆が形成される過程が描かれているわけでもないのに、情緒的な感情の交流は唐突に描かれる。犬が妙なデザインで登場したかと思うと別に物語に絡まない。物語に重要な「使い魔」の役割に収まる猫は可愛くない。どうしてそういうデザインにするのかわからない。おそらく意味あり「げ」にするためにわざわざ歪なデザインをしていて、それが生きていない。
 人間を描くのも、こうした「げ」が基本原理だ。かつて魔女の花の種を盗み出した魔女であった大叔母さんは、階段に落ちている魔女の花を見つけて、それがアップになった後でようやく「これは!」と驚くし、囚われの身となったメアリに飛び掛かって「この魔女め!」と叫び、メアリに「ピーター」と呼ばれてからようやくピーターは相手がメアリであることに気付く。いずれもそのことに気づくのが不自然に遅い。お芝居のリズムがまるっきり大根なのだ。もちろんこれは人間の振る舞いの自然さよりも、アニメ的な情緒を描くことに頭が使われている演出のせいである。
 ドラマツルギー的にも同じことがいえる。主人公が森に入っていくことから物語に巻き込まれるのだが、そこに誘う二匹の猫が揃って目の前に現れた途端、主人公は「あんたたち恋人だったの!」と言う。どういうわけでその二匹が雌雄で、どういうわけで恋人と判断されているのかはわからない。
 猫たちがどういう必然性で主人公を魔女の花の在処まで誘ったのかもわからない。魔女の花に対して猫たちは警戒心を剥き出しにする。それが何かの異常事態を表していることを示していることはわかるのだが、猫たちにとって魔女の花がどういう脅威なのか、どうしてそこに主人公を誘ったのかはわからないままだ。
 つまりどこかで見た物語の情緒は描かれるのだが、そこに必然性を与えるドラマツルギーとしての因果律は考えられていないのである。
 だから、異界への往還やら脱出劇やら救出劇やら勇敢な冒険やら、思い返してみると大活劇として充分なストーリーラインは存在するのに、どうにもそれが面白くはならない。
 マダムと博士の最初の実験の失敗の犠牲者のその後とか、森の入口でメアリと喧嘩をして別れた後のピーターが後悔して森に引き返す場面とか、それが描かれれば物語が深みを増すはずの要素が描かれない(もしかして放送時のカット?)。

 作品としての思想には、人間の手に余る科学技術批判があるらしい。監督自身がそう発言しているとのことだ。明らかに原発事故の隠喩と思われる実験の暴走が描かれるのだが、こうした思想の表現も結局「げ」でしかない。
 原発の問題は、例えば受益者が社会全体であることや、事故に至る背景に組織の論理に人々が流されてしまうことなのに、マダムと博士をいわば悪役・敵役として描いてしまうことで、問題をまるっきり原発の問題とは別次元にしてしまう。にもかかわらず「人間の手に余る科学技術批判」という情緒だけは描いているつもりなのだ。

 いかん。きりがないと言っていたのに、ついやってしまった。ないものねだりってのは虚しいことだとわかっているはずなのに。

ceroの「Orphans」の歌詞を読む 2 -境界を失った世界の閉塞感

承前

 まずは冒頭の2行。
終日 霧雨の薄明かりが包む 白夜の火曜
気が狂いそうなわたしは
 家出の計画を実行に移してみる
「ひねもす」という耳慣れない(もしくは高校の古典の時間に与謝蕪村の句に使われていたのを覚えている人もいるかもしれない)言葉で歌は始まる。漢字では「終日」と表記されていて、「一日中」という意味だから、これがすぐ後に出てくる「白夜」と響き合って、夜となく昼となく、どうにもはっきりしない、いつともしれない時間が続くのを感ずる。
 世界は境界を失っている。「霧雨」は晴れでなく、さりとてざあざあと降るでもない中途半端な天気だし、「薄明かり」は「白夜」と併せて、昼間でも夜でもない、といって明け方や夕方のように変化しつつあるわけでもない、いつとは知れない時間帯である。そして今日は、週の初めの月曜日や週終わりの金曜や土曜ではない、これもまた中途半端な「火曜」である。
 「白夜」とあるのをそのまま読めば、以下の登場人物が我々のよく知る「高校生」っぽさを湛えているにもかかわらず、これは我々の住む世界の出来事ではないのかもしれない。まさかノルウェーやグリーンランドを舞台にしているとは考えられないから、あるいは異世界を舞台にした物語だということかもしれない。
 またあるいは「白夜(のような)」という直喩が省略された隠喩なのだとすれば、やはりこれは現代の我々が住む日本の話で、今日は朝からずっと霧雨が降り続く、薄暗い一日だったということかもしれない。

 さて、世界把握の定まらないまま物語はすぐに主人公のおかれた状況の説明に展開する。天気のせいか、それともそれとは関係なくなのか、物語の主人公は「気が狂いそう」だという。すぐに続く「家出」という単語から、それがなんらかの鬱屈、生活上の不満のようなものによるのだろうと聴き手は推測する。
 「家出」という言葉は、その行為者が「家」に縛られた存在であることを逆に示している。単身者なら、本人が移動してしまえば後に「家」が残りはしない。家長ならば「失踪」も「出奔」もしようが、その者が家「長」である以上は、言葉の定義上「家出」はしないはずである。だから「家出」するのは「家」に従属する者である。主婦か、多くの場合、子供である。
 「気が狂いそうな」という複雑な内面を備えているところからイメージされるのは中学生以上の思春期の子供であり、すぐ後にクラスメイトがオートバイを持っていることから、これが我々の知っている日本だとすると高校生なのだろうと措定される。
 「気が狂いそう」である理由はその後も具体的には語られない。だから結局、最初の設定に見られる、境界を失ったままいつとも知れぬ時間が続く世界、あるいはそうした世界観に象徴されるような気分そのものが主人公の鬱屈の原因なのだと考えるしかなさそうだ。いつかは週末になって雨が本降りになり、家に引きこもったまま夜になって眠りにつくことも、そしてその後でははっきりと夜も明け、晴れもし、世界を見渡すこともあると信じられない、このまま曖昧な時間が永遠に続くように感じられてしまっているというある種の閉塞感が、主人公の抱える鬱屈なのだろうか。
 だが、そこから逃避するための「家出」は、あらかじめ「計画」されたものであって、衝動的なものではない。「うつす」というのは、「家出」が本人の中で何度もシミュレートされたものであることをうかがわせる。
 そして注目すべきは「うつしてみる」の「みる」である。何度も繰り返されたはずのシミュレーションを実行にうつすにあたっても、なお「みる」と言ってしまう。どこまでもシミュレーションの続きだといい続けるその、本気ではない、あくまでも試すだけなのだという保留に、自分の置かれた状況を、一歩引いて眺める客観性とともに、主人公の躊躇い、怖れもほの見える。

2018年9月29日土曜日

ceroの「Orphans」の歌詞を読む 1

 ceroの「Orphans」の歌詞が気になっている。
 歌詞の断片を聴き取るにつれ心が惹かれていくこの感じがなんなのか、しばらく考えてみると、それが驚くほど大量の言葉を生み出していくのを感ずる。それをできる限り正確に捉えて書き留めてみよう。

 基本的に音楽を聴くときには、サウンド(音の感触)、リズム、コード(和音)、メロディーを、どれが決定的だということもなく聴いている。そして基本的には16ビートの、テンションコードを多用したような、途中に転調があったりするような音楽が好きなのである。
 歌物の場合は声もサウンドの一部として重要な要素だし、それがメロディーを奏でているもいる。メロディーは、裏に入ってきたりすればリズムにもかかわってくるし、その音がコード上のどの音にあたるかによって、和音感が変わってくる。メロディーがテンション・ノートにあたっていて、スケールから外れていたりするのも楽しい。
 つまり「歌」は重要だが、それは音楽的な効果として重要なのであって、歌詞を聞くことはほとんどない。
  だが時折、歌詞が聞こえてくる歌がある。もちろん常に歌詞は聞こえているはずだが、それらはいつもは意味のつながりとして意識されていない。それが、意味のつながりとして聞き手の私にとって「意味」を帯びてくる「歌」が、時折あるのである。
 ceroの「Orphans」はそうした歌のひとつだった。
 もちろん最初は音楽として耳を惹きつけたのだった。ワウの効いたギターカッティングに続いて、口笛とエレピで奏でられるリフが始まるだけで、もうその音楽的魅力に囚われてしまう。


 だが、繰り返し聴くうち、その詞=言葉が次第に一つの物語を浮かび上がらせていくのだった。

終日 霧雨の薄明かりが包む 白夜の火曜
気が狂いそうなわたしは 家出の計画を実行に移してみる

冴えないクラスメイトが 逃避行のパートナー
彼は無口なうえに オートバイを持っていたから

サービスエリアで子どものようにはしゃぐ
クラスメイトが呑気で わたしも笑う
弟がいたなら こんな感じかも
愚かしいところが とても似ている

(別の世界では)  二人は姉弟だったのかもね
(別の世界がもし) 砂漠に閉ざされていても大丈夫

あぁ 神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて
あぁ わたしたちは ここに いるのだろう

終日 乗り回して町に戻ってきた 白夜の水曜
疲れ切った僕は そのまま制服に着がえて学校へと向かう

休んだあの子は 海みて泣いてた
クラスメイトの奔放さが ちょっと笑えた
姉がいたなら あんな感じかもしれない 別の世界で

あぁ 神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて
あぁ 僕たちは ここに いるのだろう

続く

2018年9月28日金曜日

『ブルー・ジャスミン』-彼女の愚かしさに同情できるか

 ウディ・アレンの映画を面白いと思ったことがなくて、積極的に観てこなったので、自分にとって最近のウディ・アレン映画がどれだったのかももうわからない。下手をすると10代かもしれない。とすると映画を見る目もなかったろうから、真っ当な評価をしているわけはない。
 さてそういうわけで何十年ぶりかのウディ・アレン映画だが、観始める、さすがに上手くて唸らされる。やはり見る目がなかったのだろう。
 でもまあ、この映画は特別に上手いのかもしれない。ケイト・ブランシェットの演技の上手さが味方して。
 この間、映画における時間の描き方についてちょっとふれたことがあるが、この映画では、映画的「現在」と「過去」がしょっちゅう切り替わるのだが、それが観客にとってちっともわかりにくくない。
 そしてその構成が、主人公の背景を知らせることで「現在」の主人公の痛々しさだったり愚かさだったりをいっそう重層的に見せている。
 そしてこの構成は、この物語のいわばどんでん返しともいうべき大ネタを最後にもってくるために必要な、つまり知的に仕掛けられた必然的な設定なのだった。上手い。

 それにしても、主人公の夫がアレックス・ボールドウィンというのは、最近『アリスのままで』で観たばかりで、そのキャラクターもほとんど同じ人に見えるのは、つまり素で演じているということなのか監督の造型なのか、しかも主人公が「ここはどこ?」とかいう(アリスは認知症で、ジャスミンはアル中で)のも同じで、その偶然に妙な感じがする。
 もちろん、シリアスな中にも主人公に対する同情と共感が湧いて、不思議に爽やかな穏やかな感情が残る『アリスのままで』に比べて、『ブルージャスミン』の主人公に同情することは難しい。
 だがああした虚栄心や他人を見下すことで保たれるプライドに共感はできないでもないし、あの、嫌悪感だけを感じても不思議ではない愚かな主人公に対しても、同情ができないでもない気になってくるのは、ケイト・ブランシェットのキャラクターが絶妙なバランスを保っているからだろう。気位の高い元セレブはどうにも嫌味であり、なおかつ愚かしさが痛々しいのだが、その、澄ましていれば気品あり気に見える彼女が落ちぶれるからこそ感じる「かわいそう」な感じは、いっそ突き抜けて同情してしまいかねないのだ。
 もちろんその手前で嫌悪感だけを感じている観客も多いに違いないとは思うが、この映画の評価は、それよりもむしろ筆者のように感じている人が意外に多いことの証ではあるまいか。
 だから、映画のラストで彼女がすっかり壊れて、行き所も失くしているという状況を絶望と感ずるか、しばらく時間が経てば彼女はまた妹のところへ戻って、相変わらずの愚かな人生をなんとかしぶとく送り続けるのかは、どちらにも限定できずに観客に任されていると思う。もちろん筆者は無意識に後者を選んでいるのだろう。

 ところで主人公の継子の子供時代でワンカットだけ映っていたのは、『ウェイワード・パインズ』のチャーリー・ターハンではないか!
 そういえば彼の好感の持てる感じは、最近観た『君の膵臓を食べたい』の北村匠海に似ているぞ。調べてみると一か月違い生まれの同い年。いや、どうでもいいが。
チャーリー・ターハン
北村匠海

2018年9月22日土曜日

『スターリングラード』-精緻に戦闘を描く情熱とは

 ストーリーの跳んでるところがあるぞと思って観終わってから調べてみると、この映画、2時間以上あって、テレビ放送では30分くらいのカットがあるのだった。ああ、また。
 たぶんドラマ的な感動が薄くなってしまったのだろうが、それでもこの映画の作りの高品質なところは充分にわかった。冒頭の戦闘シーンから、もう嫌になるくらい精緻に作られている。嫌になるというのは、先日の『アイ・アム・ア・ヒーロー』をいくら褒めようと思っても、洋画のこういう戦闘シーンは、とにかく桁違いに金と手間がかかっていて、技術とアイデアと構成力も、比較にならないほど質が高いのだった。
 もうどこまでがロケでどこまでセットで、どこまでCGなのかわからないが、スターリングラード市街戦が、かくもあらんやという具合に精緻に描かれる(精緻に事実が再現されているかどうかは知らないが、街がまるごと戦闘の舞台になっていることはわかる。というか、まるごと戦闘の舞台になっている街が、そこに再現されているとは感ずる)。
 そこでは、戦争というのがかくも人命を軽視するもだということが残酷に描かれていたり、権力がどれほど醜悪に保身を図るかが描かれたりする。冒頭近くの上陸作戦では、敵への無謀な突撃命令で、たちまち砲撃で死人の山が築かれていくというのに、退却することを許さぬ上官が、戻ってくる兵士に砲撃を加えて、結局全滅させてしまうという、本当に虚しく腹立たしい戦闘が、実に精緻に描かれる。
 だがこれが映画の本筋ではない。映画はその後、スナイパー同士の、心理戦、作戦、技術戦に重心が移る。
 ジャン・ジャック・アノー監督は、『薔薇の名前』でも、あの手間のかかった迷宮のような図書館を見ても、とにかく質の低いものを作らないというプライドの高いことはわかるが、それが、こういう戦争映画、とりわけ狙撃手同士の駆け引きなどを丁寧に描いた戦闘シーンを描きたい人なのかぁ、と少々意外でもあった。
 そしてこの戦いもまた、実に見事に描かれるのだった。人間ドラマこそ、やや類型的に見えるが、ドイツ軍少佐のエド・ハリスのたたずまいや、美しい外見にも似合わず純朴な人柄を演ずる主人公ジュード・ロウの人物造型は、映画としてやはり素晴らしい達成であると思う。
 そして狙撃手同士の駆け引きはゲーム的な面白さに満ちている。緊迫感も、空間の奥行の感覚も、人物の死の痛みも。
 最後の戦いで、友人の犠牲によって戦いに勝て(それも、三角関係をはさんだ人間ドラマが、まあ類型的ではあるが充分に納得できる論理をもって描かれ)、さて敵がいつ銃弾に倒れるかと思っていると、充分に狙いを定めた銃を構えて、主人公が敵の前に姿を現す。エド・ハリスが認知するより先に銃弾が発射されて、その額に弾痕が生ずるという描写もありうるはずだが、主人公があえて敵の前に姿を現すのは、観ているこちらの期待に適っている。やはり、直接の対峙の瞬間が欲しいのだ。
 だからといって、二人は言葉を交わすわけではない。ただ、エド・ハリスの納得の表情が描かれてから引き金が引かれる必要があるのだ。
 そして倒れた敵は、目を撃たれている。これもまた実に理に適っている。冒頭で子供の頃の主人公の狼狩りの場面が描かれ、そこで祖父が「目を狙うんだ」と言っているのである。そして、主人公が狙撃手として英雄に祭り上げられてから、冒頭の狼狩りの続きの場面が描かれ、そこでは主人公が精神的な弱さから失敗していたことが描かれる。つまり、主人公はようやく冒頭の、自らの弱さを克服したというわけである。
 死んだと思われた恋人が実は生きていて、戦闘が終わった主人公が病院を訪れて再会するという、あまりにベタなハッピーエンドに対する不満もネット上では散見されたが、まあそこだけを言わずとも、この映画は全体として、結構ありがちな論理で展開する物語なのだ。展開としてベタベタでも、病院内を広く見渡す構図の美しさは、やはりこの映画の質の高さを示していると言っていいと思う。

 それにしても、後半の戦いがすっかり個人の男同士の、しかも個人的な人間ドラマを中心にした戦いになって、それこそがこの映画の本筋だというのに、冒頭や途中にもちらちらと、状況としての「戦争」が、これでもかというほど精緻に、大掛かりに描かれるのはなぜなんだろう。狙撃手同士の戦いは、ほとんど西部劇のようなドラマである。それが実際の第二次世界大戦を舞台にしてもいいのだが、その力の入れ具合に、分裂した二つの方向が同居しているように感じられるのはどうしたものか。
 「戦争」をそうまでして再現せずにはいられないその情熱はいったいなんなのだろう。人類としての義務感なのだろうか。

2018年9月21日金曜日

J.Lamotta すずめ

 素晴らしい音楽を知ってしまったという単なる記録。車の中で聴いた二つのラジオ番組で紹介されて、記憶が結びついて、一つだったら流れ去ってしまったかもしれないこの人の音楽が記憶に残った。You-Tubeという便利なものがあって、早速触れることができる。


2018年9月16日日曜日

『10クローバーフィールド・レーン』-「精神的兄弟」ねえ…

 実は先にネット情報で『クローバーフィールド』とは関係がないといってもいいほど、「続編」としては扱いかねる代物だということは知っていた。だが、プロデューサーはJ・J・エイブラムスだし、「精神的兄弟」だかなんだか、とにかく、観ておこうという半ば義務感のようなものである。
 始まると、なるほど、POVではない。だが、いきなりの監禁はSSSではないか。それはそれでもうひとつの好物だ。それで面白いのならそれも良し。
 さて、よくできてはいる。監禁される主人公が愚かで弱くないのは必須条件として、監禁しているジョン・グッドマン演ずるアメリカン親父ハワードは、常識があるのかないのか、本当のことを言っているのか嘘なのか、微妙なバランスをよく描いている。怖い。引っ張られる。
 だが惜しい。3人の限定された閉鎖空間での生活が楽し気に描かれるのに、その一人エメットの死に様に情緒がないのも残念だが、そこから外へ出てのシークエンスに、もう一度ハワードをからめるのはお約束だろ。いつ登場するかと期待してのに、そのまま表れないのは残念。
 同時に、外が本当にエイリアンによって侵略されていて、やっぱり監禁親父の妄想かもという観客の読みがあっさり覆って、意外にもほんとうだったというオチはもちろんかまわないが、肝心の、今しも人類を滅ぼすかもというエイリアンの宇宙船が、蒸留酒の瓶で作った即席火炎瓶で落ちるって、それはいくらなんでも無茶だ。
 だから車が地上に落ちて、主人公が気を失って目が覚める展開で、これは最初の自動車事故から目覚めるところにつながるんだなと予想したら、意外にもそのまんま、宇宙船が落ちる場面に続くので愕然とした。エイリアンが本当に地球を侵略したとか、ましてその宇宙船が酒瓶の火炎瓶で墜落したとか、この馬鹿馬鹿しさは夢オチであることの前振りに違いないと思ったのだが。
 この意外性は予想を裏切られることの喜びよりも、単に稚拙な工夫のなさに感じられて、がっかりだったのだ。

2018年9月12日水曜日

『アイ・アム・ア・ヒーロー』-国産ゾンビ映画の健闘

 ネットで前日譚の方を観ていて、そちらは大したことはないと思っていたのだが、本編はどうも評価が高いようなので、いずれ観てみようとは思っていた。どうやらテレビでは放送できないほどのスプラッターらしいのでレンタルで。
 原作は文句なく名作である。ただし結末までは未読で、どうやら風呂敷をちゃんとたたんでないらしい不満があるようなので、この評価は途中までの、マンガとしての力のあるなしを言っているのだが、ともかくも本当に力のある作品であると断言するに迷うことはない。
 ゾンビという設定をしたうえで考えられることを誠実に考えている。いい加減に投げ出したりせずに緻密に考えている。
 主人公のマンガ家アシスタントは、いわばオタクのなれの果てのようなものだろうが、オタクにありがちな「つっこみ」を、作者が自分の作品に対してもしているような気配がある。不誠実であることを許さない矜持と、距離感。
 そのうえで、ちゃんと面白くなる要素がいっぱいつまっているのだ。ゾンビの溢れた世界での生き残りをかけた冒険譚。情けない主人公がヒーローになる成長譚。ぎりぎりのところで「可愛い」と言えなくもないヒロインたちとの恋愛譚。
 そうした要素は映画でもそれぞれ描くことに成功していた。日常が壊れていくときの、どこまで本気になればいいのか迷う感じなどは、原作はものすごく上手かったが、尺のとれない映画でも、かなり上手く描いていた。
 特に、浜松の街中を封鎖しての撮影だという、最初のパニック発生時の場面はすごかった。日本映画でこれをやるのは大したものだと感心。
 特に、パニックの発生して拡大していく「方向」が、観客にもわからないという描き方は新鮮だった。何か良からぬものが、あちらからこちらにやってくるというのではなく、どこからどこへ向かって拡大、進行しているのかわからない街中にいきなり放り出される視点から見た様相は、絵の止まっているマンガでは感じなかった緊迫感だ。
 目の前の惨劇からとりあえず離れようとして走り出すが、それが災害から逃げる方向として適切なのかわからないほど、四方八方から異常事態が押し寄せる。このシーンを撮影した監督の手腕には脱帽。

 一方、完結した映画としては残念な部分もある。マンガと違った大資本のコマーシャリズムが、ヒロイン二人を美人にせざるをえないせいで、彼女らが主人公に寄せる好意が単なるご都合主義に感じられてしまうこととか。そうした好意は物語の終わり、主人公が「ヒーロー」になってからでいいではないか、とも思う。
 また、有村架純の比呂美が「半ゾンビ」になる展開は、続編が作られなければ全く無意味で、といってこの時点で描かなければ続編を作ることが不可能になるし、どこまで原作と独立した物語にするかという興業的見極めが難しいところではあろうが、やはり完結した映画作品としては不完全に過ぎる要素ではあった。

 もうひとつ、ヒーローがヒーローたる存在であるための唯一の行動が、ひたすら銃を撃つことにある(もちろん最後の最後で銃弾が尽きて棍棒として銃が振るわれるのだが、それに特別な意味があるとは思えず、基本的には射撃がヒーローであることの証である)という展開をすんなり受け入れることに抵抗がある。原作ではいろんな展開の中で射撃もするということであり、その行動の全体がヒーローたりうるのだが、映画では、限られた尺の物語の中で、ひたすら射撃が彼をヒーローたらしめているのだ。
 むろん、射撃がいわば「オタク」的スキルであり、それが肉体的に秀でているわけではない彼をヒーローにするために必要な現実的設定であることはわかる。また、射撃が射精の比喩になっているという象徴的設定もわかる。
 だが、全弾撃ち終えて、やや仰瞰で捉えれる背中の丸みが、映像的には見事にかっこ良く撮れていて、それだけでも映画として大成功なのだということはわかるが、それでも、銃による大「虐殺」を偉大な仕事として受け入れるには、日本人である筆者には抵抗があるのだった。

2018年9月11日火曜日

『ディストラクション・ベイビーズ』-「狂気」を描くことの不可能性

 『宮本から君へ』のドラマ化で名前を覚えた真利子哲也の劇場作品として評価の高い本作だが、結論を言えば期待外れだった。『宮本から君へ』の高評価がハードルを上げてしまった。
 単に暴力的な描写に不快感を催したとか、感情移入できる登場人物がいないとか、それもそうだが、問題は「期待外れ」だ。
 溢れる暴力衝動によって喧嘩に明け暮れる男の「狂気」を柳楽優弥が演じている、ということらしいとは事前に知っている。実際見てみると、菅田将暉が絡んでくる車による移動が物語に一応の「進行」を感じさせるものの、結局は最後までひたすら暴力衝動によって動機不明の喧嘩を繰り返す男の話である。とすれば、そういう設定の中で考えられるエピソードのバリエーションとその描写によって観る者に呼び起こす感情の強さが映画の価値になるはずだ。
 そういう意味では、これはゾンビ映画やソリッド・シチュエーション・スリラーや、最近見た『アリスのままで』と同じだ。アルツハイマー病が進行していく時にどんなことが起こるのか、という設定があるだけで、あとはそこにどんなエピソードを描くのかが問われる映画と、とにかく喧嘩に明け暮れる男の狂気を描くという設定があるだけの映画は、基本的な作劇法が同じなのだ。
 そして、描きたい「狂気」を「ちゃんと」描こうとすると、このテーマはゴア・ムービーになってしまうはずだ。個人的な趣味としては、そんなものを見たいとは思わないが、それはそれでまっとうなテーマの追求ではある。そうでなければ真っ当な格闘映画にでもなるしかない。ひたすら強さを追求する男の話。
 つまりこの設定で「狂気」を描くのは難しい、というか本質的には不可能なのではないか。
 それが露わになってしまうのは、リアルさをどう観客に感じさせるかという課題に、この映画が本気で応えていないと感じられる場面だ。これが致命的だった。
 たとえば主人公の回復ぶりがどうみても不自然なのはどうしたものか。ここに、主人公の体が少しずつ壊れていくような描写があれば「狂気」も感じられるのだが、したたかに痛めつけられた後には、ケロッとして復讐する展開になる繰り返し。そのしつこさが「狂気」と言いたいのだろうが、つまり暴力が危険であると感じないのだ。
 例えば歯が折れたり、拳の骨が見えてしまうという描写がある割には、そうしたダメージが蓄積していく様子はない。つまり人体へのダメージも「記号」としてしか描かれていないのだ。
 あるいは屈んだ相手を蹴るときに、サッカーボールキックで顔面を狙うのではなく、胴体を狙って体ごと押し倒すように蹴るというのは、つまりは真剣勝負ではなくプロレスなのであって、それでリアルに感じられないところにどう「狂気」を感ずればいいのだ。
 小松茉奈が菅田将暉を殺す場面も、車のドアに挟んで何度もそれを閉めることで致命傷を負わせるなどと、無理にもほどがある。頭部のみを挟んで、かなり強い衝撃を与えるなどという描写が具体的にないと、激情に駆られていますという演技だけでそうした「狂気」は滲み出るものではない。
 こうしたリアルな肉体的感触をないがしろにしてこの映画は何を描こうとしているのか。
 この映画で描かれる行為としての「喧嘩」のほとんどは、「喧嘩」と呼ばれながらも、闘争としての「喧嘩」ではない。単なる暴力である。たとえば無抵抗の相手を執拗に殴ってしまえば、それは危険と隣り合わせの充実感ではなくなる。
 一度は強い相手として描かれたヤクザの「兄貴」に、リベンジマッチでカウンター・パンチを決めて両拳を突き上げる場面のカタルシスは一時のものであって、あれがこの映画が描こうとしている暴力衝動ではないらしい。ではそれが目指している方向には何があるのか。単なるゴア・ムービーになる以外に。
 たとえばこうした「狂気」がどこから生じているのかといった、人物の「背景」を描くことで物語に厚みを与える、という方向もあるのだろうが、それをとろうという気配はない。別にそうでなければそれでいい。それならばひたすらリアルにその「狂気」を描けばいい。単なるゴア・ムービーに向かってしまうような破壊衝動ではない暴力に惹きつけられるとすれば、そこに何かの喜びを感ずるという描き方になるのだろうし、実際に喧嘩を楽しんでいる描写があちこちにあるにも関わらず、そうした暴力の悦楽が「狂気」と感じられるほどに鬼気迫るものではない。
 たとえばリュック・ベッソンの『グラン・ブルー』はそうした「狂気」を描くことのバランスがわかっていた。のめり込むことが破滅につながることがわかっていて、そこに惹きつけられていく主人公の「狂気」と愉悦が描かれていた。『グラン・ブルー』を観た時に思い出した小山ゆうの『スプリンター』や、古くは『あしたのジョー』でもその「狂気」にひりひりした危険を感じながら、読者はその破滅につきあってしまう。
 ネットでは柳楽優弥の演技を評価する声が高いが、それには賛成も反対もできない。表情や佇まいに「狂気」が漂う、式の評価はまあわからなくもないが、それに感情が動いたりもしなかった。このあたりは浅野忠信の演技がちっともうまく見えないのに、世の中的には評価が高いことに違和感を覚える感じに近い。そこに感銘を受ける人もいるのはわかるが、筆者にとってそこが感動ポイントではないということだ。これは個人的な好みの問題で、しょうがない。ただ、この映画の作劇上のスタンスに納得できないのだ。

 作劇上の不満と言えば、小松茉奈のホステスによって描きたいものが何なのか、まるでわからなかったのも気持ちが悪い。
 菅田将暉がどうしようもなく不快な人物として描かれるのはわかる。「狂気」によって感染した者が、それについていけずに破滅するというのは、つまりは主人公の「狂気」を描くことになるんだろうが、ではホステスが不快な人物として描かれることによって、何が描かれているということになるのか、どうにもわからない。単に観客に不快を感じさせたい、つまりそれが何かドラマチックであるかのような作者の勘違いなんじゃないかという疑いを、どうにも否定できない。
 作者がリスペクトを表明し、どうみても参考にしてもいる新井英樹の『ワールド・イズ・マイン』の三人組に照らし合わせば、このホステスはマリアに対応することになるのだが、かのマリアが体現している人物の強烈な存在感とリアリティと、時にリアリティを無視して描かれる聖性が体現しているおそるべき魅力に比べて、この不快なホステス登場させることで何が描きたいのか、その必然性が結局まるでわからない。
 そして『ワールド・イズ・マイン』における暴力は、まっすぐに大殺戮に向かっていくのであって、こうなる以外に「暴力の狂気」をどう描くというのか。なおかつ『ワールド・イズ・マイン』の暴力は、その狂気性を描いているのではなく、むしろ聖性をこそ描いているのだと思われるが。

 池松壮亮が出てるのは『宮本から君へ』へ続く真利子人脈なのだなと納得したが、それより、あろうことか北村匠海があんな役で出ているのかと、驚いた。そしてそれが『ゆとりですがなにか』と同じ年で、次の年に『君の膵臓を食べたい』が撮られているのかと思うと、最近観たばかりのその落差にクラクラする。

2018年9月4日火曜日

『アリスのままで』-分裂する「自分」

 若年性アルツハイマーを患った女性の物語で、主演のジュリアン・ムーアがアカデミー主演女優賞をこれで獲ったとだけ知っていて、観てみると、何か意外なことが起こることのない映画だった。その通り、不穏な前兆から、淡々と悪化する事態が描かれていく。
 もちろんものすごく怖い映画だ。他人事に感じられないところが。
 同時にとても面白い映画だった。途中で飽きたりせずに、先が気になって、見続けたいとはっきり思う、という。そして最後までその緊張感が続く、という。
 テーマ・設定が明らかだから、つまりどんなエピソードを置き、それをいかにうまく描くかだ。最初に、講演の最中にある言葉が思い出せず「単語の集まり」という表現でしのいで、帰りの車の中で「語彙」(英語で何というかわからないが)という単語を思い出す、というエピソードを置く。ここから身につまされる不穏な展開が予想される。次には勤務先の大学のキャンパスを走っているシーンがあって、これは、と思うと案の定、迷う。
 そうして徐々に日常の様々な場面に認知障害の症状が表れる。次はどんなエピソードで、どんな感情を描くんだろうと思うと、興味が引っ張られて、ダレない。もちろん次々と繰り出されるエピソードが、それだけ感情を揺さぶる質に達しているからだが。恐怖だったり切なさだったり束の間の喜びだったり。その数の豊富さに満足する。
 とりわけ大きくて感動的なエピソードといえば患者会での講演会なのかもしれないが、それよりも感情を揺さぶられたのは、診断を受けた初期に、いずれ判断力を失った自分あてに自殺の指南をする動画を撮影しておく、というエピソードだ。
 映画の前半でそのシーンが描かれている時点で、なるほど、病気の進行に備えてそんな準備をするというエピソードの置き方も、上の「数の豊富さ」ではあるが、その決着が後半に描かれる伏線としての機能も巧みであった。そしてそこで発生する感情の大きさも。
 そもそも自分あての質問に自分が応えられなくなったら、という条件でその動画を見るよう設定してあったのに、観たのは偶然で、しかも動画の指示通りに睡眠薬を探すことができないほど症状が進んでいるから、何度も動画を観なおした挙句に、やっと睡眠薬を手にして、洗面所でそれを飲もうとしたところに家政婦さんが来て、そのまま何をしようとしていたかを忘れてしまう。
 このエピソードに揺さぶられる感情がどのようなものかは、にわかにはわからない。だが、まず、自分あてのメッセージを見るというシチュエーションに何か胸騒ぎがした。一人の人物が、画面を挟んで向かい合っていることで、その差異がことさらに際立っている。その変化の中で失ったものがあらわになる。
 そして、自らの死を命ずる自分に応えるのが、命じている自分でいながら、もはや同一人物とは言い難いという点。にもかかわらず、動画を見た彼女は、かつての自分の言うことに素直に従おうとする。それが何を意味しているのかは理解できないまま、自分の尊厳死を実行しようとする。その姿は健気で儚く、言ってみれば「無垢」である。観客はその実行に向けて、失敗を繰り返す彼女を応援してしまう。だから最終的にそれが実行されないことに喪失感を覚える。
 だがかつての自分が守ろうとした尊厳とは、本当に自らの尊厳だと言えるのだろうか。それはその時点での自分の尊厳であって、病状の進んだ時点での、自死を決行しようとしている「現在」の自分の尊厳でもあると、本当に言えるのか。
 家政婦の訪問によってその機会が失われた時、とても「残念な」気持ちがしたのは、周到な準備が徒労に終わることと、そうして守りたかったものが守れなかった悔いだが、同時にそうしてもうしばらく生き続ける主人公をいとおしいと思う気持ちも生じているのだ。
 そうして分裂していく自分(のイメージ)を、どう受け入れていくか、同時に家族としてどう受けれていくか、丁寧に追った映画だった。

2018年9月3日月曜日

『君の膵臓を食べたい』-いやおうなく

 アニメ版の公開にあわせて、去年の実写版を放送。原作を読んでいないんだが、映画であれマンガであれ小説であれ、機会があるときに触れておくか、というくらいの動機で。
 さて、どうだったかというと、半ば予想通りの軽さは、アマゾンレビューにあるような低評価の言うところに大いに納得するしかない。確かに浅薄で類型的だ。そのことを言い募れば、こちらも類型的なディスりになってしまう。いかにもの「携帯小説」という、すでにその呼称が差別的だという評がぴったりなのだった。ラノベよりもあきらかに下で、アマゾンでは「感動ポルノ」という絶妙な形容が頻出しているところをみると、それもよく知られた表現なのだろうか。良い得て妙だ。
 確かにお話はご都合主義に過ぎるし、実写映画の主演たちは美少女美少年すぎる。
 にもかかわらず、これが多くの人々の感情をいやおうなく揺さぶってしまうのもよくわかる。「ポルノ」としてよくできているということだ。
 恋人ではない相手との泊まりの旅行というのは、現実に不可能な行為ではないのにほとんどの人々にとって絶望的に起こらないイベントとして、強く感情に訴える。もちろん修学旅行や卒業旅行やその他、グループ旅行の中で、部分的にそれに近い経験はしうるのだろうが、それを増幅させたものとして万人の心に訴えるのだ。
 恋人でない、という条件がミソで、恋人ならばありふれた出来事になってしまうから、これほどの強い訴求力はない。
 このシークエンスを観ながら思い出したのはジブリアニメ『海がきこえる』だ。ほぼ2年前に、十数年ぶりに観直して高評価を新たにしたこの映画でも、恋人ではない高校生の男女が旅行するという展開があり、この描写がまた素晴らしかった。

 さて、そんなに批評的にならずに楽しめばいいということなら楽しかったのだが、いかんせん、難病物として話が進んでいながら唐突に通り魔に遭うってのはどういうわけだ? あの展開は無論予想外だから、それを「衝撃」などと受け止めるのなら、それもまた作品享受の価値としてはそれなりの訴求力を生んだのだろうが、まあすれっからしで理屈っぽい筆者などには到底納得できない。単なる露出、意味もない艶場(ポルノでいうところの)ではないかと思ってしまった。

 そこへいくと柳本光晴の「女の子の死ぬ話」は、若い友人の死をどう受け止めるかを、友人としての視点で描くだけでなく、読者がそれをどう受け止めるかを読者に迫ってくるという意味で、真っ当な「文学」だった。

 映画としては、原作にない12年後の展開を入れたことが評価されているらしいが、これも「ありがち」に過ぎて感心しなかった。もちろんこの物語全体がひたすら「ありがち」な要素の寄せ集めなのだから、単純にそこから生じる効果だけが問題なのだ。
 もちろん、後日談を描くということは、本編を一気に回想の枠組みに閉じ込めて、いやおうなくノスタルジアを発生させる。その意図はわかる。
 だがそこで描かれる「現在」は、あの物語を経由した12年後の主人公の在り方としてバランスが悪すぎると感じた。ああいう自分を受け入れて、それなりの歳のとり方を見せればいいのに、若い時と同じように自分を受け入れられずに机の中に辞表を忍ばせるという描き方をなぜするのか。小栗旬が達者だとしても、脚本と演出の人物造型に納得できない。
 一方の北川景子は物語にとって単に存在価値がない(これももちろん役者のせいではない)。手紙で泣かせる必要があっての登場であることはわかるが、その手紙に心を打たれず。

 本編の方のヒロイン、浜辺美波は「いやおうなく」可愛くてどうしようもない。だが同時に一本調子であざとく感じた。現実感がない。現実感がないほどの可愛さだ。役者が、ということではなく、人物造型が、だ。
 それに比べて北村匠海の主人公は、暗さと不器用さの混じった人物造型が見事で、この人物がこのように描かれていなかったら、この映画の価値はほとんどなくなるだろうと感じた。これが「ゆとりですがなにか」のあの人物と同一人物なのか!? 北村匠海がうまいのか? 演出がここだけは良かったのか? もうちょっと他の作品で見てみないと判断できない。

p.s 既にずいぶん前に彼を絶賛していたのだった!

この1年に観た映画-2017-2018

 ブログ開設後4年となるここ1年に観た映画。

『V/H/S ファイナル・インパクト』-期待しなければいい
『岸辺の旅』-納得できない
『運命じゃない人』-知的な構築物
『IT』-楽しいホラー映画
『オデッセイ』-不足のない娯楽作
『カメラを止めるな!』-生涯ベスト級
『父と暮らせば』-原爆という悲劇の特殊さは描けているか
『フライト・オブ・フェニックス』-嬉しい拾い物
『ソイレント・グリーン』-暗い未来の映画って大好き
『THE BAY』-アカデミー監督による手堅いホラー
『海街Dialy』 『海よりもまだ深く』-盤石の是枝作品
『ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険』-クトゥルフ神話よりジブリパクリ
『ザ・ファイター』-アメリカ人にとっての愛着
『羅生門』-映画としてすごいとドラマとしてすごいは別
『パズラー』-パッケージ詐欺
『水曜日のエミリア』 -うまいと面白いは別
『サイコハウス(The Sitter)』 -特筆すべき点のない
『パシフィック・リム』-ひたすら想定内
『ヒューゴの不思議な発明』-その映画愛に共感できるか
『The Visit』-子供の成長を描くジュブナイル・ホラー
『ファイナル・デッドコースター』-いかに午後ローとはいえ
『ニュースの天才』-そら恐ろしい虚言癖
『ソロモンの偽証』 -人間を描かない監督の作品
『パニック・トレイン』 ー過剰な期待をしなければ
『ニンゲン合格』-これで「合格」と言われても
『フラットライナーズ』-サスペンスとしてもドラマとしても中途半端
『サバイバー』-ミラ・ヨボビッチの面目躍如
『二十四時間の情事』-とりあえず感想保留
『ラスト・ベガス』-お伽噺+アメリカンコメディ
『言の葉の庭』-風景の勁さとドラマの弱さ
『グランド・イリュージョン』-嬉しい娯楽作映
『ルー・ガルー 忌避すべき狼』-何もない
『人狼ゲーム ビーストサイド』-演技の緊張感
『エイプリル・フールズ』-こんな杜撰な設計図で
『スティーブ・ジョブズ』-高度な技の応酬としての口論
『サプライズ』-スモールスケールな『ダイ・ハード』
『スクープ 悪意の不在』-社会派ドラマとしてよりもコンゲームとして
『トレマーズ5 ブラッドライン』ー午後のロードショーにふさわしい
『Oh Lucy!』-苦々なOLの冒険譚
『炎のランナー』-テレビ放送で映画なぞ
『ビロウ』-「潜水艦映画にハズレなし」とはいうものの
『ペイチェック 消された記憶』-アクション映画なのかSF映画なのか
『サンシャイン2057』-ボイルでもこういうのもある
『ピエロがお前を嘲笑う』-もったいない鑑賞
『実験室KR13』-映画力と物語力のアンバランス
『THE WAVE』-不満と期待と
『Unknown』-DVDの再生不良で
『花とアリス殺人事件』-面白さに満足
『チェンジング・レーン』-満足度の極めて高い傑作
『野火』 -ゆっくりと血肉化していけば
『人狼ゲーム -クレイジー・フォックス』-根本的なジレンマ
『少年たちは花火を横から見たかった』-思い出のように
『デッドコースター』-気楽に観られる
『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』-制作者たちの罪は重い

 ここまで55本。間に引っ越しなどというイベントがはさまっているからまあよく観たか。
 下ほど観た時期の古いもので、最初の一本が、劇場で観た、新たにアニメ化された『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』だったというのも、感慨深い。これはこれで怒りのあまり忘れ難い一本なのだ。そのまますぐに原作の岩井俊二版を観て、さらにメイキングまで観直してしまったのだった。
 そしてそれを含む、今年の10本。

『運命じゃない人』-知的な構築物
『IT』-楽しいホラー映画
『オデッセイ』-不足のない娯楽作
『カメラを止めるな!』-生涯ベスト級
『The Visit』-子供の成長を描くジュブナイル・ホラー
『グランド・イリュージョン』-嬉しい娯楽作
『スティーブ・ジョブズ』-高度な技の応酬としての口論
『花とアリス殺人事件』-面白さに満足
『チェンジング・レーン』-満足度の極めて高い傑作
『少年たちは花火を横から見たかった』-思い出のように

 『オデッセイ』『グランド・イリュージョン』『チェンジング・レーン』あたりが入っているのは不本意という気もする。そんなハリウッド娯楽作を入れていていいのか、という。何か個人的なこだわりがあるわけではなく、楽しさの程度の大きさから、映画を観るという体験の上位10本に入れざるを得なかった。
 感情の高まりということでは『スティーブ・ジョブズ』と『The Visit』が強く、満足度としては『運命じゃない人』が高い。
 だが、体験としての強さにおいてここ1年の最高の映画は『カメラを止めるな』だった。

 『宮本から君へ』と『anone』と、忘れ難いドラマもあった。
 『宮本から君へ』は、原作に忠実でいてしかもテレビドラマとして十分に面白いドラマ化を実現している演出力と、池松壮亮の演技の密度に脱帽。四半世紀以上前の、しかも(当時の)現代劇が、そのままドラマになってしまって、しかも科白もキャラクター造型も原作そのままなのに、充分観られる。
 『anone』は坂元裕二の脚本がいいのはもちろんだが、広瀬すずが健気な主人公を演じきったのが見事だった。田中裕子や瑛太がうまいのは今更驚くことでもなく。そして阿部サダオと小林聡美のカップルが、可笑しさと切なさを大盛にして、このドラマを忘れ難いものにしたと思う。

 来年5周年になったら、それを総じてのベストを選び直してみようか。
 1年目 2年目 3年目

2018年8月27日月曜日

『V/H/S ファイナル・インパクト』-期待しなければいい

 ファウンド・フッテージ物ということで以前からネット上で知っていたのだが、レンタル屋で見つけて。残念なことにシリーズ3作目しかなくて、しかも後からネットで評判を確認すると、1,2に比べてすこぶる評判が悪い。
 短編オムニバスの、基本はPOV。
 確かに、それぞれ特別な面白さではなかったが、こういうのはまあそういう期待度に見合っているともいえるのだった。そして「世にも奇妙な物語」あたりよりは確実に質が高い。
 だからといって、とりたてて考えたり書き残したりしたいということでもないのだが。
 いや、悪くない。1,2作を見かけたら観てみようと思うくらいには。

2018年8月17日金曜日

『岸辺の旅』-納得できない

 書店で黒沢清と蓮實重彦の、この映画についての対談を立読みして、録画したまま手のつかずにいたのを観る気になった。
 死んだ夫が、ほとんど生身の人間と同じような形態で現れて、3年間、行方不明の夫の帰りを待っていた妻とともに旅に出るのだという話の骨格は知っていた。「岸辺」が現世と死者の国の境界を意味していることも見当がつく。何か、じわじわと「成仏」的な救済が感じられるような物語なんだろうという期待をしていた。
 確かにそうだった。それは間違いではない。
 だが蓮實が触れる浅野忠信のコートの色や女優が床に座るシーンなどは、どうにも何の感動も呼び起こさないのだった。
 いくらか共感できるのは、深津絵里が道路の反対側に走っていって、残された浅野忠信が妙に遠くに感じられるショットになって音が止まるシーンの印象的であることと、蒼井優がすごいということくらいか。
 もう一つ、観ながらアッと思ったカットがあって、終わってからもう一度本屋に行って対談の続きを読んでいたら、そのことに触れていたのは興味深かった。鳥の影が地面を横切るのが画面に映り込んでいて、これは偶然か狙いかと蓮實が聞くと、黒沢が、よく気がつきましたと返しそれは偶然だと答え、さらに別なシーンではCGで書き込んでいるのだというのだ。鳥の影は死者の国からの使者のような象徴性を帯びているということなのだろうが、そういった物語的な因果律の納得よりも、映画に紛れ込んだ「異物」としての驚きがあったのだ。

 いくつかの場面に感興を覚えつつも、結局、その評価については、物語的にも映画的にも、あれこれ納得はできないのだった。
 そう、まず物語的になんだか納得できない。物語は、旅の途中で別の死者たちと関わり、彼らを「成仏」させたあとで主人公も成仏するというのが端的な要約なのだが、たとえば最初にかかわる死者であるところの小松政夫が成仏するきっかけとなるのがなんなのか、わからない。生前のDVを告白したことか。観客的にはそれはその時に知らされた情報だろうが、それは死者にとっては繰り返し訪れていた悔いであるはずである。そもそもその悔いが死者をこの世に留まらせていたのだという理屈もよくわからない。妻へのDVへの悔いが?

 そして映画的にこれが優れた作品であるという評価にも、にわかに納得しがたいものがある。風に揺れるカーテンとか急に暗くなる画面とか、いつもの黒沢演出は、まあ悪くない。花の写真の切り抜きが壁一面を埋めているのが、徐々に照明を当てられて観客に見えてくるシーンは、さすがに映画的な感銘を受けた。
 だが、蓮實との対談でも触れていた、あえて死者が消える場面を唐突に見せるカットのつなぎ方は、正直、違和感しか覚えなかった。単に素人臭いという感じだった。といってCGで消えていく様子を描いてほしいというわけではない。そして、その場面を描かずに、時間をとばして、後の展開につなげるのは逃げかもしれない。
 それでも、消えていく死者の肩を抱く浅野忠信が、次のカットで宙を抱くように手を伸ばしているという演出は、ほとんどふざけているのかというようなつなぎかただった。死者が消えた後の手の伸ばし方が不自然に真っ直ぐ過ぎるところなぞも、あまりに芝居が素人すぎる(そもそもが浅野忠信という役者は常に素人臭いんだかなんだかわからない芝居をする役者ではあるが)。
 その死者が消えるまでのシークエンスは、画面に映る山中に流れる霧があまりにあからさまにチャチいCGであることにまずびっくりしていると、そのままチャチな学芸会のような芝居が続くのにもびっくりしてしまう。まるで仲間うちで作りましたというような低予算映画的な手触りなのだ。これはいったい何の効果を狙った演出なのだろうか。腑に落ちず、感銘を受けるということもない、わけのわからない場面だった。
 蓮實重彦がどういうわけでこの映画を評価しているのかが、結局わからず、もやもや。ついでにくだんの同書に収められている阿部和重の「岸辺の旅」論は、まったくよく考えられたものだというような論理で、完全に「トンデモ」に感じられた。

2018年8月16日木曜日

『運命じゃない人』-知的な構築物

 『カメラを止めるな』的な映画を、ということで『鍵泥棒のメソッド』の内田けんじの未視聴のデビュー作を。
 TSUTAYAなどにはたぶん置いていなくて(時間をかけて探したわけではないが)、YouTubeにアップされていた、何語だかわからない(少なくとも英語や中国語や韓国語ではない)字幕の入った動画で。
 3作目『鍵泥棒』と2作目『アフタースクール』の素晴らしさからは、どうしたって期待してしまう。こういう期待は無論危険なのだが、結局のところ、見事に期待に応える出来だった。素晴らしい。

 映画の中の場面は、年号や月日、あるいは前の場面に対する時間軸上の関係(「一か月前」とか)が示されないことには、それがいつのことなのかわからない。だから物語に緊迫したリズムを作るためには観客の中の時間経過の感覚を適切にコントロールする必要があるのだろうし、下手な映画は、前の場面に続く次の場面が、どれくらいの時間経過のあるつながりなのかを観客に誤解なく伝えていないことがある。
 つまり、画面に映された場面は、基本的には時間順なのだろうという前提で観客は観るしかないのである。
 この映画はこの前提を逆手にとって、場面が時間順に観客に示されるわけではないことを伏せて、「その時」がきたら、ああ、あの場面には裏にこういう展開があったのか! という驚きを演出するのだ。
 物語は、大きく三つの層で語られる。
 第一部は不器用な主人公の不器用な恋物語のようなものとして、それなりのほのぼのとした味わいを感じさせる。そしてそれはある意味では完結した物語として観られるように作られている。
 第二部は日を改めて、いわば「後日譚」が描かれているのだろうと、観客は上の「お約束」によって見ている。その観客の前に、突然見覚えのある場面が現れて、実は時間的にはこちらの方が過去のことだったのだと知らされる。物語が進むにつれ、いくつもの驚きが観客にもたらされる。そして、第一部のほのぼのとした味わいとは違って、こちらはハラハラしたサスペンスが感じられるように作られている(決して深刻なものではなく、ユーモラスではあるが)。
 ともあれ、この中盤の物語も、一応の完結(解決)をみて、すでに観客の満足度は高い。
 ところが驚いたことに、さらにここにもう一つの物語が重なってくる。やはり物語がある程度進んでいくうちに、見覚えのある場面やセリフが登場するに及んで、観客は、またか! という驚きの連続にさらされる。しかもこの3層目のドラマ性がまた高いのも見事だ。
 そして、すべての物語が終わって、いったん、エンドロールが流れ始めて、なんとそれが巻き戻る。結末にはもういちど、ささやかだが幸福などんでん返しがあるのである。

 知的な構築物を堪能した。

2018年8月10日金曜日

『IT』-楽しいホラー映画

 90年のテレビ映画は、放送でもビデオレンタルでも見ていて、忘れ難い物語の一つである。3時間という長さのせいもあるし、それ以来、娘の「ピエロ恐い」という発言によって我が家ではたびたび思い出されるせいもあるし。
 夏休みのホラー映画特集のリバイバル上映で、見逃していた2017劇場版がかかるというので、前作の影響を受けていない末の娘と劇場鑑賞。
 冒頭のシークエンス、テレビやネットで何度か目にした、主人公の弟が襲われるシーンで、あれっと思う。恐怖のピエロ、ペニーワイズが牙を剥き出しにするのは構わないが、そのまま幼児の腕が噛み千切られるという描写に違和感を覚える。こういう物理的な害を及ぼすって設定なのか、この映画は?(だがこれは原作にも描かれている描写なのだそうな!)
 その後も次々と恐怖の犠牲者は出るが、それらは、ちょっとやり過ぎじゃないかというようなベタな怖がらせ方で観客の神経に訴えるような場面は多い。たとえば単に迫ってくる、逃げても追いかけてくるという演出や、ゾンビ風メイクの「お化け」というのはちょっと安っぽいんじゃないの? と思っていたが、そういえばあれは子供の側の「怖い」という受け取り方に合わせた現れ方をするのだから「ベタな」のは当然なのだった。だからこそ、物理的な害をなすというようなことはないはずなのだが、あれっ? じゃあさっきの弟のは?
 好意的に解釈するのなら、弟は単なる事故死であって、「弟の死」こそが兄である主人公の恐怖であるのだから、それが兄にとって怖いと感じられる形で描写されているのだ、という解釈もできないわけではないのだが、まあその場面を兄が見ているわけではなく、観客がいわばその代わりにそれをその形で見ているってことか?
 "IT"の活動期間が27年周期だとか、地図を重ねてみると事件の場所の共通点がわかるとか、怖がらなければ何も害を及ぼさないとか、なんとなくホラー的「傾向と対策」がありそうなのだが、オカルト設定がどこまで統一的に定められているのかはどうもわからなかった。
 それにしても、恐怖の対象(つまり克服すべき対象)が、高い割合でつまるところ親の支配だというのはアメリカ的だ。とすれば来年公開だという大人編では「成功」からの転落が恐怖ということなのだろうか。それではペニーワイズの出番は?
 ともあれホラー映画としては、劇場で観たせいもあってとにかく音が怖いということもあるが、充分にその恐怖を楽しめた。
 だがそれより、駄目少年グループががんばる話としてのジュブナイル的側面の方が大きな印象を与える映画だった。そうした場面ではユーモアもたっぷりで、しばしば声をあげて笑ってしまったりもしたのだった。
 そうなると来年公開されるという大人編には何が残っているんだろうか。期待はできないが見届けずにはいられない。

2018年8月8日水曜日

『オデッセイ』-不足のない娯楽作

 嵐に見舞われた火星探索隊が火星を緊急脱出する際に事故に遭って死亡したと思われて一人だけ火星に置き去りにされた主人公が火星で生き延びて救出されるまでの2年近い日々を描く。
 食糧の確保、脱出計画と、具体的な方策を試行錯誤して生き延びる様子はもちろん見ていて興味深い。だが、その成功と失敗を分ける変数がどれくらいなのかがわからないから、実際のところそれがどれほど大変なのかはわからない。たぶんありえないほどうまく行き過ぎている(そしてたぶん丁度良く、死なない程度に主人公に試練を与えている)んだろうと思う。
 それよりも映画の魅力は主人公の前向きな人物造型だ。困難な状況に絶望することなく現実な解決策を探っていくというだけではなく、ユーモアを忘れない。ここには、サバイバルの業務と並行して日課として映像で自分を記録するという設定が生きている。原作でもそうなのだろうか。映画では実際にマット・デイモンがカメラに向かって喋るし、それをボーン・シリーズの平田広明の二枚目声ではなく、神奈延年の軽い声で吹き替えているのが、能天気なキャラクターを造型していて良かった。
 もう一つは並行して描かれる地上の救出作戦だ。地球に帰還中の火星探査チームとともに、主人公とどうやって通信し、どうやって救出するか、地上チーム内でのぶつかり合いや駆け引き、そして協力が描かれる群像劇が、物語に厚みを与えている。
 設定に対して過不足ない起伏をつけた、巧みなストーリーテリングに人物描写で、最後に救出作戦が成功するカタルシスまで、間然するところのない娯楽作といっていい。
 だが、そう感じさせるほどの丁度良い負荷も含めて、何か観る者を揺り動かすほどの痛みを与えることもない、まさに「娯楽作」ではあるのだった。

2018年8月4日土曜日

『カメラを止めるな!』-生涯ベスト級

 とにかく映画館で映画を観ようという機会があって上映中の映画を調べてみると、最近評判になっているこれが丁度上映しているのだった。そうして、拾い物、というくらいの期待はしてもよかろうと思って行ったのだが、思いがけず、生涯ベスト級の映画を観てしまった。
 ゾンビ映画を撮影していると本物のゾンビが現れ…という設定と、長回しがすごいということと、シーンの意味が後で変わるということと、ラストには多幸感が得られるということと、低予算映画であることのみが事前情報。
 長回しと言えばアルフォンソ・キュアロンの『トゥモロー・ワールド』がすごかったが、あれでも6分ほどだそうで、それに比べてこちらは37分というから桁違い。それに、キュアロンのはCG合成を駆使しての6分で、実際に演者とカメラがその時間に撮影を続けているわけではない。そういえば『LA LA LAND』の冒頭ハイウェイも、ものすごい長回しに見えるシークエンスだが、あれももちろん合成だろ。
 だからこそ空間の設計が見事に組み立てられて、そこを自在に移動する視線が映画的な(ゲーム的? ジェットコースター的?)な快楽をつくりあげていた。撮影には当然レールもクレーンも使っているんだろう。
 一方の本作では、合成なしに本当に37分をワンカットで撮り切っている。しかもすべて手持ちカメラだ。画面は揺れるし、オートの絞りはすぐに切り替わらないから屋内と屋外で場面が連続する時には画面が明るすぎたり暗すぎたりする。低予算映画らしい画面のチャチさから、合成であるという可能性を感じさせないが、そもそも本当にそうだと宣伝しているのだから信じない理由はない。『トゥモロー・ワールド』や『LA LA LAND』のように、そもそも通常の手作業では撮影不可能と感じられるような圧倒的な映像技術で観る者を圧倒する、というような意図が感じられる、ある意味で押しつけがましい長回しではなく、本当に仲間が創意工夫でやりきったというような、熱気と高揚感に溢れる手作業の長回しなのだ。
 だがこの映画の価値はここではない。いや、これだけではない、というべきだろう。この37分だって、随分と楽しい。だがここまでには、そこここに「うまくない」と感じられる部分はある。だがそれが伏線として、あえて演出されたものであることが後半にわかる。ここからはもう本当に脚本の見事さに脱帽するしかない。
 まず、この冒頭の長回しの終わりに、エンドロールが流れるのを見て、あれ? っとなる。事前情報からは「ゾンビ映画を撮っている映画クルーたちが本物のゾンビに襲われる」という物語なのだと思っていたから、いくつもあるカットの中で、冒頭のカットがとりわけ長い、ということなのかと思っているとそうではなく、これは物語内物語の入れ子構造になっているのだった。事前情報の映画紹介は、この冒頭のワンカットについてのみの紹介なのだった。
 画面のトーンが変わって、そこからの物語がいわば「映画」になる。映画愛溢れる…と評される本作だから、最初のワンカットこそが自主映画もどきの低予算映画(しかも映画作りをする物語という設定がますます自主映画っぽい)なのだと思っていたが、そうではないのだ。そこまでは、物語内の設定としても映画ではなくテレビ番組だし、大げさな芝居もリアルタイムで物語が進行する感触も、言ってみれば舞台劇的でもある。
 だがそのシークエンスが終わってからが本当に「映画」なのだった。それも「新人監督による低予算映画」らしからぬ見事なまでにこなれた商業「映画」なのだった。低予算映画だというのは事実だというのに。
 そうした安定した手触りにのせて、なんともはや、思い出しても溜息の出るような見事な脚本による物語が展開する。小ネタから大ネタまで、さまざまな伏線が次々と回収される快感とともに、はずさない手堅い笑いや、親子の絆の確認などといったベタなくすぐりとともに最後には、頑張る人たちが何事かを成し遂げる、というまっとうすぎる物語のカタルシスをたっぷりと味わうことができる。
 しかも多くの登場人物の群像劇として、それぞれがそれぞれの物語において、それをやるのだ。
 しかもそれらはすべて、いわゆる「無名の」俳優たちによって演じられている。本当の映画のエンドロールで、俳優の名前が役名と似ているのに気づいて、あれ、と思ったが、後から調べてみると、すべて当て書きなのだそうだ。ということはつまり、もはやこの映画の作られ方自体が、映画内物語の外側に、さらに入れ子になってこの物語そのものだということではないか。
 日本映画としては『12人の優しい日本人』『キサラギ』『鍵泥棒のメソッド』に続く、最高レベルのエンターテイメント映画である。

2018年7月29日日曜日

『父と暮らせば』-原爆という悲劇の特殊さは描けているか

 縁があって舞台を観てきた。役者も含めて素人の劇団なのだが、演目は井上ひさしの「父と暮らせば」だから、観て損はなかろうというくらいの期待度だったのだが、舞台美術やら役者二人の演技などは文句なくよくできていた。
 そしてもちろん感動的でもあったのだが、もやもやとした腑に落ちなさがあった。これは脚本の問題だ。

 さてこの物語については映画で観ている。もう10年以上前のことだから、どの程度舞台と同じなのかは忘れていた。
 原爆で生き残った娘のもとに、死んだ父親の幽霊が現れて、娘のその後の人生を励ます。覚えている物語の骨格が昼間の舞台でも同じだったことは確かだ。
 そこで、観劇の帰りにTSUTAYAに寄って映画のDVDを借りて観る。
 さて、どうなのかというと、まったく舞台劇の脚本そのままなのだった。
 画面が舞台っぽいとは思っていたが、基本はそのまま舞台劇として上演できるような美術セットの中で原田芳雄と宮沢りえが演ずる芝居は、昼間見た舞台そのままだ。話の中にだけ登場する「木下さん」を浅野忠信に演じさせているのと、原爆投下後の場面や焼け野原などはCGで描いて挿入するというところが映画的工夫ではある。
 あるいは例えば舞台劇では役者が無意味に客席の方を向いて喋る。それがお約束だからと無視してもいいのだが、なぜそれを相手の方を向いて喋らないのかというつっこみもありうるだろう。それが映画ではそんな風に描かなくてもいい。カメラを切り替えて編集すればいい。あくまで舞台でも上演できそうな芝居ではあるが、そこは映画用にアレンジされているのだった。
 だからといって、浅野にしてもCGにしても映像の編集にしても、役者の演技や脚本という要素に比べてまるで問題にならない。だからまるで同じ「物語」に思えるのだった。
 宮沢りえも原田芳雄も(一部で批判されている広島弁については関東人としては判断できないので)もちろん見事な仕事をしている。が、昼間の素人役者二人もまた、同じようにその二人を見事に体現していたのだった。

 そのうえでいずれにせよ感動的な物語であることは間違いないのだが、上記の通り、どうにも文句のつけようのない物語と感じにくいのはなぜか。
 途中までが笑えるというほど楽しい展開でもなく、感動的なポイントであるはずの2点、原爆で死んだ友人の母親に「どうしてうちの娘ではなくあんたが生きているのだ」と問われたというエピソードを語る場面と、本当に申し訳ないと思っているのは父親を見捨てて逃げたことだと語る場面に、感動しつつも納得のいかない思いも抱く。
 父親は、娘の贖罪意識を「病気」だと表現する。生き残ったことが申し訳なくて、前向きに生きていけないというのだが、これが「病気」と表現されていることからみても、それが異常であることが物語の中では充分自覚されている。そうした異常な心理が生じてしまうことが、原爆の悲劇の異常さを表してもいるのだが、残念なことには、だからこそ、共感もできない。参った。この異常な心理に共感できなくては物語の最も重要なメッセージを受け取れないではないか。
 これはこの物語の決定的な弱点だと思うのだが、それでも感動的なことで押し切ってしまって、結局「名作」ということになってしまう。
 悲劇は忘れてはいけない。それは確かだ。それを思い出させる機会になることはこの物語の大いなる価値ではある。だが悲劇は交通事故であれ何であれいつも存在するし、戦争に限っても現在も続いている。その中で原爆が特権的な悲劇でありうるのは、その規模だけなのだろうか。

2018年7月27日金曜日

『フライト・オブ・フェニックス』-嬉しい拾い物

 砂漠に不時着した飛行機の、無事な機体部分から一回り小さな飛行機を作り直して砂漠を脱出するというトンデモな設定が気になって観始める。
 事前に情報を得なかったのだが、後から調べると有名な映画のリメイクだそうだし、主演はデニス・クエイドだし、これはそれほどB級なわけでもないのだった。
 それでも最初の嵐のCGは若干チャチだったのだが、演出的には十分に見られるレベル、というか相当に緊迫感のある不時着の描き方にドキドキさせられた。
 その後の人間ドラマも、サスペンスを構成する危機も(その回数も)申し分のない描き込みで、最後に砂漠を脱出した時のカタルシスは十分に満足できた。
 B級なのかという予想もあるなかで、こうした映画を観られた幸運は嬉しい。嬉しい拾い物。
 まあ、設計はともかく、溶接はどうしたんだよ、とかいう突っ込みは無粋か?

 重要な登場人物に、ずいぶんと癖のある役者をあてているなあと思っていたら、彼は『パーフェクト・ストレンジャー』でも印象深いジョヴァンニ・リビシなのか!

2018年7月26日木曜日

『ソイレント・グリーン』-暗い未来の映画って大好き

 坂本真綾の「ピース」の冒頭の歌詞「暗い未来の映画って大好き」は多くの人にとって『ブレイド・ランナー』をイメージさせるんだろうが、我々の世代にとっては『ソイレント・グリーン』なのだろうと信じている。繰り返し再放送されたから、ビデオのない時代に、複数回見た記憶があり、かついくつかの場面はかなり印象的だった。小学生の時に、原作小説を探して読んだことさえある。映画に比べて単調で面白くなかったような気がするが、今読めば違う味わいを感じられるんだろうか。
 70年代の「暗い未来」観は、こういう風にエネルギー不足に自然の破壊、人口増加が重なって住環境が悪化している都市のイメージだった。
 食糧難から、実は人々が食べているビスケットのような食べ物は人間の死骸から作られていたのだったという結末は、初見でこそ衝撃もあったのかもしれないが、その後はすっかり陳腐化した。カロリーメイトが発売された時に『ソイレント・グリーン』を思い出したのは筆者だけではなかったんじゃなかろうか。もちろんソイレント・グリーンが既に宇宙食などのイメージから発想されているんだろうし、カロリーメイトもまたそうした宇宙食から発想されているんだろうから、子供心に怪しいイメージを抱いたわけではないのだが、その食物としての貧しさにやはり共通した印象があるのも当然なのだろう。

 さて、数十年ぶりに見直すと、そもそも主演がチャールトン・ヘストンで、これも我々の未来観に大いなる影響を及ぼした『猿の惑星』の主演男優と同じ人だなどということは子供には意識されていなかったから、改めて感慨深く思われる。
 だがやっぱり印象的ないくつかの場面はそのままあるのだった。
 主人公が手に入れた自然の食材で同居人とささやかな晩餐を開くシーンは、カロリーメイト的な栄養補給とは違った食事の喜びを見事に感じさせた。
 主人公の同居人が希望者を安楽死させる施設の中で観る、かつての自然環境を映す映像とバックに流れるベートーベン「田園」は自然の風景やら音楽やらが人間にとって価値あるものであることを記号としてではなく、実感として感じさせた。
 それから、子供の頃にはわからなかった面白さもある。
 「家具」とか「本」とか名付けられた職業というか階級というか身分というか、そのような人権の設定がされている。そうすると「起重機」とか「望遠鏡」とかいう身分もあるんだろうか。人権のありかたが社会によって違うなどという相対的な見方は子供にはできなかった。
 それから、暴動の鎮圧のために駆り出される重機が、単なるショベルカーだったり、安楽死させた死骸を回収して加工工場へ運搬する車が、単なるごみ収集車だったりするのは、人間をモノとして扱っていることをストレートに表しているのだった。もちろん出来合いの車を使った方が撮影に金がかからない便宜のためだとしても。
 映画の中の時間は2022年だが、実際にはこんな風に地球環境は悪化しなかったし、子供の頃は圧倒的だと思われた最後の風景動画も、今の目から見るとありふれた環境ビデオほどの美しさもない。
 それでもこの映画の描いている「未来」は、間違いなく我々世代の原風景として世界観の一部を形作っている。

2018年7月22日日曜日

『THE BAY』-アカデミー監督による手堅いホラー

 ファウンド・フッテージ物のホラーやサスペンスの映画を調べていると、いくつかのサイトで名前が挙がっているので、観てみようと。
 アメリカの地方の港町で謎の住民の大量死亡事故があって、それを記録したビデオの断片が見つかって(ファウンド)…。
 原因が化学物質なのか、放射能なのか、ウィルスなのか微生物なのかと次々と可能性を示しておいて、結局ここに落とすのか! という意外性のある結末ではあるが、それはまあどれでも良かったのだろう。実際どれでもいい。
 映画全体の味わいは、ほとんどゾンビ映画である。
 些細な兆候からカタストロフまで、日常が徐々に壊れていく様子を、断片の荒っぽい編集で(フッテージ=未編集)で見せるが、編集していないというより、もちろん絶妙な編集というべきだ。いくつかの系列が並行して描かれながら、そこに祭に賑わう街の様子が断片的に挟まれる。この雑然とした編集がどうにも日常と非日常をシャッフルした感じで良い。こういうのがファウンド・フッテージ物・POV物の楽しさだ。
 設定だけして、そこで起こりそうな恐怖のシチュエーションを充分に並べて、それぞれを高いレベルで見せる。
 贅沢を言えばそこに起こる人間ドラマに何か深いものが欲しいと言えばいえるが、まあ贅沢だな。B級ホラーを観るつもりならば充分な拾い物。
 だというのに、これが『レインマン』のバリー・レビンソン監督だって! 同姓同名別人ではなく! どういうわけでアカデミー監督がこんな低予算のホラーなんぞ!
 でもまあそれゆえの手堅さではあるのだな。

2018年7月8日日曜日

『海街Dialy』 『海よりもまだ深く』-盤石の是枝作品

 『三度目の殺人』も『万引家族』も見ていないが、その前の二作を観ていなかった是枝裕和映画を二本まとめて。珍しく、一日で二本観てしまった。

 『海街Dialy』は主演の4姉妹に、それぞれ主役級のきれいどころを揃えたメジャー感が前面に出て、なんとも画面が華やかなのだが、これが驚くほどストーリーの起伏に乏しい、「淡々と」系の物語なのだった。
 もちろんうまい。個々のキャラクターにまつわるドラマがそれぞれ堅実に描かれていて、4姉妹がさまざまな映画賞でそれぞれ受賞するという恐るべき結果を残したのもうなずける。
 そのうえで、何かすごい感動を味わったというようなこともなく、あっさりと終わった印象でもあった。広瀬すずが自転車で駆け抜ける並木道の木漏れ日はやはり美しかったが。

 一方『海よりもまだ深く』は、観始めてすぐ、主人公が阿部寛でその母親に樹木希林とくれば『歩いても 歩いても』じゃないかと気づく。主人公は例によって「りょうた」である。
 『そして父になる』は主人公が「りょうた」であるという点で「この系列」に属しているのだろうか。やはり「りょうた」といえば『ゴーイング・マイホーム』以来の阿部寛である。ちょっと情けないところが「りょうた」なのである。福山雅治はやはりどうにもイメージがずれる。
 さて本作だが、「この系列」としては、結局『歩いても』ほどの強さはなかったが、もちろんうまい。隅々までうまい。ちゃんと「人間」を描いている、と感ずる。
 そして、『海街Dialy』に比べて、台風の訪れによる家族の(一時的な)再生というドラマが、一応の山場として感じられるようには、プロットができている。『歩いても』のような再生ではなく、結局情けないままの主人公の苦さは、それもそれ、現実の手触りとしてはアリだろう。
 
 いずれも、期待が是枝作品という前提で設定されているから、まあ裏切らなかったものの、優に超えるというものでもない。

 ふと気づくと、『海よりもまだ深く』で、蒔田彩珠が小林聡美の娘役で出ている! この関係は『anone』じゃないか!
 蒔田彩珠は『ゴーイング・マイホーム』の阿部寛の娘役で、えらく演技の上手い子役がいるもんだと感心したことがあり、あれがそもそもの是枝作品初体験だったのだった。
 それにしても、今日の映画に比べても『ゴーイング・マイホーム』や『anone』の方がはるかに強い印象を与えてくれるのは、テレビドラマという長尺の枠が、観る者に物語を「生きさせる」からだろう。

2018年7月2日月曜日

『ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険』-クトゥルフ神話よりジブリパクリ

 岡田斗司夫が「まるでクトゥルフ神話だ」と言っていたのを聞いて、観てみる気に。声優陣が交代してからの「ドラえもん」は、テレビにしろ劇場版にしろ、通して観た作品は初めて。
 だがどうにも駄目だった。そもそもがラブクラフトに何の思い入れもないし、クトゥルフ神話の元ネタも知らないしで、そこで楽しめるということなしに観るしかないのだが、かつての劇場版(いわゆる「大長編ドラえもん」)がどれも子供向けにしては驚くべき完成度だったのに比べて、まるで子供だましにしか感じられなかった。
 クトゥルフ神話はともかく、一応はタイムトラベルをからめた伏線を張っておいて回収するという、「大長編」の骨格を備えているのだが、それがSF心をくすぐるようなしかけにちっともなっていないのはどういうわけだか、分析するほど真面目に観ていないのだが、ともかくもがっかり。
 ゲストのヒロインとの感情的な交流もそれほどないし、レギュラーメンバーの胸躍る活躍もない。
 どう楽しめばいいかわからないのは大人だからだと言えばそれまでだが、旧シリーズを観たのだって大人になってからだったことを思えば、作り手の怠慢だと思うのだが。

 それにしてもクトゥルフ神話は隠す気もないのだろうが、ジブリ過ぎるのはどうなのか。異星人の巨大兵器(?)「ブリザーガ」はまるで『ナウシカ』の巨神兵であり『ラピュタ』のロボット兵であり『もののけ姫』のシシ神様の変身したダイダラボッチだったが、こちらはリスペクトですと言い張るほどあからさまでないぶん、中途半端なパクリ感、偽物感が半端でない。

2018年6月30日土曜日

『ザ・ファイター』-アメリカ人にとっての愛着

 クリスチャン・ベイルの役作りのことが最初から喧伝されているが、主役はマーク・ウォールバーグなのだった。マーク・ウォールバーグだって役作りについては定評があるだろうに、やっぱりこの映画については役そのものがそれほど特徴的ではないから、アカデミー賞はクリスチャン・ベイルの助演にもっていかれたのもむべなるかな。
 貧しい地域出身のボクサーの実話に基づいているというのだが、それにしてもアカデミー作品賞にもノミネートなのか。ここはアメリカの映画祭であることの特徴かもしれない。悪い映画ではないが、出色の出来というわけでもないと思うのだが。
 移民のルーツを濃厚に残している地域や家族の成功譚というのがアメリカ国民にとってどういうものなのか、こういう作品への評価からうかがえる。『リトルダンサー』もそうだったが、ボクシング映画ということでは、どうしても『ロッキー』を連想してしまうのもいわれのないことではない。

2018年6月22日金曜日

『羅生門』-映画としてすごいとドラマとしてすごいは別

 黒澤明でもとりわけ有名なこの『羅生門』が、明らかに芥川を思い起こさせる「羅生門」を題名に掲げながら、内容が「藪の中」だということは知っていたが、なるほど、豪雨の中の荒廃した羅生門は、それだけで画になる。そこにたまたま雨宿りすることになった男たちが、ある事件の話を始める。こうした舞台設定がなければ、ある事件の関係者の話を次々に聞くという「藪の中」の話の展開を映像化することは難しかったかもしれない。
 それに「藪の中」を翻訳してしまうよりは「羅生門」そのまま「Rashomon」の方が映像のインパクトとともに外国人の印象には残りやすいだろうから、ヴェネチア映画祭グランプリ受賞につながる結果的に成功だったんだろう。
 だがしかし当の「羅生門」がまるで物語にかかわらないというこの、前回の『SAW』詐欺のようなことになってしまうことについて、どう納得すればいいのか。
 にもかかわらず、映画の『羅生門』のWikipediaの紹介を見ると「人間のエゴイズムを鋭く追及した。」だそうだから、図らずも「羅生門」になってしまっている。もちろん小説の「羅生門」がエゴイズムなど描いていないのは間違いないが、なるほど「藪の中」ならエゴイズムと言えないこともない。
 芥川の「藪の中」そのものの評価については、筆者には柄谷行人の評の影響が抜きがたく、どうもシニカルになってしまう。もちろん画面構成などは映画的魅力に満ち溢れているし、心理描写もうまいには違いないのだが、なにかすごい人間ドラマを見せられたという気がしない。登場人物がそれぞれに芝居がかり過ぎていてどうも乗れない。
 その挙げ句に最後にとってつけたような救いを見せるのが「とってつけたような」と感じられてしまうところが、やはりドラマとして成功しているとは言い難いと思うのだが。

2018年6月15日金曜日

『パズラー』-パッケージ詐欺

 『SAW』そっくりのDVDパッケージデザインに、内容もそれらしい紹介がされているが、観始めるといきなり画面が4:3で、しかもあきらかに古めかしいので驚く。テレビ映画なのだ。しかも英語でもない。
 強盗団が仲間割れした末に殺し合った現場に遭遇してしまった主人公たちが、強盗団の黒幕に命を狙われるというのだから、これもまた一種のソリッド・シチュエーション・スリラーなのか? いやまて、そんなことを言っていたらソリッドなシチュエーションでないスリラーやサスペンス映画はなくなってしまう。これもまあ発売時期が『SAW』のヒットと被っていただけのことか。
 テレビ映画の2時間ものと思えば、ものすごく悪いとは言わないがさりとて面白いとは言い難く、もちろんSSS趣味を満たすものではない。
 パッケージ詐欺だなどと今更非難するほど、予想してなかったわけはないが。

2018年5月26日土曜日

『水曜日のエミリア』 -うまいと面白いは別

 ナタリー・ポートマン演じる弁護士が略奪愛によって事務所の先輩弁護士の後妻に収まるところから、継子とともに新しい家族を作り上げられるのかが問われる。
 映画に安っぽいところはない。こうした人間関係を描くドラマとしては、エピソードの置き方にしろ人物の描き方にしろ、充分にうまい、といっていい。
 継子との間に生まれる連帯や父親との和解、乳児を死なせてしまったという罪悪感から救われる過程や、その際に元妻が見せる誠実さとか、物語的カタルシスを感ずる展開はある。
 それでも結局面白かったかと言えばそうではない。結婚生活は結局破綻する。上手くいかない現実の苦さを誠実に描いているのはわかるが、観客としては、基本的にはうまくいくことを描いてほしい。
 うまくいかないことのやむを得なさをぎりぎりで描くことに、観る者ともども巻き込まれてしまうような映画体験なら、それもまた良いのかもしれない。
 だが、いかに本当らしく描かれていても、まあそういうふうにうまくいかないことはあるだろうという、いわばアッサリと思わざるをえない感じはなんだか残念なのだ。

 ところで、子役のチャーリー・ターハンは、『ウェイワード・パインズ』で中学生くらいになって主要登場人物として、なんだか妙に好感の持てる役者になっていた。

2018年5月23日水曜日

『サイコハウス(The Sitter)』 -特筆すべき点のない

 子守り(The Sitter)のために雇った若い女性が、その家の主人に対するストーカーだったという、まったくそれだけの話。
 家庭内における、常軌を逸した人の恐怖といえば『ルームメイト』とか、最近では『The Visit』だが、もちろん比ぶべくもない。
 無論それほどの期待をしたわけではないが、こういう、まったく予備知識のない、しかも放送枠的に基本的にB級だろう作品に、思いがけない拾い物があることを期待しても、まあほとんどかなえられないことはわかっていたのだが。
 もちろん問題は脚本だ。あまりのひねりのなさが残念ではある。やはりもっと工夫を凝らしてほしいと素朴に思う。
 といって時折お目にかかる、腹立たしいほどのひどい作品などではない。こういう、明らかに低予算のB級映画でさえ、例えば『ソロモンの偽証』くらいのグレードの邦画よりも、はるかに「まとも」にできているのだった。出演者の演技も、演出も。
 どこかしらの配給会社が買うだけのレベルではあるということなのか、米映画の地力なのか。

2018年5月12日土曜日

『パシフィック・リム』-ひたすら想定内

 新作公開と、『シェープ・オブ・ウォーター』のアカデミー作品賞受賞に乗せてテレビ放送。実は初めて観る。
 さすがに映像は手間のかかり方といいイマジネーションといい、すごかったのだが、それはまあ最初からそこを期待している以上、想定内で、しかも物語がまた想定内なのだった。想定内であることすら既に想定内なのだ。それはもう、最初からベタな怪獣映画、巨大ロボット映画をやりたいのだからそうに違いないのだが、やっぱりなあ、という感じ。
 そこらじゅうが観たことのあるいろんな映画だの特撮テレビ映画だのアニメだのの感触なのだが、映像の凄さとドラマの浅さのアンバランスは、最近でいえば『言の葉の庭』の感触と似ている。
 『スーパーマン』映画の時にも感じたのだが、スケールが大きすぎると、活劇が肉体的な実感を超えてしまって逆に無感覚になってしまう。そのくせ、物理的なありえなさばかりが気になって。
 巨大ロボットの手がビルのフロアを横切っていくのをビル内部から写した映像と、芦田愛菜のあまりのうまさがわずかに映画的な感銘。

2018年5月10日木曜日

『ヒューゴの不思議な発明』-その映画愛に共感できるか

 『The Visit』の「三つの約束」も、どうしてそんな本編とかみあわない惹句を宣伝に使うのかわからないが、この邦題もどうしたことか。もちろん原題の『HUGO』で日本公開するのは勇気がいる。マーチン・スコセッシというだけで問答無用に期待させてしまうほどの映画受容の土壌は日本にはない。となると多少なりとも内容を想像させるような邦題を、ということなんだろうが、だからといって、ヒューゴ、別に発明してないじゃん、という観終わった観客のつっこみをどうするつもりなんだろうか。配給会社の担当者。
 スコセッシといえば最近では『ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト』、その前は『ギャング・オブ・ニューヨーク』、その前は『ディパーテッド』か。『タクシー・ドライバー』を観なおそうと録画したのだが失敗して3分の2くらいのところで突然録画が切れていて、はっきりした感想が固まらないのだが、まあとにかくいずれも『HUGO』の感触とつながらない。強いていえば『ギャング』の、街一つを映画のために作ってしまう、人工的な世界観が近い感触だとはいえる。
 それでも、冒頭のリヨン駅構内、とりわけ壁の中の、おそらくCD処理を混ぜた長回しとジェットコースターのようなカメラ移動は、とにかく映画の視覚的効果を追究することに執心していて、ドラマを描こうとしているようにみえる『タクシー・ドライバー』の監督のものとは思えない。
 どうも妙だとは思っていたが、映画情報によるとスコセッシ随一のビッグ・バジェットで、しかも3D映画だというではないか。なるほどそれであの世界観。視覚効果。
 ではドラマの方はどうかというと、それほど感動するようなものでもなかった。批評家の評価が高いらしいが、これは映画中に溢れる映画への自己言及的愛情のせいではあるまいか。
 物語中では、こだわる対象が絡繰り仕掛けと本と映画と、どうもバラけたように感じられて、今一つその思い入れに乗れなかった。狙いはわかるんだけどなあ、という感じ。
 映画への自己言及と言えば『The Visit』のPOV手法を用いて、主人公たちを映画作りをしている少女に設定するのも、シャマランの自己言及だが、どちらかというとそちらの方に共感もし、映画的にも大いに楽しめたのだった。

 調べてみると邦題は、原作本がすでに『ユゴーの不思議な発明』と邦訳されていて、映画もそれに倣ったということなのだろう。映画らしいいい加減な邦題、と思ったのだったが。出版業界もか。それとも原作ではそれなりの「発明」が描かれているのだろうか。

2018年5月8日火曜日

『The Visit』-子供の成長を描くジュブナイル・ホラー

 M・ナイト・シャマランの、最近作の一つ前の、低予算スリラー。
 映画宣伝に掲げられている「三つの約束」が意味不明で、映画会社め、余計なノイズを入れやがる、と些か腹立たしいが、それは映画の罪ではない。
 POV手法に対する個人的な好感は、作り手の工夫がストレートに感じられるからだ。こんな時までカメラを回すのかよ、とか、そんなに都合よくカメラの視界に重要なものが映るかよ、とかいう突っ込みは、厳しくはすまい。
 この映画については、白石晃士的なフェイクドキュメンタリー的な面白さはないが、怖い目に遭う本人達(姉と弟)の心情に感情移入できるという意味で臨場感を増す効果はある。
 そうなればもう面白い。充分に怖いし、その状況に対峙する姉弟の健闘も好もしい。
 『サプライズ』ほどのハードアクションは期待するでもなし、比較としては『ドント・ブリーズ』だが、これはさすがに結末の波状攻撃で『ドント・ブリーズ』が上手だったが、そもそもこれは『ドント・ブリーズ』が特別にすごいという話であって、『The Visit』のエンディングはそれとは違って、これもまた出色の後味の良い終わりだった。

 それにしても、宇多丸さんの言う通り、これは子供の成長を素直に描くという点では『アフター・アース』とまったく同じテーマの、いわばジュブナイル映画だったのだが、あちらのつまらなさに対するこの映画の面白さはいったい何事だ。
 ユーモアのあるなし、というのは無論大きいが、『アフター・アース』に描かれた成長が、あまりに観念的であったことが大きいと思われる。あちらでは乗り越えるべき敵が強大過ぎて、恐怖から目を逸らさないとかいう実行命題が非現実的なのだ。だから課題の解決による成長が観念的にしか感じられない。
 それに比べるとこちらは、充分に対峙可能な恐怖であり、しかも充分に怖い。むしろ『アフター・アース』の恐怖に比べて現実的であるだけに一層怖い相手に勇気を振り絞って対峙するという行為が、説得力のある成長を感じさせるのだ。

2018年5月3日木曜日

『ファイナル・デッドコースター』-いかに午後ローとはいえ

 第二作を観たのが比較的最近だったりもして、テレビ東京の「午後のロードショー」を録画したのが間違いだった。じゃあレンタルだったら良かったというとそうでもないのだろうが。
 どうやら作品自体の評価も、1、2作目よりも低いらしいが、片手間で観ているこっちの鑑賞態度の悪いことを棚に上げても、放送上のカットの問題は大きい。テレビ放送だという配慮で、問題のシーンをカットしてしまって、この映画の味わいを損なっているのは間違いない。悲惨さの即物性がユーモアにさえ感じられるという、このシリーズ独特の味わいが。
 あちこちが映画自体の編集と、放送上の編集が相まって、映画の中の現場で何が起こっているということなのか、よくわからない状態になっていて、どうにも感情移入できなかった。
 観てすぐに記事を書くのはめずらしいのだが、それだけ書くことがないのだった。

2018年4月7日土曜日

『ニュースの天才』-そら恐ろしい虚言癖

 人気記事を書きたくて、記事を捏造していた記者の話だと事前に知っていたから、意外な展開、というような驚きなしに観てしまったのは、いささか残念ではあった。
 記事の信憑性に疑いが生じていく過程で、これがどこまで意図的な捏造なのか、ただ裏をとることを怠っていたために情報の提供者の言うことを真に受けてしまっただけなのか、という決着の行方に、もうちょっと観客が迷う余地があった方が良かったが、それもまあ事前の知識があったためだろうか。
 どうも早々に、これは全部捏造なんだろうな、という感触があって、たぶんそれは映画製作者の意図的なものだ。捏造なんだろうに、なんでこいつはこんなに「ほんとだ。なんで信じてくれないんだ。」って、泣いてまで言い張るんだ、とむしろその虚言癖のそら恐ろしさに感じ入るのが正しい受け取り方なのかもしれない。
 展開を見せる映画的描写はすこぶるうまく、こういう映画が量産される米映画の層の厚さにはやはり感心してしまう。
 真実を追究するジャーナリズムの使命、などというテーマも、もちろん垣間見られはしたが、まあそちらに重きが置かれているわけではないようだ。
 それよりも、最初は記者たちから反感をかっている編集長が、主人公の捏造を暴く過程で自分の責任を果たそうと努める誠実さと、それを記者たちが認めていく展開が面白かったが、最後にその編集長の行いが拍手喝采で記者たちに認められてしまう極端さは、もしかしたら、そんなふうな美談もまた本当に真実かどうか疑わしいという皮肉なのかもしれない。
 だからうっかりその拍手にカタルシスを感じてはいけない。

2018年3月29日木曜日

『ソロモンの偽証』 -人間を描かない人工物としての映画

 引っ越しというイベントがあったせいですっかり映画を観るようなまとまった時間がとれずにいた。
 その間にも録画してあったものもあり、とりあえず、もうすぐ一人暮らしを始める娘がうちにいるうちに観てしまおうと『ソロモンの偽証』前後編を一気に。
 宮部みゆきの原作がつまらないわけはないだろうと信頼していたし、映画も、評価の高かった『八日目の蝉』の成島出だし、というような期待が毎度だめなんだよなあ。
 観始めてしばらくすると、もうだめだ、ということがわかってくる。
 この監督は人間をちゃんと見ていない、ということがわかってくる。映画的にありがちな情緒を描くことを優先して、人間を描いていない映画なのだということがひしひしとわかってくる。
 それでも宮部みゆきは裏切るまい、と前編を見終えたところですっかり意気消沈した気分を励まして、後編を観た。映画的にはだめだろうが、物語のミステリー的興味は満たされるんだろうと思ったのだった。
 それにしてもだ、いったい何を期待すればいいのか、まるでわからないまま後編に流れ込むのはどういうわけだ。事件に何か謎の部分がありそうには思えない。警察が自殺と結論した転落死事件を、殺人ではないかなどと疑う要素は観客にはない(登場人物たちにはあるらしいが、観客から見れば、単に噂話に振りまわされる愚かな人にしか感じられない)。そしてそのどんでん返しがあるのではないかという期待もさせない。それでいったいどんな「想像もできない真実」があるのだろうと、逆に期待してしまった。
 そして見事に裏切られた。驚くようなことは何も起こらないのだった。いじめの当事者を告発する場面の激情も、いじめられていた者の保身による偽証も、とりわけ緊迫感を感じさせるようなものではなく、裁判の首謀者による自己告発が結末に訪れるに至っては、何をベタな自己憐憫の茶番だ! と怒りさえこみあげた。
 しかもそんなことで、このどこまでも茶番な裁判が、何事か良かったのだと満足気に受け止められているようなのだ。どこが? 何をしたかったのかという動機もわからないまま盛り上がって実行に移された裁判だったが、どこにカタルシスを生ずるような展開を認めればいいのかわからなかった。
 だがネット評では、原作からしてすでにそうらしいのだ。では一体何を期待して映画を観ればよかったのか? ともかくも人間ドラマ? それにしてはこの監督はあまりに「人間」を描けないのだった。
 そして、どこの観客がこれに面白さを感じているのだ。「キネ旬」8位って、なんだよ!?

2018年2月25日日曜日

『パニック・トレイン』 ー過剰な期待をしなければ

 まあ、ものすごく期待していたわけではない。要するに列車が暴走して、中にいる人たちが無事に助かるかどうかをハラハラドキドキして見守るサスペンス、シチュエーション・スリラーもしくはパニック映画なんだろうという前提で見ていた。そしてそのとおりだった。
 乗客が少ないこと、列車の外側の救助活動をほとんど描かないことで、テーマのわりに低予算映画であることの弱点を補っていた。その分、限られた乗客の人間ドラマをたっぷり描かなければならないわけだが、その点の評価は甚だしく高いわけではないが、ものすごく低いわけでもない、といったところだった。
 犯人像が結局描かれないまま、途中推測として語られる犯行動機、自殺説を覆す事実が明らかにならないまま物語が終わるのも拍子抜けとはいえ、それもまた救助活動などと同じく、物語を重層的に描くためにはあった方がいいが、無ければ無しで終えてもいい。問題は何があるか、だ。
 主人公のシングルファーザーと女性乗客のロマンスとか、対立していた乗客同士がその後、協力関係を築いていくこととか、車外に身を乗り出しての作業とか、それぞれに見所を作っているが、その中でも、わずかな停車のタイミングで幼い息子を車外に出す決断の是非をめぐるやりとりはなかなかの緊迫感だった。
 列車が止まらないまま最悪の事態を迎えることを考えれば、危険なトンネル内で息子を降車させることを選ぶ主人公の選択はわかる。子供がふらふらと線路を歩いて後続の列車にはねられることを考えれば、降ろすのも危険な賭けだ。子供は怖がって降りようとしない。無理にでも降ろそうとする父の焦燥もわかる。

 数少ない乗客の一人である老婆があっさり心臓麻痺で死んでしまうことや、緊迫した時間を過ごしているはずなのに、そのなかにどうにも弛緩した時間が経過してしてしまうことなど、不満もあるが、全体としては、期待せずにテレビで観るには悪くない映画だった。

2018年2月12日月曜日

『ニンゲン合格』-これで「合格」と言われても

 比較的初期の作品だが、観始めてすぐに既視感を覚えるほどに黒沢演出のリズムはこの時期、既に確立している。10年の昏睡から覚めてリハビリを始めた主人公が、次のカットではスイスイと歩いている、物事の始まりか途中を見せて、その後で時間を飛ばしてテンポよく展開を見せる。
 が、ドラマ的にそれはどうなのか。どうみても10年の昏睡から覚めるという設定にリアリティを与えるようには描かれていない。事態の間の描写の欠落は、なんとなく洒落た感じを醸し出しつつ、実はリアリティの欠落にも通じている。
 まあ問題はそこではなくて離散した家族を取り戻すことなのだろう。長い昏睡から覚めるという特殊な設定から派生するドラマを描くことではなく、この映画で描かれるのは「失われた家族」なのだ。家族の象徴としての、かつて家族で経営していたポニー牧場の再建。もちろんそこにもリアリティはない。
 だから牧場の再建がリアリティをもっていないことを批判してもしかたがないのかもしれない。それが幻想であることは最後の崩壊によって自覚的に示されているのだが、それでいて「俺、存在した?」という主人公の科白とか「ニンゲン合格」という題名とか、あまりにあからさまで恥ずかしい。「存在した?」と問われて「お前は確実に存在した」と答える役所広司の演技がいくらうまくても、観ているこちらにはちっとも存在している気がしなかったし、これが人間として合格だと言われてもなあ、と。
 リアリティのある生活が描かれて、その上にちょっとしたお伽噺のトッピングがあるのなら、それが観る者の生きる糧にもなるものを。

 画としては、何とも言えず何とも言えないある「世界」を描き出すのがうまい監督ではある。「アカルイミライ」のエンドの妙な俯瞰による長回しも、この映画の最後の葬式の参列者を捉える微妙な俯瞰ショットも。
 「変な映画」としてやはり心に残るものの、それでやたらに有り難がるのも俗悪にも思える。

『フラットライナーズ』-サスペンスとしてもドラマとしても中途半端

 公開当時はテレビで宣伝もされていたが観る機会もないまま28年経って。
 医大生たちが臨死体験をする実験によって、過去のトラウマに襲われるようになるという、SFだかサスペンスだかホラーだかわからない話。
 キーファー・サザーランドにジュリア・ロバーツという豪華キャストの中で、お目当てはもちろんケビン・ベーコンだが、なんともはや堂々たる主役と言っていい。大人しく周りに流されるより自分の判断で咄嗟に動ける行動力を持ち、堂々と正しいことを言いつつ情にも厚い。その上かっこいいときてる。たとえエンドロールの筆頭がキーファー・サザーランドであろうとも主役はこちらだろ。

 さて、なんともはや中途半端な映画だった。怖くはない。先が気になるところもあったが、さりとて大した驚きがあるでもなく。監督のジョエル・シュマッカーは、そういえば『ブレイクアウト』の放送時は「巨匠」と称されていたが、どちらも似たような感触の映画だ。
 人間関係やら人となりやら、最初のうち、どうしようもなく説明不足だと思えたのは放送上のカットがあったのかもしれないが、幻想シーンになるといきなり、あまりにちゃちい赤い照明で画面がショッキングピンクになるのは興ざめだった。もうちょっと深みのある色合いで、しかも微妙な違和感、くらいにとどめてほしいものだ。
 そうした画面作り同様、ドラマとしてもわかりやすい、わかり易過ぎるトラウマとその克服、という作りに、どうもひねりがなさ過ぎる。ここは恐怖演出というより、ドラマとして描き込んでほしいところだった。確かにケビン・ベーコンの対決すべき過去は、子供の頃のいじめについての後悔、くらいのもので、それを現在の相手に会うことによって乗り越えるくだりにはそれなりのカタルシスはあるが、そもそもがトラウマなどではないのだから、なぜそれがこの特殊な設定によって呼び出されるのかもわからない。キーファー・サザーランドの件については、ただもう蘇生することとトラウマ克服が重ねられているだけで、それがどういう理屈なのかもわからない。
 ジュリア・ロバーツのウエストの細さと、ケビン・ベーコンの少年時代を演じた子役があまりにぴったりだったことに感動したくらい。

2018年2月11日日曜日

aikoの「花火」と「アンドロメダ」を同時に聴く

 前回の「決戦は金曜日」と「Let's Groove」を同時に聴くの第二弾。
 とはいえ、音源自体はもう10年近く前に作ったものだが、YouTubeで集めた映像を合わせてみると、また面白さも新たになる。残念ながら曲全体に合う映像はなくて「アンドロメダ」の2番は映像と音が合ってない。
 前回のアース・ウィンド・アンド・ファイアーと違って、今のところ著作権的なクレームは来てない。


2018年2月4日日曜日

『サバイバー』-ミラ・ヨボビッチの面目躍如

 ミラ・ヨボビッチ主演の大作なのに、聞いたことがない映画だった。ヒットしなかったのな。『Vフォー・ヴェンデッタ』が好きだったジェームズ・マクティーグ監督なので観てみる。
 「サバイバー」って題名はどういうことか予想できなかったが、9.11テロの生き残りって意味なんだ。そしてその後のテロを防ぐために体を張る公務員の活躍を描く。
 いや、それなりによくできていると思う。テンポ良く次々と襲う危機にテキパキと対処しながら、テロを防ぐために攻めにさえ転ずる。ミラ・ヨボビッチを起用した甲斐あっての面目躍如たる活躍ぶり。
 ただ、アメリカ的愛国心はわかるが、それが他国民に共感されるほどにはウェットな描き込みがされていなくて、単なるポリティカル・サスペンス・アクションといった体で終わってしまったのと、最後の最後で世界的に有名な殺し屋と一対一で肉弾戦の展開になってしまうのはいただけなかった。それはいくらなんでも無理だろ。『バイオハザード』のアリスならともかく。そんなのはブルース・ウィリスでぎりぎりだ。
 そういう展開にしないで決着つけないと主人公の「活躍」感が足りないと思ったのだろうが、結局それで無理やり感がにじみ出てリアリティを損なっていたと思う。

2018年1月28日日曜日

『二十四時間の情事』-とりあえず感想保留

 『二十四時間の情事』とは一体なんたる邦題か。原題のカタカナ表記で『ヒロシマ・モナムール』でいいじゃないか。
 アラン・レネは『去年マリエンバートで』も観ていないので、これが初めてかな。
 なんだかすごい映画だとは思ったが、批評どころか感想を言うのも、現状ではお手上げ。いずれ観直してじっくりと。とりあえず、ヒロインの故郷、ヌウェールの風景が、白黒にもかかわらずこの世のものとも思えないくらい綺麗だったのが衝撃的だった。どうやって撮るとああいうことになるのか。ロケハンの問題なのか撮影の問題なのか画面設計の問題なのか。
 いやそれよりも原爆という現実をどう受け止めるかという問題を考えるべき映画であることはわかっているのだが。いずれまた。

2018年1月21日日曜日

『ラスト・ベガス』-お伽噺+アメリカンコメディ

 豪華キャストで描くハリウッド製コメディ。主役の4人、マイケル・ダグラス、 ロバート・デ・ニーロ、モーガン・フリーマン、ケヴィン・クラインがみんなアカデミー俳優で、何か重厚なドラマを見せてくれるのかと思いきや、結局コメディだったな。
 もちろんこういうのは、安定のハリウッド映画だ。ブロードウェイ・ミュージカルの伝統なんだろうか。クスリと笑わせて気持ちをハッピーにさせるセリフのやり取りが見事で、このレベルの脚本は日本では宮藤官九郎くらいしか観たことがない(舞台劇ではもうちょっとあるんだろうか)。
 面白かった。だがどうも暇つぶし感が拭えない。粋なおじいさんたちの、ちょっと苦いところもあるけれど基本はハッピーなお伽噺ということろで、こういう物語の摂取が生きる糧になるはずなんだが。

2018年1月14日日曜日

『言の葉の庭』-風景の勁さとドラマの弱さ

 『君の名は』の一つ前の新海誠作品。
 木の葉と雨と風のおりなす庭園の風景は文句なくきれいだが、物語の弱さは否めない。
 それでもクライマックスの階段のシーンで感情が持っていかれたが、だがその後、結末までにはどうにも腑に落ちないモヤモヤが残る。これはどう落とすつもりなのだ? 15歳の高校生男子と27歳の高校教師の恋物語ということですんなり納得すればいいのか? その現実的困難が描かれるわけでもなく、その難しさを問題にしないところで描かれるお伽噺ですと明言されているわけでもなく、どのあたりに納得を落としこめばいいのかがわからなかった。
 いや、そんなの問答無用に「あり」だと受け取ればいいのかもしれない。そうするとますますドラマの弱さを感じないわけにはいかない。
 つまり設定の特殊さこそが強みになるような描き方ができているわけでなし、それを特殊視しないでドラマとして入り込むには弱くて、という。
 ではあの階段シーンは? なんとなく吊り橋効果に似た感情の動き方だったような気もする。階段の落差や踊り場の外に広がる空、駆け下りるスピードなどの空間的演出の効果。

p.s
 もう一度そのシーンだけ観たが、やはりドキドキとした感銘がある。細かくカットをわりながら、さまざまなものをアップで描く演出と、スピード感がやはり優れているんだろうとは思うが。

2018年1月7日日曜日

『グランド・イリュージョン』-嬉しい娯楽作

 4人のマジシャンがチームで大掛かりな銀行破りを企てる。『オーシャンズ11』的クライム・ムービー。『オーシャンズ』くらいに仕掛けが面白いことを期待して観てみようと。
 これが、期待以上だった。
 劇中でマジックとして実際にやっていることになっていることと映画の嘘とのブレンドの割合がわからんなあと思って観ていると、意外とちゃんと種明かしをしてくれたりして、そこはマジックなのか、とわかるあたりも楽しかったし、催眠暗示を使ったユーモアも楽しかった。キーワードを聞いたとたんにある行動をとるよう暗示をかけておく、という仕掛けを序盤から何度か見せておいて、クライマックスの、あるシーンで、いきなりそれが発動するときのユーモアと胸のすく意外性は本当にうまかった。
 とにかく脚本がよく練られている。肝心の最も大きなどんでん返しにはさほど感心しなかったが、いくつかの事件が関係づけられていく構成には感心した。筋立ての必然性ということをちゃんと考えている。観客の納得の要求に応えている。満足感が得られる。

 ところでこの映画、何だかえらい豪華キャストだったのだな。マイケル・ケインとモーガン・フリーマンという大御所を並べておいて、マーク・ラファロもアカデミー男優だし、メロニー・ロランは魅力的だったし。そして極め付きは主役の「ホースメン」チームの二人ジェシー・アンゼンバーグとウディ・ハレルソンは、「ゾンビランド」の主人公一行じゃないか!

2018年1月5日金曜日

『ルー・ガルー 忌避すべき狼』-何もない

 偶然にも「人狼」続き。
 京極夏彦に義理立てて。監督の藤咲淳一は「攻殻機動隊」のTVシリーズの脚本で名を覚えてもいて。
 だが、もう何か言うのも面倒なほど、何もなかった。確か原作は面白かったはずだという記憶があるのだが、その魅力が何だったのかは思い出せず、とにかくこのアニメには、なにも心を動かされず。
 とにかく、近未来のはずの世界が、ちっとも現在の我々の住む世界と違って見えず。
 そこで繰り広げられる人間ドラマに心動かされる要素もなく。
 予断もなかったので意外性も生ずることなく。
 ここが許せん! とかいう毎度のパターンと違って、面白いものを作るのは難しいなあ、と思う。

2018年1月3日水曜日

『人狼ゲーム ビーストサイド』-演技の緊張感

 このシリーズでは評判の高い本作を、ようやく。
 現在までの6作では、その後の活躍からすると最も「大物」女優である土屋太鳳と森川葵を揃えた本作は、確かにここまでに観た最初の3作では一番印象的だった。
 それはやはり若手俳優たちの演技によるところが大きいと思う。
 シチュエーションが限定されて、舞台空間に大きな動きがなく、基本的には心理ドラマであるようなこのシリーズでは、登場人物の感情が大きな「動き」とならざるをえず、しかも年配の「ベテラン」俳優が安定した、安心感を与えるようなお芝居の空気感を作ることもできないとなると、いやでも若手俳優たちの演技に映画の緊張度が委ねられる。おそらく監督は、この映画における「演技」の重要性を役者たちに強く意識させたはずで、役者たちはそれぞれに「自然さ」や「激しさ」や「斬新さ」についての創意工夫を迫られたのだろう。
 そしてそれはそのまま物語の緊張をも感じさせるのである。
 まるでそれぞれの場面で役者たちが求められている演技の緊張度が画面に溢れているような感じなのだ。もちろん第1作3作も程度の差はあれ、みんなよくやっているなあと感心はした。だが、総合的な力はこの第2作が高かったと思う。それは土屋太鳳にせよ森川葵にせよ、芸達者な青山美郷にせよ小野花梨にせよ、である。

 ところでこのシリーズに対する不満は本作にも共通している。じっくりと考えてしまえば、おそらく「突っ込みどころ」はいっぱいあるのだろう。ネットでの感想記は総じて「映画」について書いているブログのもので、本当に人狼ゲームに通じている人から見るとどうなのかを知りたいところではある。
 だがやはり、ゲームのルールを実際の生き死にに転換することの難しさを乗り越えることに説得力を持たせるほどの練り込みはされていない。終盤で村人の男子が殺された後に、人狼が女だと男子を殺すのは無理ではないかという意見が登場人物から発せられたが、それを考えてしまうとそもそもこの物語は成り立たないのだ。人狼が村人を殺すのはゲームのルールによって確実なのであって、実際にできるかどうか難しいかも、などという可能性を考慮すべきとなるとルールが意味をなさなくなる。
 だが本当はそこを考えてどうこのゲームのルールを設定すべきかが問題のはずなのだ。もちろん難しい課題だ。「投票によって~が吊られました」「人狼によって村人が殺されました」ということになっている、というだけでは面白くない。リアルな感情の動きも何もない。登場人物たちが実際にやるからこその痛みである。だが実際にやるとなると、本当にいつもそれが「やれる」かどうかが不確定になる。
 だが、そこを考えることによって、勝利のため、あるいは脱出のための工夫を凝らす登場人物たちの物語はいくらでも膨らんでいくはずだ。

 もうひとつ。単に論理と心理のゲームとしての人狼ゲームの面白さをもうちょっと表現すればいいのに、とも思う。
 それぞれの人物の発言から考えうる可能性はすぐに果てしなく複雑な分岐をする。それが正直なのか嘘なのか、どの程度ゲームのルールを把握している人物なのか、どんな動機によって動いているか(ゲームの勝利だけが目的とは限らない)、あるいは発言だけでなく、どの投票によって誰が誰を指したのか、といった情報を組み合わせていって、真剣にこのゲームに勝とうとする(そこには命がかかっているはずなのだ)人物たちの戦いを描こうとすればいいのに。
 もちろんそれは観客側がどれほど真剣に頭を使うかという問題でもある。が、映画は考えるための時間を作ってくれない。上映をストップさせて紙にまとめてじっくり考えるというようなことはできない。
 だからせめて、登場人物たちがそれを真面目に考えてはくれないのか。考えの足りない観客に代わってその可能性を考えることによってこそ真剣な勝負において生まれる迷い、焦燥、昂揚、恐怖を観客に伝えることができるのではないか。
 
 最後に舞台となる、どこかの研修施設のような建物から出た主人公が、人気のない田舎道を歩くシーンは妙に印象的だった。田舎といっても「農村」とかいう風景ではない。主人公は緩やかな坂を下っているから、建物がある程度の標高にあったことがうかがわれ、といってアスファルトに街路樹のある風景は人里離れた山林などというわけでもない、微妙な田舎さなのだ(ロケ地はどうも御殿場らしい)。
 そんな特徴のない風景が、閉鎖空間での息詰まる物語の後で、まるで異世界のように感じられるのだった。

2018年1月1日月曜日

『エイプリル・フールズ』-こんな杜撰な設計図で

 『キサラギ』で俄然注目を集めた(我が家の中で)古沢良太は、その後『鈴木先生』のドラマと映画、『リーガル・ハイ』『デート』と追っているので、このまま当分は注目を続けてみる。
 と思ってはいるのだが、これはだめだった。
 観始めてすぐにあまりに弛緩した演出にがっかりしてしまう。『スティーブ・ジョブズ』を観た後では、こういうテレビ局がらみのメジャー作品にありがちな、細部のリアリティをいい加減にして、とりあえずの「面白可笑しい」雰囲気だけを作ろうとしてますという思惑だけが透けて見えてしまうようで。
 と思ったら『リーガル・ハイ』の演出家なのか。これもテレビドラマと思って見ると許容できるのかもしれない。そこでマイナスせずに楽しいところを探して。だが映画としてはまともに観ていられないレベルであることはどうしようもない。
 寺田進の父親エピソードや、主人公の戸田恵梨香の対人恐怖症に対する救いが、いくぶんのシリアスな「感動」を表現しようとしているのはわかるが、そこに素直に感動するためにはもうちょっと真面目に観させてほしい。他の部分の不真面目さが、真面目な場面を白けさせてしまう。残念だ。
 演出だけでなく、そもそもの鑑賞動機だったはずの脚本にも感心しなかった。まるで関係のないいくつかのエピソードが関連していくという趣向は、基本的には楽しくなりうる仕掛けではある。それは、とにもかくにも「うまい」と言わせるような精巧な構築物である必要がある。その点にしても古沢良太にして、この杜撰な構成はどうしたことかというストーリーラインだった。同性愛に目覚める男たちとか、UFOを待ち望む中学生とか、それ自体が味わい深いわけでもないエピソードが、それでも全体のエピソード間の連関の中で必要なパーツであるというようなしかけもなく、単に時間の無駄と思わせるようなエピソードの羅列になっていた。
 こういう、プロットの段階で練り込みが必要な作業は、ハリウッドに倣ってチームで当たるべきではないかと思うのだが、古沢良太のような「売れっ子」となると、立場上そうはいかないことになるんだろうか。それにしても巨額な費用のかかる映画という作り物にして、こんな杜撰な設計図で全体が動き始めるのはいかにももったいないと思われる。