2021年12月30日木曜日

「LIMBO THE KING」-驚嘆すべきレベル

 田中相は「千年万年りんごの子」にも驚いたものだが、本作「LIMBO THE KING」は、1巻の途中まで読んで、これは尋常なレベルではないと思い、全巻揃えるまでは読むまいと思っていた。このたび全巻揃えて通読する。


 6巻、どこをとっても、驚嘆すべきレベルで良くできている。世間に流布する創作物で、これほどに良くできたものは稀だ。アメリカを舞台としているから、もちろんハリウッド映画的と言ってもいいのだが、雰囲気としては日本で制作されたNetflix配給の『HERO MASK』に似ている。だが、大資本によって作られたそれよりも、個人の創作の営みによって生まれる本作の方が、結局はるかにレベルが高い。しかもあらゆる要素において。

 近未来のアメリカから蔓延した「眠り病」という設定は、ありふれているかと思いきや、単なる雰囲気に終わることなく、ちゃんと説明される。それは実にSF設定として斬新でもあり、緻密でもある。実は軍の生物兵器としてのウイルスの暴走でした、とかいう凡庸な設定にならない。そしてサイコダイブは、これまたありふれているかと思いきや、やはり緻密に設定されている。しかもオカルトとデジタルの融合もなされる。

 そしてキャラクターは立っていて、魅力的。やりとりにユーモアのある描写もあるし、サスペンスもスリルもある。デッサンは確かだし、斬新なイメージも頻出する。

 ストーリーも、6巻通して構成されていて、繰り返しのパターンで連載が続いていたりはしない。常に展開しつつ謎の究明と人類の救済という大がかりなスケールまでに至る。

 最後は感動的でかつハッピーエンドという、本当に全ての要素が驚嘆すべきレベルで高い。

 これほどの作品が、しかしそれほど話題になっていないらしいことが不審だ。読者を選ぶというようなマニアックさはない。堂々たるSFエンターテインメントとして、ハリウッド映画でも滅多にないレベルだと言っていい。

 このまま、最高水準でアニメ化すべきだ。尺を切り詰めて映画などにするのではなく、12.3話の1クールで。脚本家は整理整頓だけを心がけて、キャラクターをいじったりせず、本当にこのまま映像化すべきだ。

 これほどの創作物は「進撃の巨人」他、ほんのわずかしか思いつかない。

2021年第3クール(7-10)のアニメ

 今更だが、全然追いつかないのだ。もう4クールも終わるのに、まだ3クールのを観ていないのもある。

 が、まあ一段落させて。


「小林さんちのメイドラゴンS」

 安定の京アニクオリティで、ほのぼのと、微妙なシリアスのバランスも素晴らしい。繰り返し見たくなるというものではないが、毎回気楽に観て、いつもそれなりに楽しかった。


「探偵はもう、死んでいる。」

 初回は作画のレベルも高く、先が楽しみだと思ったが、みるみる落ちて途中で見るのをやめた。最後の方を見たが、回復はしていなかった。

 美少女探偵といえば「屍人荘の殺人」だが、実に今風のガジェットだ。語り手の軽口は「涼宮ハルヒ」のキョンから「青春ブタ野郎」「俺の青春ラブコメは」など、先達に事欠かないが、そのレベルでもない。謎の組織の人造人間といい、実にまあライトノベルだ。

 それなのに「探偵はもう死んでいる」という設定だけで何だか胸騒ぎがするのは「君の膵臓を食べたい」に通ずる抗いがたい俗っぽさではある。


「出会って5秒でバトル」

 原作は論理ゲームとして素晴らしかった(途中まで読む限り)。その面白さでアニメも1クール見続けたが、作画も演出もひどかった。


「平穏世代の韋駄天達」

 原作を見ていないのだが、妙な絵柄で背景美術まで統一されている。物語の変さ加減は原作のクール教信者の持ち味だろうか。「小林さんちのメイドラゴン」と2作が同時アニメ化というのもすごいが、どちらもちょっとわけのわからない発想だ。魔族というのは実に凡庸な今風ファンタジーで、そこを恥ずかしげもなく設定しておいて、対するのに韋駄天という神を置くところが尋常ではない。

 物語も、恐ろしく「クール」に論理を展開するところと、発想の突飛さとが同居して狂気じみている。

 完全な途中で唐突に今クールが終わってしまい、これは続編ありきなのか?


「Sonny Boy」

 初回の「漂流教室」とそこに展開される「冷たい校舎の時は止まる」っぷりから、何か尋常じゃない斬新なイメージの奔流に圧倒されて始まった。今頃どういうわけで江口寿史を引っ張り出したのかも解らないが、どの断片を切り取っても画面に横溢する力が尋常じゃない。油絵の具の筆のタッチをそのまま見せる美術もおそろしくレベルが高く、それを次々と見せる贅沢さにも圧倒される。

 そして監督の夏目真悟のオリジナル脚本がまた特異だった。初回こそ「漂流教室」だし、最終回は「2年間の休暇」と、枠組みはよくある多世界漂流物ではあるのだが、各話のイメージは多彩で、群像劇としても丁寧な描き込みで、初脚本作品がこれか、と呆れるような思いで毎回観た。

 最終回の切なさは、またいつかあらためて観て、それなりに受け止めたい。

 「スペース・ダンディー」「ワンパンマン」「ACCA13区監察課 」と良い仕事をしてきた夏目真悟は、「ブギーポップ」で一旦は落胆したのだが、またこれは観るべき作家としてあらためて注目していきたいと思っていたら、次回作は森見登美彦と上田誠とくんで『四畳半』+『タイムマシン・ブルース』なのだそうだ。


「ひぐらしのなく頃に」

 オリジナル展開になってからの今シリーズは意外に長くなった。パターンの繰り返しがしつこいと感じるのは、個々のエピソードや各話が、それ自体ではそれほど面白いとは感じないからだが、我慢して最後まで観ると、その長さ自体がある種の感慨を醸し出してくるというのは、旧作もそうだった。とはいえ旧作では、いくつかの場面で感じたカタルシスや希望の手触りが、今作では出会えなかったのは残念。旧作にも増して思い切った残酷描写が攻めている感もあったが、繰り返しすぎで飽和していたし。

 ともあれ、最後に「いろいろあったなあ」と思える感じは、登場人物に対してばかりでなく、スタッフに対しても感じてしまうのだった。

2021年12月28日火曜日

『ヘイトフル・エイト』-初タランティーノ

 脚本作品はいくつか観ているが監督作はこれが初めてのタランティーノ。

 「嵐の山荘」ならぬ吹雪の山荘で起こる連続殺人というミステリー仕立ての舞台設定なのだが、別に本格ミステリーなわけではなかった。まあそうだろうな。

 2時間47分という上映時間を長すぎるとは感じなかった。どうなるのかが予想できない。会話がタルいという感想もあるようだが、それも先がわからない感じから見続けてしまう。

 隠れていた一人の存在はいささか拍子抜けな感じがしたが、それでも実は、という設定が説明されていく終盤も、ミステリーのような論理性を求めるのでなければ、物語を追う楽しみを味わえる。

 何か後味の良さのようなものを感じさせてくれるわけではないところが、満足とは言えないし、もちろん感動を期待しているわけではないし、でも奇妙に悪くなかったと思える映画鑑賞の時間だった。


2021年12月27日月曜日

『LION 25年目のただいま』-子供の不安

 何の映画か知らず、アマプラの無料配信がもうすぐ終了になる映画で、やたらと評価が高いので、とりあえず頭を観てみる。観始めたのが深夜だったのだが、あまりの面白さにそのまま最後まで観る。

 冒頭の、岩山の遠景や、乱舞する蝶の中に主人公の子供が立つカットからもう尋常じゃない。広い道路を子供が渡るカットの不安も、はしる主人公を追うカメラも。つまり映画的な力が横溢している。

 物語が始まると、偶然から、故郷の街から遙かに離れた都会に列車で運ばれて迷子になってしまった5歳の子供の不安が観る者の胸に迫ってくる。5歳の少年の眼差しが、それだけでもう観客の心を波立たせる。

 それは自分が子供であった頃の不安の記憶でもあるし、子供が小さかった頃の親としての不安の記憶でもある。子供にとっての「待つ」ことの困難を思うと、子供を待たせる状況に置くことはおそろしい心痛なのだ。


 主人公が大人になってからは、前半部ほど息が詰まるような切迫感はなくなったが、記憶が戻ってから、自分を探しているだろう家族を思って、現在の生活を素直に受け入れられなくなる切なさも、それを乗り越えて故郷を探し当てる結末の感動も、全体としては恐ろしいレベルの映画だった。


2021年12月26日日曜日

『AKIRA』-細部の想像力

 神格化されている本作だが、30年以上前に観た記憶では、それほどすごいとは思わなかった気がする。

 で、観直してみると、なるほどすごい作画、すごいアニメーションではある。だが、お話はそれほど新鮮味がなく。

 それは既に原作の前作「童夢」からそうだった。評判の高さに比して、読んでみると、要するに超能力戦じゃん、だった。

 だから大友克洋の凄さは細部の想像力の緻密さにある。そこに、何かSF的な、つまり哲学的な深みを求めてもしょうがないんじゃないか、というのが前回の感想であり、4半世紀以上経って、今回もやっぱりそうなのだった。

 サイコキネシスによって壁が凹面状にひび割れる、「童夢」でも有名になった描写とか、レーザー兵器によって無くなった腕を無機物を撚り合わせて作るとか、玉座に座るとその腕が玉座の肘掛けに融合してしまうとか、腕を構成する電線様のものを玉座から引き剥がしながら立ち上がるさまとか。

 SF設定自体もだ。未来都市とか、AKIRAのような存在がいたらどうなるかというシミュレーションが緻密なことに感動しこそすれ、お話がどうだということもないし、感動的な話だというのでもない。

 この神格化との落差は『ブレードランナー』ととても似ている。岡田斗司夫が、口を極めて絶賛しながら、話は大したことないんだけど、と言うのを聞いて、やっぱりそう思っていいのかと納得したことがあるのだが、本作もそうなのだ。

2021年12月24日金曜日

『キャビン・フィーバー』-許せない不合理

 先月の『キャビン・イン・ザ・ウッズ』とは間が開いているが、昨夜から2作続けての「キャビン」物で、『ホステル』は未見だが話題のイーライ・ロスのデビュー作。

 昨夜のループ物とは違って、こちらは感染の恐怖を描くホラー。

 だが単なる感染の恐怖が描かれるばかりではない。犬に喰われるとか、謎の狂気じみた男たちが殺しに来るとか自閉症的な子供に噛まれるとか、主たる恐怖の本筋とは別の要素が混ざってくる。これは『フローズン』でも感じたことだ。余計なことだと感ずる。「感染の恐怖」をつきつめてくれないか。「感染の恐怖」という設定をしたら、それによって起こりうる様々な局面で映画を貫徹してくれていいのに。

 ホラー映画の怖さは、外から迫る脅威よりも、それに直面した人々の心である、というのも一つの真理ではある。感染という恐怖は、そうした恐怖を描きやすいとはいえる。だがそれに駆られて馬鹿な行動にはしる者がいるのはお約束とはいえ、あまりに馬鹿すぎると見ていてイライラするので、好みを言えば理性的で合理的な登場人物ばかりの方がありがたい。そうでこそ恐怖がひきたつと思うのだが。

 というわけで、総じて、展開といい登場人物たちの行動といい、不合理なことが多すぎて見ていて不愉快になった。

 「馬鹿馬鹿しい映画」というのがある種の褒め言葉になるような鑑賞は残念ながらできない。

2021年12月23日木曜日

『The Loop 永遠の夏休み』-ループ物の落とし前

 まあB級だとはわかっているが、ループ物は半ば義務のように観る。

 暢気で好日的なジュブナイルのような邦題副題に反して、物語は陰惨なキャビン物の殺し合いに展開していく。展開が遅いとかいう批判もネットにはあったが、まあそれは確かに。とはいえ、基本的にはループ物の基本の楽しみである、伏線回収がちゃんと行われて好感を持てる。

 とはいえ、構成はシンプルではある。ループしているという設定をしてしまえば、後の時点で起こることの断片を、小出しにするだけでいい。

 ループ物の落とし前は、そのループをどう抜けるかという試行錯誤を貫徹することだ。それは足りない。展開が遅いという批判はその点はあたっている。抜けるための足掻きが、何度かの挫折をするくらいには描かれてほしい。

 ラストがそれを描いているのかとも思われるのだが、単なる脅かしとしての意外性を演出しているだけなのかどうか区別がつかない。努力とか執念とかいうニュアンスが描かれていれば、それをある種のハッピーエンドとも受け取れるのに。

2021年12月19日日曜日

『ファウンド』-よくわからない

 なんだかよくわからない映画だった。

 やけにアップばかりのカットも異様だったのだが、兄の部屋のクローゼットには、ボストンバッグに入った生首があって、それがしばしば入れ替わるという冒頭も突飛だ。連続殺人鬼というだけでなくなぜ生首を部屋に持ち込むのかわからない。主人公がわからないというだけでなく観客にもわからない(そして最後までわからない!)。だからもちろん妄想オチなんだろうと思っていると、最後までそういう種明かしもない。どうやら映画内現実なのだ。

 あれこれ不愉快な現実が描かれ、それに鬱屈した日々を送る主人公始め、各登場人物たちは皆、不快だ。基本的にはひどい方向にしか事態が動いていかない(かろうじて、主人公が子供同士の嫌がらせに対して暴力で対抗したのはカタルシスを感じても良さそうな展開ではあったが)。

 さらに、部分的にいきなりな感じしかしない、なのにしつこいスプラッタシーンがグロテスクで、別にそれを求めているわけではないし、怖いわけでもない。主人公たちが見るビデオのシーンなのだ。

 怖くはなく、気持ち悪いだけ。

 結末の悲惨さも、復讐に見合ったほどの理不尽な仕打ちがされているようには見えないから、いわば過剰復讐のようにしか見えないのだが、そこに何だか意味ありげな読み込みをしている人がネットで多いのは、よくわからないタッチに惑わされているんではなかろうか。

2021年12月12日日曜日

『ゾンビ・リミット』-真面目なゾンビ映画

 邦題には「ゾンビ」の語を入れないとジャンルがわからなくて不案内になってしまうから『ゾンビ・サファリパーク』も『ゾンビワールドにようこそ』もそうなのだが、これも原題は「リターンド」といって「ゾンビ」は題名に入っていない。「戻ってきた」というのは、感染はしているが発症はしていないゾンビなのだった。

 すこぶる真面目なタッチで、演技も演出も編集も達者で、物語としてもどういうドラマを描こうとしているかは明確なのだが、どこが面白いということもなかったのは残念。そのドラマの決着としての徒なバッドエンドも楽しくはなかったし。

 いや、良い映画だとは思うのだが。

2021年12月8日水曜日

『ドロステのはてで僕ら』-最高

 コロナ禍で公開された本作を劇場に観に行くことはなかったが、ヨーロッパ企画で上田誠ときたら「サマータイムマシンブルース」だ。いつかは観ることは約束されていたといっていい。

 さて、始まってみると、終始楽しくてニヤニヤしながら観てしまう。タイムマシン・モニターによるドロステ効果というワンアイデアをどう転がしていくのか、興味津々だし、わちゃわちゃした空気感も、それなりに盛り上がっていく物語も、伏線の回収も、キャラクターのほのぼの感も。

 そして、ワンカットのPOV「に見える」作りのあまりの見事さにも終始圧倒される。お芝居の進行に伴って、どこからカメラがそれを撮るかはものすごい手間のかかった計画であることは想像に難くない。同じPOVの『ウトヤ島7月22日』のカメラが、ただ主人公たちに着いていくだけで、それほど難しくはないように見えるのに比べて、その工夫は圧倒的だ。

 恐ろしい低予算であることは観てわかるが、これで本広克行が余計なことをしている映画の『サマータイムマシンブルース』に比べてもはるかに面白し、かつ舞台版の「サマータイムマシンブルース」に比べても、おふざけの度合いが上品な範囲に収まっていてバランス的には本作の方が好もしい。

 最高だ。


 ところでエンドロールで、音楽担当に滝本晃司の名前を見つけて嬉しいびっくり。もう一度見直すときには音楽にも注意して観よう。



2021年12月4日土曜日

『ウトヤ島7月22日』-工夫がなく不合理

 ノルウェーで実際に起きた銃乱射事件を、全編ワンカットで描く。政治的な興味で観るわけではない。全編ワンカットというだけで観てみるのだ。

 カメラは、キャンプに訪れた先で事件に遭遇した主人公に付き従って、島内を逃げ惑う。設定としては十分面白そうだ。

 実際に映画では政治的な背景はほとんど描かれないし、そこに「社会」が描かれているという手応えはない。だからアクションとサスペンスと人間ドラマを期待するだけだ。


 だがしばらく観ていると、興奮やら興味よりも苛立ちの方が勝ってくる。登場人物たち、とりわけ主人公の行動原理が不合理で、その一方で映画的に面白さを確立する、時間あたりのイベントは少ない。

 状況がわからないことが恐怖の根源なのに、状況を知ろうとしない不自然が、まず観ていてストレス。知ろうとしているのにわからないなら、そのストレスは求めていたサスペンスを高めるのだろうが、ただわけもわからず逃げ惑っているという恐怖を描くよりも、なぜか合理的な根拠もなく隠れたまま動かない主人公を、長いこと映し続ける。

 手持ちカメラで撮り続けることはもちろん大変な作業だ。そのためにイベントを減らしてひたすら主人公を追う、ということになっているのだろう、とは思う。だからそこで繰り広げられるドラマが深ければそれなりに面白くもなるだろうが、残念ながらそれもない。

 予算規模は比較にならないが、趣向としては『1917』は当然、『LIFE』とも同じ面白さが期待されるはずで、工夫さえされればそれは予算規模に依存しないはずだが、残念ながら予算規模の差がそのまま作品としての面白さと比例している。予算規模としては同じくらいだろうと思われるPOVの『ヴィクトリア』の、その圧倒される密度が今更ながら思われる。

『LIFE』-サスペンスと強い感情

 採取してきた火星の土の中に発見された生命体(LIFE)が、宇宙ステーション内の隊員を殺して回る。完全に『エイリアン』だ。『遊星からの物体X』でもある。基本的にエイリアンをCGで描くところがそれらの名作とは違うところだが、それはプラスでもマイナスでもない。実物模型の陰影がないとも言えるが、その分、自由度も増している。

 密閉空間で、襲ってくる生命体とどう対決するか。趣向はそこにつきる。強靱な生命体を退治することは容易ではない。工夫を凝らし、勇気を持って、素早く判断し、我慢強く闘う。時として地球に対する義務と仲間に対する思いがぶつかって、決断を迫られたりする。

 ギリギリの危機が何度も襲ってくるサスペンスと、一人一人の隊員の死に対する強い感情が十分に描かれる、レベルの高いエンタテインメント作品だった。

 真田広之が、ジェイク・ギレンホールらハリウッドスターと同じ重みのクルーの一人だったのは嬉しかった。

 バッドエンドに落とす意外性は、それもエンタテインメント要素でもあるが、カタルシスと引き換えにして果たして収支はプラスかマイナスか。


2021年11月27日土曜日

『ビートルズと私』-雑談

 ビートルズ好きの作者が、様々な業界の人に、ビートルズとの関わりについてインタビューする。ひたすらそれだけ。ビートルズという社会現象についてとかノンフィクションの作用とかいった深遠なテーマが浮かび上がるわけではない。ただひたすら雑談。だがビートルズ好きにはそれだけで楽しくて十分。語り手が知っている人ならば、へえ、あの人がそんな風にビートルズと関わっているのか、と知るだけでも楽しいし、知らない人ならば、ビートルズに対する興味だけで面白い。

 それだけで、最後まで観てしまった。

『A Ghost Story』-「意味」は判然としない

 最初のうち、カットの長さが『箪笥』を連想させる。うんざりしつつもそこを堪えてしばらくすると映画としての面白さがわかるカットが増えてきて、後半は楽しく観られる。といって、最初のうちのカットの長さにどういう意味があるのかは結局わからない。序盤、もっとサクサク話を進めてほしいと今も思う。


 意外な展開が、意外性の驚きを与えてくれる。えっ、そうなるの? という驚きが何度も訪れる。

 だがまあそこが主旨ではないかもしれない。といって何を「意味」として受け取ればいいかは判然としない。

 ジワジワと感じられてくるのは、長い時間が経って、何かの執着を忘れてしまうことの喪失感、といったようなものだ。女の幽霊の「長い間待っていて、何を待っていたのかを忘れた」という台詞。そして後の場面で「多分もう来ない」と悟ったとたんに消えてしまう(成仏したということか)。

 基本的には主人公の幽霊についても同じ感情を喚起される、ということでいいのだろうか?

 恐るべき低予算だそうだが、こういう、よく考えられた作品は楽しい。


2021年11月25日木曜日

『1917』-制作の情熱

 劇場に観に行きたかった映画の一本。

 作戦中止の伝令を届けるため、二人の兵士が戦場を突っ切る。その過程をリアルタイム、ノンストップのワンカットで描く。もうこういう趣向が、それだけで賛辞に値する。応援したい。できれば感心したい。

 さて『カメラを止めるな』のような、本当に肉体で実現しているワンカットではない。あちこちはデジタルで処理してつなげてもいるという。それでも、『カメラを止めるな』よりもはるかに大規模な映画を成立させるための構想が生半可で済むはずもなく、観ていてそれはひしひしと感じられるのだった。そしてその実現にかかるであろう手間も。

 その映画制作者たちの情熱は、命がけで戦場を駆け抜ける主人公の思いとシンクロする。


 それだけで面白くなる要素は十分にあるのだが、そのうえに、そこら中を面白くする工夫は高いレベルで実現していた。危険は常に襲ってくるし、二人で出かけて一人が途中で死んでしまう。哀しみや焦りや報酬のカタルシスや。

 そして、すべてセットで作っている、途中の廃村やら廃墟やらの美しいこと!

 廃墟が美しいのはなぜなのかというのは根本的な疑問ではあるが、それはともかく、思いがけず現れる、花咲く桜の林や、照明弾によってできる建物の影が移動する光景は、それだけで観る価値がある画だった。

2021年11月22日月曜日

『アルカディア』-不穏と脱出

 『キャビン・イン・ザ・ウッズ』の続編だというのだが、なるほど、途中にまるまるその続きが出てきて、しかも解決するでもなかった。

 雰囲気は『キャビン・イン・ザ・ウッズ』そのままで、若干予算に余裕があるようではある。場面があちこちに動いて、イベントも色とりどり。

 闇の中に消える綱を引っ張って、闇の中の何かと綱引きする場面で、不意に綱が中空に引っ張られるとか、森の中をジョギングしていると、離れたところの木が倒れるとか、不穏なエピソードの見せ方がうまい。そのうまさは『キャビン・イン・ザ・ウッズ』以上だ。それだけで面白い、と思える。

 たぶん、現実世界に対する違和の象徴とかいう解釈をすればできるのかもしれないが、まあしなくてもいい。

 すっきりと説明されるような解決に至らないのは『キャビン・イン・ザ・ウッズ』同様だが、ループから抜け出る結末は映画としての完結感があって良かった。

2021年11月21日日曜日

『ゾンビワールドにようこそ』-設定を活かす

 原題『Scouts』はそのままではともかく、『ゾンビ・スカウト』くらいにしておけばよかったのに。ボーイ・スカウトがこれほどフィーチャーされていることが題名で示されてない邦題は残念。

 ゾンビは、ウイルス感染型で、そこそこ走るのもいるし、力も強い。何より珍しく、そこそこの知能がある設定だった。ロメロ以外にそういう設定をしているのは思い当たらない。

 ゾンビ物でコメディというと『ショーン・オブ・ザ・デッド』と『ゾンビランド』が圧倒的な面白さだったが、そこまではいかないなあと思いつつ終盤近くまでは観ていた。ボーイ・スカウト設定もあまり活かされていない。『マラソンマン』で、それほどマラソンの特技が活かされないように。

 と思ったら、終盤は畳みかけるように盛り上がった。それもスカウトがスカウトの活動を活かして活躍するという、期待通りの展開で。

 演出で緊迫感を見せるあたりもうまいし、伏線をちゃんと張ったうえで、最後はカタルシスを感じさせる大団円。

 不足のない娯楽作だった。

 

2021年11月18日木曜日

『キャビン・イン・ザ・ウッズ』-不思議な不穏な 

 原題は『RESOLUTION』といい、『The Cabin in the Woods』はドリュー・ゴダード監督の『キャビン』の原題だというから紛らわしい。邦題はもちろん『キャビン』をあてこんでいるんだが、こすっからい。といって原題ではわからない上に、そもそも訳しにくい。「決意、決断力、不屈、決議案、分解、分析、解決、解答」どの訳語も映画の内容に即応しているとは言えない。

 さて、何映画なのかわからずに観る。『キャビン』はメタ・ホラーとして笑える部分さえあったが、こちらは、はて、どういうことだと受け止めれば良いのかわからない。明らかに超自然的なことが起こっているらしいからサイコサスペンスではないようだが、といって怖くないからホラーとも言えない。

 意味ありげな「哲学的」会話がくりひろげられてりもするが、それが何を意味しているかもわからず、結末まで観て、原題の適切な訳語も結局わからない。

 何か超自然的な存在が登場人物たちを観ている、ということらしいのだが(その意味では『キャビン』と同じだが、共通性を狙ったものではないはず)、それが何かもわからず、そこまでのストーリーとどういう関係になっているのかもわからず。どうやらその場所に関係しているらしいということだけは辛うじて示されているが。先住民の保護区だという設定は『ブラッド・パンチ』と同じ「土地の呪い」みたいなことだと受け取ればいいのだろうか。


 わからないものの、悪くはなかった。手持ちカメラで始終揺れる画面は、フッテージ物のPOVというわけではないが、なんだだ妙にリアルで、演技も演出も悪くない。何か不穏な、不思議なことが起こっているらしいことは十分に感じられる。

2021年11月13日土曜日

『マリグナント』-映画館で観るホラー

 宣伝を見て、えらく煽るなあと思って上映館を調べていた直後に、上映館近くに出張だった。終わってから観るとなるとレイトショーで、帰るのが深夜になるなあと思っていたら意外と早くに仕事が済んで、映画館に寄ってみると、10分後に上映回があったので飛び込んだ。

 ジェームズ・ワンは『死霊館』シリーズにはあまり乗れないのだが、何と言っても『Saw』創始者の一人だ。期待してもいいかも。

 さて、映画館は何と言ってもあの「音」だ。こういうのは、住宅街のリビングでは無理だ。音楽映画も良いが、ホラー映画は音の大きさが大事な要素ではある。

 なるほど宣伝にあるとおり、ジャンルが読めない。どうみても超自然的なことが起こっているようでもあるが、物理的な破壊も起こっている。といってサイコサスペンスではありえないような程度には超自然的といえる。いったい真相をどう読めばいいのか。

 下かと思っていると上だったり、前かと思っていると後ろだったりするミスリードが巧みで、まあ実に良くできた脚本だった。日本人には『ブラック・ジャック』の例があるが、確かにハリウッド・ホラーとして他に類例があるとは知らない。何とも意外な展開で最後まで楽しめた。明らかに続編を作ってやろうという終わり方ではあるが、十分な完結感はあって、本編は独立して満足できる。

 もちろんホラー映画的演出は手慣れたもので、背景とか隙間とかに不穏な気配を感じさせて、間をたっぷりとりつつ、いきなり来るという王道演出の連続。

 楽しかった。

『ゾンビ・サファリパーク』-B級ながら良作

 勢いづいて、もうちょっとホラーを観たくなって。

 B級なんだろうと観始めると、なかなか作りは悪くなかった。とはいえまあ『ジュラシック・パーク』のB級版とはいえる。

 主人公が走る。それを追う、そこそこ走るゾンビが、集まっていく様子を上から捉えたカットは見事だった。空撮のドローンが上昇していくにつれて緊迫感と高揚感がみるみる高まっていく。

2021年11月4日木曜日

『HELLO WORLD』-アニメのキャラクター

 『正解するカド』は後半でがっかり、『バビロン』は最後まで愉しかった野崎まど原作・脚本。本作は果たして。

 CGアニメらしい色の鮮やかさは活かしつつ、適度にセルアニメ的な絵柄に寄せてあるのは良い。アクションも高度で、アニメとしては質が高かった。

 ただ、お話としてはそれほど目新しくもなく、感動的でもなかった。狙いはよくわかるんだが、演出が子供っぽくて、「大切な人を守るために奮闘する」という切なさが胸に迫ってはこない。いかにもアニメのキャラクターの喜怒哀楽というふうに感じられて。

 終わりのドンデン返しも蛇足に思えた。そんなことやっていてはきりがないだけで、なんらそれまでの展開を感慨深いものにするというような効果があるわけではなく。

2021年11月3日水曜日

『マッド・ハウス』-「洗脳」に見えない

 住民全体がコミュニティを作るアパートの小綺麗な「1BR」(ベッドルーム一つの部屋。これが原題)に住み始めてみると、そこはアパート全体がカルト集団で、拷問による洗脳でその一員にされてしまう、という話。

 なかなか笑わない主人公の固い表情が、決して完全には洗脳されていないことを観客に伝えているが、とりあえずはコミュニティの方針に従うようになっていって、さて一体何時反逆することやら、という関心で見続ける。

 期待通り反逆して逃げ出して、さて外に出てみても実はそこらじゅうにそうしたアパートがあったという結末に、ああこれはバッドエンドの苦い終わりを味わうのか、と思っていると、主人公の手のアップ。それを握りしめて通りを走っていくという、それなりに後味の悪くない終わり方で、そこまでの展開のスピードも緊迫感も申し分ない。

 惜しむらくは、そのコミュニティが、本当に魅力的に見えるくらいの説得力があったらもっと面白かったんだが。やはりどうにも暴力的な洗脳、というか恐怖による支配に見えてしまって。

2021年11月2日火曜日

『箪笥』-腑に落ちない

 韓流ホラーとして評価の高い本作は、発表当時から興味を持ってはいた。娘が一緒に観るというのを契機にようやく。

 始まってみると、その演出や編集のテンポの、余りの遅さに耐え難いと始終思わされる。カットが変わってからアクションを起こすまで、なぜ何も変化の起こらない状態を、あんなに長く映しているのかとイライラしてしまうのは、Youtubeやテレビに慣れた悪い癖か。

 それでいてあまりの説明不足に、話が何やらよくわからない。速いテンポで情報を詰め込むとわからなくなるからテンポが遅いのかいうと、別に情報のない、とにかく冗長な間がやたらと多いというだけに感ずる。


 評価されるのはたぶん、古めかしい画面に映る空気感の懐かしさが、美しい音楽で一層引き立つところと、2回にわたる大きなドンデン返しに驚かされるところではある。真相がわかって切ない、ということもある。それは確かに良い。

 が、伏線が十分に観客に理解されずに、まるで再鑑賞を前提にしているようなのはいかがなものか。


 根本的な問題として、「ホラー」として売り出されているところに、サイコサスペンスを交ぜているところの中途半端さをどうしたものか、と思ってしまう。

 多重人格とか統合失調とかいう真相を用意して伏線を回収しているのに、映画は幽霊の存在を否定しないから、どうもスッキリと納得できない。不思議な出来事に対して、ある時は妄想で、ある時は幽霊だったりする中途半端さが落ち着かない。全部妄想で解決するように作ってしまえば良かったのに、と思う。貞子的ホラー描写もすべて妄想で説明してしまえば。

 そうするとまた別の問題もあって、妄想の人物やら幽霊やらが、それはそれで「生きている」ような芝居をしてしまうのに違和感がある。この間の『ババドック』は、そのような存在が出てきたときは、オカルト現象でも妄想でもいいような描写になっていた。だからホラーとサイコサスペンスが同居できていた。

 一方で本作では真相が明かされてから、あれは妄想だったとか幽霊だったとか言われても、ああなるほどと思えない。普通に物語に登場している人間としての演技/演出をしてしまうと、そういう不全感が残る。

 もうひとつ。箪笥の下敷きで死ぬというそもそもの悲劇と、死にそうになっているのを助けないというあまりの非人間的な振る舞いが特別な悪人として描かれないこと、真相を成立させるこの二つの展開のあまりの不自然さに、これも何か妄想の一部なんだろうかとか思っているとどうもそうではなさそうで、結局腑に落ちないで終わってしまう。

2021年11月1日月曜日

『幸せのレシピ』-魔法がとけて

 頭のところを観たら、成り行きでそのまま最後まで。

 勿論悪くないが、一緒に観た娘は、前に観たときの「特別」感がなくなったと言っていたが、確かにそういう感じではある。

 スコット・ヒックスは何と言っても『Shine』だが、あれは「特別」な印象のまま記憶されているのだが、観直すと本作のように「見慣れて」しまうのだろうか?

 前回書いたような魅力は、全く失われていないにもかかわらず。

2021年10月23日土曜日

『大統領の陰謀』-準備が足りない

 以前途中まで観て止まっていたのを、『マラソンマン』に駆動させて。同じ年に作られた、同じ脚本家の、同じダスティン・ホフマン主演映画。

 ウォーターゲート事件にまつわるあれこれを知らずに観ると面白さが半減。というのは、一度観て、ネットであれこれ調べてもう一度早送りで観直しながら感じたことだ。

 もちろん語り口も役者陣も一流の手触りはまざまざとあり、これぞジャーナリズム魂、というような感じ入り方をすべきなんだろうけれども、観ていて愉しいとすると、先にあれこれと知っていることが劇中に登場するからなんだろうとも思う。想定されるアメリカ人の観客には「常識」のことは殊更に説明されない。

 たとえばこれがかのディープ・スロートのことなのか、というのはしばらくわからなかった。そうなると、おおっ、きたきた、という感じにはならないのだ。

 それと、名前が覚えられないのと、その人物の事件への関与が把握できないのは、楽しみを著しく損なう。

 というわけですごい映画であることはわかるし、エンターテインメントでもあるのだろうけれど、感動した、というには準備が足りなかった。

 もちろん『新聞記者』を観ることより価値がある体験であるのは間違いないが。


2021年10月20日水曜日

『ババドック』-メタファーとしてのホラー

  誰かが高評価しているというので。

 後から調べてみるとフリードキン監督だったのだが、どういうわけか。

 いや、面白かったのだが。ホラーというよりはサイコサスペンスだった。オカルト要素があるのかどうか怪しんでいると、大方はサイコな理屈で収まる。その意味では実に精神的な緊迫感は高い。

 夫を事故で失い、息子はADHDで問題を起こしてばかりの主人公が、次第に追い詰められていく。クリーチャーは主人公自身の心のメタファーであろうとすぐわかる。

 とにかく描写が丁寧で的確、実に辛い。生活の辛さから、息子がいなければと思ってしまう母親の気持ちがリアルに伝わる。

 それを乗り越えられそうな、物語の最後の最後で、物理的にはオカルティックな現象が描写されるが、それもまあ心象描写の暗喩だと考えてもいい。そしてクリーチャーを滅ぼしておしまいかというと、地下室に「飼っておく」という結末は秀逸だった。

 心の闇は完全に消し去ることなどできず、飼い慣らすしかないのだと。

2021年10月16日土曜日

『マラソンマン』-正統派サスペンス

  ダスティン・ホフマンにロイ・シャイダー、ローレンス・オリビエと名優を揃え、アカデミー脚本家の手になる堂々たるサスペンス映画。

 ナチス・ドイツから戦後闇に流れたダイアモンドの行方をめぐって、メンゲレをモデルにしたナチ党員と、アメリカの諜報機関(のようなもの?)の双方に狙われる、不幸な大学院生をダスティン・ホフマンが演じている。完全な巻き込まれ型の犯罪もので、素人の主人公にはどんな対抗手段があるかというと、題名にある「マラソン」という特技のみ。いや、それが対抗手段というわけではないか。題名からして、それを使って闘うのかと思っていたが、期待したほどそれが劇的に使われるわけではなかった。とりあえず敵の手を逃れるくだりで、さすがに「走って逃げる」という有効利用はなされたのだったが。

 とすると、題名にまで取り上げられるマラソンが、何か別の象徴的な意味を持っているのかと考えてみたが、わからない。アベベが、映像や主人公の部屋のポスターで観客に印象づけられるのだが、それがなんなのか。走ることに何か哲学的な意味やら意志の強さなどが象徴されるというならわかるが、結局主人公はそういう人物としては描かれているようには見えない。

 恋人役の存在もなんとも落としどころが見つからない。実は敵の関係者でしたという「実は」要員ではあるのだが、そのまま裏切るでも、敵を裏切って主人公に味方するでもなく、中途半端に死ぬだけなのは、どういう感情を観客に起こさせたいのかよくわからない。

 という不全感はあるものの、総じて演出は驚くほど上手く、サスペンス映画としての質はとても高い。面白かった。

 冒頭近くのカーチェイスも、トンネルの中でデモ隊の自転車に囲まれ、ひやひやしながらトンネルを出るところで背景に凱旋門が見えるカット、パリのオペラ座の壮麗な建築と闇の深さ。暗闇からサッカーボールがこちらに跳んでくるカットは『牯嶺街少年殺人事件』ではないか。あれは、これを真似したのか!

 ロイ・シャイダーが暗殺者に襲われるシーンと、最後近くの銃撃シーンは、スローで観直すと、恐ろしく丁寧に殺陣が構成されていて、それが見事な編集で完璧に組み上げられている。

 物語に不全感があって、全面的に拍手喝采というわけにはいかなかったが、本当に良くできた映画だった。 

2021年10月10日日曜日

『ソウ・レガシー』-映画における倒叙トリック

 思い入れのある『Saw』シリーズだが、ネットの評判は芳しくない。期待はせずに観てみる。

 残酷描写を期待しているわけではない。テレビシリーズの『ハンニバル』や新シリーズの『ひぐらしのなく頃に』はそこが愉しくもあったのだが、最初からそこに対する期待が高いと、よほどのことがないと驚かない

 そもそも『Saw』シリーズにそれを期待してはいない。

 旧シリーズ『Saw』の魅力の一つは、ジグソウの哲学が何やら神妙な感じがすることだった。長台詞で死生観を語るジグソウには、良い俳優だと感心することしきりだった。命をかけたゲームを通して、新たな死生観を体験者が手に入れるという、まあそれはそれで無茶な理屈か、ジグソウ俳優の演技で、もっともらしく感じられたのだった。

 ところが、本作は残念ながらそこは無茶に過ぎなかった。そんなことでこんなゲームに巻き込まれ、結局あっさり死ぬのか、という残念展開だった。

 それよりも、『Saw』シリーズを見続けたのは、毎度感心するようなお話作りのうまさゆえだった。SSSでありながら、外でのドラマが並行して描かれ、それが意外な形で関わってくるという展開の醍醐味。乙一の小説などで時々仕掛けられる、読者(観客)をあえて誤解させるトリック。

 こちらの方は満足。

 並行して描かれる二つの場面に時間差があるらしいことは次第にわかってくるのだが、それがあのような形で一致するときには、これぞ『Saw』シリーズ、と拍手を送りたくなる。


2021年10月9日土曜日

『シャイニング』-「世界遺産」的

 クールの変わり目でアニメの新シリーズをチェックするのに忙しいのだが、アニメを見続けていると洋画を見たくなって、かつホラーを何か、と、録画したままになっていた本作を。

 何十年ぶりかわからないが、『ゼイリブ』に比べても覚えているような自覚だったのだが、まあ似たようなものだった。やっぱり覚えているのはあちこちで引用される場面ばかりだった。

 さてそうして観直した印象としては、いささか拍子抜けだった。さして怖くはない。ジャック・ニコルソンの演技はむろん迫真だったが、それはそういうものだと思って観てしまえば、それ以上に驚かされるような恐怖はないし、直截的な恐怖は物理的なものだ。

 そして、ジャック・ニコルソンが狂気に染まっていく過程は、思いのほかあっさりと、急な印象なのだった。もっとジワジワとそうなっていくのかと思っていたが。

 いつキレるかわからない人の怖さは、もうちょっとバランスが微妙で、どっちに転ぶかわからない時にこそ怖いのであって、本作の父親/夫は、早い段階でもう危険な人になってしまっていて、後は物理的攻撃を避ければいいだけなのだ。子供が逃げるときにはそれなりにハラハラするものの、それも結局は単純な機転であっさりと逃れてしまい、あっさりと退治されてしまう。「シャイニング」はどこに使われたのだ。

 もう一人の「シャイニング」の持ち主の、あまりにあっさりの退場といい、原作の「シャイニング=超能力」をまるで活用しないならば、なぜこの原作なのかわからない。といってホラーとしての愉しさを極めるつもりとも思えない。


 見所は舞台となるホテルの豪華さ、壮麗さだな。そこはなんだかすげーなと思ってみていた。そこまでの道のりの大自然とか、冬には2階くらいまでが雪に埋まってしまう過剰さとか。

 それは何だか、テレビの「世界遺産」を観てるような感動なのだが。

 原作はそのホテルこそ脅威の根源なのだそうだが、映画は過去の事件の怨霊と父親の焦燥感が脅威の原因としか感じられなかった。 

2021年10月3日日曜日

『ゼイリブ』-過剰とアンバランス

 40年前の本作を観たのは30年以上前ではある。眼鏡を掛けたときにインベーダーが骸骨のような姿で見えるという、ただそれだけの基本設定は、その時の記憶だか、あちこちで引用されるせいだかで明瞭にイメージできるのだが、主人公がどんな人物で物語がどう展開するのかの記憶はまるでなかった。

 大衆煽動的な資本主義に対する批判というコンセプトと、馬鹿げて長い殴り合いのシーンを褒める言説がネットに散見されるのだが、全然ピンとこない。プロレスラーが演じる主人公の殴り合いは、やはりプロレスで、格闘技を見慣れた目からは空々しい。

 問題の資本主義批判にも感心しない。インベーダーとなれば外部から来たということだが、眼鏡を掛けたときに、インベーダーと人間が明確に区別されてしまうというのは、本質的に間違ったイメージだ。誰もが、程度はともあれ「骸骨」であり、それは外部から来たものではないだろう。

 人間の側にも、そちら側に与する裏切り者たちがいる、というのがそれを表しているのだという理解はできないこともないが、それにしても単純な2項対立の構図が決定的に変わってしまっているわけではなく、その批評性にも疑問がある。

 途中の、路地での打ち合いの場面は、建物の壁が左右に迫る圧迫感が照明で演出されて非日常感が現出していた、とても映画的なシークエンスだった。こういうところが、低予算映画監督の腕の見せ所だな。

 それにしても『遊星からの物体X』以外のカーペンター映画は、どうにも安っぽいのに驚かされる。その中で面白くなるかどうかは作品毎に差がありすぎて、それだけ『遊星からの…』が屹立した傑作だということか。

2021年9月18日土曜日

『REC3 Génesis』-謎設定のゾンビ物

 短いホラーをということでお馴染みのシリーズの続き。

 だったのだが、冒頭しばらくのPOVのあと、カメラが壊れてしまい、どうするのかと思っているとその後はすっかりPOVをやめて、カットあり他視点ありの普通の映画になってしまうのだった。「REC」シリーズどうした?

 『4』はまた元のPOVで、登場人物も前の関係者になるらしいから、この『3』だけが、制作陣は続いているものの、なにやら迷走したということなのか。

 それで、面白くもなかった。何かワクワクするような特別の仕掛けがあるわけでもなく緊迫感や爽快感が強いわけでもなく、かえって、途中まで同行していた人たちがあっさり退場するのもつまらないし。

 だいたい、ゾンビ物で、感染による増殖だというのに、そのウイルスはキリスト教的悪魔によるものなんだとか。何の必要があってこの設定? 悪魔なら単なる憑依でいいじゃん。なぜ噛みつく必要が?


2021年9月17日金曜日

2021年第2クール(4-6)のアニメ

『SSSS.DYNAZENON』

 「SSSS」って、もしかして『SSSS.GRIDMAN』か? と思ったらそうだった。やはり動画も演出もうまい。「グリッドマン」ほどの異世界感も日常感もなかったが、次作に期待はつながる。


「スーパーカブ」

 孤独な女子高生の閉鎖的な世界が、スーパーカブ購入によって拡がっていくというコンセプトはいい。物語の「拡がる」場面でアニメの彩度が上がる演出や、BGMにピアノクラシックを使うところも良かった。

 好ましい印象で観始めたが、夏休みのバイトの件や修学旅行のエピソードにリアリティの水準が落ちてちょっとがっかりしていると、後ろへいくほどにがっかり度が高まって、最後の2話はほとんど不快でさえあった。調べて初めて、途中の道交法違反描写が炎上していることを知った。それに対する原作のスタンスも、作者の見解も知り、興味深い論争だと思ったが、感想はそこではなく、やはり最後の2話のあまりの非現実的展開に対する落胆だ。非現実的な展開は、こちらの共感を阻害してしまう。しかもそれは、原作では考えられていて、そこに言及しているポイントが、アニメで省略されているから感じる非現実感なのだ。上記の道交法違反もそうなのだそうだ。となればそれはひとえにアニメスタッフのせいではないか。


「美少年探偵団」

 西尾維新と新房昭之に、主演が坂本真綾なので最後まで観たのだが、最後まで面白くなかった。坂本が美少年に囲まれると言えば「桜蘭高校ホスト部」だが、あちらの方がよほどいくつもの見せ場があって。「美少年探偵団」という設定に、何も惹かれるものがなく、副題に表れるミステリー趣味も、「趣味」程度にとどまって「無能なナナ」のような知的ゲームにはならず。


「MARS RED」

 大正ロマンに吸血鬼設定が載った、何だか妙に格調高いような低俗なような、変なアニメが始まったと思って意識してみると原作の藤沢文翁という名前が音響監督でもある。音響監督が原作のアニメって何だ?

 もともと藤沢という人が劇作家で、朗読劇の舞台劇が原作なのだった。それで音響監督もやると。なるほどそれで舞台劇が物語に重要な役割を果たしているのか。

 人間と共存できない吸血鬼設定が時々切ない味わいもあったが、通してそれほど面白いとも思えなかった。


「さよなら私のクラマー」

 原作の新川直司はデビュー作の「冷たい校舎の時は止まる」から感心していたのだが、それ以降の「四月は君の嘘」に続いて本作のアニメ化となった。「冷たい校舎の時は止まる」こそ映画化でも1クールのアニメ化でもするべきだと思うが。これまたいくつも実写化されている辻村深月作品としても。

 で新川作品であるところの本作だが、時々「はいきゅー!!」的な面白さはあったが、基本的にはアニメの出来がひどく、たぶんアニメ化にあたっての俗悪なデフォルメ描写にがっかりした。原作はそんなことはないのだろうと期待している。


「Vivy -Fluorite Eye's Song-」

 初回の最初に、ロボットの反乱らしき場面が描かれているのだが、その描き方がなかなか巧みだと録りだし、そのまま1話も観ずに最終回まで録画を終えて、一気見した。初回は1時間のスペシャルで世界観を見せるのだが、アクションの作画も、そこへ至る物語のスピード感も圧倒的で先に期待を持った。それ以降も2話くらいずつの区切りでエピソードを見せながら、100年に渡る、AI反乱に至る歴史を辿る。最後まで観ると、いろんなことがあったなあ、という、長い物語につきあった感慨があってすごぶる良い。初回ほどのアニメーションは、途中にもう1回くらいで、毎回がすごいレベルだったというわけではないが、ぐだぐだになることもなく好印象。

ただ、AIを扱っていて、やっぱりまるで人間的に描かれることの残念さがあった。


「ゴジラ・シンギュラポイント」

 始まった途端に、まず「言葉」に圧倒される。脚本と科学考証を担当するのは円城塔だという。それで。

 とはいえ作画も一貫して高品質。毎回のイマジネイションもすごいなあ、と思っていたのだが、結局ハードSFと怪獣映画の両立には成功したとは言い難い。


「東のエデン」

 再放送にともなって劇場版も放送されるという。10年越しに決着をつけるべく、テレビシリーズも録画して、まとめて観る。

 今観ても驚くほど高品質に全話が作られている。街並も人物も、一切ダレることなく最終話まで走りきる。そして、各話の展開は驚くほど巧みに興味を引きつける。

 まあその前の『攻殻機動隊SAC』がそうだったとはいえ、オリジナル作品をこのレベルで作っていた神山健治はやはり偉大で、とはいえやはりテレビシリーズでは話が完結していないので、何のことやらわからない。


「シャドー・ハウス」

 京アニほどとはいわないが、CloverWorksも安定して良い仕事をしている。これも、影と闇の動き方が実に見事。全体の作画レベルは実に高い。

 だがどうも主人公のドジっ娘ぶりが観ていて落ち着かない。積極的な面白さがあるわけでもなく、全話録りためて観るのに滞って、3クールが終わる頃にようやく見終えた(しかも途中をとばして)。


2021年9月12日日曜日

『リズと青い鳥』-残念ながら

 テレビシリーズ『響けユーフォニアム』は2シーズンとも観ていて、京アニの質の高さを劇場映画でジブリブランドの『かぐや姫』と比較して言及したことがある。

 京アニの劇場版となればさらに高品質。『氷菓』の1話では評価の低かった山田尚子は、その後『聲の形』がすごかったし。

 今作も、まあ細部の演出が呆れるほど上手い。カメラの移動やら対象の微妙な動きやら。そこに登場人物たちの感情が重なる。

 だがしかし、物語にまるで共感できない。残念ながら。これは好みの問題なのでどうにもならない。まるで面白くない。残念ながら。

 

『イニシエーション・ラブ』-ドンデン返しだけが

 書店で宣伝されている時に興味を惹かれていたがきっかけがなく、今回は『屍人荘の殺人』に続けて、ミステリーの邦画という括りで。

 始まった途端、主人公が連れ合いと同じ歳、同じ大学の大学生でのけぞる。どういうわけでその時代の中途半端な国立大学生に主人公を設定するのかと思ったら、まあバブル期の新入社員で、地方大学から東京に出て、ぎりぎり恋人と会うために週末に地元に帰れるくらい、という設定の必要らしきものはあるのだが、まあそれが面白さにつながるかというとそんなことはない。

 そう、面白くない。とにかくつまらなくてどうしたものかと思いつつ見続ける。宣伝文句の「ラスト五分のドンデン返し」を見届けるために。

 なるほど、その時が訪れると、それなりの満足はあるものの、それだけでそこまでの退屈さを許す気にはなれず、堤幸彦は近いところで『十二人の死にたい子どもたち』以来の低評価を安定させている。


 そのドンデン返しだが、映画と小説の枠を超えてトリックを成立させる力業はちょっと感心した。

 小説では、描写によってその人物のイメージを同定するから、違う人物のように描かれている二人が、実は同じ人物でした、というようなトリックをしかけることは容易だが、それは実写映画では無理だ。メイクでごまかすのには無理がある。同じ役者であることを観客に悟らせないのは難しい。

 一方で同一人物のように描かれながら、実は別人でしたというようなトリックも、実写では難しい。双子だとか多重人格だったとかいう別な設定が必要になる。

 しかし堤演出では、全然別の役者であることは明白で、しかしそれは同じ人物を演じているということなんだな、という堤映画的お約束だという了解を観客に強引に与えてしまい、それ自体がトリックを成立させる。


 そういえば堤幸彦でトリックと言えば『TRICK』だが、あの脚本は『屍人荘の殺人』の脚本を書いている蒔田光治なのだった。思いがけない連続。

2021年9月8日水曜日

『屍人荘の殺人』-意外とスカスカな

 去年の夏に原作を読み出したが一旦止まり、今年の夏にもう一度と思って図書室から借りて、半ばまで読み進めたところで映画を観てみる。登場人物のイメージを映画と同期させようと。

 始まってすぐ、原作にはないエピソードが続き、本格物であるはずの原作の情報量はちゃんと映画に書き込まれるのか不安になる。そんなおふざけに尺を費やしている余裕はあるのか?

 だがその点については不明なまま、結局終わりまで観てしまい、そこそこの謎解きに中途半端な思いのまま、どうだったのかはわからぬまま、追いかけて原作を読み進めてみる。

 驚いたことに主要な謎解きはほとんど映画に盛り込まれている。それなのにあれだけのおふざけを入れた映画は大したものだというべきか。逆に錚々たるミステリー賞を総なめにした原作は、そうしてみると以外にシンプルな構成なのだった。

 それよりも映画は浜辺美波の美少女探偵のズッコケぶりが愉しく、原作がスカスカな印象であるのに比べて、愉しさが増している気もして、意外なことに映画は原作の魅力に遠く及ばないという多くの例に必ずしも則っていないのだった。

 といって映画は名作、というわけでもなく、まあまあ、というくらい。かえって評判の高い原作は単独で読んでいれば、もっと面白く感じたかもしれない。


 原作、映画、どちらにも肩すかしに感じたのは冒頭から出てくる「名探偵」が意外と途中で退場してしまうことで、それはもっと劇的に後で物語にからんでくるんだろうと思いきや、いささかあっさりした再登場に終わるのだった。しかもどこで再登場するかで言えば原作の方がまだしも劇的で、映画の方の改編は中村倫也を殊更に目立たせたいと考えた改編ではあるのだろうが、成功していない。


2021年8月31日火曜日

この1年に観た映画 2020-2021

  オリンピックの延期された2020年の夏から2021年までのコロナ禍の1年間に見た映画は以下の70本。その中から例によって10本。


9/21『ウインド・リバー』-重量感のある傑作

12/15『運び屋』-自由で頑固

9/6『ランダム 存在の確率』-実に知的なパズル

9/7『ハッピー・デス・デイ』-最高にエンターテインメントなホラー

9/25『CABIN』-わがままな神

11/3『ロスト・バケーション』-「高級な」サメ映画

2/20『ザ・クレイジーズ 細菌兵器の恐怖』-奇妙なリアルさ

3/21『アップグレード』-レベルの高い一編

5/27『クワイエット・プレイス』-馬鹿げた非難

4/11『私をくいとめて』-いくつもの感情の波

6/2『劇場版 STEINS;GATE 負荷領域のデジャヴ』-デジャヴの喪失感


 いや、11本になった。


 『ウインド・リバー』と『運び屋』は、どちらも本格的な「映画」の手触りがずっしりと感じられた。


 『ランダム 存在の確率』『ハッピー・デス・デイ』『CABIN』『アップグレード』は脚本が練り込まれた、才気に溢れる低予算映画。

 『ロスト・バケーション』『クワイエット・プレイス』はそれよりもうちょっとメジャーな感触だが、やはりよく考えられたお話を、緊迫感溢れる演出で見せた。


 ロメロの『ザ・クレイジーズ 細菌兵器の恐怖』は、長いこと見たいと思い続けて、今年思いがけずアマゾン・ビデオに上がって念願が叶った。満足した。


 『私をくいとめて』は唯一の実写邦画。脚本と監督の手腕もあるが、能年玲奈の存在感はすごい。


 『劇場版 STEINS;GATE 負荷領域のデジャヴ』は、テレビシリーズを見通した感慨が付加されているとはいえ、映画そのものも手頃な完結感が懐かしい記憶になっている。


 だが、決定的な一本がない。圧倒的な「体験」となるような一本が。


 次点。

 『私は、ダニエル・ブレイク』は手堅い佳作だった。映画を観ることが社会への目を開かせるような。

 『Yesterday』は幸せなラブコメディを観る幸福感があった。


 『フレンチ・コネクション』『BLOOD The Last Vampire』『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』『攻殻機動隊 S.A.C. SOLID STATE SOCIETY』はそれぞれ再鑑賞で、あらためてその名作ぶりを再確認。


 以下、鑑賞順に。


9/3『私は、ダニエル・ブレイク』-他者への想像力

9/5『Yesterday』-幸せなラブコメディではあるが

9/6『ランダム 存在の確率』-実に知的なパズル

9/7『ハッピー・デス・デイ』-最高にエンターテインメントなホラー

9/8『ザ・ウォード 監禁病棟』-単にB級でしかない

9/11『クリーピー 偽りの隣人』-とてもバランスが悪い

9/12『マッドマックス2』-映画館で観るべき

9/13『マッドマックス/サンダードーム』-ちょっと格調高くなってる

9/13『ハッピー・デス・デイ 2U』-おそるべき構成力

9/21『ウインド・リバー』-重量感のある傑作

9/25『CABIN』-わがままな神

9/30『ジャック・リーチャー NEVER GO BACK』-実に楽しい

11/3『ロスト・バケーション』-「高級な」サメ映画

11/6『ライト/オフ』-ショートムービーでいい

11/15『フローズン』-安い恐怖

11/27『ダークハウス』-安い恐怖続く

12/12『フレンチ・コネクション』-映画の力が横溢した

12/13『ハチミツとクローバー』-みんな若い

12/15『運び屋』-自由で頑固

12/20『サカサマのパテマ』-眩暈のする世界観

12/26『ねらわれた学園』-美しく気持ちの悪いアニメ

12/29『残酷で異常』-小品

12/31『アーヤと魔女』-裏返しの期待を確認する

1/10『ナチュラル・ボーン・キラーズ』-実はまっとうに面白い

1/17『エヴァンゲリオン 新劇場版 序』-確認続く

1/20『サマー・オブ84』-またしても小品

1/24『リピーテッド』-名優の無駄遣い

1/29『エヴァンゲリオン 新劇場版 破』-続・確認続く

1/31『エヴァンゲリオン 新劇場版 Q』-3回目にして

2/5『散歩する侵略者』-黒沢清への不信感

2/7『天気の子』-アニメ的お約束

2/12『カルト』-真っ当な創作物を

2/13『オタクに恋は難しい』-コメディエンヌとしての高畑充希

2/15『Loop』-ちょっと難しい

2/20『ザ・クレイジーズ 細菌兵器の恐怖』-奇妙なリアルさ

2/21『ザ・クレイジーズ(リメイク版)』-完成度の高い「お話」

3/13『ラスト・ムービー・スター』-甘さを許せるなら

3/14『×××Holic 真夏の夜の夢』-原作通り

3/18『ペルソナ3 劇場版』-ゲームの限界

3/21『Fukushima50』-いろいろ残念

3/21『アップグレード』-レベルの高い一編

3/23『ハウンター』-物語の論理の混乱

3/25『台風のノルダ』-視点の低さ

3/27『空の青さを知る人よ』-予想の確認

4/10『KUBO/二弦の秘密』-論理破綻

4/10『何か』-低予算サスペンスの佳作

4/11『私をくいとめて』-いくつもの感情の波

4/22『BLOOD The Last Vampire』-画面の隅々まで

4/24『ロープ』-もちろんよくできているが

4/25『新聞記者』-期待外れ

4/29『ファンタスティック・プラネット』-イマジネイションは豊穣なるも

5/2『シャークネード2』-C級にとどまる

5/10『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』-価値の対立

5/16『トレマーズ5 ブラッドライン』-義理立て

5/27『クワイエット・プレイス』-馬鹿げた非難

6/2『劇場版 STEINS;GATE 負荷領域のデジャヴ』-デジャヴの喪失感

6/12『シン・エヴァンゲリオン』-ついに「卒業」

7/9『星を追うこども』-あまりにひどい

7/18『009 RE:CYBORG』-郷愁に浸ることなく

7/23『攻殻機動隊 S.A.C. SOLID STATE SOCIETY』-最高に高品質

8/5『ブラッド・パンチ』-低予算の良品ホラー・コメディ

8/7『ヴェノム』-軽い

8/8『積むさおり』-象徴としての耳

8/8『スカイ・クロラ』-狙い通りの退屈

8/9『トゥルー・ロマンス』-脳天気

8/9『ペンギン・ハイウェイ』-夏休み

8/12『式日』-Coccoの「Raining」が流れる

8/14『水曜日が消えた』-ぼちぼち

8/15『ジョナサン ふたつの顔の男』-元ネタとして

8/28『タクシー運転手-約束は海を越えて』-エンターテインメントとして


2021年8月28日土曜日

『タクシー運転手-約束は海を越えて』-エンターテインメントとして

  韓国俳優としてはお馴染みのソン・ガンホ主演で、韓国ではかなりヒットしたという。

 なるほどエンターテインメントだ。「光州事件」という政治問題を扱ったシリアスな面もあるにもかかわらず。

 とはいえ、その面白さはこのテーマがもっているシリアスさに拠る。ソン・ガンホ演ずるさえない庶民的オヤジが、物語の進行にしたがって、世界の見方を変えていく。政治問題が、どこかで起こっている他人事ではなく、自分の関わった人たちがその渦中に置かれたリアルな問題として捉え直されていく。

 同時に、やはりこれはサスペンスでもあり浪花節でもありのエンターテインメントなのだった。

 そのためには、軍警察に追われることの緊迫感や、催涙煙の中から姿を現す軍隊の恐ろしさや、命を落とす民衆に対する愛おしさが充分に感じ取れなければならない。

 それが成功していることによるエンターテインメント映画として、充分な及第点にあるのは間違いない。

2021年8月15日日曜日

『ジョナサン ふたつの顔の男』-元ネタとして

  実は『水曜日が消えた』の設定やイベントにはパクりが多いという情報がネットにあって、これはその一つ。

 こちらは二重人格が一日の半分ずつを占有するという設定。

 ただし、どちらかが消えてしまって…、という話ではなく、最後に消えてしまう一方の人格を見送る。

 全体にはシリアスなタッチで、コミカルだったりほのぼのだったりする『水曜日が消えた』とは雰囲気が随分違う。

 どのカットも安定した「洋画」クオリティで見られるんだが、結末は何だかどこに感動すれば良いのかよくわからなかった。

 例えば消えてしまう一方の人格に対する愛着に観客が共感できれば、その喪失感が面白さなのだろうとわかるのだが。

 突然そこで登場するタクシー運転手が妙に意味ありげに描かれる意味がまるでわからなかったりして。

2021年8月14日土曜日

『水曜日が消えた』-ぼちぼち

  去年の公開の時に興味をひかれていた。曜日で性格の変わる多重人格の一人が消えてしまうという設定は確かに面白そうだ。

 主人公を「火曜日」に据えて、経験できなかった「水曜日」を経験するワクワク感は悪くない。

 が、まあ全体としてはそこそこ、という感じだった。登場する人格は、結局主人公の火曜日と月曜日だけで、映画の最後にそれぞれワンカットだけ登場する他の曜日のキャラクターの「別人」ぶりが見事ではあったが、それをもっと見せておかないと、他の曜日が消えてしまうことを、火曜日が止めたいと思う動機に、観客が乗れない。

 他人格がどうして消えてしまうのか、というのと、どうやって消えないようにしたのかという理屈も、上手く伝わってこずに、納得感も爽快感も安堵感もぼちぼち。

2021年8月12日木曜日

『式日』-Coccoの「Raining」が流れる

 突然娘が「観てみよう」と言い出して観たが、娘は中程まで観てもうギブアップで早送りしようと言い出す。気持ちはわかるが、いわば「けりを付ける」というような意味合いで、翌日に一人で後半から観直す。

 庵野秀明監督で岩井俊二主演ということで、もちろん20年来、観ようとは思っていた。だが積極的に観たいと思うこともなく過ぎた。

 で、ひょんなことからようやく観てみると、確かに早送りしたくなるに充分なほど退屈でもあり、それ以上に観ていて嫌な気持ちにもなる映画ではある。

 基本的には、母親との関係で傷ついて現実逃避している若い娘と、仕事に疲れて現実逃避している「カントク」が過ごす1ヶ月ほどの、非日常的だが、といって特に何が起こるでもない日々を描くだけの映画だ。それに2時間以上もかけるのだから、それは退屈に違いない。

 例えばこの二人の抱えている傷が充分にリアルだったり、微妙な問題を的確に捉えていて感心してしまうような人間ドラマが描出されていたりすれば、もちろんそれはそれで観るに値する。

 だが印象としては、ものすごく型通りの「傷」にしか見えなかった。そしてそれは「エヴァ」同様、到底共感できないのだった。親の愛情が足りなくて精神不安定になる? それってそんなに当然のことなんだろうか? ネットで頻出する「メンヘラ女」という一括りの雑な言い方が、しかし無理もないと思えるほど、凡庸な描き方に見えるのだ。

 それに、どうなったらあの描き方で「カントク」が女に向かって「君が好きなんだ」と言うことになるのか、心底わからない。物語としてはあまりに浅いと感じざるを得ないではないか。

 それと、映画としては、男女のナレーションで心情やら状況やらを語らせてしまうのは稚拙なやり方だと感じたし、中途半端に手書きのアニメーションを入れるのも興醒めした。もっとドキュメンタリータッチで、でも創作物なのだから、充分に繊細な描写を的確に入れ込んでしまえばいいのに、と残念だった。


 にもかかわらず、全体としてそれなりに愉しんだ。

 いくつかの画面は、確かに映画的に見ていて愉しかった。ビル内も街も、カメラが非日常的な空間を切り取って見せてくれる。そこを移動するカメラワークも映画的に愉しい。

 かつ、ドラマとしては期待値が低くなっている分、村上淳がからんでくるくだりなどは、お、意外と観られるじゃん、とさえ思った。観ていて辛いほど不安定な女が、それなりに安定してくる場面では、反動で嬉しくなってしまう(最近ネットで、エヴァファンってDV野郎が暴力を振るった後で優しくしてやるとそれだけで女が却って依存してしまうようなものだという秀逸な評言を見つけたのだが、これもそういう感じ)。

 そしてわずかなハッピーエンドらしき結末にCoccoの「Raining」が流れると、これはもう確かに感動的なのだった。もちろんこれは楽曲の力なのだが、それが確かにふさわしい場をこの映画が用意しているのだ。それ込みで、完結した作品としてのこの映画の力ではある。

2021年8月9日月曜日

『トゥルー・ロマンス』-脳天気

 観始めてから、はて誰の作品だったかと確認してみるとトニー・スコットか。なるほど映画としての手触りは確かだ。

 だがどうも展開が似ている。『ナチュラル・ボーン・キラーズ』に。多分『テルマ&ルイーズ』とか『ボニー&クライド』とかとも似てるんだろうがそちらは未見で、それらに影響を受けているという『ナチュラル・ボーン・キラーズ』なのだが、調べてみるとあにはからんや、脚本がタランティーノなのだった。

 比較して言えば『ナチュラル・ボーン・キラーズ』の、オリバー・ストーンのような悪ふざけをしないトニー・スコットの語り口は、物語展開の面白さだけを端的に描き出していた。デニス・ホッパーとクリストファー・ウォーケンの対峙はひりひりする緊張感だし、展開のスピード感とカタストロフの過剰さもうまい。


 ただ、こういう人たちにはついていけない、という感じは止みがたく、ある。犯罪に対するハードルの低さも、「トゥルー・ロマンス」なるものを信じてしまう脳天気さも。


『ペンギン・ハイウェイ』-夏休み

 気になることがあって、観終わってから原作を読んで、もう一度観直した。その上での感想。

 原作は日本SF大賞を受賞しているのだが、どういうわけでこれがSFとして評価されているのかわからない。物語の「謎」が、映画を観ても納得できるような説明になっていないのだが、それは映画ばかりでなく原作がそうなのだった。SFの面白さってこういうの? 架空の設定があるのは当然として、架空であることと辻褄が合っていることの両立がSFの面白さだというのが筆者の理解なのだが。

 「海」や「ペンギン」についての充分に「科学的」な説明が必要だとは、必ずしも期待しない。だがあの「お姉さん」の設定は納得できない。なぜ彼女なのか、という疑問を素通りして、そもそも彼女が人間ではないという真相に至るのだが、それと彼女があまりに人間らしく描かれていることとの不整合が腑に落ちない。

 最近「Vivy -Fluorite Eye's Song-」を観ての不満もそこだった。AIを描くなら、人間とは違う情動をどう描くかがテーマではないか。異星人でも同様だ。最近『ヴェノム』でも感じた。

 それが実現されている作品は間違いなくあるのだ。

 そもそも原作は『ソラリスの陽の下に』に対するオマージュだというのだが、いやいや、『ソラリス』は異生命体コンタクトものとしての極北だ。あそこで描かれる、人間が人間的な推論(感情移入による推論)をすることの不可能性はあまりに鮮烈で、AIでも異星人でも、こうした範があるというのに、なぜ浅慮のままに人間らしく描いてしまうのだろうといつも残念に思う。

 が、一方で「お姉さん」は人間として描かれる必要がある。それこそがこの物語の魅力なのだから。少年の愛情の対象として、彼女は魅力的な「人間」でなければならない。

 だとすればこの物語は基本的な設定として破綻している。SFとしては。


 だが一方で、ジュブナイルとしての愉しさは全開だった。理屈っぽく、小学生離れして大人びているという主人公の人物造型が逆に小学生の時間を鮮やかに描き出すという目論みは原作でも映画でも同じく成功していた。

 学校の場面がいくつか必要なのは仕方がないが、できればこの物語を夏休みの中だけで完結させてほしかった。途中から展開される夏休みは、本当にジュブナイルの象徴のようなかけがえのない子供時代を感じさせて、途中からそれが終わって2学期に入ってしまっているのが本当に惜しかった。

 この、夏休みに象徴される子供時代の空気感が魅力的に描かれているというだけで、この物語は成功である。


 その上で、原作を読んでみて、アニメーションの成功と失敗がやはりどうしてもあるのだと感じられた。

 アニメーションとしては無論良くできている。緑がきれいだ。水や風が感じられるし、スピード感も素晴らしかった。

 主人公の北香那も、特異なキャラクターの「少年」を演じて文句なく上手かったし、最初、合わないと感じていた蒼井優の「お姉さん」も、小説を読むときにはもうすっかり蒼井優の声でしか読めなかった。

 だが、小説を読むと、やはりこれくらいの映像描写では、まだ小説で感じる繊細な心の動きが描き足りないとも感じた。その代わり毎度のこと、アニメ的お約束に流れていると感じる描写が多かった。そういうアニメ的ユーモア、ギャグを、観客として想定している子供が本当に喜ぶのか、それとも作り手の思い込みにすぎないのかは、実は定かではない。だがそれが大人の鑑賞に堪えないのは残念ながら確かだ。

 だから、小説の最後には泣かされてしまった少年の一人語りは映画でもそのままナレーションとして流れるのだが、その後に挿入される短い小芝居がエンディングとなることで、その感動は小説のようには起こらないのだった。

 小説が情景描写や心理描写で描き出す微妙な心の機微。それをどうやってアニメが描くのかはやはり大いなる課題である。

2021年8月8日日曜日

『スカイ・クロラ』-狙い通りの退屈

 神山健治の一方で、押井守に対するケジメの一つがこれ。公開から13年経つ懸案(だがまだ『イノセント』が残っている)。

 世評からするに、面白くなる期待はできない。

 だが少なくともアニメーションは悪くないだろうと思って観てみると、なるほどいい。そこはこだわりなんだろうから当然とも言えるが、戦闘機の空中戦のスピード感やカメラワークはもう今更という感じだが、それが海に堕ちるときに一緒にカメラも一瞬水面下に沈むカットなどは息をのんだ。


 とはいえ、やはり面白くはない。

 静かで動きのない物語やら芝居やらは、それ自体に面白くない原因を見出そうとしても、そうした批判はあまりに当然すぎて押井守には通じないだろう。

 退屈ささえ、この物語の狙い通りなのだから。

『積むさおり』-象徴としての耳

 とりあえず短いホラーを観たいと検索すると、『本当にあった怖い話』シリーズが出てくる。なるほど確かに短編だ。比較的評価の高いものを2本ほど観てみるが、まあ予想の範囲内。で、それよりもうちょっと評価が高くて、ちょっと長いが、なんだかよくわからない本作を観始める。

 これは良くできていた。『本当にあった怖い話』やら『新耳袋』あたりの、怪奇現象が起こるたぐいのホラーではなく、いわば心理サスペンスだが、監督がホラー映画に関わりのある人だというので検索に上がったのだろう。

 話は単純で、中年の再婚夫婦の、主人公である妻に「積」もっていく微妙な不満が、幻想の中で爆発する、というだけ。結局は、実際に夫を惨殺して…といったホラー展開にはならない。

 特に悪気があるわけでもない夫の無神経なふるまいが、これはそういうことか? と思っていると、そうなのだ。その微妙な描写の積み重ねが巧みなのと、主演の黒沢あすかの演技が圧倒的なのがまず高評価なのだが、それだけではない独特の仕掛けもある。音である。

 不満の累積が耳鳴りというか、難聴のような症状として表れてくるのだが、同時に、不快な音だけは強調して聞こえてくる(これはテレビでは観られないと、パソコン再生でヘッドホンをして視聴した)。

 と同時に、散歩の途中で見つけた、公演の一隅にある枯れ木の隙間が、なにやら象徴的な心の暗闇にように感じられ、それが最終的に耳の比喩として描かれる。そこに巨大な「耳かき」を入れて、様々な「不満」を掻き出すのだが、その巨大な「耳かき」が、人体を模している奇妙な造型なのが印象的だった。

 この奇妙なオブジェがどのように発想され、かつそれがなんでこんなによくできているのかと思って調べると、そもそも監督は特殊メイクの専門家なのだった。その専門性を活かして、かつ繊細な演出を積み重ねた心理サスペンスとしての佳品だった。監督自身の脚本でもあり、主演女優が実生活の妻でもあるところに好感度も増す。

 結局日常に戻っていく結末を、ハッピー・エンドだと捉えて良いのやら。

 怖い。

2021年8月7日土曜日

『ヴェノム』-軽い

 こういうのは気楽だから録画してすぐ溜めずに観てしまえる。

 始まってすぐの宇宙船墜落現場の空撮がなかなかによくできていたりして、映画を観ている愉しみを感じられたりする。

 だが肝心のヴェノムのCGは、まだ実写部分と違和感なく動かせているかというとそんなことはなく、すごい技術進歩だなあと思っていた20年くらい前から変わらない。部分の細かさや質感は増したが、全身の動きが自然な生物らしく見えないと、力強さもスピード感も空々しくなってしまうのだ。

 だから冒頭の空撮にせよ、途中のカーチェイスにせよ、すごいのは実写部分だった。その後の敵数十人との戦闘や、ラストの敵異星人との戦いなどは、もうどうでもいいという感じだった。

 一方でこれは異星人に乗り移られるけど共生の方法を探るバディものでもある。となれば『寄生獣』だ。確かにデザイン的にも連想されるところが随分あるから、比べたくなるのも人情。

 で、比べてどうだというのも、真面目に語るにはばかばかしい。『寄生獣』のような真面目な考察がされているわけもない。ヴェノムの行動原理が浅くしか感じられない。生き延びようとして主人公に味方するのはわかるが、異星人としてはうだつが上がらないのが、地球で生きていく方がいいのだとラスボスを倒すことにしたのだという理由付けは無理矢理。ラスボスが異星人を「何百万」も連れてくるという計画も、まったく実現の方法が視聴者にわからない。それでどんな危機感を抱けば良いのか。

 あちこちの軽いやりとりがそこそこ楽しかったり、アクションが爽快だったりする部分もあったが、全体には軽く観るしかない。

2021年8月5日木曜日

『ブラッド・パンチ』-低予算の良品ホラー・コメディ

 「タイムループの呪い」という邦題が信じ難いほどダサいのだが、観てみると本当に「呪い」というような設定なのだった。

 ループが完全な復元ならば、誰もそれを覚えていないのだから、そもそもループしていると言うこと自体が無意味になる。ループ、と言った瞬間に、それを外部から観察する、記憶をとどめておく者の存在が必要なのだ。

 それが「ハルヒ」の「エンドレス・エイト」における長門であり、「ひぐらしのなく頃に」の梨花であり、「リセット」における浅井ケイだ。そして、全てのループ物における観客だ。

 ところが珍しいタイプの作品もあって、記憶以外にも、何か物理的な変化が伴っていて、それが記憶とともに蓄積されていくことがある。

 本作では劇中の殺人によって生じた死体が、ループの中で消えずに蓄積していく。

 これは『トライアングル』ではないか!

 『トライアングル』同様、本作でもこれがどういう仕組みなのかがわからない。何せ「呪い」だ。合理的な説明はないのだ。ただ、ループ物の悲劇を映像として見せることで観客に与える衝撃を目的としていた『トライアングル』に比べ、本作ではこの設定による物語的な面白みをあれこれと追究している。それはホラーと言うよりコメディだ。この感触は『ハッピー・デス・デイ』だ。

 そう、ホラーはルールが肝心だ。設定はどうであれ、一旦その設定をしたあとで、そのルールの中でどれほど遊べるかが勝負だ。

 その点、本作は低予算の制約の中で誠実な工夫を凝らしていた。

 良品。

2021年7月23日金曜日

『攻殻機動隊 S.A.C. SOLID STATE SOCIETY』-最高に高品質

 神山健治作品を続けて。

 昔テレビで放送されているのを断片的に見たはずだがなんだかまるで話が把握できなかった。前のテレビシリーズとの関係もわかってなかったし、そもそも話はきわめて複雑だったのだ。

 警察組織を舞台にしているのだから当然犯罪が起こらねばならず、捜査の過程で大掛かりなアクションも描かれる。緊迫感は高く、ダイナミックだ。

 だが事件の全貌は容易には明らかにならない。現在の日本の延長としての未来の日本がかかえる社会問題として、目につくたけでも、難民受け入れ、テロリズム、老人福祉、児童虐待といった諸問題が事件の背後に見え隠れして、そこに本作の主要テーマである電脳化の問題がからむ。

 対立は、例によって充分な正当性が双方にないと興醒めになってしまうのだが、その点は充分。日本の抱える問題に対して解決を図るべく、部分的な人権侵害や法を逸脱する方策をとることに対する信念と、それを取り締まるべき警察組織の対立。

 その中で起こる人間ドラマの重厚さ。

 とりわけ、登場人物の一人が、自分の娘のために命を投げ出す決意をする場面の緊迫感は実に緻密に演出されていて、感動的だった。

 その上で、この事件そのものが単なる政治的信念の問題ではなく、『攻殻機動隊』全体に通ずる電脳ネットワークにおけるゴーストの存在に拠るらしい真実が垣間見える結末まで、恐ろしく高品質な物語が紡がれていた。

 『ULTRAMAN』による神山健治評価の凋落を一気に挽回する最高級の作品。


2021年7月18日日曜日

『009 RE:CYBORG』-郷愁に浸ることなく

 神山健治作品くらいちゃんと追ってもよさそうなもんなのに、本作でさえ13年も放っておいた。『ひるね姫』も見ていない。もうすぐ閉店するというゲオの棚に見つけてようやく。

 とはいえ『攻殻機動隊SAC』から『東のエデン』まではともかく、『精霊の守人』が残念だったのと、『ULTRAMAN』に心底がっかりしたから、同じCGアニメの本作はどうか。

 「ウルトラマン」を現代版にする、という発想は最近の「シン・ゴジラ」から、この後の「シン・ウルトラマン」「シン・仮面ライダー」まで共通している。世代的に、子供の頃に洗礼を受けた世代が作り手になっているということなのだろう。

 そこで作られるものとしては、庵野秀明の方は着実に仕事をしているというのに、アニメ版『ULTRAMAN』がなぜあれほどひどいことになってしまったのかは、まったくもって謎だった。これが『攻殻機動隊SAC』と同一人物の手になるものだと信じられないというほど。

 さて『009』の方はどうか。


 結論としては『ULTRAMAN』のようにひどくはなかった。が、『攻殻機動隊SAC』ほどのレベルでもなかった。

 もともとの原作『009』が今やどう見ても子供向けでしかないのは明らかだ。その制約があるのだろうか?

 それに比べて『攻殻機動隊』はもともとの視聴者対象を、あたう限り高く設定しても良い。それがあの高品質を保証しているのかもしれない。

 とはいえ、『009』が対象としているかつての子供は今や高齢者だ。だから原作に合わせて子供向けアニメを作るべきなのか、大人の鑑賞に堪えるものすべきかが定まらない。単なる郷愁として見ることを想定するのだというなら、いたずらに高度なSFにしてしまうのはふさわしくない、という判断もあるかもしれない。

 そもそも主人公たちの年齢も、どう設定すべきか。原作通りにするなら、ヒロインが60台になるのだそうだが、それでいいのかという問題がある(で、結局やめて、そこそこ成熟した女性にしてしまって、なんだか清純なヒロインの面影を求めてしまう旧作視聴者には不満もあろう、という感じ)。

 だが、とりわけ原作に思い入れのあるわけではない身としては、いたずらに郷愁に浸ることなく、単なるエンターテインメントとして観たい。

 そういう意味では、アニメーションのレベルは高いし、主人公の能力「加速装置」が何を可能にするのか、といった思考実験を比較的真面目に探究しているのは楽しかった。

 

2021年7月9日金曜日

『星を追うこども』-あまりにひどい

  あまりにひどいので何かの間違いか(こちらが必要な情報を受け取ってないからか)と思って、翌日もう一度見直したがやはりそうではない。これは唖然とするほど酷い映画だった。

 唖然としたのは期待との落差のせいだ。新海作品と思わなければこれほど驚きはしない。そしてまたアニメーションの質の高さとの落差がなければ。

 質の高いアニメとはいえ、あの新海誠が何をジブリ擬きをやっているのか、まったく理解できない。ジブリっぽいということなら、米林宏昌作品、宮崎吾朗作品でさえ、これよりはましだと言っていい。「メアリと魔女の花」の最初のあたりにはワクワクさえした。「ゲド戦記」の旅は宮崎駿のイメージだとはいえ、本作のアガルタの旅よりよほどイメージ豊かだった(『アーヤと魔女』のひどさはいい勝負かもしれないが)。


 最初の違和感は序盤で、トトロと祟り神を足して2で割ったような化け物が登場するシーンの演出だった。いかにも恐ろしげな様子で主人公に吠えてみせるが、それでいてなぜ襲ってこないのかわからない。もしかしてこれは主人公からは怖く見えるだけで、化け物自身が怖がっているか戸惑っているということなのかと思って2度目に注意してみると、現れた「ヒーロー」が闘っているから、ちゃんと危険ではあるらしい。

 だが危険を証し立てる攻撃はしない。大きな口を開けて牙を見せて吠える。

 つまり単に虚仮威しなのだ。

 この、あまりに下手な演出に呆れていると、その後は全編がこの調子なのだった。


 面白いものを作るのは難しい。しかしひどいことになることをなぜ止められないのか。

 登場してたちまち主人公の心を奪ってしまう「ヒーロー」が、主人公とどういう関係なのか、何のために地底世界アガルタからやってきたのか、なぜすぐに死んでしまうのか、しかもなぜわざわざ岩の上から逆さまに落ちるのか(そんなことをすれば死体がどれほど悲惨なことになることか!)、といった当然の疑問を、どういうわけで観客に説明しなくていいと思えるのか、全く理解できない。観客はまるでオイテケボリなのだ。

 主人公がアガルタから地上にきた男と地上の女の間に生まれた子供であるという極めて重要な設定も、その気になれば推測は可能かもしれないが、それをさせるような導因が物語に埋め込まれていないから、マンガだか小説だかにあるという情報をネットで見て初めて知るばかり。

 なぜそのことを主人公本人が知ることの感慨を観客に味わわせなくてもいいのか。

 この構図は先日の『スーパーカブ』炎上問題と同じだ。アニメの観客には「それらしい」雰囲気だけを見せていればいいという判断なのだ。物語の辻褄、必然性がどうなっているのかを知らせる必要はない、と。

 だがそれではどのようにして登場人物の感情に共感して、物語の起伏に同調して、心を動かせば良いのか。


 アガルタがモンゴルのようなパタゴニアのような風景なのも、きれいなのはいいが、腑には落ちない。青空に白い雲を浮かばせてどうする。地底の異世界というなら「逆さまのパテマ」のようにクラクラくる世界観を見せるでもなし。

 世界設定といい物語の展開といい登場人物の行動原理といい、とにかく全編ツッコミどころしかない。


 そして悲しいことに主人公の女の子の不自然な幼さと序盤の「ヒーロー」の異様に優しい口調は、かなり気持ち悪かった。いずれも声優のせいではなく、演出のせいだ。

 物語がひどいと、そこに生きる人物までこのようにしか描かれない。

 本当に悲しいことだ。

2021年6月13日日曜日

『シン・エヴァンゲリオン』-ついに「卒業」

 純粋に期待してとか流行に乗ってとかいうのではなく、いわば浮世の義理で映画館に行くことにした。

 そうして、『破』と『Q』をもう一度見直して、レイトショーに行く。映画館に行くことも、それがレイトショーであることも、なかなか非日常で良い。そういうシチュエーションにワクワクしないでもない。

 だが結局手放しで「良かった」とか「感動した」とか言う気になれずモヤモヤ。


 とにかくわからないことだらけなので考察サイトなどあれこれ目を通したり。

 これがまた「ああ、なるほど」となるわけでもない。

 それは充分分かっても良いことなのに、観客がうかつだったからわからなかったのだ、と思い知らされるようなことではなく、推測に飛躍がありすぎて、信じていいかもわからず。「わかる」ことのカタルシスがない。


 あまりにモヤモヤしたままなので、決着をつけるべくもう一度観に行く。『破』と『Q』と、テレビシリーズの何話かを見直しさえして。いろいろと前よりは「解る」ことで感動するようになったかといえばそういうわけでもなかったが、もうここまでにして、いい加減「感想」をまとめる。


 同じ映画を映画館で二度観るのは「カメラを止めるな」以来だ。

 そして始まる映画は、相変わらず目も眩むような高い技術のアニメーションに、文字通り目も眩むようでもある。オープニングのCGの戦闘描写などは。『破』『Q』と観てさえ、さらに上をいく自己ベスト更新といった感じだ。というか、現在のアニメのベスト更新と言っても良い。

 ところが、オープニングが一段落して『Q』のラストの続きとなる「第三村」のくだりになると、いつもの「エヴァンゲリオン」の鬱陶しさでげんなりしてしまう。

 一方に綾波擬きが人間らしさを取り戻していくほのぼの展開があるのも、そこが感動ポイントだとはわかるものの、どうも嘘くさいと感じてしまう。こんなに「古き良き」昭和な農村が、平成やら令和やら大災害やらを経て、あっさりと復活するなんて設定を、どうにも受け容れ難い。あのおばちゃんたちの、あまりに手垢のついた「昭和な」おばちゃんぶりは何事なのか。あっさりとみんな良い人に描かれて、その裏にある大災害の傷跡も見えない。そういうリアリティのなさに、気持ちが入っていかない。

 そしてシンジの「失語症」描写にうんざり。

 大災害はみんなにとって多かれ少なかれ傷を残しているはずで、シンジがとりわけそれを大きく受けているわけではない。それなのに、なぜそれが許されるのか。確かにアスカ(とトウジの義父)だけがそれを許しはしないが、そこだけに共感して、周りの人々に共感できない。その疑問に対し、本人が「なぜみんなこんなに優しいんだよ!」と叫ぶのは尤もだが、その答えとして「みんなあなたが大好きだからよ」に納得がいかない。

 ここがもう観客として失格なのだ。シンジが好きでなければ観ていられない。だがどうしたら彼が好きになれるのか。

 そうでない身に、一連の描写は耐え難い。放浪の末に「第三村」に到着するまでに何も飲まず食わずだったのか。そんなことがないとすれば、トウジの家で、義父の怒りをかってまで出された物を食べないとか、ケンケンの家でも、口に押し込まれるまで食べない、などという描写は、絶望による無気力を、わざわざそこだけ見せているということにしかならない。

 そういうふうに見えるからうんざりするのだ。

 言われるままに食べるものの、積極的に礼を言わない、とか口にして吐いてしまうとかいうさりげない描写によって、シンジの心の傷を描写するならばわかるが、辻褄の合わない非現実的な描き方が、共感を拒む(首輪を観て吐くのは、それはそれでお約束的過ぎて)。

 「家出」をして廃墟で蹲って何日過ごすのかわからないが、そこでようやく泣きながら「食べる」という行為に至るものの、例えば座り続ければ単純にお尻が痛くなるんじゃないのか、とか、排泄行為はどうなっているんだろう、などと思ってしまう(プラグスーツは排泄物を処理してしまうのだろうか? そうかもしれない)。

 つまり廃人のように落ち込むというのが、共感不可能なほどに「わざとらしい」のだ。実際はもっと間抜けなものではないのか。辛うじて生命維持を、言われるままにであれ為し続けて、その隙間に襲ってくる絶望の深さを描写する、というような描写があればそこに共感もあろうものを。


 そこから「本隊」に復帰してからの展開にも、胸熱というより、わけのわからなさばかりが先行する。

 ミサトに対して見せるシンジの大人の顔は悪くなかったが、何よりも戦闘の原理がわからない。

 わからなくてもいいのだ、という説もあるのだが、原理がわからないとどういうふうに感情が動くべきなのかわからない。だから「考察」なのだが、上記の通りそこにも挫折したままで見ていると、この戦闘はどういう価値をめぐって、どういう力関係が均衡しているかが解らない。

 物理的な感覚もわからない。例えばヴンターなどという巨大な戦艦が何かにぶつかることの衝撃がどのようなものか、見当もつかない。そもそも物理空間でもないらしいし。そうなると危機感が抱けない。焦燥感もない。これは毎度の「スーパーマン映画の不可能性」だ。

 そうするとカタルシスもないことになる。


 そして問題は闘う相手のゲンドウだ。

 今回は「人類補完計画」が何やら明らかになったらしいが、それが解ってすっきりするより、それが個人的な動機だったらしいことが描かれることに心底がっかりした。個人を突き動かすものが個人的な動機であることは構わない。だがそこに実現されるべき価値は、そこにも一理あると思わせてくれないと。

 この不満は近いところでは『新聞記者』でも強く感じた

 ゲンドウは、ある価値の実現に向けた冷徹な現実主義者で、そこに反発するにせよ打ち倒すにせよ、充分な強さを持っていなければ力が拮抗しない。そもそもが主人公側にまるで共感可能な価値の追求が見られないというのに、それが拮抗すべき敵が同程度に「子供」だったなんて、あれにどう感動すれば良いのかわからない。

 理念よりも個人の感情が動機なのだというドラマツルギーは意識的なんだろうが、それにはノれない受け手なのだ(「進撃の巨人」がやはり個人の感情が選択の動機になっているにもかかわらず、その選択を受け止めざるを得ない厳しさで描かれていると感じるのは、やはりその力の拮抗において充分にバランスがとれているからだ)。


 戦いが物理的なものではなく象徴的なものになった途端に、市街戦になったところで、一旦は「胸熱」になった。象徴的な虚構であることをことわって、やっぱり肉弾戦で市街戦だよなあ、と思ったら、ここは流麗なアニメーションかとおもいきや、CGがぎこちない。なんだろうと思ったら、これは意図的なのだ。「街が破壊される」のではなく、「模型が動く」。建物が壊れるのではく、散らかる。

 あれっと思っていると、そのまま背景画を突き破って「スタジオ」空間に入ってしまう。

 ああなるほど、こういうことにしたいのか、と思っていると例のテレビ放送を連想させる白黒の線画の試験的なカットを入れたりして、ラストは実写の市街地空撮に移行する。

 このメッセージには共感できたし、その開放感は一度目に観た時にも悪くない印象だった。

 しかしこれを本当に感動的な「卒業」と感じるためには、たぶんまず「入学」が必要なのだ。テレビシリーズから全ての劇場版まで観ているにもかかわらず、とうとう「入学」しないうちに「卒業」を迎えて、少しだけその開放感と喪失感を味わったものの、やはり決して良い観客ではないのだった。


2021年6月2日水曜日

『劇場版 STEINS;GATE 負荷領域のデジャヴ』-デジャヴの喪失感

  今年度上半期に再放送していた「Steins;Gate」をようやく通しで見直して、その感動で「Steins;Gateゼロ」2クール分まで見直した。全体像がわかってくると感動もひとしおだったので、未見の映画もこの際。

 名作たるテレビシリーズに比べて、何か圧倒的なものがあったとはいわない。劇場版ならではの作画の質の高さはあったが、テレビシリーズもまた作画の質は高かった。いくつかの背景美術がとりわけ質が高いと思ったが、それをアニメーションの質と言っていいか。

 そう、そもそも動きの少ないアニメーションだった。映画で主人公を務める牧瀬紅莉栖のモノローグに被せる止め画が多く、映画としてどうなの? と思わないでもない。

 だが一方で、物語も画面も動きが少ないものの、その閉塞感が、映画という完結した器にふさわしいとも言えた。世界線のズレによって本編主人公がいない世界といえば『涼宮ハルヒの消失』だ。その胆は観客が知っている人物がいなくなってしまった喪失感だ。特定の登場人物の記憶にだけはその存在が残っていて、その焦燥感と欠落感が観客にも共感される味わいだ。古くは「時をかける少女」でこの感覚を知ったものだ。

 この映画では「デジャヴ」という現象をこの喪失感で新たに解釈し直して、派手ではないが何だか自主映画っぽい小品の愛おしさがあるのだった。

2021年6月1日火曜日

2021年第1クールのアニメ

  1クール通して見たアニメに関しては書き留めておこうと去年あたりに決めた。

 だが1年まとめてだと手間が大きくなるから、1クール毎にまとめてにしようと決め、さて令和3年最初のクールだが、もう溜まってしまっている。3月で放送の終わったアニメを観終わるのに、もうすぐに2クール目が終わるという6月になっているのだ。そして2クール目のアニメは、最初のうちに淘汰したものを除くと、録りっぱなしで今に至る。これを消化するのに3クール目が費やされるんじゃなかろうか?

 とまれ、ようやく観終わった前クール。



「はたらく細胞」「はたらく細胞BLACK」

 軽く観られる教養マンガ。とはいえ「BLACK」の方は意外な感動作となった。劣悪な環境で、だが誠実に仕事をすることでしか、自分を含む世界全体を支えられないことはわかっているのに、労働環境は容易に改善されない。働くことの意味を問うたり、世界が救われるカタルシスを味わったり。なかなか良かった。


「約束のネバーランド 2nd」

 今期は「ホリミヤ」と「ワンダーエッグ・プライオリティ」とともにCloverWorks作品を三つ見続けた。どれもアニメーションのクオリティが落ちずに1クールを維持できる会社の力は賞賛すべきだが、本作は第1シーズンほどには楽しめなかった。前作の、閉ざされた環境からの脱出を賭けた騙し合いは、外の世界の広さに対する幻想と反比例するように濃密だったように思えるが、第2シーズンではその外の世界に舞台を移して幻想が消え去ってしまうと、その中での主人公たちの重みに合わせて「幻滅」が起こってしまうのだった。


「ホリミヤ」

 上に続くCloverWorks作品で、これは毎回実に胸キュンな場面が丁寧に描かれる、とても好もしいアニメだった。

 ところでなぜ登場人物の使っているのがすべてガラケーなのかと思っていたら、作品の発表がその頃なのだった。

 基本的に好もしいと思いつつ腑に落ちないのは、登場人物たちが高校生活を終える切なさと希望が描かれながら、まるで進路が描かれないのはどういうわけなのかという疑問が解消しなかったことだ。大学受験を考えていないのがどうしてなのかと思っていると、専門学校に進むのでもなければ就職するのでもない。そういう意味で、これは結局現実を描いてはいない、ある種の「高校時代」というお伽噺なのだということなのだろう。


「ワンダーエッグ・プライオリティ」

 野島伸司が脚本だというので成り行きを見届けずにはいられないと思った。案の定、CloverWorksのアニメーションは最後まで高品質で素晴らしかったのだが、脚本のエセ文学趣味は相も変わらぬ野島伸司なのだった。周囲の無理解にうじうじと悩む思春期というパターン化された文学。

 ロケーションが思いがけず近所で驚いた。


「ひぐらしのなく頃に」

 新作2クール目のオリジナル展開に期待したが、主人公を変えて、それほどの効果はなかった。


「BEASTARS」

 草食獣と肉食獣の共存する社会を描く原作は、むろん人種差別や性差別をアナロジーとしてテーマに据えている。そこで描かれる問題に対する追究の深度は原作に負っているのだろうが、それだけでなく、これは原作を超える要素を持つ数少ないアニメ化作品だ。細やかな感情の描写が、よく考えられた画面の中のアニメーションによって的確に表現されている。細やかな分、激しい感情の表出が上滑りにならない。レゴシの不器用さとハルの可憐さも、声優たちの演技も含めて、原作の漫画的戯画化以上に、繊細に立ち上がっていた。

 極めて質の高いアニメーション作品だった。


「Dr.STONE」

 1期目は徐々に明かされていく設定が気になったり、科学知識の応用が楽しかったりしたが、2期目は物語の展開が単調な「戦闘-攻略物」に終わって、感情の描き方の戯画的な誇張についていけなかった。


「異世界ピクニック」

 第一回の異世界観が実に魅力的で見続けたが、2回目以降はレベルが落ちたまま、最後まで持ち直さなかった。全体を通したヒキも解決しないまま、消化不良。といって気になるから来シーズンを見ようという気にはならない。


「怪物事変」

 これもやはり第一回のクオリティが続かなかった。作画などの作業量は当然コストと時間の制約があるから仕方ないのだろうが、細部の演出が雑になるのはなんとかならないか。それは原作がそうなのだろうか。「怪物(けもの)」がどんどん安っぽい特撮の怪獣のようになる。人物の行動原理もいたずらに「マンガ」的になる。シーズン1の最後で「事変」という言葉の意味がようやく明かされて、壮大なドラマが始まりそうな展開で終わったが、来シーズンに期待もできない。


「進撃の巨人」

 ついに最終章だというのだが、原作に追いついて終わる想定なんだろうか。

 ともかく、一貫して驚くべき展開を続ける原作は奇跡的な名作と言っていいが、アニメもまたレベルを落とすことなく最終章まできたのは賞賛すべき仕事だ。監督も替わって、CGの使用も増えたがとりわけがっかりするような質の低下がない。

 このまま最後まではしりきってほしい。


「呪術廻戦」

 1.2話の凄まじい作画力に圧倒され、オープニングとエンディングにも感心して、開始時は楽しみにしていたのだが、3話目くらいから作画レベルが落ちて、しばらくすると録りっぱなしになっていた。そしたらまさか2クールとは思わなかったから、録画だけしておいて、観るのが随分と遅れた。

 終了後1ヶ月も経ってからようやくまとめて観てみると、これはやはり面白い。作画が時々レベルを上げて、肝心なところをちゃんと見せるのもいいが、そうそうたる声優陣も頼もしい。

 それと、原作の力なんだろうが、呪術というものに対するなかなかに哲学的な考察をしているのもいい。「ハイキュー」レベルとはいわないが、「鬼滅の刃」よりはよほど大人の鑑賞に堪える。


「Steins:Gate」

 10年前の放送当時、子供たちと見続けたのも懐かしいが、それだけではない。2クール24話を見直して、通して見ることによって設定が把握されると、さまざまな感情がより的確に、必然性のある場面で喚起されるのだ。

 繰り返す世界で悲劇を止められない胸の痛みも、その中で愛するものを守ろうとする戦いの悲壮さも、その中でかろうじて守れたものの大切さも、しんしんと胸に迫る。

 そして物語の展開の大きな起伏も、複雑に組み込まれた構成も、まず骨格となる物語が実に誠実に、知的に作られている。

 そしてアニメーションもすこぶる質が高い。作画が崩れないのも良いし、写実的なインサートの風景描写も、アニメが単なる絵解きになっていない。

 そして宮野真守と花澤香菜の演技の素晴らしさ。


 物語の全体像がわかったところで、勢いに乗って「Steins:Gate 0」を見直す。全23話。

 もう、物語の登場人物に対する愛着もあるし、アニメの質は「1」より落ちたとはいえ、もう一つの世界線で起こったこととして描かれる物語は、これもまたよく練り込まれていて充分に面白い。いくつもの印象的なエピソードを含んで、最後には「1」につながる大きな円環を作る。


 勢いに乗って映画版も観てしまった。


2021年5月27日木曜日

『クワイエット・プレイス』-馬鹿げた非難に抗して

  続編が公開されるというのでテレビ放送される。公開当時も見たかったが、見逃していたので、これを機に、とは思ったが、それよりもいつの間にかアマゾン・プライムで見られるようになっている。ノーカットでCMもないとなれば。

 さて、とても面白かった。息を潜める生活を強いられる圧迫感も、人気がなくなった街のディストピアの空気も、展開でハラハラさせられ、カタルシスもあり。

 そう思ってからアマゾンのレビューを見ると、驚くほど低評価がついているのだった。

 その理由と挙げられている非難の的は共通して次の2点。音を出すと襲ってくる化け物から隠れているのに、子供を作ってどうする、というのと、最後にライフルで倒すことができる化け物を米軍あたりがなぜ殲滅させられないのか、という点。これらに納得いかない、というのだ。

 大体において辻褄が合わないのが気に入らんというのむしろ筆者の常套句だ。リアリティが損なわれるような不合理はやはり興醒めだ。そうなることの必然性とか妥当性とかは、緊迫感やカタルシスの前提ではないか。

 ところが今回のこの映画に関しては、みんなの不満が集中しているツッコミどころは、まるで気にならない「どころ」だった。

 人類滅亡の危機に際して、特にリスクの高い子作りは不合理?

 馬鹿げた非難だと思う。子作りを否定するのなら、もはや生き延びることを否定するしかないではないか。そこが「おかしい」などというのなら、生き延びようとする物語がそもそも成り立たない。

 そのうえで、声を潜めて行われたであろう夫婦の営みや、やがて生まれる子供がたてる泣き声を思って、緊迫感を否応なく感じるというのが、真っ当な観客の反応なはずだ。そのリスクがあるのにそれを選ぶのは登場人物の行動が不合理だとか、頭が悪い、などという理屈で物語の論理を否定するのは、何か過剰に肥大したリスク意識の病弊だと思う。

 もう一点の、このエイリアンをなぜアメリカ軍あたりが殲滅できないのか、という非難も、無茶ないちゃもんだと思う。

 クリーチャーを人類が殲滅するのは意外と難しいかもしれないという想像は、前に『モンスターズ』の感想でも書いた。

 殲滅できる程度の敵は、そういう設定なのであって、この映画のクリーチャーは殲滅できなかったのだ、設定上。画面にチラッと映される新聞記事によれば、電磁パルス攻撃でハイテク機器が使えなくなっていたという設定なのだそうだ。後は、クリーチャーの数が充分に多ければ、殲滅などできなくてもしかたがない。人々が孤立し始めれば、音をたてると襲ってくるという設定によって、攻撃がためらわれる。そうなればあとはずるずると人類は数を減らすしかない。

 敵の強さのバランスはホラー映画には決定的に重要な問題で、本作の、音に寄ってくるが目は見えない、外皮は硬いが、直接に口の中を銃で撃てば死なないこともない、という設定は、バランスの良い設定だと感じた。

 それよりも最初のうちは、やはり様々な音が発生しているこの世界で、エイリアンがどうして人間の音に反応できるのか、という疑問があった。

 だがそれは人工音と自然音を区別しているのだ、と考えればいいのだった。どこまでの自然音っぽい生活音かは、やはり常に賭けのようなものなのだと考えれば、それも緊迫感を増す。

 設定の不合理さよりも、やはり長女を聾者にした設定の巧みさの方を賞賛すべきで、全体としてとても面白い映画だったと言っていい。 


2021年5月16日日曜日

『トレマーズ5 ブラッドライン』-義理立て

  名作『トレマーズ』に義理立てしてと観てみたんだが4年前にも同じことを書いて観ていたのだった。途中でどうもそうらしいと気づきはしたのだが、まあいいかと見通してしまった。そして、前回と同じく、CG技術が上がって、グラボイドのビジュアルのレベルは悪くないが、物語は薄い、という感想を抱いた。

 だがまあ全体としての印象はそう悪くなかった。どこかがすごく面白いとは言わないが、酷いレベルだ、とも思われない。『1』ができすぎなのだ。

 ただ、マイケル・グロスでひっぱるのは無理があるなあ。ケビン・ベーコンとフレッド・ウォードのコンビの軽妙な魅力もまた、間違いなく『1』を楽しくさせたのだった。

2021年5月10日月曜日

『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』-価値の対立

  30年以上経って続編が公開されるというので宣伝としてテレビ放送された。確かに30年位前に観て以来だが、面白かった記憶はあるし、最後のあたりの展開は覚えている。感動的だった。

 で、30数年来の鑑賞だが、始まってもうすぐにその凄さがわかる。すっかり大人の鑑賞に堪える。

 いささか説明不足とも言えるが、パンフレットや設定集などの資料を見ることを前提にしているせいか。あるいは最初から繰り返し見ることが前提されているか。ともあれ、そのリアルな手触りは、誠実に、よく考えられていることが確実に伝わってくる。

 状況から、それぞれの人物の行動原理が自然に導かれていて、その言動は、米国映画並みとは言わないが、相当に気が利いている。ネオ・ジオン「総帥」として演説をした直後に、マントをはずしながらシャアが「これじゃあピエロだよ」と言う。どう見えるかを俯瞰する視点が、そう見えるレベルにとどまる凡百のアニメとは違う。

 そして、二人の主人公、アムロとシャアの対立は、単純にどちらかをのみ「正義」として描いてしまうことなく、それぞれの動機がバランスをもって描かれる。もちろん「正義」はアムロ側にあるとして描くのが前提なのだが、もちろんシャアが単純に「悪」として描かれるわけではない。

 こういうふうに対立をバランス良く描くところが、見られる安心感を保証する。『新聞記者』や『Fukushima50』とは違って。


 そしてやはり、敵も味方も最悪の事態を止めるために身を投げ出すという最後の場面の展開は感動的だった。

 もちろんこれが感動的であるためには、ここまでの展開がリアリティに富んだものでなくてはならない。

2021年5月2日日曜日

『シャークネード2』-C級にとどまる

  竜巻に鮫が巻き込まれて降ってくるというC級映画だとは聞いていたが、人気があって6作まで作られているという。下手物とはいえ、面白くなければ続編が作られたりしないのだから、それなりに面白いのだろうと、中でも評価が高いらしい『2』を観てみる。

 終わってからネットで見るとテレビ映画なのだった。なるほどC級だ。

 それはいい。金をかけられないのならCGがチャチいのも許す。

 だが残念ながらまるで面白くなかった。

 ツッコミどころが無限にあるというのは看過してもいい。面白さが優先されるなら。だがそれがどこにある?

 痛快さとかサスペンスとか家族愛とか、描かれている娯楽要素はどれもあまりに薄味で特に心に響かない。

 鮫映画としての感興は鮫自体の恐怖であるはずだが、鮫がむやみといっぱい出てくる物語自体の設定のせいで、一体あたりの扱いが軽く、あっさり人が死ぬか鮫が死ぬかしかない。

 それならば物量作戦の恐怖があるかといえば、それはCGにかける予算の問題か、それほどの密度にはない。『ワールド・ウォー・Z』のような圧倒的な物量の鮫の恐怖なら、それはそれで面白くなりそうなのに。 

 ということで単に「おバカな」C級映画にとどまる。

2021年4月29日木曜日

『ファンタスティック・プラネット』-イマジネイションは豊穣なるも

 どこで聞いたものか忘れたが、カルト的人気のある、ちょっと独特なアニメだという話だったので観てみる。

 確かにそのイマジネイションは豊穣である。邦題をそう付けたくなってしまう感じはわかる。異様な世界観を現出させている。ネットに散見されるように宮崎駿や『進撃の巨人』などを連想したりはしない。もっと独特だ。

 だがそれだけだと思った。人類が害虫のように扱われる、異星人の住む世界で、それに主人公を中心として人類が反逆する物語に何か寓意のようなものを読み取るのは、単に考え過ぎなだけだと思う。そこに批評的な洞察があるわけではなく、ただこんな設定、面白いでしょ、と言っているように見えて、作り手の自己満足に終わっていると思う。細部の描写にも特に何かを感じるような巧みさもなく。ぎこちない切り絵アニメはアニメーションとしての快楽を感じさせるわけでもなく。

 つまりは豊穣なイマジネイションの異様さ自体に惹かれるのでなければそれほど感興を催すような物語ではないのだった。

 

2021年4月25日日曜日

『新聞記者』-日本アカデミーの罪

  昨年の上映時にも、映画館に行こうか迷っていたし、アカデミー賞での高評価にも期待は高まるばかり。

 とはいえテレビ放送を待っての録画視聴ではある。


 で、すっかり期待外れだったのだった。がっかりという以上に、何か不審だ。

 主演男優賞と主演女優賞は認めてもいい。だが作品賞はどうかしてるし、だから監督賞もまるで納得できない。

 「政権批判の姿勢を貫く骨太な社会派作品」という評価なのだが、端的に言って陰謀史観にしか見えない。それは体制か反体制かという立場の問題ではない。単に安っぽくしか見えないということだ。

 『Fukushima50』もそうだが、敵を類型的に悪者に仕立てることは、物語を浅はかにするばかりなのだ。そもそも敵味方構図ですらない『Fukushi50』が「現場vs当局」という構図を作ってしまうことも明らかに失敗だったのに、まして「報道vs政権」という構図をつくることは狙い通りの本作で、敵方たる政権があんなに「陰謀」イメージにまみれた一面的な描き方をしたのでは、価値や論理の拮抗など望むべくもない。

 直接の敵である内閣調査室は、薄暗い部屋に並んだパソコンに職員が向かっている非現実的空間で、そこで何やら陰謀が行われているらしいが、まるでリアリティはない。意図的にそうした照明で、そうした描写をしているのが何か映画的だと考えているらしいのだが、これはそんなふうにリアリティの水準を下げてファンタジーにしていいテーマの物語ではないはずだ。

 必然的に主人公の報道側も、実にリアリティに欠けていた。主人公は、いくつかのインタビューはするものの、ほとんどはネットで情報を集めるばかり。あれが報道の取材の現場をリアルに描いているというつもりなんだろうか。監督賞監督は。あんな描かれ方に、取材の現場人たちは怒りを覚えないのだろうか(覚えないジャーナリストが多いのならそれはそれでジャーナリズムの危機だし)。

 馘首を覚悟のスクープを通したデスクもまた馘首を覚悟しているはずなのに、その危機は全く描かれることなく、単なるスクープ成功となる。編集部や新聞社のもっと上からの妨害も、出発点で圧力がかかったようなことをにおわせはするが、報道を決断してしまうと、それ以降の報復があるようにも描かれない。そんなことなら迷うことなくはなから報道すれば良かったのだ。なんの葛藤も必要ないではないか。

 つまり葛藤は観念的にしか存在しない。

 そのスクープは違法な手段によって入手した情報に基づいているが、それに協力したもう一人の主人公である松坂桃李演ずる官僚が映画の終わりに主人公の新聞記者から離れてしまう結末が苦々しい現実であるかのように描かれる。だがラストで脅しによって撤退するまでもなく、スクープが実行された時点で社会的に報復を受けるのは確実なのだから、その覚悟があったとするなら、後から脅されて撤退するという展開は論理矛盾だ。そんなことがわからないで「優秀な官僚」をやれるわけがない。

 わかってはいたけれど、いざそうなってみると急に恐ろしくなって、というような微妙な描き方がされているわけでもない。つまりは協力している場面では上記のデスクの一面的な描き方と同じ、その場面では映画全体がそうした論理でしか進まず、それは現実の多面性を切り捨てているのだ。

 主人公たちは勇気を出してヒロイックに正義を貫いたのだ、というふうに描きたいらしいのだが、実は現実的な抵抗は描かれていない。

 つまりいい気になって実行に乗っている間はそんなことを考えもしなかったというのは、観客のレベルに頭の中を合わせているだけで、全く非現実的なのだ。観客の想像を超える「現実」が顔を覗かせる、というようなスリルはない。


 社会にはいろんな価値観や様々な正義がありうる。それらがそれぞれに高い強度でぶつかり合うから濃密なドラマが生まれる。

 だから敵方の内閣調査室が意図するものに観客が共感できなかったら、そうしたドラマは生まれない。あんなふうに類型的な「悪者」に描いてしまっては。

 一方の主人公側のジャーナリストとその協力者である官僚も、それぞれの社会正義に基づいて行動しているというよりは、個人的な感情を動機として行動しているように描かれている。父親や恩人の仇討ちであるかのような設定が入り込む。

 そこはむしろ観客の共感を誘うためにそうしているのだろう。それに、公共心や正義感といった信念に基づく行動だなどというのは、観念的で嘘くさいという感じになりかねないという懸念はわかる。

 だがそれでは拮抗した価値のぶつかり合いの生む濃厚なドラマは生まれない。

 「クライマーズ・ハイ」にしろ「64」にしろ、横山秀夫作品の重厚なドラマはそうした、それぞれの立場の正義を守ろうとする意地が、充分な強度とリアリティをもって描かれるから生まれるのだ。

 そういう実例があるというのに、こんな志の低い映画をその年の最高の一本だと評価する日本アカデミーというのは、どういう人たちなのだろう。たぶん映画というものに、社会とか人間が本気で描かれることを期待してはいないのだ。よくわからない映画的「面白さ」が評価される。そのわりに底の浅い「社会意識」が賛美される。

 例えば『私をくいとめて』に好き嫌いがあるのは当然だ。『KUBO/二弦の秘密』でさえ、それを好きな人がいることも否定は出来ない。『何か』には好意的な印象を抱いたが、だからといってああいう映画でアカデミー賞的アワードの受賞を主張するわけではない。

 同年の日本アカデミー賞では『翔んで埼玉』が話題になったが、あれは単に好みの問題として私には評価できないのであって、あれが面白いという人は面白がればいい。いくつかの場面は確かに面白くもあった。

 だが本作を評価する基準はそれとは全く別だ。本当にあれを面白いと思う人がいるのか。いるのだろう。一体何を見ているのかわからないが。

 本作が「社会派」を標榜する、あるいは本作評価が「社会派」を標榜する以上、その「社会」がこれほど一面的に、類型的に描かれていることが本作の失敗を意味することはあまりに明白なはずだ。

 それがわからない(ふりをしている)日本アカデミーが、誠実に映画のことを考えていないのは間違いない。


 もうひとつ(ほんとはいくつもつっこみどころはあるが)納得しがたいのは、政権の陰謀を「悪」と見なす論理である。

 最初に提示された謎を追ううち、大学新設にあたって、政府が密かに生物兵器の研究を計画していたという真相が明らかになるのだが、これがどうして「悪」なのかが検討される様子がまるでなく、それが主人公たちに知れ、観客に知れる瞬間になぜかそれは既に「陰謀=悪」と認定される。まるで自明なことのように。

 政府が生物兵器の研究をしたいなら、自衛隊内にそうした組織を作るなり、独立した公的研究所を創るだろうに、大学新設に言寄せてそれを創るという設定も腑に落ちないが、そもそも生物兵器は市民に危機をもたらすのだから、研究が不足ならば研究しなければならないものだ。日本が生物兵器を持つべきかどうかは別に議論すべき問題で、もちろんそこには批判的な立場があっていいのだが、研究しようとすると「悪」と認定される論理は、完全に「陰謀史観」的独断にすぎない。

 もちろん国民がそこに心理的な抵抗を感じることはあるだろうが、それでもそれに必要を主張する正義はありうる。それを描かないから「陰謀」にしか見えないのだ。

 もちろん国民に隠したいとは画策するはずだ。そこには「よらしむべししらしむべからず」の愚民蔑視の思想があって、それを批判するなら、また別の正義が描かれるのだが、そうではない。生物兵器の研究は問答無用に「悪」で、それを報道することは無前提に「正義」なのだ。もちろん、その生物兵器の研究には別の利権が絡んでいて…などという、アメリカのドラマの脚本なら必ず描かれるだろうバランスも、まるで描かれない。

 同じテーマの『ザ・クリミナル 合衆国の陰謀』とのあまりの落差は絶望的だ。


2021年4月24日土曜日

『ロープ』-もちろんよくできているが

 全編ワンカットで、劇中時間と映画の上映時間がシンクロするというしかけで有名な、やや短めのヒッチコック映画。これも一種のSSSか。ワンカットとはいえ、フィルムの長さに制限があるから、実際は時々、画面の切り替えでつないでいるものの、こんな仕掛けが可能なのは舞台劇が元になっているんだろうと後で調べてみるとやはり。

 基本はとても上手く、とても面白い。犯罪発覚のスリルにドキドキさせられる演出はまさにサスペンスだ。

 ただ、殺人の場面から始まる物語としては、どうしても「刑事コロンボ」シリーズを基本的な枠組みとして観てしまうせいで、もっと論理的な謎解きを期待してしまったのと、「自らの優秀さを証明するための殺人」というテーマについていけなかった。それも、「コロンボ」的な殺人のためのご都合主義的動機だというのなら看過しても良いのだが、最後でそこに根本的な疑義をつきつけてくるのは予想外だった。

 そういう動機を糾弾するにしても「コロンボ」のように、クールに見せるなら謎解きとドンデン返しの面白さを求めるからいいのだが、主演のジェームス・スチュアートが、真相の究明とともに、真面目な議論で犯人を糾弾するに至って、そういう映画だったのか、と肩すかしをくらったのだった。

2021年4月22日木曜日

『BLOOD The Last Vampire』-画面の隅々まで

 もう20年以上前の作品なのだった。最後に観たのは十数年前に違いないが、何が明らかになるでもなくあまりにあっさりと終わるその不親切な物語に、大きな満足はなかった印象があった。

 世界的な評価を知って、さて観直してみると、結局物語はそうなのだった。背景があまりに描かれないことに対する不全感はある。

 だがそれを補って余りある、画面の隅々に行き渡る、力強い創作の意欲に心を揺さぶられる。

 安定した作画は今更かもしれないが、画面の不穏な暗さと、アメリカンスクールのパーティー会場の明るさのコントラストに、会場に紛れ込むバンパイアの禍々しさ。

 確かに優れたアニメーション作品ではある。歴史的な傑作、といってもいい。

 それだけに、十分な長さで「物語」を堪能したかった。

2021年4月11日日曜日

『私をくいとめて』-いくつもの感情の波

  まだ昨年の作品だというのにアマゾン・プライムにあがってきて、最初のところを観てみると、もううまい。そういえば気になっていて未見の『勝手にふるえてろ』と同じ原作・脚本・監督なのだった。

 能年玲奈がどこまでも器用だとは言わない。部分的には大根ともいえる。だがどうしたって圧倒的な演技を見せる場面も確実にある。突然の激情に不意を衝かれてしまったり、微妙な感情の揺れに共感させられているうちに、やがてその激情に同調してしまったり。

 微妙なおかしさや不快や喜びや切なさや安心や不安を、次から次へと感じさせられる。その上で、いくつかの場面ではとりわけ大きな波にのみ込まれる。

 たとえば初めての一人海外旅行で苦手な飛行機の揺れに息が止まりそうな不安に襲われる中で、主題曲の「君は天然色」に救われる場面のカタルシスは「天気の子」のRADWIMPS以上だった。


 そういえば、「A」と呼ばれる心の声は、恐らく成長に必要な「ライナスの毛布」の、ユーモラスな描き方なのだと思うが、はっきりとキャラクターをもった設定にしたことで、それに救われつつ、訣別をも覚悟しなければならない切なさは、「寄生獣」を彷彿させるところがあって、これもまた味わい深い設定だった。


 これが一体どういう評価をされているのかと、観終わって調べてみると、ちゃんと監督も能年も高い評価をされていて一安心。

 ものすごく満足な一編だった。

2021年4月10日土曜日

『何か』-低予算サスペンスの佳作

  大賛辞のストップモーションアニメを見ながら、実写の映画がしきりと観たくなっていて、その日のうちに、無名のサスペンス映画を、上映時間が短いという理由で観る。

 たぶん低予算映画なのだろうと思ったが、まさしく。夫婦の他に赤ん坊と、それ以外の人物はわずかに登場するくらいで、家の中だけで完結する、実に低予算な作り。

 が、悪くない。家の中に「何か」がいるような気がする、というホラーっぽいサスペンスをどこに落とすか、あれこれと観客の期待を宙づり(サスペンス)にして引っ張る。オカルトに落ち着くのか、妄想に落ち着くのか、犯罪なのか、わからない。どちらにもつながりそうに観客の解釈の可能性を残すバランスがうまい。

 結末はどれでもない、まことに腑に落ちる真相が明かされるのだが、後でちょっとだけ見直すと、ちゃんと会話中に伏線も張られているのだった。

 そして、幻想だか実在だかわからないクリーチャーとして登場する「ペスト医師」も、ちゃんと必然性があって選ばれていることがわかって納得したり。

 これが一体『KUBO』の何百分の一の制作費でできていることか。


『KUBO/二弦の秘密』-論理破綻

  評判が良いことを聞いていて、始まってみると映像は圧倒的だ。

 だがしばらく見ていると、どうも妙だ。舞台は中世日本らしいのだが、平安から江戸くらいまでの時代がごっちゃになっているような感じで、街並も不自然だ。よくあるハリウッドの描く誤解に満ちた日本像ではないのか?

 だというのに、観終わってからネットの評を見ると、日本理解に対する深さに賞賛の声を贈る人が多い。いや、普通の日本人がまっとうな発言権を持っていれば、あんなことにはなるまい。沸騰したお湯に生米を入れるとか、竹を切って太鼓のバチにするとか。楓と笹が日本らしい風景を作るのかもしれないが、その二つが混ざっている。節のある幹に紅葉。

 人物の表情や話しぶりも日本人離れしているし、何より主人公の名前「KUBO」は、なんと名なのだ。姓ではなく。

 こんなに考証が雑なことと、あの、途方もなく手間のかかるストップモーションアニメの映像作りに懸ける誠意の同居していることをどう受け止めれば良いのだろう。

 ネット評にはその手間を賞賛する声が目立つが、それは無意味な賛辞だと思う。出来上がった映像がすべてで、確かにそれは素晴らしいのだが、その素晴らしさがPixarのCG以上だということはないと思った。

 映像だけで高評価をする気にならないのと同様に、日本の描き方が不自然だからと、それだけで低評価と決めつけるつもりもない。だが、結局それほどの評価をする気には、ついにならなかった。

 日本人が日本人らしくないのと表裏一体で、擽りなのだと思われる登場人物のやりとりが、ちっとも笑えない。

 そうした細部の演出にのれなかっただけでなく、物語的にも腑に落ちないことばかり。物語の大きな推進力であるはずの、三つの武具探しの旅は、それらが実に安易に見つかるばかりでまことにもってご都合主義的にしか感じない。

 なおかつ結局その武具がまるで意味を持たずに題名にある三味線こそが敵に対抗する力を発揮するのだが、では武具探しが無駄だったのだという反省があるわけでもない。つまり、物語の論理がまるで破綻しているのをどう納得すればいいのかわからないのだ。

 ラスボスとの戦いも、明確な価値の対決にはならない。地上の価値が豊かな感情や愛情だとしても、それに対抗しているはずの天上の価値として、敵が「家族」を持ち出しているのはどうみてもおかしいし、人間らしい「感情」を否定しておいて、怒りによって主人公と対峙するのは論理破綻だ。

 戦いにおいても、ラスボスが巨大な化け物に変化したら、それは物理的な脅威に過ぎないのだから、それは単に蹂躙されて終わりのはずなのに、三味線ごときで対抗できる。つまり化け物への変身はまったく無意味な虚仮威しなのだ。

 つまり部分部分が、どこかで見たような物語の「らしさ」のモザイクになっているのだが、そこに一貫した論理はない。


 ネットの高評価に揺らいで二度見直した上で、結局同じ結論にしかならなかった。

 しかしこれに感動した人もいるのだ。不思議だ。

2021年4月4日日曜日

『台風のノルダ』-視点の低さ

  前のこの映画の主題曲をライブでやったことがあって、その時にこういう映画があることを知った。映像の雰囲気は悪くないが。

 そして、テレビ放送でとうとう。はたして。


 全体にはやはりジブリの影響がありありと見て取れる。ジブリで仕事をしていた監督だというからそれはまあそうなんだろう。作画のレベルは全体に高い。単に「よく出来たアニメ」を観たいだけなら、かなり満足できるかもしれない。

 そして、文化祭前日に台風で学校に閉じ込められるというシチュエーションは確かに魅力的ではある。台風の雲はダイナミックによく描けている。

 が、文化祭前日のワクワク感が今一つではある。これと台風の不穏さが生む生徒たちの不安とコントラストを描くと良かったのに。それだけで一編の作品としては成功といえたかもしれない。

 だが結局、描かれる人間ドラマは浅く、そこにまるでわけのわからない人類滅亡(だか何だかもわからない「人類再構築」)がからむトンデモSF展開になるのは残念だった。

 超常現象が絡むのはいい。説明もなく、わけのわからない現象が起こってもいい。

 だが「人類再構築」はない。そこに異星人だがなんだかの美少女が出てきて、中学生男子がそれを救うという展開はどうみても「セカイ系」だろ。

 そう揶揄されることがわからない作り手たちの視点の低さが無惨だった。

2021年3月27日土曜日

『空の青さを知る人よ』-誰が「知」っているのか

  『未来のミライ』の細田守や『天気の子』の新海誠と同じように、これもたぶんダメなんだろうと予想して、その予想を確認するために観るというのは屈折している。

 だがこちらは長井龍雪よりも岡田麿里に対する不信感だ。細田や新海は脚本も自分で書いていて、作品全体についての不満もそこに起因するのだが、本作で不満なのはやはり岡田の脚本である。アニメーションは実に質が高いが、そうはいっても結局作品の責任は監督にあるのだから、演出でどうにもならなかった長井に対する評価も予想どおりではある。

 二つの恋が並行して描かれる。一つは主人公の姉の31歳になる市役所職員と、姉のかつての同級生であるギタリストの恋物語。もう一つは彼の「生き霊」に対する主人公の女子高生の恋物語。つまり主人公姉妹の相手は、31歳の彼と、高校生時代の彼の「生き霊」なのだが、この突飛な基本設定に説得力がないのも困ったものではある。

 「生き霊」は、そこに実在するものとして描かれている。曖昧なところなどない物理的存在として。そこにどのような現実的可能性を描こうとするか。

 何も現実的な整合性をどこまでも要求しようというのではない。突飛な設定を理由なく持ち込んで、それをどこまでも現実的に処理することで面白さが生ずる可能性はむろんあるのだが、残念ながらそうはなっていなかった。

 となれば、現実的にではなく曖昧な移行で時空間の混同を起こすしかないはずだ。もちろんそれをやって安っぽくなる恐れもまたあるとはいえ、結局、あくまで現実的に起こっていることとして描こうとして余りに「トンデモ」でありすぎた。そしてそう描くことの必然性がまるでわからなかった。

 それを選んでおきながら、クライマックスでは空を飛んでしまう。アニメーションは見事だったが、物語の論理がわからなくなるばかり。


 何より決定的なことは、妹が惹かれるその生き霊が、まるで魅力的に感じられないことだ。これではまるで物語の論理が成立しない。

 狙いはわかる。高校生の彼は夢を追いかけていて「魅力的」なのだ。妹はそこに惹かれていた。現実の彼は、半ばは夢破れた現実に生きている。それなりに優しかったりもして魅力的だ。姉はそうした彼を受け容れる。

 だが、実際に「生き霊」たる高校生の彼が魅力的に見えることはついぞないのだった。主人公にとっては、自分に優しい言葉をかけてくれ、自分を肯定してくれているように感じたということが、彼に心を寄せる必然性を持っているのだが、観客にとって、高校生の彼が、現在の彼と違ったどのような「価値」を示しているというのか? 夢を捨てていない? 単なる現実の見えていないガキにしか感じられないが。

 「生き霊」と現実の彼に、それぞれの「価値」をどう付与しようというのか、脚本上のキャラクター造型に、それがどのように意図されているか、わからない。

 それを演出でどうにもできなかった監督の責任はやはり逃れがたい。

 岡田の脚本は、「心が叫びたがっているんだ」にせよ「空の青さを知る人よ」にせよ、フレーズの鮮やかさを物語が支えきれない。

 もちろん「空の青さ」は高校生たちが見ようとしている未来への夢なんだろうが、その中身が真剣に問われているようにも見えないし、それならば、「青」春時代を過ぎてしまった姉と彼がどのような位置にいるということなのかもわからない。

 もちろん登場人物の誰もが「知る人」であってほしいと言っているのだろうが、一体誰が「空の青さを知」っているというのか。あの映画の中で。


2021年3月23日火曜日

『ハウンター』-物語の論理の混乱

  アビゲイル・ブレスリンが出てくるから、これは安っぽい映画ではないんだろうと思って観ていると、たちまちそんなことはないのだとわかる。例によって「リピート物」としてリコメンドに挙がってきたのだが、先日の『リピーテッド』よろしく、俳優の出演料に映画のレベルがともなっていない。場面の端々、画面の隅々がいかにも誤魔化している感じの曖昧さに満ちている。演出がそうなってしまうのはそもそも脚本がそうだからだ。

 リピートする場面が提示され、主人公だけはそれを自覚しているという設定が知らされる。となれば、リピートの起こる仕組みを本人は知ろうとしなければならない。例えば徹夜をしてでも、時計やカレンダーがリセットされる瞬間が見られるのか。

 だがそんなことはしない。何となく同じ時間を繰り返しながらそれに流されるばかり。その必然性はもちろんある。主人公が明晰ではいられない理由は。

 だがそれならば物語の論理は厳密ではいられない。

 実際にそうなのだ。主人公は既に幽霊だというのだが、敵につかまるとガムテープで縛られている。それを逃れるためにライターを後ろ手で点けてガムテープを切る。なんなんだ。この展開は。霊体の行動の原理はいったいどういうことになっているのだ。

 同じく霊体になっている殺人鬼をやっつけて、結末ではリピートを抜けて明るい未来が待っているという。幽霊なのに。「明るい未来」とやらもただ光で満ちて何も見えない空間だけ。

 こういう脚本で良い映画ができるはずがない。

 これがあの『CUBE』の監督なのか。テレビシリーズの『ハンニバル』のいくつかも監督しているのだが、作品のレベルが一定しないのは何とも不思議。

2021年3月21日日曜日

『アップグレード』-レベルの高い一編

  いろいろ残念な日本のビッグバジェット映画を観た後で、アメリカの低予算映画が実に見事で参る。低予算というのも、後からネットで言われなければまるで感じない。むしろ画面がどこもかしこもハイクオリティなのだった。限定された空間での人間ドラマというのではなく、近未来SFだというのに。

 近未来SFで評価が高いというほかに何も知らずに観始めると、とにかく先が気になって仕方がない。いちいちの展開に驚き、続きを追うのをやめられない。脚本も演出も申し分ない。そう言われてみれば、画面の緊密さもスピード感も、予算をかけずに撮影の工夫で見せているのだった。

 やるなあ。


 面白さの一つは、身体に埋め込んだチップが人工知能で、それが身体を操るといきなり肉体の能力を異常に高める、という設定だが、観ていて思い出したのは『寄生獣』だった。

 だが、さすがに異生命体との交流テーマとしては『寄生獣』には遠く及ばない。バッドエンドで終わるのも残念。

 とはいえ、ともかくサスペンスに溢れた堂々たる娯楽映画として、実にレベルの高い一編だった。

『Fukushima50』-いろいろ残念

  映画館で予告編を観た時は心躍ったが、テレビで本編を観ると残念な出来だった。

 アカデミー賞では撮影や音響や照明などの裏方が受賞したのは大いに納得できる。これだけの映画の撮影は大変だったはずだ。だから監督賞もぎりぎり受け容れてもいい。

 だが作品としてはやはり弱い。同じタイプの映画として『シン・ゴジラ』とか『日本の一番長い日』『突入せよ! あさま山荘事件』などに比べてあまりに弱い。だから本当は監督としても、庵野秀明や原田眞人には比ぶべくもない。

 例えば官邸や本店を悪者にして現場を英雄視することが、どれほどドラマツルギーにとってマイナスなのかをなぜ誰か指摘しないのか。

 よしんば現場の苦労だけを描くとしても、その選択が本当にぎりぎりであるようなバランスが描かれない。脚本も弱いのだろうが、演出で見せるべき要素でもある。

 映画としての纏まりという点でも、どこまでの出来事を物語の枠に収めるのかが伝わりにくく、盛り上がりも中途半端で終わってしまって、拍子抜けだった。

 外人の出てくる場面の安っぽさは、どこぞのネットの感想で「再現ドラマレベル」という評が実に。いっそあんな場面を挿入しなければいいのに。

2021年3月18日木曜日

『ペルソナ3 劇場版』-ゲームの限界

  劇場版4作のうち、第3作の『秋』編を除く3編を、続けて。

 基本設定である「影時間」の異世界観は悪くないが、「シャドウ」や「ペルソナ」のデザインがゲーム的な荒唐無稽さでちょっとついていけない。デザイナーの金子一馬は上遠野浩平の「事件」シリーズのイラストレーションで応援したい気持ちはあるのだが、あの金属的で独特の質感のイラストをアニメにした際の情報量の脱落が何だか無残な軽さになってしまっている。


 3作目で展開が大きく変わったようでもあり、十分にストーリーを把握しているわけではないとはいえ、全体として、特別面白かったとも思えなかった。

 とはいえアニメーションとしては4作目はずいぶんとレベルが上がっていて感心したし、1作目からの異世界観が現実ににじみ出したような陰鬱な雪の降る冬の終末感は悪くなかった。

 だが問題はやはりゲーム的なバトルの必要であり、結局は「仲間との絆と根性でがんばる」という原理でしかドラマツルギーを支え切れていないことが決定的な弱さになっている。これもまた「スーパーマン映画の不可能性」の一種で、何が限界条件なのかがちっともわからないのだ。戦いが物理的なものかどうかさえ。

 それは原作がゲームであり、ゲームとしての様式を満たす必要のあるところからくる限界か。


 とはいえ6時間にも及ぶ物語につきあってしまうと、なんだかあの仲間たちに妙な愛着を感じてしまうのも確かだ。いろいろあって大変だったが、ハッビーエンドで良かったなあ、と。

 こういうのは長い物語を観た効用。

2021年3月14日日曜日

『×××Holic 真夏の夜の夢』-原作通り

  以前から持ってはいた原作のマンガをようやく通読して、子供たちが観ていたのを部分的に覗いてはいたし、なかなか良いとの評価も聞いていたが観逃していた本作をようやく。

 なるほど、アニメーションがすこぶる良い。動きも良いし、美術も含めた作画のレベルは高い。

 そして何より、題名にあるとおり「夢」のような、イマジネーション豊かな世界観が実に良い。

 ただ人間ドラマはやはり軽い。シリアスであってもどこかで見たような葛藤だったり悲劇っぽさだったり救いだったり。

 これは原作がそもそもそうなのだ。原作者にない、映画オリジナルなエピソードを、原作者でない脚本家が書いているのに、その手触りは残念ながら原作通りなのだった。

2021年3月13日土曜日

『ラスト・ムービー・スター』-甘さを許せるなら

  バート・レイノルズの遺作で、すっかり落ちぶれた往年の人気俳優が、安っぽい映画祭にゲストで招かれて扱いの酷さにキレて帰ろうとするが…。

 これは『その男 ヴァン・ダム』だ。『バードマン』もそうなのか? 『運び屋』も気分的にはそれに近い。

 それらの映画と同じく、やはりどうしても独立した物語としてではなく、若い頃の映画作品やら俳優としての社会的イメージやらを借景とする鑑賞を観客に強いる。それ込みでやはりなんとも切なくて温かくて後味のいい映画だった。もちろんドラマとしては相当に甘いんじゃないかという突っ込みはいくらでもできるとして。

 甘いとはいえ、映画としては決して安っぽくはない。映画祭の安っぽさに腹を立てるところも、しかしファンが心から歓迎しているところを描くことで、バランスをとる。これが、ひたすら主人公を酷い目に遭わせて「面白いでしょ?」と言っているような描き方をされたらがっかりだ。

 故郷を訪ねるくだりで、やはり往年のスターとして敬意を払われるエピソードに救われる思いがするのは、落ちぶれた現状に観ているこちらが大いに同情的になっているせいだ。

 認知症になったかつての妻を訪ねるエピソードやら、すっかり反省して映画祭に戻って、人生を見つめ直すなどというあまりの甘さを許せるならば、大いに幸せな映画ではある。

2021年3月11日木曜日

ホトケノザの群生地

  去年の休校明けから通勤路を変えて初めての春が巡って来た。経路のあちこちでホトケノザの群生地が目につく。一カ所で目につくと他の場所でも目に留まるのだ。

 中でもとりわけ広い範囲に拡がっている場所。






2021年3月6日土曜日

NHK『ペペロンチーノ』 -ベテランの手管

  東日本大震災特番のNHK地方局制作ドラマ『ペペロンチーノ』を見る。宮城局だというのだが、主演が草彅剛と吉田羊だというのだから、ずいぶんと力が入っているようだ。

 確かに安っぽくはないがそれほど特別とも思えない。まあこんなもんかと観ているうちに、冨田望生の演技にまんまと泣かされてしまい、ラストでまた。そうか、この手できたか。『今度は愛妻家』の。『見えないほどの遠くの空を』の。

 災害で家族を失った喪失感を描くのにこの手法が使われるということでは『父と暮らせば』『東京マグニチュード8.0』を連想すべきだが。

 そういえば伏線があったじゃないかと気づかされる心地よさと裏腹に喪失感が切ない。ありふれた手法とはいえ、やられた。

 誰かと思えば脚本はベテラン一色伸幸。

2021年2月21日日曜日

『ザ・クレイジーズ(リメイク版)』-完成度の高い「お話」

  確認のために観てみる。たぶん3回目だが、ブログを始めて以来は観ていないようだ。いくつかの印象的なシーン以外は、基本的には忘れていることばかりだった。

 思いのほか完成度が高かった。ロメロ作品と比較してしまうせいでもある。金もかかっているし、演技から演出から編集から、全てにおいてレベルが高い。

 だから十分面白いのだが、やはりロメロとは違うのだった。

 完成度が高いと、それはそれで余りに現実から隔絶された「お話」になってしまう。

 そしてもっぱら面白さは感染者や軍から逃げるサスペンスによることになる。つまり敵味方がはっきりと分かれてしまう。軍の作戦を内部から描くことがないから、主人公から見て、それはあまりに明確な敵でありすぎるし、感染者も、ほとんどゾンビとして襲ってくるばかり。

 そうしてみるとロメロ作品は「感染者」ではなく「感染」が怖いのだった。それぞれの人物に観客が感情移入して、それらの人物が感染によって少しずつおかしくなっていく違和感と哀切。

 なるほど、比較することによってそれぞれの魅力が明らかになる。

2021年2月20日土曜日

『ザ・クレイジーズ 細菌兵器の恐怖』-奇妙なリアルさ

  中学生の時に『ゾンビ』を観て以来のロメロ信者だが、これはレンタルされていたことがなく、観たいと願い続けて数十年、気がつくとアマゾン・ビデオに並んでいたのだった。

 軍の開発中のウイルスが、飛行機の墜落によって田舎町に拡散されてしまう。人を狂気に追いやるウイルスだというから、人から人へは感染しないものの、『28日後』が、死者の蘇りではないものの、広い括りでゾンビ映画とされていることを考えれば、これもゾンビ物の亜種ではある。本作の次が『ゾンビ Dawn of the Dead』だ。

 2010年のリメイクは観ている。悪くない映画だったが、あれも『Dawn of the Dead』のザック・スナイダーリメイクくらいに面白かったのだろうかと思っていたら、結論としてはまさしくそういう感じだった。

 ザック・スナイダーは確かに悪くなかった。だがロメロの人間描写は感じなかった。

 『クレイジーズ』もそうだった。

 確かに低予算映画らしさは全面に出てる。ウイルス感染地域を核で殲滅してしまおうと話し合われている時に挿入される爆撃機の映像があまりに借り物感満載なのは笑える。銃撃戦のシーンも、同人映画的手作り感が満載。

 だが、人物の描写が妙にリアルなのだ。とりわけ、ウイルス開発者が対策のために実験を繰り返す実験室で、助手の女性に「結婚しようか。冗談だよ」というシーンには妙に心を動かされた。二人ともそれなりの年齢で、かつ独り身という哀感が緊急事態の切迫感で浮き彫りになるところに感心した。

 一緒に観ていた娘が、対策本部での会話の場面が多すぎて飽きると言っていたが、こういうところで交わされる会話に表れる「現場」感がリアルなのだ。

 この、上手くいかない現場のバタバタ感やら、軍と住民の間で起こる戦闘やらをこそ映画は描こうとしているようにみえる。つまり感染者と軍から逃げる恐怖やサスペンスよりも、きれいな敵味方図式に分かれていないところや軍の作戦が冷徹に遂行されていないところこそが、この映画の面白さなのだ。

 上の会話の二人も、博士が対応策となる重要な発見をしたらしいのに、助手の女性がそれが何かを理解できずにいるうちに博士が研究室をとびだして、そのまま感染者に巻き込まれて結局感染してしまう、という展開の絶望感と悲しさはうまかった。

 怖いのは結局人間、というオチ自体はありふれているようにも思えるが、それでロメロ映画が面白いのは間違いない。

2021年2月15日月曜日

『Loop』-ちょっと難しい

  「ループ物」としてレコメンドされてくる作品から『残酷で異常』など、評価の低くないものをいくつかリストにいれておいて、ようやく。

 始まってみると何語で喋っているのかわからんなあと思っていたらハンガリー語なのだそうな。だがヨーロッパ映画らしい粗さはない。やや画面が暗いものの、タッチはハリウッドの小品といった感じではある。最近はドローン撮影で、安価に映画が高級そうに見えるものの、そもそもカメラの切り替えや編集などはすこぶる達者だ。


 「見直したくなる」という惹句の通り、ループの構造がどうなってるんだろうと思って二度観てみた。

 映画というのはカットの切り替えで、時間的には順につながっているという暗黙の約束があるのだが、映画が先に進むとさっきと同じ場面が描かれる。だからといって『運命じゃない人』のように、本当に時間的に前の場面が描かれているわけではなく、どこかから時間がループしているのだ。だがその展開は、少しずつ前と違ってくる。観客と同じ視点の主人公にはさっきの記憶がある。

 そのうち、主人公が二人になったりする。一方の主人公はさっきの自分だから先の展開を知らない。

 そうこうしているうちに主人公が殺されてしまう。どうなるのかと思うと、別の人物をカメラが追ううち、その人物が主人公とからむ場面に至るから、そこで物語に復帰する。

 このパターンは『トライアングル』だ。そして『トライアングル』のように暗喩的な描写もあって、読み込み甲斐があるのかもしれないとも思ったが、とりあえず二度観た感触としては、『トライアングル』ほどわかりやすくないわりに、主人公が家族の大切さを再認識するという決着のわかりやすさがどうも軽い。あまりに安易にベタベタしすぎだろ、最後。『エターナル・サンシャイン』も、ラストでそこに落ち着いたのに不満を感じたものだったが。

 ループがパズルのように解けるわけでもなく、混乱のままなのも、楽しめばいいのやらどうやら、モヤモヤ。

2021年2月13日土曜日

『オタクに恋は難しい』-コメディエンヌとしての高畑充希

  高畑充希はコメディエンヌだ。可愛いヒロイン役もやれるのに、ここまでコメディに徹して三枚目もできる。その上、歌も上手い。どういうわけだかミュージカルになっていて、そのうえ、妙に曲が良い。

 適度に楽しくて、終わるまでもうちょっとというところで地震のニュースが入って、そのまま録画が終わってしまった。といって最後が気になるというものでもない。原作はどうせ続いていくんだし、どこで終わってもいいような話ではある。


2021年2月12日金曜日

『カルト』-真っ当な創作物を

  久々に白石晃士を。だがネットの評価は低い。まあ期待も低い。

 はたしてそうなのだった。『オカルト』のあの異様な感触はない。

 画面が映画的ではなくテレビ的なのは、テレビ番組を模したモキュメンタリーという体裁だからいいのだろうけど、結局それで『オカルト』の時に感じた、これはどこまでホントっぽく見せるつもりなのかという、観客と作り手の探り合いのようなものが生まれなくなってしまった。

 例えば「フッテージもの」と呼ばれるのは、画像の粗さがリアルだったりする。映画のフィルム的な空気感も、異世界を作り上げる。

 だがテレビ的画面の平板さは、だからこそそこに生じた異変に異化効果を生み出しうるという狙いがあったのかもしれないが、結局安っぽいテレビ番組的な世界しか作れていない。どうみても自覚的にやってるとしか思えない安っぽいCGも、「どこまで本当か」という境界の揺らぎを引き起こさないから、逆効果だ。

 だからこそネットでは、この監督は何を考えているんだろうといった不安定感を楽しむ、といったもう一捻りした楽しみ方をしている人もいるのだが、その前にまず真っ当な創作物を見たい。

2021年2月7日日曜日

『天気の子』-アニメ的お約束

  細田守も、メジャーになって、アニメーションのレベルは落ちないのに、作品がつまらなくなるのは困ったもんだが、新海誠も同じような感じになってるのが残念。

 アニメーションはとても良い。空中に浮かぶときの頼りなさもうまいし(これは新海誠ではなく優れたアニメーターの仕事なのかもしれないが。沖浦啓之とかの)、上空に溜まった水が一気に地上に落ちるカタストロフ感も、日常に非日常が出現する驚きに満ちていた。そして何より東京の佇まいは、その緻密さだけで、もう溜め息が出るほどの美しさだ。

 ストーリーの骨格も悪くはないんだろう。晴れ娘サービスを始めてからの高揚感も、後半でどんどん天気が悪くなって,不穏な空気が街に立ちこめて、そのうち雪が降り出す展開もいい。ぞくぞくする。クライマックスの後に3年間雨が降り続けるという結末にもびっくりさせられた。

 音楽も感動的だ。流れ始めるタイミングや映像、音楽以外の音の調整など、巧みに演出されている。

 そうしたアニメーションと物語と音楽が重なって、雨が上がって光が射す晴れ間の崇高さはすごい。


 だから問題は人間の描き方だ。

 主人公に関わる大人達に魅力的な人物がいないのも困ったものだが、とにかく主人公の二人が決定的に薄っぺらい。少年が島を出て戻りたくないと思うことと、少女が子供二人で生きていかなければならないと思う、それぞれの事情の切迫感がまるで感じられない。この切迫感が、いつまでも雨が降り続いて、やがて東京が水に沈んでいくという事態の重大さに釣り合うことが、この物語を支えるドラマツルギーの絶対条件のはずではないか。

 それはまずはエピソードの積み上げの欠如に因る。二人の抱える事情がわからないから、どうしてそういうことになっているのか伝わらない。

 もちろんそれをひたすら細かくしていくと、いたずらに長くなるばかりの説明過多な物語になってしまうのかもしれない。説明のためのエピソードが羅列するばかりの。ではそれを削ってどうなっているかというと、結局人物は薄っぺらい。

 だがもっと問題なのは微妙な人物の演技(演出)の欠如だ。具体的に背景を描かなくても、それを感じさせる描き方がされていない。

 そして替わりに何があるかといえば、よくあるアニメ的な描写だ。最近『ねらわれた学園』で、以前には赤根和樹の『星合いの空』で激しく感じた、アニメ的お約束だ。

 以前の新海誠に、それはなかった。登場人物は、お約束など無視して不器用だったり無愛想だったりした。あの切迫感が、宇宙の果てで異星人と戦い続ける任務の重さや、何年もかけて届くメールの切実さと釣り合っていた。

 それが今や、不器用も無愛想さえも、お約束としてしか描かれない。そしてやたらと感情過多に描かれるばかりで、ちっとも迫ってこない。天気を操るとか空の生態系と通じているとか、物語の核心であるところの「世界を変えてしまった」とかいった事態の重大さに、アニメ的な既視感がまるで釣り合わない。

 もちろん「世界を変えてしまった」というのが、単なる子供っぽい思い込みでしかないようにも描かれている。それはある意味では「セカイ系」への距離の取り方として正しいのかもしれない。

 だがもちろん、本当にそうなのかもしれないとも思わせなければ面白くない。それが、ちっともそうは思えないのだ。そう明言されているにもかかわらず。


 新海誠のような特異な才能が、技術的には恐ろしく高度な、しかしどこかで見たようなアニメを作るようになっていくのは、本当に残念でいたましい。

2021年2月5日金曜日

『散歩する侵略者』-黒沢清への不信感

  ある大学の演劇部が上演した際に、ポスターを見て興味をひかれていたがその時は見損ねて、以来気になってはいた。ポスターデザインもよくできていたのだが、何よりタイトルが秀逸だ。日常と非日常が大胆に並んでいる。

 とはいえその後公開された映画はすぐに観る気にはならずに放置していたのだが、今回は上記演劇部の関係者と一緒に。


 しかしまたしても黒沢清。しかもこの間の『クリーピー』ほどには、画面に満ちる禍々しさも感じないまま、そしてストーリーやら人物の行動やらには納得もできないまま終わった。

 「概念を奪う」宇宙人、というこの物語の基本設定は、舞台のようにリアリティを要求されない、抽象度の高い表現形式ならば、最初から象徴として見ることもできるのだが、実写映画という、リアリティを前提とした表現形式には馴染まない。

 例えば、奪わなければ「概念」を持っていない宇宙人が話ができるというのは矛盾している。言葉などは概念の塊ではないか。

 それが象徴的な表現なのだと言われれば、そういう納得で見ることもできるのかもしれないが、周囲の風景まで含めて画面に映り込んでいるようなリアリティの水準で、それをどう受け止めれば良いのかわからない。


 劇団「イキウメ」主催の前川知大の脚本は、最近『太陽』の舞台をNHKの放送で見たが、これは面白かった。なるほど、舞台劇ならば見られる。

 そしてNHKのドラマ『マリオ~AIのゆくえ』はダメだった。AIが身体を持って現実に関わってくるときに何が起きるのかを本気で考えているようには思えなかった。

 本作もそうなのだ。「概念を奪う」ということがどういうことなのかを、リアリティの水準で考えることで醸し出されるかもしれないSF的な面白さはない。

 ではどんな象徴的表現になっているかといえば、それもよくわからない。わからないが、何かありそうだぞと感じさせるようにも作られていないと感じた。概念が人間性を支えている? まあそうだろうけど、そうだとしても、そうだということが観念的に示されているだけのように思える。いやそもそもそういうことではないのか?


 あちこちと納得のできないツッコミどころが多いのも困ったもんだ。そういう無用なノイズはなくしておいてほしい。

 中でも、「愛」という概念を奪われた主人公が、奪われた時には意外と何ともないという反応をして、後から廃人のようになってしまうというのは何か意味のある成り行きなのだろうか? 意外と何ともない、というのはそれはそれで意味があるように受け取れるし、廃人のようになってしまうのは、ある意味でわかりすぎる。

 その時間差に意味があるのだとすれば、それをこそ意味あることなのだと感じさせるように描かれるべきなのだが、単に一貫性・合理性の欠如にしか感じないところが黒沢清への不信感なのだ。

2021年1月31日日曜日

『エヴァンゲリオン 新劇場版 Q』-3回目にして

  ブログ上でも3回目。しかも前回から半年。

 だが今回は劇場版3作を続けて観て、流れを把握している。前の2回は、まるでわかっていなかった。たぶん『破』を観てない。

 話が多少はわかったところでようやく、母艦の飛翔に高揚感を感ずることができるようになった。

 シンジが絶望的に不愉快なのは変わらないし、それをそのように描くことの不合理にも納得できないが、それでも最後のシーンで3人の初期メンバーが連れ立って歩き出すラストシーンには、3回目にして感動してしまった。

 頼むからこれを納得できる形で感動させてほしい。


2021年1月29日金曜日

『エヴァンゲリオン 新劇場版 破』-続・確認続く

  なるほど、これを観ていないのだ(あるいはまるで覚えていないのか?)

 ちゃんと展開する物語もあって、まるで現実味を欠いた暗喩ばかりの『Q』に比べて、観られるといえば観られる。

 だがやはり、結局のところ理に落ちる説明はないままで、とにかく物理法則の見当がつかない。これは「スーパーマン映画の不可能性」だ。何が可能なのかがわからない。

 恐ろしい危機であるかのようにも感じられるのに、死者がどれくらい出ているのか、復興に可能な資材や資財がどれほど必要で、それがどこから供給されているのかもわからない。

 それだというのに、どこかで主人公やら主要登場人物の「心」が突然判断の理由になってしまう。そんなことをしたら「心」が傷つくって、その前に世界が滅亡してみんな死んでしまうような危機なのではないのか?

 このアンバランスがどういうわけで関係者皆に看過されているのか、心底納得できない。


2021年1月24日日曜日

『リピーテッド』-名優の無駄遣い

  邦題にあるようにリピートものだろうと思っていると、眠ると記憶がなくなるという設定で、毎朝が同じように記憶のない状態からの始まりになるという意味でのリピートものなのだった。

 前向性健忘といえば『博士の愛した数式』だが、もちろんサスペンスだからそれよりは『メメント』と『マニシスト』を連想させる。

 記憶のない主人公とともに、観客も少しずつ「真実」を知っていく。もちろんその中にはなかなか明かされない謎があったり、ミスリードがあって、何が真実かが二転三転したり。

 そういった展開は実に想定内で、それほどのサスペンスも驚きもないなあと思いながら観ていたら、あろうことかそのまま終わってしまった。ドンデン返しで示された「真相」は想定内で、まさかこのまま終わるのかという不安が、そのままそれ以上はひっくり返されずに終わるのだった。

 観客は健忘などないから、徐々に明らかになる真相を蓄積させていけるが、主人公は忘れているはずだ。ビデオで撮影しているから、少しずつ真相が蓄積されているのだという説明ではまるで整合性がとれないほど、彼女は着実に「真実」に近づいていく。といって、それはミスリードされた「真実」だから、結局ひっくりかえる。なのにどうしてそれを彼女が信じてしまうのかがわからない。もっと観客が徒労感に苛まれるようなもどかしい前進の様子など描かれれば、感情移入もできようものの、徒にあらぬ方向にミスリードされるばかりで、不快な方向にもどかしいばかり。

 不満を言うために分析するのも空しいのでもうやめるが、いったいどうしてこんな杜撰な脚本が、よりによってニコール・キッドマンとコリン・ファースなどという名優を使って映画化されるのか。いや、エンドロールまで、何か随分似た俳優だなあと思っていたのだが、本当にニコール・キッドマンとコリン・ファースの名前が出てくるものだから、映画のひどさの反動で驚いたのだった。

2021年1月20日水曜日

『サマー・オブ84』-またしても小品

  突然アマゾン・ビデオのおすすめに浮上したサイコスリラーを観てしまう。

 だが、悪くないものの満足感も低い小品だった。

 少年グループの描き方は『スタンド・バイ・ミー』『IT』『スーパー8』のパクリで、といってそこに何か愛しいものがあるかというとそうでもなく、1984年という設定も、まあお国柄の問題かもしれないが、実際に当時を知っている身からするとリアリティがなく、だからサスペンス・スリラーとして面白ければ良いのだが、それには脚本の作り込みが浅かった。

 ドンデン返しが1回しか起こらず、それは想定内だし、バッドエンドなら、とことん怖くすればいいのだが、物語の終わりに、世界の見え方がかわってしまうというコンセプトは、ナレーションで語られるだけで、画として見えてこない。

2021年1月17日日曜日

『エヴァンゲリオン 新劇場版 序』-確認続く

  テレビシリーズと設定の違う物語だというのがわからずに前に観ているはずなのだが、どうだったか忘れた。

 見てみると、たぶんここまではテレビシリーズのダイジェストなのだった。

 そしてシリーズ前半見所の「やしま作戦」まででとりあえずここは終了。

 なるほど、物語的には毎度のエヴァンゲリオンで、主人公がひたすらうっとうしいのと、作画のすばらしいのと。

 とりわけ、機械の動く様子がすばらしい。精巧さとスケール感が圧倒的。

 だがやはり物語のバランスはとても悪い。危機の程度が甚だしいのと、主人公の逡巡があまりに不釣り合いで。これだから「セカイ系」などと揶揄されてしまうのだ。

2021年1月10日日曜日

『ナチュラル・ボーン・キラーズ』-実はまっとうに面白い

  最初のうちは、妙なカットの挿入のある演出の新奇さが目立つが、観ているうちに、これは奇を衒わなくとも面白い映画なのだと思えてきた。刑務所への侵入と脱出のくだりなどは結構面白い。そのまま見せれば良いのに。

 とはいえ、無差別殺人が何やら世の中への不満に基づいているらしい描き方は、それなりに理に落ちてしまっているだけに、どうしたって連想される『ワールド・イズ・マイン』の描いている境地には到底及ばない。

 『ゾンビランド』のウディ・ハレルソン、若い頃、結構良い男だなあ。