2020年12月31日木曜日

2020のアニメ

   1クール全話通して見たアニメについて、一言ずつ書き残しておく。

 2020は年間通してということになってしまったが、来年からは1クールずつ分けていこう。


1クール(1-3)

「ダーウィンズ・ゲーム」

 最初は面白そうなデス・ゲームものだと期待させたが、次第にトンデモな感じが強くなっていって、なんとか最終話まで。


「映像研には手を出すな」

 湯浅政明作品ということで、アニメーションは安心。となれば原作の良さで見られる。物語の中の「現実」と、アニメ世界とが地続きで入れ替わる描写は素晴らしかった。


「pet」

 最初のうち、どうにも話が把握できずに何度か見直した。物語の枠組みがわかってきても、キャラクターがどうも安定して把握できない。どういう人物像なのか揺れる。これはこれで原作がそうなのかもしれない。

 心の中に、大事な場所がある、という設定に、最終話で意外なほど感動させられたのだった。


「ドロヘドロ」

 異様な世界観を最後まで堅実な作画で見事に見せきった。が、1クールではまるで物語が完結せず、どうにも消化不良。


「ケンガンアシュラ」

 3CGアニメは決定的に作画が乱れることがないから、2クールが安定して見られた。毎回楽しくて、録画してすぐに見ていた。


「空挺ドラゴンズ」

 最初のビジュアルはなんともはやジブリっぽいぞと思ったが、物語はすぐにそうでもないことがわかった。空が舞台であることの緊張感がどうも足りないように思えるところが不満ではあったが、世界観は面白かった。


「ハイキュー!! Go to the Top」

 監督が替わって作画レベルが落ちたのでがっかりしたが、何話かはやはり確実に原作の力を感じてしまった。すごい物語だ。スポーツやら高校の部活やらについての確かな考察に支えられて、躍動感溢れる物語が展開する。


「ID:invaded」

 ここ数年で確実に特記すべき、オリジナルアニメ作品だった。全話ダビングしてからも、子供と一緒に通しで観たりして、3回は通しで観ている。

 毎回のイメージの鮮烈さもすごかったが、深まる謎にも引っ張られたし、キャラクターも魅力的だし、すこぶる感動的な回もあったり。津田健次郎は安定の好演ではあるが、この作品こそ最も感動的な演技を見せた。もちろん物語がそれを支えたのではあるが。

 舞城王太郎は「阿修羅ガール」と『龍の歯医者』が低評価なのだが、これは一気に評価を高めて、さてどうしたものか。


2クール(4-6)

「ひぐらしのなく頃に」(旧作)

 新シリーズがアニメ化されるらしく、旧シリーズの再放送をこの機会に。それほど古いわけではないのに大昔のアニメのような画像の粗さはどうしたことか。原作もまあ、部分部分が面白いわけではないので、全体に早送りで。


「無限の住人」

 これを期に原作を読み直して感動を新たにし、毎回アニメを観ては沙村広明の力を思い知った。第1回のレベルを維持できればそれなりに価値あるアニメ化ともなったのだろうが、2クールもかけて物語全部の流れを追ったものの密度がひたすら薄くなってしまったのは残念。


「波よ聞いてくれ」

 アニメは酷い。原作の方が面白いに決まっているが、コナレの声が楽しいので見続けた。杉山里穂、素晴らしい。


「グレイプニル」

 最初はどこへ向かってしまうのかと期待したし、アニメーションもうまかったのだが、どんどん作画レベルが落ちて、結局話も完結しない。続シリーズ前提か。


「ULTRAMAN」

 『攻殻機動隊SAC』の神山健治に対する義理から1クール見続けたが、ちょっと信じ難いほど頭の悪い脚本と演出で、毎回不愉快を我慢して見続けた。いったいどうしたというのだ。このあまりの酷さは。殺陣だけは観られるできだったので、それだけを作るつもりだったのか。だがだからといって人間ドラマが、ひたすら不快なほど不合理な展開と演出でいいというのはどういう了見か。


3クール(7-9)

「バトル・オブ・ハイスクール」

 韓国が舞台のアニメが、そのまま日本に舞台を移植せずに放送されるのが意外ではあった。初回のアクションシーンの作画には目を瞠るものがあったが、あとは尻つぼみのまま。


「グレート・プリテンダー」

 古沢良太の評価は回復せず。どのエピソードにも感心しなかった。が、あえて画面全体を極彩色で色分けするセンスだけは毎回驚いた。ああいうやり方はそう何度も通用しないのかもしれないが、それをやってしまったこのアニメについては評価していい。


『富豪刑事 Balance:UNLIMITED』

 CloverWorksは「ダーリン・イン・ザ・フランキス」も「青ブタ」も悪くない仕事をしていて、本作もアニメ的には高水準。だがストーリーが結局それほど面白くならなかったし、主役の二人もそれほど魅力的でもなく、期待外れ。


「AICO」

 設定も展開もしっかりしたSFで感心したし、作画も最後まで乱れなかった。劇的に面白かったとは言えないが消すには忍びないと思えた。


「デカダンス」

 「AICO」とともに、設定も作画も質の高いオリジナルSFアニメだったのだが、「質が高い」ということが必ずしも「面白い」には結びつかない残念な作品だった。


「ヒーロー・マスク」

 Netflix作品であることが、番組のそこここで強調されるから、これは最初から海外での配信を意図しているのだろうと思わせる、洋画っぽい描写がつづいて、しばしば感心した。舞台も登場人物もそうだし、画面上に出てくる英語を訳して字幕表示したりもしない。

 しかし2クール分の物語を全部追って、結局それほど面白くはなかった。SF設定が結局説明されずに、とにかく「そういうもの」として語られて終わってしまったし、主人公が、これも説明なく不死身すぎる。これではサスペンスも興ざめだ。

 舞台設定や作画などは力の入った作品だったのに、最後のところで物語づくりが浅かった。


「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている 完」

 最初はコメディだったのが、前シーズンから旧に作画のレベルが上がるとともに話がシリアスになっていって、観るべきアニメの一つになった。さて完結する今シーズンだが、毎回を楽しみに観るというようにはいかず、全話録ってから観たのは次の年明けとなったが、その分、通して見たからこそのめり込むこともできた。

 よく考えられた思考を、美しい言葉遣いで語るのに毎度感心した。それぞれが大切に思うものをどうやって守ろうとするかを考えた挙げ句、なんとかそれぞれに決断していく。なんと卑近な問題にうじうじと、とは思うものの、例えば『エヴァ』が、あまりのスケールの大きさに対して、あまりのくだらない自己憐憫にうじうじしている、その落差に呆れてしまうのにくらべて、こちらは心の動きにリアリティがあり、かつ節度があるので、実に切実に迫ってきて、登場人物達が愛おしいと思えた。


4(10-12)

「無能なナナ」

 あまりにひどい作画に舐めていたが、3話くらいから、ミステリーとしての質の高さに舌を巻くようになって最後まで。

 最近「カイジ」以来、こういう論理ゲームは質の高い物語が増えてきた。「デス・ノート」「ライアー・ゲーム」「賭けグルイ」…。ただ、まるで途中のまま終わったので、これは2期に期待。


「ひぐらしのなく頃に」

 今なぜ新作アニメ化。もともとのゲームシナリオと同じような、微妙に違うような。制作側は「完全新作」を謳っているが、同工異曲の観が強い。そしてもちろん旧作よりは絵が綺麗になっているが、そのぶんおどろおどろしさがなくなったともいえ、密度が薄いのは否みがたい。


「禍つヴァールハイト」

 ゲーム原作の異世界ものは基本的にはパスなんだが、妙にうまいような、ちょっと特徴のある画は外国のスタジオに発注しているせいか。初回以降はたちまち作画の質が落ちたが、物語といい演出といい、もうダメかと思うと意外といい部分があったりして結局最後まで。


「神様になった日」

 2話の「ロッキー」パロディがやたらと面白かったりもしたのだが、全体にはあまりに中2で浅はか。でも最終話のベタベタな展開に感動させられたりもする。だがそれで許せてしまうアニメファンはあまりに考えが浅い。


「呪術廻戦」

 最初の3話くらいまですごい作画だったのだが、その後、いくらか落ちた。が、アクションシーンはいつもすばらしい。2クールあるので年をまたいで感想を。


「ハイキュー!! Go to the Top」

 1クールの放送では、監督が替わって作画のレベルが落ちたのが残念だったが、このクールは録りためたのを観始めたらとまらなくなって、3時間あまり夜中まで見続けてしまい、やはり原作の力を思い知った。アニメーションとしても、時々力の抜けるところはあるものの、肝心なところはちゃんと観られるレベルで描いていて、そうなれば物語の力で感動させる。


「ゴールデン・カムイ」

 原作も2期も読み逃し、見逃していたらもうすっかり話がわからないし、アニメとしてはまるで観るところがないのだが、毎回楽しかったのは原作のわけのわからない力による。録ってから観るまでに実にハードルが低い。


「赤毛のアン」「未来少年コナン」「デュラララ!!」「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」は、この際に保存しておこうと。DVDよりもハイビジョン放送を録画する方が画質がいいので。どれも素晴らしかった。ジブリの原点2作は当たり前だが、京アニの仕事ぶりも。大森貴弘は「デュラララ!!」が最高の仕事ではなかろうか。

「STEINS;GATE」も録り続けているが観てはいない。


『アーヤと魔女』-裏返しの期待を確認する

  もちろん宮崎吾朗に期待はしていない。それどころかまるでそれを確認するためだけに見ているようなことになっている。そしてやはりそのとおり確認されてしまうのだった。

 こういう設定で、こういう物語で、父親ならばきっとそこら中が面白いと思える描写をするのだろうといちいち思わされる。

 比較が可能な、どこかで見た物語の感触だからこそ、だ。「魔女」ときて「宅急便」や「ハウル」を連想しないはずはない。そして、あれらは全体として不満があるにもかかわらず、細部の描写はやはり手堅く面白いのだった。

 それがない息子の作品は、才能と言えば身も蓋もないが、まずは人間をどれほど愛おしいものとして見ているか、というあたりに差がありそうな気がするのだ。

2020年12月29日火曜日

『残酷で異常』-小品

  ループ物でもあり、SSSっぽくもある。アマゾンビデオで評価が高く、それほど長くもないので。

 悪くない。謎めいた展開も、最後の微妙なハッピーエンドぶりも、悪くない。

 が、とても面白かったと思えるようなサスペンスやカタルシスがあったとも言えない。同じ低予算映画としては『トランスワールド』や『ランダム』の満足感の方が高かった。が、まあこういうのは偶然のようなもので、本作とて作り手の誠意は大いに感じた。

2020年12月26日土曜日

『ねらわれた学園』-美しく気持ちの悪いアニメ

  懐かしのNHKの少年ドラマシリーズだし、たぶん原作も読んでいるのだが、完全に『なぞの転校生』と混同していた。しかし大林宣彦の角川映画はやはりこちらなのだった。そういえばあれは本当にひどくて、作り手の正気を疑うほどだと当時思ったが、今観てもそう思うのだろうか。

 さて、本作は中途半端なSF設定に、学校への携帯電話持ち込みの是非を大仰なテーマとしてからめ、全体は思春期の少年少女の恋愛物語という、これもまた大林とは別の方向に迷走した作品だった。

 一方で美術の自然描写は美しく、やたらと花びらが画面に流れ、虹色の光が差し、人物の動きは作画の質が高い。つまりアニメーション映画としてはきわめて完成度が高い。

 さらにまた一方で人物の描写は、あきれるようなアニメ的デフォルメ過多な演出がされている。感情の動きが極端で現実感がない割に、実に精妙に、繊細に描かれている。滑稽だったり胸キュンだったり。こういうのを、気持ちが悪いとは感じないのだろうか、中村亮介は。本人がそれを作りたいと望んでいるのか、そういうのをファンが求めているはずだと思っているのか。どうも謎だ。

 大林宣彦のは本人の趣味なんだろうけど。

2020年12月20日日曜日

『サカサマのパテマ』-眩暈のする世界観

 重力の方向が逆になった人や物が地下にいて、その世界とこの世界が交錯するという物語設定は、とにかくそこに科学的な説明をする気もないらしいトンデモ設定なのだが、しかしビジュアル的には眩暈のするような実に魅力的な世界観だった。

 ストーリー的にも起伏に富んだ脚本がよくできていて、ボーイ・ミーツ・ガールが安易すぎるのと、ヒロインがそれほど魅力的でないのと、悪の支配者がステロタイプすぎるのが残念ではあったが、アニメーション映画としては相当に質の高い一作だった。


2020年12月15日火曜日

『運び屋』-自由で頑固

 ちょっと間が空いたが、クリント・イーストウッド監督作。かつ80代後半に入ってなお主演作。

 全体の印象は10年前の『グラン・トリノ』に似ている(そしてそちらでもうちの父親を連想させたが、こちらではさらに現在の彼を彷彿させる)。脚本家が同じなのだそうだ。

 あの作品でも既に親族にさえうっとうしがられている頑固親父の役だったが、こちらもそうだ。

 同時にその頑固親父が「古き良きアメリカの男」でもあるらしいのも共通している。そこでは相手を罵倒するような軽口が日常会話になっている文化が描かれ、それが明確にある種の文化であるらしいことが示されている。それを口にする相手との関係が重視されていたのだ。

 そこでは、それ故の時代遅れによる家族との齟齬とともに、多分イーストウッドの持ち味だろう、本質的なリベラルさが魅力となっている。

 本作でも、『グラン・トリノ』同様に異文化交流が一つのテーマになっている。それはかなり意識されているらしい。最初の農園ではメキシコ人労働者とスペイン語での軽口をたたく場面があり、「運び屋」として働くのはメキシコマフィアの下でだ。そこで相手を「タコス野郎」と呼ぶ時に、まるで悪気がないらしいのは、その後で道端でパンクした車を持て余している親子を助ける時に相手を「ニガー」と表現してしまうこととか、「兄ちゃん」と呼びかけたバイクのライダーが女性であったりする場面に共通している。頑固なアメリカの白人親父の文化と鋭く対立しそうな価値の多様化の中で、ポリコレなどまるで意に介しないように振る舞う主人公が、その対立自体を乗り越えてしまう自由さをもっているように描かれているのだ。


 最後に捕まってしまうシークエンスでは『パーフェクト・ワールド』的なもうひとひねりを期待してしまった。冒頭に出てきたメキシコ人従業員や、マフィアの構成員で、最初は主人公を嫌っていたが次第に関係を築いていったフリオがもう一度物語に絡んできて、さらに物語が展開するするような、脚本上の工夫があったら、文句なしに名作なんだが。

 そこは残念だが、とにかく途中も終わりも、すこぶる楽しくてしみじみと良い映画だった。

2020年12月13日日曜日

『ハチミツとクローバー』-みんな若い

  マンガを今更ながら読み始めて、これは一体どういうキャスティングで実写化したんだろうと興味が湧いたんだが、観てみると、蒼井優の「はぐみ」が意外とはまっているんで驚く。今では随分と逞しくなってしまったが、14年前にはこんなこともできたんだ。

 櫻井翔も伊勢谷友介も加瀬亮も若い。

 この若さが、今観ると懐かしさとして映画の感触に合っているのかもしれないが、ドラマとしては演出にさしたる工夫もなく、むしろテレビドラマ的軽いお約束で人間が描かれているので、観るほどのこともなく流してしまった。

 ただ、やたらと良い、どこのビートルズフォロワーかと思うような挿入曲が誰かと思って調べてみると菅野よう子のオリジナルだった。

2020年12月12日土曜日

『フレンチ・コネクション』-映画の力が横溢した

  逃げる殺し屋の乗った列車を、線路下の道路を車で追う凄まじいシーンだけはやたらと印象に強かった映画だが、それ以外の部分は、観た覚えがなく、もしかしたら全編を見たかどうかも怪しい。

 あらためて観てみると、まあ説明不足で観る者があれこれ補って考えないとたちまち話がわからなくなる。

 それでも、とにかくジーン・ハックマン演ずるドイルの貪欲な仕事ぶり、執念には迫ってくるものが確かにある。このころ40を超えていたハックマンの、体の動くのも素晴らしい。

 演出や編集も、カットが変わると唐突に場面が変わるぶっきらぼうな編集があるあたりはドキュメンタリータッチでもあり、かと思うとスムーズにカメラが切り替わって、状況を多角的に捉えるあたりの計算された編集の緻密さは職人芸だ。


 そして何よりブルックリンの街並が素晴らしい。路地裏の薄暗さや濡れた路面、郊外らしき取引場所の廃工場の佇まい。

 廃工場の追跡場面は、どうも黒沢清に影響を及ぼしている感じだ(調べればそういう発言はありそう)。カメラは薄暗い部屋にいて、開け放たれたドアから見える向こうの部屋に何かの気配を感じる(むろん勝手に観客がそう想像するように撮られているのだ)。

 やはり映画の力が横溢した傑作なのだとあらためて納得。

2020年11月27日金曜日

『ダークハウス』-安い恐怖続く

  とりあえず、そんなに長くないホラー映画を、という感じなのだが、とりあえず、というにふさわしい出来だった。

 ジェームズ・ワン制作というのがもうすっかり『死霊館』シリーズの劣化版という感じだった。邦題もそれをあてこんでいるのは明らか。

 作品としては悪くない。ひどい邦画のように、観ていて腹が立つようなことはない。

 だがまあ感心もない。

 ついでにいうと、原題の『Demonic』に示されているように、敵が悪魔というのはあまり日本的ではないのだろう。映画としては優れていると思いながら『ヘレデタリー』のラストに満足しきれなかったのもそこだった。なんとなく最後に悪魔が出てくると白ける。日本人としては。『死霊館』の「死霊」も、なんとなく悪魔っぽい。

2020年11月16日月曜日

『フローズン』-安い恐怖

 スキー場のリフトが止まって、コースの途中、地上数十メートルに取り残されてしまったら、というワンシチュエーションスリラー。これもある種のSSSか。印象は『ロスト・バケーション』に似ている。ということはサメ映画もSSSなのか。

 となれば起こりうることをどう想像力豊かに盛り込んで、かつ演出をどうするか。

 とどまっていれば凍死するしかない。すぐに救助が来ることは期待できない。飛び降りるしかない。果たして無事に済むか?

 取り残された3人のうち1人が意を決して飛び降りると、はたして足を骨折する。彼はどうするか? 残る2人は?

 だが、なんということか、地上には狼が徘徊し、降りたものは食い殺されてしまうのだった。

 やっぱりサメ映画!

 

 しかし印象としてはこれは余計な設定だと感じた。

 飛び降りる恐怖は骨折の危険に因るだけでいい。狼に襲われるとなれば、降りることができないということに等しい。そうなるとリスクとベネフィットのバランスが崩れて、選択が迫られることにならない。

 だから画に描いたような泣きっ面に蜂状態は、むしろチャチに感じてしまうのだった。

 そして狼は具体的で決定的な脅威として物語中で描かれているのに、実際には恐怖は感じない。これは描写力不足のせいだ。迫ってくるものがない。


 主人公にそれほど好感が持てないのも困ったものだ。ちゃんと魅力的に描いて、観客に応援したくなる気持ちにさせてほしい。


 ということで残念な出来だったが、まあ低予算でもあるので残念さも緩和される。

2020年11月6日金曜日

『ライト/オフ』-ショートムービーでいい

  有名なYoutube動画が元になっているとは聴いている。見たことはある。それを、同じ監督が長編化したものだという。

 ホラー映画としては充分に怖かった。だがその怖さはショートムービーを超えていない。

 むしろ長編になることで描かなければならない辻褄やらドラマやらが、かえって腑に落ちない。


 ショートムービーの元々の設定は、暗いところでは影として見える化け物が、電灯を点けると消えてしまうという不思議に、見えなくなっている間に化け物が移動していて、次に電灯を消したときにはいきなり近くにいるという恐怖が重なる面白さなのだが、ここに潜む根本的な矛盾が、長い物語を描く際に邪魔になる。

 「暗いところでは見える」といっても、真っ暗闇では観客に見えないので、ある程度の灯りが画面になければならない。その上で、逆光で影になっているそいつが見えるのだ。この中途半端さが、光によって攻撃できるという、ホラー映画において重要な「ルール」を曖昧にしてしまう。

 現実的には真っ暗闇の中で襲われるのは大いに怖いだろうけれど、それは観客には見えないから、表現できない。そこに、この映画の設定の問題がある。

 薄暗がりの中に何かいるように思ってしまう疑心暗鬼こそがこのショートムービーの怖さの本質なのだ。それを、具体的な化け物の脅威と、それに対抗する人間の攻防として描かざるをえない長編映画にしたときに、恐怖の本質が失われ、安っぽさが必然的に生じてしまう。結局化け物による攻撃は物理攻撃だし、光による攻撃という対抗手段も中途半端だし。

 やはりショートムービーでいい。

2020年11月3日火曜日

『ロスト・バケーション』-「高級な」サメ映画

  実に1か月あまり1本の映画も見なかった。次々と録画されるアニメが消化しきれないうえに、アマゾンビデオでアメリカのテレビシリーズを観たりして。

 で、一ヶ月ぶりの本作だが、確か小さな岩礁で鮫から逃れるサメ映画だったはずだ、評価も高いようだ、短い映画だし、とりあえず。

 始まってみると演出も確かだし、海に入るシーンでは恐ろしく撮影技術が高い。画面が高精細だし、構図もカットも実に工夫されている。

 設定はシンプルだから、その制約の中で何を工夫するかというのが腕の見せ所。『127時間』ととてもよく似た感触で、恐怖や期待や勇気や高揚。全ての感情が濃密に描かれて、いたずらに派手な演出をするために無理なCGを使ったり、金をかけてスペクタクル感を出した大作の『MEG』に比べても満足感が高い。手堅い演出で見せる「高級な」サメ映画だった。

 良い監督だなあと思って調べてみると、そういえば『エスター』の監督ジャウム・コレット・セラなのだった。『アンノウン』『フライト・ゲーム』『トレイン・ミッション』と、これで5本目なのだった。

2020年9月30日水曜日

『ジャック・リーチャー NEVER GO BACK』-実に楽しい

 楽しみ方をはずしてしまった第一作に比べて、こちらは実に素直に楽しかった。

 軍の上層部の不正にからんで窮地に陥った自分の後任者を助けようと、みずからトラブルに巻き込まれていく主人公が、法を犯し、軍に逆らって不正を暴いていく。

 絶体絶命に思える窮地を乗り切る機転や行動力、戦闘力はもちろん痛快で、一緒に追われる女性士官との掛け合いも楽しい。ユーモラスな「ボーン」シリーズ(の縮小版)という感じではある。

 そこに、主人公の娘ではないかという疑いのために巻き込まれる女子高生が加わって、危なっかしさにハラハラし、意外な活躍に喝采し、そのうち醸成される絆にホロリとさせられる。

 何かすごいものを観たというような感動はないが、実によくできた楽しいエンターテインメント作品。

2020年9月25日金曜日

『CABIN』-わがままな神

  監督のドリュー・ゴダードは「クローバーフィールド」の脚本家でもある。となれば大いに期待できる。

 「マルチ・レイヤー・スリラー」というキャッチコピーで、『キャビン(原題は「森の中の山小屋」)』といういかにもな題名をつけているのも、最初からその「レイヤー」以外のレイヤーの存在を観客に知らせているのだった。

 とりあえずは「山小屋にやってきた若者グループが次々と殺される」という、「よくある」レイヤーがある。

 最初のうちはそのレイヤーでのみ語り進めるのかと思っていたら、そもそも映画の最初が別のレイヤーから始まるのだった。

 冒頭は「CABIN」の方ではなく「謎の組織が登場人物を監視している」という、これも「よくある」レイヤーで、まあそこまでは公開情報なのだった。予告編で既にそれを見せているし。そこまでも「よくある」設定なのだった。

 さらに上のレイヤーがあるらしいと知らされてはいる。

 「神々」が「山小屋」のレイヤーの物語を見たがっている、などと言われているのだが、「古代の神々」という言葉だけは「よくある」ものの、それがどういう設定になっているのか、最後までわからない。神々はなぜそんな「ありがち」な物語を欲するのか。

 どんな真相にたどり着くのかはともかく、どこもかしこもすこぶる楽しい。台詞といい演出といい、とにかく上手い。ホラーを観るつもりだったのに、そこら中で笑わされる。

 もちろんさまざまなびっくり展開もあり、じっくりと怖がらせる演出もある。

 そしてゾンビから逃げる主人公達を応援したくなるばかりでなく、謎の組織の仕事人たちもまた応援したくなるような仕事ぶりなのだった。


 展開にひねりもあり、それが最後に向けて大盛り上がりを見せるのも大したものだ。

 さてそのうえで、結末がよくわからない。

 「古代の神々」というから、クトゥルー神話的な何かかと思った。それがどういうわけで「山小屋」もののホラー映画何か観たがるのか。

 そして正体が何か示されはしない。

 あれ?


 なるほどあれは我々のメタファーなのだ。わがままな「観客」という名の「神々」。

 そう考えればすこぶる納得のいく結構を備えた、すこぶるよくできた、すこぶる楽しい映画なのだった。


2020年9月21日月曜日

『ウインド・リバー』-重量感のある傑作

 ジェレミー・レナーって、何で観た人かと調べてみると『ハート・ロッカー』と『ボーン・レガシー』の主演か。二枚目ではないが、寡黙なタフガイが実に嵌まる。

 「なぜ少女ばかりが殺されるのか」というコピーから連続殺人を扱ったサイコ物なのかと思っていたら、カップルが物語の最初に死ぬだけで、しかも死因は他殺ではない。物語の3年前にもう一人の少女が死んでいるが、そちらの事件の真相は全くわからずじまいだから関係もないかもしれない。まったくミスリーディングなコピーはどうしたわけだ。

 というわけでサイコな連続少女殺人鬼が出てくるわけではまったくないのだが、実にまあ重量感のある傑作だった。

 ネイティブ・アメリカンの居留地「ウインド・リバー」で、他殺ではない殺人事件が起こる。FBIの新米女性捜査官が、ジェレミー・レナー演ずるハンターとともに事件の真相を追う。

 「他殺ではない殺人」というのは何事か。

 死因は零下20度の屋外を走ったために肺が失血した窒息死と検死官は言う。だがレイプされており、裸足で屋外を走るのは逃げているからだろうから、殺人と言っていいはずだ。だが検死官は単なる職業倫理から、死因を「他殺」とすることはできないという。死因が「他殺」でないと、他の捜査員は回されない。新米一人では心許ない。なんとか「他殺」にしてもらえないか。検死官は、間違いなく殺人だが、報告書に嘘は書けないと言う。

 このやりとりにしびれる。設定の微妙さにも、検死官の倫理感にも、捜査官の焦燥にも。

 こういうことがちゃんと描ける脚本も演出も演技も、実に信用がおける。まっとうな映画だ。

 そして基本的には真相に向かって少しずつ迫っていく捜査過程が的確に、緊張感を持って描かれるのが、観ていて心地良い。


 そうしているうちに、トリッキーな映画的描写が不意に使われたりして驚く。部屋の外からノックをしている。画面が切り替わって室内からノックに応じてドアを開けると、外にいるのはさっきのノックの主ではない。別の時間が編集で接続するのだ。

 これを時間ではなく場所でやったのが『羊たちの沈黙』で、最初に観た時は唸ったものだ。

 面白いものを作ろうという意気込みが伝わる。とりあえずこういうふうに驚かされるのも悪くない。


 あるいは銃撃戦の緊迫感も実にうまく描写されている。

 疑心暗鬼から二つの陣営が銃を向け合って一触即発の状態になる。今にも誰かが発砲しそうな緊張感の中、FBIが警察権限を宣言し、自ら銃を収める。

 いったんは収まったものの、その後また結局銃撃戦になってしまうのだが、その絶望的な感じや、にもかかわらずその輪の外にいるハンターが、圧倒的な力で狙撃して相手を倒す爽快感、派手なアクションに度肝を抜かれる感じなど、優れた映画ならではの、観客を揺さぶる力が漲っている。


 さて、世間的な高評価の理由である、ネイティブ・アメリカンの現状を描いた社会的意味についても、もちろん賞賛に値する。

 だがそこにとりわけ価値があるという映画ではない。ドキュメンタリーとしてそうした社会問題を知らされ、考えさせられた、というような映画ではないのだ。何より優れたドラマとして、優れたエンタテインメントとして普遍的な魅力があった。その上で、背景となるアメリカの問題についても知ることができたのはオマケである。貴重なオマケではあるが、決してそのための映画ではない。

2020年9月13日日曜日

『ハッピー・デス・デイ 2U』-おそるべき構成力

  続編を名乗っていても全く別の作品であるようなのもあるし、続いてはいてもスタッフが変わっていたり、無残にレベルが落ちたり、といろいろある『2』の中でも、これは前作の翌日から始まり、なおかつ前作当日にループで戻るという完全な続編であるばかりか、前作の枠組み自体を再構築する、おそるべき脚本の構成力で、脱帽した。この感じは『SAW』シリーズ以来だ。

 もっともこれは2本セットで脚本が書かれているのかもしれない。『1』の中で一瞬の停電が描かれるのに特別な説明がなかったような気がするのだが、それが『2』の重要な出来事にかかわっているからだ。

 そうだとしても、『1』だけで完璧な完成度、完結度を達成しつつの、さらに2本で全体の見える物語構造というのはやはりおそるべきことだ。


 前作を観てこその楽しみももちろんある。ヒロインの成長もそうだし、サブキャラの活躍もある。

 とりわけループの中でパラレルワールド化した中で、ある感動的な、別の可能性が示される瞬間は見事だった。これも、『1』の脚本の時点で既に予定されていたことだと考えるのが自然だが、『1』の後で考えたことだとすればすごい発想だ。もちろんセットで考えておいて、『1』の完結感と『2』での新展開を狙ったのだとしてもその構想力はおそるべきことだ。


 犯人の正体という、ミステリー要素についても、前作だけでも「意外な犯人」を提示していたというのに、パラレルワールドにおいては別の可能性において別の犯人を、しかも前作からの設定の枠内で用意するという、志の高いお話作りをする。

 その上で小ネタも効いた、見事な映画作りである。

『マッドマックス/サンダードーム』-ちょっと格調高くなってる

  連続でシリーズ三作目を。

 こちらはカーアクション成分は、はるかに抑えめで、その分「バータータウン」と子供だけで暮らしているオアシスの、二つのコミュニティの造型が面白い。というか、『2』の採掘場はコミュニティというほどの描き込みはしていなかったから比較にはならないのだが。

 子供だけのコミュニティはどうみても非現実的だが、それだけに何やら神話的なメタファーの味わいである。マックスは伝説の人物のように誤解される。飛行機が自分たちを連れて行ってくれるという言い伝えが、それこそ「神話」のように伝えられているのだが、ジャンボ旅客機の残骸のスカイラインに子供たちが並んでいるショットはまるで宗教画のような、なんとも印象的な画だった。

 それにモーリス・ジャールの、あまりに壮麗なオーケストレーションが、ますますアクション映画離れした格調を与えている。

 最後に一応のカーアクションも見せて、さらに空に飛び立つのもやはり神話的な隠喩的な展開だった。そして廃墟となったシドニーの上空を飛ぶ。

 ようやく都市が出てきた。廃墟としての都市。

 そしてやはりマックスもまた「神話」のように語り継がれるのだった。この形式は『1』もなのか?

2020年9月12日土曜日

『マッドマックス2』-映画館で観るべき

 『怒りのデスロード』を観るための予習として。

 第一作を観たことは、たぶんある。さだかではない。何も覚えていない。メル・ギブソンとしては『リーサル・ウェポン』ほどにも覚えていない。

 で、たぶんこういうディストピアにまず惹かれるべきなんだろうと思うが、ディストピアは都会であってほしい。撮影費用の問題で荒野を舞台としている本作には、ディストピア映画に感ずる魅力を感じなかった。

 ヒーローものとしても、例えばジェイソン・ステイサムのアクションを見てしまうと、時代を感じざるをえない。侠気があるか? まあそこそこには。

 何より、コミュニティに深入りしないで出て行こうという中盤の行動はいいのだが、あまりにあっさり敵の攻撃の前に敗れる情けなさは、見ていてひどくがっかりする。不運ではなく単なるバカにしか見えず。ヒーローとしての主人公に惹かれなかった。


 だがアクションとしてはすごかった。終盤の石油採掘所からの脱出劇は。

 見ていて、撮影で死人は出てないんだろうかと心配になるようなカーレースと、走る車上でのバトル(実際に大怪我はあったそうだが)。

 これは大画面で大音量で観るべき、まさしく「映画」なんだろう。


 最後で満足して、全体が回想の枠組みに閉じ込められるエピローグのナレーションも、安易な手法だと思いつつもなんだか感慨深い。

2020年9月11日金曜日

『クリーピー 偽りの隣人』-とてもバランスが悪い

 信頼できる筋の高評価があり、なおかつ折しもヴェネチア国際映画祭で黒沢清が監督賞をとったりもして、期待もある一方で、アマゾンレビューでは☆一つが最も多いという呆れるばかりの低評価。

 一体どうなることやら。


 例によってとてもバランスが悪い。

 画面の隅々まで、禍々しい映画の力で満ちている。とにかく画面が暗いのが、どうしようもなく異界の雰囲気を漂わせているのに、あちこちが妙に明るいのも異様だ。あるいは基本的に明るい場面なのに、部分的に暗かったり急に暗くなったり。

 風も、自然に吹いているのを撮っている部分もあるんだろうが、おそらく大きな扇風機で背景を揺り動かしているんだろう。

 相変わらずビニールカーテンが揺れる。

 だからとにかく背景を見てしまう。何かあるんじゃないか、何か起こるんじゃないかと、常にビクビクしながら見ている。そして時々は起こる。


 そうした映画の力に満ちているにもかかわらず、人間はとても不自然に描かれる。もちろん「クリーピー」な香川照之が不自然なのはいい。それはとても見事だ。『蛇の道』『贖罪』以上だと言っていい。

 だが主人公の西島秀俊が不自然なのは許しがたい。

 実は主人公こそ人間性の欠如した人物だったのだ、というオチがあるのだが、そのために不自然に描かれていることと、脚本や演出や演技が単に下手だからリアルな人間に見えないということの区別がつかない。

 主人公の妻、竹内結子がなぜ易々と香川照之にとりこまれてしまうのかも到底納得がいかないのだが、それは実はそもそも西島竹内夫婦の心が離れていたからだ、という設定を終盤でいきなり示されても、そんなことはそこまで観客に示されていなかったではないか、という不満を感じさせるばかりだ。これなども、単に物語を描くことに巧みでない、ということにしか感じられない。夫婦間の溝というのならこの間の『来る』は、そのあたりが上手く描かれていたのだが。

 テーマであるところの「隣人」の薄気味の悪さも、香川の演技で感じさせられはするが、その悪行がなぜ成功するかのメカニズムが描けているとはとても思えない。だから警察はやたらと無能に見えるし、被害者達が適切に抵抗しないことも、単に不自然にしか感じない。

 もちろん、監督が自ら言うように、あれは犯人が行き当たりばったりなのにもかかわらずたまたま上手くいっているということなのでもある。そしてやはり、抵抗なんかできないんだよ、こういう場合、ということなんだろう。そういうことが起こりうることはわかる。人間関係の中で自由に振る舞えないことは程度問題としては茶飯事である。

 だが「隣人」が巧みに相手の抵抗力を奪っていく手口を(それが計算尽くでない「たまたま」であったとしても)適切に描くことでしか、そのことが映画的な説得力を持つことはない。そしてそれに成功しているとはとても思えない。だから香川の「隣人」はとても不気味だが、その不気味さが日常に侵入していく恐怖にリアリティはないのだった。


 家の配置が生み出す禍々しさも、見ていてなるほど、とは思えなかった。

 わざわざドローンで上空から配置を見せられても、その前に、そもそもどの家が「それ」なのかわかってない状態で俯瞰されても。

 日野市と主人公たちの稲城市と最後にこれから標的になる家がそれぞれ「同じ配置」だというのが、言葉で示されても、視覚的に把握できないというのは、映画として致命的な描写力のなさだと思うのだが(もちろん観客としての読解力のなさかもしれない。しかしやはり言葉でしか伝わらなかった)。


 事ほど然様に、必要なことが描かれていないとしか思われず、物語としては「人間」を描けていないと思う。

 にもかかわらず画面には映画としての力が満ちている。

 それを唯一つなぐのが、ラストの竹内結子の叫びだった。あれは、あの凄惨な非現実と現実の落差のあまりの大きさを示す、心震わす叫びだった。


2020年9月8日火曜日

『ザ・ウォード 監禁病棟』-単にB級でしかない

  ジョン・カーペンターの、現在までの最新作。もう10年前になるが年齢的にはまだ次回作の可能性はあるんだろうか。それとも本作の結果、もう監督作制作は難しいのだろうか。


 精神病院のある病棟に収容されている5人の少女が次々と殺されていく、というただそれだけの話、だと終わり近くまでは思わされる。

 となれば演出の問題でしかないのだが、これがどうにも平板で、さすがジョン・カーペンター、と思える場面のないまま過ぎていく。

 連続殺人鬼は、いかにも、という感じの「亡霊」少女で、なのに攻撃はすこぶる物理的だ。ナイフを使ったり、主人公を振り回して壁にたたきつけたりする。にもかかわらず神出鬼没なところは亡霊ならでは。

 ホラーは「ルール」がミソだ。この脅威はどのようなルールになっているかを探って、それに対抗する手段を講ずる。そういう闘争のはずだ。

 ここではまず監禁する病院側との闘争があり、そこに亡霊との闘争がからんできて、うまくやればこうした設定は複雑になって面白さを生むんだろうが、亡霊のルールがわからず、中途半端に病院側と同じような脅威を与えている。ひたすら隠れん坊と鬼ごっこ。


 さて最後には意外といえば意外なドンデン返しがあるのだが、これはどうしたって『アイデンティティー』を思い出さざるをえない。そしてはるかに及ばない。

 『アイデンティティー』の面白さはホラーではなくサスペンスであることによって生まれている。連続殺人は「謎」なのだ。どういうことなのか? という観客の興味を引っ張って物語が進行するから、ドンデン返しも意味があるのである。

 ところが『ザ・ウォード』はホラーである。亡霊は「謎」ではなく「恐怖」である。そこにドンデン返しをされても、単に唐突なだけである。

 『アイデンティティー』は伏線が巧妙に張ってあって、最後に真相が明かされた時にそれらが意味あるものとして回収される快感があるが、『ザ・ウォード』には、(全くとは言わないが)ほとんどなかった。

 また『アイデンティティー』は単に物語としては後味悪く終わって良いのだが(それでも面白いので)、本作は基本的にはハッピーエンドであるはずの物語であるにもかかわらず、観客の感情移入はほとんどの部分を占める主人公に対してなされているから、最後の少女に思い入れることはできない。釈然としない。

 ラストショットも典型的なB級ホラーの「脅かし」じゃないか。


 ジョン・カーペンターはもちろんB級映画作家なのだが、B級なりの面白さを演出によって実現するところが偉大なのであって、本作は埋もれてもおかしくない単なるB級でしかなかった。

2020年9月7日月曜日

『ハッピー・デス・デイ』-最高にエンターテインメントなホラー

  『スクリーム』的な殺人鬼ホラーにタイムループをからめた設定は面白そうだとは思っていたがここまで観るタイミングがなく、ようやく。


 結果としては大満足。最高度に練り込まれた起伏に富んだお話作りに唸った。

 殺されるたびに時間が巻き戻ると、さっきと同じ場面が繰り返される。あ、これはさっきと同じだ、と思う感覚はタイムループ物のお約束。これこれ。こういう展開はもちろん枚挙に暇ないが、やはり楽しい。

 殺される前に手を打とうとあれこれ苦闘するが、毎回違ったパターンで、やっぱり殺されてしまう。

 最初のうちゴージャスで美人だけれど嫌な女に見えていた主人公が、繰り返し殺されるうちどんどんおちぶれて、そのうちほとんど笑えるような情けない姿になる。ホラー映画だったはずなのに、コメディと化してくる。それとともに彼女が愛おしくさえなってくるのだった。

 そしてさらに繰り返しの中で自己認識と反省が進むことで好感度を増して、堂々たるヒロインになった彼女を、最後にはすっかり応援したくなっている。

 最初はオタク的に冴えない奴に見えた男の子も、いつの間にかかっこ良くなっている。


 それとともに、ホラーとしてはすっかり怖くはなくなっているが、サスペンスは継続して、犯人捜しと真相究明、その解決に向けては、実に曲折のある展開が続いて、最後の解決に至る高揚感は実にうまい。

 最高にエンターテインメントな映画だった。

2020年9月6日日曜日

『ランダム 存在の確率』-実に知的なパズル

  神保哲生さんが奨めているのを聞いていて、レンタル屋で探していたんだが見つからず、アマゾンビデオにはちゃんとあるのだった。


 彗星が接近する中、パーティーに集まった中年男女8名が経験する不思議な夜の出来事を描く。

 劇中では、近年SFあるいは哲学ガジェットとして引っ張りだこの「シュレーディンガーの猫」に言及しているので、ネットでも大抵この言葉で説明されるのだが、それよりはパラレルワールドものだと言う方がてっとりばやい。

 彗星の接近がどう影響しているのかといった科学的な説明はないが、ともかくその夜、パラレルワールドが行き来可能になってしまうというのが基本設定。

 「ランダム」でさえ邦題で、原題は「COHERENCE」という。

 二つの波動が影響を及ぼし合う状態を「互いにコヒーレントな状態」だというのだそうだが、原題の「コヒーレンス」とはパラレルワールドが互いに行き来可能になっている状態を指しているものと思われる。

 この「行き来」というのがどう表現されるかというと、パラレルワールドは、家の近所の、ただ一つ灯りのついた家で、そこに歩いて行ける、というのだった。そこに自分たちと同じ8人がいるのである。

 最初のうちは、そことここの二つかと思っていたパラレルワールドは、実は無数にあるらしいことや、しかも「そことここの行き来」の際に、ランダムに行き先を変えてしまっているらしいことが徐々にわかってくる。世界はそれぞれ確率的に差異を生じていて、そこから邦題がついている。

 

 映画は超低予算だから、ここから舞台を拡げていかない。登場人物もこの8人以外には出てこない(舞台となる家さえ監督の自宅なのだとか)。SF的な説明もこれ以上しない。

 それで、これだけの、奇妙なアイデアだけで物語をどう膨らませるかといえば、もう、こうした状況に陥った人々がどう振る舞うか、ということしかない。

 たとえば状況を把握するために何をするか。原因もわからなければ法則もわからない。危険も予想できない。

 それでも状況がわかるにつれて解けていく謎が設定されていたりもして、伏線の張り方も巧みだ。

 物語は、違う世界の自分を、まったく自己中心的に排除できるかというところに向かっていくのだが、そうするとこれはあの『ザ・ドア 交差する世界』に近い。そう、印象は近い。

 奇妙な設定に投げ込まれた人の思考と決断。

 

 ところで、超低予算で、メジャー映画的な壮麗さや豪華さとはまるで無縁なのだが、人物の演技や編集が驚くほど上手くて、観ているだけで映画鑑賞としての基本的快感がある映画だった。上手いダンスや歌唱はそれだけで心地良いがごとく。

 あまりに上手いのはどうしたわけかと思ったら、後でネットで知ったところによると、俳優達は完全な脚本を与えられず、場面ごとに設定と基本的な目的を知らされるだけで、後は互いの言葉に対応して芝居をしているのだそうだ。

 なるほど。

 それにしても、それなら撮影があんなにうまいのはどうしたわけか。カメラ同士が映らないように、一体何台のカメラで撮影したものをつないでいるんだろう。

 不思議だ。そしてとても感心する。

2020年9月5日土曜日

『Yesterday』-幸せなラブコメディではあるが

 突然自分がアマゾンプライム会員であることを自覚した。いつからなのだ。ある程度買い物を続けているというだけで自動的にそういう呼称になっているのかと思っていたら、どうやら会員料を払っているらしいことがわかった。いつの間に。支払いは口座引き落としだから見落として自覚もしていなかった。
 で、にわかにアマゾンビデオで観られる映画を検索しだした。レンタルは300~500円くらいだから、DVDレンタルの方が安い。だが無料で観られるものも案外ある。
 人気作は有料だろうと思っていたら、宣伝的な「特売」扱いなのか、本作が無料なのだった。

 さて、ビートルズだしダニー・ボイルだし、面白くないわけがない。
 コメディとして笑えたし、ラブロマンスとして切なくも微笑ましかった。
 そして最後のハッピーエンドまで、実に幸せな映画だった。

 だがダニー・ボイルに対する期待ということでは、期待値に対して充分ではなかった。
 曲はもちろん良いが、音楽映画としては『ボヘミアン・ラプソディ』や『ジャージー・ボーイズ』の方が感動的ではあった。
 その要因として、観ながら不満だったのは、主人公がソロで活動し続けることに納得がいかない、という点がある。一人で歌えば歌うほど、原曲はリンゴのリズムや、コーラスも入ってこそ「ビートルズ」の曲なんだと思わされる。
 それでも、異世界でビートルズの曲を演奏しても最初のうちは誰にも注目されなくて、自分にはカリスマ性がないからだとがっかりするくだりは必要な過程だとして、それがなぜ世間に届き始めたかは、どうもはっきりしない。現代的に、SNSの影響で、というほどの描き方の工夫があったようでもない。

 それと、文化的なビートルズの位置づけについての考察の後は感じられなかった。突然の異世界ジャンプの理屈は別につかなくてもいい。ただ、ビートルズが存在しなかったら世界がどうなっているかは、もっと考えれば興味深い問題のはずだ。オアシスが存在しない、くらいの影響ではないはずだ。
 それは上記の音楽としての力も、単純に曲のメロディーと歌詞だけではないはずだというだけではなく、彼らのキャラクターやらファッションやら、時代との相互作用とか、さまざまな要因があるはずなのに、単に曲が良ければ受け容れられるかのように描いているのが浅く感じられるということとも繋がっている。
 そういう意味では、これはとても幸せなラブコメディではあるが、真剣なビートルズ映画ではなかった。

 それでも、ビートルズ愛自体は疑わない。
 そして、ここはどうしたって実にうまい脚本上の工夫でもあり、まったく感動的な展開だった。
 同じアイデアに基づいたかわぐちかいじのマンガ『僕はビートルズ』でも、(全体としては面白くないマンガだったが)、ホンモノが出てくるところだけはゾクっとさせられたが、それだけではない、幸福な感動があった。

 そうすると、ビートルズがいないからといってポール・マッカートニーがいないわけではない。ポールはジョンと出会うことなく、ソロ歌手として活動している、とか、ポールが早死にしているとか、なんらかの展開がありそうだ。
 ただしそれは描けない。存命中のポール・マッカートニーに許されるわけがない。
 このあたりも何やら考えてみると面白そうな問題ではあるが、まあそういう映画ではないんだろう。
 やはりそのあたりは浅薄なのだった。

2020年9月3日木曜日

『私は、ダニエル・ブレイク』-他者への想像力

 ケン・ローチ監督のカンヌ映画祭パルムドール作品。
 心臓疾患で働けなくなった老大工が、社会福祉手当の申請に役所を訪れては審査を却下されたり、申請の手続きに手間取ったり、といった苦労をしたあげく、役所の対応の不誠実なことに業を煮やして役所の壁に落書きをする。その一節が題名の「I, Daniel Blake」だ。
 巨匠の演出は手堅く、登場人物はそれぞれに強いリアリティをもって存在している。真面目に仕事をしてきた大工にせよ、隣人の黒人(だが中国系らしい)といい、たまたま役所で知り合った母子家庭の親子といい。
 母子家庭の母親が体を売らなければならなく状況のやむをえなさと痛みや、子供の父親が白人でないことからくる娘が学校で直面する問題や、下の子供が恐らく自閉傾向があるらしいことも、実に豊かなドラマをはらんでいる。
 そしてそうした描き方の豊かさは、役所の職員もまたそうなのだ。ここが肝心だ。役所の職員にリアリティのない、記号的な「役人」的な描き方をして悪役に仕立ててしまっては、問題が見えなくなってしまう。
 時折彼らが、あまりに型どおりの対応をしすぎて、主人公同様観客もイライラさせられる場面もあるが、それでも問題は制度の問題、社会の問題であるとしないと、問題が矮小化されてしまう。
 そして、これが先日感動したサッチャーイズムの遺産だと思うと複雑な思いもある。

 確かに問題の解決は難しい。社会の富をどう分配するかという問題は、どこにも不満のない解決はできない。効率化も必要だから、IT化だって必要で、これが老人を苦しめるからといって一概に否定できない。
 同時に、制度の問題であることを描いた上で、その制度の中で機械的に振る舞うか、人間としてどこまで誠実であり続けるかは、やはり人間の魂の問題でもある。他人への想像力の問題だ。自分たちが相手にしているのは一人の人間だという想像力の喚起を呼びかけているのが題名の「I, Daniel Blake」だ。
 これが行政に届くことを期待するのは絶望的に難しい。だが同時に現場の職員に届くこともまた果てしなく難しく感じた。現場の職員にはそれぞれの職業上の義務も人間関係も自分の生活もあるのだ。自分の仕事を困らせる者は迷惑者として敵対関係で意識されてしまう。仕事上の決まりだって、もちろん必要があるから定められているのだ。それを遵守しなくていいわけがない。
 それでも、簡単に誰かを悪者にして問題が解決するわけではない。

 制度や社会の問題を描きながら、人間がくっきりと描き出されるところが見事な映画だった。

2020年8月31日月曜日

この1年に観た映画-2019-2020

 夏区切りで1年間に観た映画を振り返っている。

 今期は間にコロナ禍のstayhome期間があったせいで、過去6年で最高本数の98本。

 アマゾンビデオで選べるようになると、この先本数が増えるかも。


 さてベスト10。順不同。


9/29『It follows』-サスペンスと映画的描写の確かさ

11/24『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』-どこもかしこも芳しい

1/2『殺人の追憶』-唸るほど面白い

2/17『パラサイト 半地下の家族』-凄いに決まっている

4/2『HAPPY HOUR』-5:17の至福

5/12『Wの悲劇』-「青春」バイアス

5/21『息もできない』-全編に満ちる切迫感

6/7『チェンジリング』-盛り沢山

8/2『ブリグズビー・ベア』-成長を描く多幸感

8/6『なぜ君は総理大臣になれないのか』-問いが成立するためには


 ポン・ジュノとクリント・イーストウッドはある程度まとめて観たのだが、その中でポン・ジュノは2本がベスト10級だった。それでも『スノー・ピアサー』あたりをそのレベルでは楽しめなかったとはいえ、基本レベルが高いのは間違いない。クリント・イーストウッドは『パーフェクト・ワールド』が感動的だったのだが、何だかすごいものを観たという印象は『チェンジリング』が圧倒的だった。

 韓国映画は、パク・チャヌク監督作もすごかったのだが、どうも受け止めきれていない感じで評価が難しく、パク・チャヌクの職人的安定感とは全く違った『息もできない』の素直な「特別感」を評価しよう。

 『It follows』と『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』はそれぞれ完成度の高さが印象的。もちろんまるで違う映画的「完成度」ではある。『マーガレット・サッチャー』は堂々たる大作ドラマ映画の完成度であり、『It follows』は低予算ホラーとしての完成度である。

 『Wの悲劇』に思いがけず感動してしまったのは我ながら意外だったが、これは客観的評価とは言い難い。だが映画を観るということは、タイミングやシチュエーションも含めた「体験」なのだ。その体験において、今年はこの作品を観たときの陰影のある気分を10本に挙げたい。

 体験ということでは、映画館で観る映画は特別なものになりやすく、昨年のベスト10には3本も映画館で観た映画が入っていた。今年でいえば『パラサイト』と『なぜ君は総理大臣になれないのか』だ。『なぜ君は』は鑑賞中も楽しく感動的で、観終わってからもあれこれと関心が現実に関連する。特別の鑑賞体験だった。

 『ブリグズビー・ベア』は、前年度ベスト10の『ルーム』と比較してしまうから小粒感があるのだが、素直な多幸感とともに、一筋縄ではいかない不思議な味わいもあるようで、この分析はしきれていない。


 迷って落とした次の10本。


12/7『JOKER』-予想を超えない

3/1『友だちのうちはどこ?』-構成も描写も見事な

5/2『Trance』-あらためてダニー・ボイルの実力の高さ

5/5『エスター』-恐怖の並べ方と見せ方

5/22『ヴィクトリア』-全編140分間ワンカット

6/6『パーフェクト・ワールド』-閉ざされた世界への絶望と憧憬

7/11『ミッドサマー』-奇妙な決着

8/4『お嬢さん』-映画の力

8/12『パトレイバー  the movie』-大いなる希望

8/29『最強のふたり』-最強の多幸感


 大作としての堂々たるレベルの高さを感じる作品が多いが、『エスター』はホラー映画としての愛おしさから選んだ。

 『ヴィクトリア』は超低予算映画だが、これは映画鑑賞が特別な体験であるような一夜の鑑賞として印象に残った。

 『パトレイバー』は何度も観ているが、10数年ぶりに観て、やはり邦画全体のベストを選んでも挙げるべき特別な作品だと思い知らされたので。


 全体としてここ1年で最も印象的だった映画鑑賞体験は『HAPPY HOUR』の5時間を超える視聴だった。何か、特別な体験だったという印象のある5時間余りだった。

 しかしまたこの感じがどこから生じているかが、どうにもわかりにくいのだ。


 以下、観た映画を列挙する。


9/11『ポノック短編劇場 ちいさな英雄-カニとタマゴと透明人間-』-山下明彦作品のみ

9/12『牯嶺街少年殺人事件』-「名作」がわからない

9/23『マッチポイント』-人間ドラマとして感情が動かない

9/28『ボーン・レガシー』-すごい創作物

9/29『It follows』-サスペンスと映画的描写の確かさ

10/3『花とアリス殺人事件』『花とアリス』-横溢する映画的魅力

10/5『ブレード・ランナー』『デンジャラス・デイズ』-映像と物語の落差

10/14『トーナメント(原題「Midnighters」)』-小品として満足

10/17『エスケープ・フロム・LA』-B級の味わい

10/31『バットマン vs スーパーマン』-「スーパーマン」映画の不満

11/6『ドリーム・キャッチャー』-意外と好きな人が多いらしい

11/13『Get out』-受け止める姿勢作りに失敗

11/15『金融腐食列島 呪縛』-クオリティは高いが満足度はいまいち。

11/18『パズル』-ありがちなビデオスルーのホラー

11/24『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』-どこもかしこも芳しい

12/7『JOKER』-予想を超えない

12/8『バトルロワイヤル』-やはり良さがわからない

12/11『人狼ゲーム インフェルノ』-期待には届かず

12/15『サクラダリセット 前後編』-まあこんなもん

12/17『死の谷間』-静かな週末物語

12/18『新感染』-健闘の韓国産ゾンビ映画

12/25『監禁探偵』-構造の破綻

1/2『WASABI』-際物

1/2『殺人の追憶』-唸るほど面白い

1/6『スノーピアサー』-全体に「噛み合わない」

1/19『幕が上がる』-悪くない青春映画

1/20『スマホを落としただけなのに』-成田凌の快演だけは

1/25『ラストサマー』-薄味

1/31『十二人の死にたい子供たち』-様々な可能性が開花しない

2/2『ラストサマー2』-ますます薄い

2/7『カウボーイ&エイリアン』-ツッコミどころしかない

2/8『翔んで埼玉』-相性の問題

2/9『37 Seconds テレビ版』-優れたドキュメンタリーにも似た

2/11『十三人の刺客』-名作の名に恥じない

2/17『パラサイト 半地下の家族』-凄いに決まっている

2/18『グッモーエビアン!』-これが大泉洋

2/23『地下室のメロディー』-完成度の高さは折り紙付き

2/24『情婦』-有名なネタバレ禁止映画

2/29『絞死刑』-構造的不可能性

3/1『友だちのうちはどこ?』-構成も描写も見事な

3/9『ビヨンド・サイレンス』-基本的に良質なドラマ

3/15『THE TUNNEL』『The Good Fight』-あまりに高品質なテレビドラマたち

3/15『月に囚われた男』-オールドファッションなSF映画

3/21『君に読む物語』-感動的でもあり気持ち悪くもあり

3/22『インデイペンデンス・デイ リサージェンス』-同工異曲の縮小再生産

3/27『フライト・ゲーム』-怒濤の展開

3/29『桜桃の味』-フレームがわからない

3/29『Bigger Than Life(黒い報酬)』巨匠のハリウッドエンタテイメント作品

4/2『HAPPY HOUR』-5:17の至福

4/4『アウトロー ジャック・リーチャー』-楽しみ方をはずした

『トラフィック』-手堅く立体的に描かれる

4/5『夜明け告げるルーのうた』-イマジネーションの奔流

4/10『思い出のマーニー』-良い映画であることを妨げる要素が多い

4/12『リメンバー・ミー』-脱帽

4/20『パーフェクト・プラン』-小品として観るならアリ

4/22『ダカタ』-抑制的でいて切ないSF

5/2『Trance』-あらためてダニー・ボイルの実力の高さ

5/3『ジュリアン』-えっ、これだけ!?

5/4『蜘蛛の巣を払う女』-最高評価

5/5『エスター』-恐怖の並べ方と見せ方

5/9『母なる証明』-「変」であること

5/10『トレイン・ミッション』-ちょっと残念

5/12『Wの悲劇』-青春バイアスによる名作

5/14『殺人の告白』『22年目の告白』-一長一短

5/16『哭声-コクソン』-リアリティの水準

5/21『息もできない』-全編に満ちる切迫感

5/22『ヴィクトリア』-全編140分間ワンカット

5/24『渇き』-語るのが難しい面白さ

5/27『ジャケット』-カタルシスにつながらない

5/31『君の膵臓を食べたい(アニメ)』-「物語」の効用

6/6『パーフェクト・ワールド』-閉ざされた世界への絶望と憧憬

6/6『エヴァンゲリオン新劇場版Q』-やっぱり

6/7『チェンジリング』-盛り沢山

6/9『グラン・トリノ』-映画的愉しさに満ちている

6/14『ジュピター』-スケールについていけない

6/14『Bound』-身の丈にあった良作

6/19『老人と海」-眠気に堪えて

6/21『ハートブレイク・リッジ』-達者なエンタテインメント

6/28『ファイアー・フォックス』-程度の適正がわからない

7/2『ドント・イット』-売り方を間違っている

7/4『めまい』-よくできたサスペンスだが

7/5『ハリーの災難』-アンバランス

7/11『ミッドサマー』-奇妙な決着

7/19『海底47m』-シンプル

7/23『翔んだカップル』-普通なスターというアンビバレンス

7/25『怪物はささやく』-高いレベルの画作り

7/26『ジュラシック・ワールド/炎の王国』-毎度

8/1『ブルー・マインド』-「真面目な」ホラー映画

8/2『ブリグズビー・ベア』-成長を描く多幸感

8/4『お嬢さん』-映画の力

8/6『なぜ君は総理大臣になれないのか』-問いが成立するためには

8/11『MEG ザ・モンスター』-アンバランスの失敗と成功

8/12『パトレイバー  the movie』-大いなる希望

8/16『トゥモローランド』-良い狼に餌を与える

8/18『ヘレディタリー 継承』-ホラー映画におけるカタルシス

8/21『FAKE』-これもまた一つの

8/26『来る』-残念

8/28『マーガレット・サッチャー』-再び

8/29『最強のふたり』-最強の多幸感

8/30『V/H/S』-工夫が足りない

2020年8月30日日曜日

『V/H/S』-工夫が足りない

 POV映画をあれこれ紹介するサイトで知って、観たいと思っていた。以前このシリーズの3作目だけレンタル屋で見つけて観て、さらに評判の良い1作目を、と思うとレンタル屋になく、今回は別のレンタル屋で見つけた。
 観てみると、一向に面白くならない。これがなぜ評価される? それなりに新鮮だったか?
 POVの短編のオムニバスで、全体を統一する「VHSテープ探し」が途中に挟まれる「ファウンド・フッテージ」もの。
 全体として3作目の方が一編一編が工夫を凝らしたお話を作っていた。だが本作はまとまりのない断片に終わるばかりで、どれも、これで終わり? という印象だった。そのわりに演出の工夫はそれほどなく、いたずらに「未編集」っぽいダラダラとした描写が続く。観客に、その時間をつきあわせるほどの話の構成が緊密にされていない。
 POVのお約束の画面の揺れも、面白いと言うにはあまりの揺れ具合で、もはや何が映っているかわからない時間が長く、それが臨場感だとかいう以上に苦痛なほどだった。
 低予算なのはしょうがないが、工夫がないのはなんら許される事情ではない。

2020年8月29日土曜日

『最強のふたり』-最強の多幸感

 先に『グリーンブック』を観ているので、『グリーンブック』っぽいと思ってしまうが、順序が逆だ。
 『グリーンブック』で描かれるような人種差別は、それほど重要な要素ではなかった。もちろん、フランスの移民問題や階級問題が背後にあるとしても。
 ともかくも、ハートウォーミングな映画として実に良かった。ラストはこんなに鮮やかなハッピーエンドでいいの!? と気が引けてしまうくらい。
 とりわけアース・ウインド・&・ファイヤーの2曲がかかる二つの場面の高揚感ときたら。誕生日のダンスシーンは、そこにいる多くの人々のさまざまな感情をざま要素を編集や演出や演技の粋をつくしてすくい上げ、それをEW&Fのグルーブにのせる、本当に見事なシーンだった。

 映画館で集中して観れば『グリーンブック』並みに思えただろうか。

2020年8月28日金曜日

『マーガレット・サッチャー』-再び

 家人が観るのにあわせて、通しで観直してしまった。ここ1年のうちに観た映画の一本。
 やはり、どこをとっても実にうまい。そこに描かれる感情の機微がいちいち的確で豊かだから物語の筋を追うだけでなく、場面場面を観ることの喜びがある。
 そして物語全体は、得ることの喜びと失うことの悲しみが対照的に、強い振幅で描かれるのだった。老境を描く物語なのだから失うことの悲しみはもちろんなのだが、これが、最後の最後でその悲しみを最大に描いたところでおだやかな現状肯定で終わるという、実に見事な着地を見せる。
 あらためて素晴らしい一編だった。

2020年8月26日水曜日

『来る』-残念

 夏のホラー映画特集ということで。原作は面白かったし、『告白』の中島哲也ということでハードルが上がっているが果たして。

 残念なことに『告白』ほどの満足はなかった。
 最初のうちは、中島哲也の映像ってのはなんでこんなに高精細に見えるんだろうなどと感心していた。
 人の心の闇にやってくる化け物というコンセプトは原作通りで、映画は、妻夫木聡・黒木華夫婦の心の闇を描くことについては成功しているが、その分、化け物の描き方の方がおろそかになっていると感じた。怖くない。
 怖くないのはかまわないのかもしれない。ホラー映画をまともに作ろうとはしてないようでもある。松たか子が容赦なく岡田准一を殴り倒す唐突さには笑った。
 原作から離れた化け物退治の大がかりな仕掛けは確かに盛り上がった。映画のキャッチフレーズが「エンターテイメント」であるのはよくわかる。ただ楽しいだけの高揚感というだけではなく、呼び寄せたメンバーがあっさり殺されてしまうあたりのびっくりも悪くない。
 とりわけ、新幹線で現場に向かう術者たちが、気配を感じて急遽、新横浜やら品川やらで分散して降りることにして、「誰か一人でも着けばいいだろ」というようなことを言う、不気味さと日常の隣接した描写にはしびれた。
 いろんな宗教が混交したお祓いの儀式も、面白いと言えば面白い。
 だが、チームプレイが功を奏しているような様子が描かれるわけでもなく、壊滅状態になっていく際の緊迫感のなさも、残念だった。大がかりに準備した割に、お祓いとしての効果も、映画的な感動も、どう描こうとしているのかわからないのだ。
 同時にそのあたりで描かれるCGのチャチさも興ざめ。
 ハードルが上がってなければ、面白い映画であるとは言えるのだが。

 ところで、ホラー映画は定期的に観たくなるのだが、レンタル屋の棚を観ながら、これから観たいと思う映画があまりに少ないことをあらためて思い知った。とりわけ邦画に期待がもてない。ゴア・ムービーやスラッシャー・ムービーは観たくないので、それで選択肢が狭まっているとしても、残念なことだ。

2020年8月22日土曜日

『FAKE』-これもまた一つの

 「全聾の天才音楽家」佐村河内守を追ったドキュメンタリー。
 『なぜ君は総理大臣になれないのか』の映画評を漁っている時に森達也の文章を見つけて、ついでにまだ観ていない本作がレンタル屋にあるかどうか探してみたら見つかったのだった。
 『A』以来数年ぶりの森作品。その間、作品を観ていないのに、森達也自身の言説や森達也に対する言説はあちこちで見かけもしている。観るための構えは、ある程度はある状態で観始める。
 それはつまり、真実の相対性やら主観性やらといったドキュメンタリー作家としての姿勢だ。
 そして本作の題名が「偽造・捏造」だというのだから、どういう映画になりそうなのかは見当がつく。そしてそれは大筋では外れていない。
 映画では驚くほど説明不足で、もともとの「ゴーストライター騒動」を知らないと観られない。これでは作品としての完結性を持てないと思うが、それを説明し出すときりがなく、同時にそれをやっていると逆に映画としての独立性が保てなくなるんだろうという判断なのだろうか。
 ともあれ、映画では親切には説明されていないが、一応問題のNHKスペシャルも佐村河内本人の会見も当時見たので、背景はわかるつもり。

 画面に頻繁に登場する猫が可愛いとか、奥さんとの愛が感動的、などというつもりは毛頭ない。夫婦に、互いの愛を口にするよう促す場面など、むしろ不快だった。
 やはり面白さは「事実とは何か」という問題をこの映画がどう描いているという点に感ずるべきだろうと思う。
 つまりは、マスコミによる美談からその後の全否定への、両極端の振幅の中で、中立的に事実を捉えようというしつつ、そこで伝えられる「真実」がどうなるかについての予断も結論もないというのが「森達也的」なんだろう。
 ということは題名の「FAKE」とは、かつて偽物と呼ばれた佐村河内本人を指しているとともに、それを伝えたマスコミの報道を指しているのだろうが、同時にこの映画そのものをも指していることになる。当然森はそのことに自覚的なはずだ。
 例えば「衝撃のラスト」と紹介される最後の、エンドクレジットさえ終わった後の問い。「何か嘘をついたり隠したりしていることはありませんか?」と聞いて、長い沈黙の後、佐村河内が答える前に映画は断ち切れてしまう。観客は何かあるのではないか、という疑いを抱く。抱かせるように編集している。
 だが映画の途中で佐村河内に「森さんは僕を信じていますか?」と聞かれて、森は「信じなければ撮れない」と答える。
 これは論理的に矛盾している。信じているなら、嘘をついていないか、という問いは発生しない。
 もちろん途中の「信じている」が嘘なのだ。
 「信じている」などという言葉は森の基本的な姿勢と矛盾している。森が佐村河内の言うことを全て真実として受け取るはずはない。取材中、常に「どっちなんだろう」と思いながら取材しているに決まっている。だが「信じている」と言わなければ取材は終了してしまうから、そこではそう答えざるを得ない。
 つまり作者が取材対象である佐村河内本人を騙しつつ、映画全体が観客を騙している。途中まで、世間の佐村河内全否定に対して、真実の佐村河内守を伝えるかのように誤解させるが、そんな映画を森達也が作るわけがない。
 とすれば、どこまでいっても「FAKE」でないものなどないという当然の事態をこの映画自体が示しているわけだ。

 一方で「信じている」のは、たぶん本当でもある。それは佐村河内の言うことを事実だと受け容れるという意味ではなく、対象に真摯に向き合うつもりがあるという意味だ。
 だが途中まで、淡々と佐村河内を写しているだけの取材の突っ込みの浅さには、いかんせんもどかしく思っていた。
 それでもテレビ番組の制作者が登場して、またマスコミという装置がいかに真実を無視して、目先の面白さをでっち上げるかを暴露してしまうくだりなど、もちろん面白い。
 だが「マスコミ」の軽薄さを暴いて、では森は何を描くか。
これが外国人記者による佐村河内取材の場面から一転する。記者の質問は的確で、そこを訊きたい、という観客の欲求を満たしてくれる。これをなぜ森本人が問わなかったかといえば、上記の通り、自分を守ることに精一杯になっている佐村河内を取材し続けるにはしかたのないことだったのだ。
 ともあれ佐村河内の言葉を受け容れる方向に引っ張られていた観客の姿勢が、このインタビューによって、もう一度、健全な疑惑の側に戻される。
 そして、試写の際には口外を禁じられたという「ラスト12分」に至る「物語」的流れが形成される。
 本当に佐村河内守は音楽が作れるのか?
 なるほど、作れるのだった。
 だがその音楽はひどく凡庸だと感じた。これは主観的な問題なので、それを感動的と感ずる人がいてもいい。
 なるほど、だから佐村河内守は「ペテン師」だと言うつもりはない。彼はプロデューサーなんだろうし、宣伝担当でもあるのだろう。それが一時の成功をもたらしたのは間違いなく、あとはマスコミやら大衆やらがのせられただけだ。皆がそういう「物語」を消費したかったんだし、それができて経済的にも感情的にもそれなりに満足したのだった。
 そしてこの映画もまたそうした、この素材に対する新しい切り口による消費の一つだ。
 その意味では大いに楽しませてもらった。

2020年8月18日火曜日

『ヘレディタリー 継承』-ホラー映画におけるカタルシス

 順番が前後したが『ミッドサマー』のアリ・アスター監督作だ。
 各方面の絶賛を聞いているから、期待はいやが上にも高い。
 『ミッドサマー』でも、その演出力には信用がおけるから、ある意味で安心して観られる。安心して観られるホラー映画。

 だが、どうだろ。ホラーとしては。
 多分、結局宗教的なところに落とすという、あのキリスト教文化圏的なホラーの枠組みになじめないのだろう。生きている人間ならばサイコスリラーか、オカルトならば個人的怨嗟による祟りなら受け容れられる。
 が悪魔が降臨することが恐怖の対象になることが文化的にピンとこない。

 ということで、最後のところで全面的に満足とはいかなかったが、もちろん途中は面白かった。それはなんといっても演出の巧みさによる。
 とはいえ、ホラーとしてよりも、家族の心理的軋轢を描いたスリラーとしてだ。もう、トニ・コレットのあまりに見事な演技に負うところが大きい。
 筋立てとしても、ちゃんと伏線を張って、それを回収しつつ物語を悲劇的に収斂させていく物語作りがうまいのは確か。
 そうはいいつつも、最後に向けての壊れっぷりは、それはそれで『ミッドサマー』もそうだったっけ、という思いで、半ば笑って観てもいた。
 だがホラー映画も、実は勧善懲悪のハッピーエンドであってほしいのだ。そうでないところが怖いのだ、という場合もあるのかもしれないが、そうでないことにはカタルシスがないではないか。
 全面解決でなくとも良い。どこかに救いがなくて、なおホラー映画を楽しいと思って見終われるのだろうか?

2020年8月16日日曜日

『トゥモローランド』-良い狼に餌を与える

 一緒に子供と観ていたりして、2度ほど途中まで観ては止まってしまっていた。その後自分で最後まで観きるきっかけがなかった。
 そうこうするうちにあちらは最後まで観てしまい、こちらはこちらで決着をつける。
 前半は3回目だが、そのままの勢いで後半に流してみても、あらためて見事なプロダクトだと思う。ディズニー映画の脚本作りの手堅いこと。先の読めない展開の中で、次々と謎の提示を繰り出しつつ、観る者をひきずりまわす。
 脚本だけではない。未来世界のビジュアルイメージも大したものだ。
 そして演技陣も。ジョージ・クルーニーやヒュー・ローリーが達者なのは別に驚きもしないが、ヒロインのブリット・ロバートソンとラフィー・キャシディが魅力的なのは、驚くほどだった。回転の良い台詞と感情の入れ替わり、くるくる変わる表情に反応の良い動きが溌剌とした精神の発露を感じさせる。脚本の台詞と演出と本人の演技が噛み合って、みごとな人物造型だった。
 ラフィー・キャシディの演ずるアンドロイドも見事に魅力的ではあったが、好みを言えばもっとアンドロイド然としていてほしくもあった。アンドロイドの妙味は、感情がないはずの人型にこちらが感情を投影してしまうところなのに、彼女はあまりに感情(と見えるように描かれている)に溢れていて。

 一方で、敵役の造型もとても良い。
 なぜ彼が主人公と敵対するか? 人類に絶望しているからだ。
 一方の主人公は「夢見る人」である。
 悲観論と楽観論はともに究極的な根拠のない、性格的な傾向に由来する。だからこの対立はどちらの正当性も証すことができない。
 だが、悲観的な未来を知ることでそれが自己実現することを「悪い狼に餌を与える」という比喩で語り、そのサイクルを断ち切ることが事態を好転させるという理屈だけは、かろうじて認めても良い。絶望するから望みが絶たれるのだ、とは同語反復だが、因果関係は時に疑ってみる必要があるのだ。
 したがって物語の結末は安易な陰謀論への攻撃でも安易な楽観論でもない、「良い狼に餌を与える」という真っ当なメッセージに力を与えることになっていたと思う。

2020年8月12日水曜日

『パトレイバー  the movie』-大いなる希望

 邦画№1は『パトレイバー2』だという話題になって、観ようかという話になったのだが、そもそも『パトレイバー』の基本設定やら人物やらを知らないというのでまず1から。いや、それよりOVAシリーズやテレビシリーズから見る必要があるのかもしれないが。
 この劇場版第一作は何度目かはわからない。何度も観ている。とはいえ20年ぶりくらいかもしれない。

 30年以上前の映画だ。
 だがやはり圧倒的だった。アニメーションも話の展開も。
 画の美しさや動きの見事さはもちろん、有名な廃屋をめぐるシークエンスに感じる胸騒ぎも相変わらずだったし、ストーリーの展開するスピード感もサスペンスも、何度見ても見事だ。
 そして人物の描き方も。
 これほど見事な作品が存在することは、やはり人生にとって大いなる希望だと思う。

2020年8月11日火曜日

『MEG ザ・モンスター』-アンバランスの失敗と成功

 歴代サメ映画の興行収入№1だという。期待される面白さの方向は決まっているから、見やすい。観始めるときの億劫さがない。
 で、観終わっての満足度もそれほど高くはない。だが期待とのズレは大きくないから許せる。

 これでもかと、敵の強大さを描くことは必ずしも物語を面白くさせない。
 これが『トレマーズ』ほど面白くないのは、バランスを欠いているからだろう。というより『トレマーズ』の面白さが、バランスの中で形成されているということか。つまり、工夫によって対抗できるような危機の描き方が巧みだったのだ。
 だから、モンスターを強大にすることは必ずしも面白さにつながらない。
 脅威に対して暢気すぎるではないかというあれこれの行動にも不審を覚えるし、最後が肉弾戦なのも、それが敢えてなのはわかりつつも納得できない。
 海が怖いと感じるということなら、小規模映画の『海底47m』の方がよほど怖かった。

 一方で、この映画の最大の成功は、海水浴客の足下をMEGが通り抜けていくのを上空からとらえたショットだった。ここだけは、そのあまりの非日常性を生み出すために、あまりに大きなサメという設定の成功しているシーンだった。
 それでも、あんな水深のところを、大勢の海水浴客が泳ぐなんてことはありえない、という突っ込みはしたくなってしまうが。

2020年8月6日木曜日

『なぜ君は総理大臣になれないのか』-問いが成立するためには

 まず先に映画を観るという企画があり、上映館も決まっており、そこで上映中の映画で観たいと思えるのはこれしかなかったという理由で選んだのだった。ネットで検索してみると森達也のレビューがあったりもして、観たいとも思えたし、これがこの後、テレビ放送されそうな予想はできないし、レンタル屋に並ぶかどうかも怪しい。見ておこうと思った。
 で、大いに成功だった。ものすごく面白かった。

 申し訳ないが小川淳也はこれで初めて知った。そういえば「統計王子」というのが話題だという話を聞いたような気もするが、気のせいかもしれない。
 香川県から出馬している衆議院議員の、32歳の初出馬から17年後の今までを追ったドキュメンタリー。出馬の時のインタビューで「総理大臣になりたいか」と問われて「やるからには」と答えているが、毎回の選挙で勝つのも容易ではないし、党内での出世もままならないまま17年経つ。
 真っ当な人だった。真っ当に、良かれと思ったことをやり続けている。だが、総理大臣になれそうな見込みはいっこうに現実化しない。
 様々な局面で様々に思い悩み、何事かを決断していく。報われることもあるが、報われないことも多い。状況は様々な要因の絡み合いで動いていく。様々な人々の思惑のぶつかりあいや、小川本人の義理人情や。そうした現実の手触りを巧みに描いている。よくできたドキュメンタリー作品だ。人間状況世界がきちんとそこにある。
 民主党(民進党)系であることから、「希望の党」合流騒ぎに巻き込まれる2017年の衆院選が映画全体のクライマックスになっていて、構成としてもドラマチックに見せる。慶應義塾大学経済学部教授の井手英策氏の応援演説は感動的で、劇中でも本人や家族が演説中に涙ぐむ様子が映されるが、見ているこちらも泣かされた。

 政治論としても実に興味深い様々な要素を見せてくれるのだが、やはり映画全体の面白さは小川の人柄に依拠している。単に魅力的だということではない。
 総理大臣をやるということが現実的である思えるほどに有能で、それにふさわしい人格も兼ね備えて、そこを目指してもいるのに決して現実化しそうもないのがなぜなのか。そうした問いが本当に成立するためには、小川という存在が不可欠なのだ。
 どこぞの泡沫候補やタレント議員ではこの問いは成立しない。
 あるいは政党内の力関係や財力で当選している議員でも。
 あるいは、地方議会で地域の人々のために良い仕事をします、という議員では。
 「なれない」ことが当然であると思えてしまうのでは。
 例えば石破茂が「なぜ総理大臣になれないのか」という問いは、それはそれで成立するし、それを本当に追ったドキュメンタリーは相当に面白くなるだろう。
 小川もまたこの問いが成立すると思える政治家であり、なおかつとりあえずはなれるはずもないとしか思えない。
 そしてそれは監督がネットで言っていたが確かに、小川を総理大臣にさせられない我々国民の問題である。

2020年8月4日火曜日

『お嬢さん』-映画の力

 パク・チャヌク監督作ということで、この間の韓国映画特集のレンタルDVDの新作紹介で何度も観ていて、ようやく。
 エロチック・ミステリーというのだが、どこがミステリー? と思っていると、第一部の終わりで呆気にとられるようなドンデン返しとなる。それだけではなく、第二部ではそれをもう一度ひっくり返してみせる。なるほどミステリーだ。
 実は、といって真相を知らせる際に、前と同じ場面を、違った角度から違った意味合いで見せる。
 そもそも原作が創元推理文庫で「このミステリーがすごい」の1位だというのだから、話の骨格はミステリーとして間違いないのだった。
 だがそれだけではない、映画としての魅力に満ちている。…のだが、これがまた『渇き』同様、語るのが難しい。
 とりあえず舞台となる豪邸やら庭やら、映画として定着された画の美しさ、というのはある。美しいというと平板だが、それは現実の風景ではなく、「映画」の中の空間として感じられる、ということだ。自覚なしに作られた映画では、風景はそうは見えないし、ましてテレビの中の空間とは完全に違う。
 とりわけ、屋敷の地下室の広大な、書庫と併設された和室は、そこで繰り広げられる朗読会の怪しさと共になんとも印象的な空間だ。

 だが、こんなことしか言えないところが、語るに難しいパク・チャヌク監督作の面白さだ。
 映画としての力、などというのはあまりに雑なのだが、それが満ちているのは確かなのだ。

 エロチック要素は要るのか? というのがどうも腑に落ちないのだが、それを抜くと動機が弱くなるのでしかたないのだろうか。別にそこが映画の魅力を増しているとは思えないのに。

2020年8月2日日曜日

『ブリグズビー・ベア』-成長を描く多幸感

 先に絶賛レビューを知っていて、その期待で観るとはたして裏切らないのだった。
 誘拐されて外界から隔絶された生活を25年送った青年が、警察の捜査の結果、元の生活に戻る。誘拐犯は元大学教授とその妻で、軟禁生活の間、自作の「教育番組」を見せていた。それが題名の「ブリグズビー・ベア」なのだが、「外界」に適応しようとする青年は、しかし「ブリグズビー・ベア」の続きを作ろうとする。
 設定の共通性からどうしても『ルーム』を連想してしまうが、あちらは堂々たる名作であり、こちらはあちらほどのドラマの強さはないものの、多幸感は大きい。とても良い映画だった。

 ネットでは創作の喜び、という方向で語られることが多いようだ。特に映画が好きな人は映画作りの喜びという枠組みで理解しているようだ。
 だが映画を作りたいという情熱が周囲を巻き込んで成功に至る、という話として捉えるのはちょっと違う気もする。好きなことをひたすらにやることは素晴らしい、といったメッセージとは。
 彼の作った「ブリグズビー・ベア」の断片は、「続き」というより「完結」を目指しているように見える。
 とすれば彼の映画作りは、幼児期に懐古的に戻りたがっているというより、それを終わらせ、そこから踏み出そうとしているものと受け止めるべきなのではないか。

 といってそれは「ブリグズビー・ベア」の否定というわけでもない。
 「ブリグズビー・ベア」の内容を直接観客が見ることはできないから、それをNHK教育あたりの幼児向け番組のようなものをイメージしておくと、それはおそらく基本的な人間愛や道徳を教えているのだろう。
 そこには非現実的な簡略化はあるかもしれないが、基本的な人間のあり方としてそれを否定する必要もないはずだ。
 とすればそれはあくまで揺籃の如きものとして受け入れつつ、そこから現実を、それにふさわしい精度で受け止めるようにしていけばいいはずだ。それこそが「成長」というものではないか。
 とすれば、この映画がもつ多幸感は、幼児期に戻ろうとする退行的なものではなく、真っ当な成長が持っている(だが楽天性に支えられた)前向きなものなのである。 

2020年8月1日土曜日

『ブルー・マインド』-「真面目な」ホラー映画

 レンタル屋の棚から、その場で面白そうな物を選ぶ。大抵は海外の映画祭で何か受賞しているというような宣伝がジャケットに書いてある。そういうのが真に受けるに値するほど面白いものばかりではないが、地味に良い映画であることもままある。真面目に作られた小品であるような。
 スイスの映画賞で作品賞だというのだが、これもそういった作品だった。
 主人公の少女が人魚に変化してしまう、というホラーなのだが、恐怖を描こうという気は制作者にはない。怖くない。映画の中では本当に人魚になってしまうのだが、同時にそれは全く象徴であることがあまりに明らかだ。
 描かれるのはティーン・エイジャーの荒んだ生活であり、そこに惹かれていく主人公の変化である。人魚になることはその変化を象徴的に描いているのだが、丁寧に、真面目に、美しく描いているとは思ったが、結局のところ、彼女がなぜそんな風にはみ出してしまわなければならないのかがわからなかった。
 これがこちらの読解力不足なのか、映画の描写不足なのか、どうもわからない。
 タッチは好意的に受け止められるのだが、手放しで面白かったとは言えない。真面目な映画ではあるが、ホラー映画を作ろうという気がないのになぜホラー映画の形式をとるのかはついにわからなかった。

2020年7月26日日曜日

『ジュラシック・ワールド/炎の王国』-毎度

 『怪物はささやく』のバヨナ監督による、シリーズ第5作。意識はしていなかったが、調べてみるとここまでの4作もテレビ放送で観ているのだった。
 もちろん劇場では3D上映なんだろうから、そうして、大音量で観るべき映画ではあるんだろう。だが、テレビでは、やたらとこちらに飛んでくるものが多いのと、あまりに不自然にギリギリで危機を回避する場面の連続で、かえってしらけてくるのだった。
 最初の島の、火山噴火による大スペクタクルは圧倒されたし、そこに残される首長竜の切なさはうまかったが、本土に移ってからの大部分は、毎回の感じに尽きた。バヨナ監督だから、といった特別感はなかった。
 サスペンスにしても、『スーパーマン』や『キングコング』と同じような、スケール感の違和感が拭えない。なぜちょうど良い危機のレベルに調整されてしまうのか、といった不信感が頭をもたげてしまうのだった。

2020年7月25日土曜日

『怪物はささやく』-高いレベルの画作り

 新作が公開されるというので『ジュラシック・パーク/ワールド』シリーズの第5作がテレビ初放送だというのだが、その監督の前作というので、これは『ゴジラ』のギャレス・エドワーズにとっての『モンスターズ』か、と観てみる。
 が、調べてみると『モンスターズ』のような低予算映画とはいえない、堂々たるメジャー映画なのだった。シガニー・ウィーバーやリーアム・ニーソンが出ている。

 始まってみると、またこれが堂々たる画作りで、安っぽくない(『モンスターズ』も、低予算の中で安っぽく見えない巧妙な画作りはしていたが)。CGの「モンスター」が作り物っぽいのは限界なんだろうが、途中に挟まれるアニメーション・パートのレベルはものすごく高かった。いちいちの画面が、それだけで一枚画として見られる芸術的な画の連続で、しかも視点の移動や物の変形など、アニメとして工夫すべき点がおそろしく高いレベルで成立していた。本当に、驚くくらい。
 そしてアニメ・パートで語られる挿話がいちいち印象的なのも、とてもよい。

 全体として、良い映画ではある。主役の少年ルイス・マクドゥーガルも、哀しげな困ったような顔が実に良かった。
 お話としても、切ない物語を感動的に描いている、とは言える。
 だが、仕掛けとしては単純で「これだけ?」と思ってしまったのは、画作りの豪華さに対して、お話が単純に感じたせいか?

 それにしても一つ前に観たのが、カメラワークが単調な長回しの映画であることが特徴の『翔んだカップル』で、それに比べていちいちのカメラワークや編集に凝った本作は、あまりに「映画」として異質な物に感じた。
 そして、それだけに作り物じみて感じられる本作に比べて、『翔んだカップル』の生々しい手触りがいっそう強く感じられるのだった。

2020年7月23日木曜日

『翔んだカップル』-普通なスターという両義性

 相米慎二に愛着はない。30年くらい前には『台風クラブ』も『光る女』も、徒にわけのわからない演出をして観客を煙に巻くのが芸術的だと思っているのかと言いたい感想を、当時もった。
 だが今、観ることのできない『雪の断章』をもう一度観たくてしょうがないし、後期の評価の高い作品も機会があれば観てみたい。

 監督デビュー作の本作は、時代を感じさせるダサさは確かにある。この間何本かまとめて観た韓国映画のように、滑稽な言動がお約束のように描かれるのはどちらかといえば不快だ。そんなものを求めている観客に向けて作られているとは思えないのに。
 そして、お話がよくできているとも思えない。脚本が丸山昇一だとはエンディングクレジットで知ったが、どちらかといえば丸山の評価を下げた。
 人物像も作りが雑でまとまりに欠ける。これは相米の演出方法のせいもあって、これでこそ醸し出されるリアリティもある。それは登場人物というより役者のリアリティで、役者の未熟さがそのまま人物像の混乱に表れている。それでもいいという評価もあるだろうが、主人公の二人くらい、もっと微妙に描いても良いのに、と思った。
 有名な長回しは、功罪あるだろう。視点の切り替えによる情動の誘導や画作りの面白さがないことによる平板さを上回る演技の熱が生まれているか。あるような気もする。
 これも時代柄しょうがないとはいえ、家事を女性しかしないのが前提となっていて、そのことについてのエクスキューズがないのも、今観ると不愉快ではある。「翔んだ」などという、「新しさ」を表す形容(かえってそれこそ古めかしい)がついているというのに。

 だが観終わって、この感じは『君の膵臓が食べたい』のようだと思った。認めるのに抵抗のある、しかし否定しがたい、ある懐かしい感じ。都合の良い願望を伴っているから、恥ずかしいが、しかし抗いがたい愛着。
 男優は鶴見辰吾よりは尾美としのりが良い仕事をしている。屈折しつついい友人でもいようとする人物像を達者に演じていた。
 女優は石原真理子は魅力がまだ発揮されていないが、なんといっても薬師丸ひろ子が圧倒的。
 この映画の魅力は、もちろん設定にそのほとんどを負っているのだが、薬師丸ひろ子の存在がやはり大きい。
 今観ると、やはり映画の主演をするには不似合いな「普通さ」が、おそらくこの映画の後味に大きく貢献しているのだ。「普通の女の子」といえばキャンディーズだが、薬師丸ひろ子の「普通」さに比べればやはり「アイドル」然としていた。それはステージ衣装の非日常性と、言動の作為のせいで、この映画当時の薬師丸ひろ子こそ「普通」に見える。
 それでいて同時に「銀幕のスター」でもあるという特異なアンビバレンスを体現していたのだった。
 それが、この物語を、まるで自分が経験したかのような懐かしさとして体感させる。

 上で「つまらない」と評した画作りだが、やはり坂道を自転車で下る有名なシーンは、やはりどうにも印象的だった。

2020年7月19日日曜日

『海底47m』-シンプル

 海中に吊したケージの中でサメを見るというシーンは、いくつかのサメ映画で見たことがあるが、サメ映画の本義としては、ケージを破壊するほどのサメのでかさと獰猛さを描くところだが、この映画ではそれも、なくはないが、それだけでは保たないので、その描写は、あるにはあるが、頻発はしない。
 それよりもケージを吊していたウインチが壊れて海底までケージが落ちてしまう、という現実的な恐怖を描く。題名もそのままでシンプル。
 
 こんなシンプルなアイデアだけで一本の映画になるのかいなと心配していると、最後辺りのドンデン返しに工夫はあるとはいえ、全体には素直な作りだった。
 しかし、海底の絶望的な恐怖は実にリアルで、それだけでも作品として成功している。
 ケージを出る必要はあるが、ケージを出たときの寄る辺無さ。
 そして海底が崖状に落ち込んで、下が暗くて見えないところを泳いで進む恐怖。
 サメ映画ではない。暗い海中に対する恐怖は実に共感できる。サメ映画ではない。
 これを表現できているだけで成功である。

2020年7月11日土曜日

『ミッドサマー』-奇妙な決着

 コロナ騒ぎの前に観に行く予定を立てていたのだが、上映中止になって流れていたのだが、営業再開に伴って最近あちこちでまた上映されだしたので、候補を探って、渋谷の小さな映画館で上映されているディレクターズ・カット版170分を観てきた。当初の通りそもそも誘ってくれた娘と。
 アリ・アスター監督の前作『継承』は、興味は引かれているのだが観ていない。もちろん観たい。タイミングを見計らっているだけだ。これを宇多丸さんが年間ベスト1に挙げているのだ。本作も期待してしまう。

 終始手堅い演出で、確実に恐怖を高めていく物語運びは、なるほど上手い。
 問題の「その村」に着くまでがまず相当に長いのだが、主人公の背景をこれくらいに描かないと、確かに物語の決着にいたる流れに説得力が得られないから、それもまた充分な必然性がある。演出が手堅いから、映画を観ることの快感がどの断面にもあって、飽きることもない。
 そして「その村」の明るさと美しさは、なるほど前評判どおりだ。『ハリーの災難』の紅葉は「総天然色」とでも言いたい人工的な美しさ(形容矛盾)だったが、本作は現在の技術で高精細になって、いよいよ「総天然色な自然」にも見えるが、一方でその美しさが不穏でもあり、それはそれでやはり「人工的」な美しさではあるのだった。
 その不穏は、「いつくるかいつくるか」という不安/期待の裏返しである。
 そして、期待通りに(時折は期待を裏切って)その不安は現実になる/ならない。
 恐怖と言うより居心地の悪さ。  
 ストーリーの型も味わいも『ゲットアウト』を連想させる。
 だが敵はそれを「悪」とは呼べない「伝統」「習慣」である。
 倒すべき相手ではなく、逃げるしかない状況なのだが、逃げおおせて終わるハッピーエンドではない、観たこともない奇妙な決着をみる。

 さて、大いに面白かったのだが、帰ってからネットの評価を見ながら思ったこと。
 主人公の恋人が「クズ」と評されるのは、それほど同意できない。
 二人の関係はきわめて微妙な配慮が行き届いた適切な描写がされていて、どちらもがそれなりに分別のある常識的な言動をしながら、それでもやむをえず心が離れていく現実的な残酷さを描いていたと思う。したがって、最後の悲劇を、因果応報的なカタルシスで受け止めることはできなかった。結末は現実的な悲劇が、そのまま不条理な悲劇に転換していると感じた。
 結末は、主人公にとっての救いになっていることは、理屈の上ではよくわかるのだが、それでも観客がそれを素直に喜べないという居心地の悪さがこの映画の後味の良さ/悪さなのだろう。

 途中で何度か笑えてきたのだが、ホラーだというのに可笑しいとすら感じる「変」さは、狙っているのかどうか判然としなかったが、ネットには笑えるという感想もあり、これもありうる感じの一つなのだと得心。

 終わって駅までの渋谷の街は12時近いというのに多くの若者で溢れていて、これから帰れるのか、帰らずに夜を明かすのか。

2020年7月5日日曜日

『ハリーの災難』-アンバランス

 まるで画のような、不自然とも言えるほど綺麗な紅葉の野山の風景に圧倒される。いや、そういう映画ではない。一人の男の死体をめぐるドタバタのブラックコメディ。
 コメディだからこういう扱いでいいのだろう。死体に対する扱いが不謹慎であることに目くじらを立ててもしょうがない。
 だが登場人物達が何をどう感じているかで、物語のサスペンスがかわってくる。それにどの程度の不安を感ずるのか、何を喜ぶのか。
 どうもそれがよくわからない。観ていてピンとこない。
 「二枚目」の画家と未亡人の「ヒロイン」の突然のメロドラマも、どうして必要なのかわからない。映画のお約束として、ということなのだろうが、観ているこちらはまるで要求する気になれず、喜ばしくもない。

 全体としては三谷幸喜風のスラップスティックとしてはよくできたお話なのだろうと思いつつ、上記の様なわけでどうにもしっくりいかず、感情が動かなかった。
 シャーリー・マクレーンの可愛さと紅葉の美しさというだけでは。

2020年7月4日土曜日

『めまい』-よくできたサスペンスだが

 ヒッチコックでもとりわけ名高い本作だが、初めて観る。
 なるほど、どこへ連れて行かれるかわからないストーリー展開のサスペンスがすごい。オカルト展開を半信半疑で観ていると、驚くような意外な決着をみて、どうなっているのかと思っていると、そのうち合理的解説がなされるドンデン返し。
 とてもよくできたサスペンス映画だと思いつつ、名高い高所恐怖症の「めまい」描写は、まあどうでもいいと思ったし、ジェームズ・スチュアートとキム・ノヴァクの年の差が不自然で、ラブロマンスに違和感がありすぎた。いきなりすぎだろ、という感じも。

2020年7月2日木曜日

『ドント・イット』-売り方を間違っている

 『ドント・ブリーズ』と『イット』に乗っかって、ホラー映画として見せたいんだろうが、全く間違っている。そんな風に売ってしまえば、不評の嵐になるのは目に見えている。オカルトではあるがホラーではない(終わり近くにいくらかホラーテイストがあって、これはむしろこの映画の失敗でさえある)。
 ホラー映画を借りたつもりだったが、そうでなかったことに不満を言うつもりにはならなかった。
 子供を亡くした母親が降霊術を行う、というただそれだけを丁寧に描いた映画。
 だが、おもしろさはその手順が興味深いというよりむしろ、それを手助けする降霊術に詳しい中年男が胡散臭いことによっている。母親が、どこまで信じればいいのかに迷い続ける間、観客もまた、これがどういう映画なのかを疑い続ける。どのあたりに決着させるつもりなのかよくわからんのだ。
 感じの良くない人間でないのは確かだが、降霊術に関しては本物かもしれない。そう思って観ていると裏切られるエピソードも描かれる。
 「儀式」というものについての根本的な怪しさもある。その様式にはどんな合理的な理由があるのか? 説明ができなくても信じるしかない部分もあるんだろうが、伝承に伴う情報の歪曲だってあるだろうと思えば、そこをそのまま信じるべきか迷う。
 結局はオカルトなのだが、同時にそれは母親の内的なドラマでしかないともいえる。外的には何が起こったわけでもない、ともいえるからだ。

 淋しいイギリスの風景が全体に良い感じ。ヨーロッパ映画だなあ。
 そういう映画だと知らせて、それで観たい人に見せればいいのに。単なるB級ホラー映画だと思わせて、ホラー映画として面白いことを期待している人に見せるのは売り方が間違っている。

2020年6月28日日曜日

『ファイアー・フォックス』-程度の適正がわからない

 次々とクリント・イーストウッド。
 退役した米軍のパイロットが、ソ連の最新鋭戦闘機を盗みにソ連軍に侵入し、奪取して脱出する。
 ミッションの困難さはいうまでもない。スピーディーな展開に伴うサスペンスは確かにある。
 だがその困難さの程度が想像できないので、それができてしまう展開がご都合主義の絵空事に感じてしまう。
 後半の空中戦もそうだ。
 確かマッハ5だとか言っていたようだが、その早さで「惜しい」とか「ギリギリ」とかいうコントロールが可能な空中戦の駆け引きが可能なのか、どうも信じられない。
 ということで、起伏のある物語展開も、手堅い演出も、さすがイーストウッド映画だと思いつつ、どうにものれなかった。

2020年6月21日日曜日

『ハートブレイク・リッジ』-達者なエンタテインメント

 クリント・イーストウッド祭状態なのは、NHK・BSの放送のせいでもある。海兵隊歴戦の勇士、オールドスタイルの「鬼軍曹」が、だらけた若者を鍛え直す戦争映画。最初は反抗的だった若者達との間に絆が生まれて、次第に優秀な部隊に育っていく様子は『がんばれベアーズ』的スポ根映画と同じコンセプトだな。
 「戦争映画」だと思っていなかったので、後半で実際に戦場に行き、死者も出すという展開に驚いた。ネットでは戦闘シーンに突入するのが遅いというような感想もあったが。
 結局揺るぎない腕っ節の強さを後ろ盾とする強引さがあってこそのやり方じゃないか、とか、あまりに脳天気にアメリカ万歳の戦争賛美になっているじゃないか、とか、戦争の悲惨が描かれない、とか、シリアスに観てしまうと不満はあるが、ユーモアや人情話として観ればやはり手堅いエンタテインメントではある。
 つくづく達者な監督だ。

2020年6月19日金曜日

『老人と海」-眠気に堪えて

 ノーベル文学賞作品の映画化で、『大脱走』のジョン・スタージェス監督作。主人公の「老人」を名優・スペンサー・トレイシーが演ずる。
 …というビッグネームが揃いながら、すごく面白かったというわけではない。
 ほとんど全編にわたってナレーションが状況や心理を説明し、ほとんど全編、壮麗なオーケストラによる劇伴が流れ続ける。アカデミー作曲賞はいいのだが、正直、映画的緊迫感を損なっている。
 魚の映像を探すために制作費が巨額になったというのだが、哀しいかな、ここはどうしても時代が現れてしまう。ブルースクリーンによる合成が初めて使われた作品だというのだが、今観るとSFXがどうにもちゃちにしか見えない。魚と老人が別映像にしか見えないし、舟が浮かんでいるのも、時々プールになる。
 その時代なら老人と魚の戦いが「大迫力」に見えたのかもしれないが。

 話としてはダニー・ボイルの『127時間』同様、限定された状況で、それがうんざりするほど長く続くのを堪えるという設定で、そこにどんなエピソードを盛り込めるかという勝負。
 これにもそれほど感心するような工夫を感じなかった。眠気に堪えたり、釣り糸に擦られた手の皮がむけたりといった「戦い」はあるが、三日目までの道のりは思いのほか短く、むしろ捕まえてからのサメとの戦いや陸に帰り着いてからの方が結構長いんだな、と感じた。
 週末の夜に夜更かししても、と思ったが、眠気に堪えて最後まで観るという、劇中の老人と同じ状況に陥ってしまった。

2020年6月14日日曜日

『Bound』-身の丈にあった良作

 偶然にもウォウシャウスキー姉妹の映画を二作続けて。まだ「兄弟」だった頃の第一作。一日に二作というのは意識的だが。
 マフィアの金を、幹部の情婦と隣の配管工の女が結託して横取りするというクライム・サスペンス。
 印象は、近いところでは『パーフェクト・プラン』に似ている。そちらほどの肉弾戦があるわけではないが。基本的にはいつばれるか、というハラハラサスペンス。
 『ジュピター』のように金がかかっているわけではないが、堅実な脚本と工夫を凝らした撮り方で、ちゃんと面白い映画になる。『ジュピター』などよりはるかに。
 『マトリックス』のような革新性はないが、良作ではある。

『ジュピター』-スケールについていけない

 なんで録画したのか忘れていたが、最後まで観てウォシャウスキー姉妹作品なのだとわかった。
 途中の都市上空の滑空や戦闘、異星の都市の描写や、ペ・ドゥナが出ているところから『クラウド・アトラス』を思い出していたんだが、あれも半分ウォシャウスキー姉妹だったんだっけ。
 しがない清掃員のヒロインが、宇宙を支配する異星人の生まれ変わりだとわかる、という一種の貴種流離譚でそこからとんでもないスケールの冒険の物語に突入するのだが、どうも説明不足で話についていけない。これは放送上のカットのせいか?
 といってわかったからどうだということもなさそうでもある。
 映像的にはものすごい。なんせ『マトリックス』シリーズの作者達である。
 だがそれがすごければすごいほど、冒険がどうでもいいと感じてしまう。危険の程度がすごすぎて、「すれすれ」の感じがなくなってしまうのだ。
 もちろん「すれすれ」に描いてはいる。もうちょっとでぶつかりそうだという「すれすれ」は頻度が高い。劇場公開では3Dだそうだから、それは意識されている。
 が、物語のスケールが大きいと、誰かが死ぬことは意識して避けられるようなものではないはずだと思えてしまう。巨大建造物が崩壊するときに、そこから落ちながら周囲の崩落物になぜ触れないのかとか、それだけの高度があって、なぜ途中の突起につかまれるのかとか、危険がリアルな体感として想像できるレベルをはるかに超えている。
 宇宙を巻き込むようなレベルの話になって、誰かが誰かを殺そうと思ったら、それを「すれすれ」で避けられるなどという展開に、どんなリアリティを感じればいいのか。
 またしても「スーパーマン映画の不可能性」。

 主演の二人、チャニング・テイタムとミラ・クニスがまるで魅力的に感じられないのも困ったものだった。二人の関係性も人物像もそうだが、そもそも俳優として。
 これも例の「セクシー」とかいう基準が日本人にはついていけないせいかもしれない。

2020年6月9日火曜日

『グラン・トリノ』-映画的愉しさに満ちている

 前から録ってはあって、このところのクリント・イーストウッド・ラインナップでようやく。
 中盤まで、なんだか愉しい。家族を始め、周囲から疎まれている頑固爺いが、偏見に満ちて観ていた隣家のアジア人家庭と関わり合ううち、そのうちの一人、冴えない少年と「友情」を育んでいく。
 少年の姉であるアジア人の少女の、ギャングにも強気に出る態度は『息もできない』のヒロインを思い出させてハラハラさせるが、彼女の存在がアジア人コミュニティとアメリカ人の老人を橋渡しすることになり、物語に強い安定感を与えている。
 少年にちょっかいを出してくる鬱陶しいギャング少年に対して老人が制裁を加えるあたりまでは物語としては安定したドラマツルギーだ。
 その後の悲劇的展開も、驚いたとはいえ、まあそういうのもありだという範囲を超えてはいない。さて問題はどう落とし前をつけるか、だ。
 そして結末もなるほど、それがうまい落としどころではある。
 前半の愉しいから後半の劇的展開まで、終わってみればベタなドラマではある。しかし結局映画的愉しさに満ちている。

 イタリア人理髪師役のジョン・キャロル・リンチは『ゾディアック』で覚えて、『Walking Dead』のグルで出たときには感慨深かったんだが、ここでも安定の存在感。

 ところで、気になったこと。
 なんだかんだつきあってしまえば、偏見の目で見ていたアジア人コミュニティともつきあっていける。それどころか、少年とは「友人」と呼べるまでになる。
 だがそれは孫達ではだめなのか?
 可愛気のない孫が、最終的に祖父である主人公のグラン・トリノをもらえなかったことで観る者のカタルシスを感じさせるような構図になっているが、最初は気に入らなかった若者が、つきあってみれば絆ができる、ということなら、それが孫達でもいいではないかと思ってしまう。
 孫達にはない「良さ」がアジア人の少年少女にあるとしたら、そんな構図は哀しい。

 頑固爺い振りといい猫背の痩身といい、どうも我が父を連想してしまってしかたがなかった。

2020年6月7日日曜日

『チェンジリング』-盛り沢山の超重量感

 連日のクリント・イーストウッド作品。前から録画したままになっていたのを、昨日の感動に勢いづけられて。
 行方不明になった子供が帰ってきたら別人だったというほんの入口のところしか知らなかったのだが、いやこれほどの盛り沢山の物語だとは思わなかった。しかもこれで実話ベースだなんて。
 母子二人暮らしで、仕事に出ている間に子供がいなくなるまでは、例えばこんなふうに描かれる。子供と映画に行く約束をしていて、急に入った仕事を断れずに出かけ、早く帰るのに焦っていると上司に昇進のことで話しかけられたり、路面電車に乗り損ねたりする。出かける前に一人家に残って細長い窓越しに手を振る息子を小さく捉えたりして、行方不明の母の痛みがこれでもかと伝わる。俗っぽいと言って良いほどのわかりやすくも丁寧な描写だ。
 基本的には全体にわかりやすい。だが観ていて、どこに行くのか、どこまで描くのかはちっとも予想ができない。
 ロサンゼルス警察の無責任と体面重視と強権体制が描かれて、息子が別人だと訴えているうちにあろうことか精神病院に入れられてしまう。こういうところの恐怖はいろんな映画でも描かれるが、これもまた息苦しいほどの恐怖が、ちゃんと演出される。どんなに正論を唱えても受け入れられない恐怖。
 ここに、真実を主人公に伝えて闘う同志が配置されるあたりはサービス満点のエンタテインメントだ。彼女もちゃんと後で救い出される。
 一方で何やら怪しい牧場が登場して、これ見よがしに刃物類が画面に入るなあと思っていると、20人もの大量殺人事件がからんでくる。息子の生還に絶望的な観測がもたらされる。
 絶望的な状況は、警察の腐敗を追及する教会の活動によって好転していく。聴聞会での公的な場での警察の責任追及と、シリアルキラーに対する裁判が並行して描かれる。法廷物でまであろうとは。
 主人公の息子が殺された子供の一人であることがわかったところから、どこで終わるのだろうと思っているとこの堂々たる法廷物の展開に驚かされ、さらに終わり時間を確認せずに観続けていると、殺人犯の処刑の直前の接見やら処刑シーンまで描かれる。
 さらにそれから5年後の後日談がたっぷり描かれるなあと思っていると、殺人犯から逃れた少年の一人が保護されたというニュースが入り、彼から息子の様子が伝えられる。息子を失った痛みに対する補償が描かれるのもたっぷりしたエンタテインメント的サービスだが、むしろこの情報によって主人公は息子の生存に希望を持つという結末まで、なんともはや盛り沢山な物語だった。
 盛り沢山と感ずるのは、それぞれの展開の中での主人公の感情の振幅がきちんと描かれ、観客がそれだけの物語の重みを感じ取るからだ。
 基本的には悲劇だから、観ていてとても辛いのだが、その中で救いとなるエピソードも満載で、観客は振り回された揚句どういう感情で観終わっていいものやら、という感じだった。
 これで2時間20分を超えるのだからその重量感たるや!

2020年6月6日土曜日

『エヴァンゲリオン新劇場版Q』-やっぱり

 ブログ開設以降に観ているのだが、その時よりも予備知識のなさをいくらか補った状態で、その時の感覚を確認したくなって(奇しくも同時期にケビン・コスナー主演映画を観ている!)。
 さて、観直してみると、かけらも観た覚えのある場面もカットも画も台詞もないのは呆れたことだった。一体どういう姿勢で観たのやら。
 だが感想は同様である。見事な作画と、あまりに不親切な説明不足の展開と、あまりに鬱陶しい主人公の態度。「僕のせいじゃない」はまあその通りだとしても、そんなことを他人から責められているわけではないのにことさらに自己憐憫に満ちた防衛的態度で叫んでどうする。
 世界観と作画は見応えがあったのだが、この物語の続きを追いかけたいとはやはりまるで思えないのだった。

『パーフェクト・ワールド』-閉ざされた世界への絶望と憧憬

 昔はクリント・イーストウッドにも、もちろんケビン・コスナーにも興味はなかったから、アカデミー賞受賞作の『許されざる者』の次回作として話題作だった当時から今まで観る機会がなかったが、今ならクリント・イーストウッド作品となれば観てみようという気になる。
 そしてとても良かった。感動的だった。

 脱獄犯ブッチが成り行きで人質に取った少年フィリップと逃避行を続けるロードムービー。ブッチがケビン・コスナーで、追うテキサス・レンジャーの責任者レッドをイーストウッド監督自ら演じている。
 とにかく演出といい編集といい安定して手堅くて的確で、映画を観ていること自体に心地よさがある。クリント・イーストウッドは、そういう男が確かにいる、という感触を体現していて、その佇まいは高倉健に通じる。
 ネットでは主人公の脱獄犯は結局クズではないかとか、子供がついて行くのがわからないという感想も散見されるが、ケビン・コスナー演ずるブッチ人物像は時に冷徹だとはいえ基本的に鷹揚で冷酷とは言えず、子供がついて行く動機にあたってはもちろんストックホルム症候群もあるだろうが、それより最初のハロウィンを禁止されるエピソードから父親のいない設定まで、ご都合主義的とさえ言われかねないくらいの必然性をもって描かれていると思う。
 その上で父親との関係で傷を抱える二人が寄り添っていく様子はとても切ない。それが幸福な結末を迎えることはあるまいという予想があまりに明らかだからだ。
 その切なさは題名の「パーフェクト・ワールド」という言葉にも表れていて、そんなものがないことが描かれるだろうという予想とともに掲げられているから、この言葉は不安とともに切ない憧憬として、映画を象徴している。
 そう予想はされるのだが、具体的には物語中で何を指して使われる言葉なのかと観ていても、一向に出てこない。
 最初に、人質になる少年にピストルを拾わせ、自分を狙わせる場面で、少年に「完璧だ」という言うのだが、最初観た時は意図が読めずにとまどった。今考えればこれは少年が自分で自分の身を守る力を得るよう促しているのだとわかる。訳すなら「バッチリだ」といったところか。
 その後は中盤の捜査本部での会話、「パーフェクト・ワールド」なら捜査もうまくいくのに、という言葉に犯罪学者が、「パーフェクト・ワールドならそもそも犯罪が起こっていない」と返す場面で使われるきりだ。
 ニュアンスとしては全て上手くいく世界、ということなんだろう。
 逃亡中の脱獄犯にそんなものがおとずれるはずもないから、この言葉は憧憬でしかないのだが、これはその後、誰の口からも発せられることもなく映画が終わるだった。結局直接的には一体何を指しているのか?
 一つには、明らかにブッチが父親からもらって肌身離さず持っている絵葉書のアラスカを指している。そしてそれはどうみても現実のアラスカではない。ブッチとフィリップはそこを目指すが、たどり着くことは絶望的であることが常に示されている。
 一方、冒頭に描かれた草原に寝転ぶブッチの様子がどうもそれを体現しているようにも感じられる。
 だがこれは物語の結末で、撃たれて死ぬブッチが横たわっている場面でもあるのだった。
 とすると、その「完璧」さは、二人の絆やフィリップの自立や成長を意味しているということになるのだろうし、同時にそれが「二人は末永く幸せに暮らしました、メデタシメデタシ」となることの決してない完結性、というよりむしろ先のない閉鎖性をもっているがゆえの完全さである。
 どちらも父と子の絆を象徴する世界である。
 だがそれはどちらも現実には存在しない。美しいアラスカも、ブッチが安らかに寝転ぶ草原も。
 「パーフェクト・ワールド」とは、そうした残酷さ憧憬を併せ持った言葉なのだった。

 ところで、ネットでも誰も言っていないのだが、あの絵葉書はイーストウッド演ずるレッドが父親のふりでブッチに出したものだという真相は、この物語では想定されていないのだろうか。
 誰も言っていないくらいには、それは明言されていないのだから、穿ち過ぎな妄想だと片付けられてしまうかもしれないのだが、どうも簡単に否定する気になれない。
 ブッチが少年院に入ることになった車泥棒の件が語られる場面で、それは量刑が重すぎる、という発言が捜査員の一人からあり、それを伏線として実はそれを画策したのはレッドで、レッドが父親の影響を受けないように、更生を期待して収監させたのだったのだという真相が語られる。その際、レッドは父親を、子供も殴る凶悪な奴だと表現している。ここで語られる父親像と葉書を送ってくる父親像との齟齬は容認すべきなのか。 
 それと最後近く、ブッチとフィリップの前に丸腰で立つレッドに、ブッチが「前に会ったことがあるか?」と聞く場面。もちろん、上のエピソードを受けているのは間違いないのだが、このやりとりの後で、ブッチが葉書をフィリップに渡そうと尻ポケットに手をやったところで狙撃手に撃たれてしまうという流れは、この絵葉書とレッドの関連を観客に伝えようとしているとも解釈できる。
 物語に描かれたあるエピソードを有意味化する整合的な解釈として、明言されていない「真相」を想定すると、それぞれのエピソードの必然性が納得されるというのは「こころ」でよくやっていることだが、ここでもそうした感触があるのである。
 といって、それを想定しているのなら、もうちょっとはっきり、そうであることを示すサインをおくはずではないか、とはむろん思う。
 とはいえ否定する要素もまた、なさそうではあるのだ。
 そしてこの想定が当たっているとすると、この感触は紡木たくの「ホットロード」の中の衝撃の展開と同じなのだった。
 主人公がすがっている父親との唯一の思い出が、実は母親の恋人とのものであったことが明らかになった瞬間の衝撃はそれをどのようなものだと表現すればいいのか難しいのだが、アイデンティティが揺らがされる不安と同時に救いが訪れるという奇妙な感覚なのだった。
 ブッチがすがっている父親への絆がレッドの与えたものであるとしたら、観客はその事をどう受け止めたら良いのか。

2020年5月31日日曜日

『君の膵臓を食べたい(アニメ)』-「物語」の効用

 前に実写版をテレビ放送で観た時には、このアニメが劇場公開中だった。もう2年前になるのか。
 ほとんどは実写版を観た時の感想と同じことをこちらでもやはり感じた。
 ヒロインはあざとくも可愛く、どういうわけで主人公がこのような幸運に恵まれるのか、あまりに都合の良すぎる妄想である。
 二人で旅行に行くのも彼女の家に行くのも、あまりに安易に観客の願望を反映している。
 そして難病でヒロインが死ぬ設定というのも。

 にもかかわらず、やはりいやおうなく心を動かされてしまうのだ。「感動ポルノ」はこちらでも健在。
 アニメーションとしてはとても質が高い。実験的な表現があるわけではないが、美術も人物も綺麗で乱れない。人の振る舞いも眉を顰めたくなるような安っぽさはない。丁寧に、手堅く描かれている。高台から二人で見る打ち上げ花火は、それを題名に冠した某アニメよりもはるかに美しい。
 だからこそ、これだけ感情を揺さぶる要素が並べられれば、抗えない。

 その上で、前回も感じた、難病設定をしているのに通り魔に襲われて死ぬという展開の据わりの悪さをどう受け止めればいいのか、という問題は、今回あらためて考えてみたが、やはり病気で死ぬところを描く難しさを回避したのだと結論せざるを得ない。
 一時的に入院したり不安に襲われたり、といった闘病は描かれるが、次第に弱って、特にイベントを起こせるような健康状態ではなくなって、それから漸進的な衰弱が数ヶ月も続くような展開になるのに、この物語は堪えられないのだ。そこまでの勁さをもたない。

 そしてまた、主人公の頑なな孤独癖は鬱陶しい。もっと普通にしてほしい。あまり人付き合いがうまくない、くらいにしてほしい。碇シンジほどの鬱陶しさではないものの、リアリティの水準を落としてしまう。
 もっと、ある信念があるか、あるいはまるでそれが自然であるような特殊な人物を、リアリティをもって存在させることができるならばそれもいいのだが。
 主人公については実写版の北村匠海の魅力はなかった。

 それでもなお、今回観て、これを若者が観ることの意味を考えてしまった。
 誰かをとても大切に思うことや、だからこそ他人と関わることが大切だという真っ当なメッセージが、この切実感と共に体験されることは、「物語」の大事な効用なのかもしれない、と思えたのだった。
 あまりに抗いがたい感動とともに見てしまって。

2020年5月27日水曜日

『ジャケット』-カタルシスにつながらない

 タイムリープを扱った映画としてどこかのサイトで紹介されたものを何本かレンタルしてきたのは随分前だ。『プリディスティネーション』もその時に観たのだが、集中して観てなかったせいであまりにわからなくて、このブログにも書いていない。その煽りをくってそのまま放置していたのをようやく。
 うーん、これもまた語るのが難しい。
 タッチは悪くない。調べると結構な豪華キャストと言って良いし、制作陣もビッグネーム。エイドリアン・ブロディの笑顔は良いし、少女との出会いも、タイムリープによってその少女を救うことになる展開も良い。
 だが大いに満足、というわけにはいかなかった。
 観客に「わかる」ことが十分な情報量をもっておらず、「意味ありげ」に終わってカタルシスにつながらないのだ。サイトでの考察によればキリスト教的モチーフがちりばめられていて、それに沿って解釈すると…とか、結論として全てが妄想説を唱える人がいたりして、それを、基本的には1回しか観ないはずの映画に求めてどうする。
 そうすると、タイムリープの必然性とか、事情をちゃんと説明しないエイドリアン・ブロディの「いい人」ぶりももどかしかったりして、タイムリープを活かして状況を変える試みも、単なる手紙を書くくらいかいな! という不満が浮上してくる。
 タイムリープはやっぱりアイデアを盛り込んでハッピーエンドを目指すのと、それでも生ずる切なさをセットで欲しい。どちらも、結局「わからない」だけに中途半端に終わった感じ。
 もったいぶらずに語って欲しい。

2020年5月24日日曜日

『渇き』-語るのが難しい面白さ

 中島哲也の方のもいずれ、とは思っているが、今回のは私的韓国映画特集におけるパク・チャヌク監督作品。ポン・ジュノ作品でお馴染みのソン・ガンホが『スノー・ピアサー』に続いて二枚目に見える作品だった。これでも『殺人の追憶』の方が6年も前なのか。
 さて、どうなるのか、まるで先が読めないまま見続けて、それなりの満足を持って見終えた。悪ふざけする『コクソン』のようなことはなく、大げさな描写がちゃんとユーモラスに見える。
 しごく好意的に観終わったのだが、さて、どこが面白かったかを言うのは難しい。
 ともかく映画として上手い、と思った。だがそれがどういう点であるとか、そこから感ずる面白さがどういう性質のものであるとか、どんなふうに感情が動いたのか、とにかく言葉にしにくい。たぶん時間をかけて考える必要がある。
 今回のレンタルでの鑑賞については、返してしまったのでこれまで。

2020年5月22日金曜日

『ヴィクトリア』-全編140分間ワンカット

 全編140分間がワンカットだという。
 長回しといえば『トゥモロー・ワールド』が6分台、『ラ・ラ・ランド』の冒頭のハイウェイのシーンは4分台だそうだが、これはいずれも編集でつないであるので、撮影上はワンカットではない。
 邦画では『カメラを止めるな』の37分があるが、これはその後との対比が狙いでもあり、長いことに必然性がありつつ、そこまでで終わることにも必然性があった。
 それが、全編ワンカットで、しかも編集でつないでいるわけではない、本当の長回しである。しかも映画全体が長めの140分。
 もうその興味で観てみる。
 こういう映画だから、なるべく途中で切らずに見切ってしまう。
 さて、最初の3分の1は正直退屈でもある。ワンカットで描くからこその必然と思いつつももどかしい。いくらなんでもダラダラしすぎでは? とも思うのだが、半ば過ぎからは話のテンポも上がって退屈しない。

 こういうのはとにかくアイデア勝負だ。正直なところ、もうちょっと展開上、演出上に工夫がほしいとも思ったが、それは贅沢な期待でもあり、全体としては、途中にがっかりするような点があるわけでなし、とにかくよく作り終えたことに感心する。
 そして長回しの狙いである没入感や臨場感はもちろんある。
 そのうえで、リアルタイムのこの時間経過のうちに起こったことを思い返すときの異様な長さも面白い。
 最後のたっぷりの激情の後、フォーカスが絞られていないところから、主人公の顔にアップに向かってピントがあっていくところの演出などは、素直に映画的に優れているとも思う。

 ところで、カメラがやたらと揺れるところも、手作り感満載なところも、無軌道な若者の切迫感も、なんだか妙に『息もできない』と並んでいる偶然が不思議。

2020年5月21日木曜日

『息もできない』-全編に満ちる切迫感

 評価の高い作品であることは知っていたので、いずれとは思っていて、この際、韓国映画特集ということで。

 後から調べると、原題は作中で主人公が頻繁に口にする汚い言葉なのだというが、英語題の『Breathless』から翻訳した『息もできない』は、珍しく見事な邦題だ。むろん「息苦しい」ではなく、「息ができない」でもなく。
 全編に「息もできない」切迫感が満ちている。
 粗暴に振る舞うことしかできない主人公の言動は確かに愚かしく、見るからに苛立たしいのだが、だからこその切迫感である。
 もっとこうすればいいのに、とか、こうしろよ、とかいう期待を裏切って愚かな言動をとり続け、危ない危ないと思っていると結局愚かで悲劇的な最後を遂げる。
 観ていくうちに、最初は不快だったとしても、だんだんと、それなりに幸せになってもらいたいと思い始めるからこその不安だ。言動の変化も見えてきて、事態の好転が期待されるからこその悲劇だ。

 これも後から調べると、主人公の「愚かな男」ヤン・イクチュンが監督でもあり、脚本も書いているのだった(制作も編集もというから手作り感満載)。
 インタビューでは、やむにやまれぬ思いから脚本を書き、ほとんど自主映画的に作って、絶賛にも関わらず、今後映画を作る気持ちは当面ないのだと。
 この、映画の成立過程もなんだか劇中の空気と重なる。

 ヒロインのキム・コッピは、最初の登場シーンでは見事に可愛くないのだが、最後の方では別人のように可愛くなっていて、これも見事。

2020年5月16日土曜日

『哭声-コクソン』-リアリティの水準

 要らない邦題をつけずとも漢字の「哭声」を見れば「泣き声」という意味は伝わってくるからそれでいいのだが、映画を見始めると、題名らしきところにはハングル文字しかない。まさか「哭声」が邦題ではあるまいが、韓国の観客はどこでこの漢字を見るのだろう。
 ここにあえて「コクソン」という韓国語の発音を合わせて表記していることには意味があると途中で気づいた。舞台の「谷城」という地名が、字幕で「谷城(コクソン)」と表記されるのだ。舞台の地名と「哭声」をかけているのだった。

 さて、なんとなくの評判で借りてきたのだが、ホラーだかスリラーだかも判然としないまま観始めた。
 連続殺人事件とは聞いていたからサイコスリラーなのかと思ってはいた。韓国映画としては『殺人の追憶』『殺人の告白』を見ていたせいもある。
 だがどうも違う。オカルト要素があるようだ。
 見ているときは、その物語の約束事がどのあたりなのかを探りながら微調整していく。特にホラーはそうだ。こういうことはありえるのか、何に気をつければいいのか、何が危ないのか、どうやったら対処できるのか。
 どうも判然としない。
 こういう感じは、『The Bay』や『ひぐらしのなく頃に』もそうだった。ウイルスなのか寄生虫なのか呪いなのか。
 本作もどれも怪しいと思いつつ見ていて、いよいよオカルト要素は否定できないとなってきてからも、ホラーのジャンルとしても、エクソシスト物なのかゾンビ物なのか判然としない。
 で、結局最後まで観ても腑に落ちないのだった。
 これは意図的なもので、監督も明言しているそうだし、ネットでも謎解きがかまびすしい。
 ジャンル云々というだけでなく、結局この物語の中では何が真実なのか、映画は何を訴えているのか。明らかなキリスト教的アイコンをちりばめながら。

 ところがこれについてこれ以上真面目に考える気になれない。いくつかの考察サイトを見てなるほどと思ったりしても。
 というのは、観ていて結局、細部にがっかりしてしまうからだ。登場人物の振るまいやその描写が、ふざけているのだ。
 これを韓国映画的と言っていいかどうかは数を観ていない現状では断言できないが、こんな風に描くと面白いでしょ、とでも言わんばかりにふざける。登場人物に愚かな言動をとらせる。
 そんな風に心の動きのリアリティを無視して描かれる物語が、何か真面目に受け止めるべきものを描いているという信用がどうもできないのだ。そこにある恐怖も怒りも悲しみも、リアリティのない戯画化された言動と混ざって、どうにも嘘くさく感じられてしまう。
 観客と共有すべきリアリティの水準の設定が間違っているんじゃないか、という不信がぬぐえない。
 観ている間の、感情を動かされたり興味を引っ張られたりする感じは、確かに「面白い」と言っていい映画なのだと思いつつ。

2020年5月14日木曜日

『殺人の告白』『22年目の告白』-一長一短

 韓国版オリジナルと日本版リメイクを一晩で二本立てで。
 まずオリジナルの方から。
 オープニングのパルクールふうの追跡劇はすごかった。下からの三角締めをバスターで返すとか、襲いかかる相手をよりによって山嵐で投げ飛ばす派手な擬闘とか、闇に消える犯人もいい。さすがに、あちこちで連想を誘うデビッド・フィンチャー『セブン』の追跡劇ほどの完成度はないし、現在の場面にいきなり15年前の場面が乱入してくるのは説明不足で混乱する、とは思ったが、全体にアクションシーンとしてはレベルが高くて、最初からワクワクする。
 が、途中の遺族による拉致の件りは、どうしたっていらない。どうしてこのシリアスなミステリーにコメディ要素を入れたくなるんだ? しかも面白いわけでもなく単にばかばかしいばかりの。
 このシーンに代表されるあちこちの下らないノリがなければ、アイデア自体も、なによりパク・シフの怪しい魅力も、とても面白い映画だと思えるのに。
 それから、真犯人がわりとあっさり顔を出してしまい、しかも「誰だお前は?」というような軽いノリのキャラクターであったことも残念に感じた。ここはもっと「底知れない邪悪」とでも言わせるような重厚感がほしい、と思った。といってレクター博士がここに出てくる必然性もないし。
 …ところがこれが、しばらくするとこの憎たらしいキャラクターがここには嵌まるのだと感じられてきた。憎たらしいが故の狂気とも感じられ。レクター博士よりはジョーカー的悪役として。
 そしてこれでないと時効についてのドンデン返しが効かないのだった。時効だと安心しているところが憎たらしいところで、それが取り消されるから痛快なのだ。
 …だというのに、復讐を優先させるなら、時効の設定、要らないじゃん!

 一方のリメイク。
 入江悠作品は初。『太陽』をそのうちにと思っているのだが。
 さて、日本を舞台に移したことで成功したり失敗したり。
 基本的にシリアスなミステリーにしたのは好ましい。韓国版でも、それに徹して欲しかった。
 だがうまくいっていない部分も多いと感じた。
 まず、日本の現実の法改正をからめたから、事件から22年後という設定になってしまったが、これは時間が経ちすぎていて、藤原竜也がアイドル的な人気を得るという設定に無理を生じた。パク・シフの魅力にも及ばないと感じた。
 殺人犯がカリスマ的な人気を得てしまうという設定は、この映画にとって肝なはずなのに、そこにリアリティがないのはイタい。尤も、オリジナルでも、そこを上手く描いているとは言い難かったが。パク・シフの笑顔に頼るばかりで。
 真犯人の造型については、オリジナルとは全く別の狂気を設定していて、これはこれで良い。そして、時効の無効化というドンデン返しは、オリジナルのように、犯人が憎たらしいから活きるということはなくなったが、こっちでは復讐より法の裁きを優先させるという結末に根拠を与えるという意味で、ちゃんと活きていた。この論理的整合性は脚本がよく考えられていると感心した。
 一方、不満もある。
 中心的ドンデン返しは、どちらもちょっと早いと感じた。映画全体のここでそれを明かしてしまうのはもったいない、とどちらでも思った。もちろん、それがわかった後で描くべき展開が後にたっぷりあるからしょうがないということなんだろうが、オリジナルでは後がアクション展開になって、それほど要らないと思ったし、リメイクも重厚な人間ドラマとさらなるドンデン返しを見せるのだが、問題はこの重厚な人間ドラマの演出である。
 テレビ生放送の場面で第一のドンデン返しが明かされ、それは例によって藤原竜也の激情演技と長い説明によってたっぷり見せられるのだが、その間、当面の「真犯人」が放って置かれるのはどうみても不自然に間延びしている。
 放って置いて、愁嘆場が一段落して、さて犯人は、となってから実はこれが真犯人ではなく、となるのだが、順番はどうみても逆であるべきだ。真犯人ではないという落胆の後でこそゆっくりと愁嘆場をやればいいのだ。
 緊迫した場面で不自然にテンポをおとしたドラマを見せる演出は、いろんな映画で見せられるのだが、ほんとにやめてほしい。緊迫した場面は緊迫したテンポで描ききってしまうべきなのだ。
 これは、さらにひっくり返った本当のクライマックスの方でもそうだ。復讐のために犯人を殺してしまうかどうかという緊迫した場面で、そこに現われた伊藤英明の刑事が、制止のために銃を構えて「やめろ」などと叫んでいるのはどうみてもばかげている。本当に撃って制止することなどありえないし、その必要のある状況でもないし、藤原が撃たれることが怖くて行為を中止しているわけでもないのだから、まずは力ずくで抑えるはずなのだ。そうしないわけがない。
 「やめろ」などと言って止まっているのは、藤原竜也の激情演技を見せるためでしかない。そして、そんな理屈の通らない演出をするから、結局緊迫感が台無しになる。
 劇的な場面を劇的に演出したくなるのは人情だ。だが、スピード感と感情の盛り上がりのどちらを優先するか、と言う問題ではないはずだ。劇的に見せるのはこのタイミングではないだろ、と言いたい。

 そういえば韓国版、ドンデン返し後のパク・シフをもうちょっと活躍させて欲しかった。それがないからドンデン返しが早いんじゃないかと感ずるのだ。
 唯一、エレベーターの中での格闘があったが、ここはボクシング対柔道という構図をはっきりと出すべきだった。そういう伏線が張ってあるのだから。
 そしてむしろここで決着してしまえば、伏線の回収とともに感情的なカタルシスもあったのに。

2020年5月12日火曜日

『Wの悲劇』-「青春」バイアス

 薬師丸ひろ子と同学年の筆者には、その頃の角川映画の話題性はリアルタイムで実感している。続く原田知世と、対抗する東宝の斉藤由貴は、本当にあの世代にとっては「青春スター」なのだった。「アイドル」業界とも被ってはいるが、やはり女優が本業であるような「スター」として。
 とりわけ薬師丸ひろ子はアイドルのようなあざとい振る舞いもなく、顔もアイドル的な完成度でもなかったから、一方では「隣の」的な存在感と同時に古い言い方の「銀幕」業界の人でもあるという立ち位置だった。
 といって新作映画を劇場で観るような追い方をしていたわけではないし、そもそもどちらかといえば斉藤由貴の方が好きだったのだが。
 『Wの悲劇』はいつだかわからないほど昔に観てはいる。もうその時にどう思ったかは忘れているのだが、それほど高い評価をした覚えはない。
 一方で主題曲はそれからもあちこちで聴く機会はあって、こちらはやはり名曲に違いない。
 さて放送欄にあるのをみて調べてみると、映画の評価も高いのだった。本当にそう感じられるのか、というのと、若い頃の世良公則を見てみたくもなって録画しておいた。
 で、観始めるとたちまち面白くなる。これは当時には感じなかったはずの面白さだ。どうみても「青春」バイアスなのだ。
 
 そうは言ってもやはり映画としてよくできているとも言える。
 原作のミステリーを劇中劇として、それと相似形のお話を舞台役者達を登場人物として組み立てる構成は見事だ。扱っているのが「青春」なのに、脚本や監督の仕事は、堂々たる大人の仕事、といった感触ではある。
 三田佳子はもちろん、これがデビューだという高木美保のわずかな場面での演技もうまい。
 だがなんといっても薬師丸ひろ子の演技の見事さは、奇跡的なのだった。
 監督もお気に入りだという飲み屋での酔っ払いの可愛らしさもいいが、初主演舞台での三田佳子の「今夜は譲ってあげる」に続く一人だけのカーテンコールでの、感情が溢れてくる表情は、演ずる方もすごいが、これを見事に撮りきったという意味でも奇跡的なものを観た気がするのだった。

2020年5月10日日曜日

『トレイン・ミッション』-ちょっと残念

 ジャウム・コレット=セラの『フライト・ゲーム』よりは近作。『アンノウン』『フライト・ゲーム』に続いてリーアム・ニーソン主演だが、間にもう一本『ラン・オールナイト』があるんだな。題名からしてそれも似たような映画であることがアリアリ。
 さて本作。『エスター』からみればずいぶん金をかけられるようになったものだ。飛行機から電車になった分、『フライト・ゲーム』よりもキャストの数も膨大だし、最後には列車を脱線させるのだ。
 最初から同ポジを使いまくった凝った編集で、映像的にも見せる。そこら中が「怪しい」と思わせるような、微妙なカット挿入もうまい。
 サスペンスもアクションもたっぷりの娯楽作だったが、例えば『蜘蛛の巣を払う女』あたりの圧倒的な展開に比べると、やや小粒感も否めない。
 小粒感が悪いとは言わない。はっきりとB級映画だった『パニック・フライト』はあまりに緊密な構成で高い満足感を与えてくれたものだ。
 本作は『フライト・ゲーム』に比べても、誰が犯人(グループ)なのかについてのサスペンスが薄く、意外性のある犯人一味は、重要な列車内でのサスペンスに関係がないのが残念。最初から犯人一味のヴェラ・ファーミガはそのまま犯人でしかないし。
 脱線してからの籠城戦が展開としては起伏のあるバリエーションを作ろうということだとはわかるが、実は蛇足だと感じられてしまった。列車内でのサスペンスに限定しても良かったのに。
 楽しい映画だとは言えるが、隙の無い高いレベルで統一されているとは言えず、ちょっと残念。

崎山蒼志「むげん」、「思慮するゾンビ」、Chouchou-ここ10年のベスト3

 そういえば書いてなかったのかと今更ながら気づいて書いておく。
 崎山蒼志の動画は前に見て知っていたのだが、すげえ奴がいるなあとは思ったものの、「心地良い」と思うにはちょっと癖が強すぎて、漁ろうという気にはなれなかった。
 ちょっと間が空いて最近知ると、相変わらずすごいという以上に、音楽的にもどんどん「聴ける」割合が増えている。
 何曲かハシゴしているうちに、これに出会った。


 あまりに良い曲で、ここ10年のベスト3に入るなあ、などと思っていたのだが、それから何度繰り返して聴いてもそう思う。それだけの複雑な陰影がある。メロディ、サウンドの感触、二人のボーカル、読めば歌詞まで、全ての要素が最高である。
 崎山蒼志、諭吉佳作/menそれぞれの他の曲も良いのだが、この曲は飛び抜けている。

 と考えて、待てよ、ベスト3って何だ?
 1曲は思いつく。「思慮するゾンビ」。




 聴いているのは専ら「歌ってみた」なのだが、今良いのが見つからなかったので、ここではオリジナルの初音ミクバージョン。
 8年前から1年間くらい、ニコニコ動画でボーカロイドを聴き漁った時期があって、今聴いても相変わらず良い曲というのが数多くあるのだが、中でもこれは「むげん」同様、複雑な陰影があって、いくら聴いてもまるで色褪せない。

 あと1曲は難しい。上のボーカロイド曲の「良い曲」はいっぱいある(Dixie Flatlineとかtsとか鮭pとか)が、「思慮するゾンビ」が抜きん出ているため、他を選ぶとベスト3にならない。
 「ここ10年」でなければキリンジから選んでもいいのだが、それも1曲となると難しい。
 上の2曲のような圧倒的な陰影ではないのだが、Chouchouのこの2曲は、聴くたびに心がざわつく感じが褪せない。






 3曲にならなくなってしまったが。

p.s
 昨日書いて、今日、そういえば、と思い出した。これがあった。


アルバム1曲目の「桃」も素晴らしいが、2曲目の「春を夢見る」が上のベスト3レベルに飛び抜けている。
 メジャーデビューの「飛ぶものたち,這うものたち,歌うものたち」に入っている菊地成孔プロデュース版ではこの、インディーズ盤「SARA」に入っている奇跡のような魅力が薄れてしまっていた。
 実は「SARA」はライブでの手売りで買ったのだが、ライブで「春を夢見る」を聴いたときに既に震えるほどの感動を受けたのだった。

2020年5月9日土曜日

『母なる証明』-「変」であること

 ポン・ジュノ作品は『殺人の追憶』がもう20年近く前だというのが信じられないほど古びないというのに、これは妙に古めかしい。それでもCG全開の『グエムル』よりも後なのがまた妙な感じだ。
 冒頭のダンスが、もういつの映画なのか、という変さ加減だ。
 この感じで連想するのは大林宣彦だ。大林宣彦の場合は、まあ時代のせいなのか本人の好みなのかわからないが、『時をかける少女』のエンディングで原田知世がエンディングの歌に合わせて口パクをするのが、もう信じ難いほどダサい。こういう演出をどういうつもりでするのか、まるでわからない。
 本作の冒頭ダンスはそれを思い出させる。そして、そういうのが駄目なのだ。個人的に。
 一方でエンディングのダンスは良い。その狂気は、物語的な必然において十分に納得できる。だからこそこのエンディングはその凄さを堪能できる。
 冒頭ダンスがそれと同一に受け取れないのは、エンディングダンスは物語の中で、他の登場人物とともに行われているが、冒頭は観客に対して行われているのだ。いや、そうではないのかもしれないが、他の解釈はとりあえずできないから、つまりはランク(階層)の混乱をあえてやっているのであり、これがどうにも気持ちが悪いのだ。
 「変」というのはポン・ジュノ作品に常に冠せられる形容として、むしろ魅力を表しているのだが、この映画に関してはむしろ阻害要因だった。
 さまざまな韓国の社会常識やら人々の感情の有り様や振る舞いやが、それを日常的で必然性を持ったものとして受け止めるべきか、「変」なものとして受け止めるべきなのかわからず。

 お話はよくできている。ミスリードからのドンデン返しも見事で、伏線の張り方もうまい。『殺人の追憶』にしろ『パラサイト』にしろ、脚本の巧みな映画を作るのはとてもよい。しかも監督が脚本を書いているのは信用できる。
 毎度の画作りのうまさも、路地の闇の不気味さも、とても良い。
 それなのに上記の様な違和感にのれなくて、全体としては『殺人の追憶』や『グエムル』のように全面的には楽しめなかった。

p.s
 もう一度通しで早送りしているうちに、冒頭のダンスの意味がわかった。
 だが、観直さなければわかるわけがない。冒頭のダンスを覚えておいて、それが物語のどの時点の場面なのかを、物語がそこまで進んだときに思い出し、なおかつラストのダンスと結びつけて、ようやく冒頭のダンスの意味がわかる。
 上で書いたように、観客に向けてダンスをしているわけではなかった。いわば自己逃避的な、太ももの「忘却のツボ」ならぬ「忘却の舞い」なのだ。

 それから、思い返してみれば『殺人の追憶』から『グエムル』、『パラサイト』まで、一貫して韓国社会の格差が描かれているのだった。それは描こうという意図がなくても背景として表れてしまうんだろうか。
 本作でも、ゴルフをやる富裕層に対して、認知症の祖母を、体を売って面倒見る女子高生が、痛みを伴って描かれる。主人公親子の貧しさもまた。そしてその貧しさが悲劇を引き起こしているのだという痛みもまた。
 そうしてみると随分わかりやすい映画に見えてしまうんだが。

2020年5月6日水曜日

うちで踊ろう ボサノバ・バージョン



 毎年、夏のお祭でライブをやっているシトロンは、今年はもう祭の中止が決定して、バンドの活動もまた来年。
 GWも「Stay Home」週間になってしまったので、メンバー各自、家で演奏して、合わせてみた。
 夏に向けてゆったりとボサノバにアレンジした。
 バックトラックをつけるとともに、コード進行もいろいろいじった。基本はゆったりとしたボサノバのリズムに合わせてコードチェンジを半分にした。

A♭M7     G7+5    Cm9   F13  Fm7   Gm7  B♭m7/E♭

A♭M7     G7+5   Cm9   E♭9  A7-5
 たまに重なり 合うよな 僕ら

A♭M7     G7+5          Cm9      E♭9
 扉閉じれば  明日が生まれるなら 遊ぼう 一緒に

Fm7   Gm7   B♭m7/E♭

A♭M7     G7+5        Cm9        E♭9
 うちで踊ろう  ひとり踊ろう   変わらぬ鼓動  弾ませろよ 

A♭M7      Dm7-5 G7+5  Cm9      D♭9-5
 生きて踊ろう  僕らそれぞれの場所で    重なり合うよ


A♭M7     G7+5        B♭m9        E♭9
 うちで歌おう 悲しみの向こう   全ての歌で 手を繋ごう

Fm7      E♭/G      Am7-5   Fm7-5/B♭
 生きてまた会おう  僕らそれぞれの場所で  重なり合えそうだ

   A♭M7   Gm7  Fm7  D♭9-5   E♭69

2020年5月5日火曜日

『エスター』-恐怖の並べ方と見せ方

 前から評判をきいて、興味を持ってはいたのだが、最近観た『フライト・ゲーム』のジャウム・コレット=セラ監督の初期作だと知って、この際見ておこうと。
 孤児院から引き取ってきた少女が実はサイコで…という大筋はわかっているので、後はエピソードの並べ方と見せ方だ。
 サイコ物は枚挙にいとまないが、印象の似ているのは『Visit』あたりか。だが『Visit』は大きなドンデン返しが用意されていることと姉弟のキャラクターがユニークなことが大きな魅力になっているので、その分は本作よりも楽しむ要素は多い。
 とはいえ肝心のサスペンス要素は決して負けていない。恐怖の積み重ねも、最後に、解決したかと思ったらもう一回、みたいなお約束も、全体によくできていた。楽しい映画だった。
 まあ、とにかく裏はない。予想もしなかったことが起こるわけでは決してない。
 それでも恐怖を盛り上げるポイントの一つは、少女が決して邪悪で狡猾なだけではなく、本人が自分を抑えきれない不安定さをもっているという描写がされていることだ。自分の正体がばれそうになる危険が迫ったときに不安でトイレの中で壁を蹴るシーンなどは、観客をも同じように不安にさせるものだ。
 
 全体に完成度が高く好印象な中で、残念な点を挙げるなら、少女の正体がわかるのが、ちょっと早過ぎると感じた点と、父親があっさり殺されすぎるという2点か。まあそこが「並べ方と見せ方」だ。

2020年5月4日月曜日

『蜘蛛の巣を払う女』-最高評価

 『ミレニアム』シリーズのスウェーデン版を観たのはもう10年近く前になる。デビッド・フィンチャー版の『ドラゴン・タトゥーの女』でも、もう5年以上前だろうな。
 良い印象しかないこのシリーズだが、原作者も変わり、監督も上記のどれでもない。とはいえ『ドント・ブリーズ』の監督だそうだ。やはり期待してしまう。

 さて、結局どうだったかというと、大いに満喫したのだった。いやはや面白かった。
 序盤のバイクでの逃走劇で、海へ飛び出るシーンから、もう拍手喝采である。
 何を求めるかという問題ではあろうから、俳優によって異なるリスベットの人物像のどれが好きだとかいうこともあるのかもしれないが、今回のクレア・フォイももちろん素晴らしい。傷を負っていながら正義感を失わない人物の陰影も十分だが、それよりなにより、今回の映画全体がおそろしく展開がスピーディーで、そのほとんどがリスベットの行動によって展開していくのである。
 次から次へと危機が訪れ、そのあまりに絶望的な状況に対して、常に的確な判断によって対処していく。そのとんでもない超人振りは「ボーン」シリーズのジェイソン・ボーン並みだ。
 そう、全体としてカー・チェイスからコンピューター・ハック、銃撃戦から肉弾戦まで、映画全体が『ボーン』シリーズと遜色ないと思った。つまりこういうジャンルの映画としては最高級だといっていい。
 第一作のようなおどろおどろしいミステリー風の味わいはないものの、これはこれで十分ではないか。

 ところで、『Trance』『ジュリアン』と3作続けて、DVが重要な要素として物語に絡んできて、『ジュリアン』から2作続けて、危機を逃れるためにバスタブに横たわる場面があるのは奇妙な偶然だった。まあDVはそれだけ世界的に深刻な問題ということでもあろうが。

2020年5月3日日曜日

『ジュリアン』-えっ、これだけ!?

 TSUTAYAの棚を見回すと、なんとか国際映画祭で高く評価された、とかいう宣伝がやたらと目につく。それもビデオスルー作品だったりする。そういうのは吹き替えもなかったりする。
 これもそういうのだが、Rotten Tomatoesで95%の高評価とか(「Trance」でも60%台だというのに!)フランスでは40万人の大ヒットとかいうので借りてみる。
 両親の離婚後、主人公の少年ジュリアンの親権をめぐる裁判所の調停から物語が始まる。ジュリアンの申告書によると、彼も姉も父親が大嫌いで会いたくないというのだが、もちろん調停にあたって父親側の弁護士が語る人物像は大分違う。観客はどちらかまだわからないから、これから、多角的な視点から、自体の微妙さ、複雑さが描かれるのかと思う。
 が、わりあい早い段階で、ジュリアンの言うとおりであるらしいことがわかる。父親は確かに子供を愛してもいるし、別れた妻にさえ執着している。そしてなおかつ自分の怒りを抑えることができないらしい。
 人物像はまあそうであるにしても、これから複雑な展開を見せるのだろうと思っていると、要するに父親が母親と子供たちのアパートに猟銃を持っておしかけ、警察に取り押さえられる、というそれだけの展開を見せて終わる。呆気にとられるような、あまりにあっさりした物語展開なのだった。
 えっ!? これであの高評価?
 演出も演技ももちろん悪くない。終盤の緊張感は高い。ただ、とにかく物語があまりにあっさりと「それだけ」なのだ。
 DVやら、親権をめぐる裁判所の介入のあり方やら、社会問題を扱うシリアスさから、ネットの扱いも極めて真面目だが、あまりにも工夫のない物語展開に、とうてい高い評価をする気にはなれなかった。

2020年5月2日土曜日

『Trance』-ダニー・ボイルの実力

 未見のダニー・ボイル作品を。
 美術品のオークション会場に押し入った強奪犯が、逃げおおせて確認してみると、包みの中に盗品が無い。主人公はオークション主催者の社員だが実は強奪犯の協力者でもある。品物を避難させる際に芝居して強奪犯に渡すという計画なのだが、なぜか予定外に抵抗して強奪犯に殴られ、そのまま意識を失う。
 観客はこの時点では主人公が強奪犯に協力しているとは知らされていないから、単に役目通り意美術品を守ろうとしているのだと思ってみていたのだった。
 冒頭から、ことほどさように「実は」の連続で、ストーリーがどこへ向かうか、まるで予想できない。
 意識が戻って退院後に強盗団に拉致されて、拷問によって盗品の行方を訊かれる段になって「実は」強盗団の協力者なのだとわかる。だが記憶を失っている主人公は盗品の在処を自分でも思い出せない。そこで催眠療法士にかかって記憶を探る。
 ここから、催眠状態で主人公が観ている記憶と、物語内の現実が混ざってきて、観ていて物語享受が複雑になっていく。「実は」というその「実」と「虚」の区別が曖昧になる。これはどっちなのか、時間的にもいつのことなのか、保留にして先を見ているうちに混乱してくる。
 最後まで予想できないまま、抑圧されていた記憶が蘇るとともに、事件の真相が観客にも明かされる。題名の「Trance」は、一義的には劇中の催眠状態のことなのだろうが、登場人物の執着、つまり「夢中になる」の意味も兼ねているのだろうか。
 いやあ、すごかった。凝りに凝った脚本で、それを手堅い演出で見せるのもさすが。映像的にも見所満載。ダニー・ボイルの実力の高さをあらためて思い知らされた。

2020年4月27日月曜日

moumoonの「Sunshine Girl」

moumoonの「Sunshine Girl」が好きで、数年前にライブでやった。


当時はいろんなライブのバージョンを聞いたものだが、今日Youtubeのリコメンドでこれが上がっていたので聞いてみると、歌い方が随分変わっていて驚いた。


いや、これは良い。前のも良いが。
一段とウィスパーボイスになって。

2020版だとさらに。


でもギターの男性がお休みなのが残念。

うちで踊ろう



 休校が続くなか、生徒の話題作りにと、遅ればせながらコラボしてみた。

 最初に打ち込みのリズムトラックを作ったのだが、作ってみると、星野源の弾き語りはやはり相当にテンポが揺れているのだった。
 音源に合わせると、途中からテンポがかなり速くなってしまうのが、ドラムトラックであからさまになるので、テンポアップを抑えて、むしろ弾き語り音源の方をリズムトラックにあわせて加工した。それもやりすぎると、今度は映像と合わなくなるから、微妙に。
 ギターは、最初アドリブでイケないかとしばらく試してみたが、最後までミスなしで弾くことは到底無理だとわかり、結局アレンジを決めて練習した。

 演奏に使ったコード進行は以下の通り。

CM7      B7      Em9     G7  Db7-5
CM7      B7      Em9     G7
Am7  Bm7  Dm7/G

CM7  B7  Em9  G7   CM7  B7  Em9  G7
CM7  B7  Dm7  G7   CM7      F9-5

CM7  B7  Em9  G7   CM7  B7  Em9  G7
CM7  B7  Dm7  G7   CM7      F9-5

CM7  B7  F9-5

 コードはネット上にもいろんな分析があるが、それらを参考に自分でも耳コピをして。
 「F9-5」なども、サイトによって「F7#11」とか「B+/F」とかいう表記も見たが、和音としては「F9-5」と同じなので、覚えるには馴染んだ「F9-5」で。
 とても面白い。いろいろな意味で。
 1コーラス目はコードチェンジが1小節ごとだが、短い間奏の後、2,3コーラスは1小節に2回、つまり2拍ずつのコードチェンジになっているのだ。メロディは1コーラスと同じなのに。
 出だしがCだが、すぐにB7なので、ドミナントモーションからのEmで、なるほどGメジャーの曲なのだとわかる。ただし4つ目のコードはG7なので、これもドミナントモーションで、冒頭のCに展開するようになっている。
 その中で、最初のG7の後にはDb7-5が入っているのはG7の裏コードからのドミナントモーションということだ。
 「CM7  B7  Em9  G7」2回の繰り返しの後、3回目も同じメロディなのに「CM7  B7  Dm7  G7 」になるところも良い。「B7 Em9 」がドミナントモーションなら、「Dm7  G7 」もドミナントモーションでCへ戻るケーデンスになっている、という合理性があるのだが、この一時転調は好きなパターンだ。
 サブドミナントのCの後のF9-5の使い方もお洒落。CからFへの4度進行だが、Fに7thが含まれるのはブルースの特徴であり、かつF自体がトニックであるところのGからみて7thでもある。ジャズのコード進行としては定番だが、上の裏コードといい、星野源、こういうアレンジを知っているんだな、と感心。ジャズ的にはやはり「F7#11」だよなあ。

2020年4月22日水曜日

『ダカタ』-抑制的でいて切ないSF

 その昔、岩井俊二が褒めていて、レンタルで観て、なるほどよくできた映画だと思ったが、細部はすっかり忘れたまま20年くらい経って、ここ数年は宮台真司が随分高く評価しているのを何度か耳にしていたので、観直したいとは思っていた。
 20年以上前の映画だが、今観直しても、画面の感触がまるで古びない。予算に対して効率的な撮り方をしているんだろう。金属やらプラスチックやらのツルツルした感じと古い車やスーツなどのオールドファッションなガジェットが入り交じった未来。縮尺の狂ったようなでかい建造物をバックに撮影される場面。SF映画としてのルックは申し分ない。
 そういうことで言えば『ブレードランナー』が極北だが、あれとは違ってドラマがしっかりしているのがいい。

 遺伝子が人生を決めてしまう未来社会に、遺伝的「不適格者」と判定された主人公が、宇宙へ行く夢を諦めずに、遺伝子の検査を偽って宇宙への夢を実現させる、というストーリーだけ辿ると、まるでスポ根のような話だが、物語の感触はそれよりずっと切ない。
 努力をして結果を出すと認められるというわけではなく、遺伝子が既にある段階での判定を出してしまっているので、そこはもう偽るしかない。優れた遺伝子を持った協力者の運命も切ないのだが、自分の正体が知れることを恐れて過ごす日々がもう重苦しい。SF映画としてはディストピア物と言ってもいい。
 その中で宇宙への夢をつかみ取るのは、「成功」ではない。劇中でも何度も暗示されているように、恐らく彼は宇宙で生きてはいられないのだ。遺伝的な心臓疾患によって。
 劇中に語られる、遺伝的に優れた弟との「チキンレース」遠泳は、完全に生きることの暗喩になっているのだが、死ぬことを賭けて進むことをやめなかった者が、ある壁を突き抜けられる、という危険と隣り合わせの挑戦は『グラン・ブルー』の素潜りを思い出させる。

 物語の強さというだけでなく、今回観直してあらためて、作劇のうまさにも感心した。
 一つには映画の制約を逆手に取ったトリックだ。ズルいともいえる。映画の中で長い時間が経過すると登場人物を演ずる俳優が変わるから、子供から大人に成長した人物の一貫性が、そう説明されなければ観客にはわからない。実はこの人物はこの人物と同一人物でしたと、小説ならば可能なトリックが、映像作品では普通はできないのだが、このやりかたなら可能なのだ(この間の『情婦』ではマレーネ・ディートリッヒの演技力で強引にやってみせていたが)。
 それがわかっていくつかの場面を観直してみると、なるほど、そういう伏線が張ってあるのだ。
 だがしかし、これは初見ではわからないから(映画の観客はそれほど考えながら観ていないので)、映画を一度観ただけでは、この工夫には気づかず、物語はあっさりした印象にとどまる。

2020年4月20日月曜日

『パーフェクト・プラン』-小品として観るならアリ

 テレビ番組表の紹介だけみて、名もないB級映画なのかと思っていたら、『127時間』のジェームズ・フランコや『最強のふたり』のオマール・シー、ケイト・ハドソンも『あの頃ペニー・レインと』のペニー・レインだったりして、なかなかな配役なのだった。見ている間にはまるで意識しなかったか。
 だが全体としては小品であることは間違いない。が、硬質な印象を与える青暗い画面も、手堅い演出も演技も編集も確かなスリラー映画ではある。
 マフィアの麻薬取引の現場を襲って金品を奪った強盗団と、そのうちの一人の裏切りによって隠された金品を偶然に手に入れてしまった主人公夫婦と、取り戻そうとするマフィアの三つ巴の戦い。
 最後の戦いは改装中の廃屋に限定されて、そこに三勢力が集結して、銃撃戦になる。この規模感が小品たるゆえんだが、主人公は一般人なため、罠と大工道具で戦うという、この現実的な工夫が微笑ましい。舞台が限定されていて、勢力が三つ巴だから、敵同士も戦ってくれるし、廃屋は主人公の遺産相続品だから地の利もあるし、そこに定年間際の老刑事が加勢してくれたりして、結局最後は主人公夫婦と老刑事が生き残るという、安心した終わり方となる。
 キャストの豪華さはともかく、小品としてみるならまあアリなのでは。

2020年4月15日水曜日

『リメンバー・ミー』-脱帽

 ディズニー&ピクサー映画として、文句ない。『SING』あたりと比べても一枚うわてだ。カラフルな異世界のイメージも、登場人物の魅力も、起伏のある物語展開も、描かれる情感も。ハラハラドキドキで、笑って、泣いて、じんわりと暖かくなる。この人たちは映画作りが本当にうまい。
 死者の国への往還という物語の構造については、何か文化人類学的な分析ができるのかもしれないが、それより途中まで貴種流離譚なのかと思わせる展開で主人公及びそこに感情移入している観客のプライドを擽っておいて、それより家族の絆だ、と捻る見事な展開。
 危機を設定し、そこから脱するため条件を明示し、その条件に届いては手を離れという展開を幾重にも重ねた末にようやく成就するカタルシス。
 まあとにかく見事で脱帽です。

 ついでに吹き替えの男の子の歌のうまさに驚いて調べてみると、本当にうまい子が吹き替えているのだった。

2020年4月10日金曜日

『思い出のマーニー』-良い映画だと思うことを妨げる要素が多すぎる

 『夜明け告げるルーのうた』に続いて、また『メアリと魔女の花』にも続いて、アニメーションの素晴らしさとドラマが釣り合わないアニメ映画。
 それでも『借りぐらしのアリエッティ』よりは評判が良いようだから、という期待と不信で観始めると、やはりアニメーションは素晴らしい。自然描写を中心とする背景美術はもちろん、表情も含めた人間の動きも、実に「良いアニメ」を観ている快感がある。
 冒頭の公園のシーンで、数多くの幼稚園児や中学生たちが、それぞれちゃんと人間の動きで描かれる。冒頭だから手間をかけようという意志が感じられるすごいシーンではある。
 だがドラマが始まると違和感がある。
 確かにスケッチを先生に見せるかどうかでたゆとう微妙な感情の揺らぎは、宇多丸さんが褒めているとおり、うまく描かれている。だが「私は私が嫌い」という唐突なナレーションとともに喘息の発作が出始めてしまったりすると、もうそれは記号的な描き方に感じられてしまう。そのまま医者が家に来るような強い発作になるなどという展開も、およそリアリティのない、いかにもアニメ的な「劇的」さであり、それが精神的な原因によるものであることが医者と養母の間で確認されているにもかかわらず、空気の良いところで療養させるという理由で根室の親戚のところに行かされるのも、まるで筋の通らないご都合展開である。
 世話になる家のおばさんは、家に着くなり主人公の帽子をとって、肩掛け鞄をはずす。物も言わずにいきなり他人に対してそんなことをするのは「気さく」というよりもちょっとどうかしている。だがそれが「気さく」として描きたいのだということは、それが異常なことであると、たとえば主人公の反応などを通して描かれないことからわかる。このおばさんは「気さくで世話好き」なのだ。
 『メアリと魔女の花』の時に書いた感じが、やっぱりこの映画にも満ちている。どこかで見たアニメの情緒を描こうとしているのだが、その因果律が必然性を持っていないから、感情に訴えてこないし、いちいち腑に落ちずにひっかかる。
 雨の中で道端に倒れている主人公見つけた青年は、自分のシャツを脱いで主人公の体に被せる。しかし雨の中である。雨が体に降りかかることを遮ることをしないで、道端に倒れたままにして、シャツを被せてどうだというのだ。これも「具合の悪い人の体に自分の服を被せる」という行為が、相手に気遣う身振りとして記号的に演じられているに過ぎない。だがその演出があまりに状況を無視している。
 やはりこの監督はアニメしか見ておらず、現実の「人間」を見ていないのだと思う。

 それでも「失われた時間」というモチーフが、否応なく切なさを感じさせる。別れのシーンの雨や風も、波も、やはり「劇的」ではある。
 そして物語の真相がわかるシーンもまた劇的である。ああっ、そうだったのか!! という驚きと、登場人物に対する観客の愛着が相互に結びついて報われることに、強いカタルシスがある。
 と同時に、主人公がその瞬間までそのことに気づかないことに、どのような言い訳も用意されていないことに納得がいかず、憤然たる思いが湧き起こる。5歳児には人の名前が覚えられないのか。その後の人生の中で、親や祖父母の名前を聞かされなかったのか(そういう説明もない)。
 良い映画だと思いたい。だがそれを妨げる要素が多すぎる。

2020年4月5日日曜日

『夜明け告げるルーのうた』-イマジネーションの奔流

 『崖の上のポニョ』なんじゃねえの? という先入観があって、録画してすぐに観ようとは思えなかったのだが、ハードディスクから移そうと思って観る。
 もちろん悪くない。画面いっぱいに湯浅政明アニメの快楽に満ちている。海辺の街の上下に落差のある空間も、カメラが自在に回り込む動きも。寒天の様な水の描き方も。
 が、とても面白かったというには満足度は低い。
 音楽も悪くないが、それに合わせたダンスシーンはディズニーアニメであり、ミュージカルだった。そういうのに反応する感覚器官がないのだ、たぶん。
 ではドラマとしてどうかというところだが、これがどうも弱い。
 鬱屈した少年が前を向く話、という骨格はわかる。でも、出だしからそういう可愛くない主人公の言動に、もううんざりしてしまう。食傷気味なのだ、最近のアニメでは。
 この主人公をはじめとして、登場人物の感情の表出がどれも類型的で、描かれる葛藤も、人物像も、結局ドラマも類型的になる。ルーの父親は、まあ「人」ではないものの、活け締め師の件りなどは意味不明で、まあ娘を助けたいという行動原理だけはわかったが、そうなるとそれはそれで類型的になる。人魚全般がどうもよくわからない。
 そもそもルーがわからない。音楽が好きらしいという属性はわかるが、どういうわけで主人公に好意を持ったのかわからない。人間全般に好意を持っているという描き方なのかもしれないが、そうすると、主人公との関係における特別さはなくなってしまって、おそらくドラマとして成立しない。主人公との間での特別な好意の交換が必要なはずなのだが、その必然性がわからないのだった。とにかく「好き」なのだ。こういうのをご都合主義というんじゃないのか。
 「お陰様のたたり」だという津波の襲来も、どうも物語的な必然性はわからないのだが、ともあれそこからのスペクタクルはアニメ的イマジネーションの奔流に圧倒された。
 この、アニメ的品質の高さだけでは満足できないのは、もうそういう観客だからしょうがないのだった。

2020年4月4日土曜日

『トラフィック』-手堅く立体的に描かれる

 スティーブン・ソダバーグは劇場で観た『コンテイジョン』の印象が一番強い。今回のコロナウィルス騒動に既視感があるようにさえ思える。
 こちらはアメリカとメキシコをまたぐ、麻薬撲滅に奔走する政治家や警察官などの活動を描く群像劇で、タッチは『コンテイジョン』とよく似ている。したがって、よく出来ている。面白い。
 「ドキュメンタリー・タッチ」などと言われる、事態の推移を的確に追いつつも、そこに生ずる悲喜こもごもを描く。一つ一つのエピソードで過剰に情緒的にはならないが、さまざまなドラマが、しかしテンポ良く手堅く立体的に描かれる。
 麻薬組織を追うメキシコとアメリカの刑事の二組のコンビは、どちらもその片方が命を落とす。アメリカの麻薬撲滅対策の総責任者の娘がよりによって麻薬中毒で、親への反発はいささかステレオタイプにも思えるが、行方の知れなくなった娘を探し歩いて、とうとう見つけた娘が、ラリったまま、近寄った父親に微笑みかける場面はやはり感動的だった。

『アウトロー ジャック・リーチャー』-楽しみ方をはずした

 続編も作られているくらいだから、それなりには面白いんだろうと思って観てみると、ちっとも面白くない。なんだこの、弛緩した展開は、と思っているうちに終わってしまい、どういうわけなのかと思ってネット評を見てみると、同じような感想を抱いている人もいるが、あれを楽しんだ人もいたようで腑に落ちない。
 だが宇多丸さんの評を聞いて、なるほど、と思った。むしろあの「弛緩した展開」を「オフビート感」と思って楽しむのか。浪花節的言動の原理がわけがわからないと思っていたら、あれは「西部劇」風なのか。
 事前知識がなかったから、マット・デイモンの『ボーン』シリーズや、リーアム・ニーソンの『96時間』シリーズのような、シリアスでハードボイルドな話を観る構えでいたから、あんなにピンとこなかったのか。

2020年4月2日木曜日

『HAPPY HOUR』-5:17の至福

 長い映画だと聞いて『牯嶺街少年殺人事件』と混ざっていたせいで4時間だと思っていたらさにあらず、5時間17分なのだそうだ。しかも二枚組のBDのディスク2から再生してしまったのを気づかず、とりあえず出演者インタビューはオマケだと認識したものの、本編の方はそれが冒頭なのかと思って観始めたのだった。
 何やら面白い。登場人物の顔がとにかく絶妙に画面に映る。そのタイミングも表情も、実に多くの「意味」に満ちている。『桜桃の味』と違って、日本人の文化圏に属しているという前提があるせいだろうか、そこに多くの「意味」を読み取ることができるのである。必ずしも簡単に言葉になるとも言えないような様々な、微妙な「意味」を。
 もちろん脚本の緻密さと演出の問題ではある。聞いたところではほとんどが素人の役者だというのに、そんなことはまるで感じさせない。場面によってはドキュメンタリーかとさえ思わせるほどの自然さであり、かつカメラの切り替えと編集は神業とさえ思われる。
 一人だけ、いくらなんでもこの棒読みはなかろうと思われる長台詞の登場人物がいるが、それさえも、観ているうちにそういう、珍しい喋り方をする人なのかと思われてくる。
 数十分観て、どういう物語なのかわからないが、観ているだけでわくわくして、これはすごいと思いつつもその日は一旦止め、後日観直すにあたって確認したらディスク2だとわかったのだった。
 休みを取って、昼間から全編通して観る。冒頭から観ると、なるほどこういう物語かとわかる。わかりにくいところはない。だがそのわかりやすさが、やはり必ずしも言葉になるわけではない。実に微妙な心の揺れ、綾を画面に描いているのだ。
 物語は30代後半と思われる4人の女友達が、互いの支えにもなりつつ、それぞれの人生に彷徨する苦いドラマを描く。
 一人は離婚経験があり、一人は離婚調停の裁判中であり、後の二人はそれぞれに幸せな結婚の形を見せながら、不穏な空気も感じられるように描写していって、最後にはそれぞれの家庭の危機を描きつつ、結局はいくらかの希望を残して終わる。離婚調停も、不調に終わるのだが、だがそれが別の始まりにつながりそうな予感も残している。
 この、苦さに対する希望が題名の「HAPPY HOUR」なのだが、観ている時間が、まさしくそれなのだった。画面に溢れる情緒の豊穣が、どの瞬間にも、ほとんどワクワクと言って良いほどの面白さなのだ。

 5時間以上という長尺は、確かに劇場での上映としては興行的に難しいだろう。が、その気になってしまえば面白いことは間違いないから、劇場で集中して観ることができれば、特別な鑑賞体験になるはず。
 とはいえ5時間というのは、ロードショーの通例として長いということであって、テレビドラマとしては1クールの1時間ドラマよりも短い。観られないような長さではない。
 だから坂元裕二あたりの、よくできたテレビドラマと同じように観られるかというと、そういえばそうなのだが、ではこの映画を分割してテレビで放送できるかというとそれは難しい。前半のワークショップや後半の朗読会などは、やはりテレビ視聴者には長すぎて我慢ができないだろう。これの鑑賞には集中力も持続力も必要なのだった。
 感触としては是枝裕和の『ゴーイングマイホーム』が似ているが、あれも低視聴率に苦しんだとか。おそろしく面白いテレビドラマだったが。
 『いだてん』や『ごめんね青春!』の歴史的低視聴率といい、良質のドラマの苦戦は、テレビという場の特性故とはいえ、切ない。

2020年3月29日日曜日

『桜桃の味』-フレームがわからない

 先日の『友だちのうちはどこ?』に続くアッバス・キアロスタミ作品。
 が、『友だち』と違って、こちらはついていけない、と感じた。「意味」が読み取れないシーン、カット、台詞が多すぎる。
 これはたぶん「意味」を読み取るフレームがわからないのだ。だが、自殺を思いとどまるに至るドラマとしての物語としては、いちおう「わかる」と思える。なのに、全体としては「無意味」と思える車の走行や道ばたの描写が蜿々と映されて、なんだかなあ、という感じで見続けることになる。
 事情も説明されないまま、主人公が自殺したがっているという状況に感情移入が出来ないのは、狙ってのことなんだろうが、それでどう見ればいいのか。
 撮影風景を挿入するという終わり方も、掟破りで、あざといと思った。徒に異化効果を狙っているようで。

 ただ、解説を読むと、車の運転手と助手席の同乗者が、別撮りなのを編集で会話している様につないであるのだと知ると、これはすごい技術だと唸る。
 だがこのすごい技術が映画の感動につながるわけでもなく。
 「フレーム」がわかってしまうと、いきなり感動的になるのかもしれない。いずれ観直してみると。

『Bigger Than Life(黒い報酬』巨匠のハリウッドエンタテイメント

 ニコラス・レイはやはり『理由なき反抗』だが、もはや観たことしか思い出せないくらい昔のことなので、感想もなにもない。
 で、本作だが、まあこの手のハリウッド映画のよくできていること! 監督は「異端」とも言われているそうだが、堂々たるエンターテイメント作品だ。
 感染症の治療薬として服用する薬の副作用で躁鬱になる教師の言動に振り回される家族の恐怖を描く。
 特に誇大妄想的全能感に満たされた状態(これが題名の『Bigger Than Life』)が恐い。もちろん単に気が狂ったという状態になってしまうのでは興ざめで、そこはホラー、サスペンスの王道で、ジワジワくるのが大事なのだ。
 退院時に足下からのアップで主人公を捉えるあたりから、最初の授業で「巨人」が話題になるところまで、映像的にも言語的にも伏線を張っていき、最初はちょっと陽気で気が大きくなっているのかと思っていると、だんだんとそれが周囲にとって眉を顰めたくなるような迷惑な程度まで拡がって、そのうちに命の危機にまで高まる。
 遠慮のない子供の視点から、父親の言動のおかしさを指摘しつつ、妻の立場からは、基本的な安寧やその後の関係への配慮まで含めた、ぎりぎりの対応を描く。そのバランス感覚が素晴らしい。

2020年3月27日金曜日

『フライト・ゲーム』-怒濤の展開

 『フライト・プラン』や『パニック・フライト』あたりに混じって、観たことがあるかどうか記憶が怪しいぞと思って録画して観てみると、覚えがない。
 だがリーアム・ニーソンに続いてジュリアン・ムーアが出てくるあたりで、これは一応最後まで観ようという気になる。このキャスティングなら外すまい。
 展開がスピーディで先が読めず、ぐいぐい引っ張っていきながら、見せ場もしっかり作る。飛行機が急に高度を下げるのを、登場人物がいきなり客室の屋根に跳ね上げられる描写で表したり、狭い機内トイレで格闘したり。主人公の活躍振りは『96時間』並みといっていい。というより、リーアム・ニーソン、キャラ被り過ぎ。
 緊迫した場面で娘のことを語って乗客の心に訴える長広舌は、感動的というより緊迫感を損なうからマイナスだったが、全体によくできたエンターテイメント作品になっている。
 だが、リーアム・ニーソンという、映画全体のタッチといい、なんだか覚えがあると思ったら、『96時間』の方ではなく『Unknown』の監督なのかあ。あれも、次から次への予想の出来ない展開になる、よく出来た映画だった。

2020年3月22日日曜日

「欲望の時代の哲学」ー小説の効用

 番組名は長い。「欲望の時代の哲学2020 マルクス・ガブリエル NY思索ドキュメント」というのだが、なるほど、哲学講義ではないのか。ドキュメンタリーなのな。
 NHKのEテレでこのところシリーズで放送しているので見てみる。4回目まで見て、この人の言っていることはほとんどわからないのだが、今回、ちょっと心に残る話があった。マルクス・ガブリエルとドイツの作家、ダニエル・ケールマンの対話の中でケールマンが言った言葉。
小説とは常に他者の目から世界を見て別の世界を想像するトレーニングです。
ここまではそれほど珍しい見解ではない。が、それに続いて彼は言う。
人々が小説を読み始めた頃、社会の暴力は減少したのです。
なるほど!
 こんなに脳天気に、大規模に小説の効用を説く言説には虚を衝かれた。国語の教員として勇気づけられる、なんと明快でポジティブな認識。

 この回はマルクス・ガブリエルと取材陣の乗ったタクシーの運転手が、渋滞中のトンネルの中で不安発作に襲われ、運転を出来なくなったから降りてくれ、というエピソードから始まっていた。
 この想定外のトラブルがドキュメンタリーたる所以なのだが、この「事件」の顛末が、今回の最後の場面でどう解決するかというと、マルクスらの必至の励ましで運転手が何とか不安を鎮めて運転を再開するのだが、この後に、マルクスが「道徳」「倫理」の説明につなげて終わる。
 発作は他者への恐怖から起こっているのだが、他者への想像による理解がその恐怖を乗り越える手立てとなるのだ、と。
 ここで上の「小説の効用」に論理がつながるのだった。
 ケールマンとの対談とタクシー運転手の不安発作はそれぞれ偶然なのだろうが、それを番組中で結びつけた見事な論理展開。

『インデイペンデンス・デイ リサージェンス』-同工異曲の縮小再生産

 前作はなかなか面白いと思ったのだが、全くそこから進歩のない同工異曲で、なおかつ前作ほどに面白くない。多分前作の面白さにはウィル・スミスのキャラクターの軽さと身のこなしの軽さが程良いリズムを生んでいたのだろう。それがなくなって、対エイリアン戦争という骨組みだけが見えてしまうと、『世界侵略 ロサンゼルス決戦』『カウボーイ&エイリアン』と同じ、エイリアンという存在に対する何らの洞察も想像力もない単なるバトル物に堕してしまう。
 なぜかどれも、エイリアンの造型が似たような化け物に過ぎない。そして、全く単なる侵略者として、殺し合うことに何のためらいもない。殺すことは当然であり、かつ全面戦闘シーンになると、殺される人間はほとんど描かれない。まるで想像力の働いている気配がない。高い科学力を持った異星人が、爪だの牙だの粘液だのをもった「怪獣」として描かれる。部分的には人間側の死亡を描くから復讐心が想起され、だが全体として戦闘状態になると一方的に「やっつける」だけになる。
 こういうのは『エクスペンタブルズ』なども同じだから、要は面白ければいいのだ、という見方をすべきなのだろう。冴えない男が奮起して活躍するのを喜ぶとか、誰かの英雄的な活躍に喝采するとか、チェイスにドキドキするとか。そういうのはそれぞれある。ラブロマンスもある。が、どれも大したことはない。
 エイリアンの母船や、それが引き起こす災害の規模の大きさには目を瞠った。それが見所なのだろうとは思う。が、それによる死者が描かれないのは上記の通りだし、描かれるのはギリギリで助かる場面ばかり。敵の強大さに対して、戦闘機で乗り出す対抗策の貧弱さで、どうして撃退できたことになるのか、ちっともピンとこない。
 むろん前回の襲撃の際に敵から得た科学力で、地球の技術も進歩しているらしいし、敵にとっての天敵となる別の宇宙人が協力もしてくれる。だがいずれにせよ人間のスケールを離れすぎてしまうから、逆にサスペンスが薄れてしまうのは、スーパーマン映画のアンビバレンスとして前に書いた。
 工夫はしようとしているんだろうけど。難しい。

2020年3月21日土曜日

『君に読む物語』-感動的でもあり気持ち悪くもあり

 ライアン・ゴズリングは『ラ・ラ・ランド』からしか知らないから、出てくるなり若くてびっくりする。しかも気持ちが悪い。後半で髭を生やしてようやく安心した。
 『グロリア』のジーナ・ローランズだ! と思ったら、この監督、『グロリア』のジョン・カサベテスの息子なのだそうだ。ってことはジーナ・ローランズの息子でもある。

 確かに最後は感動した。認知症の老婦人が、夫の語る、若き日の自分たちの物語を聞きながら、最後に自分や相手のことを思い出すことも、その直後に再びわからなくなる切なさも、感動的ではある。
 だが全体としてはベタな「映画的感動シーン」にちょっとヒいてしまう部分が多かった。相手の気を引くために観覧車の鉄骨にぶらさがったり、交差点の真ん中に寝転んでみて、車が来て慌てて避けるスリルに「ああ、面白かった!」と言ったりする若い男の奇矯な振る舞いが、「映画的」な特別感を演出するのは、若いライアン・ゴズリングが気持ち悪いのと相俟って気持ち悪い。
 ラストの、老夫婦が手をつなぎ合ってベッドに寝たまま死ぬラストシーンも、感動しつつも微かに気持ちが悪いとも思ってしまったのだった。

『三月の5日間』-わからない

 劇団でもない、岡田利規の個人ユニットだというチェルフィッチュによる、岸田国士戯曲賞受賞作品の舞台。
 物語の説明はしない。ただ、「超口語演劇」と呼ばれているのだという台詞回しと、身体の過剰性を表現しているのだという、むやみやたらと動き続ける俳優達の芝居の独特さが奇妙な印象を残す。
 が、それがどうだという感興にもつながらない。面白いと言えば、こういう感じってわかる、と、その痛々しさだったり苦々しさだったりといった感情の起伏がうまく表現されているということだが、その狙いがわかって、だからどうだということもないのだった。「あるある」の面白さならお笑い、コントの世界の方がはるかに豊穣なのは当然だ。そうではない、現実に対する批評性か? どうもピンとこない。
 文化祭の素人演劇を見ると、なるほど台詞を喋っている間、動かない体が不自然なことが突然意識されるが、といって過剰に動かしてみる不自然さによってそれがどう批評されているのか。
 わからない。

2020年3月15日日曜日

『月に囚われた男』-オールドファッションなSF映画

 鉱物資源採掘のために一人、月基地で働く男が、作業中に事故に遭ったことから恐るべき真相を知る…という物語を思い出してみると、なんだか面白い映画だったようにも思えてくる。が、決して手放しで絶賛するほど楽しめはしなかった。どこもかしこも既視感のあるSF的ガジェットとストーリー展開。
 近くは『オデッセイ』が、宇宙基地での孤独なサバイバルを描いていたが、比較にはならない。あちらは主人公の脳天気で前向きな性格と、次々襲ってくる試練を乗り越える面白さで、これはもう堂々たるエンターテイメントだったが、本作はそういうのが主眼ではない。
 サスペンスといえばサスペンスだが、そちらに主眼があるというわけでもない。
 クローン設定で宇宙基地と言えば何と言っても萩尾望都の『A-A’』だが、あれはクローン故の、アイデンティティが分裂する感覚と、感情のあり方が我々と違う人種を描く、本当にSF的センス・オブ・ワンダーに溢れた作品だった。これも比較にならない。そういえばトム・クルーズ主演の『オブリビオン』というのもあった。これが最も似ているか。

 最初の主人公に観客は感情移入している。次のクローンもまた同様に主人公の資格を持っているが、移入の度合いは相対的に低い。
 が、彼らが同一人物であるという納得と共に、徐々に感情が均されてくる。そして二体目を逃がすために一体目が犠牲になるところなど、設定としては随分感動的になるはずの展開なのだろうと思われるのに、どうもそうはならない。
 心の支えだった妻がもう死んでいるほどに時間が経っていたことがわかるシーンだけは、これも覚えのある感情とは言え、SF的情趣を感じさせた。

『THE TUNNEL』『The Good Fight』-あまりに高品質なテレビドラマたち

 今年に入ってからテレビで放送の始まった海外ドラマを二つ録画して観始めると、これがどちらも滅法面白い。
 『THE TUNNEL』は、フランス・イギリスの合作で、題名の「トンネル」というのはドーバー海峡を渡る海底トンネルのこと。トンネル内で見つかった死体に始まる事件を、フランス警察とイギリス警察が協力して捜査する。事件は全10話に渡って終始、先の見えない怒濤の展開を見せる。毎回驚嘆する面白さだった。
 展開の起伏と共に、ドラマの魅力となっているのは、フランス・イギリス双方の刑事二人のキャラクターだ。特にフランス側の女性刑事がアスペルガー症候群だという設定である。優秀で勤勉、だが他人はおろか自分の感情にも無頓着で、人情も解するイギリス側刑事とのコンビネーションが、次第に親密になっていく展開がしばしば可笑しかったり、終盤では感動的だったり。
 これがデンマーク・スウェーデン合作の『THE BRIDGE』のリメイクだというので、あれこれと仕事のなくなったこの週末にまとめて観てみた。全十話で9時間ほど。続けて観るとストーリーも頭に残ったまま続きが追えるのがいい。ちゃんとのめり込める。まあそれでも名前になじみがない分、誰のことだったっけ? というのがしばしばあったが。
 なるほど、ほとんどの魅力は原作にある。が、風景の広がりと淋しさや、事件の緊迫感、二人の交流の細やかさは、微妙にフランス・イギリス版の方が勝っている印象だった。
 だが、最後の最後、事件の結末となる最終局面の場面で、問題のアスペルガー症候群設定を使った伏線が見事に活かされた劇的な展開を見せるところは原作版の方が鮮やかだった。むしろリメイクはなぜそこを微妙に変えてしまったのかが疑問。惜しまれる。
 アメリカ版リメイクもあるというのだが、ヨーロッパ的侘び寂びがあるのかどうか。

 『The Good Fight』は、前作となる『グッド・ワイフ』を観ていないのだが、まあ独立した作品として観られるらしい。前作は題名から勝手に夫婦の人間ドラマなのだろうと思っていたが、実は法廷ドラマなのだそうで、本作は最初から法廷ドラマだと知って観始めた。
 これがまた毎回、驚くほどの面白さでシーズン1を終えた。法廷でのやりとりのスピード感と論理のぶつかりあいの緊迫感がすさまじい上に、微妙な感情の起伏が絶妙に描かれる。時に痛快だったり苦々しかったり。
 本当に見事な脚本と演出、俳優陣の演技だ。

 それにしても不思議なのは、どちらも、その脚本・演出・演技のレベルが、世に溢れる「映画」に比べても恐ろしく高いということだ。今年の映画を遡ってみても、ウィリアム・ワイラー、ポン・ジュノ作品と『マーガレット・サッチャー』くらいしか、匹敵するレベルの映像作品が見当たらない。
 このあたりのテレビドラマは、予算的にももう映画とかわらないと考えるべきなのだろうか。

2020年3月9日月曜日

『ビヨンド・サイレンス』-基本的に良質なドラマ

 仕事終え、一山越えて解放された気分で早く家に帰り、長い宵を過ごして、平日なのに映画を一本。
 聾唖の両親の元に生まれて、音楽を志す夢と両親との関係の間で悩む少女を描いた、ドイツ映画。アカデミー賞の外国語映画賞にノミネートされていたり、東京国際映画祭でグランプリを受賞したりと、評価も高い。
 だが、ものすごく特別なものを観たという感じでもない。ヨーロッパ映画なのだと気づかないくらい、ハリウッド的な感触だし、特殊な題材を扱っているというわかりにくさがあるわけでもない、とても普遍的な感情のすれ違いと和解を描いたドラマだと思った。
 頑固と評される父親の屈折は、聾唖者故のものではあるが、理性的に振る舞っているだけに共感可能でもある。娘も家族故の愛情も気遣いもありながら、自分の夢を追うために反発もする。感情表現が細やかでドラマを享受する心地よさがある。
 主人公が世話になる叔母夫婦や、両親と叔母の関係などの描写にも、重層的なドラマが設定されている。
 最後のハッピーエンドまで含めて良い映画だったが、ヨーロッパ映画らしいわけのわからなさや、特別さがあるわけではない。

2020年3月1日日曜日

『友だちのうちはどこ?』-構成も描写も見事な

 アッバス・キアロスタミの映画は初めて。
 最初に、宿題をノートにやってこなければ次は退学だと理不尽にも思えるほど厳しく叱られて泣く子供と、それを心配して眉をひそめる隣の少年が描かれ、主人公は意外にも心配少年の方なのだった。
 表紙が同じだったからうっかりもちかえってしまった友だちのノートを届けに、隣町(?)まで行くという、ただそれだけの話なのだが、すごくうまい。
 素人ばかりを役者に使ってこの自然な演技で、まるでドキュメンタリーみたいに見えるという感触なのに、技巧もちゃんと凝らされている。ようやくみつけた友だちかと思う小さな子供が、親に呼ばれて家の外に出てくるまで期待させて、出てくると、抱えている大きな建具で顔が見えない。建具を下ろしたと思うとロバの陰で顔が見えない。待たせておいて顔が見えると果たして友だちではない。
 ラストの押し花は、思わず拍手を送りたくなるような幸せなオチなのだが、この伏線を挟みこむ件のさりげなさと併せて、見事というほかない。
 友だちの家があるはずの初めて訪れる街は迷宮のように入り組んでいて、そのうちに日が暮れて次第に暗くなっていく心細さ。
 夜、宿題をやりながら、背景で不意に風でドアが開くと外では洗濯物が激しく揺れている。映画的な表現の強さ。
 ネットには、この映画の背景となるイラン社会にも言及している評もあるが(この洗濯物もそういった象徴的な意味があるのかもしれないが)、そのあたりは今回の鑑賞には影響しようがないから、とりあえずは「はじめてのおつかい」的な、芥川の「トロッコ」的な味わいということで。

2020年2月29日土曜日

『絞死刑』-構造的不可能性

 大島渚は『戦場のメリークリスマス』と『御法度』くらいで、あとはテレビでの文化人としてのコメンテーターというイメージしかないのだが、機会あっていくらか古いこの映画を。
 だが作意ばかりが表に立ちすぎて、映画として面白いと思えなかった。この「作意」は予告編で大島自身が熱く語っている。つまりは死刑制度反対であり、在日朝鮮人問題である。テーマを設定すれば結論は見えていて、それでも映画として面白くなければならないと監督が言っている通りで、登場人物たちの言動が戯画化されており、その滑稽さを笑い飛ばすという趣向なのだとはわかるが、頭で「わかる」というに過ぎず、ちっとも愉しくはなかった。
 あえて戯画化して描くという趣向が既に対象に距離を置いた分析的客観視だから、主人公の朝鮮人青年に共感することが妨げられるという、この構造的不可能性。